2021年9月20日 【童心】

 僕を乗せたバスが、モーターを唸らせながら坂道を進んでいく。僕は後ろから2列目、左側の席に座って窓の外を眺めていた。正午を回ろうかという時刻。快晴の空の下には、見渡す限りの黄金色の稲田。その周囲を緑に染める木々と、時折思い出したように姿を現す木造の家々。少し開けられた窓からは、初秋のすがすがしい、けれどどこかさみしさも感じさせるような風がふわりと入り込んでくる。変わり映えのない景色がかれこれ30分は続いていた。それを飽きずに眺めることができるのは、この風景が僕の奥深くにしっかりと根付いていて、道路の曲がり具合や道端の看板に書かれた文字なんかに脳がいちいち反応してしまうからだろう。最後にここを訪れたのは確か4年前、29歳の時だった。

 本当はもう少し頻繁に足を運びたいのだが、今僕が住んでいる地域からここに来るには、公共交通機関を駆使して半日はかかる。行って帰ってくれば一日がかりの大仕事だ。社会人として働いている僕にとってはなかなかの力が必要な作業だった。

 ……なんて、それっぽいことを述べてはみたが、毎年訪れていない僕の、罪悪感からくる言い訳に過ぎないのかもしれない。決して忘れていたわけではないが、僕は、今の僕の人生を生きるのに一生懸命だったとは思う。

 僕は窓から目を離して、リュックサックからペットボトルの水を取り出して飲んだ。リュックサックの中には財布と軽食、タオル、線香、ライター、ごみ入れ用の袋を何枚かとお供え用のおはぎ。それと――

 僕はリュックサックの中からビニール袋に入れられたお手玉を取り出した。鼻の奥のほうでい草のにおいをふっと思い出す。それは、僕にとっての、おばあちゃんの家のにおいだった。





 血管の浮き出ていない、小さくて柔らかそうな手が、何とか手に収まるぐらいの大きさのお手玉を抱えている。これは僕の手だ。

 畳の敷かれた部屋、い草の匂い。出された抹茶色の座布団の上にはいつも胡坐をかいて座っていた。僕の前にはおばあちゃんが座っていて、僕にお手玉を教えてくれている。優しくて、僕が会いに行くといつも嬉しそうにしてくれて、顔に深く刻まれたしわをもっとくしゃっとさせて笑っていた。それを見ると、僕はいつもたんぽぽの綿毛みたいな、ふわふわとした、でも少しこそばゆいような気持ちになった。

 おばあちゃんの家に行くと、僕はきまって

「お手玉したい」

とおばあちゃんに話した。おばあちゃんがお手玉が得意なことを両親から教えてもらっていたからだ。おばあちゃんも毎回僕が「お手玉」と言うもんだから、そのうちに僕の家の車が車庫に入ると、お手玉をもって玄関まで迎えに来てくれていたっけ。

 僕が小学校低学年の頃の話だ。なかなかお手玉はうまくならなかったし、実はそんなに興味がなかった。ゲームのほうがおもしろかったし、ほかに好きなことはたくさんあった。僕はお手玉が好きなわけではなかった。おばあちゃんが大好きだった。

 年月は過ぎていった。

 僕は成長したし、おばあちゃんは死んだ。僕が9歳の時だった。悲しかった。とても。おばあちゃんの部屋に行っても誰もいなかった。抹茶色の座布団は、部屋の隅に積まれていた。

 両親はおばあちゃんの家を掃除していた。おばあちゃんは一人で住んでいたから、家は無人になっていた。

「先祖代々住んでいた家なんでしょう?」

母親の声が聞こえてくる。

「でも、こればっかりは仕方ないな」

確かそんなことを話していたように思う。幼いながらも、僕はもうこの家には来られないんだと直感していた。

 ふと、こげ茶色の机の上にお手玉の入った籠を見つけた。それは、おばあちゃんと一緒に遊んだお手玉だった。そこにはまだ、ある種の生活感のようなものが漂っていた。僕の心臓はどくんと波打った。

