眠れる水の守り 3
ふり返りざまに真空の
しかし速さが落ちかけている。気づいた瞬間、舌打ちする。同時に襲う三体を、イビアスは杖で
「クソッ、やっかいな」
走りながら
「きりがないね」
タキアもなげく。女武官の
「
朽ち葉を
「こらえろ」
怪物を
「クスビとおなじなら、
万に一つクスビが暴走したときのため、彼らを無力化する手段を、
尽きぬ数の怪物相手に、杖と
ついに最後の
ガチと嫌な音を立て、杖に牙が
――しまった!
「イビアス!」
一瞬動きを止めた
だれかの叫びを耳にして、アズナはうしろをふり返った。イビアスたちはどうなったのか、木々のあいだに押し寄せる濃緑の群れが見て取れる。
「ロゼニア、来た!」
あさぎ色から
「いそいでアズナ! ハドリ、
「め、目印の柱が見えればすぐです」
「あそこ!」
視線をもどした少年は、直後見つけて声をあげた。指さす先には朽ちた円柱。くずれた石の
早く、一瞬でも早く。
落ち葉を、草を踏みしだく音。
――近い。
迫ってる、すぐあとに。
――まずい。
追いつかれた!
少年の肩をかすめ、
「二人トモサキニ行ッテ! スグニオイツク!」
展開した触手を盾に、アズナにハドリをあずけるロゼニア。一瞬の
だが遅い。遅すぎる。ただの人間の子どもでは、ささえはできても
「
「嫌です!」
「アズナ君ッ」
「ぜったい嫌だ!」
そうだ、一人なら逃げられる。
だがそれでは。自分一人助かればいいと考えるなら。
――オレを
ここでハドリを置いていけば、きっとクラトと目を合わせられなくなる。
「自分のために人を見捨てるようにだけはなりたくないんです!」
アズナは歯を食いしばり、かかる重みに耐えて進む。
後方で苦鳴があがった。ロゼニアの声だ。負傷したのか。
「アズナ君っ」
ふり返った技術士の叫び。
悪夢の緑が殺到する。
泥のような生臭さ。のしかかる重み。打ち倒される。視界が濁る。
死が、
――ダメ、だ。
……どうか、と。祈ったのは、染みついた意識によるものだ。
「慈悲を」
助けて、まだ死にたくないと、ここではまだ死ねないからと、せつな、彼は
「
『
しん、と。
音が消えた。
*
丸石のつぶが内からはじけ、おのおのちいさな水たまりを作った。
「ラナティアナ!」
逆流した
「よくも……生意気なまねを」
うめき、ちぢれ髪の少女は、血が出るほどに唇を噛む。
「このままではすませないわ」
「ダメだよ、ラナティアナ」
もう一度地につけようとした手を、サイアスがそっと
「これ以上は、あなたが壊れてしまう」
「でも、サイアス」
ラナティアナは彼を
「このままじゃあなたの
「いいんだ」
サイアスが首をふった。少女の手は持ち上げられて、ただれた指に口づけが
「まだ、もうしばらくはだいじょうぶだから。あなたが壊れてゆくほうが辛いよ、わたしの……。それより傷を治そう」
青年は自身の手首に爪を立てる。あわく光る水のようなものが、傷口からにじみ出す。
光る水は少女の手のひらにしたたり落ちると、くずれた
まるで時をもどすように――いや、時を早送るように、赤くただれていた
いくぶん
「もうだいじょうぶだわ、サイアス。
「ああ」
手を離した青年の目が、少女の――いまや娘と言っていい姿のラナティアナをとらえ、たたえる
おだやかな笑みが彼の顔に浮かぶ。
「その姿は久しぶりだね」
「あなたがはじめて会ったころと同じくらいかしら。昔を思い出す?」
「とても。……なつかしい」
「わたしもよ」
ラナティアナも同じくほほ笑みかえした。
「ラナティアナ、しばらく
「
「長い時がたったもの、かえって安全だと思うよ。だいじょうぶ、わたしもあなたも――隠れるのは得意だよ」
「そうね……」
ちぢれた髪の美しい娘は、しばし考えをめぐらせる。あの
「行ってみるのも、いいかもしれないわ」
うなずき、彼女は青年とともに立ち上がった。
そのまま手を取り合い木々の奥へ、二人静かに歩み入ってゆく。
*
頭の上のどこかの枝で、なごやかに鳥がさえずりはじめた。もとのおだやかさを取りもどした森は、ふたたび緑の色濃いけはいにすっぽりとつつまれている。
身を起こす動きにつれて、ぼろりとなにかがくずれ落ちた。怪物であったものだ。悪夢じみた醜悪な姿は、すべていびつな炭になっている。
「なに……が……?」
あっけにとられた
「だいじょうぶ? ふたりとも」
「
「あ、うん。オレも、だいじょうぶ」
ハドリが彼女の手を借りる横で、アズナは自力で立ち上がった。感じたと思ったあの痛みは、もしやまぼろしだったのだろうか。
「すごいね」
炭の塊をハドリがこわごわのぞき込んだ。
「きれいに炭になってる……。これはクスビの力なの?」
ロゼニアが首を横にふった。
「ワタシにはできない。でも……」
「でも?」
「いっしゅんしんりょくの波が――」
つづきを口にする前に、三人を呼ぶ声がとどいた。
「ハドリ、アズナ、ロゼニア
あちこちに緑の汚れをこびりつかせて、
いや、違う。よく知っている。この男はイビアスだ。ひねたもの言いと声から気づいて、アズナは目をまるくする。目の前にいるのは、青紫の
「なんだ?」
気づいた男が眉をあげた。
「あ、いや。いつも布かぶってたから、あんたってそんな顔してたんだな、て思ってさ」
思わず正直にこたえると、嫌そうに顔をしかめられた。
「珍しいのはわかるが、あまりじろじろ見るな。金でも取りたくなる」
だが、もの言いに腹が立つのは変わらない。
「水面でも見て言ってろ」
いつも通りアズナはやりかえした。
「なにがなんだかわからないけど、とにかく助かったよ」
タキアが
「正直、数が多すぎてダメかと思ったからね。かってに炭になってくれて幸運だったさ。――って、まさかここから新しく
「その想像はうれしくないよ、
女武官は足を引きずるハドリに気づき、「
「安心しろ。クスビはかってに
タキアが技術士の手当てをするあいだ、沈黙するアズナに気づいたイビアスが、珍しく
「さてと」
手当が終わった技術士が、「お待たせしました」と全員を見まわした。
「怪物が炭になった理由は気になるけど、いつまでもこうしているわけにはいきませんよね。あとすこしのようですし、日が傾く前に
たしかに、ハドリたちの目的は
「そうだな」と、ちらりと
アズナやタキアもうなずく横で、ロゼニアだけは反対らしい。しばし不服そうなそぶりを見せていたが、
「じゃあ、行こう。おぶってってやろうか? ハドリ」
「いや、だからね、
あいかわらずの掛け合いをつづける夫婦とともに、アズナたちは歩きはじめる。
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