二章 ◆秘神
眠れる水の守り 1
水盤にたたえられた水がゆれるたび、あわい照りかえしが天井に
ふしぎな部屋だ。どこにも窓が無いかわりに、なめらかな石の壁が内側からぼんやりと発光して、部屋全体に明かるさをもたらしている。壁のすぐ向こう側に
水盤のかたわらにもうけられた石造りのちいさな
少女は時たま遊ぶのをやめて、あわい桃色の指先を水にひたし、水盤の底をのぞきこんだ。なにがおもしろいのか、くるくると表情を変え、いく度もくすくすと忍び笑っている。
「なにが見えるの、ラナティアナ?」
部屋のすみから声がかけられた。声の主は、寝そべった青年だった。華やかな容姿の青年だ。金と銀の糸をたばねたような
だが目をひく外見に反して、彼のまとうふんいきは、どこかもの
「谷の入り口よ」
水盤にかがみこむ少女はふり返らずにこたえた。
「お客様が来るみたいだわ、サイアス。からまるものたちと使い手が、近くまでやって来るのよ。素敵だわ、とても力に満ちあふれてる。もうひとつ、別のものもいるけど――これはなにかしら?」
少女は、水にひたしていないほうの手指でこめかみを押さえ、もどかしげに顔をしかめる。
「変なの。知っている気がするのに、思い出せないの。からまるものたちと近くて、でも遠いけはいがする」
「そう……」
サイアスと呼ばれた青年は、ぼんやりとした笑みをはく。
「あなたにもわからないなんて、ふしぎなことだね。新しく生まれたものだろうか」
「かもしれない。どんな力を持っているか、見てみたいわ。のぞきに行ってみようかしら」
「あなたが望むなら」
サイアスが、「けれど」と、自身に言い聞かせるようにつづける。
「からまるものたちが相手なら、わたしも見つかってしまうかもしれないね。
「ダメよ」
とたんふり返った少女は、鋭く放って青年に
「
横たわる
「でも、ラナティアナ」
されるにまかせながら、青年が気弱につづける。
「わたしたちはもうずいぶんと長く逃げつづけたよ。身にたくわえた
「いいえ、尽きさせないわ!」
少女は強く首をふった。
「
「わかったよ、ラナティアナ」
青年が腕を持ち上げ、やわらかく少女の
「
少女の目から狂乱の色が消える。青年の口づけが、なだめるようになめらかな
「約束だもの、あなたといっしょにいるよ」
「ええ、そうよ、サイアス。約束したもの。わたしたちは、はじまりの神々がもう一度目を覚ますまで、ずっといっしょなのよ」
手を離せば消えてしまうとばかり少女は青年にしがみつくと、その胸に顔をうずめてちいさくつぶやく。
「なにを
少女の髪に手を置き、青年が悲しげに天井をながめやる。水盤にゆれる水は、美しい
* * *
「つまり、島から島へ人が移動するのには本当は
「そういうことだな」
人の足によって踏み固められた道が、緑あふれる谷の奥へとつづいている。
山から吹き降ろす午後の風はすずやかで、初夏の日差しにあぶられてほてった体をやさしくいやしてくれる。アズナの心の内とは別に、きわめてのどかな旅路だ。
歩きながらアズナは、イビアスからさまざまなことを教わっていた。
最初の夜、自ら無知であると宣言した通り、アズナのケルス
たとえばこの国ケルス
おのおのの島は各一人の
今、自分たちが旅している地がどの島であるのか。
旅に関係する知識だけではない。日常のこまごまとしたことがらもだ。特に、基本的な、
「しょうがないだろっ、村じゃほとんど使うこともなかったんだから!」
アズナは耳の先まで赤くなって抗議した。
オルメイス正教の信徒なら生まれてから日常的に目にするため自然と覚えるが、辺境の深い森の奥などという特殊な村の環境では、その機会自体が少ないのだ――いいわけにイビアスたちは納得してくれたらしい。基礎的なことがらからすべて教えてくれると約束をもらった。
とは言え、今もまた「いっしょにいてやる
ひねたやりとりがすっかり定着しつつある
軽口とも嫌味の応酬ともつかないやりとりをするうちに、