「おーい、帰るぞー」

玄関のほうから父親の呼ぶ声が聞こえた。僕の気持ちを考えて、多分あえて離れたところから声をかけてくれたんだと思う。

「うん、わかった」

 僕は慎重に、でも迷いなく、かごの中からお手玉を一つ掴んだ。そしてそれをポケットのなかに素早くねじ込んだ。誰にも見られてはいない。僕はどくどくとうるさい心臓になんとか蓋をしながら、両親に怪しまれないよう澄ました顔で玄関に向かった。

今になって思えば、「欲しい」と一言いえば簡単に手にすることが出来ただろう。形見として。でも、幼かった僕はそれを知らなかった。僕が抱えられた量、お手玉1つに、おばあちゃんとの思い出を全てこめて、両親と家を後にした。

 後悔は後からやってくるものだ。“おばあちゃんのものを盗ってしまった”。しかも、死んだ人のものを。両親と墓参りに行くたびに罪悪感にかられた。墓前で手を合わせながらどうしようかとぐるぐる考えたけど、結局喉の辺りでつっかえて言い出せなかった。お手玉のことは僕の(そして、恐らくそれをいたであろうおばあちゃんとの)秘密となった。





 最寄りのバス停で降り、そこからさらに30分ほど歩くと目的地に到着する。しばらくは主要道を進み、茶屋の看板の手前で脇道に逸れる。田んぼのあぜ道を突き当りまで進むと、森の木々に守られた一角に先祖の墓はあった。彼岸の初日である。まだ誰も来ていないらしく、墓の回りは供え物などもなくがらんとしていた。

 父方の先祖が長年暮らした土地らしい。ここには僕の先祖の墓がいくつかあった。その墓すべてに柄杓で水をかけていく。リュックサックからおはぎを取り出し、お供えする。次いで、ライターで線香に火をつけ、数本ずつ墓前に立てていく。

「花はほかの人が持ってくると思うし、これで許してな」

 そうして墓前に座って、先祖に手を合わせる。心の中でしばらく対話したのち、僕はゆっくりと立ち上がった。ここまではいつもの流れだ。でも、今日はもう一つすると決めていることがある。

 僕は数歩歩いて、おばあちゃんの墓の前に座った。そして、ビニール袋からお手玉を取り出す。それは、大人になった僕の手のひらにすっぽりと収まった。数日前、引っ越しの荷造りをしていた時、引き出しの奥にしまっていたこれを久しぶりに手に取った。ちょうど僕にとって節目となる時期だった。なんとなく、今このタイミングで言わなければと思った。それは、一種の甘えなのかもしれなかったが。

「ばあちゃん、久しぶり」

 口に出して言ってみた。周囲には誰もおらず、それが僕の羞恥心を和らげた。手の中のお手玉を弄りながら次の言葉を考える。が、なかなか出てこない。何年も前のことで、今の僕は大人だし、“あの頃は~”と笑いながら話すくらいのつもりでいた。

 あれこれと言葉は頭に浮かぶのに、なかなか口は開かない。ぐるぐると考えてから、なんとなくお手玉を上に放ってみた。お手玉は真上にあがり、てっぺんで一瞬静止したのち、手のひらに戻ってくる。何度か繰り返す。きっと今の僕ならあの頃よりは上手にお手玉で遊べることだろう。今度はもう片方の手へ向けて放ってみる。

 こうしてお手玉を放っていると、あの頃の自分に戻ったような気分になった。そして、目の前には本当におばあちゃんがいるかのような。僕の口元には笑みが浮かんだ。

「あの時は、さ。これ、勝手にとってごめんね。……これ、僕が持っといてもいかな」

 返事はなかった。だが、それでよかった。あともう一つ、と僕は話しかける。

「今度結婚するよ。年齢だけは大人になったでしょ。いつか相手もつれてくるね」

 しばらく墓の前に座って眺めてから、僕はゆっくりと立ち上がり、来た道を引き返す。敷地を出る前に一度だけ振り返り、「またね、おばあちゃん」と今度は心の中でつぶやいた。風がさわさわと辺りを揺らしている。僕の脳裏で、おばあちゃんがにこっと微笑んでくれた気がした。そこでは僕はいつまでも子供のままだった。






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