放浪者と出奔者

 池田家政務所。

 一般的には『政所まんどころ』と呼ばれる施設で、池田家領地の内政を司る拠点である。ここから全ての指示が出されている為、池田家臣は必ずここに集まる。犬山の内政は開発、民政、商業、治安とそれに付随する全てを指しているからだ。だから政務所で方針や指示を受けて各地へ散って行く。そして池田家重臣は皆、この政務所内に拠室を持ち指令所としている。家老の土居宗珊や一門衆筆頭の山内一豊も部屋を持っている。必ず全員が居る訳ではないが、少なくとも重臣の誰かは詰めている。

 月に一度は主君重臣が集まって評定ひょうじょうが開かれる。ここで池田領内の成果報告と問題点が話し合われ方針が決まる。また緊急時には臨時評定が開かれる場合もある。だいたいが戦事いくさごとになる。

 そして池田家当主・池田恒興もまた、この政務所内に自室を持っている。恒興の仕事の大半は決裁となる。決裁書類を読んでサインし判子を押す。それを加藤政盛に渡す。これだけだ。ただし、量が膨大である。恒興が居ない場合は家老の土居宗珊か一門衆筆頭の山内一豊が代行する。彼等が居なければ、犬山留守居役の大谷休伯となっている。緊急案件は早々には無いので恒興が帰るまで持ち越されている場合が殆どだが。

 恒興は今日も今日とて判子押しに従事している。


「今日ぉ〜のニャーは判子押し〜、明日ぁ〜もきっと判子押し〜と。よし、次だニャ、弥九郎」


 恒興は訳が分からない詩を歌いながら、サインして判子を押す。きっと退屈なのだろう。誰か代わってくれという、悲哀を込めた詩だ。

 恒興の仕事部屋には他に二人の人物が居る。小西弥九郎と加藤弥次郎兵衛だ。彼等は恒興の手伝いとして大量の書類の選別作業をしている。


「はい、次はこちらの決裁をお願いします」


 呼ばれた弥九郎は比較的重要そうな書類を選別し、古い物から持っていく仕事をしている。弥次郎兵衛も同じ仕事をしている。

 弥九郎が取り出した書類を横目で見た弥次郎兵衛は声を挙げる。


「あれ?弥九郎君。それ、少しおかしいよ」


「え?何処です?弥次郎兵衛さん」


「ほら、ここ」


「あ、本当だ。計算、間違ってますやん」


 弥次郎兵衛は書類の計算の部分を指摘する。弥九郎もその部分をよく見て計算が間違っている事に気付く。


「この書類、敏宗かニャ。ったく、計算苦手なヤツだ。差し戻しだニャー。弥九郎、正確なのを提出しろって伝えてこい」


「殿、俺が行きますよ。この後、池田邸に戻りますんで」


「お、もうそんな時間かニャー。じゃあ、頼んだ。弥九郎は休憩だ。ニャーも少し休む」


「はい」


 恒興は書類の主が飯尾敏宗だと分かると、書類の差し戻しを弥九郎に命じる。弥次郎兵衛はそろそろ池田邸に戻る時間なので、書類を持って行くと申し出た。それで恒興も時間に気付き、休憩を取る事を決める。

 弥次郎兵衛は書類を持って飯尾敏宗が居る部屋に向かう。そして声を掛けてから、彼の部屋に入る。


「む、弥次郎兵衛か。私に用か?」


 敏宗は机の上に地図を広げていた。恐らく見回りの順路や山賊探索に不備が無いか考えていたのだろう。


「決裁書類の差し戻しですよ。こことここの計算が合ってないので」


「それは済まない。むう……」


「どうかしました?」


「いや、どう直したものかとな」


「この計算を割り出した者を呼び出すべきかと。数字自体が間違っている可能性もありますので」


 書類を見てどう直したものかと悩む敏宗に弥次郎兵衛は助言する。計算した奴に直させろと。つまり敏宗が直さないで部下にやらせろという意味だ。敏宗は部下を呼び出すだけでいい。その意見に敏宗は得心がいった様で直ぐに動き出す。


