之定の十文字槍

 池田邸。

 朝の鍛錬を終えた幼女が居た。名前を勝という。4歳だ。彼女は生後半年となる池田家嫡子・幸鶴丸の正室と定められた。この事に対して彼女はこう思った。


「私は光源氏だったのか。紫の上(幸鶴丸)を育てよという事か」


 と理解した。前に母親が読み聞かせてくれた『源氏物語』に自分を投影してしまったのだ。何故か光源氏の方に。普通、女性なら自分が紫の上になって光源氏という高学歴高収入優しいイケメンに育てられて、そのまま結婚したいと思うものだ。というか、『源氏物語』とはそういう物語だ。高学歴高収入優しいイケメンを極めていく主人公と彼に育てられる美貌教養性格完全無欠な理想の妻、男性と女性の両方の願望が詰め込まれている。だが、彼女は他とは一味も二味も違った。勝は状況から自分が光源氏であると気付いた。ならば紫の上たる幸鶴丸をあらゆる危難から護らねばならない。幸いにも自分には槍の腕前がある。これを更に磨いて幸鶴丸を護るのだ。それはよい、しかし自分の腕を磨くのと同時に良い得物を扱う事も必要と考えた。今の槍とて蔵から(勝手に)拝借した借り物に過ぎない。しかし槍は高価だ、良い物なら驚く様な値段がする。流石に勝のお小遣いで買える代物ではない。ならば武蔵坊弁慶の様に橋で待ち伏せして分捕るか、とすら考える。まあ、それは最終手段として義父である池田恒興に相談しようと思う。

 池田恒興。彼は少々特殊だ。誰も彼もが自分に対して怖がっている。山賊を殺って帰った時からだ。だから皆、優しく接していても何処か怖がっている。しかし恒興にはそれが無い。実の娘の様に接してくれる。父親の森可成曰く、池田恒興は武辺者が好きなのだと。それは勝も思う、でなければ池田家親衛隊という武辺者集団が居る訳がない。もしかしたら恒興は自分の話を真剣に聞いてくれるかも知れない。そう思い、勝は恒興の私室に向かった。


「恒パパ。少し良いか」


「どしたニャー、勝ちゃん?」


 恒興は私室で書状に目を通していた。それは柘植衆からの各地の諜報報告である。声を掛けられた恒興は報告書を仕舞い、勝を呼び寄せた。


「実は森の父上が綺麗で美しく輝く品を持っていて、私も憧れている」


「ふむ、三左殿が持っているのか。もしかして欲しいのかニャ」


「うん」


(何だ、この子も綺麗な物に目がないのか。女の子らしくて良いじゃないか。何か安心するニャー)


 勝は父親である森可成が持つ綺麗な品が欲しいと言う。それを聞いた恒興は勝もちゃんと女の子だなあ、と感心する。女の子が綺麗なくし、綺麗なかんざし、綺麗な鏡台などを欲するのは普通の事だ。


「ただ高価な物だ」


「値段なんて気にするニャ。ニャーに任せておけ。それでどんな品だ?」


「うん、『之定のさだの十文字槍』だ」


(はい、女の子要素、吹き飛びましたニャー!?そういえば三左殿の槍は之定の十文字槍だニャー)


 恒興が考える年頃の女の子らしさは一撃で吹き飛んだ。実は森可成の槍も之定の十文字槍で『蜻蛉不留とんぼとまらず』と言う。意味は蜻蛉が止まれずに両断される為。……何処かで聞いた様な……。

 この槍は後に豊臣秀吉所有となり、中村一氏が拝領する。彼は家臣の飯田正国に与える。その後、江戸時代の中村家はお取り潰しとなり、蜻蛉不留は行方不明となっている。

 之定の十文字槍は美濃国関の刀工 二代目和泉守兼定の作。彼は銘を入れる際に『定』の下が『之』に見える為、『之定』と呼ばれている。関にて孫六兼元と人気を二分する程の名工である。因みに三代目和泉守兼定は『定』の字が『疋』に見えるので『疋定ひきさだ』と呼ばれるらしい。

