暗躍しているつもりが七転八倒

 近江国。ある商家で叫び声を挙げる二人の男が言い合いをしている。その声から両者、相当に追い詰められ焦っているのがよく判る。


「仁兵衛!何時になったら朝倉家は動くのでおじゃ!このまま織田信長をのさばらせれば身の破滅でおじゃるぞ!」


「理解っておりますよ!しかし朝倉家とて簡単に動ける訳がないでしょう!」


 一人は(元)管領・細川京兆家(前)当主・細川右京大夫(笑)晴元である。油場銭からの賄賂を失った彼は仰祇屋仁兵衛の所に催促をしに来ていた。内容は朝倉家に織田信長を攻撃させる事。結構、前に命令を出しているのに一向に朝倉家は動く気配を見せない。

 痺れを切らした晴元は命令を出したであろう仰祇屋仁兵衛を問い詰めているのだ。仁兵衛の答えは『簡単に動けない』である。当然過ぎる答えだ。しかし晴元は納得がいかない。


「麿の命令を何だと思っているのでおじゃるかっ!?」


「幕府役職を一つも持たない貴方が何なのですかっ!?」


「だから麿が復権しようとしているのでおじゃ!それが叶わなくとも良いと言うつもりでおじゃるか!?」


「そんな訳ないでしょう!今まで何れ程の賄賂を渡してきたと思ってるんですか!さっさと復権して下さいよ!こっちは困ってるんですよ!」


 自分の命令が徹底されない事に不満を爆発させる晴元だが、現在の彼は『無位無官』である。命令を聞く理由が無い訳だ。

 しかし仰祇屋仁兵衛としても細川晴元が無位無官のままでは問題だ。遥か以前から晴元には多額の賄賂を渡し続けてきた。彼が失脚した後も復権の為に支援してきたのだ。だから細川晴元は三好長慶に粘り強く抵抗が出来た。

 何故、仰祇屋仁兵衛は細川晴元に拘るのか?それは晴元に拘るというよりは幕府権力に拘っているのである。近江商人にはライバルが居る。京の都に遥か昔から居る『都商人』の事だ。その都商人は朝廷権力とベッタリ癒着しているので、事有る毎に朝廷権力を使って近江商人の邪魔をしてきた。『近江商人は国外で商ってはならない』という法令など最たる例である。だから近江商人は対抗して足利幕府と癒着したのだ。これまでは足利幕府が圧倒的であり、朝廷は力を無くしていった。それと同時に都商人も衰退し、一部は堺へと流出した。だがここに来て、ある男の登場で朝廷が勢力を盛り返しているのである。そう、織田信長だ。彼のせいで近江商人最大のライバルである都商人が息を吹き返しているのだ。そして都商人は旧知の堺会合衆の支援を受けて、近江商人への攻勢に出た。これまでの返礼だと言わんばかりに。これは仰祇屋仁兵衛にとっても洒落にならない事態であった。


「止めるでおじゃる。不毛でおじゃ」


「ですね。今は建設的な話し合いをするべきです」


 晴元も仁兵衛も肩で息をするくらいにヒートアップしている。何方もピンチと言えるくらいには追い詰められている。

 一頻り罵りあって、彼等は急に静かにトーンダウンする。遅まきながら不毛と気付いた様だ。


「そもそも貴方の計画とはどういう物なのです?織田信長に朝倉家をけしかける事ですか?」


「ニョホホ、よく聞いてくれたでおじゃ!耳を掻っぽじって聞くがよい!」


「……」


 仰祇屋仁兵衛は細川晴元から朝倉家を動かす様に言われていた。しかし計画の全体像は全く知らない。なので仁兵衛は計画の詳細を聞いておこうと思った。

 尋ねられた晴元は高らかに笑い出しながら胸を張った。かなりの自信がある様で嬉々として語り出す。


「まず、三好三人衆を野田に上陸させ、川を遡上させて勝龍寺から幕府の仮御所を襲わせるのでおじゃ。虚を突かれた織田信長は右往左往するだけで何も出来まい。それを颯爽と参上した麿が撃退。公方様は頼りにならぬ織田信長を見捨て、麿が復権するでおじゃる!」


