暴風(4)

『ビオス』の屋上駐車場。

 通常であれば店舗内から上階に上がって出入りするが、今は非常時である。ランセは迷いなく外の車両進入口から屋上駐車場へと駆け上がり、コマリもそれに続く。

 進入口の角に身を隠し、コマリを手で制止しながらランセは慎重に駐車場の様子をうかがう。

『ビオス』の屋上駐車場台数は三〇台。駐車場としてはそこそこの広さだが、今停まってる車は八台ほどと空きが目立っていた。


 その中心に、平然かつ堂々と、それは居た。


 黒いフード付きのモッズコートに、濃紺迷彩柄のカーゴパンツ。

 革手袋にブーツ――そして顔にはガスマスク。

 どこからどう見ても不審者としか思えない、極めて悪い意味でバランスの取れたコーディネート。

 素顔素肌を一切さらしていないため、性別も解らない。

 しかし背丈は一七〇センチほどか――男性である可能性が高いとランセは踏んだ。

『ビオス』に二台も自動車が衝突したにもかからわず、我関せずと手袋をしたまま器用にスマートフォンをいじるガスマスク。


(……なんだ……アイツ……)


 ランセがまず疑問に思ったのは、そのガスマスクからという点であった。

 これまで数々の試合や実戦を経験してきたランセには、相手の外見がどうであろうとその者が持つ戦力を一目で読み取る経験則と活眼がある。

 身体的特徴や立ちふるまいを見ての推察は当然のこと、常人では気付けないような雰囲気も五感を統合しての勘で察知する。

 ランセにとってアマネが怪物に見えたのはそのため――高精度の初見があればこそ。

 それによりランセは相手と対峙した時点で勝敗が読めるほどの域にあるが、ランセから見たガスマスクはまったくの常人であった。


(いや、とにかく……)


 いくつかの疑問を振り切り、ランセは携帯電話を取り出してカメラを起動した。

 正体が解らなくても、せめて外見だけでも記録すべきという判断は冷静だった。


 だが、間も置かずその冷静に亀裂が入る。


 すぐそこに居るガスマスクが――


「……っ!?」


 息を呑むランセ。肉眼での目視とカメラの画像を見比べても、その結果は変わらなかった。

 驚愕を気取られたか、それともただの偶然か――ふと、ガスマスクの視線がランセに向けられる。

 まずい――とランセが思うのと同時に、突風のごとくコマリが角から飛び出した。


「――――」


 迷いなく一直線にガスマスクへと突進するコマリ。ガスマスクとの距離八メートルあまりを一秒足らずで詰める速度で迫る。

 それに対し、ガスマスクは左手をかざし――びたりと、コマリの動きが静止した。

 疾走の途中。片足が浮いた状態での不安定な姿勢のまま、まるで空間に縫い付けられたかのように。

 続けて、ガスマスクのすぐ側に停まっている車から助手席側と後部座席側のドアが無理矢理引きちぎられるように分離する。

 そのまま分離した二枚のドアは自らの意思を持つかのごとく平然と飛行し、それぞれ左右から静止したコマリをごしゃりと挟み潰した。


 ここまでわずか二秒弱。ランセの思考と心臓が停まりかける。


「遠見っ!?」

「――っ」


 思わず叫ぶランセに応えるかのように、ぎぎぎと体を軋ませながら両腕で左右のドアを押し返すコマリ。

 わずかに空いた隙間。そこから首を傾けてランセを見やる。

 その視線の意味を、ランセはすぐに理解した。

 理解せざるを得なかった。


「――――~~~~~~~っ!!」


 今度はランセが弾かれたように疾駆する。

 振り返らずに全速力で車両進入口を駆け下りる。


(甘かった……! なにもかも……!)


 後悔という爪がランセの胸を裂く。

 あの一瞬でコマリが先に飛び出していなければ、恐らく自分が一瞬で殺られていた。

 それほどの戦力差をなぜ見抜けなかったのか――それはあのガスマスクの持つ“力”がランセにとって極めて異質かつ未知の領域のものであるからにほかならない。

 ランセが初見で読み取れるのは心技体。人間の純粋な身体性能。

 しかしあのガスマスクの力は心技体とはほぼ無関係。それどころか物理すらも超越する生物の神秘。潜在能力の最奥。無限の可能性。


 人はそれを――超能力と呼ぶ。


 ランセは認めるしかなかった。ガスマスクの正体がどうあれ、あの力は本物なのだと。

 そして、コマリはそんな相手に躊躇ちゅうちょなく己の身命を投げ捨てた。ランセを守るという命令のために。

 ゆえにランセはコマリの意思を汲み取るしかなかった。コマリの犠牲を無駄にしないために、振り返ることは許されなかった。


 今のランセの力では――それしか選べなかった。


(遠見っ……!)