 この之定の十文字槍は鬼武蔵こと森長可の愛槍として有名だが、彼の父親である森三左衛門可成の槍も之定の十文字槍である。つまり森長可は父親の槍に憧れて手に入れた訳だ。

 そして今世、娘となった森勝もまた、父親の槍を欲しがっているという。恒興はこれも運命なのか、と感じてしまう。


「あ、あのね、勝ちゃん。もうちょっと女の子らしい鏡とか櫛とか簪とかの方がいいかニャー」


「ダメなのか、恒パパ?」


「あ、あう」


(ヤバい、この上目遣い。ニャんでも買って上げたくなる)


 恒興が否定の方向に傾くと、勝はズイっと顔を恒興に寄せる。当たり前だが、彼女は恒興より背が低い。その体勢で下から恒興を見上げる。つまり上目遣いのお願いである。その様子に恒興は何でも買ってもいいかなとなってくる。


「あの輝きが忘れられない。欲しい」


「おおう」


「高いのは重々承知している。しかし役に立つ」


「むむむう」


「ダメなのか、恒パパ」


 再度、上目遣いお願いの勝。彼女も良い槍が非常に高価である事は把握している。だから控えめにお願いをする。だが、恒興がもう一押しで崩れそうなのも感じている。


「いいよ。買っちゃうニャー」


「やった!恒パパ、大好き!」


「ニャっはっは」


(コレ、美代に怒られそうだニャー)


 恒興は屈した。彼に勝のお願いを断り切る事は不可能だった。という訳であっさり受け入れた。

 勝は顔をパッと輝かせて恒興に抱き着く。恒興は笑って誤魔化すしかなかった。正室の美代に怒られるだろうなと。


「恒パパ、早く行こう」


「そうだニャー。関はそう遠くないしな」


 勝は直ぐに行こうと恒興の手を引っ張る。約束を忘れないうちに果たして欲しい様だ。

 その時に廊下から一人の女性が歩いて来る。前田慶だ。彼女は恒興と勝が出かけようとしているのを見て声を掛ける。


「あれ?勝ちゃんとどっか行くの?」


「ニャんでオメーが出て来るんだ、お慶」


「出て来ちゃ悪い訳!?」


 いきなり出て来た慶に恒興は文句を言う。勝とのデートを邪魔されて不快になった様だ。


「慶姉。恒パパと関に槍を買いに行くだけ」


「マジで!?あたしも行く!」


「だからニャんでオメーが来るんだよ、お慶」


 勝が槍を買いに行くと伝えると、慶も行くと言い出した。恒興はとても渋い顔をして邪魔するなという意思を示す。慶はまったく気にしている様子は無いが。


「丁度、槍の研ぎ直しをしたかったのよ」


「ほう、お前も之定かニャ?」


「二代目兼元よ」


「関の孫六の方だったか。ま、護衛として連れてってやるニャー」


 慶が自分の槍を研ぎ直しをしたかった様だ。彼女の槍は孫六兼元の作刀だと言う。だから関に行くのは慶にとって都合が良いのか、と恒興は理解した。親衛隊を出す手間も省けるので、恒興は慶を護衛として連れて行く事にする。


「よっしゃ!」


「お前の分は買わニャいからな」


「えー、ケチ」


「うっせえニャ」


 恒興は森勝と前田慶を連れて池田邸を出た。犬山の渡し場から鵜沼に入り東山道を岐阜に向かう。その途中にある集落が関の鍛冶村である。


「関に着いたニャー」


「おお、ここが関」


「いろんな場所から煙が上がっているわね。全部工房な訳?」


 お慶は関村を全体的に見渡す。まばらに家屋があり、他の村と大差は無い様に見える。違うと言えば、あちらこちらから煙が上がっている事だ。あれが全て鍛冶工房なのかと慶は感嘆の声を挙げる。


「そうだ。あの屋敷で各刀工の刀を扱っているニャ。覗いて行こう」


「おー」


 恒興が示したのは街道近くにある大きな屋敷。あの屋敷は住まいではない。関村の刀工達の作品を集めた展示販売所だ。名工が打った刀や槍もある。それだけではなく、駆け出しの鍛冶職人の品も『数打ち』として販売している。『数打ち』とは銘を与えるに値しない質の低い品物だ。鍛冶職人は名声と技術が高くないと作品を高値で売る事は難しい。その為、新人や中堅の鍛冶職人は食べていくのが困難になる。そこで彼等は『数打ち』の品質を多数作って売るのである。そして武家に纏めて売るのだ。その販売契約も屋敷でしている。

