2021年8月30日 【ぼくの冒険(1話目)】
「今日もおばあちゃんが9時くらいに来るから、それまでいい子で待っててね」
「うん。行ってらっしゃい」
スーツを着たお母さんは僕の頭を優しくなでてから、行ってきます、と扉を開けて出ていった。
扉がガチャリと閉まると、辺りはしんと静まり返った。
家にはもう僕しかいないし、だれも見てはいないのだけれど、まだいつも通りをよそおっていないといけない気がして、僕は澄ました顔でリビングに戻った。そうしてしばらくの間、ソファに座ってテレビを見ているふりをした。今にも玄関の扉が開いて、忘れ物をしたとか、言い忘れたことがあるとかでお母さんが戻ってくるんじゃないかと心配になったのだ。
壁掛け時計がカチコチと音を鳴らしながら時間を進める。テレビにはお姉さんが映っていて、明るい声で今が朝の8時15分であることを伝えていた。全身を耳のようにして玄関のほうに意識を集中させ、焦る気持ちを抑えて僕は待った。
――10分。玄関を開ける音は聞こえてこなかった。
念のためにと玄関をそうっと確認した後で、ようやく僕はちょっとほっとした。それから、わくわくと緊張とが体の外側にぶわーっと、一気に広がった。心臓がどくどくと音を立て、耳の中で響いている。沸き立つ気持ちに背中を押されながら、僕は大慌てで準備を始めた。
食べるのを我慢して、勉強机の引き出しに隠しておいたおやつ。鉛筆を数本にノート1冊。麦茶を入れた水筒。お気に入りのハンカチ。タオル。小学校の入学式で、僕とお母さんとおばあちゃんが映った写真。それと、僕の大事にしている戦隊ヒーローのベルト。ひなたくんに作ってもらった地図はくるくると丸めて輪ゴムで止める(なんだか海賊の地図みたいでカッコいい)。どのくらいいるのか分からなかったから、貯めておいたお小遣いは全部おさいふに入れた。
家じゅうをどたばたと走り回って集めたそれらを、次々にリュックサックに放り込む。
最後に帽子をかぶり、家の鍵を首にかけてから時計をみると、8時40分。ほっと息をついた。間に合ったみたいだ。
僕はいったん呼吸を落ち着けたくて、夏休みの間毎日やっているラジオ体操を思い出しながら深呼吸をした。スー、ハー。そうしてから玄関に行こうとして、ふと、これから家に来るおばあちゃんのことが引っかかった。
――何も言わずに行っちゃったら、おばあちゃんもびっくりするよなぁ。
おばあちゃんが家に来てから説明していたら、絶対止められる。お母さんだってきっとそうだ。「小学校1年生、大きくなったね」なんて言いながら、お母さんもおばあちゃんも僕を子どもだと思っている。確かに僕は弱く見えるだろうし、ご飯も洗濯も……寝るときも、いろんなことがお母さんがいないとできない。でも、僕にもやらなきゃいけない時がある。それに、きっと僕はできる。
ちょっと考えて、僕はリビングの机に書き置きを残していくことにした。書いた文字を見つめて、僕は唇をぎゅっと結んで、誰にともなくうなづいた。そして、今度こそ本当に玄関に向かう。少し震える手で、えいっ!と玄関のドアノブを回した。
『はじめてのなつ休みですね。やりたいことをたくさんやって、いろんなことをけいけんしてください。なつ休みあけに、ちょっとせいちょうしたみんなと会えるのがたのしみです』
ふと、プリントにかかれてあった先生の言葉を思い出す。
夏休みは明日で終わってしまう。だから今日、僕はせいちょうするためにやってみることにしたんだ。
書き置きにはつたない文字でこう書いた。
『お父さんにあうためにぼうけんに行ってきます。ゆうがたにはかえります。』
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