緋色の帯の少年 2
そっと耳にすべり込むような声にアズナは耳をかたむけていた。ひそやかにすすり泣く声だ。かぼそく消え入りそうなだれかの泣き声が、さきほどからずっとひびいている。
ああ、まただ。また、あの人が泣いている。少年は立ち上がり、すすり泣きのもとへと暗い坂道をまっすぐにくだってゆく。
ものごころついたころから、それは夢の形を取っていく度も彼のもとをおとずれていた。深い闇の
その者を、泣くな、とアズナはなぐさめる。泣くな、オレがいるから、と。とこしえにあなたをささえる、オレがいるから、と。そしてその背に手をそえ――自分の手が見知らぬ大人の手にすりかわっていることに驚いて悲鳴をあげるのだ。変わりはてた自分の姿に、同じく変わりはてた声で悲鳴をあげるのだ。
夢はいつもそこでとぎれ、彼は目覚める。
今夜も同じだった。嫌な汗をかきながら目を覚ましたアズナは、しかしそこがいつも眠る
夢とは別の者の泣き声が、はうようにどこかから聞こえてくる。おそらくは
アズナが育ったのは、深い森にかこまれた湖に面し、そのめぐみを受けて日々をいとなむちいさな村だ。
月が太りはじめる前のことだ。地をゆらし、木々やいくつかの家屋を倒壊させながら、
押し寄せる波に
湖から水を引き育てていた稲も、葉先から色を変えて
さらには追い打ちをかけるように、湖の
姿を見た者はいる。
生き残った者のうち、ある者は
やがて、だれともなく口にしはじめた。島に――マガツヒが
村の養い子だったアズナが
『
アズナに告げた大人たちの顔は、
夜明けまであとどのくらいだろうか。明かりの無い中、手探りで壁へと近寄り、壁板のすきまから外をのぞいた。
水面のかすかなきらめきが見える。今閉じ込められているのは、湖にいちばん近い空き小屋だ。近くに人のけはいは無さそうだが、
逃げられない。逃げたところで行く場所も無いのだ。押し寄せるむなしさに少年は
どれほどたっただろう。床にころがり、まんじりともせずに暗い天井をながめていると、ほと、と戸をたたく者があった。ほと、ほと、とちいさく、けれどたしかにだれかが小屋の戸をたたいている。次いで、アズナ、とささやくように呼んだ声は、聞きなれたものだ。
アズナは
「クラト?」
尋ねれば戸板の向こうで、幼なじみの少年が安堵の息をこぼした。
「よかった、生きてた。怪我してない?」
「無いさ。……おまえ、なんでここへ? 見つかったらまずいんじゃないのか?」
「だいじょうぶだよ、見張りはいない。
ゴトリ、となにかをはずす音がする。
音も無く
「逃がしに来たんだ。さあ」
「ばッ……ばかクラト」
「オレはマガツヒの
「じゃあ、アズナは
クラトのやさしい黒い目が、わずかに
「
クラトは思いがけないほど強い力でアズナの
「だれかを
波に洗われたまるい小石を足の裏に感じながら、青い闇に眠る湖のかたわらを風と
村のはずれの、湖から森へと流れ出る川まで来たところで、ついにクラトが立ち止まった。
「
これを、とクラトがふところから取り出したのは、ちいさな
「ねえさんが力を
アズナは熱いものをまぶたに感じ、ギュッと目をつぶる。わたされた袋の中身は、どれも今の村では貴重なものだ。無理をしてくれだのだ、とたやすく想像がつく。
「すまない……」
クラトがかすかに笑い声を立てた。気にしないで、と。
「マガツヒの件は、
もし、と、わずかに口ごもって彼はつづけた。
「もしもまだこの先も、アズナが
アズナはうなずき、「約束する」とこたえる。
「
「ありがとう」
クラトはアズナを一度強く抱きしめるとすぐに放し、一歩
「さよなら、アズナ。大好きだったよ。女神のほほ笑みで、君の道行が平らかでありますように」
「ありがとう」
アズナもかえした。
「大好きだ、クラト。また会うまで、さよなら」
そうしてアズナは、流れる川にそって歩き出した。背を向けるせつな、目にしたクラトのほほ笑みが、こののちも長く心に残りつづけた。
川ぞいにくだってゆくのは、言われた通り楽ではなかった。もともと人の手の入った道があるわけではないのだ、すんなりと進めるはずもない。さらに、アズナのはくサンダルは、森を歩くには適さなかった。剥き出しの
それでも歩みをやめるわけにはいかない。アズナは歯を食いしばる。自分を逃がすために、身があやうくなるのもかまわず動いてくれたクラトの苦心を、無駄にするわけにはいかないと思ったのだ。
いく度かは深すぎる
だれかに話せば、闇の落ちた中で獣や魔に襲われもせず歩きつづけられたのは
押し寄せる疲労と
どのあたりまで進んだのだろうか。来た道をふり返り、アズナは考える。クラトは、森を抜けるのに
脇をたどってきた川は、いまや地面を削り、足もとのずっと下のほうを流れている。先を急いではいるのだが、ひとまず
ところどころに草の生えた斜面はすべりやすく、気をゆるめればすぐに流れへころげ落ちかねなかった。注意深く足もとを探りながら、朝露にしめる土の上をそろそろとくだってゆく。
ふと人声が聞こえた気がして、アズナはそちらをふり
もしや追手に追いつかれたのだろうか、と五感を強く
――なにも、無い。
ただ梢の上で鳥たちが、なごやかにさえずるばかりだ。
うわ、と。体が
あがくことすらあざ笑う勢いで、押し寄せる流れに深みへ追いやられる。冷たい水が
そうして次に目を開けて見えたのが。
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