 因みに池田家でも関や桑名で刀槍や鎧兜の数打ち品を大量発注している。比較的良い出来の品は池田家親衛隊が持っていくらしい。親衛隊に名刀を持たせる訳にはいかないが、なるべく良い品を選べという恒興の配慮だ。その装備の質は恒興の命に直結しているのだから。


「たのもーニャー」


「これはお武家様。刀をお探しで?」


 恒興は屋敷に入ると近くに居た男に声を掛ける。男は恒興の服装から上客と判断したのか、笑顔で寄って来る。


「いや、今日は槍だニャー」


「あたしは研ぎを頼むわ」


「ではコチラで御座います」


 恒興と勝は槍、慶は槍の研ぎ直しだ。注文を聞いた男は三人を屋敷の奥に案内する。そこにはズラリと槍が並んでいた。どうやら各工房の高級品が並んでいる場所らしい。槍を預けた慶は勝といろいろな槍を眺めて歩く。勝は十文字槍を中心に見ている様だ。


「之定、二代目兼定の作刀はあるのかニャー?」


「はい、ここの一角に」


「勝ちゃん、あれらしいニャ」


 男が示した一角に之定の作品が並んでいるという。恒興は勝に手招きをするが、彼女は渋い顔をしている。


「むー……。ダメだ、恒パパ。なんか違う」


「十文字槍もあるわよ、勝ちゃん」


「むー、これじゃない」


 どうやら勝は既に之定の十文字槍を見ていた様だ。その上で彼女はここに並んでいる十文字槍は自分が求める物ではないと言っている。


「そうか。他に之定はニャいのか?」


「ここ以外だと工房になりますね」


「よし、勝ちゃん。工房に行くニャー」


「うん」


 他の槍は兼定の工房にあるという。それを聞いた恒興は勝と一緒に工房に行こうとした。それを聞いた男は急いで恒興達を止めた。


「お待ち下さい。勝手に工房に行かれると師匠が怒りますので」


「ダメニャのか」


「ええ。……ん?お、お客様、そのお腰の物は?」


 どうやら工房を勝手に訪ねると兼定が怒るらしい。まあ、職人は集中したいから客の訪問を好まないのはよくある話だ。だが、恒興と勝は一緒に渋い顔をする。

 しかし、一方で男は恒興の腰にある刀に気が付く。


「ん?これは郷義弘の松倉江だニャー」


「は、拝見させて貰えませんか?」


「別にいいぞ。よく見ろニャー」


 恒興は自分の刀は郷義弘の松倉江だと紹介する。郷義弘は南北朝時代の越中国の刀工である。五郎入道正宗の弟子で『正宗十哲』に入るという。天才的な鍛冶職人だったが、27歳という若さで没したと伝わる。

 恒興は松倉江を腰から外して男に差し出す。今川義元が佩刀にする程の名刀だ。自慢したいのだ。


「おお、これが郷義弘の作刀。表鎬造り、裏平造り。表は樋の内側に腰樋を浮き彫りにし、裏は二筋樋に梵字を彫るとは。素晴らしい。」(うっとり)


「頭は大丈夫かニャー」(何言ってんだ、コイツ)


 松倉江を抜いた男は訳の解らない事を喋りながらうっとりしている。その様子は頭がおかしくなった人のそれだと恒興は思う。


「しかし、一度折れましたか、コレ?」


「曲がったニャ」


「やはり。しかし見事に直されています。私じゃなきゃ見逃しちゃうね!」


「頭は大丈夫じゃない様だニャ」


 男はこの松倉江が大きくキズ付いた事を見抜く。たしかに松倉江は大きく曲がった。今川義元が恒興の兜に松倉江をフルスイングしたからだ。まあ、義元は命が懸かっていたので名刀だ何だと言ってられなかった訳だ。その後、織田信長は今川義元の佩刀であった宗三左文字と松倉江を分捕った。その松倉江を信長から恒興が頂戴し、桑名の刀工の四代目村正が直した。どうやらプロの目から見ても松倉江は上手く直されているらしい。


