みかん

@spin2

みかん

prologue


 世界中で一番哀しいものは雨傘だと思う。

雨傘は雨の日には全身を投げ出してその人を風雨から守る。

自分を必要として、自分に手をさしのべてくれたことが、うれしくて、うれしくて、精いっぱいその人を守る。 

だけど雨傘は決してその人の笑顔を見ることはない。望んでも、望んでも雨傘が手に取られるときは、土砂降りの鬱陶しい日だから大好きなその人の心の底からの楽しそうな笑顔を見ることは出来ない。そして、あれほど望んだその人の笑顔が見ることの出来る晴れた日には、雨傘は靴箱の隅に一人ぼっちで放っておかれる。


そう、僕はもう、長い間ずっと君の雨傘だった。

それでも、とてもしあわせだった。



 芝はうららかな春の日差しを、すべて独り占めしたようなあざやかな緑色をしていた。桜は命の輝きをすべてとき放つかのように咲き誇っていた。東田山植物園は、白山大学から北に1Km程いったところにある。ここで私は”みかん”と出会った。4月8日、入学式を終えた後の新入生歓迎会で、私達30期心理学教室入学生は、先輩達と円をなして芝の上に座っていた。野球帽をかぶって、ジーンズ姿のみかんは、さながらなまいきな中学生のようにみえた。彼女は柔らかい透きとおった声で自己紹介をした。みかんが大好物で、冬は1日に10個以上はみかんを食べ、それ以外の季節も1日に1本はミカンジュースを飲むと語った。それじゃあ彼女をこれから”みかんちゃん”と呼ぼうと先輩の一人が言った。そうして、彼女はみかんと呼ばれることになった。


細い肩幅、すらりと長く伸びた手足、小さな背丈、まるく大きな顔と、まんまるくぱっちりとした目、みかんのようにふくらんだほっぺと、肩まで伸びたストレートなロングヘアー。みかんというニックネームは、まさに彼女にぴったりだった。それは、もぎたての柑橘系の果実が新鮮で甘酸っぱい香りで周囲を満たすのを私に連想させた。



駆け出してゆく

小さな肩

くるりと振り返って両手を広げる

おおきな笑顔

軽いめまいを与える

まぶしい髪の反射光


風はやさしく彼女の頬をくすぐって

甘酸っぱい香りを運んでくる



 それ以来、私は気がつくとみかんの姿を探し求めるようになっていた。彼女の声は、どんな喧噪の中でも鮮明に聞こえ、彼女の姿はどんなに人の込み入った講義室でもすぐに見つけることが出来た。彼女の周りだけは空気の色が違った。青白く光る輝きの方を見つめると、そこにはいつも彼女の姿があった。退屈な講義も、みかんがいればそれだけで至福に満ちたものとなっていた。講義室で後ろから私は彼女にまなざしを送り続けた。


君の髪にふれた光はすべて

やんちゃな妖精となって

きらきらと金色の笑みをこぼしながら

大気の中へとけ込んでいく


君の頬にふれた風はすべて

かろやかな妖精となって

終わりのない音楽を奏でる


オーロラのように

瞬時微妙に移り変わる

妖精達の戯れは


おまえの心に彩られているかのよう


終わりがあるようで終わりがない

まわっているようでまわってない

それは

神々の奏でる

夢のオルゴオル



 みかんは私を夢見心地にしてくれる。と同時に私に耐えがたき苦痛も与える。誰かがみかんに講義のノートを借りにくる。それはまじめに講義に出ている彼女のノートを試験前に皆にまわすという、ごくごく当たり前のことなのだけど、そんなことは分かっているけど、はらわたが煮えくり返る思いがする。

心の中に声が響きわたる。「お前を殺す、殺す、殺してやる・・・」

みかんの唇がふれたコップはかたっぱしからたたき割りたくなる。みかんが抱き上げた子犬はすべて八つ裂きにしてやりたくなる。もし、みかんと私以外の人類を全部滅ぼす核ミサイルがあったなら、私は何ら迷うことなくまた、絶対に正しいとの確信をもって発射ボタンを押すことだろう。私はすべての地球上の生物の生きる目的は、地球という大きな生命体の生態系の維持のためだと思う。一つ一つの生き物が必死になって生きるための活動をし、子供を生み育ててゆく。弱き生き物は強き生き物の食料となり、強き生き物はより強き生き物の食料となって、そうしておおいなる連鎖の中で地球の生態系が維持されていく。そこに生命の連続性がある。生態系が維持されていく中で、一つ一つの生命は皆「永遠」であると言うことができる。私は哀しいことに人間にうまれた。生態系を破壊することなしに生存してゆけない奇妙な生き物にうまれた。みかんは私に美しい水の惑星にうまれた美しい命という幻想を与えてくれる。みかんをみていると私は光と水の中で自然に祝福されながらいつまでもいつまでも生きていけるそういう気がする。私はみかんの中に”永遠“をみる。そのときはじめて私は人間であることを許すことが出来るのである。



されど

体中の細胞が一つ残らず引き剥がされていく

感覚は

確かに私の内に存在し

断末魔のかきむしるような苦しみ

今やこれのみが私とあなたをつなぐものであると思えて

マゾヒスチックにも私は無謀備のままにそれを甘受するのです。


みかん みかん

そして みかん


支配者であり

統率者であり

絶対者である

私の唯一の神であるあなたを

崇拝する私の前にときおり現れるあなたの幻の前にひざまずき私は静かに運命を見つめ

一人、人間であることの許しを乞うのです。



人間は認識の海の中で快楽を呼吸している。サッカーのスーパースターにスターとしての快楽を与えているのは、それがとても素晴らしいことだという人々の共通の認識だ。サッカーという人工的に作り出されたゲームをとてもうまくやれるということが、人々から賞賛されうらやましがられるものであるという約束事の上に、スーパースターとしての陶酔が存在する。うらやましがってくれる人々の存在なしではなんら価値を持たない不安定ではかない思いこみに依存することで、人々は生存のために不可欠な心の満足をかろうじて確立している。 

みかんの笑顔がもたらしてくれる心の底から湧きいでてくる快楽は、なにひとつ、他者の認識を必要としない。わたしが、みかんに恋をしているということをうらやましがってくれる他者の存在があってはじめて快楽を得ることができるというようなことは全くない。それは、無条件であり、絶対のものである。

麻薬。一切他のものを必要とせず、快楽を全身にもたらす麻薬。体中を幸福感で満たし、えもいわれぬしびれをもたらす麻薬。泡がひとつ。はじけて、あまい快楽となってきえていく。ふたつ。みっつ。やがて無数の泡に「こころ」がひたされてゆく。みかんは絶対の快楽の海である。



みかんは図書館にいることが多かった。授業のない時はいつもそこで静かに本を読んでいることが多かった。僕はみかんの座っているテーブルの対角線にいつも座っていた。そこが僕の聖域になった。静かに本を読むみかんは十分すぎるほど美しかったが、僕はみかんは美しい自然に囲まれた屋外で、無邪気に幸福そうな笑顔を振りまきながら駆け回って遊ぶのがふさわしいと思った。みかんはまじめで、あまりそういった遊びを知らないように思えた。僕は、みかんを外に連れ出して思いっきり遊ばせたいと思うようになった。みかんの幸福そうな笑顔をみること、それが僕の望むすべての幸福のように思えた。この世には楽しそうに笑うだけで周りのすべての人を幸福にする。そういう人種が確かに存在するのだ。みかん、君は神様からそうあるように選ばれた人種なんだ。きみはいつも「にこにこ」と幸福そうに笑ってなければならない。


いつだったか僕はみかんに声をかけた。

「こんにちは」

「あ・・・こんにちは」

彼女はすこしはにかみながら答えた。

「いつもここにきてるね」

「うん。本が好きだから」

「でも、せっかく受験勉強から解放されて晴れて大学生になったのだから、他にもいろんなことをして遊びたいと思わない」

「私・・・あまり遊びを知らないから、よかったらときどき教えてください」

「うん、喜んで」

脳裏に幻影がよぎる。夢の中のように。楽しそうに笑顔をふりまいてはしゃぐみかん。それを眩しそうに眺めている僕。長い髪がきらきらと光の粒をこぼし肩のところでリズミカルにはねかえる。ときおり、確かめるように僕の方を振り返る。ぼくはゆっくりと笑顔を返す。僕がいるから、いつまでもずっと見守っているから、安心して、おもいっきりはしゃいだらいいんだよ。

みかん・・・


「んと・・・あの・・・」

「はい?」

「よ、よかったら、今日帰るときいっしょに食事しない?」

彼女はすこしとまどったようであったが、透き通った美しい声で返事をした。

「はい」

僕の心臓は激しく脈打っていた。



白山大学の前には、銀杏並木が広がっておりその通りの両脇に学生街が広がっていた。

時計台をイメージさせる古い木造の喫茶店「プレイバッハ」に僕とみかんはいた。古い木造の上に置かれたガラスのランプと大きなスピーカーから流れるクラシックが落ちついた雰囲気を醸し出していた。みかんは一枚の絵画のように店の中にとけ込んでいた。僕は一瞬声をかけるのをためらった。水の雫。朝靄の中で、若葉の上に残った最後の一滴の露が消える一瞬に目を止める、そんな緊張感のなかに僕はいた。声をかけると、もしかすると彼女は消えていなくなってしまうかもしれない。そんな思いが脳裏をよぎった。そしてそれは、至福の一瞬でもあった。はりつめたようなピアノの旋律が店内を支配していた。

沈黙は、みかんの方から破られた。

「あっ、この曲知ってる」

みかんは明るく透き通った声でそう言った。

「え?」

僕は、不意をつかれて戸惑った。

「この曲、たしか、ベートーベンの・・・」

「ソナタ、テンペスト。好きなの?」

「うん。だーいすき。特にこの第三楽章」

「思うんだけど、これ、恋愛の曲だよ」

「あなたも、そう思う?わたしも」

「なんていうか、針の先に立つような緊張感があるだろう。それに、もの哀しい」

「何度も、何度も、短い、同じフレーズが繰り返されるでしょう。これが、打ち消しても、打ち消しても、どうしようもなく押し寄せてくる相手への思いだと思うの」

「うん、たぶんかなわぬ恋をしているんだろうね」

「情念?」

「うん」僕はコーヒーを口にしてから続けた。

「ベートーベンって、本当に曲にしてその情念を吐き出さなければ死んでしまうって感じで曲を作ってるよね。その点、才能というか、作品として計算されたモーツアルトとの曲とは対極をなすものだよね」

「そうね。軽やかで華やか。チャイコフスキーは?」

「あれは、気まぐれでつくっている」

僕とみかんは顔を見合わせて笑った。

「ねえ、みかんは岐阜出身だったよね」

「うん。どうして知ってるの?」

「同期生で自己紹介をする冊子を作ったじゃない。それに書いてあった」

「あ、そうか。まだあまり見ていなかった」

「高校は岐阜のトップ高だよね」

「うん。そこでもみかんは図書部に入っていたの。やめようとしたことがあったんだけど部員が私一人しかいなかったから、顧問の先生に辞めないように説得されちゃった」

「ふうん。僕はこう見えてもテニス部にいたんだよ。最も軟式だけどね。野球部より遅くまで練習するくらい熱心な部活だったんだけど、照明とかはないから、日が沈んだらボールを蛍光塗料のバケツにいれてまぶしてそれが見えなくなるまで練習するんだよ。僕は前衛だったから、ネットのすぐそばに立っているんだけど、パーンとボールをラケットで打つ音だけ聞こえてきて肝心のボールが全く見えない。そしてぼわっと幽霊のようにボールが顔の前に浮かんでくるんだ」

「えー。大丈夫なの」

「全然大丈夫じゃない。顔面に命中して、ぐにょっとスライムみたいに変形して顔に張りついて、くるくるくるってまわってから引っ剥がされるようにして顔から離れていく。これが痛いのなんのって、ボールの後が真っ赤になって顔に残っているくらい」

「あははは…」みかんは声を上げて笑った。その笑顔をまじまじと見ながら、僕はみかんの笑う姿をとにかくたくさん増やしたいと思った。

「それでね、白木先輩ってのがいてね、僕と同じ前衛なんだけど、しこら先輩って呼ばれていたんだ。」

「しこら先輩?」

「いつも相手に向かって、「よし、こい、ほら」って言って威嚇するんだ。それがあまりに早口なので「しこら」「しこら」って聞こえるんだよ」

「あはは、だからしこら先輩なのね」みかんはまた笑ってくれた。これで2回。僕の人生の中で僕はみかんを何回笑わすことができるだろうか?

「岐阜ってどんなところ?」

「タヌキ」

「え?」

「いや、周りは山だらけでよくタヌキが出るの」

「はあ。岐阜って日本だよね」

「ひっど-い。立派に日本ですよ」

「あはは、ごめん、ごめん。みかんを見て、たぬさんが仲間だと思って出てくるんじゃないの?」

「またまた、ひっど-い。もう、みかんちゃんはたぬきではありません」

「レッサーパンダ」

「違います。」

「ハムスター」

「違いますの2乗」

「虎の赤ちゃん」

「違いますの3乗」

「もしかして、鵜?」

「もう、どうしてよ」

「社会の時間に習ったけど、たしか岐阜って長良川って流れてない?」

「うん、流れてる」

「長良川って確か鵜飼いって有名じゃない。あの潜ってお魚を食べて、はけ-っていうやつ。それをやらされていたのかなってふと思った。

「ひっど-いの100乗。それじゃあ、鵜飼いじゃなくて、みかん飼いじゃないの」

「あはは、ごめん、ごめん、でも想像してみたらすっごくかわいい。ところでそんなに自然に囲まれているところで育ったら、元気もりもり娘にならない?」

「体があまり大きくならなかったから、体力が足りなかったのかな。ところで、あなたのところは?」

「僕は福岡県の漁村出身。玄界灘って海があって、日本海につながっているからすごく荒れているんだ。国有林の松林があってね。小さいころからいつも砂浜の上を走っていたよ。高校時代、部活のメンバーみんなで砂浜を走り抜けて焼肉食べ放題に行ったんだ。みなお腹ペコペコだからお店の肉が全部なくなるまで食べえてしまったんだ。次の日から高校生は食べ放題はなしになってしまった」

「博多っ子?」

「いや、少し外れている。けど、博多弁はしゃべるよ。こら、みかん、なんばしよっとね。はよ、食べんとね」とかね。

「ははは、おもしろ-い」3回目の笑いゲット。


夢のような時間はそれこそ夢の中のように過ぎ去っていく。ほんの一瞬。からかうような微笑みを残して。子どもの頃にわくわくしながらのぞいた万華鏡のように瞬時移り変わりながら、夢の中のように過ぎ去っていく。時よ止まれ。僕は心の中で知らず知らずのうちに呟く。時よ止まれ。願わくば永遠に。砂時計の砂は無情にさらさらと流れ落ちる。

みかんを下宿まで送ると、僕はみかんに尋ねた。

「楽しかった」

「うん、とっても。今日はありがとう」

「こちらこそ。あの・・・よかったら、たまにはまた一緒に食事してくれる?」

「・・・うん」

「ありがとう」

そう言って、去っていくみかんの姿を僕はずっとずっとみていた。

いまにもちぎれてしまいそうな目をしながら。



君と会った後はいつも

なにか大切な物を渡し忘れたような気がして

もう二度と会えないような気がして

後ろから追いかけていって

もう一度君に会いたい

そういう想いを押さえきれなくなって


渡しわすれたものは何?


