熊野顛末

 熊野から戻った恒興は桑名の湊に降りた。誠仁親王は牛車に乗り、公家や護衛を伴に京の都へ戻る。途中、造成中の安土を見て回る予定らしい。恒興は熊野のお土産である蜜柑を雑色達に運ばせて、誠仁親王を見送る。本来なら京の都まで送りたかったが、即対応しなければならない案件があるので桑名に残った。

 恒興が桑名の天王寺屋に入ると待ち構えていた男がいた。義父の天王寺屋助五郎である。外で誠仁親王を盛大に見送りしていたので、恒興が来た事も知っていたのだろう。


「婿殿、待っとったで〜」


 助五郎は恒興を出迎えるが、その表情は暗い。おそらくだが、恒興の予想は当たってしまったのだろう。


「義父殿、何か解りましたかニャー?」


「ああ、ワテにも心当たりがあったんや。法外な値引きをする材木問屋にな」


 恒興の報告を聞いた助五郎にも該当する商家が思い浮かんだ。それは堺の材木問屋の一つである。そこは他に類を見ない程の値引きをしていて、材木問屋の中でも頭一つ抜けていた商家だった。


「という事は、やはり堺会合衆の商家ですかニャ」


「せや、その商家は20年程前に代替わりしとってな。新しく当主になった息子はえらい値引きをする様になったんや。ワテらも先代が木材を貯めとったんか?と思うとったんやが、今でもやっとる。おかしいおかしい思うとったら、婿殿のコレや。やっと絡繰が解ったちゅうこっちゃ」


 その材木問屋は20年程前に代替わりしており、値引きの件もあって、かなりの勢いがあったという。先代の頃は堅実な商売をしており、評判も良かった。息子が家業を継ぐと木材をかなり値引きして事業を拡大していた。その為、助五郎達は先代が木材を貯め過ぎていたのか?と思っていた。しかし、20年程経過した今でも値引きは続いていて、流石におかしいとは感じていた様だ。そこに恒興からの調査依頼で発覚した経緯だ。

 この事を知った助五郎は怒りを顕わにする。


「なんちゅう危ない事してくれてんのや!これ、堺が焼かれるやないか!怒り狂った熊野水軍なんて誰が相手出来るんや!」


 そう、熊野水軍からしてみれば、この行為は堺の商家の一つがやった、ではない。堺の町全体から詐欺を働かれたという結論になる。熊野別当の堀内氏虎も襲撃対象を『町』とハッキリ断言していた。恒興が何とか宥めたので収まってくれたが。


「それで、その商家はどうなりましたかニャ?」


「コレを知って、今井はんもカンカンやからな。もうアイツは堺で商売は出来へん。情報は堺会合衆の全商家に回したし、取引したら熊野の怒りを買うでって、みんな避けるわ。賠償金も取ったけど雀の涙やったわ、はあ」


 今回の件で対象の商家は堺会合衆全てを敵に回した。天王寺屋助五郎や今井宗久など会合衆の主たる商人は激怒しており、傘下の中小商家も関わりを断つだろう。更には店が最低限保てる程度に賠償金を取った様だが、店主は金遣いが荒い方であまり残っていなかったらしい。店を潰さなかったのは先代への義理である模様。


「それで木材は誰が取引するんですニャ?ニャーも信頼している商人でないと、なんですが」


「ああ、その件はワテがやるわ」


「義父殿が?天王寺屋って木材も扱ってましたかニャー?」


 熊野の木材の取引は継続する必要がある。賠償金の捻出という目的があるからだ。それを助五郎は天王寺屋で請け負うという。

 その申し出に恒興は首を捻る。たしかに天王寺屋なら胸を張って紹介出来る。そして天王寺屋は何でも扱っているので木製商品もあるんだろう。しかし、今回の品は木材で最も大型の丸太である。そこら辺の商家では扱えないくらいの大物で、材木問屋の様な専門店が扱うべき品物となる。

 恒興は天王寺屋で材木を扱っているとは聞いた事が無かった。その為、恒興は疑問に思いながら尋ねる。


「扱っとるで。ただ、そんなに大きい物やない。小さ目の加工木材やけどな」


「あのー、熊野の木材はデカい丸太ニャんですけど」


「分かっとるで。しかしや、熊野が相手やと他の材木問屋は尻込みしてもうて、誰もやらへんのや。次に何かやらかしたら、ワテらは焼かれてまうわ。あああ、強制的に事業拡大や。木材倉庫の増築、熊野への弁済、もう考えるだけで頭痛いわ〜」


