2018年10月11日 【アイオライト】
私は夜が好きでした。特に、ベッドの中から眺める夜が。私が住んでいる今のお部屋には天窓があります。家主さんに連れられて初めてこのお部屋を見たとき、私はその天窓を一目で気に入って、その場でここに住むことを決めたのでした。天窓はまあるい形をしていて、ちょうどお部屋の端っこの方にあります。私はその真下に枕が来るようにベッドを置き、天窓から見える夜の景色を毎日眺めているのです。
黒と紫が溶け合う空間で小さな星々がキラキラと輝く様子は、私に子どものような純真さを与えてくれました。時折窓の中へとやってくる月は、その温かい光で私を包み込み、優しく子守唄をうたいながらあやし、寝かしつけてくれました。
ときどき雨粒が遊びに来ることもありました。彼らは天窓の上で、とたたん、ぱらりん、とその身を弾ませます。そうして他の雨粒たちの上に着地し、重なり合い、揺蕩い、最期には天窓を滑り台代わりにして、すーっ、と滑っていきます。窓から見える光景はゆらん、ゆらんと揺らめいていて、深い海にいるかのようです。雨が遊ぶ音はその下で横たわる私の体に降り注ぎ、しまいに私は自分と雨との境が分からなくなって、窓の外を見上げ、深い海の色を見、一緒にゆらん、ゆらん、と揺らめきながらそっと瞼を閉じるのです。
そうそう、朝は大変です。特に夏。太陽が天窓から顔をのぞかせると、その光が私を鋭く照らすのです。うかうか寝てなどいれません。それで私はここに住み始めてから、朝の早い人間になりました。
私はお友達が少ない方ではありません。普段お付き合いのある方もそれなりに多いと思っています。けれど、この家には――最初に大家さんとこの家を見に来た時は仕方がないので除きますが――私以外の人間を入れたことがありません。あの天窓は、あの天窓だけはどうしても他の人の目に触れさせたくはなかったのです。あれは私だけのもの。外の世界から壁一枚分隔離されたこの家で、まあるいガラス窓にくり抜かれたあの夜空だけは、私のものとしてよかったのです。空はみんなのものだと言いますけれど、これくらいの大きさを独り占めしたって、きっと許されることでしょう。
そうして私は、これまで幾多の夜をこの天窓と過ごしてきました。でも、それももう今日で終わりです。明日、私はこの家を出て、遠く遠く、川を渡った先の国へ旅立たなくてはならないのです。そこで見る夜空は、きっとここで見るものとは全く違うでしょう。空はどこへ行っても同じだと言いますけれど、私にとっての夜空はここ、この天窓を通して見るものなのです。
もう荷造りは済ませてあります。あとはこのベッドだけです。がらんとしたお部屋の中で、私は最後であることをかみしめながら、天窓から見える景色を眺めていました。
辺りに光が差した気がして、私は目を開けました。どうやら荷造りの疲れもあってか、知らないうちにうとうとと眠りに落ちてしまっていたようでした。最期の夜だったのに、となんだか取り返しのつかないことをしてしまった気分になり、泣いてしまいたい気持ちになりました。天窓から空を見ると、うっすらと空にオレンジ色が混じっているのが分かります。どうやら夜明け前のようです。そして、窓には月が映っていました。少し薄くなってはいましたが、か細い明かりを私に向けて照らしています。もしかしたら昨夜はずっと私を照らしてくれていたのかもしれません。
急に私は、昔友人から教えてもらったおまじないを思い出しました。それは、朝起きてすぐに、好きな人の名前の数だけウインクをすると相手と結ばれる、というものでした。私には好いた人はまだおりません。けれど、好いた物はあります。この天窓から見える夜の景色、それは私を捉えて離さないのです。どうしても離れたくはない、おそらくその思いが強かったせいで、そのような昔のおまじないを思い出したのでしょう。
私は夜明け前の空に左手を伸ばし、彼らをそっと撫でるような気持で手を動かしました。そして、ウインクをしました。
そのあとしばらくじっと眺めてみましたが、景色は何も変わることなくそこにあるままでした。当たり前の事かもしれません。ウインクで空の秩序の何が変わるというのでしょうか。私がここを出ていかなければならないことにも変わりはありません。それで私は仕方なく、重い体を起こして身支度を始めることにしました。
私が遠くの町へ引っ越してしばらく経った頃、大家さんから一通の手紙と、青色の透き通った石が届きました。大家さんのお手紙にはこんなことが書いてありました。
私が出て行ったあとで大家さんがお部屋を見回っていると、天窓の下にこの石が落ちていたそうです。それで、私の忘れ物ではないかと思って送ってくださったとのことでした。そして、今そのお部屋に住んでいる方がおかしなことを言うらしいのです。
その方も私と同じように天窓が気に入ったらしく、その下にベッドを置いているそうなのですが、そこから見る景色がいつも灰色なのだそうです。他の窓を除くときれいな夜空が見えるのに、この天窓だけはいつも曇り空だと。天窓が何かおかしいのではないか、前の住人はどうだったのか、など問い詰められて大家さんもほとほと困ってしまっているそうです。それで、私の時はどうだったか、というようなお手紙でした。
私が見ていた時はあんなにも綺麗な姿を見せてくれていたあの天窓が、灰色しか映さないなんて、なんだか信じられない話です。
手紙から目をあげると、大家さんが送ってくれた石が目に入りました。じっと眺めて記憶の中を探してみましたが、どうやら私の持ち物ではないようです。光に照らしてみてみると、青だと思っていた石は黄色や紫にも変化するようで、その配色は私があのお部屋で見ていた天窓の景色を彷彿とさせました。
それで、私は納得しました。手を伸ばしたあの景色は、私の手の中に落ちてきてくれたのです。大家さんへなんとお返事を出そうか考えながら、私はその石を枕もとにそっと置きました。
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