手のひらの指と指の隙間から

こぼれ落ちていく砂のような

想い



言葉と音楽。心の抑揚とピアノの旋律。心の中に芽生えた憧れが、幾重にも重なった花弁がつくる蕾の中にそっと包み込まれ熟成の時を静かに待つ。やがて言葉は音符の形をとって生れ落ちてくる。つぶやきのように、ささやきのように、一粒一粒、愛を奏でるために。言葉は時空を駆け降りる。半音を高速で駆け降りてくる旋律のように。みかん、君と言葉を交わすひととき僕は心臓を針の切っ先に乗せる。

喫茶店でのみかんの一言がずっと頭をよぎっていた。「打ち消しても、打ち消しても押し寄せてくる相手への思い・・・」テンペストの第3楽章をそう表現したときのみかんはあたかも自分の気持ちを代弁しているようであった。みかんには誰か好きな人がいるのだろうか、心臓が「どくん」と音を立てる。みかんの言葉ひとつひとつを思い返しながら気持ちを探っていく。何気ない言葉ひとつひとつがすべて重要な意味を持っているかのように思えてくる。これはどういう意味なのだろうか、あそこでああいう言葉を言うということはもしかして・・・。そうしているとなにげないしぐさひとつひとつまでなにか重要なメッセージが込められているような気がしてくる。

砂漠のオアシスで水を求めるかのようにみかんの言葉をたぐりよせる。みかん、みかん、

みかん・・・眠れない日々がつづいてゆく。

 




愛は泡のようだ。みかん、君の名前と共に甘酸っぱい柑橘系のエキスがはじけ、いつか見た君の姿が残像となって脳裏に浮かぶ。僕を受け入れ僕の手を取って僕にとびっきりの笑顔を見せて、僕が君を幸せにしているという幸福感を僕にもたらしてくれないだろうか。それ以外に何も望まないから、幸せそうに笑って僕のそばにいてくれないだろうか。みかん、君の名前を呼ぶだけで言葉が詰まる。切なくて涙が出そうになる。みかん・・・。


みかん、いつの日だったか友達の羽田と酒を飲みながら話した言葉を思い出す。

「労働に価値があると思うか?」

「と、いうと」

「つまりだな、たとえば、家を建てるとするとき、本当には家を建てずに、でも本人は本当に家を建てたと思いこんでお金を払う。大工も全く働かずに、でも本気で家を建てたと思いこんでそのように、建材を発注しお金を払う。建材屋も全く働かずにそのつもりになってお金をまわす。そうして、全くそのつもりになってお金さえ廻してゆけば、食糧を生産、加工、流通させる職種以外は全く働かずに、しかし実際にそう言うことが発生したという思いこみの元にお金が廻れば、何一つ働かずに世の中はまわってゆくのではないだろうかということ」

「う~ん、つまり、羽田の言いたいのは、すべての世の中の貨幣の流れをシュミレートできるコンピューターがあったとして、それが世の中のお金の動きをシュミレートして、人間がそのことが実際起きたのだと完璧に思いこめば、食糧さえ実際に調達できていれば、それ以外の人間は全く働くことなしに暮らしてゆけると言うことか」

「仮定の話としてだけど、そう考えたとき、農林水産業の人が労働の価値を語るのは尤もだけど、サービス業の人間が労働はすばらしいといったところで、単にお金を廻す口実をつくっているにすぎないだろう。まして、会社の社長だとか部長だとかいってそのことに精神的満足感を得るというのは、変じゃないか。たとえば、食糧が足りなくなれば、そんな仕事はやめて、とりあえず狩りをしたり農作業をしたりするのだろう。そういうことをしなくてもよい、つまり、第1次産業をする人が十分に確保されている中で、余った人間が単に仕事と言う名前をつけて、それがいかにも価値があるように思いこんでいるだけじゃないのか、ということ」

「それについて僕が思うのは、食糧を得るための経済活動が、どうして精神的な優越感や満足感を得るためのものになってしまうのかということ。優越というのは、何かと差をつけることによって生じるだろう。ということは比べる対象と、評価の基準と評価する第3者が必要なわけだ。生きてゆくのにそれだけの物を必要とする生物は奇形だよ」

「仮に、人間が光合成ができたとして、食糧を得るということから完全に解放されたとしたら、人は優秀とか無能とかいう価値の基準なしで生きてゆけるようになるだろか」

「それは分からないけど、本当に好きで、好きでたまらなくて、これさえあればもう何も要らないというものを全員がもてば、社会はがらりと変わるだろうね。地位とか、名誉とか、自分は有能だとか無能だとか、人工的に作られたシステムの中で、人工的に与えられた価値基準でもって、精神的な満足感を得ることではじめて心の安定を得るような生き物にはならないだろう。そんなものにこだわる時間がもったいなくなるからね。生産性をもっとも上げるためにもっとも合理的な組織形態は作られるだろうけれど、それは精神的な優越感を満たすことを目的とした物ではなくなるだろう」

「今の社会がここまでひずむ原因は、本当に好きで楽しくてたまらない物をもてない人々が、生活のための経済的な糧を得るはずの場に、精神的な充足感や安定感を得るという目的を持ち込んでいることかもしれないね」


みかん、僕は君と2人きりで無人島で暮らしたいと思う。僕は、君のために毎日毎日狩りをして食糧をとる。君は僕のために獲物の皮をはいで服を作ったりする。毎日食糧が食べていけることがよろこび。他者との比較による精神的な優越感などはいっさい無縁の世界。君との語らい、君の笑顔、君と一緒に生きるために頑張ってゆくことが心の充足。

みかん、君は僕に大切な物をもたらしてくれる。



みかんの住んでいる女学生専用のアパートは哲夫の下宿の真向かいにあった。哲夫は1つにつながったように見える濃い眉をしており、同じ大学の心理学教室の同期生であった。  

「おまえよく毎日毎日ここにきてあきもせずにみかんの部屋を眺めているなぁ」あきれるように哲夫はそういうとポットに沸かしたお湯をインスタントコーヒーのはいったコップに入れて俺のもとに差し出してくれた。「まあ、俺はかまわないのだけど、おまえ告白しちまえばいいんと違うか。みかんの場合は速い者勝ちだと思うけどな」

「明日こそはといつも思うのだけど、明日になると、また、明日こそはと思うこの繰り返しなんだ」ぶっきらぼうにそう答えると、俺はコーヒーを一口飲んで、寝転がり天井を見つめ大きなため息をついた。「告白して、もしだめだったら今のような友達関係さえ壊れてしまうようで怖いんだ。なあ哲夫、喫茶店や映画にさそっていっしょにきてくれるってことは脈はあるということかなぁ」

「さあ、一般論としてはそうだが、あの子は八方美人のようなところがあるからな。無邪気といおうか、誘われたら誰とでも行くんじゃないかな。そういう意味では早い者勝ちだと思うぜ。まあ、おれはああいう子供っぽいタイプはごめんだけどな」

「哲夫、恋をしたことはあるか?」

「そりゃ、あるさ」

「どんな人だった?」

「そうだな、初恋の人は中学2年生の時。同じクラスの子で安永といった。少しふっくらとした感じで、笑うと風船のようだったっけ。中学校は少し遠くて乗り物はバスくらいしかないから皆自転車で通学してた。自転車置き場で僕は彼女の自転帰車を見つけると、必ず隣に僕の自転車を止めておいたんだ。帰りに出会う可能性が高いだろう。3週間もすると彼女のほうもそれに気づいてくれたみたいで、時間を合わせて帰宅するようにしてくれていた。だから自然に一緒に変える機会が増えた」

「実った?」

「うん。初恋は実らないというけどな。僕の場合は実ったといっていいんじゃないかな。帰り道では他愛のない会話をいつもしていた。好きな音楽とか、好きな漫画とか、だいたい好きなことについてたくさん話していたなあ。その後高校3年まで付き合って、そこで別れた」哲夫は煙草に火をつけると、大きく煙を吐いた。

「お前は?」

「たぶん、みかんが初恋と言っていいんじゃないだろうか。人を好きになったことは何回かあるけど、四六時中その子のことで頭がいっぱいで他に何も考えられないというのは初めてだ。どうして彼女とはわかれた?」

「何となくかなあ。長いこと付き合っているとだんだん話すことが無くなってくるんだ。マンネリっていうことかな。それで新しい刺激が欲しくなる。お互い新しい出会いや可能性みたいなものを求めていたのだと思う。そんな別れ方だったから今でも仲良くしているけどな」

 男女の別れは修羅場が多いと聞く。つまり片一方がもう片一方を振ることが多いからだ。僕は一度も女の子と付き合ったことがないが、何となく一度付き合ったら一生一緒に過ごしていくだろうという予感はいつも持っていた。

高校一年生のころ、僕は男の子に憧れたことがある。といっても、いわいるボーイズラブではないし、性的な意味合いも全くない。これは純粋な憧れと言っていいと思う。少し巻き毛でまつ毛の長かった彼は、小柄でバク転を何度もできるほど身が軽かった。僕はその躍動性にあこがれを抱いたのだと思う。正直言うと、キスをしたいと思ったことは何度かあった。キスは僕にとって性的なものとは隔離された概念であった。美しい花にそっと唇を寄せるような、そんな感覚とでも言ったらわかってもらえるだろうか。

体育の時間、バスケットボールで彼が誰よりも高く跳躍し弧を描くようなシュートを放つのに僕は見惚れていた。ボールが弾む。彼が弾む。それは若さの持つ眩さであった。もちろん僕も同じ若さをもつ年齢であり、若さに眩しさを感じるのは可笑しいのだが、彼の持つネコ科の野生生物のような柔軟性と俊敏性は、僕にとってあこがれ以外の何物でもなかった。おかしなことだが僕がサバンナに住む動物で彼がヒョウなら、僕は彼に飛びかかられて、爪を立てられ、肉をえぐられて食べられても幸せだったのではないだろうか。

2年生になってクラスが一緒になったこともあって僕らは仲良しグループの一員となった。ともに理系に進んだ僕らはこと数学と物理に関しては皆トップクラスの成績を持つ者たちの集まりであった。若さゆえの傲慢さと根拠のない自信に満ち溢れていた僕らは、よく「秘密の集会」を行っていた。僕の憧れた彼の部屋は自宅の敷地に別棟として与えられていた。僕らは定期テストごとに勉強会と称してそこに寝泊まりしていた。勉強などしなくても十分な成績をとることのできる僕らにとってテスト勉強というのは格好の口実であった。僕らは数学、物理、化学を中心に、アニメ、漫画、スポーツ、音楽、アイドル、様々なことについて語り合っていた。煙草とウイスキーはその際の必須のアイテムであった。当時高級品であった「ジョニ黒」を僕は父の棚から持ち出して皆に供給していた。酒が回ってくると僕たちはよくふざけあって互いに抱きついたり、襲いかかるふりをしたり、様々な火遊びてきなことも行った。僕は寝息を立てるかれの傍でよく丸くなって寝ていたものだった。


「哲夫」

「うん?」

「今何時だ」

「そうだな、もうすぐ午前1時だ」

「みかんの部屋、まだ電気がつかない」

「もしかしたら、おれたちが話し込んだりしているうちにさっと帰ってきて疲れてすぐに寝たのかもしれないぜ。まあ、あまり神経質になるなよ。俺たちも寝ようぜ」

結局その日は一晩中眠れなかった。そして一晩中みかんの部屋の明かりはつくことがなかった。



タナトス・・・死の本能。消滅への憧憬。まだ生命として誕生する以前の元素のレベルへの回帰願望。40億年前、原子のスープの中で初めて細胞が誕生したときから積み重ねられてきた記憶。心を粉々に砕くことによって失われた記憶の扉が開かれていく。みかん・・・ 

軋みだした心が断末魔の悲鳴をあげ自壊の狂気へと舵をきる。昨日のことが頭から離れない。昨日は部屋に戻っていたのだろうか。そうでないとしたら一晩どこにいたのだろうか。今日も昼間君は図書館にいるのだろうか。

今日は講義どころではなかった。自分の下宿に帰った俺は左半身の痺れを押さえ込むようにうずくまるとやがて眠りへと落ちていった。

「人は死ぬことを夢見て生まれてくるのかもしれないね」

「・・・・・・みかん?おまえは俺の夢の中にいるのか?」

「いいえ、あなたが私の夢の中にいるの。」

「君の夢の中に俺が・・・じゃあ僕は眠っている君と話しているのか。」

「そうよ」

「みかん」

「はい?」

「君は誰よりも幸福でいていいんだ。光と緑と木々と花と鳥が織り成す空間の中に溶け込んでいて、なによりも幸福そうに笑みを浮かべていていいんだ。世の中には笑っているだけで周り中を幸福にする、そういう人間が確かに存在する。君をみているとつくづくそう思う。だから君は心から生を楽しんでいていいんだ。僕は君のために死ぬ空想をよくする。君が車にはねられる瞬間、僕が飛び込んで代わりに僕が死ぬんだ。そのときの僕は至福の笑みを浮かべていることだろう。肉体は消滅しても僕は君の記憶の中に永遠に生きるんだ。君と出会ったことで確かに僕は死ぬことを夢見ている。だけどそれは君の中に永遠の生を得るからだ。生まれてきたときから死を夢見ているわけではないよ」

「私は生まれてきたことが悲しいの。私はときめきの中にしか生きられない」

「ときめき・・・」

「見ていて心がきゅんとする。それが私のすべてなの。私は私を好きになれない。だからできるなら一片の細胞も残さずに消滅してしまいたいの」

「消滅?」

「そう消滅。はじめっから私はいなかったことになって人々の記憶からも消去されるの」

「みかん・・・」

「はい?」

「あい・・・」

愛しているといいかけて、僕は目が覚めた。いまわかった。みかんは確かに美しい。その美は何兆という遺伝子の組み合わせの奇跡としか言いようがないが、美しい人はほかにもたくさんいる。テレビをつければその中にもたくさんいる。僕を捕らえて離さないのは単なる美しさじゃない。みかんの持つ本質的な闇の部分だ。それがどうしてなのかわからないが、みかんの美は闇によって彩られている。手を伸ばせば露となって消えてしまいそうな危うさ。人間は死んでしまえばそこから先、人々と思い出を織りなすことは不可能になる。しかし、これまで生きてきた痕跡は間違えなく自分がこれまで関わった人々の記憶のなかに刻み込まれる。それは自分がこの世に生きて存在した証だ。みかんは、その記憶ごと消え去ってしまいたいという。無論それは僕の夢の中で語ったことだから、僕の意識がみかんをそうとらえているにすぎないのだろう。だが、夢の中でなくともみかんはそうなのだ。それは確信だった。完全なる消滅。僕はその願いに戦慄を感じているのだろうか、それともある種の憧憬を感じているのであろうか。みかん、君は謎に包まれている。僕は君との会話の中で過去の君を手繰り寄せて、君の謎を解いてみたい。みかんのまえで謎を解き明かしそして、それでも僕はこうささやくのだ。


みかん、君は誰よりも幸せそうに笑っていていいんだよ。


10


目が覚めると夕方の6時を回っていた。ぼおっとした状態のまま今見た夢について考えていた。僕の夢の中に君がいるのではなくて君の夢の中に僕がいる・・・。本当ならそれはとても素敵なことだ。僕は毎日のように君を夢に見るのだろう。そのとき同じ時刻に僕が君の夢の中に現れるとしたら、もしそうなら夢が2人の秘密の隠れ家となるだろう。無意識の中で2人はつながってお互いの心を共有するのだ。今夜君の夢の中にいって聞いてみよう。昨日はどうしたのって。もしかすると少しおどけた口調でこう答えるかもしれない。「女友達のところに泊まっていたのよ」そして僕と君は顔を見合わせて、「くすくすっ」と楽しそうに笑うのだ。みかん・・・僕はいまそんなことを思い描いている。


11


次の日講義室にいくと、みかんはすでに席について講義を受ける準備を整えていた。

「おはよう」僕が声をかけるとみかんは「おはよう」と透き通った声で答えてくれた。

「ここ座っていい」

「うん」

「ありがとう」

僕は長いすの真ん中の席を空けて、みかんのひとつ隣りに腰掛けた。

「はい、これ」

みかんはコピーの束が入った紙袋を僕に手渡した。

「え?」

「昨日、講義さぼったでしょう」

「え・・・そうだけど、どうしてわかったの」

「教室にいなかったから」

「探してくれたの」

「そういうわけじゃないけど、なんとなくわかるの」

「うん、僕も君がいなかったらすぐにわかる」

「で、これは昨日の講義のノートのコピー、テスト近いからいるだろうとおもって」

「ありがとう。大事に使うよ。絶対テスト満点とる」

やはり昨夜のことは僕の思い過ごしだ。彼女は講義もちゃんと出てるし、こうして僕と親しくしゃべってくれる。もし彼氏ができたのなら、こんなことはしないだろう。ぼくは天にも昇る気持ちだった。みかんの話し声は空気の中に溶け込むほどに透き通っている。みかんの髪は絹糸のように軽やかに風にそよぐ。みかんのひとみは朝露のようにはかなげな憂いを秘める。みかんの唇は幾重にも重なった名もない花のつぼみのよう。みかんの頬、みかんの肌、みかんの鼻、みかんの耳、すべては完璧な調和を保っている。みかんが息をしているのが不思議に思える。僕たちと同じ空間に存在し、僕たちと同じ空気を吸い、僕たちと同じように泣き笑う、僕たちと同じ「人間」であるのはありえないと思う。何億通りの遺伝子の組み合わせがなせる神の奇跡としてみかんは存在する。いや存在すらも信じられない。みかん・・・僕はそのすべてを独占したい。ひとみも、唇も、頬も、鼻も耳もすべてを独り占めにしたい。君の取るノートは僕以外の誰にも見せてほしくない。みかん・・・僕は君と無人島で2人きりで暮らしたい。みかん・・・。

「・・・ねえ」

みかんの声で僕は我に返った。

「どうしたの?ぼーっとして。ちゃんと講義を聴かなきゃだめでしょ?」

「ごめん、ごめん、ちゃんと聴くよ」

「よろしい、あとでみかんがちゃんときいていたかテストしてあげる」

どくん!

