そらをたつ

そらをたつ(1)


          [二〇××年 四月某日]

[午後三時五分]

             [津雲市 朝吹あさぶき中学校 生徒指導室]


「失礼しまーす……」


 放課後になり、喧騒があふれ始めた中学校。

 一人の女子生徒がやや緊張気味に生徒指導室の戸を開けた。

 ――彫谷ほりやナオエ。朝吹中学校三年生。剣道部所属。

 くせっ毛なのか、すこし外に跳ねたショートカットの髪型に目元にはわずかなそばかす。

 歯並びもいまいちだが、その鈴を張ったような茶色の瞳には年相応のかわいらしさがある。

 とりたてて美しい――とは言いがたいが、人懐っこそうな印象を与える少女だった。


「お、来たか。とりあえずそこ座りな。今お茶でも出すからさ」


 ナオエを迎えたのはこの中学校に勤める男性教師・羽黒はぐろトモヒト。

 歳は三〇代後半。担当教科は歴史で、剣道部の顧問でもある。

 スポーツ刈りの頭に肥満気味の体。しかしそれすべてが贅肉というわけではなく、鍛えられた筋肉もすくなからず存在していた。


「あのー……それで、話ってなんですか?」

「あー、そんな固くなるなって。お前の素行がどうとかの重い話じゃないし、五分そこらで済むから」


 まだ緊張が解けないナオエにすこし苦笑しながら、ことりとナオエの前に緑茶が入った湯呑みを置くトモヒト。


「……ここのところ、前より元気がないように見えるのがちょっと気がかりでさ。やっぱり……刻が卒業したからか?」


 その言葉に対し、ナオエはわずかに言葉をつまらせた。


「……ええ、まぁ……解ってはいるつもりなんですけど、ちょっとさびしいな、って……」


 言いながら出された緑茶を一口すするナオエ。笑ってはいるが、そこに元気や歓喜はなかった。


 ――きざみランセ。この春に朝吹中学校を卒業した生徒の一人。

 剣道部に所属していたが、部活への参加は在学中の三年間を通してわずか片手で数えられるほどの回数のみ。

 いわゆる幽霊部員――当時、入部したての頃からランセを見ていたトモヒトにとってはその程度の存在でしかなかった。

 しかし幽霊部員のくせに「大会は出る」というランセに、トモヒトは辟易へきえきしながら冗談交じりに「大会に出場する上級生に試合で勝ったらな」と条件を出した。

 その上でまぁ無理だろう……そう、トモヒトは高をくくっていた。

 上級生の中には全国大会出場経験を持つ部員もいる。ロクに部活に参加しない幽霊部員が勝てる相手ではない。


 普通ならそう考えるだろうし、無理もない。


 だが、ランセは普通ではなかった。


 幽霊どころか生者をもき殺す怨霊。人のカタチをした執念。


 大会の出場枠を賭けた試合において、ランセは当時の剣道部で一番の使い手である上級生を秒殺した。

 誰も計測していなかったが、最初の一本を取るまでの時間はわずか三秒足らず。

 上級生はランセを「大した相手じゃない」と見誤り、

 ランセは上級生を「大した相手じゃない」と見極めた――その決定的であり、致命的な齟齬そごが引き起こした結果でもあった。

 その一戦だけで他の上級生はランセとの試合を辞退。

 ついでに、受験による引退を待たずして上級生が二人退部した。


 そうして大会の出場枠を勝ち得たランセは、そのまま地区予選を勝ち進み――当然のように、全国大会で優勝した。


 それはまるで静かな嵐。


 良くも悪くも、刻ランセという少女が朝吹中剣道部に与えた影響は絶大だった。


 ナオエも、その嵐に魅せられた一人。


「もともと、剣道部に入ったのも刻先輩とお近づきになれたらなーってだけで……ぜんぜんお近づきになれませんでしたけど」


 たはは、と恥ずかしそうに笑うナオエ。

 それを聞くトモヒトの顔は神妙だった。


「……剣道、辞めるのか?」

「そうですねー……剣道は中学校で終わりにしようかなって……あ、でも夏の大会で引退するまでは頑張ります。剣道部のみんなといっしょにいるの、楽しいし……」


 中途半端な姿勢を口にしているという自覚もあるのか尻すぼみになるナオエだが、それを受けたトモヒトはソファから背を離した。


「――彫谷。お前は剣道を続けるべきだよ」

「え……っ?」


 叱責されるかと思いきや、トモヒトの口から出たのはナオエにとって意外な言葉。


「刻目当てで入部した素人が、休まず練習し続けて去年にはもう団体戦のメンバーにもなったろ。お前は才能あるよ。それを中学校で終わりだなんてもったいないぞ?」

「あ、ありがとうございます……」


 顔を赤くしながら緑茶を口にするナオエ。

 面と向かって自身の優れた点を人に褒められる――他人より優れた点などないと思っていたナオエにとっては、新鮮だった。


「正直、三葛みかずらじゃなくてお前に部長を任せるべきだったかもな」

「いえいえ、私より三葛さんの方がしっかりしてるし……」

「いやーアイツはダメだよ。メンタルが弱すぎて。そのせいで剣道長いことやってるのに大した実績残せてないし」

「そ、そんなことは……」


 明らかにトーンが落ちるナオエを気にする様子もなく、トモヒトは腰を上げた。


「ま……剣道を続けるか辞めるかはお前が決めることだけど、今年の夏まで続けるつもりならちゃんと前を向かないとな。刻がいなくなってさびしいのは解るけど、それはお前だけじゃないんだから……話はここまで。練習、頑張れよ」

「は、はい……! それじゃ、行ってきます!」


 誉められ、励まされたことを意外に思いながらも、それはそれとして嬉しかったのかパッと顔を明るくさせてナオエは生徒指導室を後にした。

 一人、トモヒトはシャツのポケットから煙草とライターを取り出しながら、


「――ふん、アイツもアレくらいの可愛げがあればな」


 吐き捨てるように、独りごちた。

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