「天王寺屋の木材は積極的に買う様に、織田家中に通達出しておきますニャー」


「そうして貰えると助かるわ」


 天王寺屋は材木問屋ではないが、小型の加工木材は扱っているとの事。流石に大型の木材を扱うには無理があり、助五郎は頭を抱えた。最も問題となるのは在庫の置き場だ。丸太はとんでもなく場所を取るからだ。

 今回の件で熊野側はかなり頭に来ているのは間違いない。それ故に堺の他の材木問屋は皆、拒絶反応を示している。何か不備があって熊野を怒らせれば即武力行使が有り得ると思っているのだ。実際はその前に恒興へ連絡が入る事になっているが、誰も責任を取りたくない訳だ。それ故に会合衆内の話し合いで、恒興と関係が深い天王寺屋が行う事になった。強制的な事業拡大と熊野への補償で天王寺屋は青色吐息の様だ。

 恒興は織田家中に天王寺屋から木材を買う様に通達を出すと約束する。流石に何も関係が無い天王寺屋が弁償義務を負うのはおかしいとは思うが、会合衆内の決定に恒興が口を挟む訳にはいかない。なら恒興に出来るのは天王寺屋が損をしない様に取り計らう事だろう。あとは他の儲け話をするくらいか。


「あ、それと熊野に漆器職人が居るそうですニャ」


「ほう、それは興味深い話やなあ。一回、ワテが見に行きたいわ。熊野に行っても襲われたりせんやろな」


「織田家から特別な旗を発行しますニャー。それを船の先に付ければ、熊野側は許可のある商人だと認識します」


「そりゃ、朗報や」


 織田家公認の商人が熊野に行く場合は、熊野側と取り決めた特別な旗を掲げる事になっている。その旗があれば熊野に行く商船を示し、熊野の海賊から襲われない。この旗を掲げれば天王寺屋助五郎も悠々と熊野まで漆器を見に行ける。新しい稼ぎになるかも知れないと助五郎は喜んだ。


「せや、ワテからも朗報があるでぇ。近江商人のヤツラな、とうとう干上がりつつあるわ」


「意外と早かったですニャー」


「それだけ油場銭が堪えたっちゅうこっちゃ。なんや、永楽銭を集めて対抗しとったみたいやが無駄やったな」


 助五郎からの朗報は近江商人が虫の息になってきた、という報告だ。恒興が油場銭という巨大不正市場を壊滅させた事で大損を出し、その穴埋めなど不可能だった。故に近江商人からは織田信長の下に走る離脱者が増えている。信長は自分の理念をその商人達に教え込み、『新型』近江商人として楽市楽座で商わせている。

 近江商人は永楽銭を集める事で対抗しようとしていたみたいだが、油場銭の件が強烈過ぎて為す術無しの状態だという。恒興は永楽銭を集める事が何故、対抗策になるのか疑問に思う。


「永楽銭を?何故ですニャ?」


「簡単や。永楽銭の価値を高める為や」


「??」


 お金の価値を高める。恒興はこの表現がいまいち理解出来ない。何故ならお金の価値は一定であり、交換対象である物品の方が高い安いで表すからだ。物価高とか物価安という表現だ。

 現代では『円高』『円安』という『日本円の価値』を示す言葉はあるが、これは外国の通貨と比べての話である。なので米ドルの価値が上がれば勝手に円安ドル高になるし、逆なら円高ドル安になる。何れにしても、外国が絡まないと円の価値は変わらない。つまり外国との取り引きが少ない戦国時代はお金の価値は変わらない建前になる。

 しかし、戦国時代は状況が少しややこしい感じになっている。理解が足りない恒興に助五郎は続ける。


「これは信長様が考案して幕府から出された『撰銭令』を狙い撃ちしとるんや」


「『撰銭令』……良貨と悪貨の交換基準を定めた法令ですニャ」


「せや、良貨である永楽銭と悪貨である宋銭を交換する訳や。しかし永楽銭が市場から減ると価値が高まる。相対的に宋銭の価値が落ちる。すると今の交換基準では嫌やっちゅう商人が出るんや。酷くなると宋銭での取引はしないなんて奴も出るやろな。そうなると取引は減り、経済は止まる。庶民は永楽銭なんてあまり持ってへんから買い物も出来へん様になるで」


