2021年10月18日 【賞味期限切れ】
帰宅してすぐ、ソファにスーツのジャケットを放り投げると、美咲は冷凍庫を開けてタッパーを取り出した。蓋にはメモが貼ってある。
“ごはん 唐揚げ きんぴらごぼう ほうれん草ときのこ 賞味期限:9/20”
美咲はその丁寧な筆跡を一瞥したあと、メモを無造作にはがして、ごみ箱に投げ捨てた。投げ捨てるのとほぼ同時の勢いでタッパーを電子レンジに放り込む。電子レンジの扉はガチャンと大きな音を立てて閉まった。適当な分数にセットしてスタートボタンを押した。
終電を逃してタクシーで帰宅した午前1時。キッチンの明かりが暗い1LKの室内をぼんやりと照らしている。ここ最近は仕事が忙しく、このくらいの時間の帰宅が当たり前になっていた。早く寝ないと次の日が持たないため、この間にパジャマに着替えるのが美咲のルーティンだ(面倒くさがり屋なので、お風呂は出社前に入る。そのほうが寝ぐせも取れて効率的だ)。しかし、今日は動く気にならなかった。電子レンジの前で壁にもたれかかって、タッパーがくるくると回るのをぼんやりと見ていた。
“冷凍しても1か月くらいが限度だよ”
ふと、彼の声が脳裏によみがえる。
几帳面な人だった。美咲は仕事のスイッチが入るとそれ以外のことがどうでもよくなってしまう。コンビニ弁当やレトルト食ばかり食べている美咲を見て、休日に作り置きしたご飯を、1食ずつタッパーに分けて冷凍庫に準備してくれるようになった。彼の作るご飯はおいしく、たいてい1か月もかからずに消費してしまっていた。しかし美咲は内心、冷凍していれば2、3か月くらい大丈夫だろうと思っていた。美咲はそういうタイプの人間だった。
心配だなぁといつも優しいまなざしを美咲に向けながら話す彼の存在は、4年という長い年月の中で美咲の日常そのものになっていた。
その当たり前だった日常は、もうこの家で見ることはないのだが。暗い室内で美咲は自虐的な笑みを浮かべた。
ピーッ、ピーッ、と音を立てて、電子レンジの明かりが消えた。扉を開けるとおいしそうなにおいが漂ってくる。これは、2か月前の彼の優しさ。タッパーを手に取り、おいしそうなご飯の中に美咲の見落としていたものがあるのではないかとじっと眺めてみた。しかし、今更もう遅い。感傷に浸りきる前に、ダイニングテーブルに移動して、ご飯を勢いよく食べ始めた。
今日、街中で久しぶりに彼の姿を見た。少し前までの彼と変わらない姿。服装の好みも、優しいまなざしも。美咲の知っている彼だった。変わったところといえば、彼の隣を歩いていたのが、美咲の知らない女性だったことだけ。
そっか、今日はお休みだったんだ。
まだ2か月くらいしか経っていないのに、早すぎない?
でも、素敵な人だったから。
そりゃ、そうか。
様々な思いがせめぎあう心に蓋をして、美咲は仕事に打ち込んだ。最近の美咲は前にもまして仕事にのめり込むようになっていた。仕事に全力を出すことで、彼のことを忘れて前に進もうとしていた。
しかし、今日彼にあって、前に進んでしまった彼を見て、いかに美咲が泥道に足を取られているのかを思い知らされてしまった。
過去から動けていなかったのは美咲だった。
タッパーに詰められたご飯だって、律儀に冷凍庫に保管しておかなくともよかった。捨てるなり、食べてしまうなりすればよかったのだ。そうしなかったのは、もう終わてしまったのだという事実と向き合いたくなかったからに他ならなかった。
美咲は無心で食べ進め、ものの5分で完食した。やっぱり2か月くらいなんてことなかったじゃないか、と美咲は心の中でつぶやいた。でも、それを伝えることはもうないし、彼にとってこのご飯は賞味期限切れなのだ。
「ごちそうさま。そして、さようなら」
手を合わせて美咲は言った。
タッパーを洗ってから、美咲は珍しくお風呂に入ってから寝ることにした。
お風呂に入って、きちんと泣いてから寝ようと、そう考えた。
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