「これ程の名刀を持つとは、さぞ高名なお武家様とお見受け致します」


「織田家犬山城主の池田上野介恒興だニャ」


「犬山のお殿様!?毎度お世話になっております!私は二代目和泉守兼定の弟子の小平次と申します!」


 恒興の正体を知ると男はズザッと退がって頭を深々と下げる。恒興が偉い侍だという事もあるだろうが、池田家が関から数打ち品を大量購入している事が大きいと見られる。関にとって池田恒興は最上のお得意様という事だ。失礼は許されない。

 男は兼定の弟子で小平次と名乗った。どうやら之定の弟子で今日は販売所の店番をしていた様だ。


「之定の弟子かニャ」


「はい。私から師匠に紹介しましょう。こちらへどうぞ」


「お、行けるのか。勝ちゃん、行くニャー」


「うん」


「お慶、先に行くぞ。早くしろニャ」


「まだ研ぎ中だから、後で追うわ!」


 兼定の弟子である小平次は工房への道案内を買って出る。弟子の紹介があれば工房にも入れるだろう。これは丁度良いと恒興は思った。

 そして恒興と勝は小平次の案内で歩き出す。槍を研ぎ中の慶を置いて。

 恒興達は山道に入る。兼定の工房はこの先の小高い山の中腹にあるという。何でも山から良い清水が湧いているので、その近場に工房を構えたらしい。水は鍛冶において重要なのだと小平次は世間話程度に話す。

 山道を登って行くと幾つかの小屋が見えてくる。煙が立ち昇る小屋もある。あれが工房なのだろう。その小屋の前に薪を纏めている男性が二人。十代くらいの少年と壮年の男が居た。そのうちの十代くらいの少年が駆け寄る。


「あれ?兄弟子じゃないですか。販売所の番なんじゃ?」


「おう、小三太か。他の人に任せてきた。それよりお客様だ。驚くなよ、なんと犬山のお殿様だ」


「犬山の!?失礼しました、鍛冶師見習いの小三太です」


 十代くらいの少年 小三太は恒興が犬山城主だと知ると深々と頭を下げた。どうやら池田家が関のお得意様だというのは全員が知っている事らしい。


「うむ、二代目和泉守兼定は居るかニャ?お前か?」


 恒興は奥に居る厳つい壮年の男性を指す。この中では一番の年上に見えるので、そう当たりを付けた。

 壮年の男性はやれやれといった感じで立ち上がる。


「そうだ。ワシが和泉守兼定だが、何の用だ?」


「師匠、相手は犬山のお殿様なんですから」


「そうですよ。もうちょっと言葉遣いを」


 壮年の男性は関の刀工 二代目和泉守兼定だった。彼は頭を下げる事もなく、ぶっきらぼうに答えた。別に池田恒興だから態度を変える事は無い様だ。その様子に二人の弟子から苦言を呈される。

 まあ、若い二人が独立した時、池田家は当たり前の様にお得意様となるので、気を遣いたいのだ。既に高い名声と技術を持つ二代目和泉守兼定には無用ではあるが。ただ、恒興はその不遜な態度も気にしない。


「別に構わニャい。おおやけの場じゃねーし。村正もそんな感じだったしニャー」


「村正?四代目か、元気だったか?」


 不遜な態度といえば桑名の村正も同じだった。鍛冶職人とはそんなもんなんだろうと恒興は考えている。だから気にしないというつもりで恒興は言った。

 しかし、意外な事に『村正』の名前に兼定は反応した。まるで知り合いの様に。彼の近況を知りたい様だ。


「頑固で元気だニャ。村正を知ってるのか?」


「ああ、ワシと孫六兼元は三代目村正の下で修行したんだ。だから四代目村正とも兄弟弟子って訳だ」


「え?師匠は村正一派だったんですか?」


「バカ野郎。刀鍛冶は常に新しい技術を取り入れるもんなんだ。師匠から受け継いだ技術だけだとやっていけねえぞ。お前らもいずれ修行の旅に行きやがれ」


「「うへえ……」」


 二代目和泉守兼定は若い頃に二代目孫六兼元と共に桑名の三代目村正の下で修行したという。そこには後の四代目村正も居て、彼等は兄弟弟子の関係となった様だ。

 彼等、鍛冶職人は師匠から受け継いだ技術に他方の技術を組み合わせて自分の技術を完成させるのだという。なので兼定は二人の弟子にも修行の旅に行けと言う。小平次と小三太は露骨にイヤな顔をした。