「成る程、そうしよう」


「では、俺はこれで」


 こうして弥次郎兵衛は退室した。

 池田家政務所を出た弥次郎兵衛は少し背伸びをして、これからを考える。


「これで良し、と。敏宗殿に助言もしたし、池田邸に戻るか。小雪にいろいろ頼まれてるし」


「君は池田家の家臣の方か?」


「どちら様で?」


 政務所を出たところで見知らぬ男に声を掛けられた。身形が整っているので怪しい感じはない。ただ旅装なので、外部の人間だろうなとは思う。


「失礼。私は本多正信、池田上野介殿にお会いしたく参上した。取り次いでくれないか?」


「……では、中でお待ち下さい」


 男は本多正信と名乗った。もう一人、連れているがそちらの男は暗い顔をして無言だった。

 弥次郎兵衛はさっさと池田邸に戻りたかった。早く戻らないと小雪が怒るからだ。最近に小雪はせんの専属お世話係になって、立場が逆転した様に感じる。ま、直ぐに終われば問題ないかと弥次郎兵衛は考える事にし、取り次ぐ事にした。


「殿、いいですかい?」


「弥次郎兵衛?戻ったんじゃニャいのか?」


「そのつもりだったんですがね。表で本多正信という御仁に会いまして、殿に面会を求めています」


 恒興は寝っ転がりながら、戻って来た弥次郎兵衛を怪訝に思う。しかし彼が本多正信の名前を出すと飛び起きる。


「ニャに?本多正信?そう名乗ったのか?」


「はい、如何しますか?」


「ま、仕事も落ち着いたし、直ぐ通せニャー」


「はっ、連れて参ります」


 恒興は直ぐに会うと弥次郎兵衛に伝える。主君の答えを聞いた弥次郎兵衛は本多正信が待つ部屋に向かう。そして程なくして、本多正信は弥次郎兵衛の案内で現れた。他に一人連れていたが、彼は待合室で待機する様だ。


「お久しゅう御座います、上野殿」


「おお、久しいニャ、正信。大和国で会った以来か。まだ松永弾正の客将か?」


「いえ、お暇を頂きまして。今は諸国を旅しております」


 本多正信は既に松永家から出て根無し草になった様だ。もう松永久秀から学ぶ事は無いと判断したのだろう。

 本多正信は恒興を『上野殿』と呼ぶ。これは対等の呼び方だが問題は無い。本多正信は織田家傘下の松永家の所属を抜けた為、織田家と何の関係も無い。だから池田恒興にへりくだるつもりはないという意志表示だ。つまり本多正信は割と屁理屈を捏ねるのが好きな男という事だ。恒興も分かっている。正信も恒興が理解していると分かっている。


「そうか。じゃあニャーの客将になるか?」


「それも一興かと思って来ました」


「ニャハハ、言うじゃねーか。ま、ニャーは構わんけど」


 恒興は正信を池田家客将に誘う。この男は最終的に徳川家康の下に行きたい希望を持っているので、家臣に誘うだけ無駄だ。なら、その日が来るまで使う。こんな所だけ三河武士だなと恒興は笑う。


「まあ、犬山を詳しく見たいというのもありますが、今回は一人、匿って欲しい人物が居りまして」


「匿う?不穏当だニャー」


「相手が相手なので、その辺の大名では難しく」


「誰だニャ?」


「本願寺勘定方の増田長盛です。前からの友人でして」


 正信が連れていた暗い顔の男の名前は増田長盛。本願寺勘定方で働いていた者だ。どうやら正信の知己で友人の様だ。その男を恒興に匿って貰おうと、正信は犬山まで来たらしい。


「?知らんニャー」(どっかで聞いた事あるようニャ?)


