織田家中激震 with法の意義

 池田家正室の妊娠発覚に沸いた犬山。各所から祝いの使者が来たりと、数日は忙しかった。それも落ち着いた日中の池田邸。縁側で日向ぼっこしている三人が居る。


「また暇になってしまいました」


 蜜柑を頬張りながら縁側に座る美代の姿は、たしかに暇人のそれだ。


「何かしようとしても、女中さん達が走り込んで来て奪い去っていくんです」


「まあ、前もそうだったからニャー」


「当然やな。奥の仕事も全部ウチがやるから、何もさせへんで」


「はあ、この蜜柑を食べてるしかないという悲哀」


(よく食うニャー)(よう食べるな、ほんま)


 妊婦となった美代は何かをしようとしても、池田家の女中さんがダッシュで走ってきて取り上げる。お腹の子供に障ったら一大事だからだ。池田家の奥を取り仕切る藤もその様に指示を出している。

 何も出来ないと嘆く美代はせかせかと蜜柑を剥いて食べている訳だ。それを見て恒興と藤は「よく食べる」と彼女の健啖を評した。


「梅ばあちゃんの見立てはどれくらいなんだニャ?」


「梅さんは一月くらいだと」


「時期的には旦那様が熊野に行く前くらいやな」


「おお。熊野の事が上手く運んだのも、この子のおかげかもニャー」


 産婆の梅の見立てでは、新しい子供が宿った時期は一ヶ月前くらいだと言う。その頃だと恒興が熊野に行く前くらいの様だ。


「恒興」


「ニャんでしょう、母上?」


 恒興は突然、後ろから名前を呼ばれる。声から母親の養徳院だと判っているので、振り返りながら返事をする。


「新たな家族が増えて嬉しいでしょうが、あの子達の事も考えて下さいね」


「養女達の事ですかニャ。順調に嫁ぎ先は増えてますよ」


「それは私も把握しています。そちらではなく、尼寺に居る子供達ですよ」


「う、そっちですかニャ」


 養徳院が言っている『あの子達』は恒興の養女達ではなく、尼寺で保護している女児達の事だ。その女児というのは、恒興が小牧山城の浮浪者達を一掃した時に保護した子供達だ。所謂、『口減らしされた子供』であり、捨てられた場所から逃げて小牧山城に居着いていた。男児は寺に、女児は尼寺で預かって貰っている。男児は養子なり、丁稚奉公なり、働き手なりと引き取り先はそれなりにある。しかし女児はまったくと言える程に無い。


「まさか、あのまま出家させるつもりではないでしょうね?」


「ニャーにもそんな気は無いんですが、女児を引き取る家は少ないんですニャー」


「そこを何とかするのが『権力者』というものでしょう」


(無茶苦茶な事言い始めたニャー、この人)


 女児の引き取り先が無いのなら無理矢理にでも作れ。それが出来る権力者という立場にいるのだから、と養徳院は言う。

 恒興の感想は『無茶言うな』である。女児に需要が無いのが、そもそもの原因なのだ。戦国時代は男尊女卑だから。それも理由の一つだ。更に言えば、男性は不足していて女性が余っている、女性余りの世の中になっているからだ。

 出生率は男児が多いものの、七五三を越えられず、幼年で死亡する夭折が非常に多い。何故なら女児は男児に比べると皮下脂肪が多い。その為、女児の方が体力が有り多く生き残る。更には戦場に行くのは男ばかりとなる。当たり前の様に男は少なくなっていく。


「なるべくで良いので考えて下さいね」


「分かりましたニャー」


 実は女児は男児より成長が早く、身体能力が高い。だが、それも5、6歳あたりから逆転が始まる。七五三を越えた男児の方が強くなっていく。だから七五三は生存の為の大切な行事となっている。