 晴元の計画の初手は三好三人衆による逆襲である。彼等を石山御坊の近くにある野田という地域に上陸させる。そこから淀川を遡上し勝龍寺の辺りから幕府の仮御所を奇襲する。すると奇襲を予期出来なかった織田信長は大混乱で対応が出来ない。そこを細川晴元が三好三人衆を撃退して、信長は頼りにならない事を知らしめるのである。これで足利義昭も晴元を信頼し、復権出来る算段だ。


「次に三好三人衆とかいうヘッポコ共はどうせ追い詰められるでおじゃる。汚名の挽回に焦る信長は自ら出陣するであろう。そこを一向一揆に襲わせて三好元長の二の舞いにしてやるでおじゃる!」


 織田信長は信頼を取り戻す為に、自ら三好三人衆討伐に動くと予想される。因みに汚名は挽回するものではなく返上するものである。

 信長が出陣したら一向一揆に奇襲させる予定だ。三好長慶の父親・三好元長の様に信長も横死する事間違い無しである。


「同時に池田家で内紛を起こすでおじゃる!」


「何と!?あの池田恒興に対して、ですか!?」


 更に細川晴元は池田恒興に対しても内部で混乱を起こすと宣言する。この発言に仁兵衛は喜んだ。あの油場銭廃止を主導した池田恒興に一矢報いる事が出来ると。しかし、池田恒興の名前を聞いた晴元は呆けた顔をする。


「池田恒興?誰でおじゃ?そんな木っ端侍は知らんでおじゃる。摂津国の池田勝正に決まっておろう」


「あ、そうですか」(コレ、本気で言ってるから困る)


 晴元が言っている池田家は恒興の家ではない。元部下である摂津池田家の事だ。摂津池田家に関しては内情をそれなりに知っているので扇動出来ると踏んでいる。

 細川晴元は池田恒興を知らない。織田信長の名前でも覚えたくないのに、その家臣など覚えている訳がない。晴元に不利益をもたらしている全ては織田信長のみがやっていると本気で思っている。


「更に織田家の勢力を徹底的に叩き潰す為に、東から上杉家、西から毛利家、そして北から朝倉家、という訳でおじゃる。だから朝倉家を動かす事は重要でおじゃるな。そして織田家の領地の大部分が細川京兆家の物になるでおじゃるよ」


 その上で越後上杉家、安芸毛利家、越前朝倉家を幕命で動かし、織田家を徹底的に叩く。そしてボロボロになった織田家臣を晴元が拾ってやり、織田家がそのまま細川京兆家になるという壮大な計画なのである。

 語り尽くした晴元は自身の完璧過ぎる計画にうっとりしている。一方、仁兵衛は非常に冷めた顔で晴元を見つめている。とりあえず問い質したい事は幾らでもある。


「成る程、上杉家や毛利家とは話がついていると」


「これからでおじゃるな。ま、麿が声を掛ければ感激に咽び泣いて協力する筈でおじゃ」


 つまり、まだ何もしていない。何やら非常に都合の良い妄想をしている様だが、仁兵衛は素直に信じる程愚かではない。まあ、上杉家や毛利家は最後の駒だ。状況によりけり、とも言える。肝心なのは初手であると仁兵衛は思い、話を進める。


「……。三好三人衆とは話がついているんですよね?」


「何を言っているでおじゃるか?アヤツ等は麿を見たら首狩りに来るでおじゃるよ。会いたくないでおじゃ」


 つまり、まだ何もしていない。おかしい、この男は三好三人衆を石山御坊の近くに上陸させるとか言わなかっただろうか?勝手に来てくれるものなのか?それとも野田以外には上陸不可能なのか?仁兵衛には判別がつかない。流石に(元)管領ともあろう者が希望的観測のみで喋ってはいないだろう。……そう信じたい。


「……。それで一向一揆は何時頃で?」


「そろそろの筈でおじゃるがなあ。ま、下間頼照は何事も遅いでおじゃるから。あっちも遅くて厠が長い長い」


「いや、どうでもいいんですが」


 仁兵衛は話の核心部分『一向一揆』に踏み込む。こちらについては晴元が交渉している様だ。しかしだ、一向一揆が畿内で起こる様子はない。それは商人なら理解出来る事情がある。