心臓の音が1オクターブ跳ね上がった。

とくん、とくん、とくん・・・

速度がどんどん速くなっていく。

とく、とく、とく・・・

ふと思う。この心臓の音みかんに聞こえているだろうか。みかんの言葉の一つ一つに反応して音を立てる、心臓の音。みかんに聞かせるためなら、この胸を切り裂いて心臓をこの手に取り出してみかんの目の前にかざしても何の苦しみも感じないだろう。僕の心臓の音が聞こえるかい。みかん・・・。


12


喫茶プレイバッハでは、フーガト短調の調べが静かに流れていた。寄せては返す波のように何度も何度も同じ旋律が旋律を追いかけていく。僕の心の中で1日中言葉を変えては繰り返される、みかんへの告白。

「ほら、またここ漢字間違えている。もう本当に小学生以下なんだから」

みかんはあきれたような声をだした。みかんの指の先には”自動者”という文字があった。

「いや、これは運転手が自分でペダルをこいで走る車のことなんだ」

「ははは・・・。そんな車あったんだ。じゃあ、これは?」

みかんの指先には”対称”という文字があった。

「”対象”でしょう。なにかが鏡にでも映っているの?」

「いや・・・。私日本語わかりませ~ん」

「もう、これでみかんの趣味がひとつ増えちゃったわね」

「趣味?」

「あなたのノートの漢字の間違いをみつけること」

「楽しい?」

「これまであまり笑うことがなかったから」

「吉本か?僕の漢字は」

「ははは、みかんにとってのビタミン剤かもね」

「じゃあ今後もよろしく」

「ちゃんと講義を聴いてノートをとるのよ。漢字はみかんが面倒見てあげるから」

「はーい」

曲はいつのまにかシンフォニアの2番に変わっていた。

「あら、この曲」

「うん、惑星ソラリスって映画に使われていた」

「それそれ、思い出した。あの映画は心理学的にはとても興味深いわね」

「うん、人間の記憶のもっとも奥底に眠る情念を具現化するソラリスの海が、亡くなった奥さんを作り出すんだよね」

「最初はそれを気味悪がっていたけど、だんだんそれに囚われていくのね」

「そして奥さんがいなくなったとき、最後の最後にソラリスが作り出すのは、母なるロシアの大地と家と彼の父親」

「面白いのは、奥さんも、父親もすべての記憶と、自分の意思を持っているということ。判断もするし悩みもするし、行動もする。単なる過去の思い出を写した人形じゃないの」

「うん、でもそれはすべてソラリスの海が彼の記憶の深層から作り出したものだよね」

「記憶をもとに作られたものが、新しい行動をとる」

「でも、考えてみるとオリジナルの僕たちだって、母親の胎内で受精卵から分化していくときに単細胞生物だった時期から現在までのすべての進化の記憶をたどっていくらしいよ。そうだとすると、記憶は遺伝子レベルで蓄積されていき、記憶から生まれた僕たちもまた新たな行動をとってゆく」

「記憶って人間の無意識的な行動をつかさどる要素になっているのかな」

「かもしれないね」

「あ、もうこんな時間、わたしちょっと用事があるから」

「そうかい、じゃあお金は僕が出しておくよ」

「ありがとう。またね」

「うん、また」



あなたは母なるもののイメージを持っていますか 幼い頃きいたであろう子守唄の記憶を

母親の腕に抱かれたそのぬくもりの記憶を

その胸の内にもっていますか(ワタシハモウオボエテイマセン) 男の優しさは満たされぬ悲しみを

女の優しさは満たしてあげられぬ悲しみを

知るところからくるもの?

愛したいから愛されたいの?

愛されないから愛せないの?


一人で海を見つめるときも

草花に埋もれて眠るときも

つきまとうのは今はもう

失われた記憶の扉をたたく音


13


出会った人の魂は記憶の中に住み続ける。では、死ぬと記憶の消滅とともに、記憶の中に染み込んだ他者の魂も消滅してしまうのだろうか。違うような気がする。現に僕たちは太古の昔消滅した生物の記憶を受け継いでいる。母親の胎内で育つヒトの胚は46億年の生命の進化の過程をたどって分化する。では、記憶はDNAレベルで死んだあとも他の生物に移り住んでいくのだろうか。記憶の遺伝子をカプセル化したウイルスのようなものがあってそれが種を超えて伝染してゆく・・・。そんなことを考えながら、みかんの用事について思いを張り巡らせていた。午後6時からの彼女の用事ってなんだろう。しかも時間の融通のきかない用事・・・。考えたくない可能性ばかりが脳裏に浮かんでくる。それは共鳴箱のように増幅し僕を不安にさせる。首を大きく左右振ってとりあえず考えないことにしてみた。気がつくと結局考えてしまっているのだが。

とリあえずそばに散らかしてあった漫画をとって読んでみる。漫画のコマをなんとなく目で追いながら、もうひとつのみかんの言葉がずっと心に引っかかっていた。

「これまであまり笑ったことがなかったから・・・」

みかんは、たしかに女の子の友達は多いほうではないと思う。数人からいじめられたりもしただろう。でも数少なくてもとびっきり仲の良い友達はいただろう。みかんの言葉は普通の人にはわからない独特の旋律を奏でる。それはたぶん一般的には耳障りでいらいらする音色でしかないのだ。理解しがたい不協和音・・・。みかんはそれを奏でながら周りを選別していったはずだ。数少ない共鳴を求めて。あまり笑ったことがない・・・。周りのすべてを幸福な気持ちにさせるほどの笑顔を持っていながら、何故・・・。男友達は、その気になれば何人でもつくれたはずだ。みかんがその気になればいや、その気にならなくてもみかんは異性をひきつけてやまない魅力を知らず知らずのうちにかもし出している。見た目のみではなく異性の胸をしめつけるような魅惑的な、いや悪魔的なといってもいい切なさを秘めている。

男友達のだれかと笑いはじけるような日々はなかったのだろうか。小さいころ両親に連れられて動物園に行ったり遊園地に行ったり、はしゃぎまわる日々は送らなかったのだろうか。僕はみかんを笑顔にしなければならない。漫画を放り出して、オーディオのスイッチを入れる。バッハのシンフォニア2番が流れてくる。もし僕がソラリスの海になったら、みかんのために大地を作るだろう。森林に囲まれ小川が流れ花が咲き乱れ小鳥がさえずり木漏れ日があふれる。そこでみかんはすべての生き物と会話を交わしながらくつを脱いで小川に足をつけあふれんばかりの笑顔ではしゃぎまわる・・・。そんな大地を。

体を欲するのでもなく、心を欲するのでもなく、僕はみかんの笑顔を欲しなければならない。僕はみかんを理解できるのだから。


14


「たへんりょうとうけいかいせき?わっむつかしそう」

心臓が飛び出しそうになりながら振り向くとみかんが後ろから覗き込んでいた。

「実験や社会調査で使うだろう。今のうちに勉強しとこうと思って」

時計は17時を回っていた。

「今日は来ないのかと思ったよ。講義にも来なかっただろう。」

「えへっ、寝てた」

みかんはペロリと舌を出した。

「ねえ、数学得意なの」

みかんは興味深げに聞いてきた。

「得意ではないけど好きだよ。もともと予備校までは理系だったしね」

「すごい、みかんずうっと文系だったから、まったく数学わかんない」

「じゃあ、教えてあげるよ」

「ほんと。たすかる」

「どういたしまして、いつも漢字を見てもらっているお礼だよ」

「昨日夜更かししたの?」

「え?どうして。気になる?」

「いや、そういうわけじゃないけど。真面目なみかんちゃんが授業をさぼるってめずらしいなと思いまして。まあみかんが不良化するということは成長の証かな」

「ひどっ」

みかんはおどけた声を出した。

「ところで・・・」

「はい、みかんにはわかります。おなかがすいたでしょ」

「で、そのこころは?」

「エルグレコでディナー。」

僕とみかんの声がやさしくはもった。僕はテノール。みかんはソプラノで。

エルグレコの店内はディナーらしく照明をおとしてジャズが流れていた。

「この曲・・・」みかんは怪訝そうにつぶやいた。

「うん。超ゆうめい。テイクファイブ」

「歌詞ついてたんだ。サックスだけかと思ってた」

「うん。あまり知られてないけど。きみに会いたくて毎日回り道。お願いだから構えないで5分だけ、たわいのないお喋りをしよう。という内容の歌詞」

「ふうん」

みかん、僕の回り道はいつも図書館。もっとも、たわいのないお喋りはかなえられているけど。ブサイクな僕が美しさの結晶のような君とこうして向かい合って話しているだけでも贅沢なことだろうけど、僕は君を独り占めしたい。誰もいない宇宙の果てに君を連れ去りたい。君を見つめると、うれしさの波が一つ押し寄せ、苦しさの波が10倍になって、返ってくる。みかん・・・。

「いま、どこに旅立ってた?」

「え?あっ、ごめん、ごめん」

みかんの言葉で我に返った。

「ちょっと、イスカンダルに行ってた」

「で、ほうしゃのうじょきょそおちはもらえた?」

「手遅れでした。人類は滅亡しました。みかんと僕を残して」

「あら、大変。私たちが、アダムとイブになるの?じゃあ、みかんちゃんがんばってたくさん子孫残さなくっちゃ」

「でも、みかんちゃんは、めんくいですからねえ」

僕がそういうと、みかんはおどけたように笑った。

本気の告白、それは、今のつつましやかな幸せを一瞬にして泡と化す危険性を秘めている。いつの間にか店内に流れる曲はケニーGに変わっていた。

「宇宙ってね、結局のところは波動らしいね」

「波動砲?」

「それは、アニメ」

「てへっ」

「宇宙はなんにもないところから突然の大爆発で産まれた。これをビッグバンという」

「はあ・・・」

「ビッグバンによる振動は重力波を生じさせ、空間に素粒子の場を生じさせた」

「場の振動方向は素粒子の振る舞いを決めこれによって陽子と中性子と電子が生みだされた」

「みかんちゃんは、理科と数学は、あっちょんぷりけなのだ」

みかんはペロリと舌を出して笑った。

「そうだね、例えばこのサックスの音は心に響くよね」

「うん」

「これが、はいCの音、440Hzなんて出し方されたら感動しないよね」

「みかんもそれはそう思う」

「奏者の思いが息吹に伝わって微妙に音が揺らぎ続ける。それが心に響く。」

「ふむ」

「揺らぎに心が動くのは僕たちの体を造る粒子がすべて揺らいでいるからだと思うんだ。こういう話なら興味が持てる?」

「うん。理数嫌いのみかんでも、理数が勉強したくなる。かな?」

「よかった」

「じゃあ、文学少女のみかんから。似たようなことをコクトーが言ってまあす。私の耳は貝の耳、海の響きを懐かしむ」

「おお、ジャン.コクトーですか。こんなのもありましたね。シャボン玉の中に庭は入れません。回りをくるくる回っています」


僕たちは原始宇宙の素粒子の記憶を引き継いでいる。素粒子の揺らぎは僕達の心の揺らぎにつながっている。漆黒の闇の中にポツンと泡のように誕生した素粒子の震えは、君の心の中に入り込みたくて君の周りをくるくるとまわっているシャボン玉だ。138億年まえからずっと一人ぼっち、それが僕達の体のなかに宿る素粒子の孤独。そのすべての素粒子の孤独を震えに変えて、みかん、君に届けたい。みかん、君に受け止めてほしい。君に出会わなければ、こんなさみしさは感じない。みかん君に出会わなければ、こんな喜びも感じない。みかん・・・。


15


「好きだよと言えずに初恋は」

野月先輩がからかうように歌った。

「みかんはああ見えて人気が高いからね、ぐずぐずしてると取られるよ」

「先輩、せかさないで下さいよ。こっちは死活問題なんですから」

「お前、みかんじゃないとダメなんだろ。だったらどのみちいくしかないじゃん」

「そのくらい分かってますよ」

野月先輩は麻雀のし過ぎで単位を落として留年した猛者だ。親から仕送りを絶たれ、半月荘という月3000円の学生寮に転がり込んでいる。メンソールのタバコを吸いながらさらに続けた。

「おまえ、実は言わなくても彼女はもう分かっているとか思っているだろ?」

「誰が見ても100%、ばればれですよね」

「みかんも彼女が望めばお前が何でもしてくれることは、わかってるだろうな。ただ、わかっているからと言ってもそのままにして要求しなければそのまま放置させるよ」

「うーん」

「みかん、好きな人いるらしいぜ」

「何となくそれも分かります」

「そうか?感じるものがあったか。俺の聞いた話では、すでに何人かアッタクして断られているらしい。好きな人ってお前じゃないよな。とーぜん」

「ひどいなあ、でもその通りですね。それは何となくわかります」

「じゃあ早く告白しないと、とられるぜ」

「わかってますって、完全に楽しんでいるでしょう。他人事だと思って」

先輩はニヤッと笑って、メンソールに火を付けた。


あいしてる 

風が水面を揺らすように 

あいしてる 

虹が空にかかるように 

あいしてる 

さなぎが蝶に羽化するように 

僕は世界のすべてを受け入れて

君に向かって両手を広げて微笑みかける 

あいしてる 

あいしてる 

言葉にならない思いが

太陽風のように全身からあふれ出ていく 

あいしてる 

あいしてる 

君にはわかっているはず 


16


告白・・・君が好きだということ。君を僕のものにしたいということ。君を独り占めしたいということ。僕だけを見てほしいということ。僕のことだけを考えてほしいということ。心が君だけを求めて悲鳴をあげているということ。告白をした瞬間から、もう元の関係ではいられなくなる。告白してだめならもう会えなくなる。それを思うと全身に電気が走る。37兆の細胞が1枚1枚引き剥がされていく。


「おお、いたいた。相変わらず鍵をかけないやつだなあ、お前」

「おお、羽田か、久しぶりだなあ。まあ入れや」

「ほんじゃお邪魔」

羽田はそういうと畳みの上で寝転がった。

「俺も好きな子ができた」

「え?誰?」

「哲学科の美術履修コースに篠塚って女の子がいるだろう?」

「ああ、彼女か、お前も目が高いなあ。確か研究室に小さきものっていう彼女の絵が飾ってあったよな」

「お前も見たか。あの小鳥の絵、感動するよなあ。特にうまいってわけじゃないけど、この地球上に命を受けた、小さきものをお守りくださいっていう彼女の願いが聞こえてくるような絵だよなあ。で、感動して、これいいねって話しかけたんだ。そうしたらわかってくれるのねって微笑まれて、そのとき電気が走った」

「典型的なフォーリンラブですな」

「お前に言われたくないよな。でも、恋とは堕ちるものですか」

「うん、苦しいよなあ。お互い。で、どうすんの。お前イケメンだし、告白する?」

「問題は彼女の好みかどうかだ。でも告白する」

「応援する。がんばれ。『草の笛 吹くを切なく聞きており 告白以前の愛とは何ぞ 』と寺山修司が歌っていたなあ」

「お前、結構彼女と仲いいだろう」

「パタリロ仲間だ」

「・・・で、彼女の誕生日が近いじゃないか」

「8月10日だ」

「何をプレゼントしたらいいと思う?」

「マンション」

「お前なあ」

「ごめん、ごめん、何はともあれ手作りのもの。ものすごく手間ひまをかけたもの。出来の良し悪しは問わない」

「お前のそう思うか。で、具体的には?」

「彼女、美術だけあって、絵画が好きだろう。何か有名な絵画のジクゾーパズルとかを1ヶ月ぐらいかけて作ってあげたら、喜んでくれるのではないか?」

「それもらい。このことは内緒にしておいてくれよ」

「了解」

「ところで、告白以前の愛とは何だと思う?」

「愛って多分、生物の不完全性からもたらされると思う。僕たちは一個の独立した生命でありながら、単独では生存できない。一人で生きていけるという人もいると思うけど、そういう人でも死の壁は超えられない」

「死の壁?」

「うん。生物は必ず死ぬ。だから生物は異性を愛し、子供をつくることで生命を連続させてゆく。子供がいれば死ぬのが怖くなくなる。自分がいつ死んでも自分のDNAは続いていくからね。そういう意味で愛しあって子を持つことは不死につながるんだ。だから、完全なる神は万物に愛を降り注ぐことはしても、愛を欲することはしない。それは不完全性がないから」

「植物も死ぬよね」

「うん」

「植物も愛を欲する?」

「死を内包するあらゆる生命は、愛を欲すると思う。めしべは確実におしべに求愛している」


告白以前の愛とは何か?胸に秘めて熟成させる泣きたくなるような思い。希望と不安が粒子と反粒子のように瞬時に対消滅を繰り返していく。愛することを欲する僕たちは、生きることを狂おしいまでに欲しているのだ。みかん・・・。


17


「平均くらいはね、みかんさんにもわかるの。でも、『ぶんさん』って何?」

みかんは少し甘えた声でつぶやいた。

「まあ、そう焦らずに、今日は記念すべき多変量解析の最初の講義なのだから、まずはシグマの意味からいくよ」

いつもの図書館で僕はみかんに約束の統計学の講義をしていた。僕が言葉を投げかけ、君がそれを返す。僕が教えて、君がうなずく。君が尋ねて、僕が返す。40億年前に生まれた海は寄せては返し寄せては返し、ゆりかごのようにして生命を誕生させたのだろう。

「はい、じゃあ今日はここまで。次回は行列の基礎をするよ」

「ひええ、みかんは頭のなかをヒヨコがはしりまわってるう」

僕がくすくす笑っていると、みかんが話を続けた。

「今日は授業のお礼にみかんがおごるからね」

「はいはい、精一杯栄養補給させていただきます」

「本当はみかんさんの手料理といきたいとこだけどうちは女子専用マンションだからね」

みかんは事もなげにそういって無邪気に笑った。


無邪気は最大の邪気

無邪気は最大の罪

屈託のない笑顔を僕に見せてくれるから

わかっていても僕は期待してしまう

真っ白な言葉だから

いろいろな色に染めてしまう


「あ、またイスカンダルに行ってる」

ぼんやりしている僕をみかんはやさしくさとす。

「あ、ごめん、ごめん」僕は頭を掻いた。

「ウンディーネって知ってる?」みかんは大きな瞳で見上げるようにして言った。

「はいはい、これがまた科学の世界になるのだけど、大昔、人々は世界は四つの元素からなると考えていたんだ。火と水と土と風。それぞれは妖精の形で人間界に現れる。火がサラマンダー、これってトカゲの姿をしているのね、土がノーム、風がシルフィード、そして水がウンディーネだ」