 そうなると、誰でも出来る仕事の大半が力仕事の世の中で、女性の需要は低くなるばかりである。

 恒興は返事をしながらも、どうすればいいのか、頭が痛い問題だった。

 政務所に行った恒興はこの問題を加藤政盛と飯尾敏宗に相談してみた。加藤政盛は商家内の、飯尾敏宗は武家内での女児の働き口を聞いてみたのだ。


「口減らしされた女児、ですか」


「小牧山城に結構居ましたからね」


「母上の手前、どうにか働き先を見付けたくてニャー。女性の働き口が少ないのは承知だが、何か無いか?」


 しかし事情を聞いた二人の顔は優れない。それはそうだ。恒興でさえ悩む問題、簡単に解決方法が見付かる訳も無い。


「むむむ、なかなかに厄介かと。子供でも出来る仕事となるとどうしても男児が優先ですからな」


「将来性も加味してますから。親父の店でも男児ならいいですが、女児はちょっと」


「無理矢理作るかニャー?絹女のお遣いとか」


「その辺りが無難でしょうね。そのまま絹女にするんですか?」


「どうだろうニャー。絹女になるにも条件はあるし」


「女性という他に条件があるのですか?飯尾家の領地でもなりたいと願う者がいるのですが」


 絹女は女性達の間で憧れの職業になりつつある。女性の仕事が少ない事もあるが、やはり稼げるというのが大きい。飯尾敏宗の領地でもなりたいと願う者が増えているらしい。


「機材が入れば増やせるニャ。その時の絹女選考基準が『子持ちの未亡人』が優先なんだ」


「『子持ちの未亡人』ですか?何故?」


「言ったろ。女性の働き口はかなり狭いって。更に子供という枷まであって生活していけると思うかニャ?」


「それはたしかに」


『子持ちの未亡人』は生活していけない、というのは割りと普通にある話だ。夫がかなりの遺産を残していれば生活可能だが、そんな事はほぼ無い。

 この被害者には戦国時代の有名武将がいる。『加藤清正』である。彼の父親は武士だったが、戦場でキズを負い引退、鍛冶屋に転職した。しかしキズは悪化し数年後に他界、妻と幼い虎之助(清正)が残された。その後、虎之助の母親は各地を転々とし仕事をしていたが、無理が祟り倒れた。それを助けたのが羽柴秀吉の母親『なか』だった。なかは虎之助を秀吉に養育させ、母親は自分の下で自立させる事にした。こうして幼児・虎之助は羽柴秀吉の下で育ち、『加藤清正』となるのである。


「夫を亡くした妻が小牧山城に子供を捨てたんだ。育てられないってニャ。子供達に事情を聞いたところ、大半が村の口減らしではなく、未亡人が置き去りにした事が判明した」


「だからですか。尾張国で子返しなんて殆どない筈なのに、あんなに子供が居たのは」


「だから儲かる絹女の仕事は『子持ちの未亡人』を最優先にしてるんだニャー。機材が来るまでは、他の絹女の所で見習いをやらせてる」


 絹女の仕事は儲かる。足の腱を切られた女性達から始まって、未だに退職者を出した事が無い。仕切っているのが犬山城主の池田恒興なので安心感安定感があるという事もあるだろう。絹女は順次増やして犬山織の増産をしているが、恒興は『子持ちの未亡人』を優先して雇用している。

 絹女はその名の通り、女性のみがなれる仕事と設定している。仕事は住み込みで職場兼住宅という個宅が恒興によって用意される。生糸を取るのも、絹を織るのも室内でやる必要があるからだ。


 恒興と加藤政盛、飯尾敏宗の三人で談議をしていると、ドタドタと廊下を走る音がする。それは恒興達の居る部屋に近付いていた。そしてバンと部屋の襖を開かれる。そこにいたのは息を切らせた土屋長安だった。


「殿さん!やべえッス!」


「長安か。何かあったのかニャー?」


 流石に長安の様子が尋常ではない。恒興は直ぐ様に何があったのか問い質す。


「京の都を中心にかなりの量の米が売却されたみたいッス。周辺では米相場が一気に下がって『米転がし』の様相が出てるッス!」


「ニャんだ、それは!?秋や冬じゃないんだぞ。米相場が一気に下がる量なんて、いったい誰が……」


「本願寺ッス!石山寺がとんでもない量を売却した様で、主に摂津国、山城国、近江国が直接の売却先ッス。間もなく濃尾勢にも波及するッスよ!」


 土屋長安の報告は相場に影響を与える程の米が売却された事だった。米の相場は一定ではなく、収穫時期は米余りで下がる。また秋から冬は武家が米を換金するので低いまま、春から夏にかけて通常相場に戻る、というのを一年のサイクルとして繰り返す。