「しかし石山御坊は戦支度などしてませんが?」


「そんな訳がないでおじゃる」


「戦支度など物流を見れば直ぐに判りますとも。確実にしていませんな」


「マ?」


「マジで御座いますが」


 そう、商人なら物流で戦争の気配が理解るのである。戦争をする為にはいろいろな物資が必要となる。それを大名や豪族が単独で揃えるなど不可能。必ず、贔屓にしている商人を使う事になる。織田信長も池田恒興も一緒である。商人を使えば、そこから多方面の商人へ物流が起こる。その物流で運ばれる物資を見れば戦支度など直ぐに判別出来るものなのだ。

 仁兵衛から石山御坊は確実に戦支度をしていないと断言され、晴元は顔を絶望に歪ませ天を仰ぐ。


「どうなってるでおじゃるか〜!!」


「それはこっちの台詞ですよ!餅の絵すら描けてないじゃないですかっ!?」


「絵など描かなくても餅は美味いでおじゃるよ〜」


「そういう意味じゃないっ!……です!」


 絵に描いた餅。どれだけ上手く餅の絵を描こうが、食べれないので意味は無い。という意味だ。つまり、仁兵衛は晴元の計画が100%無意味だと言っている。晴元はまったく意味を理解していないが。


「……ちょっと石山御坊まで催促に行くでおじゃる」


「本当にお願いしますよ。一向一揆をどうにかして貰わないと、朝倉家だって動けないのですから」


 細川晴元はスッと立ち上がると、石山御坊に行くと宣言する。仰祇屋仁兵衛としても本願寺はどうにかして欲しい。問題は晴元の計画だけではない。朝倉家が動けない大部分の理由は加賀国の一向一揆が毎年の様に越前国に襲来するからだ。朝倉家の軍神・朝倉宗滴亡き後は徐々に押されている状況だ。とてもではないが、他国に遠征している余裕はない。……若狭国は隣なので行ってはいるが。


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 摂津国石山に急行した細川晴元は下間頼照を訪ねて石山御坊に赴く。ここは大小様々な10以上の島々から成る円弧状三角州の集合地帯である。

 この地域一帯は元々は『湖』であった。現代の大阪府の約半分が水没していたのだ。海にかなり近いが瀬戸内海への出口が狭く、殆ど湖状の形なので現代では『河内湖』と呼ばれている。この河内湖の出口付近に海人が『難波津なにわのつ』『住吉津すみのえつ』を築いて大和朝廷と交易していた歴史を持つ。

 最初、大和朝廷では紀の川を使った交易が主流だったが、紀の川を仕切った葛城氏が強くなり、天皇を蔑ろにするほど横暴になった。これに怒った天皇は神功皇后の時から獲得してきた『渡来人』の技術を使い河内湖を埋め立てていった。それは物流を紀の川から大和川〜河内湖へ変える為である。つまり葛城氏潰しの一環だった。

 こうして大阪の地は徐々に埋め立てられるのだが、問題は水量である。元々、日本第二位の規模の湖を作り出していたのだ。それが現代の淀川になる訳だが、水量と速度がかなり強くなり、長い年月でかなりの土砂を押し流した。その土砂は出口となる大阪で堆積した結果、多数の島を形成していった。故に石山御坊は橋や船が無いと渡れず、天然自然の島曲輪を備える難攻不落の要塞となったのである。

 細川晴元は石山御坊に着くと下間頼照と面会する。


「頼照殿、お久でおじゃるな」


「何のご用事ですか?こちらは暇ではないのですが」


 面会部屋で待っていた下間頼照はやれやれといった感じで出迎える。機嫌は良くもなく悪くもなく。至って平静というところだ。晴元は時間も押しているので早速本題に入る。


「いやいや、大した用件ではないでおじゃるよ。それで頼照殿、本願寺の武装蜂起の件はどうなっているでおじゃるかな?」


「武装蜂起?何のお話ですかな?」


 晴元は尋ねる、本願寺の武装蜂起はいつになるのか、と。それに対して下間頼照は心底意外そうな顔をしてみせる。そんな話は聞いた事も無いという感じだ。


「またまた〜、おとぼけはいかんでおじゃるよ〜。織田信長に対する『一向一揆』でおじゃ」


「引き受けた覚えはありませんが、まあいいでしょう。しません。する気もありません」


 晴元は焦りを抑えながら、織田信長に対する『一向一揆』であると説明する。しかし、頼照の答えは素っ気無いもので明らかな『拒否』であった。

 晴元にとっては青天の霹靂である。本願寺の一向一揆という巨大な数の暴力で織田信長を押し潰すのが彼の予定なのに。既に畿内で数の暴力を誇る織田信長に唯一、数で対抗出来る勢力だというのに。


