二章 ◆秘神

眠れる水の守り 1

 水盤にたたえられた水がゆれるたび、あわい照りかえしが天井にあみの目を描いてゆれる。

 ふしぎな部屋だ。どこにも窓が無いかわりに、なめらかな石の壁が内側からぼんやりと発光して、部屋全体に明かるさをもたらしている。壁のすぐ向こう側にほらでもあるのだろうか、反響するほそいしたたりがことのように聞こえ、生きたこけが厚くえ広がる床は、踏めば足首まで深く沈みそうだ。

 水盤のかたわらにもうけられた石造りのちいさなまるテーブルでは、一人の少女が黒くまるい石のつぶをはじいて遊んでいる。十代前半だろうか、ぬれたような光沢を放つちぢれた黒い髪、たまご形の輪郭の中に配された形のいいりょうと、つんとすましたようなちいさな唇が、幼いながらに将来が楽しみなととのったようぼうを形作っている。

 少女は時たま遊ぶのをやめて、あわい桃色の指先を水にひたし、水盤の底をのぞきこんだ。なにがおもしろいのか、くるくると表情を変え、いく度もくすくすと忍び笑っている。

「なにが見えるの、ラナティアナ?」

 部屋のすみから声がかけられた。声の主は、寝そべった青年だった。華やかな容姿の青年だ。金と銀の糸をたばねたようなひざまでとどくほどの長い髪、満ちた月のように白くうるわしい顔立ち。青年はこけのしとねになかばうもれるように、均整のとれた長い手足を投げ出している。

 だが目をひく外見に反して、彼のまとうふんいきは、どこかものくたよりなげだった。ちょうど薄い雲をまとい月がおぼろにけむるような、とらえどころのない、なかばこの世からはずれかけているけはい――。

「谷の入り口よ」

 水盤にかがみこむ少女はふり返らずにこたえた。

「お客様が来るみたいだわ、サイアス。からまるものたちと使い手が、近くまでやって来るのよ。素敵だわ、とても力に満ちあふれてる。もうひとつ、別のものもいるけど――これはなにかしら?」

 少女は、水にひたしていないほうの手指でこめかみを押さえ、もどかしげに顔をしかめる。

「変なの。知っている気がするのに、思い出せないの。からまるものたちと近くて、でも遠いけはいがする」

「そう……」

 サイアスと呼ばれた青年は、ぼんやりとした笑みをはく。

「あなたにもわからないなんて、ふしぎなことだね。新しく生まれたものだろうか」

「かもしれない。どんな力を持っているか、見てみたいわ。のぞきに行ってみようかしら」

「あなたが望むなら」

 サイアスが、「けれど」と、自身に言い聞かせるようにつづける。

「からまるものたちが相手なら、わたしも見つかってしまうかもしれないね。しろみやへ行くことになるかもしれない」

「ダメよ」

 とたんふり返った少女は、鋭く放って青年にけ寄った。

しろみやへ行くだなんて、サイアスったら、不吉なことを言わないでちょうだい」

 横たわる身体からだに取りすがり、手荒くゆさぶる。

「でも、ラナティアナ」

 されるにまかせながら、青年が気弱につづける。

「わたしたちはもうずいぶんと長く逃げつづけたよ。身にたくわえたしんりょくも、きっともうすぐ尽きてしまうだろう」

「いいえ、尽きさせないわ!」

 少女は強く首をふった。しっこくの髪がね、髪と同じ色の瞳が、狂ったように強く光った。

しんりょくならわたしがあつめてみせる。わたしがあなたを守るわ。しろみやに見つかったら、あなたは連れて行かれてバラバラにされてしまうわよ。それは嫌よ。あなたがいいと言ってもわたしが嫌なの。わたしがぜったいに守ってあげる。どこにも連れて行かせたりしない。ぜったいにあなたを守ってみせる。だから取り消して、サイアス。まがごとを取り消しなさい!」

「わかったよ、ラナティアナ」

 青年が腕を持ち上げ、やわらかく少女のほおに触れる。

まがごとを取り消そう。わたしはしろみやには見つからない。……ね」

 少女の目から狂乱の色が消える。青年の口づけが、なだめるようになめらかなひたいった。

「約束だもの、あなたといっしょにいるよ」

「ええ、そうよ、サイアス。約束したもの。わたしたちは、はじまりの神々がもう一度目を覚ますまで、ずっといっしょなのよ」

 手を離せば消えてしまうとばかり少女は青年にしがみつくと、その胸に顔をうずめてちいさくつぶやく。

「なにをせいにしても、あなたはわたさない。離れたりしないわ」

 少女の髪に手を置き、青年が悲しげに天井をながめやる。水盤にゆれる水は、美しいあみの目を描きつづけている。その模様はまるで、彼らを追いつづける捕縛のあみのように見えた。


