2021年8月23日 【潤滑油】
朝目が覚めて起き上がろうとしたら、左腕が動かせなかった。最初は、まだ寝ぼけていて頭からの指令が腕にうまく伝わっていないのか、はたまた寝ている間に体の下敷きにしてしまって痺れているのか、などスマートフォンを見ながらのんきに構えていたが、しばらくしても一向に動く気配がなかった。
何かがおかしい。違和感を覚えた私は、スマートフォンをわきに置いて、左腕に意識を集中させてみた。右手で左手をつねると、ちゃんと痛い。感覚がなくなっているわけではないようだった。今度は腕を動かすように頭に命令してみる。指先は動く。腕も持ち上がる。よくよく調べてみると、動かないのは肘のようだった。肘の部分には鈍色の金属のようなものがところどころに張り付いている。爪でひっかいてみたが、皮膚にぴたりと張り付いていて、ただただ痛い思いをするばかりではがれなかった。
「それ、腕が錆びついてるんだよ」
職場についてから同僚に腕のことを話すと、そんな言葉が返ってきた。コーヒーを飲みながら、朝の挨拶ついでといった軽い雰囲気だ。それでは、皮膚についているこの金属のようなものは錆なのか。
あの後、マッサージをしたり水で洗ってみたりとあれこれ試した結果、多少は動くようになったのだが、動かすたびに、ギギギ…キィ、チキッと嫌な音はなるし、普段より力も使う。ひとまず会社に来てみたはいいものの、左腕がこんな状況じゃあ仕事にも支障は出てしまうだろう。
「ま、とりあえずこれでも食っとけよ。少しは腕もましになるだろ」
と同僚が差し出してきたのは、なんとポテトチップスだった。
「朝から会社でポテトチップスを広げるやつは見たことないぞ」
そういいつつも、ポテトチップスを右腕で――左手で受け取ろうとしたが、そのぎこちない動きを見て自身の状況を思い出し、仕方なく右手で持っていたマグカップをいったん机に置いてから――受け取った。
「仕方ないだろ。今持ってるのこれだけなんだから。錆びてるんだから、とりあえず油をさしときゃいいんだよ」
それ食ったら上司に説明して病院に行っとけよ、と言って同僚はPCを開いて仕事の準備を始めた。私は言われた通りにもらったポテトチップスをばりばりしゃくしゃくと平らげて、上司に説明をしてから病院に向かった。
「あぁ、それは仕方ないな。今日は休むといい。お大事にな」
と上司は別段いぶかしむこともなく送り出してくれた。
病院といえど何科に行けばいいのかとんと分からなかった。悩んだ末、皮膚にくっついている錆が気になっていたので、皮膚科に行ってみることにした。皮膚科に着くころには、同僚のくれたポテトチップスのおかげなのか幾分スムーズに腕が動かせるようになっていた。
「あぁ、それは錆ですね」
私の説明を聞いてから腕の様子をさらっと見て、こともなげに医者は言った。
風邪やウイルスなら対処のしようもあるが、体の錆など経験したことがない。どうしたらよいのかと困って質問すると、
「錆つきの原因は人によって違いますからねぇ。暑さで汗をかいたことによる反応、お風呂の入りすぎ、腕の使い過ぎ、逆に使わなさすぎ、老化、過度なダイエット、不眠……あげればきりがありません。対症療法をしながら原因そのものを調べて解決しなければならないのですが、内科で診てもらったほうがいいでしょうから、紹介状を書きますね」
そう言ってPCに向き直りキーボードを叩き始めた。
「対症療法というのは、油をさせばいいのですか」
医者はPCから目を離してこちらをチラッと見、
「そうですね。ラーメンとか焼肉とか、甘いものならケーキとか。潤滑油であれば好きなもので結構ですよ。ただ、対症療法でしかないのでね、食べすぎには気を付けてください。お大事に」
それだけ言うとまたPCに視線を戻してしまった。大事なことはもうすべて話した、ということだろう。お辞儀をして診察室を後にした。
次の日会社に行くと、私に気づいた同僚が声をかけてきた。
「おぅ、どうだったよ」
腕のことだろう。病院に行ったらやはり腕がさびていたこと、昨日の夜は近所の中華屋に行って餃子とラーメンを食べたこと、そうしたら今朝はそこそこスムーズに腕が動かせたことなどを伝えた。
「一応今朝もトーストにバターをたっぷり塗って食べてきたよ。腕の錆付きは抑えられるのかもしれないけど、こんな生活を続けていたら他のところがダメになりそうだな」
苦笑している私を見て、そりゃそうだろと同僚が言う。
「あくまでも対症療法だからな、原因を見つけないとだろ。俺も錆びついたことがあるんだけど、俺の場合はあれが原因だったぜ。見つけるまでに3か月くらいかかったけどな」
同僚はマグカップでそれとなく奥を指し示した。その先には上司が座っている。
「うちの上司って機嫌のいいときに歯をカチカチ鳴らす癖があっただろ。どうもそれが俺にはダメだったみたいで、耳が錆付いちゃったんだよな。原因がわかって上司にお願いをしたら快く止めてくれたんだけど、そしたら今度は上司の歯が錆ついちゃて。あの時は大変だったよ。上司の場合は原因がはっきりしてたから、“俺がいないところでは歯をカチカチ鳴らしてもいい”“俺がいるときにはガムを噛む”ってことにしたら錆つきが収まったんだ」
医者が言っていたように、錆付きの原因は本当に多種多様らしかった。それでは私にとっての原因は何なのだろうか。腕が錆びつく前日のことを思い出してみたが、特にいつもと変わらない生活をしていたはずだ。それとももっと前から何かあったのだろうか。目を閉じてうんうんとうなる私を見てか、コーヒーをすすっていた手を止めて同僚が言った。
「原因って日常に隠れてて案外気が付かないものなのかもしれないな。俺だって上司の歯が原因だなんて思わなかったよ。生活音として溶け込んでたしな。だから、自分のことをようく振り返って考えてみないといけないんだ。じゃないと潤滑油でぎっとぎとになるぜ。……ま、なんにせよ、早く原因が見つかるといいな」
言い終わると、同僚はPCを開いて仕事の準備を始めてしまった。
私の錆付きの原因が見つかったのは7か月後のことだった。
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