DAWN~天涯之夜明~
若生竜夜
一章 ◆邂逅
緋色の帯の少年 1
木々が落とす薄闇の下、あめ湯のような暗い
と、突然、あかがねの髪の娘が、アとちいさく声をあげた。
「どうした、ロゼニア。魔でもいたか?」
「ちがう。イビアス、あれを見て」
イビアスと呼ばれた男は、
太い丸太のような影が水面でゆれていた。
浮かんでいるのは少年だった。川底に沈んだ倒木のものだろう、つき出した木の枝に
トン、と舟底が倒木にかかった。浅瀬にたまる木の葉のように船尾が弧を描いて、かってに舟が横づけになる。
「ロゼニア、そんなものにさわるな」
船べりより手を伸ばし少年の上着をつかもうとしたあかがねの髪の娘を、イビアスは制した。
「死者の
娘――ロゼニアは動きを止めてふり返った。
「だいじょうぶ、これはまだ死んでない」
「
「ない。たすける」
あかがねの髪の娘がふたたび手を伸ばす。
「なに?」と、娘がいぶかしげに男を見上げる。
「やはりやめておけ。
とたん、たじろぐほどの鋭さで、ロゼニアがイビアスをにらんだ。
「よくないのはイビアスのほう。ニンゲンのくせに、まだ生きてるモノを見すてていくのか」
小舟の上に張りつめた空気が流れる。
水を吸った
ひとまず水を
瞬間、のぞき込んでいたイビアスたちは息を
瞳の中に、夜明けの嵐の海があった。
少年が、はた、とまばたきをした。はた、はた、と。そうして茫洋としていた視線がのぞき込む二人に定まると、
まぼろしがやぶれる。小舟が大きくゆれ、少年にあやうく頭をぶつけられそうになったロゼニアが、短い悲鳴をあげてのけぞった。
「なんだおまえたちはっ!」
「ずいぶんなごあいさつだな、命の恩人に向かって」
イビアスはフンと鼻を鳴らした。
「安心しろ、取って食いはせん。怪しい者でないとまでは言わないが、死にかけている人間を拾って助けてやるくらいの親切心は持っている」
少年のまなじりが、いっそうつり上がる。
「信用できるもんかッ!」
「たしかに……」
ロゼニアがちいさくつぶやく。あのもの言いで信用するのは、よほどのバカかお
「別に信用しろとは言わん。だが、もう一度水の中にもどる気がないなら、おとなしく座れ。おまえが溺れるのは自由だが、舟ごとひっくり返されて
「っ……」
なおも言いつのろうとする少年をさえぎり、イビアスは、短く静かに命じた。
「座れ」
うむを言わせぬ強さだった。
少年は
イビアスは、口もとを満足の笑みにゆがめて、自分とあかがね色の娘をそれぞれ
「俺の名は、イビアス。こちらはロゼニアという。おまえは?」
ついと少年に指を向ける。少年はふてくされたように短く答えた。
「アズナ」
「アズナ?」
かしげた首に合わせて
「変わった名だな」
イビアスはごく一般的な感想をのべたに過ぎなかったが、少年は気に入らなかったようだ。
「うるさい! オレの名だ、あんたには関係ない!」
たちまち噛みついてきた。
アズナの
「……で」と、アズナが口を開いた。
「あんたたちはオレをどうするつもりだ?」
「どうするつもりとは?」
「どこかに売り飛ばすつもりなのか?」
どうしてここまで、と思うほどのひねくれぶりだ。
「そんなことしない」
ロゼニアが即座に否定した。
「ワタシたちは、おぼれてるモノをほうっておけなかっただけ。売りとばすためにたすけたわけじゃない」
「売れる先があるとも思えんがな」
つぶやいたイビアスを、娘のブーツが
「おねがい、しんじて」
あさぎ色の大きな瞳が、少年を見つめる。
先に目をそらしたのは、アズナのほうだった。
「……わかった。あんたのことは信用する」
先からの言動のせいだろう、イビアスのほうはやはり信用できないらしい。だが贅沢を言っていてはきりがないとでも思ったのか、ロゼニアは自分だけでも信用してもらえたことで良しとしたようだ。
「ありがとう」
ニッコリと笑い、「アズナはどこかへいくとちゅうなの?」と続けた。
「ワタシたちは、ケルスタニアへむかうとちゅうなの」
「
アズナのまとう空気が変わった。
「奇遇だな。オレも
「そうなの?」
「ああ。
「たいへんだったんだね」
「うん、まあ……そうでもないけど」
しみじみと相づちを打たれ、少年が居心地悪げに口ごもる。
