2021年11月22日 【満月のあとで】

 夕食後、あらたが台所でホットミルクを作っていると、リビングのほうから窓をあける音が聞こえてきた。新は少しだけ体を固くし、耳をそばだてた。ただ静寂が続いていた。新の部屋は3階にあった。息を浅く吐きながら、リビングへ続くドアをゆっくり開けた。その動きでレースのカーテンがふわりと内側へ揺れた。そして、そのレースごしに満希みつきの後姿がうっすらと透けて見えた。知らないうちにリビングの電気は消えていた。暗くひっそりとしたリビングを、台所の光がぼんやりと照らした。

 1秒か2秒の微妙な間の後、満希はゆっくりと振り向き、カーテンの中から顔をのぞかせて新のほうを見た。そして、

「大丈夫よ。死んだりしない」

 と微笑んだ。

 新は目を凝らして満希を見つめてみた。しかし、うっすらと表情がつかめるだけで、それ以上のものは暗闇に隠されてしまっていた。

「こんな寒い日に窓を開ける音が聞こえてきたから、雪でも降ったのかな、と思ったの」

 新は片眉をあげてそう答えた。答えたあと、物足りない気がして、ついでに両肩も竦めてみせた。それを見た満希がふふっと笑った。

「……何よ」

「新って動揺している時、いつもちょっとオーバーリアクションで澄ましたようなことを言うの。昔から変わらない」

 新は言い返すことができなくなって、唇をとがらせて無言の抗議をした。それからミルクの濃い匂いが漂ってきたことに気が付いて、慌ててコンロの火を止めに台所へ引き返した。火を止めることを忘れてしまうほど、新は内心していた。



 湯気の立つ白い液体を、新は温めておいたマグカップに移す。移しながら、半年前に満希から来た手紙の内容を思い出していた。満希が結婚して遠くへ引っ越してからは会う回数は減っていたが、その分手紙や電話のやり取りは増えていた。新と満希は大学の書道部で出会った。それもあってか、互いに手紙でのやり取りを好んだ。

 満希の手紙には、彼女の流麗な筆跡で幸せな報告がしたためられていた。新はその報告に驚き、喜び、目の前の勉強などそっちのけですぐに満希に電話したことを覚えている。電話の向こうで話す満希の声も幸せそうだった。――あの頃の満希は確かに幸せだったはずだ。

 それ以降も満希とは変わらず手紙を送りあっていたし、時々電話もした。ただ、新は満希の様子が少しずつおかしくなっていることに気が付いていた。そして、何かあったのかと尋ねる新に、満希は決まって“何もないのよ”と答えるのだった。

 確かに“何もなかった”。今日なんの前触れもなしに新の家へやってきた満希は、いつもと変わらない調子でその出来事を語った。新は恐ろしかった。満希の黒い瞳は無風の夜の湖のように静かで、何も映してはいなかった。



 新がマグカップを2つ持ってリビングに入ったときも、満希はまだ外を眺めていた。

 台所の明かりはつけたまま、ドアもあけたままにして視界を保ちながら、新は満希のほうへと向かった。満希に近づくにつれ、新の身体を冷たい空気が覆っていき、手元のホットミルクからは煙のような湯気が立った。

「はい。ホットミルク」

 沸騰させちゃったけど、と付け加えつつ、新は満希にマグカップを差し出した。満希はレースの向こう側から片手だけすっと出して、「ありがとう」とマグカップを受け取った。そしてマグカップに顔を近づけてゆっくり息を吸い込んだ。レースごしに見る満希は、新に平安時代の姫君を連想させた。

「いい匂い。温かいわ」

「うん。今日はよく冷えてるからさ。あったまるかなぁと思って」

 満希は両手で大事そうに抱え、一口飲んだ。

「本当ね。外の空気と対照的」

「そう思うなら窓をしめなよ」

 ふふっと満希が笑った。満希の微笑みはいつも上品だ。

「だって、私もう体を冷やしてもいいんだもの。ホットミルクじゃなくたって、お酒だって飲めるのよ」

 新は満希がお酒が好きなことをよく知っていた。二人でディナーに行くときも、満希はよくお酒を頼んだ。だから、食後の飲み物がお酒じゃないのは、新が気を使ったからだと思ったらしかった。そしてそれは、あながち間違いではなかった。

「しばらく会わない間に、満希様がそこまでお酒好きになっていたとは知りませんでした。よろしければワインでもご準備しましょうか?」

 言った後で、しまった、と新は思った。先ほど満希に言われたばかりだったのに。しかし、発した言葉はすでにレースの繊細な編み目を通り越してしまった。

 「ごめん」と小さな声で新は謝った。満希は下を向きかすかに笑ったようだったが、新にはその笑みがどんな意味を持つのか分からなかった。

「私、わがままなことをしているわね。人様のお部屋をこんなに寒くしちゃって」

「ちょうど換気しなきゃと思っていたから、いいよ」

「ずいぶん長い換気ね」

「……たまにはね」

 しばらくの間互いに無言が続いた。電気ヒーターの稼働音だけが、静かな部屋に響いていた。急に寒くなった部屋の温度を感知して、大きな音を出して一生懸命に暖かい息を吐きだしているのだろう。しかしその頑張りは虚しく、次から次へと寒さの波に攫われていく。新はそんなヒーターをそのままにしておいた。無駄なことだと分かっていても、今この時には必要なものに思えた。