「理科オタクなのね。まったく。みかんは文学のほうで知ってるのだけど、ウンディーネはもともと精霊なので魂を持たないのね。で、人間と恋に落ちたときだけ魂を得て美しい女性の姿で現れるの。でも、魂をもらうときに一つだけ約束事があって、もし、相手が他の人に浮気をしたら、必ず男の人を殺さなければならないのね。そして魂を返して水に還るの」

「ふうん、文学的なことは知らなかった。美しくも哀しい話なのかなあ。で、またどうして?」

「ううん、ちょっと思っただけ。知ってるかなと思って」

「・・・、ウンディーネは多分ものすごく一途にその人を愛するんだろうね。あまりに一途すぎるがゆえに男にとって重たすぎることもあるってとこかな?」

「わかる気がする」

「でも僕ならそれで構わないな。一生浮気はしないからね。もっともこのルックスじゃできないって言ったほうが正直かもしれないけどね」

「あはは、でもあなたならきっとそうでしょうね」

「ひどー。やっぱり、できないんだ。」

「あ、いや、そういう意味じゃなくて、その、なんていうか・・・」

「はは、うそ、わかってますよ」

あせるみかんはとてつもなく愛らしい。だけど僕の脳裏には、「あなたなら」というときのみかんのこの世から蒸発してしまいそうな切なげな表情が焼き付いていた。僕は、話題を変えることにした。

「篠塚さんって知ってる?」

「うん。とても面白い人。ちょっと変態だけど」

「あはは、やっぱ変態か」

「男同士になってみかんと愛し合いたいっていわれた」

「わはは、彼女美少年趣味だもんな」

「まあ、芸術家は皆そういうところあるけど」

「ボーイッシュなみかんって確かに魅力的というかむしろ魔力的だね。僕もみかんボーイとならそちらの道にいってしまうかも」

「ひどーい。それってからかってるでしょう」

みかんは、“ぷうっ”と、ふくれてみせた。

「永遠にみかん的なるもの、我らを天上へと引き寄せるものなり」

「なんで、ここでファウストが出てくるのよ。もう」

「ごめん、ごめん」

「で、彼女を好きな人がいるんだ。誰かは内緒だけどみかんも知っている人」

「ふうん。彼女美人だしね」

「で、僕としては応援したいのだけど、傾向と対策を50字以内で述べよ。句読点を含む」

「う~ん。要はハートとしか言いようがないわね」

「まあ、そうだよね。ところで、みかん。ウンディーネで思い出したけど、一緒に映画観にいかない。ちょうど、スプラッシュていう人魚姫の話が来てるんだけど」

「う~ん。いいよ。いつにする」

「え、本当にいいの。デートだよ。デート」

「はいはい」

みかんは面白そうに、「くすくすっ」と笑った。

「じゃあ今度の日曜日。時間は図書館を10時に出発ということで」

「了解」

僕は、夢のような気持だった。


18


「それは、分かってないな」

野月先輩は、相変わらずメンソールのたばこをくわえながら断言した。

「でも先輩。嫌いだったらいっしょに映画なんか行かないでしょう」

「きらいだったら行かない。でも、特別な人でなくても、彼女は誘われたら一緒に行く」

「でも、少なくとも彼氏はいないでしょう。いたらいかないだろうし、そもそも彼氏が行かさないでしょう」

「そこが、みかんのみかんたるゆえん。彼女に常識は当てはまらないぜ」

「おう、久しぶりやなあ」

「堀口先輩」

僕と野月先輩の言葉がはもった。

堀口先輩は、大学院修士課程1年生で、研究室の中ではもっとも学問を愛する先輩で、研究室の皆が一目置く存在だ。

「先輩、お久しぶりです」

「いやあ、わるい、わるい。しばらく論文書くため田舎にこもっとったわ。で、どうなん、みかんとは何か進展あったん?」

「こいつ、全然根性なしなんですよ」

「ん、そうか、まあ、その、青春だな」堀口先輩は煙草に火をつけて旨そうに吸うと続けた。

「美しさに心奪われるのもまた、よかろう。ところで、美とは自律したものでありうるか?」

「つまり、善だから美しいとか徳が高いから美しいとか、何かの要素に付随するものではなく、美そのものとして独立して存在するかということですね」

こういうときの野月先輩は鋭い。

「うん、理性的なものとして、演繹的に導かれるのが美なのか、感性的なものとして独立して存在しうるものが美なのかということ」

「美という漢字には羊という文字が含まれてますよね。で、羊は古今東西、神にささげる犠牲の象徴だから、自己犠牲の中に内包されるのが美というのが東洋の美に対する概念ときいたことがあります」僕はそう答えた。

「でも、お前がみかんに感じている美はそれではないだろう」

「う~ん。野月先輩は相変わらず鋭いですね。じゃあ先輩はどう思っていらっしゃいますか?」

「美とは罪」

「ちょいと補足するとだな、古代ギリシャでは美とは、善や良いという言葉と同意的に用いられてきたんだ。東洋の自己犠牲もそうだよな。それに対して、感性的なものから美が固有の能力であり、尊厳をもつとするのが今日の考えで、カントによって確立された。美が罪というのは、美が固有の能力をもつということだ」

「いつも、詳しい補足をすみません。性根が面倒くさがりなもので」

野月先輩は頭を掻いた。

「美は間違えなく、それ単独で存在します。みかんは僕的にいうと彼女に肉体があるというのが不思議でならない。そんな美だ」

「ぶぶぶ、まあいいけど。結局の美というのは個人個人の感性のなかに存在するということか」

堀口先輩は続ける。

「カントは経験によらず人間に備わっているものをアプリオリと呼んだ。美はまさにアプリオリ的な存在というわけだ」それを聞いて僕が話した。

「その目で美を凝視したものは、すでに死の祭壇に捧げられている。ベニスに死すだったっけ。僕は美に触れると死にたくなる」それにこたえて野月先輩。

「だから美とは罪。触れてはならないのさ」


実存は本質に先立つとサルトルは言った。灰皿は、人を殴れば、灰皿ではなく凶器になる。美は間違えなく存在が本質に先立っている。美しいものに触れると死にたくなる。美は喜びではなく哀しみを本質として内包する。美とはさみしさ。みかんに出会う前から、僕はみかんの美に震えていたのだ。みかんを知る以前から僕はみかんを知っていたのだ。みかんに出会う以前から僕はみかんに出会っていたのだ。何億回も。


19


「面白かった」

映画館を出た後、みかんは思いっきり伸びをしながらつぶやいた。

「アンデルセンの童話がベースだけど、楽しかったね」

「みかんは、あまり楽しい系の映画を見ることはなかったのだけど、本当にみてよかった。主人公のお人魚さん、かあいかったあ」

見つめると、みかんはにこにこしている。「可愛いのは君だよ」と、心の中でつぶやいてみる。

「君の足に水をかけてみたいな」

「ひどー。みかんちゃんの足は、ヒレになったりしませんよーだ」

みかんはペロリと舌をだした。どこまでが天然で、どこまでが計算なのか、僕の心をわかっていて君は僕の心を離れられなくしてゆく。



君の足に水をかけてみようか

スプラッシュをみた後に

思わず口をついて出た言葉

くすっと君は照れたように笑った



「じゃあ、今日の映画の感想会をいまからしよう」

「プレイバッハで」


少し暗めの店内では、インヴェンションが鳴り響いていた。一通り映画の感想をいい終えた後、話は音楽へと向かっていた。

「普通ピアノの曲って主旋律と伴奏から成り立ってるよね」

「うん」

「バッハの2声ってどちらも主旋律なのね」

「うん。対位法っていうらしいんだけど、片方が問いかけ、もう片方が応える。片方が逃げて、もう片方が追いかける。片方が微笑みかけて、もう片方が受け止める。片方が呼びかけて、両方がハーモニーを奏でる。要は右手と左手のささやきのキャッチボールなんだ。」

「ふうん。みかんはバッハはあまりきいたことがなかったんだけど、こうして聞くとおもしろいね」

「音楽は突き詰めると数学の整数論に行き当たるんだ」

「数学?」

「例えば、和音は人間の耳にとても心地よく響くのだけど、どれも周波数の組み合わせにすると、簡単な整数比になるんだ。ドミソなら4:5:6といった具合にね」

「おどろき」

「神様はたぶん自然数の中に、調和をおしこんだんだろうね」

「ふうん。そういう話を聞くと、みかんは数学が好きになりそう。もっとはやく聞けてたらよかった」

「これからもたくさん聞いてくれる?」

「うん」

僕が語りかける。みかんが応える。みかんが語りかける。僕が応える。みかんの言葉を先回りして待ち伏せするかのように僕が追いかける。みかんの言葉がかろやかに笑って逃げる。共感しあうみかんと僕の言葉がハーモニーを奏でる。バッハが空から見ていたらインスピレーションを感じてくれるだろうか。

「みかんはあまり、楽しい映画は見ないって言ってたけど、どんなのが好きなの?」

「セルジュゲーンズブールとか、ウッディアレンとか、デヴィッドリンチとかかなあ。」

「ほげー。みかんちゃんには清純路線でいってほしいのだけど、意外にアバンギャルドなのね」

僕はあきれたように続けた。

「アンパンマン大好きとかじゃだめ?」

「みかんちゃんをいくつだと思ってるのですか、失礼な」

みかんはいつものように“ぷうっ”とふくれてみせる。

「12歳。自分で“ちゃん”つけてるし」

「もう、勝手なイメージの投影は謹んでお断りいたします」

みかんはこぶしを握りしめてくるくると回した。

「ははは、ごめん、ごめん」

「でも、正直意外だった。じゃあ文学などでも、花のノートルダムとか好き?」

「ジャン・ジュネね。けっこー好き。そこまでお耽美でもないんだけどね」

「ウッディアレンはアニーホールに尽きるよね」

「セリフのコミカルさがいいわね。みかんはダジャレも含んでおしゃれな言葉ってとてもいいとおもう」

「僕の3大映画は、惑星ソラリス、ベニスに死す、ロードオブザリング」

「前の2つは分かるけど、最後の一つは意外。あんがいメルヘンなの?」

「現実を描くのもいいけど、この世にない世界を思いっ切り想像したものも好き。特に変わった生物が出てくるもの大好きだよ」

「しゃべるライオンさんとか。ねこさんとか?」

「うん」

「きゃきゃ。あんがいこどもちゃん」

「お耽美よりましだよ~ん。ところでアニメは?」

「トトロ大好き」

「うん、これは文句なしだよね。トトロを見てると世界は不思議に満ち溢れているのがわかる。生まれたばかりの子供って世界中が新鮮でいつも不思議に満ち溢れていて毎日が冒険なんだよね」

「いつからまんねりになってしまうのかしら」

「そういうものだと、世界を受け入れたときからかなあ。だからメルヘンはいいのだ」

「はいはい、そうね」



生まれたての頃の

あらゆる驚きに満ちた世界は

年月とともに失われてしまったけれど

君がみせてくれる様々に彩られた表情が

僕をそのころに還してくれる

君は少し小走りに僕の前に出て

振り返って手を差し伸べてくれる


歩いていくんだ

君と2人で

隠されてしまった世界の驚きを

再び見つけるために


20


「おじゃま」

羽田の下宿に遊びに行くと、床は足の踏み場もない状態になっていた。

「ひええ、美術書とポスターの洪水だなあ」

壁を見ると、我はまた今日も君を想うなり、と書いた習字が貼ってあった。

「今から1か月でできる限りのジグゾーを完成させる。とりあえず第一弾は、何がいいと思う?」

「彼女は間違えなく少数派の味方だ。あまりメジャーなのは避けたほうがいいぞ」

「そう思って、美術書を買いあさってきたのだが、いまいち何がいいか分からん」

「う~ん。そっちは専門外だからなあ。よし、美術履修科の前田女史のところに一緒に行こう」

前田女史は美術履修コースの4回生で、絵画と料理は極上の芸術だというのが信念の才媛で、仕送り前に欠食児童と化した学生に試食と称して、ご飯をふるまってくれるので、皆からマリア様と呼ばれて、あがめられていた。

「ふむ、話は分かった」

彼女はメモ用紙を取り出すと、さっといくつかの作家と作品を書きとめ羽田に手渡した。

「せっかくだから少し解説をしておこう。まず、ダリの記憶の固執。これはアインシュタインが相対性理論というのを発表して、時間の絶対性が崩れてきたころの作品だ。ラファエロの大公の聖母。これだけ可愛いキリストはほかにないぞ。 ルノアールの桟敷席。ルノアールはとにかく女性の乳房が好きでな、神様が乳房を造らなければ私は画家にならなかっただろうと語ったくらいだ。まあ、うんちくはこの程度にして、とりあえず、飯でも食っていけ。今日は特別に、ロールキャベツでもつくろう」


「先輩の料理はいつ頂いても最高ですね」

にこにこしながら話すのは僕。

それには特に応えず、女史が踏み込んだ。

「ところで、羽田的に見た篠塚の美とは何かね?」

「彼女には母性を感じます。ルノアールの描く女性のような乳房は多分ないと思うけど、それ以上の母性を持ってると思う」

「うむ、同性の私でも彼女の乳房は見たことがないが、母性はその通りだと思うな。美術研究室では、デッサンの対象もかねて小鳥を飼っているが、彼女はしょっちゅう小鳥の世話をしているよ」

「いい話を聞ませてもらいました。また彼女についていろいろと聞かせてください」

「お安い御用だ。もっとも彼女は、小鳥のことをマライヒと呼んどるがな」

「・・・・・・」


世界は小さきものにあふれている。

灼熱の大地でせっせと死骸を運ぶ蟻。キャベツの葉の裏側でそっと息をひそめるモンシロチョウの卵。雨上がりの水たまりで、目にも留まらぬ速さで移動するアメンボ。遥かかなたの銀河からすれば、地球もまた小さきものだ。彼女は小さきものを愛しているのだ。


21


「ほら、またここ漢字間違えてる。なんで開議なのよ。まあ議論の場を開くといいたいのでしょうけど?」

いつもの図書館でみかんの声が響いた。

「ひえ、ごめんごめん。漢字嫌いなのだ」

「好き、嫌いの問題じゃないでしょう。みかんさんがチェックしなかったら単位ないわよ。」

「感謝してます。でも漢字って中国の文字でじょう。日本にはひらがなという世界に誇る文化が、あが」

「ええい、りくつをいうなあ」

みかんは思いっ切り両方のほっぺたをひっぱった。

「むぎゅむぎゅ、ごめんなひゃい」

「よろしい。素直でないとダメですよ」

みかんはそういうと、クスクスと笑った。

「続きは明日見てあげるから、軽く見直しときなさい。今日はみかんはちょいと用事です」

「そっか。じゃあ今日はこれで。ありがとう」

思えば図書館の後みかんと食事をしないのは久しぶりだった。


「そうか、それで今日はここに飯を食いに来たのか。まあ、はいれ。今日は肉じゃがだ」

前田女史は、聖母のような微笑みで快く迎えてくれた。

「心なしか、元気がないな。まあ、当たり前か」

「用事ぐらい誰でもあるとは思うのだけど、やはり気になりますね」

「まあ、そうしょげなさんな。ほらできたぞ。後で感想をレポートしろよ」

「あの、先輩?」

「ん?」

「先輩は、もし好きな人がいたとして、用事より一緒に食事したりする方を選びますよね」

「まあ、用事にもよるが、女心としてはそうだろうな」

「そうですよね。まあ、いただきます」

おいしいはずの肉じゃがが、ぜんぜん食べた気がしなかった。

「君は、理系にくわしいようだから、聞いてもいいか」

「え?ああ、どうぞ」

「こないだ説明した、ダリの、記憶の固執についてだが、時間とは相対的なものなのか?」

「アインシュタイン以前は時間とは絶対的なものだったんだ。絶対的とはすべてのものに共通に変化するという意味。そう、時間は皆に共通に流れるものと思われていた。だけど実は、一人一人の状況に応じて伸びたり縮んだりするものだったんだ」

「ふむ、分かるぞ。で、ダリは伸びたり縮んだり歪んだりする時計を描いたわけだ」

「歴史的な背景がわかると絵の理解も深まりますよね」

「その通りだ。またいろいろ教えてくれ」


想いもまた、相対的なものなのだろう。想いは精神的にはとてつもない巨大な引力だ。巨大な引力は、周りの空間を歪ませ時間の流れを変える。みかんは僕にとって銀河の中心に位置する巨大なブラックホールだ。その引力に囚われながら、僕はみかんと過ごす未来の時間を夢見ている。君の心はいまどの時空に漂っている? みかん・・・。


