2021年9月27日 【陶酔と忘却】
その男は葡萄が大好きでした。朝は葡萄を1房も食べ、夜は必ずと言っていいほどワインを1杯飲んでから床につきました。おいしい葡萄の料理があると聞けば、休日はそうした料理店をめぐります。まとまった休みが取れたときには、新幹線や飛行機を使って遠くの地まで赴くこともざらでした。男の葡萄への思いは日に日に強くなっていき、最近では寝ても覚めても葡萄のことを考える毎日。
ある日、男はひらめきました。
「こんなに好きなら、いっそ葡萄で仕事をしようじゃないか」
色々と考えた結果、男は葡萄を使った新しい料理を作ることにしました。
――これまでに食べたことのないような、かつ葡萄の魅力がしっかりと伝わる料理を作るためには、まずは葡萄のことをもっと知らなければならない。私は葡萄のために日本全国をまわってきた。しかし、世界はどうだ。私にはまだ知らないことが多すぎる。それに、葡萄を食べているうちに新しい料理のアイデアも浮かぶかもしれない。
そこで男は、世界各地に赴いて葡萄の味を探求することにしました。日本に輸入したものを食べる方法もありましたが、男は現地でとれたての葡萄を食べ、味を評価するべきだと考えたのです。男は働いて得たお金をすべて注ぎ込み海外を駆け回りました。フランス、アメリカ、トルコ、イギリスに南アフリカ。現地で食べた葡萄の味は、詳しくノートに記載し、できるだけ客観的になるようにしました。男の財産には限度がありましたし、財源を得るためには仕事をせねばならないため、毎日自由に動けるわけではありませんでした。それで、男が1年で回れる国はせいぜい2、3か国でした。
3年が経ち、8年が過ぎても、男の探求は終わりませんでした。
――うーむ。ギリシャの葡萄もとてもおいしかった。忘れないようにノートにまとめておかなければ。これで21か国をまわったが、どうやら私の知らない葡萄がまだまだ世界にはありそうだ。次はエジプト辺りなんかもいいだろう。
ドイツ、ポルトガル、キプロスにインド。そうして10年、15年と経つと、男の舌もどんどんと肥えていき、同じ農園の葡萄であっても、それぞれの木ごとに存在する味の本当に僅かな違いを見いだせるくらいになっていました。
ボリビア、メキシコ、モロッコにチェコ。20年経った時、男ははっと気が付きました。
――なんてことだ!これまでたくさんの葡萄を食べ、葡萄についてまとめたノートはうずたかく積みあがるほどだ。今の私は以前の私よりも葡萄のことをよく心得ていることだろう。そうであれば、十数年前の私が評価した葡萄たちはどうなるのだ。今の私が食べればもっと多くのことを見いだせるだろう。この十数年で私は変わったのだ。なんてことだ!
男の顔は絶望しているようでもあり、憤怒しているようでもあり、またなぜか嬉しそうでもありました。
――そうであれば、再度同じ国に赴いて、また葡萄を食べねばならない。
そうして、男の探求はいつまでもいつまでも続いたのでした。
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