「な、何故でおじゃるか!?」


「何を勘違いしているのか分かりませんが、武装蜂起をすると約束した覚えはありませんな」


「このままでは本願寺は危機に陥るでおじゃるよ!」


「危機に陥っているのは貴殿でしょう。油場銭の事、聞き及んでおりますよ」


 本願寺が危機に陥ると必死に説く晴元。しかし、頼照は薄く笑って危機に陥っているのは晴元だと返す。頼照は既に油場銭廃止で何が起こっているのか、何故に晴元が焦っているのか把握していたのだ。


「うぐっ、それとこれは別の問題でおじゃ」


「確かに織田信長の不誠実さには我々も頭を痛めております」


「だったら!」


「だから武装蜂起は行き過ぎと言えましょう」


 確かに織田家と本願寺の間には遺恨が有る。それは遡れば織田家先代・織田信秀と本願寺前法主・本願寺証如の時からだ。その問題は未だに解決を見ず、織田家も本願寺も無視している状況である。一応、信長の矢銭要求に応えるなど、本願寺側は歩み寄りの姿勢を見せているが、肝心の織田信長が無反応である。これには下間頼照も不快感を示しているが、だからといって一向一揆はやり過ぎと考えている。

 それに一向一揆は完全なる暴力装置だ。一度始めれば以前の様に制御不能に陥る可能性も高い諸刃の剣。そう簡単に抜く訳にはいかない。それを目の前のおじゃる男は全く理解していない。都合の良い武力とでも思っているんだろう。


「織田信長を放置すれば、ヤツは調子に乗り本願寺に多大な被害を及ぼすと麿は警告しているのでおじゃるよ!」


「武家が調子に乗らぬ様に見張り統制する組織が『幕府』でしょう?自身の仕事をして頂けませんか?」


「うぎぎぎ……」


 晴元は織田信長を調子に乗せると手に負えなくなると説く。しかし、武家を調子に乗せない様に統制するのは幕府の仕事だと頼照は返す。つまり「自分の仕事をしろ」と冷たくあしらっている。暖簾に腕押し、糠に釘。頼照の反応は全く手応えが無い。最早、無意味な程で晴元も怒りで歯軋りを始める。


「もういいでしょう。私も務めに戻りますのでお帰り下さい」


「理解ったでおじゃる。だが、せめて加賀国の一向一揆に越前国への侵入はしない様に言って欲しいでおじゃる」


「それくらいであれば了承しましょう」


 細川晴元は諦めた。下間頼照は晴元の挑発にも無反応で取り付く島も無い。晴元は加賀国の一向一揆が越前国に入らぬ様に依頼する。これについては大した事もないので頼照は承諾した。まあ、加賀国の一向一揆が越前国に行かないという事は、必然的に越中国に殺到するであろう。能登国は石高が低いので行く価値が無い。越中国を治める大名は動けなくなるだろうが、それは下間頼照の知った事ではない。


 こうして石山御坊を出た細川晴元だったが、頭の中は計画変更でいっぱいである。とりわけ重要なのは一向一揆の代わりをどうやって捻出するか、だ。


(話にならんでおじゃる。こうなれば朝倉家を動かすと同時に出来る限りを動かさなければならんでおじゃるな。松永弾正、浅井長政、山名祐豊、浦上景宗、朽木元綱、赤松義祐、赤松政秀、別所安治、波多野秀治に赤井直正。小粒なら結構、居るではないか、ニョホホ)


 考えて見れば反織田信長となるであろう小粒な大名豪族なら結構居る。織田信長により不利益を被った者、織田信長と疎遠な者、織田信長より幕府に忠実な者と様々である。畿内周辺に織田家と疎遠な大名豪族が多数居る事はひとえに織田信長の外交下手を示している。


(しかしこの小粒共を動かすなら公方様の命令が必要でおじゃるな。そろそろ織田信長と決別させるか)


