2021年10月11日 【前へ】
「よーい、ドン!」
快晴の秋空の下、中学校の運動場に乾いたピストルの音が鳴り響いた。
その音を皮切りに、陽太は勢いよく地面を蹴って走りだした。履きなれた靴が土をつかみ、後方へと散らしていく。
運動会も終盤に差し掛かった午後2時。行われているのは3年生の400m走だ。トラックを囲むように組み立てられた白いテントからは、大きな声援が聞こえてくる。友達か、はたまた息子か。それぞれに応援したい走者がいるのだろう。その声援の中からは陽太を呼ぶ声も聞こえてきて、それが陽太の脚を前へ前へと押しだしていく。
スタート直後の団子状に固まりあった中から真っ先に抜け出した陽太は、100mを走った辺りで内側のレーンを陣取り1番手に出た。風が陽太の脇をひゅんと通り過ぎていく。
——あとはこれを維持できれば……。
その時、ふいに右足の甲が痛んだ気がして、かばおうとした体の軸がわずかにずれた。前へと進む勢いがほんの一瞬失われる。
その一瞬をつかれた。後ろからやって来た走者に追い抜かれてしまったのだ。祐樹だ。陽太は急いで体勢を立て直して祐樹を追う。
——ちくしょう。
叫びだしたくなったが、今の陽太にその余裕はない。もう完治していて痛みなどないはずなのに。心の端にどす黒い気持ちがちらつく。
祐樹とは中学1年生のころから陸上部で研鑽を積んできた仲だった。そして陽太にとって大親友と呼べる類の人間でもあった。
陸上部では陽太は短距離走、祐樹は長距離走を専門として練習していた。今陽太たちが出場している400m走は短距離走に含まれる。だから、この勝負は陽太のほうが本来強いはずなのだ。だが今は、祐樹に抜かされるざまだ。前を走る祐樹と陽太との間には5mほどの開きが見てとれた。
4か月前、陽太は右足の甲を疲労骨折した。もうすぐ県大会という時期だった。陽太の中学校生活は、陸上にすべてを注いだ3年間だった。練習して、汗を流して、練習して。
練習して。
全国大会も狙えるだろうと言われていただけに、医師から県大会は無理だろうと言われた時の陽太のショックは相当なものだった。1週間近く学校を休んでふさぎこんだ。親にも教師にも友達にも心配された。もちろん祐樹にも。
前を走る祐樹の大きな背中が通せんぼをしているように見える。そんなはずはないのに、祐樹にあざ笑われているような気分になる。
祐樹に限ってそんなはずはないのだ。ただ走って、陽太と本気の勝負をしているだけ。
焦り、悲しみ、羨望、少しの嫉妬。色んな思いが陽太の体を駆け巡っていく。
——ちくしょう。
その気持ちを心の中から追い払い、陽太は祐樹の背中を追いかけた。
県大会に出てベスト8に入った祐樹は全国大会に出場した。結果は9位だった。次の日学校で陽太と会った祐樹は
「やったぜ」
と真剣な表情で陽太に向かって言った。その姿は大会に出られなかった陽太を憐れんでいるようには見えず、見下しているようにも見えなかった。その結果を恥じているようでもなかった。一緒に頑張ってきた相手との対等な関係がそこにはあった。
陽太は祐樹のその態度をまぶしく思った。そして
「おめでとう」
と、親友へ心からの賛辞を贈った。
陽太の県大会出場は叶わなかった。そして今、中学校の運動会という場で、陽太は懸命に走っている。運動会と県大会では意味がまるで違う。そんなことは陽太が1番よく分かっていた。ここで勝ったからといって、陽太の悲しみが癒されるわけでもない。でも、陽太は走る。前へ、前へ。
ゴールまで残り50m。陽太は祐樹に追いつき、文字通りの接戦となった。会場は今や割れんばかりの声援だ。声が大きな渦となってトラックを満たしている。しかしもはや、陽太にその声は届いていない。今陽太の世界にあるのは、隣を走る祐樹と前に待ち構えるゴールテープだけだ。
祐樹は手を抜いたりなどしない。陽太と対等に勝負をしている。陽太も本気で走る。
——本気で走って。それで、祐樹と笑うんだ。
ゴールテープまであと1cm。二人は体全体を前につき出すようにして向かっていく。
手が、ゴールテープの先を掴むように伸びた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます