第二章 女神の死の抱擁

第1話 女神の死の抱擁(1)

 けたたましいベルの音に、空ははっと飛び起きた。目覚まし時計が鳴ったのだと思いこんで手探りで時計を探しているうちに、すでに教室にいると気づき、素知らぬふりで手をひっこめた。授業中に居眠りして寝ぼけたと周囲に、特に陸に知られたら何を言われるかわかったものではない。しかし、陸の視線は教室の窓にむかって投げかけられていた。

 陸だけではない。教室にいた生徒のほぼ全員が窓のある方角に顔を向けていた。目覚まし時計のアラームと空が勘違いした音は緊急車両のサイレンだった。

 サイレンは教室の外から聞こえてきていた。生徒たちは我先にとサイレンの聞こえてくる窓へと駆け寄っていった。生徒だけではない。午後一限目は英語のクラスだが、教師である白石希美までも生徒にまじって窓辺にかじりついていた。救急車、パトカー、消防車、一体どれだろうと興味をひかれ、空も席を立った。

 窓に鈴なりのクラスメートたちの間に割って入り、爪先立って外を覗き込んだ空の視界に校内へと滑り込んでくる救急車が飛び込んできた。

 大きく開かれた正門からスピードを落とさずに走り込んできた救急車は旧校舎中央玄関前で急停車した。救急車を飛び出した救急隊員たちは疾風のごとくに旧校舎の中へと駆けこんでいった。

 気分の悪くなった生徒でもいるのかな――空はその程度に考えていた。救急車を呼ぶくらい深刻な状況なのかもしれないが、救急車が来たからにはもう安心だ、そんな風に楽観的にとらえていた。

「何かあったのかな」

 ひとりだけ席から動こうとしなかった陸を振り返ってみると、陸は教室の外から手招きしている海に向かっていくところだった。そしてそのまま外の廊下に姿を消した。五分もしないうちに戻ってきたかと思うと、陸は空の耳に「校長が死んだ」と囁いた。

「校ちょ……」と言いかけた空の口をふさぎ、陸は黙っていろといわんばかりに人差し指を唇にあてた。

「もう席に戻りなさいね。授業中なんだから」

 自分のことは棚にあげ、希美が生徒たちに席に戻るように促したので、空は詳しい事情を陸から聞きそびれてしまった。

 金曜の午後のけだるさはどこへやら、サイレンの音ですっかり頭は冴えてしまったが、授業の内容は全然頭に入ってこなかった。津田沼校長が死んだ、いつ、どこで、どうやって? そんな疑問ばかりが浮かんでくる。

 病気で亡くなったとは考えにくかった。来年校長就任二十年になるといって今からいろいろな準備をしていて、六十歳は過ぎていただろうが、七十歳にはなっていなかったと思われる。年の割には元気な方だったと空は記憶している。

 となると、事故か事件の可能性がある訳だが、そのどちらにしても全く想像がつかない。調理実習の授業中に包丁で手を切ったとかいった怪我はあるにしても、命に直接危険のあるような事故は空の知る限り、起きていない。学園は学びの場であるから、むしろ事件や事故は起こらないように配慮されているはずなのだ。にもかかわらず、人が死んだ――。

 単なる事件事故などではなく、殺人事件だったりしたら――仮に校長が殺されたのだとしたら、犯人は一体誰なのか、どうやって殺したのか? ムクムクと湧き上がってくる好奇心を空は抑えきれず、何かを知っている陸の横顔をみつめながら授業が終わるのをひたすらに待ち続けた。

 チャイムが鳴った途端、空と陸は顔を見合わせてうなずきあった。陸の眉が上がって視線が上向いているのは屋上へ行こうという合図だ。ふたりはチャイムが鳴り終わる前には教室を飛び出していた。

 十分後には午後二限目の授業が始まるが、教室に戻る気はなかった。空と陸は時々、そうやって授業をサボっては新校舎の屋上でたわいもないおしゃべりをして時間をつぶす。でも今日はいつものようなくだらない話ではなく、校長の死についての話を聞かなければ。


 陸も話したくてしょうがないのか、前へ前へと踏み出す足が時折もつれそうになっていた。


「校長が死んだって?」

「校長が死んだ!」

 質問と答えが同時だった。空は陸と顔を見合わせて笑った。

 屋上までの階段を一気にかけあがってきたものだから、ふたりして息があがっている。体も心も高揚して耳たぶまで真っ赤だった。

「校長が死んだってどういうこと? 事故? それとも事件だったりする? 何で美術室?」

「落ち着けって。詳しく話してやるから」

 矢継ぎ早に質問を繰り出す空を陸が制した。

「午後の一限目は美術だったんだ。授業のチャイムが鳴ってから美術室に行った。どうせ時間通りに始まらないからさ。とっくに授業が始まっているかと思ってたら、みんな美術室の前にたむろしててさ。いつもなら授業の始まる前に市川が美術室を開けておいてくれるだろ?」

 市川章介、非常勤の美術講師である。

「しばらくしたら、やっと市川が来てさ。鍵がなくなったって言うんだ。しょうがないから俺がドアに体当たりをくらわしていたら、松戸が来てさ」

 松戸寛、生物を担当している教師だ。生物室は旧校舎一階に位置しているので、陸がドアを打ち破ろうとする音が響いたのだろう。

「うるさかったんだろうな。美術室のドアを無理やり開けようとしているんだって説明したら、手伝ってくれて、二人がかりでドアを破ったんだ」

「旧校舎は木造で、教室のドアが木製でよかったね。新校舎だったら、陸の方がダメージ受けてた」

「美術室の中に入ったら、ビーナス像の下敷きになって校長が床に倒れていたってわけ。他の石膏像も全部床に落ちてて、破片が周りに散らばっててさ、足の踏み場もないくらいぐちゃぐちゃ。石膏像だか、バラバラ死体だかわかんねえような感じでちょっとしたホラーだった――って、海が言ってた」

 とってつけたように陸は、さも海から聞いた話のように語ったが、陸自身が目撃した光景だと空は気づいていた。海――正確には海のふりをした陸が海を教室の外に呼び出し、メガネを受け取った海が廊下を走り去っていったのを空は見逃していなかった。

 双子であるのを利用して海と陸は時々入れ替わっている。二人の間でどういう約束になっているのか知らないが、数学だとか英語とかいった頭の痛くなりそうな授業で入れ替わっているのをよくみかけるので、陸の苦手な授業に海がかわって出ているようだ。

「陸。美術室、石膏像ときて、何か思い出さない?」

「何かってなんだよ」

「美術室の動く石膏像の怪談!」

 一瞬の間を置いた後、陸はふきだした。

「空、まさか石膏像が校長を殺したとでも思ってんの?」

「そんなわけないじゃないっ! 美術室で石膏像に押しつぶされていたって聞いて怪談を連想しただけ」

 メルマガで怪談を紹介してから二か月、桜の花びら舞った空からは五月雨が降り注ぐ季節へと移り変わろうとしていた。

「でもまあ、石膏像が校長を殺したってのは、そうなんじゃねえの。実際、校長は石膏像の下敷きになっていたわけだから」

「事故だったのかな? それとも……」

 空はフェンスに両手をかけ、旧校舎を見下ろした。

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