 そして米相場は国ごとに違う。長安の言う摂津国、山城国、近江国の三国の相場が一気に下がったのなら、そこで安い米を買い、他国の高い相場で売る『米転がし』が容易になる。これが起こると他国の米相場も崩れる事になるが、止めるのは難しい。


「長安!緊急で米を買い入れるニャー!津島会合衆にも調整を依頼するんだ!」


「了解ッス。濃尾勢を安定させるには、かなりの財政負担を覚悟して欲しいッス」


 恒興は急いで米を買い、相場を安定させる様に指示を出す。この話のヤバイ部分は商人による米転がしなどではない。米転がし程度なら商人は毎年やっている。米相場の安い秋に貯め込んで、高くなったら売ればいい。だが商人だと他の商人から警戒されるし、上手く換金出来るかという問題がある。それにやり過ぎれば恨みも買う。なので米転がしをやるにしても緩やかにやるのが鉄則となる。

 しかし宗教団体は完全に想定外だった。それが故にどの商人も安請け合いしてしまった。結果、気付いた時には大量の米を買い取っており、あまりの在庫に三国の商人が他国に米を流す事態になっている。つまり三国周辺に被害が拡大しているのだ。


「分かった。あと余力があるなら、近江国の米も買え。信長様も動いているだろうが、少しでも助力したいニャー」


「急いで津島に行ってくるッス!」


 おそらくだが織田信長も既に米の買い入れに奔走しているだろう。それに助力する意味でも近江国の米を買う。濃尾勢に流入するなら近江国からなので、防波堤にする意味もある。


「ニャーは柘植衆を動かしてくる。政盛は甲賀衆に依頼を出して情報収集をさせろニャー!」


「はっ、お任せを!」


 恒興も部屋を出て柘植三之丞が待機している場所に向かう。呼び出す時間も惜しいと焦っている。政盛も直ぐに動こうとするも、敏宗に呼び止められる。


「政盛、これはそんなに大事なのか?」


「本気で言ってるのか、敏宗。飯尾家は殿のやり方を見て金銭の俸給にしているみたいだが、完全に出来ているか?」


「完全にはまだ無理だが影響あるのか?」


 飯尾敏宗はいまいち事の重大さが理解出来ていない。だが、この話は敏宗の様な家臣の多い武家には致命的な影響がある。商人による米転がしなど本気でどうでもいい。もっとヤバイのは『米相場の下落』なのだ。


「普通の武士は米で給料を貰って、その米を売って金銭を得て生活してるだろ」


「普通だな」


「米を売る時に相場が半分になってたらどうなる?勝手に給料が半分になったって事だぞ。下手打つとお家騒動に発展しかねないんだ」


「不味い……それは不味いぞ!」


 武士でも通常は『米』が給料である。それを生み出す領地がそのまま給料という考え方だ。そもそも日の本に貨幣が足りないので金銭での給料は基本的に無理だ。それが室町時代に永楽銭の大量輸入で少しは出来る様になってきたが、それでも織田家以外は無理というものだ。物理的に不可能なのではなく、思想的に不可能という意味である。

 米や領地で給料を払い続けた武家は、金銭での給料というシステムに辿り着けない。結局、武家にとって金銭は商人と取引する為の『小道具』でしかない。現代人の様に『金銭の価値』を理解はしていないのだ。だから米が穫れる領地を果てしなく奪い合う。


