緋色の帯の少年 2

 そっと耳にすべり込むような声にアズナは耳をかたむけていた。ひそやかにすすり泣く声だ。かぼそく消え入りそうなだれかの泣き声が、さきほどからずっとひびいている。

 ああ、まただ。また、あの人が泣いている。少年は立ち上がり、すすり泣きのもとへと暗い坂道をまっすぐにくだってゆく。

 ものごころついたころから、それは夢の形を取っていく度も彼のもとをおとずれていた。深い闇のりたみやにめぐらされたとばりをくぐり抜けた先、なにごとかをなげきつづける人物がいる。流れる涙を吸い過ぎたのか、もとは白かっただろう衣裳きものもくすんだなまりいろに変わり、長い髪はほつれつやをうしなって、もはや見る影もない。

 その者を、泣くな、とアズナはなぐさめる。泣くな、オレがいるから、と。とこしえにあなたをささえる、オレがいるから、と。そしてその背に手をそえ――自分の手が見知らぬ大人の手にすりかわっていることに驚いて悲鳴をあげるのだ。変わりはてた自分の姿に、同じく変わりはてた声で悲鳴をあげるのだ。

 夢はいつもそこでとぎれ、彼は目覚める。

 今夜も同じだった。嫌な汗をかきながら目を覚ましたアズナは、しかしそこがいつも眠るやしろのそばの小屋でないと気づいた。

 夢とは別の者の泣き声が、はうようにどこかから聞こえてくる。おそらくはさく亡くなった者の身内だろう。ああ、そうか、と彼は思い出した。そうだった。自分はにえに選ばれたのだ。

 アズナが育ったのは、深い森にかこまれた湖に面し、そのめぐみを受けて日々をいとなむちいさな村だ。

 月が太りはじめる前のことだ。地をゆらし、木々やいくつかの家屋を倒壊させながら、すす黒い煙をく島が湖に浮かびあがった。

 押し寄せる波にまれるなんはのがれられたが、あたりにはたまごのくさったような異臭がただよい、水が死んだ。集落を養ってきた魚たちは腹を見せて浮かび、長く水につけた手や足のはだは、すこしするとただれ黒ずむ。漁などできない。浜に引きあげられたままの舟には灰がつもるばかりだ。

 湖から水を引き育てていた稲も、葉先から色を変えてれていった。薄日のした茶色くしおたれた姿は、だれの目にも寒々しく、ただ先行きへの不安を村に植えつけた。

 さらには追い打ちをかけるように、湖の彼方かなたから恐ろしいものがやってきた。恐ろしいもの、と。そうとしか言いようがない、正体がわかる者はだれもいないのだから。

 姿を見た者はいる。に出会い、かろうじて命をながらえた者が、いく人かは。

 生き残った者のうち、ある者はを、おぼろににじむ人のようだと言った。ある者はを、くさりはてたしかばねのようだと言った。また、ある者は赤黒いきりのようだと語り、ある者は赤い光のようだったとほかの者に伝えた。

 みな、ばらばらな言いようで、はっきりと形が定まらない。

 やがて、だれともなく口にしはじめた。島に――マガツヒがしているのだと。それをなぐさめない限りは、村にわざわいがりかかりつづけるのだと。

 村の養い子だったアズナがにえに選ばれたのは、そんな声が流れはじめてからさしてたたないうちだ。

の朝、日の出とともに島へ向かう』

 アズナに告げた大人たちの顔は、みょうにゆがんでいた。あわれんでくれているのだろう。育ててくれた中で、彼らを冷たいと感じたことは無かった。だがこのとき、自分や自分の家族がにえとならずにすむことへの安堵、優越感に似た微細ななにかも、あわれみのうちにけて見えたのだ。真っ先に捧げられるために飼われる者――つねがどういった扱いであろうとも、村の養い子とは、つまりはそういうものなのだ。ただそれに気づかずぬくぬくと暮らしていた自分がおろかだったのだと、アズナは唇を噛む。