22


みかんが図書館に来るのは、3日に1回くらいになっていた。僕はあえて気にしないようにして毎日図書館で過ごしていた。

「健康に悪いぜ、部活動でもしな。」とは野月先輩の言葉。その通りだとは思いながらもこうするのが日課にようになっていた。

「あれ、いつもいるんだね」

「やあ、みかん、結構ひま人なので。このころくる機会が減ったね」

「うん。みかんは少し忙しくなっているのだ。今日は食事大丈夫だよ」

「それはうれしいな、じゃあ夕方になったらエルグレコにでもいこう」

「うん。じゃあそれまで、統計教えてくれる」

「お安い御用です」

ぼくは笑うと、前回の続きについて語りだした。

「いつも、仲がいいね」

「あ、篠塚のおねえさま」

みかんがすかさず反応した。

「久々に美術書を借りに来たら2人が居たのでな、ちょうとオジャマムシしてみた。なんだ、勉強会か?」

「うん、ちょいと統計解析について教えてた。ところで篠塚はもうじき誕生日だよね」

「おう、よく覚えてるな」

「誰かからプレゼントもらう予定ある?」

「ん、女の子からならたくさんあるぞ、こうみえても同性からはもてるからな。男からは予定ないから、くれるなら貰うぞ」

「何がほしい?」

「美少年」

「・・・」

「それはそうと、こないだインドに行ってきたのだが、すごいぞ。まず、夕陽の大きさと色が半端じゃない。それから沐浴している人々の放っているオーラが凄まじい。とにかく生命とは何かということを、立ち返って考えたかったらここに行くべきだ」

「生きる意味を見失ったらここですか」

「そうだ。ただ生きるために、全力で生きる。生きる意味は、生きることだと分かる」

「インドといえば、釈迦の生誕の地だが、仏教が結構面白いのだぞ」

石塚が興味深げに話し出した。

「仏教の考えではこの世に生まれること自体が苦役なのだ。正しい行いをして修業を積めば、輪廻転生の輪を脱して、二度と生まれ変わらなくて済むようになる」

「それって消滅すること?」

みかんが興味深げに尋ねた。

「いや、これは西洋人には絶対に理解できないが東洋人なら理解できる。無とは消滅することではない。釈迦は長い修業の末に、宇宙に漂う不変のエネルギー体のようなものを見たんだ。精神性を有した永遠のエネルギー体のようなものになり、永遠に愛別離苦に苛まれることなく存在する」

「もっとも、修業の末に輪廻の輪から脱したのはいまだ釈迦ただ一人なんだな」

僕が口を挟んだ。

「そこが問題なんだ。まさに」

「みかんは、永遠に存在するというのは嫌だな。むしろ、すべての人の記憶から消えることができるなら、永遠に消滅したいと思うことがあるの」

どくっ、と心臓が大きな音を立てて脈を打った。確信は当たっていた。多分、これなのだ。みかんが僕をとらえて離さない原因は。笑うだけで周りを幸せな気分にする容姿に恵まれながら、みかんのコアからは、悲劇性が醸し出されてくる。そしてそれが僕にある確信を抱かせる。みかんは他の誰かと付き合っても、必ず僕を必要とすると。

「私が消えてしまわないのも、悲しんでくれる人がいるからかもな」

篠塚は意味深に話した。

「人として地球に生まれた哀しみはわかるけど、ほんと生物としては奇形だよね、僕はむしろ、生を肯定したいな。人と人は分かり合え、思いを繋いでいけるものだと」

「話は、少し俗っぽくなるが、この国は年間3万人が自殺し、20万人が孤独死しているだろ」と篠塚。

「うん、8年にわたるイランイラク戦争の死者が、3千人だから、1年に10回戦争をしているようなものだよ」と僕。

「一生懸命生きてきた人が、そんな人生の最期を迎えていいわけがないと私は思う。日本はミスを指摘しあい非難しあう文化なんだ。それが社会の根底に流れている。インドはミスを共有しあい、許しあう文化。ミスを過度に恐れず、チェックしないことで時間のゆとりを造り出し、家族との時間という最も大切なものを社会全体で守ろうとしている」

篠塚は真面目な時は本当に目が真剣になる。さらに彼女は話を続けた。

「時間に遅れるような人は友達を失うと日本では教わるが、1、2時間程度の遅れも許容出来ないような心の狭さでは、友達を失うとインドでは習う」

「ルーズさは非難しあうものではなく、許容しあうものという発想ね」とみかん。

「それが人が人に優しい世の中を産む。イタリアの人とかは、有給休暇を30日とるし勤務中寝ている人もいるくらいのルーズさがあったりするが、お年寄りの面倒を若者がものすごくよく見るから、20万人の孤独死なんて到底あり得ない社会を作り上げている」と篠塚。

「きちんとしたことというと、それ自体は聞こえがいいが、それで忙しさを創出しお年寄りどころか自分の家族の面倒すらみようとしなかったりするいろいろ議論の余地があるとは思うけど、きちんとしないと気が済まないとうときの、気が済まない、というのは、性癖に過ぎないという自覚は必要だと思うよ。じゃないと人が人に優しい世の中はつくっていけないよね」と僕。

「おっと、マライヒに食事を与える時間だ。ほんじゃ研究室に行くとするか」

石塚はそういうと、図書室を出ていった。

みかんと僕は久しぶりにエルグレコに行った。

店内は珍しくビートルズが流れていた。

「人は人を傷つけるの。みかんが生きていく1秒1秒ごとに、私は人を傷つけていくの」

「それが、さっき言っていた、完全に消えてしまいたい理由だよね」

僕は必死になって言葉を探しつつ、つないでいった。

「それはとてもよくわかるんだ。人間に限らずこの世の生物というのは、絶望的なまでに、何かを傷つけることなしには生きられない。一歩歩いただけでも、間違えなく、土の中の微生物を殺傷しているに違いない。生きるということが外界と関りを持つということ。かかわるということは、多かれ少なかれ心を通わすということ、心が通えば必ず精神的な軋轢が生じるということ」

「存在そのものが人を苦しめるってあるでしょう」

「例えば、望まれずに生まれてきた子供とか。典型的な例だけど、でも分かるよ、みかんの言いたいのはそういうことじゃなくて、薔薇はそのとげで触れるものを傷つけながら、自らも傷ついているということだろう」

僕は続ける。

「でも人は、自分が思うほどには、傷ついていないものだよ。これ意外なほど本当。少しシンプルに物事を考えて、人のもつ柔軟な精神みたいなものを信じてみるのもいいかもよ」

ビートルズの歌は、今の音楽に慣れた耳には信じられないほど音の数が少ない。それがかえって複雑な揺らぎを心に与える。ビートルズはシンプルに歌う。


Ⅰ love you. Ⅰ love you. Ⅰ love you.


僕もみかんにシンプルに微笑みかける。

(愛してる。)(人を信じよう。)

微笑みかける。

(愛してる。)(人を信じよう。)

微笑みかける。

(愛してる。)(人を信じよう。)

(愛してる。) (愛してる。) (愛してる。)

(愛してる。) (愛してる。) (愛してる。)

(愛してる。) (愛してる。) (愛してる。)

僕がここにいる。

君は必ず、世界のすべてを肯定して、心の底から笑えるようになる。

みかん・・・。


店の外は蒼い闇に包まれていた。大学の前のイチョウ並木が満月に照らされて、銀色の影を伸ばしていた。

「考えてみたら、こうして食事の後に送らせてもらうのはこれが初めてだね」

「うん」

「不思議なんだけど、君が生まれたときからずっとこうして君を送っていたような気がしている」

「私も、初めてっていわれて、一瞬不思議な気がした」

月の光も、元をたどれば太陽の光なのに、昼のものとはがらりと様相を変え心をやわらかくする。銀色の月の光に中に、みかんの姿が溶け込んでいく。君が好きだ。シンプルにいえば、そういうことになるのだろう。君が好き。君が好き。君が好き。


「私の下宿、そこの路地を入ったところ」

「うん、じゃあ、ここで」

みかんは、やわらかな笑顔をむけて、透明な声でいたずらっぽくつぶやいた。

「ありがとう。お兄ちゃん」


23


関係を築くということ。

関数とは、一方の値を決めたら他方のあたいが只一つだけ決まり、ある関係を保ったまま伴なって変わると中学校の授業で教わったとき、僕は何だか、xとyが秘密の関係をもっているようで、ドキドキしたのを覚えている。

伴なって変わると。関数関係で結ばれたものは、他方が変化することによって相手を変えてゆくことができる。なんて素敵なんだと思ったとき、僕は数学が大好きになっていた。

「お兄ちゃん」

みかんの言葉が頭に響く。他人が聞けば「気持ち悪い。」というだろう。「どういう神経をしているの」とも。人は必要以上に他者と関係を作らない。恋人や夫婦という関係はあくまでも他人であることが前提となっている。それは他人とかかわる限界線でもある。ありえない関係性や深いかかわりは、最後に必ず心に癒しがたい傷を残すことがわかっている。彼氏、彼女、元カレ、元カノ等の軽い言葉の流行は一見軽薄な言葉に見えて実は深い思いやりに満ちた大人の悟りからきていると言える。

「お兄ちゃん」

僕がその関係を喜ぶのは半分狂いかけているからだろうか。

僕はみかんのただ一人だけの特別な人になりたい。兄という関係は、望んでもあり得ないただ一人の関係だが、僕はみかんを抱きたい。何よりも、みかんの心がほしいけど、心だけでなく体中の細胞の一つ一つにいたるまですべてを愛撫したい。だから僕の中にあるみかんへの思いは兄弟のそれではない。だけど、僕がみかんの兄として生まれていたら、毎日みかんの手を引いて毎日みかんの世話を焼いて、毎日みかんと大地をかけまわって、みかんとともに世界にむかって語り掛けただろう。そう、僕はみかんとともに生まれてきたこの世界を愛しただろう。僕は関数のxのように君に向かって呼びかける。君はy。僕の呼びかけに伴って幾重にも変化を見せる。

「う~す」

野月先輩は神出鬼だ。24時間お構いなしに僕の下宿に現れては、勝手冷蔵庫の中を開け適当に料理して飯を食ってゆく。炊飯器につくったそうめんをすすりながら野月先輩は愉快そうにつぶやいた。

「みかんとはどうだ。ちょっとは進展したか?」

「ほっといてください。もう覚悟は決めましたから」

「そうか、その覚悟を砕くようで済まないのだが、どうも世の中には信じられない物好きがいて、お前のことを好きかなって子がいるようなのだが・・・」

「よしてくださいよ。変なことを言うのは。知っているでしょう?」

「まあな、その子も君のみかん狂いは知っているのだけど、まあ有名だからな」

「言葉は選んでくださいよ」

「ははは、でもこう考えてみてくれ。君がみかんを思い願うように、その子は君を想っているとしたら受け入れてやれんか。お前にとってのみかんが、その子にとっての君だ

「そもそもそんな子いるのですか。勝手につくって僕を試そうとしているでしょう」

「まあ、そう思われても仕方がないがな。俺は言うだけは言ったぞ」

「すみません。そういうことです」

「ふむ。それはそうと、ひとついいことを聞かせてやろうか。みかんが好きらしい人物についてだが」

「え?」

「ききたい?」

「交換条件なしなら」

「思ったより動揺していないな」

「ある程度、分かってはいまいたから、もうそれで揺れる時期は過ぎました、こっちも覚悟ができているというか」

「ふむ、それがな、すこしやばいかもよ」

「はい?」

「どうも、おれのよく知っているやつらしいのだが、名うてのプレイボーイなんだ。みかん、遊ばれるぜ。多分」

「・・・・・・」

「僕も知っている人ですか?」

「まあ、同じ大学の先輩だからな。学部は違うが、確か医学部かな、何回かコンパなどでは顔を合わせているから知ってはいるよ」

「どの程度確かな情報ですか?」

「まだ、確定とはいえないんだ。まあ今日のところはこの辺にしておく。そのうち詳しいことが分かればおしえてやるよ。冷蔵庫さえ満杯にしておいてくれたらな」

「わかりました」

「先輩」

「ん?」

「先輩はどなたかと付き合ったりはしないのですか?」

「まあ、お前とちがってもてるけど、特に男から、まあそっちの趣味はないが俺は不特定多数なの」

「怒るかもしれませんが、先輩はご自身がつくられているイメージとは180度ちがって、ものすごくよい人だって知っていますよ」

「ま、思想の自由は憲法で保障されているけどな」

先輩はそういうと煙草に火を付けた。



君が好き

空よりも星よりも風よりも

自分自身よりも

誰よりも

君が好き



野月先輩の言葉が脳裏につきささっていた。

それはある意味真実で、ある意味死刑宣告にちかいものだ。

「お前がみかんを思うように、お前のことを思って待っている人がいるとしたら」

本当かうそかはともかく、そう考えると、みかんが僕に振り向いてくれる日は来ないことがわかる。僕はみかんがいるかぎり、その子に振り向くことは考えられないのだから。みかんも同じことなのだ。僕は全力で頭を横に振り続けた。いまは頭を真っ白にして余計な理屈は考えないでおこう。今は、みかんのことだけを考えていよう。



24



「もう、どうしてこんな細いものがボールに当たるのよ」

みかんはあきれたようにつぶやいた。

「みかんは、貴重な戦力なんだから気合を入れてもらわないとあかん」

緑色のジャージをはいた堀口先輩が言った。

研究室対抗のシフトボール大会まであと1か月となっていた。

「とりあえず、打つほうは期待しない。まずはキャッチボールだ。」

僕はみかんの頭をグローブごとつかむと、グランドの脇へ連れていった。

ボールを投げる。

「パン」と小気味よく音を立てて、キャッチする。

みかんが投げる。

僕がキャッチする。

僕が投げる。

みかんがキャッチする。

「運動苦手と言っていたけど、結構運動神経いいじゃん」

「そんなことないですよ」

みかんは、体と呼吸を弾ませながら、返事をする。

「結構いい球投げれてるよ」

「じゃ、守備では貢献できるように頑張ります」

ここのところ、少し元気がなかったので、いい気分転換になるのかなと思う。君が体と心を弾ませて楽しそうに笑う姿は僕を幸せにする。この世界が、シャボン玉の中にすっぽりと入ってしまうといい。そしてそのまま異次元の世界に飛んでいくのだ。誰も触れることのできない2人きりの世界へ。

「みかんはピッチャーがいいかな」

堀口総監督がつぶやく。

「たしかに、守備はそこそこできるし、そもそも姿見てたら相手も打つ気なくすかも」

「ひどーい」

「よし、決定だな。それにしても、みかんは野球帽が良く似合うな。まるで中学生みたいだ」

“ぷうっ”とみかんは、ふくれてみせた。


25


「見飽きた。夢はどんな風にでもある。ランボオのセリフだ」

最近はみかんが図書館に来るのがぼちぼちになっているので、前田女子のところに転がり込む機会が増えていた。

「ランボオは詩人として名を馳せたあと、文学を捨てて商人として旅をしたのですね」

羽田がすかさず返す。

「明日は篠塚女史の誕生日だが、準備は万端かね」

「万端です。特攻してきます」

「羽田の成功を祈って、今日は前祝だ。特別にワインをだそう。今日はパスタだ」

「詩人を捨て、商人の道を選ぶということは、空想を捨て現実の体験をとったということかなあ」

僕がつぶやく。

「心を動かすものは、言葉の中にではなく、体験することの中にあったということか。まあ美術の世界も、精神世界を描くものと実風景を描くものに大別されるが私的には前者が好きだな」

前田女史はいつも歯切れがいい。

僕たちは、思いをはせる生き物だ。子供が生まれたら、親は五体満足を確認して、すぐにその子の将来に思いをはせ、夢を描く。離乳、はいはい、たっち、はじめての言葉、パパとママ、名前を呼ばれて返事をする。事あるごとに、変化を楽しみその都度遠い将来に思いを馳せる。僕たちは思いを体中で受け止め、思いとともに育ってゆく。そして異性に出会い、その人と過ごす将来に思いを馳せる。思いは世界中に満ちている。明日は今日より新しいから明日。明日は想像もできぬ事が起こるから明日。ランボウはあたり前にように、分かってしまう明日を嫌ったのだ。

「こんばんは。皆揃っとるなあ」

堀口先輩と野月先輩が入ってきた。

「ん、今日はワインが出とるのか。これはうれしいなあ」

「まあ、飲んでくれ」

前田女史は相変わらず気前がいい。

「で、何の話題だ」

「ランボウです」

「知り飽きた。差し押さえをくらった命か」

「俺も旅に出たいなあ」

「野月は、いろんな女と知り合いたいのだろう」

すかさず堀口先輩が突っ込む。

「ま、そうですけど。女性との出会いにはいつも新鮮な感動がありますから。泉のように零れ落ちる言葉、万華鏡のように移り変わる表情、しなやかで柔らかな表情、どれをとっても尊敬の念を抱かざるを得ないですね」