「うげっ、ニャんて事しやがる、ヤツラ!」


 ここで恒興も事の重大さに気付く。そう、現在の日の本には通貨が二種類、いや三種類ある。それは『永楽銭』『宋銭』『米』だ。比較的新しい永楽銭は良貨とされ、使い古された宋銭は悪貨となり、交換レートが常に変動している。また、米は独自の相場が存在し、通貨を持っていない農民を中心に米で取引をしている。ただ、米は嵩張るので通貨の方が便利という認識だ。つまり永楽銭の価値が上がれば、相対的に宋銭の価値が落ちていくのだ。

 これを問題視したのが織田信長で、彼は幕府将軍足利義昭に働き掛けて『撰銭令』を発行させた。これは永楽銭と宋銭の交換レートを固定する法案であり、商売における価値計算を安定させる目的があった。

 これに狙いを定めた近江商人は永楽銭を集めて隠し、価値を高めようとした訳だ。すると現在のレートで永楽銭と宋銭を交換するのは嫌だという者が増える。交換レートが定まっている以上、宋銭取引は価値不相応となる為に商人による取引拒否が横行するだろう。そうなると宋銭が多い庶民は生活を直撃され、社会的混乱が生まれる。そして庶民の不満は槍となって為政者を刺す。これが近江商人の狙いだったのだ。


「せやけどな、婿殿。これをやるにはかなりの資金力が必要や。油場銭を失った近江商人には余裕はないやろ。ワテらの完全勝利は目前やで、ナハハハ」


「無駄に足掻きやがりますニャー。更に締付けてやります、ニャハハハ」


 恒興は朝廷に働き掛けて権利を潰し、更には安価な清油を大量に流通させる事で実利を潰した。これにより油場銭で儲けていた近江商人は大打撃を受ける事になり、永楽銭を集める余裕は消し飛んだ。

 恒興と助五郎は勝利は目前だと笑い合った。

 次に恒興は津島を訪問する。濃尾勢における蜜柑販売の元締めとなる商人に会いに行く為だ。その商人は恒興が到着すると満面の笑みで自ら出迎えた。


「池田様、長旅ご苦労様でした」


「大橋殿、ご機嫌の様ですニャー」


「それはもう。当方に蜜柑を扱わせて頂けるとの事で」


「果実と言えば大橋屋ですからニャー」


 恒興が元締め(大問屋)として選んだのは津島の商人・大橋清兵衛である。木の実や饅頭などの主に甘味を扱っているので、その方面の商路を多数持っている。なので蜜柑を扱うのも上手くやってくれると期待している。


「堺会合衆はよろしかったので?」


「堺は瀬戸内から蜜柑が入りますから、需要は高くないでしょう。やっぱ濃尾勢ですニャー」


 この話を恒興が堺会合衆に持って行かなかったのは、堺には瀬戸内の蜜柑が入って来るからである。おそらくだが瀬戸内も熊野と同時期に蜜柑栽培が始まったはずだ。熊野に蜜柑を渡して、他の候補地域に渡さないなど有り得ない。候補地域には全て渡したと考えるべきだ。


「そうですね。蜜柑なんて年に一度、口に出来るかどうか、ですから。大売れ間違い無しですよ」


「ただ、大橋殿にも注意して貰いたいんですニャ。熊野から決して安く買い叩かない事。相場に見合った仕入れ値を付ける事。熊野を怒らすと、あのクソ強い水軍が出て来ますニャー」


「それは恐ろしい話ですね。しかし、ご安心を。この大橋清兵衛、織田家の縁者として信長様の御名前を汚さぬ商売を心掛けております」


 この大橋清兵衛という男は織田信長の従兄弟である。清兵衛の母親が信長の叔母なのである。事の経緯は織田家先々代の織田信定が津島を武力制圧しようとした事に起因する。津島が強くて制圧出来なかったのだ。なので津島の大店である大橋家に娘を嫁がせて懐柔したという事だ。それから織田家と津島は手を取り合ってお互い発展してきた。