「実は彼、処刑寸前でして。私が手引きして脱出させました」


「ニャハハ。とんでもねー事してんニャー、お前」


 恒興は増田長盛の名前を何処かで聞いた事あるな、程度にしか分からなかった。

 正信の話では長盛は本願寺によって処刑寸前だったという。それを正信は昔の縁を利用し、彼の牢獄に入り脱獄させたらしい。この男はとんでもないヤツだと、恒興は愉快そうに笑う。


「賄賂で金を使い果たした挙げ句、私も追われております。一緒に匿って頂けると幸いです。あとお小遣い下さい」


「いいぞ、いいぞ。ニャーは本願寺の引き渡し要求が来たって突っ撥ねてやる。小遣いは長盛って男次第かニャー」


 長盛を脱獄させた事で正信も本願寺から追われる身となったらしい。その手法は賄賂で牢番を籠絡して警備に穴を空けた様だ。恒興はニッコニコで匿うと約束する。小遣いについては増田長盛という男が役に立つかどうかで決める事にした。


「その長盛くんなんですがね。怒らないで聞いて欲しいんですが」


「ん?ニャんだ?」


「彼は本願寺の大量米売却を主導した人物です」


「あ?ニャんだとぅ?」


 正信から衝撃の一言が出る。増田長盛はあの本願寺の大量米売却を主導した者だと言うのだ。それを聞いた恒興の顔はビキビキっと険しくなっていった。

 本願寺の大量米売却で恒興が何れ程苦しんだか。結果、上手くいなしたが、それは筒井順慶が居なければ成立しなかった。彼が居なかったら、恒興は今頃、塗炭の苦しみの中を彷徨っていたかも知れない。それだけに恒興の怒りは極大のものだ。


「殺さないで下さいよ。彼は優秀なんですから」


「……分かった。殺さないと約束するニャ。処遇は会ってから決める」


「では、連れて来ます」


 とりあえず恒興は怒りを収めて、増田長盛を害さないと約束する。話を聞いてからでも遅くはないと考えたからだ。

 正信は一度、退室し増田長盛と思われる男を連れて戻った。暗い顔をした男は恒興に深々と土下座する。自分のやった事は分かっているから、殺されると思っているのかも知れない。


「ご紹介に預かりました、増田仁右衛門長盛です。出身は近江国です」


「池田上野介恒興だニャー。で、長盛。正信から聞いたんだが、お前が本願寺の米大量売却をしたってのは本当か?」


「その節は大変ご迷惑をお掛けし申し訳ありません」


「本当みたいだニャー」


 正信の情報は間違い無い様だ。この縮込まる冴えない奴があの大事をやったのかと恒興は感じる。怒るより呆れてきた。

 まずは話を聞かなければならない。米相場を大きく落とす程の『米大量売却』をどうやってやったのか、だ。


「本願寺の米売却をどうやったんだニャー?」


「あ、それはですね!実は特殊なやり方をしたんですよ!」


(何、楽しそうに喋っとんニャ。はっ倒すぞ)


 恒興に説明を求められると、長盛はパッと表情が明るくなって喋り出す。まるで自分の手法を喋りたくて仕方ない様に。それを見た恒興は長盛をはっ倒したくなってきた。


「商人は在庫に対する相場の変動には敏感ですからね。かと言って、無制限に買ってくれる訳でもない。経済圏から離れれば上限も低い。つまり商業都市で売る必要があったんです。量が凄かったですから」


「そうだニャ」(それで山城国、摂津国、近江国なのか)


 一概に米を売ると言っても米問屋が無制限に買ってくれる訳がない。経済圏ではない場所だと買い取り上限も低くなる。庶民が上限まで売るなど出来ないが、大名になるとそれが出来る。

 だが、米問屋は相場に敏感だ。一つの米問屋に大量売却されると、その商家は他の米問屋に米を流して平均化する。その情報が町に回り、直ぐに相場に反映される。つまり米相場が下がる。だから米をなるべく高く売るなら町を変える必要がある。そして高く多く売るなら都市部が適している。


「しかし、売れば売る程、相場は落ちるんですよ。在庫過多になった米問屋は直ぐに他の米問屋に持って行きますから、他所の米相場も下がるんです。だから売り終わる頃には二束三文になっている事も珍しくない。なので米を売却する時はなるべく相場の高い場所を探して旅をする事になります。今回の量を普通に売却するなら15ヶ国は回らないといけない程でした」