「おっと、城主さん、放っといて済まんな。むさ苦しい仕事場だが入ってくれ。小三太、清水を汲んで来い」


「へい」


 兼定は二人を叱り終えると気さくな感じで恒興一行を工房に迎え入れる。村正の知り合いという事で打ち解けた様だ。


「うし、いろいろ見せて貰うニャ。勝ちゃん……といつの間にか居る、お慶」


「慶姉、早かった」


「追い付いたわ」


 恒興は中に入るぞと勝に声を掛け振り返る。そこには多少、息を荒くしている慶が槍を片手にいつの間にか居た。多分、走って来たのだろう。

 勝は我先にと工房に入る。そしてある槍の前でピタリと立ち止まる。


「恒パパ、コレがいい」


「お、いいのあったかニャ、勝ちゃん」


 勝は指さすその槍は大仰な七尺程(約2.1m)の箱に納められていた。一見して槍は見えないが勝は中身が十文字槍だと確信している様だ。何を感じたのかは理解らないが、これが自分の槍だと勝は主張している。

 他の槍はそのまま置いてあるのに、勝が指す槍だけ箱に納められている光景は異様と言えた。その箱を示された兼定は焦った様に慌てる。


「バカ言っちゃいけねえ。それは嬢ちゃんに扱える代物じゃねえよ」


「何だと?」


(うっ!?何て覇気だ!これが幼児の覇気だってのか?)


 勝には扱えない、兼定がそう言うと勝は闘気とも殺気とも取れる気を放出する。自分を見ないで否定するな、と怒ったのだ。幼女の気に気圧された兼定は『覇気』と勝手に定義した。


(はっ!?ワシの槍が嬢ちゃんの覇気に共鳴している。我が最高傑作よ、お前は主を見付けたと言うのか?)


 兼定は感じた。勝の覇気に呼応して箱の中の槍が共鳴していると(思う)。これは槍が真の主を見付けたのだと(いう気がする)。


「小平次、あの槍は売れないのかニャー?」


「アレは師匠の最高傑作なんですよ」


「売り物じゃニャいのか」


「そういう事ではないのですが。あの槍は過去に二度、売却されましたが主を傷付けて返却されたんですよ。それ以来、主を傷付ける槍として封印されているんです」


 あの箱に納められている槍は兼定の最高傑作なのだと小平次は解説する。過去に二度、他人に売却されたのたが、鋭過ぎたのか主を傷付けた為、返却されたのだという。それからは箱に納められ封印している様だ。


「試し振りする」


「いいだろう。ワシも見定めさせて貰おうか」


 勝は試し振りをすると言う。この槍を勝が扱えるところを見せて兼定を納得させなければならない。また、恒興も納得させる必要がある。恒興は否定していないが、代金を出すのは恒興だ。この槍はかなりの高価のはず。ならば恒興にも有用である事を見せなければならないと勝は感じた。

 兼定も見せて貰うと言い、箱の封印を解く。そして箱の中から黒い柄手の十文字槍が出て来る。その刃は小屋内の少ない光を反射してギラリと輝く。恒興でも一見して名槍だなと思うくらいだ。

 その十文字槍を受け取った勝は庭に出る。そして七尺近い槍を振り回して演武を行う。


「ふっ!はあっ!」


(嬢ちゃんからは何も感じなくなったな。さっきのは勘違いか?)


(むー、何か的が欲しい)