 例として最も相応しいのは羽後国大名の秋田家 (安東家)だ。秋田家は米が穫れる比内地域に執着していて、領主である浅利家の当主を宴会に呼び出して毒殺する程である。そして、この両家は時代が豊臣政権になってもやらかす。しかも豊臣政権を二分しかける程の騒ぎに発展した。これ程までに武家の米が穫れる領地への執着は強い。しかし秋田家は米が穫れない蝦夷地には興味が無く何も干渉しなかった。なので家臣の蠣崎家に全てを任せていた。それどころか、当主の秋田実季が豊臣秀吉に蠣崎慶広を紹介して半大名化させてしまう程だ。この間、蠣崎家はアイヌとの交易で稼ぎつつ、秋田家の援軍要請に応えるなど忠臣として振る舞い続けた。そして江戸時代になると秋田家は常陸国へ移封、この機に蠣崎家は『松前家』と改め、完全に独立したという経緯がある。


 この様に武家は『米が穫れる土地』を『現代の金銭』の様に捉えていたのだ。金銭を知らない訳ではないが、『米が穫れる土地』より価値があるとは思ってない訳だ。だから金銭の給料など「鉄クズ渡されてもどうすればいいんだ」と喜ばない。金銭の給料というシステムに辿り着けない。

 しかし最初の織田家には領地が無い、米は買わないと無い、されど津島会合衆と結んで金銭だけは有る。そして発展した商業地域がある。そんな条件を揃えた織田家だからこそ辿り着いたのが金銭の給料システムという訳だ。

 とは言え、織田家全ての武家が金銭で支払える訳ではないので米で支払う時もある。金銭の量がまだまだ足りないからだ。なので米を通貨の代わりに使う。農村も金銭はあまり無く、主に米を通貨にしている。市場が開かれると必ず米を買い取る『両替商』が居る。ここで米を通貨に代えて市場で買い物をする訳だ。米相場が下落するとこの両替で得られる金銭が減る、買い物が出来なくなる。


「だから殿が長安に米を買えって命令したんだよ。相場を崩さない為に」


「政盛、私はどうしたらいいんだ?飯尾家でも米を買うべきか?」


「何もせずに殿の指示を待てよ。今動いても、邪魔になりかねん」


「そ、そうか」


 恒興は米を大量に買って相場を支える様に指示を出した。それは武士や農民が生活に困らない様にする為だ。米相場の下落は給料の減少という事になり、生活不安に繋がる。下手を打つと反乱や一揆に発展する切っ掛けともなる。


 その日の夕方、各地に走り回った恒興と土屋長安が政務所に帰って来た。恒興は早速にも長安を呼び、現状の報告を受ける事にした。

 しかし恒興は憤懣ふんまん遣る方無い感じで苛立っている。呼び出された長安はとても報告出来る状態ではないと察した。まずは恒興を落ち着かせるのが先だと。


「本願寺め。やってくれるじゃニャいかよ。奴等がその気なら、ニャーだって……」


「それは出来ないッスよ、殿さん」


 愚痴を言い始めた恒興を長安は宥める。というか、本願寺への報復が含まれているので窘める。長安も気持ちは理解るが、恒興だからこそしてはならないのだ。


「ニャんでだよ!アイツらのせいでどれだけの人が生活に困ると思ってんだニャァァァー!!織田家の基盤を揺るがしたらどうなるか、教えてやるんだよ!」


「じゃあ聞くッスけど、米を売るのは違法なんスか?米売るヤツは全員、殿さんの制裁対象なんスか?」


 今回、本願寺は『米を売った』。ただこれだけだ。これが『罪』というなら、全ての人間が罪になる。もしも本願寺を罰するなら、全ての人間を罰しないと道理が通らない。


「そ、それは、そうじゃニャいけど。でも量が過ぎてるだろ」


「確かに常識外れの量ッス。たぶん向こうも理解っててやってるッスね。これが出来るってだけでも、とんでもない脅威ッスけど」


 長安も理解している。これは本願寺が悪意を持って、わざと行ったのだと。そして市場相場を大きく狂わせる事が出来る。この事は脅威であると認識している。


「だったら」


「だからといって、違法行為でもないのに難癖つけて潰すんスか?それ、道理が通るんスか?」


「うぐっ」


「気に入らんから潰す。戦国じゃ有りな考えッスね。でも信長様は、殿さんはそういうのが嫌で戦ってるんじゃないんスか?この混沌の国に確かな法治を打ち立てたいんじゃないんスか?」