 長盛は本願寺の米売却量は15ヶ国以上で売り歩く程だったという。それをこの男は山城国、摂津国、近江国の3ヶ国にしたのだ。普通に考えれば、売っている途中で米相場はガリガリ落ちていく。そんな事をしていれば、本願寺はとんでもない損をした筈だ。なのに長盛は全ての米を高値で売り捌いた。それをどうやったのか?それが問題だ。


「じゃ、どうやって3ヶ国にしたんだニャー?」


「実は商人には弱点があるんですよ」


「弱点かニャ?」


「彼等は『現物主義』なんです。物が手元に無いと相場反映が出来ないんです」


「現物主義か。そりゃそうだろニャ。騙し奪いの戦国時代で現物現金が一番信用出来るしニャー」


 商人が現物主義というのは当たり前だ。騙し合い、奪い合い、殺し合う戦国乱世で現物現金ほど信じられるものはない。だが、増田長盛はこれが戦国商人の弱点だと言う。現物でしか相場を見れないと。


「私が行ったのは、その思考の盲点を突いたものでしてね。その相場で売れる限界量を売ると約束するんです。この時点では現物がありませんので相場は変わりません。まあ、売る日によって相場は変動しますが誤差の範囲です。これを私は『約束取引』と呼んでます」


「『約束取引』かニャ」


「あとは簡単です。この約束取引をあらゆる米問屋で取り付ける訳です。そして約束が揃ったら一斉に米を持って行って売却金を回収する訳ですよ。すると在庫過多になった米問屋が他所の米問屋に売ろうにも、他所も在庫過多ですからね。その国の米相場はズドンと落ちて米問屋は大量在庫の処分に奔走したという訳です」


 増田長盛の手法。これは現代の『先物取引』だ。先物取引とは買う約束だけをして、その約束を相場が高い時に売って利益を出す事を言う。当然、相場が上がらなかったら損が出る。というか、約束を売らなかったら現物が自宅に届くので気を付けて欲しい。

 コーヒー豆で例えようか。まずコーヒー豆を買う約束を取り付ける。この時点でコーヒー豆は無い。コーヒーの木にくっついているからだ。つまり収穫前、次の収穫のコーヒー豆を買っているのだ。なので収穫される前までに約束を売る必要が出る。コーヒー豆が収穫されるまでの期間に高い相場があれば約束を売るのだ。コーヒー豆は売った先に行く。相場が上がらなかったら損になる。そして約束を売らないとコーヒー豆が自宅に来る。頑張って焙煎して飲んでくれ。

 こういう作物取引をしている人がする事。世界的に不作である事を祈っている。何とも罪作りな取引である。

 しかしこれは電信技術が発達したから、相場が即座に分かる様になった。戦国時代の日の本では無理だ。ただ、欧州は割と大航海時代辺りからやっている。バブル経済の語源となった『南海泡沫事件』など、その典型だ。現物も無い有りもしない話に皆がお金を大量に掛けて、そして南海の泡と消えた。だからバブルと言うのだ。その前にもチューリップの球根でやらかしている。

 増田長盛の手法は簡単だ。米を上限まで売るという『約束』だけ取り付けるのだ。現物は無く、本願寺の名前で信用させる。米問屋は本願寺の経済規模くらいは知っている。この『約束』を国中の米問屋で取り付ける。この時点では現物が無い為、相場が変わらない。これを山城国、摂津国、近江国で仕掛ける。約束が米の量まで達したら、一斉に米を送り出す。そう、コーヒー豆が自宅に届く日が来たのだ。商人は『約束』だけで売買は出来ない為、『約束』を手放す事が出来なかったからだ。

 これで周り全ての米問屋が在庫過多となり、相場は急落。商人は何とか米を捌こうと急いで他国へ米を売り歩き、その影響は周辺に拡大。恒興が居る尾張国まで数日で襲来したのだ。

 恒興がどれだけの衝撃を受けたか、語るまでもないだろう。民衆などどうなったか想像出来るだろうか?