* * *


「つまり、島から島へ人が移動するのには本当はおおきみの許可が必要なんだけど、クシの民とクスビは違って、同行者も同じく許可がいらないってこと?」

「そういうことだな」

 くろぎぬの男ことイビアスが、アズナの問いにうなずいた。

 人の足によって踏み固められた道が、緑あふれる谷の奥へとつづいている。んだ青空を突き刺すような木々の梢は高く、草花のかげではみつを求めるアブが低くうなっている。

 山から吹き降ろす午後の風はすずやかで、初夏の日差しにあぶられてほてった体をやさしくいやしてくれる。アズナの心の内とは別に、きわめてのどかな旅路だ。

 歩きながらアズナは、イビアスからさまざまなことを教わっていた。

 最初の夜、自ら無知であると宣言した通り、アズナのケルスおうこくに関する知識は、おそろしくとぼしかった。

 たとえばこの国ケルスおうこくが、三日月形にならぶ四つの大きな島から成り立つこと。

 おのおのの島は各一人のおおきみ領有うしはいていて、彼らおおきみとともに民をまとめ治めるのがこうしろみやつきしろみやみやと呼ばれるものであること。

 日の柱女神オルメサイアは、その頂点に立つ存在であること。

 今、自分たちが旅している地がどの島であるのか。こうケルスタニアまでどれほどの距離があり日数がかかるのか、途中海を渡るのに必要な手つづきをどうしなければならないのか、などなどなどなど……。

 旅に関係する知識だけではない。日常のこまごまとしたことがらもだ。特に、基本的な、はしらがみたちへの祈りの作法すらまともに知らないと判明するにいたっては、さすがにあきれたイビアスに、「おまえはいったいどんな育ち方をしたんだ?」となげかれた。

「しょうがないだろっ、村じゃほとんど使うこともなかったんだから!」

 アズナは耳の先まで赤くなって抗議した。

 オルメイス正教の信徒なら生まれてから日常的に目にするため自然と覚えるが、辺境の深い森の奥などという特殊な村の環境では、その機会自体が少ないのだ――いいわけにイビアスたちは納得してくれたらしい。基礎的なことがらからすべて教えてくれると約束をもらった。

 とは言え、今もまた「いっしょにいてやるおれたちに感謝しろよ」などとイビアスがからかってきたので、「日の柱女神オルメサイア根の柱神クシドレンシスには幸運を感謝しておくよ」と負けずにやりかえしたばかりだ。心からありがったく思ってはいても、人の悪いもの言いをされては、トゲのあるかえし方になってしまうのはしかたがないだろう。

 ひねたやりとりがすっかり定着しつつあるくろぎぬの男と少年を、あかがねの髪の娘がにこやかに見守っている。

 軽口とも嫌味の応酬ともつかないやりとりをするうちに、す集落が見えてきた。場所がら小ぶりではあるが、人の集まる村らしく、ととのえられた通りに人が行き交い、活気のあるようすが目に映った。

 予定通りにいけば一行はこの村で食糧を補給し、谷を抜けてそのまま〈ながから〉と呼びならわされる荒れ地を横切ることになる。それが東隣にあるティアナ島に渡る海峡へ出る最短の経路ルートだ、と図を描きながらイビアスが説明してくれたのだ。

「わざわざ仕入れなくても、狩りながら行けばいいんじゃないか? 〈ながから〉にも動物はいるんだろ?」

 前夜、旅程を確認する中でアズナは尋ねた。荷物が増えればその分足が遅れることから生まれた疑問だった。すこしでも早く先へ進みたいというあせりは、少年を常にがしつづけている。本当なら夜を徹してでも歩きたいとまで思っているくらいなのだ。

「どうなの、イビアス?」

 クスビからも問われ、「いるにはいるが……」と、〈から〉を渡ったことがあるらしいイビアスが言い渋った。

「狩るのも簡単だろう。おまえたちが口にしたいのなら止めはせんが、おれはつきあうのはごめんだぞ。あそこのいきものは、みなどこかしら病みくずれているからな」

 どんな毒を持っているか知れたものではない、とまで言われれば、さすがにアズナも引き下がるしかない。

 宿を探す前に食糧以外のいくつかの買い物――特にあさひもで応急に腰を縛っているアズナのための帯やマント、ブーツなどは、旅するうえで早急に必要だ――をすませるため立ち寄った店先でのことだった。

「おや、クスビのおじょうちゃんじゃないか」

「わうっ」

 いきなり伸びてきた浅黒くたくましい腕が、ロゼニアのあかがね色の髪を遠慮無しにかきまぜた。

「タキア!」

 あわてて腕からのがれた娘は、向き直るやいなや歓声をあげて相手に飛びつく。

 長身のみごとな体つきの女だ。炎のような赤毛、日に焼けたはだ。胸や腰に女の豊かなまるみを残しながらもひきしまったたいには、男に負けず劣らずのはがねのような筋肉をつけている。肩越しに背からのぞいている棒状のものはけんだろうか。見たところ武を生業なりわいにする者のようだ。