「まあ、博愛主義の野月君らしいわね。野月君だけでなく皆女性にとても思い入れをして讃えてくれているけど、現実はけっこうどろどろしたりしているわよ」

「いいんです。男は勝手に女性に思い入れをして讃えていくという、まあそういういきものなんです。なあ、羽田君」

「まあその通りですけど、僕の場合は女性なら誰でもいいというわけではないですけど。」

「悪かったな、見境なしで」

クスクスと前田女史は笑った。

「やあ、こんばんは」

見知らぬ声が飛び込んできた。

つづいて忘れるはずもない声。

「てへっ、来ちゃった」

聞きなれたみかんの声。心音が2オクターブ高まった。

「おう、中村とみかん」

野月先輩が応対した。

「相変わらず女づれかい?」

「野月に言われたくないなあ。まあそういうことですけど。ここのところ顔出してなかったのでちょいと挨拶しとこうかなと」

「ほんじゃちょいと私ら用事あるので今日はこれで。いくよ」

彼はみかんにそういうと2人は去っていった、

僕は泣きそうな気持を抑えるのに必死だった。

「まずいなあ」と前田女史。

「うん、まずい」と堀口先輩。

「教えといてやるな。うちの研究室は伝統的に医学部とつながりが深いのだが、まあ、臨床の関係もあってな、あいつは医学部医学科の3回生で、まあ、ルックスもそこそこだから相当もてるのだがとにかく女癖が悪いので有名だ」

そういいながら野月先輩は私の顔の前で手を上下に振った。

「大丈夫か、瞳孔開いているぜ」

「いえ、ある程度、思い当たるふしはありましたから」

どこからどう声を絞り出したのかわからない感じで続けた。

「もう、ゆらぎません。僕は見守ると決めていますから」

「そのまま4年間おわるぜ。」

「一生がそれで終って構いません」


これは、真心とときめきとの戦いなのだと思う。勝ち目がないのは分かっている。

僕に真心を向けてくれる人がいたとして、僕はみかん以外のその人の手を取ることがないのだから。そう考えると自分の考えが甘ったれていて虫のいいのはわかる。もしかすると彼はうわさほどではなく、みかんを愛しているのかもしれない。その時はひそかに朽ち果てていけばいいのだ。お前の役目はないと。だけどもしそうでなければ、彼女は僕を必要とするだろう、僕は彼女を理解できるのだから。これは心とルックスとの戦いだ。僕は待つ人になるのだ。みかん…。



鳥が飛んでいく

生きているというのはこういうことをいうのだと

大空に羽根を広げて

鳥が飛べるのは

空があるからだろうか

それとも地面を見れば

大きなとまり木が枝を広げているからだろうか

みかん

みかん

私はそこにいるものです


26


「振られた」

はいってくるなり羽田はぶっきらぼうにそういった。

「誕生日のプレゼント渡したら、彼女びっくりしてたけど。ごめん。友達としか意識できないって、小さな声で言われたよ」

「そうか、で、どうする」

「男らしくきっぱりとあきらめる」

「そうか、お前えらいなあ」

「いや、お前のように徹底的に待つというのもある意味偉いと思うぜ」

「まあ、飲もうか」

羽田は、冷蔵庫からビールを出し僕に放り投げた。

「だいたい、女っていうのは何なのだ。男がこれだけ思いを寄せるというのに、あっさりと振りやがって」

「女は命がけで子供を産むんだ。そして自分の身を削るようにしながら育てる。そんなことは愛する人の子供でないとできるわけがない。だから人間のみならず、昆虫も鳥もすべてが、必死でオスがメスに訴えかけるように世の中できている。女は選び受け入れる存在なんだ」

「そう考えると女はすごいよなあ。子供だいて転落して、自分が死んで確実に子供を助けるだろう。そんなことは男にはできない」

「永遠に女性なるもの、我らを天上に引き寄するものなりか」

「でも、切ないよなあ」

「ああ、切ない」

「なあ、顔って何だと思う」

羽田がしみじみといった。

「そうだなあ。思いやりとか、誠実さとか、必死さとか、そういたものがいとも簡単に否定されてしまう」

「虚しいよなあ」

「うん。でも僕らも顔をみて相手を好きになるよね。きれいな人、美しい人、可愛い人」

「確かに。じゃあ、顔って何なんだ」

「理科的にいうなら、ある種の電気信号を発生させ、脳の神経、おそらくはA10神経あたりを刺激し、ある種の快楽物質を分泌させるもの」

「生物的にいうなら、昆虫にとっての、美しい羽の音色」

「で、僕たちはそれに勝てないか。どうしようもないものか」

「僕は、自分にどんな真心が向けられても、みかんの笑顔を求める。だから、どうしようもないものだと思う。愛は偉大なんだ。何十年という年月をかけて、顔によらない心の交流を育んでいく。だから、愛することは意思なのだ。だけど、僕らは若すぎる。僕らはまだ恋する年代なんだ」

「お前は待つのだろう。」

「うん、自分の心はどうしようもないからな。一つだけ確信があるんだ。みかんは他人にはそうそう理解できない。みかんは僕を必要とする。もし、みかんが愛し愛されてどんどん素敵な人になっていく。そうなったら、僕はみかんの前から消える。いや、この世から消え去る。そう覚悟してただひたすら待つ」

「そうか、応援するよ。しかし、顔って何なんだ」


27


「なんか今日の授業ふらふらしていたけど、大丈夫だった」

いつものように図書館にいた僕に、みかんの声が降り注いできた。

「地球は回っていると最初に言ったのが、コペルニクスではなくて、酔っ払いだってことがよく分かった」

「ははは、ところでその状態で、統計学の講義できるの?」

「他ならぬ、みかん様のためなら。でもいいの?ふつう彼氏は怒るよ?」

「いいの、あなたはお兄ちゃんみたいなものだって言ってあるから」

「そうか、まあそれなら始めようか。今日は回帰分析だ」

「はい」

みかんは明るい声でうなずいた。

「で、結局これらのたくさんの要素がどれだけの重要度を持っているかが、この係数に表れてくるわけね。ふーん」

みかんは数字は苦手だが、本質的な部分の呑み込みがよい。肝心なものとどうでもいいものをかぎ分ける、ある種の嗅覚のようなものを感じさせる。

「うん。けっこういいセンスをしてるね。では、この例題にある、アルコール依存症の原因因子を総括すると。」

「はい。第一因子が孤独感、第二因子が貧困、第三因子が喪失感、この3つで75%がせつめいできます。」

「よろしい。よくできました。今日はここまでにしようか。で、」

「今日は趣向を変えて、アカシヤにしない?」

彼女は少し低いトーンでそうつぶやいた。

「ごはん、いいの?」

「うん。」

アカシヤは国道沿いにあるちょっと変わった中華屋で、おかずだけを注文して、ご飯はどんぶりにセルフサービスで食べ放題という学生街ならではの店だった。

「今だから言うけど、羽田、振られたって」

「え、あんなにイケメンなのに?」

「蓼食う虫もってとこか」

「うーん。相手が悪いか。おねえさまは男らしい人はダメのようね」

「男からするとあんなにいい奴はめったにいないけどなあ」

「うん。みかんもそう思う。でも、交際するとなると生理的な接触が避けられないでしょう。おねえさまは多分髭が濃いとか、筋肉隆々とかに恐怖心にも似た拒絶感を持っていると思う」

「少し話飛ぶけど、意思の力でゴキブリを好きになれないかなあ。昔はともかく、今はごきちゃんは何の害ももたらさない。カブト虫と同じ昆虫だと思って、意思の力でもって好きになってみる」

「びえー。びえ、びえ、みかんにはとうてい無理。なんちゅう例えを持ち出すのだ」

みかんは左右の手のひらを広げて上下にバタバタと振った。

「じゃあ、みかんが道を歩いてたら、上から柱か何かが落ちてきて、それを巨大化したゴキブリさんが飛んできて、身を挺してみかんをまもってくれたとしよう。感謝できる?」

「ひええ、無理無理無理無理。もう、からかって遊んでいるでしょう」

「ははは、ごめん、ごめん」

「でも、少し元気出た?」

「え?」

「いや、少し笑顔が陰っている気がしたから。明るい中華屋にしたのって、そういうことかなあと」

「わかる?」

「何となくね。そういうときはボウリングなんぞもいいかもよ。ひたすらピンをしばきたおす」

「ははは、じゃあ今度連れてって」

「うん。じゃあ、いつにする」

「今週の土曜日なら空いてるよ」

「じゃあ、土曜日の朝10時に図書館に集合だ」


ボウリングというゲームは本当に可愛い子のためにあるとつくづく思う。全身を弾ませるようにして、みかんが投げる。うまくピンが倒れると、ホウセンカがはじけるように飛び跳ねて喜ぶ。ぎりぎりをかすめそうな時の祈るようにピンを見つめる表情。横をかすめて、地団太を踏んで悔しがるしぐさ・・・。

みかんが笑う、みかんが弾む、みかんが跳ねる、みかんが祈る、みかんが悔しがる・・・そのすべてが、オーロラのような彩を見せる。嬉しそうに笑うだけで周りを幸せにする人は確かに存在する。後ろから見守るようにみかんを見つめて、僕は刹那幸せに浸る。むろんそれは偽りの幸せ。はたから見ると僕らはとても仲の良いカップルに見えるだろう。どう見ても不釣合いだが。

愛してる。肩越しに、僕はみかんに言葉を投げかける。ありったけの思いを込めて、愛してる、愛してる、愛してる。

「また、スペア取り損ねちゃった」

みかんは地団太を踏んで悔しがる。僕はポンとみかんの頭に手をやるとレーンに向かう。ボウリングは上の空だが、美しいフォームだけを意識してボールを投げる。ボールは僕の思いとともにレーンに吸い込まれていく。

軽食喫茶「窓」は、ボウリング場のある、白山駅の南の大通りにある、白い壁の2階建てのこぎれいな店で、そこのおばあさんが創る”でかプリン”というスイーツが有名であった。僕とみかんはそこで軽食を取りながら、話し込んでいた。

「最期、見事に100超えたね」

「えへっ、いつも運動音痴のみかんにしては上出来でした」

みかんはぺろりと舌をだした。

「でも、不思議とあなたといると、色々なことが上手にできるようになるね。ソフトボールもそうだし、すうがくも、ボウリングも」

「愛が込められているからね」

「・・・・・・」

みかんは少し戸惑った表情を見せた。

僕は軽くフォローを入れた。

「お兄ちゃんとしてのね」

僕とみかんは目を見合わせて笑った。

「でも、けっこう素質あると思うよ。自分では運動にえらくコンプレックスを抱いているみたいだけど」

「うん、今までかけっこでも何でもびりだったから」

「多分、運動神経はいいのだと思うよ。だけど筋力や体力的なものがついていかなかったんだよ。それで、運動苦手と思いこんじゃったから、損をしてきた感じかな。」

「本当、褒めるの上手ね。そうやってみかんのコンプレックスを取ってくれるのね」

「いや、お世辞でもないよ。本当にそう思うからね。だから、自信を持って体を動かすといいよ」

「うん。今日は気持ちよかった」

僕はゆっくりとプリンをのどに通すとみかんの目を覗き込んだ。

「元気丸かじり体操って知ってる?」

元気の出ないときは、元気丸かじりって歌いながらこう手でわっかをつくって踊るんだ」

「あはは、おもしろい。こんどやってみよう」

みかんは笑いすぎて、涙目になっていた。



僕は君に翼をあげる。

僕は地上で枝を広げる止まり木になるから

君はどこまでも自由に飛んでいくといい。

僕はいつでも君を見てる。

かすかな気象の変化で花が季節を知るように

僕は君の変化を知る。

僕は君に翼をあげる。

いつでも君を見守っている。



28



「で、お前たべたの?」

羽田があきれた顔をして言った。

「だって、ボウリング楽しかったからって、みかんがくれた手創りのけーきだぜ。食べないわけいかないじゃん」

「お前、この世で納豆の次に、干しブドウ嫌いだろう。それがびっしりと入ったパンを全部食べた。死ぬぞ。自分の好き嫌いくらい、みかんに言っておけ」

「だって、まさかもらえるとは思ってもみなかったんだもん」

「まあ、俺でも食うかもな」

羽田はそういうと冷蔵庫からビールを取り出した。

「奢りだ。まあ、飲もうぜ」

「おう、ありがとう」

羽田はおもむろにラジカセのスイッチをひねった。

「ビートルズか。いいな」

「最近は、やたら音の数だけ多いものが主流だから、こういうシンプルなものを聞くとほっとするよな」

僕はビールをのどに通すとおもむろに尋ねた。

「他に好きな子はできたか?」

「いや、まだそういう気になれない」

「そうか。そうだよなあ」

「よく、男は好きだった人のことが忘れられず、女は、新しい彼氏ができると、過去のことは完全に忘れ去ると言われるよな。この場合どっちが誠実なのかな?」

「難しいよな。過去の気持ちを引きずったままというのは不誠実な気もするし、本気で好きだった気持ちを、新しい人ができたからと捨て去るのも都合いいようなきもするしなあ」

「どっちがどっちというわけではなく、そういう生き物ということかな」

「うん、確かに、女がいつまでも1人の人を思っていたら、人類は絶滅するわなあ。俺はもうしばらくはダメだな。あきらめたつもりでもやはり恋しい」

「そうか。まあ、あと半年もすると新入生が入ってくるから、ある意味ちょうどいいかもな」

「さて、研究室の夏合宿どうする」

「小豆島あたりでどうかなあ」

「場所としては手頃だな。で、何をやる」

「そうだなあ。いまある研究会としては、フロイト研、統計調査研、動物行動学研か。この3つの研究発表会を軸に、あとはリクリエーションだな」

「メンバーは?」

「僕ら1回生は全員来るだろう。堀口先輩、野月先輩、それと希望される先輩方かな。」

「オーケー。じゃあそれを軸にみんなに伝えるか」

ラジカセからは、ミッシェルが流れていた。

ミッシェル・マ・ベール、口の端から出ずる愛しい人の名前は記号となって、脳裏に甘い痺れをもたらす。

I love you I love you

I love you ・・・ポールの声が切なく響く。


「これ、いい曲だよなあ。好きになったらまず彼女の名前を繰り返し呼ぶ。名前は心地よい響きとして脳裏に刻み込まれる。伝えたい気持ちは、I love you ただこれだけ」

羽田は冷蔵庫からビールを2本取り出すと、1本を僕にさしだして言った。

「そうだな。結局のところは、愛してる、これしか言いようがないもんな。プラトンがいう元は一つだった別れた半身というのも分かる気がするな。今だに恋しい」

「そう簡単には消えないよな。だって本気ですきになったんだから」

「エリッククラプトンの歌うブルースにあったよな。君に出会って初めて僕は、さみしさの意味を知ったという歌詞」

「人間は不完全なんだな。その不完全性が愛を希求するエネルギーとなっている」

「普通、愛って子孫を残すためのメカニズムだろう。ゾウリムシのように分裂すれば簡単に子孫を残せるものを、わざわざ雄と雌に分かれたのは、少しずつ違った個体をつくり環境の変化に対応するという」

「ご名答。羽田結構理系じゃん」

「なのに人間はなぜ、人を愛するのにこうもさみしさを必要とするんだ?」

「ゾウリムシは、さみしくないのかな」

「う~ん。それは何とも」

「でも、少なくとも哺乳類や鳥類などの子育てをする生き物には備わっているよな。子がいなくなると狂ったようにあたりを探し回ったりするだろう」

「では、有性生殖の動物には、求愛がありそれゆえさみしさがある。無性生殖の動物にはない。そこで線を引くか?」

「もう1本飲むか」

羽田は冷蔵庫からビールを取り出すと、ぼくのほうにおもむろに放り投げた。

「人間はさみしさゆえにひとを愛する」

「でも、じゃあ何故好みの人でなければならないんだ。さみしさ故なら、ペアをつくる相手は誰でもいいという理屈になるだろう?」

「うん。俺らの親父の世代は、終戦後でほとんどの人は恋愛ではなくて、いいなづけや見合いで結婚しているんだ。それから年月をかけてお互いを好きになっていく。子を5人も6人も産んで、貧しいながらもにぎやかな家庭をつくっていった。本当はそれは可能なんだろうな」

「むしろ、何人でも子を産めてそだてられそうな太り気味の優しい女性が、美人じゃないということで婚期を逃がしたりしているだろう。おかしいよな」

「うん。それがわかってなお、彼女でなくてはならない。どうしても。なぜだろうな」

僕の脳裏にみかんの顔が浮かぶ。その時のみかんは不思議なことに楽しそうに背中のところで手を組んで楽しげに笑っている。僕はみかんの寂し気な表情しかほとんど見たことがないのに。

「さて、ともあれ合宿の青写真は出来たな。まあ今日はこのくらいにしようや」

羽田の声で僕は我に返った。


29


小豆島は瀬戸内海に浮かぶ小さな小島で、オリーブの木が茂っていることから、日本のエーゲ海とよばれている。その美しい海のたてる白波をみかんは見ていた。背後からそっと近づくと僕はみかんにそっと声をかけた。

「やあ」

「はい」

みかんは驚くことなくさらりと言葉を返した。

みかんは知っているのだ。四六時中僕の目がみかんを追っていることを。いつ、どこにいても僕がみかんを見守っていることを。そしてそれを当たり前のこととして、みかんは受け入れているのだ。