(それで庶民が米を売れなくなったり、二束三文以下で買い取られて暴動寸前ニャんだが。殺すぞ、マジで)


 こんな事を得意気に語る男をマジで締め殺したい衝動に駆られる。それを恒興は必死に抑える。

 当たり前だが在庫過多になった商家は民衆から米を買い取らなくなったり、二束三文以下で買い取る事が横行した。

 現代で例えれば、一万円で売れる筈が千円になった感じだ。一事が万事、これでは庶民は生活が出来ない。物価が10倍になったのと同義だ。米は通貨なのだから。


「あまりやりたくはなかったです。私はのんびり15ヶ国を回っても良かったんですけど、下間頼照様が」


「下間頼照!?何を言われたニャ?」


 増田長盛は分かっていた。何が世の中に起こるのかを。急に声のトーンを落として申し訳なさそうになった。そしてある男の名前を出す。

 恒興にとっても聞き逃せない。その名前は下間頼照。三坊官筆頭。本願寺の実質的NO.2の男。


「頼照様は『永楽銭』のみで取引をせよと。永楽銭がたくさん有る場所なんて山城摂津近江が中心じゃないですか。この3ヶ国で売り切る以外なかったんですよ」


「そうか、三坊官筆頭の下間頼照ニャー」


「ご迷惑をお掛けした事は重々承知しております」


「いや、もういい。下間頼照が主導してたなら、お前がやらんでも他の誰かがやったニャ。お前ほど上手くは出来なくても、同じ状況になっただろうニャー」


 下間頼照の名前が出た事で恒興はハッキリ認識した。本願寺は余った米を高く売りたい訳ではなく、初めから悪意を持って米騒動を引き起こした。おそらく米を高く売ろうが、安く売ろうが構わなかった筈だ。米余りの状況が生まれれば、それでいいからだ。その上で永楽銭不足まで演出したのだ。どう考えても織田信長を・・・・・標的にしている。幕府は巻き込まれたといったところか。

 たとえ増田長盛がやらなくても他の誰かが行っただろう。この男はこれ以上なく上手くやってしまっただけだ。殺すべきは長盛ではない。寧ろ、長盛が居れば対抗策も考案出来るだろう。

 しかし、それなら更なる疑問が出る。長盛は下間頼照の依頼をこれ以上なく果たした。その長盛が何故、処刑されるという話になるのだろうか。


「長盛は下間頼照の命令をこの上なく果たした訳だニャー。なら、何で本願寺から追われてるんだ?」


「それなんですよー!売却金の一部が消えたんです!私が横領したって嫌疑を掛けられて!」


 何と、増田長盛は売却金の一部を横領した罪で処刑という事になったという。処刑される程の金額が消えたという意味だ。長盛が必死に訴える様を見るに、やってはいないのだろうと恒興は感じる。


「したのかニャ?」


「しませんよー!冤罪です!私はちゃんと本願寺の蔵に納めて、記録だって!」


(売却金は本願寺の蔵に納めて記録も有る、か。なら納めた後に消えたって訳か。という事は内部犯だニャー)


 やはり長盛はやっていなかった。売却金は本願寺の蔵に納めて記録も付けた様だ。なのにその後、売却金の一部が消えた。どう考えても内部犯の仕業だ。


「どういう嫌疑を掛けられたんだニャ?」


「私が記録を改竄したと」


 そして長盛は捕縛され、記録改竄の容疑が掛けられて処刑が決まった。普通、勘定方の記録は一人では付けない。何人もチェックを挿む。池田家ではそうしている。一人では間違いに気付かない事もあるからだ。本願寺がそうしているとは言い切れないが。


「お前がやってないなら記録を確かめる側が改竄したか。下間頼照かニャー」


「三坊官様がそんな事をする訳がありませんよ。しなくても使えますから」


 恒興は試しに下間頼照か、と長盛に問う。彼はその可能性は無いと断言する。本願寺の実質的NO.2の男は改竄などせずとも資金を使える。この男に工作など必要ないし、長盛を処刑する理由もない。


「ふーん、使える奴と使えない奴は分かっている。その上で記録に手が届く。……お前、誰がやったかは目星が付いているニャ」


「……」


「ニャる程。消される寸前だったって訳だ。お前に生きてて貰っちゃあ困る坊主が居ると」


「うう……」


 だいたい処刑が決まるのが早すぎる。あの米騒動からそんなに経っていない。これは長盛に生きていて欲しくない誰かが居るという意味だ。

 長盛の反応を見て恒興は理解した。彼は誰がやったのか、知っているのだ。それを長盛は主張した筈だ。だが長盛は信じて貰えなかった。つまり犯人が信じられたのだ。下間一族の誰かだな、と恒興は思う。本願寺内の下間一族の権勢は圧倒的だからだ。