 これらの小粒大名豪族を動かすのに必要なのが『幕府将軍の命令』となる。つまり足利義昭と織田信長の仲を悪化させる必要があるのだ。かの二人の相性が悪いのは見れば判る。幕府の権威権力を取り戻したい足利義昭と、幕府に拠らない独自の運営で朝廷にも近付いている織田信長。正に水と油くらいに混ざらない。今は旧知の同僚である幕府政所執事・摂津晴門にネタを探させている。摂津晴門は足利義晴、足利義輝、足利義昭と三代に仕える幕臣であり、油場銭廃止で晴元と同様の被害を受けている。故に細川晴元とは同志と言っても良い。彼からもいろいろと義昭に吹き込む予定だ。


(それにしても忌々しき織田信長よ。下賤の生まれが名族たる麿を苦しめるとか、あってはならぬ不幸でおじゃ。だいたい麿が復権出来ないのも、裏から織田信長が手を回しているに違いないでおじゃる。まったく、獅子身中の虫とはヤツの事でおじゃ!さてさて、どう手を打つか)


 晴元は心の中で織田信長への悪態をつく。もう悪い事が起きたら織田信長が悪い、の精神である。

 馬に乗って離れて行く晴元を高台から見下ろしている僧侶が居る。下間頼照である。晴元が余計な場所に行かないか見送りがてら監視していたのだ。


「ふう、やっと帰ったか」


「お疲れ様でした、頼照殿。やはり狙いは一向一揆の様ですな」


 頼照が一息ついたところにガッシリとした体格の青年僧侶が声を掛ける。本願寺三坊官の一人、下間頼廉である。


「ああ、頼廉か。その様だな。相変わらず他人を利用する事以外考えない男だ。しかも本人は当然の権利だと思っている」


「本当に質が悪いですな」


 頼照は細川晴元の為人ひととなりを正確に見抜いていた。流石に天文の乱を直に経験したのだから、彼の所業もよく覚えている。


「ヤツの口車に乗せられて、我々はどんな目に遭ったか。正義と信じて戦った結果、我々は山科寺を失い石山に逃げるしかなかった。しかも我々を攻撃した者達は全て細川晴元の指図によるものだった」


「……ヤツはどの面を下げて、ここに来れるんですかね……」


「この件に関しては、三好家の方が同情してくれたくらいだ。我々は仇であるというのにな」


「もう二度と踊らされない様に気を付けるべきですな」


 頼照も若い頃は本願寺前法主と共に細川晴元の言う『正義』を信じた。巨大組織である比叡山延暦寺と敵対していた浄土真宗本願寺派にとっては、幕府の庇護は生命線と言ってよかった。だからこそ、本願寺は幕府の為に力を尽くした。しかし一向一揆という武力を本願寺が制御出来なかった結果、彼等は法華宗や六角家によって本拠地の『山科本願寺』を焼き討ちされる。そう、この者達は『細川晴元』の命令で本願寺を攻撃してきたのだ。

 この為に本願寺は石山御坊に逃げ込むしかなかった。幸いだったのは石山御坊が正に難攻不落であった事だ。そのおかげで本願寺は耐え切る事が出来た。その後は何故か・・・法華宗が細川晴元の命令で比叡山延暦寺の僧兵に襲われ、京の都は灰塵に帰した。それを下間頼照は冷ややかな眼差しで眺めていたのだ。

 結局、細川晴元は何がしたかったのか。その先にどんな未来を見ていたのか。それすら謎で全く理解出来ない。その場その場で気に入らない者を他人に始末させる、これだけに終始している様にしか見えないのだ。

 下間頼廉の言う通り、踊らされない様に気を付けるべきだろう。


「だが、織田信長の在り様にも疑問はある。少しは思い知らせる必要はあるのかも知れぬな」


「頼照殿」


 それはそれとして、下間頼照は織田信長にも問題が有るとは感じている。何故、彼は本願寺に対してここまで無礼なのか。おそらくは織田信長が本願寺を侮っているのが原因だろう。ならば、侮れない存在だと教える必要はある。


「心配するな、一向一揆ではない。近江商人が面白い事をしていてな。それを手伝ってやろう、というだけだ」


「近江商人が?何かしているのですか?」


「簡単に言えば、通貨価値を変動させて幕府内政を混乱させる事だな」


「??」


「まあ、任せておけ。兵を動かす様な事はない」


「はあ……」


 頼照の簡単な説明では、頼廉が理解するまでには到らなかった。しかし武力行使ではないという事で頼廉は引き下がる事にした。

 その後、下間頼照は石山御坊の勘定方に来た。ここは本願寺の財政に関する仕事をする部署である。この部署には下間一族が長を務めているのだが、その者は名目上であり、実務は他の者がやっている。頼照はその実務上の長を呼ぶ。