 勝の演武を眺める兼定と恒興。兼定は勝から感じた覇気を感じなくなっていた。自分が小屋で感じたのは勘違いかと疑う様になっていた。

 一方で勝は振り回すだけでは物足りなさを感じていた。このままでは兼定も恒興も納得しないと少し焦る。

 その時、近くの茂みから叫び声が挙がる。


「うわあああっ!?」


「どうした、小三太!」


 その声は清水を汲みに行った小三太だった。彼は茂みから飛び出すと恒興達の所まで走って来る。


「師匠、兄弟子、熊だ!逃げてくれ!こっちに来る!」


「ちくしょう、何でこんな所に熊が!?」


「池田様、逃げて下さい!」


 小三太が清水の湧き場まで行くと、そこには熊が居たらしい。それで彼は一目散に逃げた。それを熊が追い掛けて来ているという話だ。

 兼定は傍にあった金槌とナタを持ち出す。小平次も薪割り用の斧を構えて恒興達に逃げる様に促す。だが、恒興は松倉江を抜いて逃げる意志など無いと示す。


「ニャんで熊から逃げにゃならんのニャー」


「え?でも……」


「熊は逃げるヤツを追うんだニャー。なら斬り伏せてやる。お慶!」


「そう来なくちゃね!研ぎ直した兼元を試してやるわ!」


 理由は有る。熊は逃げるヤツを追う。これは飢えていようがいまいが関係無い。『逃げるヤツ=弱いヤツ=獲物』という定義が熊の中で決まるからだ。これは熊の法だ、人間が何を言っても無駄だ。獲物は狩れる時に狩る。たとえ飢えていなくても獲物を確保しておけば、腹が空いた時に楽に食事が出来る。だから熊は自分の獲物を横取りされると激しく怒る。獲物の所有権は手放さない。仕留めた獲物の場所に自分の匂いを付けて何度も来るのだ。

 既に小三太が背中を見せて熊から逃げた。熊は獲物が居るとしか考えていない。なので恒興は逃げる気は無い。来るなら斬り伏せる、自分は容易く狩れる獲物ではないと教えてやる。そして隣に居る前田慶に命令する。慶はニヤリと嗤うと朱槍を携えて前に出る。


「熊が何処から来るか判らん!油断すんニャ!」


「御冗談。あたしの範囲に入ったら一撃よ。さあ、来なさい」


 慶が小三太が出て来た茂み方向、兼定と弟子二人を間に後方を松倉江を構えた恒興が警戒する。たとえ熊が恒興の方に来ても、慶が直ぐに反応するだろうが。だがこの時、勝はまだ恒興達に合流していなかった。それを熊は見逃さなかった。熊は茂みから出ると一直線に勝に向かった。その位置、その速さ、その方向は慶の場所からは届かなかった。


「はっ!?勝ちゃん、前よ!」


 熊は冬眠明けから間があまり空いていなかった。故にまだ飢えていた。獲物が逃げた先にはまた獲物が居た。頭が良い熊は考えた。一番弱そうな獲物から仕留める。これで最低限の食事は獲られる。一つ仕留めてから次に掛かる。仕留めた獲物に自分の匂いを付けておけば場所を忘れる事もない。だが、危険な気をばら撒く獲物が居る。それは後回しだ。アレだ、小型の獲物が居る。大した気を感じない。きっと弱い。最低限の食事はアレで決まりだ!熊は全力で走り出した。危険な獲物に気付かれた様だが間に合うまい。そうなる様にタイミングを計ったのだから。熊は頭が良かった。


「私か、良かろう。真の槍を手に入れた私に敵は無い。恨むなら、己の不明を恨め」


 少女は向かって来る熊へ走り出す。獲物はすれ違う事で逃げる気だ。最低限の食事を逃がす訳にはいかない。頭の良い熊は両前脚を広げ若干立ち上がる様な体勢を取る。逃さん!頭の良い熊は勝利を確信した。

 しかし、違った。少女は逃げるつもりではない。そして少女からは何の気も感じなかった筈なのに、今は目の前でどの獲物より危険な気を発している。頭の良い熊は失敗を悟った。走り抜ければ良かった。立ち上がった自分はただの的だ。

 熊は頭が良かった。しかし、『賢く』はなかった。

 勝は立ち上がる熊を目掛けて跳び上がる。更に熊の前脚を足場にして跳び、空中で熊の背後を取る。そして、熊の首の辺りを十文字槍で一旋。熊の頭は空を舞う。身体は糸が切れた操り人形の様に崩れ倒れた。


「薙旋・熊屠り。その命、余す事無く頂く。今日は熊鍋だ」


 着地した勝はその技名を『熊屠り』と名付けた。そして、今日は熊鍋だと宣言した。狩り取った命は余す事無く頂き、命を繋いで行く。これこそが大自然の善行である。人間が考える善と大自然の善は違うという事だ。だから熊が獲物を襲う事は大自然の善行である。たとえ、それが人間でも。熊はそれに従ったに過ぎないが、ならば更なる力で返り討ちになる事もまた、大自然の法というものだ。