「……」


「殿さんは為政者ッス。為政者が自分で決めた法を無視すれば、法が意義を失うッス。それはどんな悪法を放置するよりも罪深い事ッスよ!」


 池田恒興は為政者である。法を定め守らせる立場にある。その立場にある者が法を無視すれば、又は曲げてしまえば、法とはいったい何なのか?という話になる。そして究極的な答えとして、法とは『権力者になれば好き勝手出来るもの』となってしまう。その答えに辿り着いた者が『独裁者』となる。自分の為に法を作り、自分の都合で法を曲げ、自分の罪には法を無視する。こういう者を生み出す元になってしまうのだ。

 これが長安の言う悪法を放置するよりも酷い罪である。つまり長安は恒興に自らが定めた法を遵守する為政者たれ、と説いている。恒興が法を無視したり曲げたりするところを見せれば、必ず真似をする者が出る。そして将来に酷い独裁者が誕生する。それを阻止する為にも自らを戒めよという事だ。

 長安に指摘されて、恒興もかなり冷静さを取り戻した。そして他人に言い難い事でもズバッと言える土屋長安という男は貴重だとも恒興は思う。


「じゃあ、お前は本願寺の行為を許せと言うのかニャー?それともアイツラに頭を下げろってか?」


 冷静になった恒興は本願寺をどうするのかを尋ねる。容認するのか、懐柔を図るのか。これに対し長安は首を横に振る。


「それは別問題ッス。本願寺は貯蔵米を売る必要があったとしても、量が量だけに幕府には通達するべき。それをしないのは、ただの悪意でしかないッス」


 本願寺は資金を得る為に米を売る。これに関してはおかしい所は無い。しかし、あの量を一気に売れば相場が混乱する事くらいは知っていた筈である。ならば売る前に幕府に届け出て、相場の調整を行う必要があった。それを一切せずに、有無を言わせず売り切った事は悪意でしかない。そう、長安は断言する。


「そして頭を下げるのは更なる悪手ッスよ。そんな事したら奴等は調子に乗って、不満があれば同じ事してくる様になるッス。ここで甘い顔したら、これから信長様の強力な政権を立てる障害になりかねないッス」


 懐柔や和議を図るのは更なる悪手であると長安は言う。その様な事をしたら相手は調子に乗り、自分の言う事を聞かせる為に同じ事を繰り返してくるだろう。だから長安は断固たる処置が必要だと主張する。そして一切の妥協もしないと。これが織田信長の強力な政権を立てるのに必要な事だと言う。

 この答えに恒興は満足気に頷く。


「長安、お前は理解している様だニャー。なら、何れは対決する日が来るか」


「そッスねー。相手に悪意があるなら、こちらもそれなりの対応しとけば、そのうちに暴発するっしょ。凹ますなら、その時でいいと思うッス」


「理解ったニャ。もう冷静になったから被害報告をしてくれ」


「はいッス。まず、殿さんの指示通り、濃尾勢を中心に米相場を買い支えたッス。その他、傘下大名や豪族も出来る限り買っているッスね。津島会合衆も協力しているおかげでこの辺りの問題は少ないッス」


 恒興が濃尾勢の米を大量に買い入れた事で、この辺りの米相場は安定した。その他、傘下大名や豪族も米を買っている様だ。津島会合衆も協力しているので、民衆の暮らしにも大きな影響は無さそうである。


「問題は爆心地である摂津国、山城国、近江国ッス」


「信長様が対処してる地域かニャ」


「摂津国は堺会合衆が協力するので何とかなるッス。しかし近江商人と都商人は確実に稼ぎに走るッスね」


 本願寺が直接、米を売り払った摂津国、山城国、近江国の三国は問題がある。堺会合衆は協力してくれるのでよいが、近江商人と都商人は織田家の統制外であり、どう考えても米転がしに走る。そして周辺に被害を拡大させている。

 これは恒興にとっても頭の痛い話だ。漸く近江商人を財政的に追い詰めたのに、今回の件で回復されてしまった。織田家側に居る新しい近江商人はまだ勢力的には小さく、旧型近江商人に対抗出来る程ではない。やはり近江商人をどうにかするなら、彼等の最大の拠点を制圧するしかない。恒興はそう考える。