 耐え切れなくなって先に口を開いたのは新だった。

「ねぇ、私も一緒に外を眺めてもいい?」

 若干緊張しながらそう尋ねると、満希は両手で抱えていたマグカップを片手に持ち替え、無言でレースの端をそっと広げた。新がレースの内側に入る。

 夜空には満月が浮かんでいた。新の住む地域は郊外にあるため、クリーム色の柔らかな光は地上の光に邪魔されることなく美しく降り注いでいた。その光が満希の顔を淡く照らしていて、瞳だけは深く深く真っ暗だった。

「藤原道長の歌、覚えてる?」

 唐突に満希が話し始めた。満希の口から白い息がふわりとこぼれる。

「あの、“望月の~”ってやつ?」

 新の口からも白い息が漏れた。

「そう。“この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば”」

「満希、大学の時、その句で書道の賞とってたよね」

 新は心持ち明るい声で、満希に話しかける。

「私、あの筆の運び方とか、余白の使い方とか、本当にすごいって思った」

 ありがとう、と微笑みながら、満希が黒く柔らかそうな髪を耳にかけた。

「でも、今になって思うの。そんなわけないのよね、って」

 違う、と新はとっさに否定してしまいたくなった。否定して、大丈夫だよ、と満希の華奢な体を抱きしめたくなった。しかし、何が違うと、何が大丈夫だというのだろうか。

 彼女の唇から放たれた言葉は弱々しい白さを伴ったまま辺りに散っていった。その一部は新の中にもじわじわと凍みわたり、身体の中でどろりとした闇に変化した。そして肺の中で渦を巻きはじめた。新は上手く息が吐けなくなった。

 満希が言葉を続ける。

「今日の満月だって、次に見たときにはきっともう欠けてる。“あぁ、満月だ。きれいだ”って思っているうちに、一瞬で。」

 新は自身が高校生の頃を思い出した。医学部を目指して勉強に明け暮れていた毎日。志望する大学は模試の結果でA判定だった。将来は医者になれるものと、そう思って疑わなかった。

 気が付いたときには欠けている。満希の言葉が理解できるからこそ苦しかった。お互いそれが理解できる程度の大人だった。

「でも、さ。月って、私たちの目にはまん丸に映らないときでも、そこにその形で存在することには変わりないと思う」

 満希はこんな言葉は求めていないのかもしれない。しかし、黙っていることが苦しくて新は言葉を発した。半分は新自身に語りかけていたのかもしれなかった。

「光があたっていない真ん丸って、意味があるのかしら」

 満希は下を向いて笑った。今度の笑みはどこか自嘲的なもののように思えた。

「光はずっとあたってるよ。私たちには見えなくなるだけだよ」

 でも、と満希が遮った。少し大きな声だった。満希のマグカップを持つ手にぎゅっと力が入っていた。

 満希は落ち着かせるように深く息を吸ってから、

「でも、あの人にはそう見えなかったの。……それが全てなの」

そう言った。

 それは、鉛みたいな重さのものを、肺の空気を目一杯に使って底から吐き出したかのような言葉だった。

 満希の周りが白い息で霞がかる。新は何も言えなかった。



 いつの間にかホットミルクは冷えてしまっていた。もう湯気は出ない。表面にはうっすらと膜が張られていた。

「新は、やっぱり受験しなおすの?」

 手元のマグカップを指で弄りながら、満希が聞いた。

「……うん」

 新は先月仕事を辞めた。今は朝から晩まで数学や英語の問題集とにらめっこをして生活している。医者になる夢は一度諦めて納得もした。浪人という手もあったのに、他学部に入学すると決めたのは新自身だ。最初こそ落ち込みはしたものの、大学は入学したら楽しかったし、今の仕事にもそれなりの充実感を覚えていた。でも、いつも心のどこかでもやもやとした気持ちが燻っていたように思う。納得したつもりでいたけれど、しきれていなかった。やっぱり新は医者になりたいと思ってしまった。

「満希は……?」

 不安が勝り、思わず聞いてしまった。

 満希はしばらくマグカップをじっと眺めていたが、

「私は、どうしたらいいのか分からない。でも、この足で一度実家に帰ろうと思うの。今決めたわ。これからのことはそれから考える」

 静かな、けれどはっきりとした声で言った。

「ごめんね、急に来て長居しちゃって。新、勉強があるのに」

「ちょうど休憩したいと思ってたから、いいよ」

「ずいぶん長い休憩ね」

「たまにはね」

 満希はふふっと笑って、そして夜空を見上げた。

「あの子は、ちゃんと天国へ行けたかしら」

 新は満希の手を握った。もう欠け始めているのであろう満月が、二人を照らしていた。

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日々のお話 soto @soto

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