「どのくらいぶりだい? 相変わらずちいさいねー、あんたは」

「ひととせぶり。タキアは、あいかわらずおおきい!」

 抱き上げて子どもにするようにほおずりする女だったが、ロゼニアに不満は無いらしく、うれしそうにはしゃぐばかりだ。あ然とするアズナをよそに、クスビのあるじである男までもが平然と構えている。どうやらいつもの光景らしい。

 長身の女が、ロゼニアを首にぶら下げたままくろぎぬの男に目を向けた。

「イビアスも久々だね」

「ああ。そくさいそうだな、タキア」

「はは、まあね。こんなとこで出くわすのは珍しいじゃないか。仕事に向かう途中なのかい?」

「いや、逆だ。こうへもどる途中だな。そちらこそ、みや付きの武官のおまえが出てくるとは珍しい。なにがあった?」

「ああ、あたしはただの護衛。連れがこっちにある機械の修理に出張ってるからさ」

「連れ?」

とりふねの装置の――」

 とちょうどそのとき、店奥から声がかかった。

「タキア、やっぱりこの写しよりくわしい人はいないみたいだよ」

 店主をしたがえ奥から顔を出したのは、見る者にまるっこい印象をあたえる、小太りな男だ。まるっこい男は、長い筒状にした紙のたばを両腕で抱えた姿で、豆のようなちいさな目をしぱしぱとまたたかせる。

「あれ? その人たちだれ?」

「ハドリ」

 ロゼニアを下ろした女が大またに近づき、まるい男のかたわらに寄って立った。

「探し物は終わったのかい?」

「うん、終わったよ。やっぱりここでもダメなんだって。……って、ええと、タキア、そうじゃなくてね? 先に紹介して欲しいんだけども」

 頭ひとつ分は背の高い女を見上げて、ハドリと呼ばれた男が眉を寄せる。アズナたちを気にしているのだろう、落ちつかないようすだ。

「だいじょうぶ、ちょっと前後しただけさ」

 長身の女の唇がまるい男のひたいに触れる。それから二人ともにアズナたちに向き直った。

「紹介が遅れて悪かったね。彼は連れの機械技術士でハドリっていう――半年前にあたしの夫になった男だよ」

 ほこらしげな紹介を受けて、くしゃりと笑みくずれた男が頭を下げる。

「どうもはじめまして。ハドリとお呼びください」

 くろぎぬの男がまずしゃくをかえした。

こんいんのお祝いを申し上げる。お二方のみちゆきが常に平らかであるよう、お祈り申し上げる。おれは、イビアスだ。タキアから耳にしたことがあるかもしれないが、ただのクシの民として扱っていただきたい」

「はじめまして。ワタシはロゼニア。のはしら神のけんぞくで、イビアスのクスビ。おふたりともおめでとうございます」

「はじめまして、と、おめでとうございます。オレは、わけあってこうへ行くところで、イビアスたちに同行させてもらっています。名は……アズナ。変わっているのはわかってるけど、大事にしてる名です」

 やや固くなりながらアズナはつけ加える。

「で、さっきのつづきだが。近くにとりふねがあるのか?」

「ああ。ここのすこし上の山のほうにね。古いかみみやにあるんだけど、道が不案内でさ」

かみみやの奥に装置が設置されてるはずなんです、しろみやの記録にありました。けど、こうにある地図には、かみみやの位置はしるされていても、そこへ行く道が描かれていなくて。道を知ってる人か、もっとくわしい地図が無いか、この村で探してたんですが、やっぱり無いそうなんですよねぇ……」

 かされてる仕事なので困っているのだ、とタキアとハドリは二人そろってため息を落とした。

「なるほど、道案内か」

 くろぎぬの男がアズナへ顔を向ける。

「アズナ」

「なんだよ?」

「おまえ、森の中です方角に進むのは得意だな?」

「まあ、そうだけど」

「それははじめての森でも変わらないか?」

「よっぽど森がおかしくなってるんでもない限り、迷うことは無いと思う――って、おい」

 次に来そうな台詞せりふの想像がついた少年は、抗議を込めて男をにらんだ。

「余裕無いって、わかってるだろ」

「そうだな。だから喜べ。とりふねが使えれば、こうまでひとびで到着できる」

「は?」

 意味がわからない。アズナは眉根を寄せる。

「そういう装置だ、とりふねは。使える範囲に制限はあるが、あめみちけて移動できる。比べものにならないくらいに早くこうに着けるぞ。協力すれば一度くらいは使わせてくれるだろう?」

 最後の部分は機械技術士と女武官に向けたものだ。理解したアズナは期待の色に顔を染めた。

 タキアとハドリが顔を見合わせる。

「そんなものでたどり着けるなら、あたしらとしちゃありがたいが――どうだろうね、ハドリ?」

あめみちけるのにはしろみやの許可がいるんだ。けど、試験駆動はする予定だから――」

「それに協力してもらうって形なら、いけるのかい?」

「うん、……だいじょうぶ、かな」

 全く問題が無いとは言えないようだが、なんとか使わせてはもらえるらしい。

 こうしてアズナは彼らに協力することになり、こうへの道すじも変更となったのだった。

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