「もうすぐ着くね」

「うん」

「合宿中よろしくね」

みかんは突然僕のほほを思いっきり引っ張ると、「きゃはは」と笑いながら、走り出した。

「やったな」

僕はみかんを追いかける。走るみかんの長い髪が風になびき僕の顔に触れる。甘い香水の香りがほのかに香る。

僕がみかんに追いつき後ろから羽交い絞めにすると、くるっと向き直って、じっと僕の顔を見る。愛くるしい目でみかんはつぶやいた。

「よろしくね。お兄ちゃん」

「全員集合。もうすぐ着くぞ」

羽田の声が響いた。


30


関係性を保つということ。親子、夫婦、兄弟姉妹、友人、恋人・・・。兄と妹のような関係。人は告白を恐れる。恋人ではないにしても、持っている今の関係が断ち切れてしまうことを恐れる。つながりを失うことの恐怖。自分を映す鏡を失う恐怖。闇の鐘が頭に響き続ける恐怖、夢にみる幻の自己、隠していた本性を暴き出される恐怖。兄と妹、それは僕とみかんだけの特別な関係。たとえ、みかんが心惹かれる人の前では置き去りにされる関係であっても。24の瞳の前で記念写真をとったあと僕らは宿にはいった。

 宿はごくありふれた国民宿舎であったが周りをオリーブの樹に囲まれており、景観はそこそこのものであった。フロイト研究会の会場である会議室を羽田と共に下見したあと、僕は玄関先でオリーブの樹を見入っていた。

 「あれ?先輩、珍しくみかんさんと一緒じゃないんですね」

見ると、同級生の女の子が僕の顔を見上げていた。彼女は夏子という名前にふさわしく真夏の太陽の放つ強烈な光をすべて集めた向日葵のような子であった。まっすぐな物の考え方にそって明朗快活になされる発言は、明るい日差しに向かってひたすら伸びていく向日葵そのものであった。僕らは彼女を親しみを込めて「夏姫~なつひ~」と呼んでいた。一浪して入学した僕は一つ年上ということだろうか彼女はいつも僕のことを先輩と呼んでいた。

 「いつも2人というわけでもないよ。そんな関係でもないしね」僕は笑って答えた。

「いつもすごく仲良ししてるじゃないですか、講義室でも並んで座っていることが多いし」彼女の放つ言葉は相変わらず屈託がない。

「あれは、僕のノートの誤字脱字が面白いんで、みかんがみてくれているんだ」

「え?先輩そんなに漢字苦手なんだ。ところでよかったら少し散歩しませんか?」

僕はオリーブの樹を見つめながら、みかんの香りについて考えていたのだった。

みかんは特に香水はつけない。にもかかわらず、みかんは僕を柑橘の香りに浸す。金木犀のような甘さ主体ではなく、青いみかんを枝からもいだときに放たれる酸っぱさ主体のほのかな香り。薄さゆえにその香りは幾層にも重なって私の周囲に閉じた領域を作り、私はそれをいつも纏っているのであった。

 そのことは差し置いても、僕はみかんを見つけねばならないのだった。誰よりも早く。

断ろうかとも思ったのだが、そうするには彼女の太陽は眩しすぎた。

「うん。少しだけなら」僕はそう答えてしまっていた。

「ありがとう。じゃあいこう」彼女は頭に上に両手をのせてステップを踏むように歩き始めた。

 オリーブの並木に沿ってしばらく歩くと海が見え始めた。彼女は大きな目をこちらに向けるとにっこりと笑いながら僕に話しかけた。

「先輩、私、彼氏ができました」

「え、ああ、よかったね。どんな人」

「部活の先輩で、あ、先輩と違って本当に1年先輩なんですけど、素朴な感じの人です」

「おめでとう。じゃあいま世界はバラ色?」

「恋をすると世界が色づいて見えるって本当ですね。朝、部屋の窓から入ってくる日差しは薄い金色をしています。小鳥のなく声は、青や、赤や、緑の音符が躍っているようです。花の色もいつもより原色が濃く感じられます。これまで何気なく見てきた街の風景もとても新鮮に感じられます。たぶん太陽の日差しの色が違うのだと思います。先輩はどうですか?」

「僕のは片思いだからね。いや、やっぱりばればれ?」

「それは、わかりますよ。だけど、私はすてきだと思います。私は女の子に生まれたからには一度でいいから、みかんさんのように男の人から思われてみたいですよ」

「気持ち悪くない?」

「ぜんぜん。だって先輩の思いは、透き通っていますから」

「ありがとう。そういってもらえると元気が出るよ」

彼女は「ホップ、ステップ、ジャンプ」と言いながら3歩進むとこちらを向いた。

「あの、先輩。もしも先輩が鮮やかな色に染まった世界を見せることができる人が……」彼女は言葉を止めてそして続けた。

「いや、今のは忘れてください」

フロイト研究会の時間が迫ってきていた。僕たちは足早に宿に戻った。

光と闇。強い光が濃い闇を作る。闇の濃さが光に鮮やかさを添える。種子のときから一心に愛情を与えられて大切に育てられた向日葵は、大輪の花を惑うことなく太陽の方向に向ける。彼女からは真夏の焼けた土の香りがした。


フロイト研究会の後、夕食まで少し時間があったので、僕はみかんを散歩に誘った。

「夢占いっておもしろーい」

みかんはいつも屈託もなく言葉を風に乗せる。

「じゃあお互いの夢を分析っこしようか」

「わあ、面白そう」

「ではまずみかんちゃんの夢をきかせてください」

みかんは軽く空を見上げて

「んとね、昨日見た夢を話しますとね、みかんは大きな白いカラスにのって空を飛んでいたのでした。で、綿菓子のような雲がいろんな動物の形をしてて、うさぎさんとか、ねこさんとか、いぬさんとか、で、その上にカラスさんが連れて行ってくれてみかんはソファーに乗っかったようにぼよんぼよんとはねて遊んでるんだけど、気が付くと海に向かって落ちていくのね。で、結局イルカさんがジャンプしてみかんを助けてくれるの」

「はい、では、分析いたします」

「わ、ドキドキ」

「まず、出てくる動物を整理してみよう。まず、うさぎ。君は自分のことをかわいいと思っているね。ねこ。君は秘密をもっている。いぬと合わせると、男性の秘密。カラス。君は不安を抱えている。イルカ。信頼できる人が助けてくれる。次に行為。雲で遊ぶ。君の心は揺れている。海に落ちる。海は母性の象徴。生命のゆりかご。君は身を投げ出してでも誰かを包み込みたいと思っている。これをつなぎ合わせると、じゃーん。発表しまあす。」

「ん?」

ふと見ると彼女の目から大粒の涙が落ちていた。

「ごめん。なにかわるいこと言った?」

みかんは首を横に振った。下を向いたまま。

涙を落とし続けたまま。

僕は一瞬で悟る。

君は恋をして、わけもわからず苦しんでいる。

相手のほうはみかんをおもちゃ程度にしか思っていない。だから、みかんは僕を必要とする。本当に相手と愛し愛されていたら、僕にかまったりはしない。僕と過ごす時間はすべて相手との時間に充てられるはずだ。みかんは苦しんでいる。わけもわからず苦しんでいる。そして僕をお兄ちゃんと呼ぶ。

僕はもうずっと前から君の雨傘だよ。

雨傘は、雨の日しか必要とされないから、本当に望む笑顔は見ることがない。

それでいい。

僕はずっと君の雨傘になろう。

君は心が土砂降りの日だけ僕を手に取るといい。僕は君を守る。君のすべてを守る。


「みかん・・・」

僕は静かに声をかけた。

「元気、まるかじり。」

僕は頭の上に大きなわっかをつくって声に合わせてくるりと一回転した。

それを数回繰り返すと、みかんは「くすっ」と小さく笑って、「元気まるかじり」とさらに小さく声を発した。

「さあ帰ろうか」

「うん」

みかんは小走りに僕のそばによって僕の手を握った。

僕たちは黙って歩いた。つないだ手からすべてが流れ込んできてすべてが流れ込んでゆく。

言葉は何もいらなかった。


31



夏が過ぎても相変わらず、時々ミカンは図書館に姿をみせた。そんな彼女を当たり前のように僕は待っていた。

「ハワイって毎年3cmずつ日本に近づいてきているって知ってた?」みかんの声は相変わらず甘い香りがする。

「ふっ、ふっ、ふ。私を誰だと思っているのだね。今世紀最大のサイエンティストだよ。」

「失礼しました。今世紀最大のマッドサイエンティスト様」

僕がこぶしを上げるより早く、「きゃあ。」といってみかんはおどけながら逃げて見せた。

「では、そのマッドサイエンティスト様が計算して進ぜよう。地球の全周は赤道上として約4万km。日本とハワイの経度の差が約45度。4万㎞×45÷360で5000kmがハワイまでの距離。年に3cmずつ近づくとすると、500000000cm÷3=1億7000万年後には、歩いてハワイ旅行ができるようになるな」

「きゃ、うれしいって、みかんはそれまで生きているの?」

「うん、いちおくななせんまんじゅうきゅうさいで」

「ミカンは妖怪か?もう」

「わはは、では、アンドロメダ銀河と天の川銀河って僕たちのいる銀河だけどもお互い近づいていてもうすぐ重なるって知ってた?そうなると天の川が2つ見えるようになるんだってよ」

「え?何年後?」

「約46億年後」

「・・・・・・」


心が通うということ。

君と僕の心と心がほんの1ミリ近づいたと感じられるということ。その1ミリの喜びのために僕は何年かけても構わない。君が好きということ。好きで、好きでどうしようもないということ。指と指を触れ合わせたいということ。言葉と言葉を触れ合わせたいということ。視線と視線を触れ合わせたいということ。君の未来と僕の未来を触れ合わせたいということ。君の心と僕の心を触れ合わせたいということ。

みかん・・・。


「外の空気を吸いにいこうか」

「え?」

僕の突然の発言に少し驚いたような声で応えた。

「い、いや、空気をね、いっぱいに吸って、ほほを膨らませて、ちょっと気分を弾ませて、その・・・」

僕は両手をみかんにむけて思いっきり差し出した。

「はい。お兄ちゃん」

みかんはそういうと、右手を僕の手に重ねた。

「神様がすべての笑顔を降り注いでくれているような秋晴れだから、たまには散歩もいいよね」

お兄ちゃんに心配をかけないように健康的にアウトドアをしてみまーす」


固有振動数。ガラスのコップを叩くと初めはいろいろな音階が雑多に混ざって聞こえるが、やがてはある一つの音階のみが響き続けることになる。そう、あらゆる物体は固有の振動数を一つだけもち、同じ振動数をもつものと音を響かせあう。

人の心もたぶん固有の振動数をもって揺らぎ続けている。肩を並べて歩くということ。手をつないで歩くということ。それは心と心の振動を一つにすることなのだと思う。

みかんと歩幅を合わせてゆっくりと歩く。空気の震えをあわせるかのように、肩を並べてゆっくりと歩く。僕とみかんの心は同じ固有振動数を持っている。

これは理屈を超えた確信だった。


「みかん」

「はい?」

「体を動かしたついでに、キャッチボールをしようか?」

「え?みかんちゃんは運動音痴ですよ」

「それは、きっと自分でそう思い込んでいるだけだよ。前にも言っただろう?華奢で小さいから体力的に損をしているだけで運動神経は結構いいとお兄ちゃんは見抜いているぞ」

「運動に関してそんな風に言われたのは初めて。まあ、やってみるけど」

「よし、決まり。じゃあ、道具を取りに行こう」


心理学研究室のネズミ小屋のうらにおいてある道具箱からグローブを取り出すと、すぐそばのグランドに僕たちは入った。

「いくよ」

「はいっ」

僕はわざと大げさに腕をぐるぐると回して、ボールを投げた。

「きゃい」

みかんはおちゃめな声をあげながらも、思った通り結構上手にキャッチして見せた。

「なんだ、やっぱり上手じゃん」

「そんなことないですよ」

「えいっ」

みかんは全身をフルに使って僕の元までボールを届かせた。

「投げるほうは少し大変そうだけど、腕の振り方はとてもいいよ。あとは筋力だけだよ」

僕は再びミカンにボールを投げた。

「じゃあ、みかんちゃんは受けるの専門でキャッチャーをやってみます」

「うん」

僕は少しずつスピードを上げながら、ミカンのミットめがけてボールを投げていった。

「わお!みかん、こんな速さのボールもとれるじゃん。やっぱ運動神経いいよ」

これはお世辞でもなんでもなく、率直な感想だった。

「お兄ちゃんが、構えてるところに寸分もたがわずに投げてくれるからだよ。お兄ちゃんは上手に何でも教えてくれて、みかんのコンプレックスを解消してくれるね」

一億分の一ミリだって外すもんか。心の中で呟いてみる。

僕が投げる。

みかんが受ける。

僕が投げる。

みかんが受ける。

一球ごとに時間が戻ってゆけばいい。6歳のころまで。そう、僕はみかんと幼稚園のころから出会っているべきだったんだ。今のみかんを笑顔のかたまりにするために・・・。



今日もあいつと校庭でキャッチボール

あいつが「えいっ」って投げるボールを

私は「きゃいっ!」ってはあとで受け止めて

言ってやるの

「やーい、へなちょこ、もっと速く投げられないのって」

あいつは、「よーし」って腕を回して投げるけど

本当は知ってるんだ

あいつちゃーんと手加減して投げてるってこと・・・



僕がみかんを下宿の近くまで送っていくのは、当たり前のこととなりつつあった。

「体を動かすと、すっきりするだろう。」

僕がそういうとみかんは

「いつもみかんのことを考えてくれてありがとう。」と答えてくれた。

「あっ、ごめんなさい」といって突然ミカンは駆け出して行った。

そこには、白い車が止まっていた。

みかんの姿はその車の中へと消えていった。

「そうか」

僕はさとりをもって呟いた。

押し殺したような声に違いなかった。


32


「そうか、見たのか」

野月先輩がタバコをふかしながらつぶやいた。野月先輩は飲食店で深夜バイトをしており、シャワーを浴びに僕の下宿を訪ねるのが日課となっていた。

「はい」

「俺は別の女が乗るのを見たぜ」

「はい」

「はいって、知っているのか?」

「いえ、なんとなくそうだろうなと。だって先輩やつはプレイボーイって言っていたでしょう」

「まあ、確かにイケメンだよな。それに医学部だしね」

「先輩もイケメンでしょう?」

「まあ、そうだな」

「簡単に彼女できますか?」

「つくるだけならな。ただ、本当に好きな人に振り向いてもらええるかどうかは別問題だぜ。一般受けする顔が何故か彼女にとっては好みでなかったり、性格があっていなかったり、一筋縄では行かないから人ってのは面白いんだ。最も俺の場合はいろいろな魅力を持った子とフラットに楽しみたいから特定の子は作らないけどな」

「でも、どうしようもなくその子を独占したくなったらどうします?」

「そうならないようにしているんだけどな。もっとも恋とは自分の意思とは無関係に、堕ちる、ものだからな。そのときは分からないがな」

「で、お前は平気なのか?」

「はい?」

「好きな子が他の男に遊ばれてんだぜ」

「相思相愛でないことは、わかります。彼女の普段の表情を見ていると。そして、土砂降りの日か続く限り雨傘は必ず必要としてもらえる」

「彼女にとっては、お前を必要とする状況は好ましい状況ではないんだよな」

「不幸な状態に彼女がいることがお前の存在意義を作っているとしたら、お前は幸せなのか?自分の魅力で彼女をひきつけて彼女の太陽になれなければ潔く諦める。それがお互いのためではないのか?」

「‥‥‥」僕はしばらく沈黙し言葉を慎重に選んでいた。

「僕はみかんの太陽にはなれない。みかんは僕ではときめかないから。みかんが誰かによって本当に幸せになったときが、僕がみかんから忘れ去られるとき。そのときが訪れることを僕は願わなければならないし、そのときは僕は消え去らなければならない。でもいまは、みかんと会えるなら何でもいい、みかんと話せるのなら何でもいい、みかんの不幸が原因でも何でもいい。僕はみかんと関わっていたいのだから。プライドも何もないですよ。自分が正義とも思わない。みかんのことしか考えられない。みかんに合うことしか願えない。土砂降りの雨が続いて、みかんがずっと雨傘を手に取らずにはいられない、そんな日が続くことを心の片隅で願いながら、みかんが晴れ渡る日々の中で最高の笑顔に包まれることを願わずにはいられない。狂ってますよ。僕は。とっくの昔に。でも、どんなかたちでも僕はみかんの顔を見たい、声を聞きたい、言葉を交わしたい、心に触れたい」

「う〜ん。そうだな。まあ今日は帰るわ」

野月先輩はそう言ってメンソールのタバコをもみ消した。



本当に

この人は愛し愛されて

どんどん素敵な人になってゆく

そういう思いを抱かせてほしい


哀れみも優しさも

無理に求めたりはしないから・・・


 

僕は本当にみかんの彼氏がみかんだけを一途に愛す素敵な人であることを願っているのだろうか。せめてそうあってくれたのなら僕はみかんを諦められるのだろうか。雨傘は、雨の日が訪れないことを願って靴箱の片隅に置かれていることができるのだろうか。僕は狂っていることすらわからないほどに狂っているのではないだろうか。僕はみかんと会えることを引き換えに悪魔と契約を交わしているのではないだろうか。


