2021年10月4日 【さがしもの】

プルルルル……プルルルル

ガチャッ


「はい、こちら探し物案内です」

落ち着いた優しい声音のオペレーターが電話に出た。

「あの、探し物をしているのですが……」

受話器の向こうからは、低く響く男性の声が聞こえる。

オペレーターはにこりと微笑みながら尋ねた。

「はい、どのようなものをお探しでしょうか」




****************


 傘が男の手からするりと抜けだし、地面に転がった。

 傘は浅い水たまりに着地してから、ゆっくりと回転し、やがて止まった。

 駅前にある小さな喫茶店の前で、男は茫然と立ち尽くした。高級そうなスーツが雨で濡れていく。


「……あった」

 男の口から小さな声が漏れた。

 周囲の人々が怪訝そうに男のほうを見ながら、強まる雨脚に急かされて足早に通り過ぎていく。しかし男は気にしない。気が付いてもいない。今、男の世界から周囲の雑音は消え、在りし日の思い出が写真を空にばらまいたかのように次々と浮かぶ世界に身を置きながら、ただ一点を眺めている。


 男の視線は喫茶店の窓の奥、カウンターの上にかけられた一枚の絵に向かっていた。それはかつて男の父親が描いたもの。絵の中には一人の少年がいて、あどけない笑顔でこちらを見ている。この少年は男自身だった。


 男の父親は絵描きだった。その父親が描いた、最初で最後の息子の絵。なぜなら、翌年に父親は死んだからだ。

 遺品整理の時、この絵は父親の仲間によって世間に公表され、少年であった男の意志とは無関係に売られた。そのお金と母親の労働で家族は生きていけたため、感謝しなくてはならないのだが。それでも男にとってはかけがえのない、父親との大切な思い出であったことには変わりなかった。


 先週末はちょうど父親の五十回忌だった。集まった親族で小さく弔い上げをした。そのようなタイミングだったこともあり、この絵に出会えた衝撃は計り知れないものだった。硬直していた男の体はゆるゆると弛緩していき、やや遅れて、男の目からは大粒の涙がこぼれた。


「父さん、ありがとう……」


 男に気が付いた喫茶店の主人がドアを開けた。カランコロンと澄んだ明るい音がした。



****************

プルルルル…プルルルル

ガチャッ


「はい」

 受話器を取ったのは低く響く声の男。

「こちら、探し物案内です」

「あぁ……それで、見つかりましたか」

 オペレーターは、落ち着いた優しい声音で答えた。

「はい、見つかりました。先ほど無事、息子様の手に渡りましたよ」

「そうですか。……そうか、よかった」

 男は心底ほっとしたようだった。

「あの子の成長を見守ることもできず、父親らしいこともほとんどできなかった。今は私よりも年を取って……。私の絵など、とも思ったが、最後に息子にプレゼントできてよかった。これで心置きなく往生できる」

 オペレーターはにこりと微笑みながら言った。

「最後のお手伝いができて教悦至極に存じます。……それでは、いってらっしゃいませ」

 電話口の男もにこりと微笑んだようだった。

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