 これ以外で命を散らす行為は大自然の悪行だと言える。食べ物は無駄にしない事を心掛けよう。


「おお、やるわね」


「「「すげえ……!!」」」


(勝ちゃん、技名は即興だニャー)


 慶は勝が高い技術を持っている事に感心する。兼定と弟子二人はただただ驚愕している。4歳の幼女が2m近い十文字槍を振り回して、これまた2m近い熊を一撃で仕留めたのだから。理解が追い付かず、凄いとしか言えない。そして恒興は技名の『熊屠り』が即興だなと見破るのみであった。

 その夜は熊鍋となる。流石に6人だけでは食べ切れないので関の村中で熊鍋祭りとなった。村民達は熊鍋を喜ぶと同時に、熊を仕留めたのが4歳の幼女と知って戦慄したという。そして兼定の呪われた十文字槍の所有者となる事も話題となる。

 兼定の屋敷。6人で熊鍋を囲んでいる席で勝は例の十文字槍を掲げる。


「恒パパ、私はこれがいい」


「兼定、どうかニャ?」


「いいだろう。ワシの最高傑作、嬢ちゃんに預ける」


 恒興は兼定に聞く。勝は十文字槍の所有者に相応しいのか、を。兼定にも文句は無く、彼の最高傑作である十文字槍の売却を決めた。


「よし、代金は後で届けさせるニャー。勝ちゃん、名前でも付けるかニャ」


「うん。熊の骨など無い斬れ味『熊無骨』……何かダサい」


「たしかにダサいわね」


 取引が成立したので、恒興は勝に槍の名前を付ける事を提案する。勝は熊の骨など無い様な斬れ味から『熊無骨』と言った。しかし、これは勝本人から直ぐに撤回される。ダサいと感じたからだ。


「熊が斬れるなら人間も楽勝。『人間無骨』。これだ」


「お、良いわね」


(そこに行き着くのか。歴史の修正力かニャんかか、コレ)


 という訳で勝は新しい名前を考える。熊が斬れるなら人間も楽勝という事で『人間無骨』と名付けた。結局、ソコに行き着くのかと、恒興は歴史の修正力の恐ろしさを垣間見た。何というこじつけだと。


 次の日、早速にも庭で十文字槍『人間無骨』を振り回して鍛錬する勝が居た。恒興は張り切っているなあと縁側から眺めていた。その横に幸鶴丸を抱えた美代が座る。


「何を買い与えているんですか、あなた様」


「スミマセン、ごめんなさい、断り切れませんでしたニャー」


 予想通り、美代は何を買い与えていると静かに怒っていた。恒興は反射的に土下座の体勢を取り謝罪する。とりあえず、それしか出来る事はないと考えた。


「ふう、仕方がありませんね」


「あれ?怒ってニャい?」


 しかし、美代は大して怒っていなかった。彼女も森勝がどういう考えを持っている少女か、理解ってきたのだ。


「何となくですが、お勝の事が理解ってきましたから。あの子は欲しい物はどんな手段を使ってでも手に入れようとするでしょ。あなた様が与えなくても何かしらの手段で手に入れますよ」


「よくご存知ニャー」


「手に入れる結果が変わらないなら、下手に犯罪行為に及ばれるよりマシだと思います」


「本当によくご存知ニャー」


 勝は欲しい物はどんな手段を使ってでも手に入れる。目的の為なら手段は問わない考え方をしている。だから幸鶴丸を護る為なら槍も全力投擲してくる。投げられたのは弥九郎一人ではあるが。

 だから美代は思うのだ。たとえ恒興が買い与えなくとも、勝は何れあの十文字槍を手に入れたと。その時の手段は犯罪行為になっている可能性すらある。だから恒興が買い与えたのは『マシ』と考えているのだ。


「戦国の女は強くあらねばなりませんから。私も薙刀の練習しないと」


「その前にお腹に子供がいる事を忘れないで欲しいニャー」


 美代も勝を見習って薙刀の練習をしなければと思う。戦国時代の武家の女性はだいたい薙刀術を学んでいる。恒興は彼女のお腹に子供が居る事を忘れないで欲しいと願う。


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【あとがき】


 次から飛んでくる槍はとんでもない斬れ味の十文字槍になる模様。弥九郎くん、生き残れ。

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