予定通りにいけば一行はこの村で食糧を補給し、谷を抜けてそのまま〈
「わざわざ仕入れなくても、狩りながら行けばいいんじゃないか? 〈
前夜、旅程を確認する中でアズナは尋ねた。荷物が増えればその分足が遅れることから生まれた疑問だった。すこしでも早く先へ進みたいというあせりは、少年を常に
「どうなの、イビアス?」
クスビからも問われ、「いるにはいるが……」と、〈
「狩るのも簡単だろう。おまえたちが口にしたいのなら止めはせんが、
どんな毒を持っているか知れたものではない、とまで言われれば、さすがにアズナも引き下がるしかない。
宿を探す前に食糧以外のいくつかの買い物――特に
「おや、クスビのお
「わうっ」
いきなり伸びてきた浅黒くたくましい腕が、ロゼニアのあかがね色の髪を遠慮無しにかきまぜた。
「タキア!」
あわてて腕からのがれた娘は、向き直るやいなや歓声をあげて相手に飛びつく。
長身のみごとな体つきの女だ。炎のような赤毛、日に焼けた
「どのくらいぶりだい? 相変わらずちいさいねー、あんたは」
「ひととせぶり。タキアは、あいかわらずおおきい!」
抱き上げて子どもにするように
長身の女が、ロゼニアを首にぶら下げたまま
「イビアスも久々だね」
「ああ。
「はは、まあね。こんなとこで出くわすのは珍しいじゃないか。仕事に向かう途中なのかい?」
「いや、逆だ。
「ああ、あたしはただの護衛。連れがこっちにある機械の修理に出張ってるからさ」
「連れ?」
「
とちょうどそのとき、店奥から声がかかった。
「タキア、やっぱりこの写しよりくわしい人はいないみたいだよ」
店主をしたがえ奥から顔を出したのは、見る者にまるっこい印象をあたえる、小太りな男だ。まるっこい男は、長い筒状にした紙の
「あれ? その人たちだれ?」
「ハドリ」
ロゼニアを下ろした女が大またに近づき、まるい男のかたわらに寄って立った。
「探し物は終わったのかい?」
「うん、終わったよ。やっぱりここでもダメなんだって。……って、ええと、タキア、そうじゃなくてね? 先に紹介して欲しいんだけども」
頭ひとつ分は背の高い女を見上げて、ハドリと呼ばれた男が眉を寄せる。アズナたちを気にしているのだろう、落ちつかないようすだ。
「だいじょうぶ、ちょっと前後しただけさ」
長身の女の唇がまるい男の
「紹介が遅れて悪かったね。彼は連れの機械技術士でハドリっていう――半年前にあたしの夫になった男だよ」
ほこらしげな紹介を受けて、くしゃりと笑みくずれた男が頭を下げる。
「どうもはじめまして。ハドリとお呼びください」
「
「はじめまして。ワタシはロゼニア。
「はじめまして、と、おめでとうございます。オレは、わけあって
やや固くなりながらアズナはつけ加える。
「で、さっきのつづきだが。近くに
「ああ。ここのすこし上の山のほうにね。古い
「
「なるほど、道案内か」
「アズナ」
「なんだよ?」
「おまえ、森の中で
「まあ、そうだけど」
「それははじめての森でも変わらないか?」
「よっぽど森がおかしくなってるんでもない限り、迷うことは無いと思う――って、おい」
次に来そうな
「余裕無いって、わかってるだろ」
「そうだな。だから喜べ。
「は?」
意味がわからない。アズナは眉根を寄せる。
「そういう装置だ、
最後の部分は機械技術士と女武官に向けたものだ。理解したアズナは期待の色に顔を染めた。
タキアとハドリが顔を見合わせる。
「そんなものでたどり着けるなら、あたしらとしちゃありがたいが――どうだろうね、ハドリ?」
「
「それに協力してもらうって形なら、いけるのかい?」
「うん、……だいじょうぶ、かな」
全く問題が無いとは言えないようだが、なんとか使わせてはもらえるらしい。
こうしてアズナは彼らに協力することになり、
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