「旧近江商人の勢力が息を吹き返すか。都商人も統制は無理ニャのか?」


「都商人は昔から公家と繋がってるから難しいッスね。アイツラは下手を打つと朝廷を動かしてくるッスよ」


「となると、信長様でも全てを抑えるのは難しいか。ある程度の混乱はしょうがないニャー」


 もう一つの勢力、『都商人』。読んで字の如く、『京の都の商人』だ。京の都は戦乱で荒れ果てる事がしばしばあるので、入れ替わりがある。特に『応仁の乱』や『天文の乱』で京の都は壊滅的被害が出ているので、都に残った商人、都を去った商人、新たに都に来た商人と混在している。その為、連合組織などが無い。しかし厄介な事があって、それが『公家と取り引きしている』事だ。なので公家への陳情がしやすく、場合によっては朝廷が動く可能性もある事だ。朝廷の不信感を招くおそれがあるので、信長としても穏当な対処しか出来ない。ただ都を去った商人はだいたい堺会合衆に居るので、そちらから対処するのが妥当ではある。まあ、効果は薄くなるだろうが。


「あとは永楽銭不足が懸念されるッスね。『撰銭令』で定められた交換基準を拒否する商人が出るかも。この影響も後で来るッス」


「それも織田家で対応しないとニャ」


(永楽銭か。大内家が無くなった今、永楽銭の輸入は打ち止め、増える事はニャい。そろそろ自国通貨を造るべきだ。この問題もいずれは解決しないとニャ)


 今回の件で本願寺は大量の永楽銭を確保した様だ。彼等が資金を使い永楽銭を市場に流してくれれば問題は無いが、長期に保管されるとマズイ。市場で永楽銭不足が表面化してくると、宋銭と永楽銭の交換基準を定めた『撰銭令』に従わなくなる。庶民は永楽銭をあまり持っていない為に、違法レートでの取引や取引拒否が横行する。それは庶民の生活に打撃を与え、社会不安を引き起こす事になる。

 織田家傘下にある堺会合衆や津島会合衆、その手の届く範囲は大丈夫だろう。近江国に関しても旧型近江商人が取引拒否をする様なら新型近江商人の勢力拡大を図るだけだ。問題はやはり京の都となる。都商人が織田家の言う事を聞くのかどうかだ。

 この問題は永楽銭が輸入品だから起こっていると言ってもよい。輸入品だから数が制限されて、価値が簡単に変動する。だからこそ価値が変動しない自国通貨を製造しなければならない。以前に日の本でも通貨は造っていた。和同開珎わどうかいちんをはじめとする皇朝十二銭である。しかしその頃の日の本の冶金やきん技術は粗悪で、偽物混ぜ物とやりたい放題であった。その為、平清盛が宋銭を輸入し、自国通貨である皇朝十二銭は消えた。

 だが、現在は冶金技術が粗悪だった平安期ではない。既に鉄砲を製造出来る程に冶金技術は高まっている。おそらくだが、偽造不可能な精度の貨幣を製造出来る筈だ。それを実現するには織田家が強力な政権を立てて、腕の良い鍛冶師を独占するくらいに集める必要がある。


「池田家の財政もかなり悪化してるッス。しばらくは緊縮財政になるッス」


「買い込んだ米もそう簡単には売れないもんニャー。年単位で時間が掛かるか」


 池田家は今回、かなりの量の米を買い込んだ。その被害は致命的ではないものの、余力はほぼ使い切った。犬山の営業を続ける事で少しつづは回復するだろう。しかし買い込んだ米は少しつづでしか売れず、在庫を無くすには年単位で時間が掛かる。


「犬山の営業自体は止められん。何処の事業が割りを食う事になるかニャ?」


「小牧の開発ッス。あれにはかなりの資金を投入する予定だったんで。一旦、差し止めになるッス」


「そうか。分かったニャ」


「なるべく早く米を売れる様に気を付けるんで、殿さんもあまり気を落とさないで欲しいッス」


「ああ、頼むニャー」


 恒興が手掛けている事業の中では小牧の開発が止まる事になる。小牧の開発はまだ始まったばかりなので、止めても被害は少ない。多額の費用を要するが利益はまだ出ていないので、優先順位が低いという訳だ。