 ぎり、とランセは奥歯を噛みしめた。

 自分にもっと力があれば、もっと強ければ――

 そんな、自責と罪悪の波がランセの背に迫る。


 それはランセにとって絶対に逃れ得ない悪夢に似た逃走だった。


          ☆    †    ♪    ∞


《通り魔とかの動機でさ、『誰でもよかった』ってよく聞くけど》

「…………」


 二枚のドアに挟まれたままのコマリに、悠然と歩み寄るガスマスク。

 マスクに変声器でも仕込んでいるのか、その声は性別や年齢が判別しづらいものだった。


《『誰でもよかった』っていう割には、それで被害に遭ってるのって大抵普通の、弱い奴ばかりなんだよね。もちろん、わざわざ選んだわけじゃなくてその場にいたのが弱い奴しかいなかったっていうのも解るし、強い奴に突っかかって返り討ちにあった通り魔なんかもいるにはいるけどさ》


 ガスマスクがコマリの顔をのぞき込む。

 コマリは先ほどから全力でドアを押し返しているが、まったく微動だにしない。


《俺もね、別に誰でもいいんだよ。ただそうであるなら、本当に相手を区別や差別するべきじゃないと思うんだ。君みたいな女の子だろうが、警察だろうが、殺すなら平等じゃないと……なんていうか、自分に納得がいかなくてさ》