 夜明けまであとどのくらいだろうか。明かりの無い中、手探りで壁へと近寄り、壁板のすきまから外をのぞいた。

 水面のかすかなきらめきが見える。今閉じ込められているのは、湖にいちばん近い空き小屋だ。近くに人のけはいは無さそうだが、じょうりているのか、力を加えても戸はがたつくばかりでけっしてひらくことは無かった。

 逃げられない。逃げたところで行く場所も無いのだ。押し寄せるむなしさに少年はひざをつく。

 どれほどたっただろう。床にころがり、まんじりともせずに暗い天井をながめていると、ほと、と戸をたたく者があった。ほと、ほと、とちいさく、けれどたしかにだれかが小屋の戸をたたいている。次いで、アズナ、とささやくように呼んだ声は、聞きなれたものだ。

 アズナはね起き、戸へ走り寄った。

「クラト?」

 尋ねれば戸板の向こうで、幼なじみの少年が安堵の息をこぼした。

「よかった、生きてた。怪我してない?」

「無いさ。……おまえ、なんでここへ? 見つかったらまずいんじゃないのか?」

「だいじょうぶだよ、見張りはいない。みなマガツヒを恐れて家にこもってるもの。待ってて、アズナ。今戸をけるから」

 ゴトリ、となにかをはずす音がする。

 音も無くひらいた戸の向こうから、アズナよりも線がほそくすこしだけ大人びた顔つきの少年が、ほほ笑みを浮かべて手を差しのべた。

「逃がしに来たんだ。さあ」

「ばッ……ばかクラト」

 きだした息は、かすれたうめきとなった。のどの奥に固いものがつまっているようで、体がふるえる。逃げたいと思っていた。死にたいわけではないのだ、今も。けれど自分が逃げてしまえば、村はどうなるのだろう。目の前の、幼なじみである親友の命はどうなるのだ。

「オレはマガツヒのにえなんだぞ。逃げれば村に……おまえたちにわざわいがりかかるんだぞ。オレを逃がしたのがばれればただじゃすまないのは、おまえだってわかるじゃないか」

「じゃあ、アズナはぼくに友だちを見捨てろって言うの?」

 クラトのやさしい黒い目が、わずかにけんをおびた。怒ったように早口で、大人びた少年はつづける。

きみぼくに、自分の身かわいさに友だちを見捨てる人間になれって言ってるんだよ? だいたい、こんなのおかしいよ。人を襲うようなマガツヒが、たった一度にえを捧げたくらいでしずまるとは思えないもの。きっとまたすぐに次のにえが必要になるよ、くりかえしだ」

 クラトは思いがけないほど強い力でアズナのうでをつかみ、ぐいと引っ張る。引き出されるままにアズナは小屋からよろめき出た。

「だれかをせいになんてしちゃいけないんだ。行こう、アズナ」


 波に洗われたまるい小石を足の裏に感じながら、青い闇に眠る湖のかたわらを風とける。さえぎるものの無いその道は、ひどく精神を削るものだったが、彼らの神は今夜二人のためにほほ笑んでくれたようだ。

 村のはずれの、湖から森へと流れ出る川まで来たところで、ついにクラトが立ち止まった。

ぼくは、ここまでだ。アズナは夜明けまでにできるだけ村を離れて。大変だけど、川ぞいにくだっていけば、ふたばんとすこしで森を抜けられると思う」

 これを、とクラトがふところから取り出したのは、ちいさなまもりがたなあさの小袋だった。袋を開くと、中には干した魚といりごめ、十あまりの銅のつぶが入っていた。

「ねえさんが力をしてくれた。本当にすこししか用意できなかったけど……きみの役に立てて」

 アズナは熱いものをまぶたに感じ、ギュッと目をつぶる。わたされた袋の中身は、どれも今の村では貴重なものだ。無理をしてくれだのだ、とたやすく想像がつく。

「すまない……」

 クラトがかすかに笑い声を立てた。気にしないで、と。

「マガツヒの件は、ぼくとねえさんでみなを説得してみるよ。どうにかできるかは、わからないけど……。でも、ぼくみなも、がある限りこの土地を離れるわけにはいかないから」