「仁右衛門」


「はい、坊官様、お呼びでしょうか?」


 仁右衛門という青年が勘定方の実務長である。歳は17と若いが、能力でこの地位に居る。下間一族ではないので一部から毛嫌いされてはいるが、頼照はその実力を買っている。

 頼照は仁右衛門に持ってきた目録を手渡す。


「こちらに書いてある米を全て金銭に替えなさい」


「はい、お任せを。……ん?」


 笑顔で受け取る仁右衛門だったが、書いてある内容をチラリと見て固まる。


「換金する時は必ず『永楽銭』で受けなさい」


「あ、あの、坊官様!」


 構わず続ける下間頼照。目録に書いてある米の量を見て仁右衛門は慌てて止める。間違いであって欲しいと思える量がそこに記載されていたからだ。


「何かな?」


「ここに書いてある米の量は間違っていませんか!?」


「間違いないが」


「しかし、この量は軍備米にも及んでいます!これでは籠城もままならず、回復させるにも数年は掛かります!」


「……」


「更に余剰米で経営している法主様の『施し小屋』も停止せざるを得ません。どうかご再考を!」


 目録に書いてあった米の量は石山御坊で保有している米の約9割にも及ぶ。戦時中ではないとはいえ、これでは籠城しても一ヶ月と保たない。しかも本願寺は大名ではない。そのため領地を持っておらず、米は農民の寄付が殆どである。つまり信者農民の寄付が頼りになる為、十全に籠城出来る量を確保するには数年の時間を要する。更に貧民救済の為に開いている『施し小屋』も休止を余儀なくされるだろう。仁右衛門は頭を下げて再考を願う。しかし、頼照の表情はピクリとも動かなかった。


「仁右衛門。私はお前に相談しているのではない。やりなさい、と言っているのだ」


「う……」


「出来ないのなら他の者に代わるとよい。理解ったな?」


「は、はい……」


 頼照は全て理解した上で仁右衛門にやれと言っている。この量でなければ織田信長を焦らせる事は不可能と見ているからだ。確かに敵の多い石山御坊。籠城出来ないのは問題だが、今直ぐ攻めてくる敵勢力はいないだろう。ならば回復に数年を掛けても問題はない。頼照はその様に考えて命令していた。

 仁右衛門は項垂れて、命令を受諾する。この量の米を金銭に替える。おそらく大きな価格変動が起きるだろう。暴落する米価格と買い占めに奔る商人。庶民は荒波の様な価格変動に晒され、生活すらままならなくなる。今日買えた物が明日は買えない。今日売れた金額で明日は売れない。それが理解っていても仁右衛門はやらねばならない。この量を金銭に替えれる人間は限られている。下間頼照が自分を指名しているのは、直ぐに金銭に替えたいからだ。法主への忠誠を示す為にもやるしかないのだ。そう想い決めて仁右衛門は準備に取り掛かる。

 仁右衛門は近江国の出身。本願寺法主の理想に惹かれ、石山御坊で働いている。計算の類に才能が有り、若くして本願寺の勘定方で務める様になった。彼の身分は侍で仁右衛門は通称であり、姓は増田ました、名は長盛という。


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【あとがき】


 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致しますニャー。古新丸くんの誕生でこの物語の序盤が漸く終わろうとしています。……どんな長さしとんのニャァァァーーーっ!?べくのすけーっ!(笑)


 今回の影響

 本願寺→大量の鉄砲など軍備資金になるが、兵糧の回復には数年を要する。

 織田家→米相場を支える為に大量の米を買い込む事になる。米相場の大幅下落は米を売って生活している家臣や民衆の暮らしを直撃する。織田家傘下も含めて全ての武家が対象。特に織田信長と池田恒興の負担はかなり大きい。

 津島会合衆&堺会合衆→織田家に協力して米相場の安定を図る。

 近江商人→嬉々として米転がしに走る。

 都商人→嬉々として米転がしに走る。

 足利将軍→民衆から『悪御所』と罵られる。

 上杉家→越中国が地獄と化し、当主が鬱になる。

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