「ふーむ」


「如何お考えです、上野殿?」


「ん?何処で働いて貰おうかニャーって」


 恒興は考える。正信に尋ねられると恒興は長盛を何処で働かせるかを考えているという。それは増田長盛を匿うと決めたという意味だ。


「匿って頂けるんですか!?」


「ああ、ニャーの家臣になれば、本願寺の引き渡し要求なんぞ全部跳ね除けてやるニャー」


「良かったですね、長盛くん」


「はい!」


 恒興は本願寺の引き渡し要求は跳ね除けると宣言する。もう彼等の考えは理解した。ならば一歩も譲歩する気は無い。恒興はやるべき事をやるだけだ。

 恒興は外に向かって叫ぶ。


「誰かあるニャー」


「はっ、お呼びでしょうか、殿」


「長安は居るかニャ?」


「政務所勘定方に」


「直ぐに呼べニャ」


「直ちに」


 恒興は駆け付けた家臣に土屋長安の所在を確かめる。彼は今、政務所の勘定方に居るという。なので、直ぐに来るようにと伝えさせる。


「殿さん、来たッスよ」


 程なくして土屋長安が現れる。若干、気怠そうにしている。その様子に恒興は働き過ぎを心配になる。池田家は土屋長安に倒れられたら堪らない。


「長安、来たか。コイツは増田長盛だニャー」


「はあ、どうも。土屋十兵衛長安ッス」


「増田仁右衛門長盛です」


 長安は長盛をチラリとだけ見た。あまり興味は無さそうだ。お互い初対面なので、無難に挨拶を交わした。


「で、何ッスか?」


「長安、近くに寄れニャー」


「はあ」


「もっとだニャー」


「何なんスか、いったい」


 来たばかりで事情が分からない長安は少し戸惑う。そして言われるがまま、恒興の横まで行く。恒興は長安の耳に顔を近付けて、彼だけに聞こえる様に小声で話す。


「コイツが本願寺の米大量売却をやったヤツだニャー」(小声)


「ほほう、それはそれは。面白い話ッスねぇぇぇ」(小声)


「コイツから詳細を聞き出して対抗策を講じろニャー」(小声)


「お任せ下さいッス」(小声)


 長安は恒興からあの・・米大量売却をやった人物が長盛だと教えられる。すると長安は笑っているのか、嗤っているのか微妙に判別出来ない凄い顔をした。まるで探していた親の仇でも見付けた時の様な顔だと恒興は思った。


「長安、長盛を部下に付けるニャー。使ってみろ」


「了解ッス!さあ、長盛くん、行くッスよ!」


「は、はい」


「いや、それより歓迎会ッスかねー。ちょぉぉっと、いろいろお話聞きたいッスからねぇぇぇー!」


「は、はあ」


 恒興は本願寺の米大量売却の絡繰を詳細に聞き出して対抗策を講じるようにと、長安に指示を出した。本願寺が同じ要領で米売却を行う可能性は多分にあるからだ。手法はおそらく理解しているはずだ。

 今回の米騒動の直接的被害は山城国、摂津国、近江国。その中で一番の被害を受けたのは京の都がある山城国だ。

 摂津国の商人というのは堺会合衆の事だ。堺の町は和泉国にあるが、摂津国と和泉国の境目にある。その為に堺商人は摂津国から和泉国、河内国、播磨国、大和国へと素早く売り捌いた。また瀬戸内水運を使って博多までの米相場が高い国で売る事が出来たのだ。故に大したダメージは商人には無い。(民衆に無いとは言わない)

 近江国の商人はそのまま近江商人だ。彼等は越前国、若狭国、濃尾勢へと米を売り捌いた。更に敦賀から北陸水運で売る事も出来た。故に大したダメージは商人には無い。(民衆に無いとは言わない)