 もし、と、わずかに口ごもって彼はつづけた。

「もしもまだこの先も、アズナがぼくたちを好きでいてくれるなら、こうへ行って。行って、日の柱女神オルメサイアに、マガツヒをくだす力を持つ人たちを送ってくれるよう頼んでほしい」

 アズナはうなずき、「約束する」とこたえる。

日の柱女神オルメサイアに助けを求めて、ここへもどってくる」

「ありがとう」

 クラトはアズナを一度強く抱きしめるとすぐに放し、一歩がった。

「さよなら、アズナ。大好きだったよ。女神のほほ笑みで、君の道行が平らかでありますように」

「ありがとう」

 アズナもかえした。

「大好きだ、クラト。また会うまで、さよなら」

 そうしてアズナは、流れる川にそって歩き出した。背を向けるせつな、目にしたクラトのほほ笑みが、こののちも長く心に残りつづけた。



 川ぞいにくだってゆくのは、言われた通り楽ではなかった。もともと人の手の入った道があるわけではないのだ、すんなりと進めるはずもない。さらに、アズナのはくサンダルは、森を歩くには適さなかった。剥き出しのはだはすぐに傷つき、豆がつぶれた。

 それでも歩みをやめるわけにはいかない。アズナは歯を食いしばる。自分を逃がすために、身があやうくなるのもかまわず動いてくれたクラトの苦心を、無駄にするわけにはいかないと思ったのだ。

 いく度かは深すぎるやぶや大きな岩にはばまれかいなくされたが、アズナはそのつど流れの音をたよりに夜の森を抜け、先へと足を進めつづけた。

 だれかに話せば、闇の落ちた中で獣や魔に襲われもせず歩きつづけられたのはせきだと驚かれるかもしれない。だがこれはけっしてせきではないのだ。が村を守る限り、村と村をいだく森の中で、人が獣や魔に襲われることは無い。もっとも、その力がマガツヒには通じないのがくやしいところだが。

 押し寄せる疲労とのどのかわきでさすがにアズナの歩みがにぶりはじめたころ、ついにが昇りはじめた。うっすらとあかるんでいた夜明けの森に、梢のかさなりをすり抜けてきよらかな光が入る。せんこくから存在を主張しはじめていた鳥たちが、かしましくさえずりはじめ、朝の森の静かなざわめきが彼の身をつつんだ。

 どのあたりまで進んだのだろうか。来た道をふり返り、アズナは考える。クラトは、森を抜けるのにふたばんとすこしかかると予想していた。それなら先を急いでもまだしばらくは歩きつづけなければならないはずだ。さきほどから感じている疲労と空腹はまだ耐えられないほどではないと思うが、のどのかわきだけはどうにもならない。

 脇をたどってきた川は、いまや地面を削り、足もとのずっと下のほうを流れている。先を急いではいるのだが、ひとまずのどをうるおしたほうがよさそうだ、とアズナは足場を探して川へ下りることを選んだ。

 ところどころに草の生えた斜面はすべりやすく、気をゆるめればすぐに流れへころげ落ちかねなかった。注意深く足もとを探りながら、朝露にしめる土の上をそろそろとくだってゆく。

 ふと人声が聞こえた気がして、アズナはそちらをふりあおいだ。

 もしや追手に追いつかれたのだろうか、と五感を強くます。

 ――なにも、無い。

 ただ梢の上で鳥たちが、なごやかにさえずるばかりだ。

 そらみみだったかと肩の力を抜いたとたん、足場がもろくくずれた。

 うわ、と。体がちゅうに投げ出されたと気づいた直後には、アズナは激しく水面を突きやぶっていた。

 あがくことすらあざ笑う勢いで、押し寄せる流れに深みへ追いやられる。冷たい水がのどをふさぎ、木の葉のように翻弄されて意識がまれた。


 そうして次に目を開けて見えたのが。

 くろぎぬをかぶった男とあさぎ色の瞳を持つ若い娘が、こちらをのぞき込んでいる姿だった。

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