イビアスは、黙って川岸へ目をやった。
アズナの話はあきらかに作り話だ。
見えすいたうそをつくほうもつくほうだが、それに乗ってやる自分たちも大概だ、とイビアスは声に出さず自嘲した。
いつのまにか流れにもどっていた小舟は、木々のトンネルを抜け、岸から離れた川の中ほどをくだっていた。両岸は変わらず木々にうもれているが、それでも人里が近いのか、
やがて木々のあいだのまぼろしのような道は川へと寄り添うようになり、ついには浅瀬にもうけられた
イビアスは
「野宿だな」
岸へあがるやいなや、空を見上げて彼はつぶやいた。夕闇がすでに
無理に進めば
思案するまでもなく、森へすこし分け入ったちいさな空き地を今日の夜営地と定め、イビアスたちはその準備に入ったのだった。
*
夜の森というものは、静かさとは無縁の世界だ。たぶん野ねずみだろう、小動物の走る音。虫の
しかし、張りめぐらせた簡易障壁に守られるこの空地は今のところ平和だ。イビアスは耳をかたむけていたとよめきから焚火へ意識をもどし、手の中の乾いた小枝を炎にくべた。
体が乾き温まるやいなや眠りこんでしまったアズナは、今はやわらかい草をあつめた地面でやすらかな寝息を立てている。周りのあらゆるものを敵と見るような警戒心も、溺死しかけた体の訴える疲労には勝てなかったのだろう。
「イビアス、なにをかんがえてる?」
ロゼニアが、少年に自分のマントをかけてやりながら、じっと焚火を見つめている男に声をかけた。あかあかと燃えさかる炎が、ゆれ踊る影をあたりに投げかけている。イビアスは火に体を向けたまま、呼びかけに首だけをめぐらせ、「なにも」とこたえた。
「あまり
「なぜ?」
「やっかいごとに巻き込まれる」
ロゼニアがちいさく首をかしげる。すべるような足取りで焚火のふちをめぐり、イビアスのそばにやってきた。
「どういうことだ? アズナになにかあるのか?」
イビアスはしばし口を閉じる。沈黙を肯定と受け取ったのだろう、あかがねの髪の娘は
「それでも、ヨワイモノはまもってやる――ニンゲンはそうだと思っていたが?」
「相手の種類によるな。悪い奴の中にも『弱い者』はいる」
「アズナはワルイモノなのか?」
「さあな。
イビアスはロゼニアの手を引いて、かたわらに座らせた。
「だが、うそつきではあるな。あれのしていた帯を見ただろう?」
「うん」
「何色だった?」
川べりを離れるさいに捨てた腰帯の色を尋ねる。
「……あかいいろ」
「そうだ、
「
うなずくように、焚火がちいさくはぜた。
「おそらくは、
「ふうん。じゃあ、アズナは運がよかったわけだ、たすかったんだから。でもそれで? やっかいごとっていうのは? そのニエとやらにかんけいがあるのか?」
「大いにな」
焚火がはぜる。炎のゆらめきに、落ちた影もゆらめく。
「
アズナが生きていると知れれば、新たな
「でも、ぜったいにみつかるとは限らない」
ロゼニアは眉間にしわを寄せた。
「ふくはきがえられるし、かおは
「たまたまひろっただけの子どもに命をかけろと? なぜ
イビアスはあくまで冷淡な言葉を
「そういうのをハクジョウという」
ロゼニアがなじった。
「ひろったもののめんどうをサイゴまでちゃんとみないのは、よくない。イビアス! ッ……!?」
いらだたしげに叫んだ彼女の口を、突然イビアスが手でふさいだ。
「静かに」
ささやく彼に、ロゼニアは「なに?」と視線だけで尋ねる。
それからようやく周囲の異変に気づいたらしく、表情を引きしめた。
うるさかった虫の
パシ、となにかの折れる音がした。
パシ、と。
落ちている枯れ枝を、だれかがあやまって踏みつけたような音だ。
巨大ななにかが近づいてくるけはい。
フッ。
フッ。
時おりまじる荒い息づかい。大型の獣か、それともより
「ロゼニア、
イビアスは娘の耳に早口でささやいた。
「静かにな」
「わかった」
ロゼニアがちいさくこたえ、するりと彼のもとからはなれる。
焚火に照らされる男は、闇の奥にあるけはいを探りながら口角をあげた。冷えた血をわき立たせる闘争が、やって来ようとしていた。
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