33


みかんが図書館に来たのは10日後のことだった。

「久しぶり」

僕はいつものように声をかけてみかんに視線を移した。

「久しぶり」

そう答えたみかんのもとに僕はすっと忍び寄ると、みかんのシャツの上から2つ目のボタンに手をかけた。

「きゃっ」

みかんは少し驚いた風だったが、

「だめろう、第2ボタンまではずしてちゃ」

と僕にたしなめるように言われておとなしく僕がボタンを占めるのを眺めていた。

「ごめんなさい。不良娘していました」

みかんはおどけたようにつぶやいた。

「ほんと、久しぶりだね。元気してた?」

「うん、でもみかんちゃんはちょっと不良をすることになってバイクを買いました」

「え?」

「といっても、ヤマハのスクーターだけど。ちょっと行動範囲を広げようと思って」

「へえ、みせてもらってもいい?」

「うん」

みかんは図書館の前の駐輪場に僕を案内すると、

「これ」

といって赤いスクーターを指さした。

「へえ、結構かっこいいね」

「ありがとう。お兄ちゃんもどう?」

「え?」

「お兄ちゃんもスクーター買って一緒に走らない?」

「わかった」

僕はその足でみかんとバイク屋に行って、おそろいの青いスクーターを購入した。


みかんの行動は日増しに危険を増していった。

露出を多めにした服装で、バイクをジグザグに走らせるから、勘違いをした男が寄ってくる。

「ねえちゃん。やらして」

「あっちいけ」

みかんは並走する相手のバイクを蹴り飛ばす。

僕は後ろから全力で追う。

「男付きかよ」

男のバイクが去ってゆく。

この繰り返しだった。


みかん。

みかん。

僕は後ろからその姿を見ながら、語りかけていた。

みかん。

みかん。


僕の前を僕のあこがれが走る。

絶対に手に届かない僕のあこがれが走る。

僕は少し離れて君を追いかける。

僕は君を見失うことはない。

僕は君を守る。

僕は君の雨傘なのだから。


みかん・・・。


34


「へえ、お兄ちゃんこんな本読んでるんだ。みかんはむつかしい理系の本ばかりかと思ってた」

小林秀夫のランボオ・中原中也論をみて、みかんはつぶやいた。

みかんはときおり僕の部屋に来るようになっていた。

「お兄ちゃん、詩が好きなの?書いたりする?」

「恋をすると豚も詩人というからね」

「ははは、中也ならみかんも知ってる」


「汚れちまった悲しみに

今日も小雪の降りかかる・・・

とかね」


「うん」


「傷ついた心は、真っ白な雪で埋められるのかしら?」


「中也は、少年の心を抱いたまま大人になった人だと思うんだ。汚れたのは、今の心でも体でもなく、少年としての心。雪はその白さで、心を真っ白な状態に戻してくれる。雪はすぐに溶けてしまいあとには汚れしか残らないのだけれどね。かれは30歳で亡くなったのだけれど、若くして亡くなるのは純粋さを持った人間の宿命ともいえるね。ほかにも、ジミヘンとかね」


「みかんはどんな本が好きなの?」


「以前言ったけど、みかんは森茉莉とかジャンジュネとかの作品が好きだわ」


「そういえば、お耽美だったね」

僕はクスっと笑っていった。


「悪かったわね。みかんちゃんは美しいものが好きなの」

いつものように“ぷうっ”とほっぺたを膨らませながらみかんは言った。


「どちらも、文章に香りがあるよね」

「香る文章か。言いえて妙ね」

「お耽美は、香りがなくっちゃね」

「略奪はシトラスの香り」

「うん」


僕は侵略者だ。

君を愛していないものから略奪することを考えている。

僕は侵略者だ。

君のこころを侵略するものだ。


「そろそろ日も陰ってきたね。送るよ」

「うん」

みかんは少し寂しそうにうなずいた。


みかんは下宿のバイク置き場にバイクを置くといつものように僕のところに駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん。ありがとう」

「こちらこそ、送らせてくれてありがとう」


僕が背中を向けると、後ろから声がした。


「お兄ちゃん」


振り返るとミカンが飛びついてきた。


みかんは僕の顔を見つめた後じっと目を閉じていた。

僕の心音が3オクターブ跳ね上がった。


僕は静かにミカンの唇に唇を重ねた。


夢を見ているようだった。でも心のどこかで声が響いていた。


「僕は、君の心の底からの笑顔が欲しいんだ」


唇をはなすと、ミカンが照れ隠しのようにつぶやいた。


「きんしんそうかんだね。えへっ」


僕は、軽くミカンのおでこを指で小突いた。


35


みかんの行動は、相変わらず自虐的で危険そのものだった。まるで、自分の体を切り刻んで流れ出る血をなめてのどの渇きを潤すような。僕はみかんから全く目が離せなくなっていた。


深夜、みかんのスクーターのエンジン音がした。

僕はみかんがたどり着く前に扉を開けた。

「今日はワインを入手したから、お兄ちゃんと飲もうとおもってきた」

見るとコップ半分くらいが空いていた。

「飲酒運転してきたの?」

「えへっ」

みかんは舌を出してみせた。

「まあ、どうぞ」

「ありがとう」

「結構飲めるね」

「ワイン専門だけどね」

「飲み過ぎ注意だよ」

それには答えずに、みかんは話を変えた。

「ねえお兄ちゃん。いつかしたウンディーネの話、覚えてる?」

「うん」

「ウンディーネって人を好きになって魂をもらい、その人がうらぎったら殺さないと自分が死ぬんだよね」

「うん」

「そのあとどうなるの?」

「水に還り魂を失う。まあ、いくつか説があるんだけど」

みかんはワインを口にして少し間をあけた。

「先に死んだらその人はどうなるの?」

「自ら命を絶ったらということ?」

「うん。その人は裏切ったことを後悔してウンディーネを愛するようになる?」

「さあ、前例がないからね」

僕はコップの中のワインを飲み干した。

「みかん」

「はい」

「みかんは死にたいの?魂を生贄に差し出して、何かをかなえたいの?」

「かなう?」

「無理だとおもうよ。妖精の一途な願いがかなった物語は、古今東西ひとつも無いんだ。でも、どうしても死ぬというならその時は一緒に死ぬよ」

みかんは涙ぐみながら僕の目を見上げた。

「お兄ちゃんはだめ。お兄ちゃんの愛は人間愛に近いもの。みかんの犠牲になってはだめ」

僕はゆっくりと首を横に振った。

「全然違うよ。人間愛なら誰に対してもだろう?僕がそうあれるのは、みかんだけだ」

みかんは、ゆっくりと首を横に振った。

「ねえ、少し眠ってもいい?ここのところ全くねむれてないの」

不思議と僕は冷静だった。

「いいよ。そのかわりひとつ約束して欲しい」

「なに?」

「僕の部屋以外にけっして眠りに行かないこと」

「わかりました。お兄ちゃん」

みかんはそう言うと僕の膝に倒れ込んだ。

僕は懸命に手を伸ばしてタオルケットをつかむと、みかんの上にかけた。

ひそやかな寝息をたてて眠るみかんの寝顔を慈しむようにみつめる。みかんは苦しんでいる。愛している人から愛されていないことに苦しんでいる。自分の愛が相手を良い方向に導けていないことに苦しんでいる。容赦なく降りそそぐ理不尽の雨に、わけもわからず苦しみつづけている。みかんの顔をそっと見る。みかんの寝息に耳を傾ける。涙が一粒二粒おちる。みかん。せめて今だけは眠れているかい。大丈夫だよ。僕は君の雨傘なのだから、理不尽の雨から僕が君を守る。彼は例え君でなくてもどうにもならない。献身的な愛でどうにかなる人間では無いんだ。みかんは苦しんでいる。僕はみかんに語りかける。大丈夫だよ。僕がいるから。大丈夫だよ。


「んっ」

軽い吐息とともにみかんは目を覚ました。

「いま3時をまわったところだよ」

僕はみかんをみつめたままそうつぶやいた。

「ずっと、こうしてくれていたの?」

「眠れた?」

「うん。ありがとう。どうしてそんなにやさしいの?」

僕はみかんを狂おしく見つめた。

「大切な人には誰もがそうなんだよ」という言葉を僕は飲み込んだ。言ってはいけない気がした。


みかん。


そんな当たり前のことさえ知らない


みかん。


そんなことさえ、伝えてもらっていない


みかん。


されでも必死でついていこうとしている


みかん。


僕が必ず気づかせてあげる。


当たり前のことに。


言葉ではなく。


「送っていくよ」

ぼくは、精一杯明るくつぶやいた。


36


深夜、ありふれたことのように、みかんのバイクの音がしたて、僕の下宿の扉が音を立てた。僕は鍵を開けるとミカンを招き入れた。みかんの目から涙があふれていた。もう、ありふれたことだった。


「眠れないの」


「うん」


「もう、何日も眠れないの」


「うん」


「もう、何が何だかわからないの。何が正しいのか何が間違っているのか」


「うん。暖かいミルクを入れるよ」


みかんは両手でカップをもって、ゆっくりと口元へ運んだ。


「暖かい。まるでお兄ちゃんといるときのように安心するね」


「うん」


「あのひとは、みかんを愛してないの」


「うん。もう飽きたって言ってたらしい」


それを聞くとミカンは堰を切ったように泣き出した。


「あのひと、人の心を持っていないわ。でも、ミカンの愛で必ず真人間にするの」


「うん」


「お兄ちゃん。私っていま隙だらけだよね」


「うん」


「いつも守ってくれてありがとう」


「うん」


「苦しいの。それでもみかん、苦しいの」


「うん」


みかんは泣き疲れて眠る。僕の膝の上で。

みかんのほほの上に僕の涙が落ちる。


みかん・・・。

僕ではだめなのか。


みかん・・・。

君は、僕の膝の上で、安心しきって寝息を立てているではないか。

こんなに疲れて、ぼろぼろになって。

僕のもとにきて、眠っているではないか。

それではだめなのか。

安らぎではだめなのか。

鳥が飛べるのは、下を見ればいつでも台地が広がり、止まり木が立ち並んでいるからではないか。

僕は君の大地になる。

僕は君の空気になる。

当たり前のようにそこにありすぎて、誰一人感謝することもなく当然のように吸っている空気。


みかん。

せめて君が寝ているときぐらい涙を流して呟いてもいいだろうか。

「くる・・。」

僕はつぶやきを押し殺す。


やがて鳥の声が聞こえてきた。


「ん・・・」

みかんはウスバカゲロウのように目をこする。


「みかん」

「はい」

「もう夜明けだよ。送っていくよ」

「いや」

「え?」

「いや、みかん帰らない」

そういうとみかんは僕に抱きついてきた。


「僕じゃだめか」

「みかん、僕じゃだめか」


それはとうに分かっていることだった。

僕じゃだめなのだ。

一時的に苦しさから僕の手を取ったとしても

僕ではだめなのだ。

どんなに望んでも、望んでも、僕が何をしても「みかん」は僕ではときめかない。

陽光のさす晴れ渡った青空の下で、最高の笑顔をみせることはできない。

それでも僕は訊ねずにはいられなかった。


「僕ではだめか、どうしてもだめなのか?」

「だめなのか?」


みかん・・・。


「ごめんなさい」

「ときめかないの。」

「どうしてもときめかないの」

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・」

泣きじゃくるみかんを僕は抱きしめる。

「みかん、図書館に来ない日が会ったでしょう。その時何をしていたかというとね、もしもしピエロ、エンペラー、アイネ、雅・・・」

「もう、しゃべらなくていいんだよ」

ぼくはゆっくりとみかんに微笑みかける。

「僕は毎日君を光と風の中につれていきたかったんだ」


僕は自分の顔が憎い。

みかんの好み通りのでないこの顔が憎い。

もし、僕がミカンの好みの顔をしていれば、僕はどんなにかみかんをしあわせにしてあげられるだろう。僕はどんなにかみかんを笑顔にしてあげられるだろう。みかんだけを愛して、愛して、愛して、愛して、みかんのことばかりを考えて、みかんにいろいろなことを教えてあげて、みかんの心を満たして、二人で未来のことを話し合って、この世の誰よりもみかんを幸せにする。みかんが僕の手を取ってさえくれたら僕はみかんを必ず笑顔にする。とびっきりの笑顔にする。雨傘には見ることのできない最高の笑顔。

僕は自分の顔が憎い。みかんをときめかせられない自分の顔が憎い。


「抱いて、お願い」

みかんは僕の首に腕を巻き付けてくる。

「うん」


僕はみかんと唇を重ねた。


「きれいだよ」

みかんはすこしはにかんだ表情をした。

「いくよ」

「うん」

僕はみかんとひとつになる。

かすかなみかんの吐息とともに

みかんのすべてが流れ込んでくる。

何もいらない。

みかんのすべてが流れ込んでくる。

君の生まれたとき。君がはじめて話したとき。君が初めて笑ったとき。君が初めて涙を流したとき。君の悲しみ。君の苦しみ。君が何を思って今まで生きてきたのか。君の思い。君の考え。君のすべてが理解る。いま君とつながって君のすべてがわかる。君が生まれてからのすべての時が流れ込んでくる。僕の生まれてからのすべての時が流れ込んでゆく。君はいつでも哀しかったんだ。ときめき以外に心を満たされることがなく、存在するだけで周りを傷つけてしまう自分が哀しかったんだ。僕たちはつながっている。それは一瞬の錯覚に過ぎないとしても。きみのすべてがわかる。みかん・・・・・・。


「ありがとう。今日は見送りはいい」

そういってみかんは帰っていった。






Epilogue



みかんは図書館にも僕の下宿にも来なくなった。

大学にも来なくなった。


毎日、毎日、体中の細胞という細胞が一枚一枚引きはがされていった。

体中がしびれ、胸にぽっかりと空いた穴が毒を吸い込んでいるようだった。

その毒が全身を回る。

とぐろを巻いてどす黒い煙が脳を襲い、幻覚を僕に見せる。

見たこともない異形の化け物を。

声も出せない。

苦しくて、苦しくて

うずくまることしかできない。


なにか大切なものを失うということはこういうことなのだ。


人間は死ぬよりつらいことに出会うと本当に死ねないことがわかった。

苦しくて、死ぬという行動すらとれなくなる。

みかんのまえで言えなかった言葉をうごめくように呟く。


「苦しい」


「苦しい」


「苦しいよ」


みかん・・・


遠のく意識の中で僕はみかんが陽光のさす森の中で笑って駆けている姿をみた。


気が付くと僕は病院のベットの上にいた。

野月先輩が運んでくれたらしい。

今は鎮静剤がきいているらしく僕の神経は平常に戻っていた。

見上げると、泣きながら僕を見ている顔があった。

同じ研究室の子だった。

「私は、あなたをずっと好きでした」

彼女は青色のハンカチで涙をぬぐうと続けた。

「覚えていますか?ラットの小屋の掃除当番で初めて一緒になった時のこと。私は手を1時間に何回も洗いに行くほどの潔癖症だった。神経症まではいかないけどボーダーゾーンにいるといわれていたの。高校ではよく気味悪がられていたわ。ラットのフンを掃除するとき私の手は惨めなくらい震えて止まらなかった。あなたはそれを気にも留めずに『餌箱取ってきてくれる?』といって、その間に全部終わらせてくれていたわ。私は涙をこらえるのに精いっぱいでお礼も言えなかった。私はその日からあなたを見つめるようになった」


そうか。

君が僕の「雨傘」だったのか・・・。


「すべてを見ていたの?僕とみかんの」

「ええ。図書館の片隅に私はいつもいたの。そしてあなたとみかんを見ていた。野月先輩からいろいろと話を聞いていたの」彼女は一呼吸置くと続けた。

「私は、ずっと待っていたの。あなたがそうだったように。私はあなたの底なしのやさしさが好きなの。知ってた?何回かあなたとペアになってネズミの世話をしたけど、手は震えていなかったこと」


「ごめん」

僕はぽつりとつぶやいた。


「僕は、みかんと同じ穴のムジナなんだ」


「違う」

彼女は涙をぬぐうと、僕に微笑みかけた。

「私は、あなたの子供を産むの」

「・・・」

「私はあなたの心からの笑顔なんていらない。ただ、愛してもらえればいいの。ただ、守ってもらえればいいの。私が勝手にときめくから。あなたは、子供にときめくわ。私たちの子供に。あなたはどうしてもどうしても幸せにしたくてできなかった彼女の分まで子供を幸せにするの。私たちの子供を。子供はあなたがどんな顔であっても、あなたの愛情を全力で受け入れるわ。そしてあなたは、あなたの手をとりさえすれば、どんなに相手を幸せにするかを実証するの。青空の中、光のような笑顔をその子はあなたに降り注ぐわ。あなたが愛情を降り注ぐから」

「君はそれでいいの?きっと、君を心の底から好きになってくれる人が現れるよ」

「私は、あなたの雨傘になるの」


僕は静かに目を閉じる。

人は、たったひとりがいないために不幸の底に落ちる。

人はたったひとりがいてくれるおかげで幸せの頂点に立つ。

たったのひとり。

愛してくれる人、愛させてくれる人。

必要なのはたったのひとりなのだ。

だから人は片手に1本の傘を持つ。


「僕は、僕の意思は、ときめきに勝てるかな?」

ぼくは、静かに彼女に向かって点滴のついている右腕を伸ばした。


彼女の手は柑橘系の香りがした。



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みかん @spin2

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