 すっ、と開いた左手を前にかざすガスマスク。

 そして――


《じゃあね。運が悪かったと思って、諦めてよ》

「――――っ」


 ガスマスクが左手を閉じると同時に、二枚のドアが万力のごとくコマリを完全に圧砕した。

 胸骨から肋骨が砕け、肺や心臓を始めとした臓器の諸々が圧迫され破裂する。

 ほどなく、がしゃんっ――と、ガスマスクの力が消え失せたのかコマリを押し潰したまま二枚のドアはその場で横倒れになった。


《……一人逃しちゃったけど、別に追わなくていいでしょ? どうすることもできないだろうしさ》


 ふと、あらぬ方向へ顔を向けるガスマスク。

 誰かに話しかけているように見えるが、そこには誰も、なにもない虚空だった。

 もうガスマスクの意識にはコマリの命などなかった。

 完全に殺したと確信していた。

 だからこそ――次の瞬間、コマリを押し潰したドアの内一枚がガスマスクへと向かって跳ね上がってくるなど予想もしていなかった。


《え――?》


 跳ね上がったドアはガスマスクに衝突する直前で、またもや空中で静止する。ガスマスクは無傷だが、これはまったくもって想定の外。


《なにこれ――》


 事態を飲み込めず、ガスマスクはドア越しにコマリを確認しようとその身を乗り出す。


 そこには、すでに次撃を叩き込まんと跳躍したコマリの姿があった。


 ガスマスクが声を上げる間も与えず、ドロップキックを放つコマリ。

 どぎゃっっっ、とドアをひしゃげさせる強烈な一撃。ガスマスクはドアごと二メートルほど押し出された。

 一方、ドロップキックから軽やかに回転して着地したコマリはすぐさま身をひるがえして後退する。

 ランセを逃がすことに成功した今、コマリに継戦の意思はない。

『ランセの安全を確保したら自身も速やかに退避せよ』――あらかじめアマネから下されていた命令によるものだった。

 が、突如コマリの右膝から下があさっての――曲がってはならない方向にへし折れる。

 ガスマスクの超能力による直接人体破壊。悲鳴は上げなかったものの、バランスを崩したコマリはあえなく転倒した。


《ああ……危なかった。助かったよ。ありがとう》


 コマリが蹴り込んだドアを雑に払い除けながらガスマスクが歩き出す。その言葉は、やはりコマリではない誰かに向けられているようだった。


《っていうか、君……人間じゃないの?》


 ふわりと、ガスマスクの近くに停められていたワゴン車――先ほどドアを剥ぎ取ったもの――が風船のように浮き上がる。


《人間だったらとっくに死んでるはずなんだけど。よかったら教えてくれないかな。君のこと》


 浮いたワゴン車は一瞬で時速五〇キロあまり――硬球のごとくコマリへと撃ち出された。

 全長四メートル、重量一.五トン。炸薬の有無はさておき、単純な数字だけなら戦艦の砲弾に等しい質量弾。


「…………っ」


 右脚が破壊されてから五秒足らず。

 、コマリは全身のバネを使って伏せた状態からその場を跳ね退いた。

 コマリに躱され、投げ捨てられた玩具のようにあっけなく地面に正面衝突するワゴン車。ボンネットが圧し潰れ、フロントガラスや右のウィンドウが砕け散り、ホイールが弾け飛ぶ。

 それは時速五〇キロで衝突した車にしては不自然な破壊だった。


《ああ――ちょっと待ってよ》


 ガスマスクがコマリへ向かって右手をかざす。

 すると先ほどコマリに躱され、地面に衝突したワゴン車の砕け散った部品や破片が弾丸となってコマリへと襲いかかった。

 車体やガラスの破片、ホイール、サイドミラー……大小合わせて計一六の破片群。

 ひゅ――と小さく息を吐くコマリ。

 コマリの全身がわずかに膨れ上がる。


「――――っ」


 屋上駐車場のコンクリートタイルを小さく踏み砕いてコマリは一気に加速した。

 飛来する破片群よりも疾く、それこそコマリも弾丸のように疾走。そのまま機敏な身のこなしで別の車の影に身を隠した。

 一瞬遅れて一六の破片群が着弾。激しい雹雨か散弾か、コマリが盾にした車を穴だらけにする。


《はい、どーん》


 左手を指鉄砲の形にしながら撃つ真似をするガスマスク。


 ――重機の鉄球を強振フルスイングさせたかのような不可視の剛撃が、コマリの盾を一瞬にして一撃で粉砕した。


 正に鉄球を叩き込まれたかのごとくコマリが盾にした車は丸く圧し潰れながら真っ二つに破壊され、その衝撃でコマリは吹き飛ばされた。

 受け身も取れず、破壊された車の破片で体にいくつかの切傷を作りながら倒れるコマリ。


 眼を開ければ――そこにはさらにもう一台、別の車がコマリの頭上に浮かんでいた。


 遠慮も躊躇もない、絶望の鉄槌が倒れたままのコマリに落とされる。

 空中から縦に突き刺さる車。その衝撃はコマリの内臓を再び破裂させ、背骨まで砕いた。

 ごぱ――とコマリの口から鮮血が噴き出る。

 赤い火花が散るように。命の灯が揺らぐ。


《……ねぇ、どうかな。そろそろ死ぬ?》


 コマリのすぐ側に腰を下ろすガスマスク。蟻の巣に水を流し込んでその様を観察するような――重傷の人間に接する態度ではなかった。


《今日は『彼』の望み通り何人か殺したら適当に上がるつもりだったんだけど、君みたいな面白い子に会えてよかったよ。できれば……名前、教えてくれないかな》

「……――っ」


 口から血を流したまま、昏い瞳がガスマスクを見据える。

 ふと、ガスマスクはなにかに気付いてコマリに向けて手で制した。


《……ごめん。人に名前を聞く時はまず自分からだよね。でも俺は素性を明かすワケにはいかないからさ。やっぱりいいや》


 腰を上げて、数歩だけコマリから離れるガスマスク。

 そして――ゆっくりと右手をかざした。


《それじゃ――もうちょっと強めにいくよ》


 かざした右手を、ほんのすこしだけ下げる。




 たったそれだけで――屋上駐車場のおよそ三分の一が雷鳴にも似た轟音とともに崩落した。




 コマリを中心として半径約六メートル。あたかもその地点だけ綺麗にコンパスカッターでくり抜いたような不自然過ぎる真円。

 瓦礫や車とともに、コマリは階下に消えた。


《……なんでだろう。これだけやっても多分死んでないと思うんだ》


 どこか感心したかのように静かにつぶやくガスマスク。

 おもむろに、そのガスマスクを取り外す。


「確か『トオミ』って呼ばれてたよね、あの子。また会えるといいな」


 ガスマスクの奥には少年の顔。

 期待を口にしていながら、その表情は仮面のような無情。

 名は伊森クロウ。

 コマリとよく似た闇夜のような昏い眼には、沈もうとしていた夕陽すら映っていなかった。

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