 ここまで説明すればお分かりだろうか。京の都の商人には売る場所が無いのだ。北に丹波国があるが経済的には発展していない。だから高く買った米を安く堺会合衆や近江商人に買って貰うとかいう破産レベルの地獄が口を開いている状態だ。そんな状況で都人の暮らしが脅かされない訳がない。この不満が全て幕府に向かい、更に永楽銭不足も相まって、足利義昭は『悪御所』と民衆から罵倒される破目となる。これが織田信長と足利義昭のケンカの火種となった。

 この事態に信長は有効な手段が採れなかったが、犬山の風土古都の噂を聞いて岐阜に帰還。信長は恒興から方策を聞き、覚悟を決めた。幕府と対決する覚悟を。

 京の都に戻った信長は織田家で買い込んだ米を池田家に移した。風土古都は安土、岐阜、清須にも作る予定だし、津島や熱田では始まっている。恒興が買った米では明らかに足りないからだ。そして恒興から代金を回収して、都商人にお触れを出した。米騒動以前の相場の8割で織田家が買い取ると。都商人は米を2、3割で売らなければならない事態が8割で売れると聞いて狂喜乱舞した。損は出るが破産はしない、挽回は可能だと。そして米相場は程なく落ち着きを取り戻した。これにより、織田信長は都商人から信望を集める結果となる。相対的に足利義昭には『役立たず』という評価が都商人から下された。このお触れは信長の名前で出されたからだ。

 これに足利義昭は憤慨した。それは幕府の名前でやるべきだと。信長は「アンタは何もしてねーよ」と取り合わなかった。足利将軍と織田家当主の対立は先鋭化しつつあった。

 まだ、永楽銭不足問題があるが、「それでも織田信長なら……、織田信長ならきっと何とかしてくれる!!」と都人から期待される程になっている。あれだけ信長に靡かなかった都商人は今では積極的に近付いて来る様になった。信長が茶器好きだと聞いて名茶器を差し出す者も多数。信長の下には名茶器がズラリと並ぶ事態になっているらしい。

 都商人は信長の歓心を買い、彼からいろいろな商売利権を貰っていた。これを管理する為に丹羽長秀、柴田勝家、明智光秀などが京の都に呼び出されたくらいだ。都の管理も治安も利権も織田信長が持っている。治安、つまり軍事力を持つ者が利権を守れる。当たり前の話だ。

 都商人は考えた。では幕府とは何だ?幕臣に賄賂を贈って何になる?と。そして織田信長は幕臣ではなく朝臣だ。この事実も拍車を掛けて幕臣に行っていた賄賂は公家に行く様になる。公家から信長にアプローチする事も有効と見られたからだ。

 当然、幕臣達は怒り狂っている。稼げなくなったからだ。理由など、これで十分。足利幕府と織田家の対立は退けない所に到ろうとしていたのだ。


「大丈夫ですかね、長盛くん」


「長安は乱暴な男じゃないし、長盛の才能を利用する方向に動くニャー。米騒動じゃ長安は苦労したんだ。自分を困らせるなんて大したヤツだって思ってるよ」


「それなら安心です」


 恒興は長安の性格を理解っている。彼は短絡的な行動は取らないと。寧ろ、自分を困らせるなんて、凄い才能だとすら思うだろう。そしてその才能を自分の役に立つ方向に使用する筈だ。迷惑を掛けられた分、役に立って貰おうという思考をしている。


「正信は自由にしてろ。協力が欲しい時は呼ぶニャー」


「はっ、有り難う御座います。で、お小遣いは?」


「遊ぶ金も含めて、ニャーに申請しろ。直ぐに出してやる。用途は書かんでいいニャ」


「ははっ」


 本多正信は池田家客将になる事になった。そして増田長盛を連れて来た事で、正信のお小遣いは申請すれば無制限となった。一応、申請は必要なので使い過ぎは恒興にバレる様になっているが。


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【あとがき】


 まだ永楽銭問題が残ってますニャー。次回はソレの予定ですニャー。永楽銭は輸入品で日明貿易で手に入りますが、大内家が滅亡したので日明貿易が既にありませんニャー。

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