●2021年9月6日 【わが思ふ人は】
私には6つ年のはなれた妹がいます。
それはそれはかわいらしい妹です。
女学校から帰ってくると、まず妹の住む離れへと向かうのが日課です。お部屋をノックしても返事がないのはいつものこと。でも、扉を開けるとお椅子にちょこんと座った妹がこちらを見つめてくれます。
肩の下で切りそろえられた豊かな髪は、美しい濡羽色をしています。頬はほんのりとピンクに色づいていて、忘れ雪の降る中咲いている桜のようです。
……なんて気取ってお話してみましたけれど、本当のところ、苺大福みたい、とも思ってしまいます。食べてしまいたいくらいかわいらしいのですから、仕方がありません。実際、今だから白状すると、妹がお屋敷にやって来た時、そのあまりにも柔らかそうな肌から甘い匂いを感じて、耳たぶを噛んでしまったのでした。お父様とお母様に見つかった私はこっぴどく叱られてしまいましたけれど、幸いにも妹の耳に傷跡は残りませんでした。代わりに、なぜか私の腕には歯形ができました。妹の傷を肩代わりしたのかもしれません。いずれにせよ、あの時の私は衝動の抑え方を知りませんでした。
瞳は水晶玉のようにまん丸で、きらきらとしていて、その無垢な瞳で私のことを見、紅梅のつぼみが花開いたような唇でにこっと微笑まれると、その日あった嫌なことなど簡単に吹き飛んでしまいます。
幼く背の低い妹が私を見るためには、顔を上に向けなければなりません。そうすると額にかかるやわらかい髪が妹をくすぐるのでしょう。煩わしそうに顔を左右にふるようすなどはあどけなく、いとおしく、妹を私に授けてくれた神様には何度お礼を言ったことか分かりません。
この妹はお屋敷から一歩も出たことがありません。まさに箱入り娘といった様子でお部屋に閉じ込められて過ごしています。お父様もお母様も「大事な娘だから」とおっしゃいますけれど、この離れには私と世話係以外の人間が足を踏み入れることはめったにありません。世話係の人間がやってくるのも日に1、2度です。お食事も私達とは別にお部屋でとっています。なんと不憫な妹でしょう。だからせめて私だけは、こうして毎日妹のもとへ通い、その日私が外で見聞きしたことを話してやるのです。
そのような生活だからでしょうか、妹には一つ、変わった嗜好がありました。
黒い服。黒い靴。黒いリボン。黒いネグリジェ。黒いハンカチ。黒い扇子。
妹は黒をこよなく愛していました。
カーテンやテーブル、ベッド、お皿や紅茶を入れるカップまで黒で揃えられていました。
きっかけは、私が女学校から持ち帰った風呂敷だったように思います。
雨が降っていました。私は傘を差しながらもう片手で教科書などが入った風呂敷を抱えていました。迎えに来てくれたばあやを雨の中待たせたくなくて急いでいたからでしょう、前を歩く女学生の集団に気が付かずぶつかってしまったのです。
両手がふさがっていた私はそのまま泥水の中にしりもちをつきました。おしりのあたりに冷たい水を感じていると、なぜか前方からも水がやってきて、慌てて目をぎゅっとつむりました。視界が閉ざされた中、恐らくぶつかってしまったであろう女学生の笑い声が頭の中にうすら寒く響きました。
しばらくして目を開けると、そこにはもう女学生たちの姿はありませんでした。でも、周りから感じる視線がとても恥ずかしくて、いたたまれなくて、怖くて。そこからどうやって家へ帰ったのかは覚えていません。
ただ、その足で妹の部屋に向かったことは記憶しています。私は妹に会うことでずぶぬれで冷え切ってしまった心を慰めたかったのですが、妹は何を思ったのか、私の姿を見て目をキラキラと輝かせました。そして、黒く染まってしまった私の風呂敷を欲しがったのです。
考えてみれば、妹が外の世界とつながる唯一の方法が私でした。その私が泥にまみれて帰ってきたのです。そもそも泥だとも分かっていなかったのかもしれません。何か素敵なものであるかのように、幼く真っ白な心に歪んだ解釈をさせてしまったように思います。
お部屋の中は徐々に黒にむしばまれていきました。心の端にざわざわとしたものを感じてはいたのですが、妹の喜ぶ姿見たさに、妹が欲すままに次々と黒いものをそろえてしまいました。私が黒い何かを持ってくるたび、妹は本当にうれしそうな表情をしました。それが例えインクでぐちゃぐちゃに汚れたノートであっても、すすだらけでぼろぼろにされた着物であっても、ただ黒であるというそれだけで、妹は宝物のように扱ってくれました。
不幸中の幸いと言えばよいのでしょうか、私は黒いものに困ることはありませんでした。朝起きて、女学校に行き、帰ってくる。それだけで勝手に黒い持ち物が増えてしまうのです。妹の喜ぶ姿を見ると、私の心も満たされました。妹の存在が、私の在り方を正当化させる唯一の方法だったのです。いつのまにか妹の部屋では黒以外のものを見つけることができなくなりました。
そして、今日、妹は私の前から姿を消しました。正確には、そこにいるはずなのに見つけられないのです。どうやら妹は、自分自身をも黒で塗り固めてしまったようなのでした。黒に身を投げた体を光が見つけることはできないようでした。
私は取り乱しました。呼びかけても妹から返事がないのはいつものことです。だから、私が見つけねばなりません。このお部屋は妹のものです。決して私のものであってはならないのです。
夜通し髪を振り乱して探したのですが、結局妹は見つからないまま朝を迎えました。眠気と疲労で堪えていましたが、女学校には行かなければなりません。休むとお父様とお母様の顔色が悪くなってしまうことを私は知っていました。
ばあやに送ってもらい、女学校に向かいます。玄関ではいつものように白い服に身を包んだ先生が出迎えてくれました。これは白衣というのだと、廊下ですれ違ったお姉さまに以前教えてもらいました。
先生からは特別に、毎日個人授業を受けています。これは私に必要なことなのだそうです。
先生は私に微笑みかけながら、1枚の写真を見せました。
「今日は君にこれを見てもらいたいんだ。これは6年前、君が女学校に通っていたころの写真だ。この写真をみてどうかね」
写真には、昨日まで離れの部屋にいたはずの妹が、あどけない顔でこちらに微笑みかけていました。疲労した私の頭がしびれるようでした。口は乾き、写真に触れようとした手は震えました。
これは妹ではありませんか。
私には6つ年の離れた妹がいます。
それはそれはかわいらしい妹です。
でも、昨日から妹が見つからないんです。
何年も保ってきた秩序が崩れようとしていました。
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