 長安はなるべく早く米を売るというが、これは気休めだ。おそらく米は年単位で換金出来ない。恒興が米相場を乱す訳にはいかないからだ。


「済まニャい、長近」


 土屋長安が立ち去った後の部屋で恒興は一人呟く。近江国で頑張っている金森長近に。小牧の開発は長近に渡す領地の開発も入っているからだ。恒興は油販売を上手く指揮している長近に報いてやりたかった。しかし資金の殆どを失った恒興は小牧の開発を一度、止める以外に出来る事はなかった。


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 同じ頃、細川晴元は幕府の仮御所に来ていた。しかし、いつもと違い幕臣達が走り回り、非常に騒がしかった。流石に異変を感じた晴元は政所執事の摂津晴門を見付けたので事情を尋ねた。


「何じゃ何じゃ、この騒ぎは。摂津よ、何かあったのでおじゃるか?」


「これは細川殿。面白い事になりそうですぞ」


「というと?」


 尋ねられた摂津晴門はさも面白そうに話す。政所執事である彼は今の状況を理解している。そして細川晴元と共に『反織田信長派』である晴門は、自分達にとって面白い事態になっていると伝える。


「何でも永楽銭が不足しているとの事で都商人の間で取引拒否が横行してましてな。民衆の不満が高まっておるのです」


「民衆とはさもしいものでおじゃるなあ。麿達の木偶でくでおれば良いものを」


 問題は京の都で永楽銭が不足しているという事だ。この為、永楽銭をあまり持っていない庶民は買い物がし難い状況となっており、不満が高まっているという。そして不満の捌け口として幕府将軍の悪口を言い合う始末となっている。


「幕府としても対策は打たねばなりません。そこで公方様は織田信長に貯めている永楽銭を市場に流すよう指示を出されました」


「ふむ」


 事態の打開の為、足利義昭は織田信長に永楽銭を市場に流すよう命令を出す。単純に永楽銭が増えれば良いという訳だ。しかし状況はそれを許さなかった。


「そしたら何と!織田信長の奴は拒否したのです!そんな余裕は無いと。しかも!織田信長は公方様が民衆から『悪御所』と罵られている事を指摘!生活態度を改めよ!とか返答してきたんですよ」


「織田信長、何と不遜な阿呆でおじゃるか」


 織田信長は先頃、大量の米を買っていて永楽銭などあまり在庫が無いのだ。更に言うと、織田家はあまり永楽銭を保有していない。上洛して朝廷献金した際も宋銭 (鐚銭びたせん)が多かったと言継卿記に記載される程だ。


「これで公方様は大荒れで御座います。会うなら少し間を置かれた方がよいかと」


「で、おじゃるな。此度は出直すとしよう」


(何か知らんが、勝手に仲違いし始めたわ。ニョホホ、手間が省けたでおじゃる)


 足利義昭が『悪御所』と罵られる様になる原因は『撰銭令』である。撰銭令で永楽銭と宋銭の交換基準が定められたからこそ、その基準は嫌だと取引拒否が起きている。取引拒否によりまともに買い物も出来なくなり、民衆の暮らしが悪くなっている。だから現在の足利将軍は悪御所だと罵っている訳だ。根本原因たる『撰銭令』を考案したのは織田信長、その人である。

 つまり足利義昭は信長の要請で出した撰銭令のせいで悪御所と罵られている。それを信長から責められた訳だ。完全におまいう状態であり、義昭は「全部、お前のせいだろがああぁぁぁ!!」とブチギレている最中だった。

 細川晴元は怒りの矛先が自分に向くのは嫌なので退散する事にした。


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【あとがき】


 次回は順慶くんの話が入りますニャー。

 現代人が時代遅れな異世界に転生、又は転移して無双をする。よくある話ではありますが、技術や知識で無双する感じがしますニャー。あとはチート能力を貰う。もちろん、それらも大きな武器ではありますが、一番の武器になるのは『その世界には無い思想』だと思いますニャー。

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