「頼りにしてますニャー」


「しかし蜜柑、楽しみですな。尾張国の甘味文化は発展するでしょう」


 大橋清兵衛は織田信長の従兄弟である。しかし恒興とそこまで親密な関係を築いている訳ではない。息子が恒興の重臣として仕えている熱田の豪商・加藤図書助や娘を側室に出した天王寺屋助五郎と比べれば疎遠と言ってよい。ならば何故、恒興は加藤図書助や天王寺屋助五郎を選ばずに、大橋清兵衛を選んだのか。それは扱っている品目の話だけではなく、昨今の津島会合衆の状況も絡んでいる。

 津島会合衆は津島の商人達が連合して結成した。そこに熱田商人が加わり、堺の天王寺屋も加わり、更には伊勢国大湊の商人も加わって伊勢湾商圏を牛耳る存在になった。当初は織田信長の従兄弟である大橋清兵衛が中心となる事で、津島が会合衆の中心に居た。それが織田信長の上洛の成功を支えたと言ってよい。しかし織田信長は上洛すると京の都や近江国を重視する様になってしまった。では濃尾勢を仕切っているのは家老の林佐渡守……と言いたいところだが、ここである男が台頭してきた。

 寒村であった犬山を大開発し、濃尾の物流拠点として絹織物生産に鉄工業を隆興させた池田恒興だ。しかも池田家臣は林佐渡の指示で濃尾のあちらこちらで内政治安を手掛けており、最早濃尾は池田家無しでは運営出来ない。それ程の存在感が池田恒興にはある。

 池田家当主の恒興に熱田商人の加藤図書助は息子が出仕しているし、天王寺屋助五郎は娘を嫁に出している。津島の商人達は彼等に一歩も二歩も出遅れているのだ。それ故に津島の商人達は焦っていた、このままでは津島会合衆の中心は自分達ではなくなる、と。という訳で、津島の商人の中から娘を恒興の嫁に出す計画が持ち上がっている、と津島奉行代理の土屋長安から報告されていたのだ。

 恒興は頭が痛くなった。別に津島商人を排除する事はないし、新しい嫁が欲しい訳でもない。というか、新しい嫁が来たら、それは母親である養徳院の勢力が強くなるだけだ。今でさえ全く歯が立たないのに勘弁して欲しいと恒興は思う。

 だから今回、蜜柑の元締めに大橋清兵衛を選んだ。蜜柑という重要特産品を津島商人主導で扱わせる事で、津島商人に安堵して貰おうという事だ。津島商人は織田信長の意志が働いていると思う筈だ。信長は津島を見捨てた訳ではないと思ってくれれば重畳というものだ。


 桑名、津島を経由して恒興は犬山へと帰還した。何だか久し振りに帰って来た感覚を覚える。それくらいいろいろな事があった。少し疲れたのかな、と考えながら恒興は玄関の戸を開ける。


「戻ったニャー」


「お帰りなさいませ、あなた様」「お帰りやで、旦那様」「お帰りなさい、恒興」「帰ったか、兄」「お帰りー、お兄ちゃん」


 恒興は違和感を覚える。「お帰り」の数が異様に多い。はっ、として見てみると玄関には池田邸の住人が並んでいた。


(ニャにコレ?全員、玄関に居るの?)


 正室の美代、側室の藤、母親の養徳院、妹の栄、義妹の千代。それだけではなく、恒興の養女から女中さんにいたるまで勢揃いしていたのだ。総勢で100人弱、池田家の玄関は100人居ても大丈夫な訳だ。うん、論点はそこではない。何故、全員が恒興を出迎えているのか?そこが論点だ。


「ニャんでみんな、玄関に勢揃いしてるんだニャー?」


「当然じゃないですか〜。あなた様の帰りを今か今かと待ち侘びていたんですから〜」


「せやせや、勿体付けんとはよ出してや〜」


「え?ニャにを?」


 恒興の疑問に美代と藤が代表して答える。二人共、かなりの上機嫌だ。どうやら恒興が持っているであろう何かが目的らしい。


「蜜柑ですよ、恒興。加藤政盛殿から聞きましたよ。熊野からお土産として蜜柑を頂いたと」


 母親の養徳院が『蜜柑』だと直裁に答える。そう、全員が蜜柑を待っていたのだ。先に帰った加藤政盛から恒興が蜜柑を貰って帰って来ると情報を得ていたからだ。


「早く出せ、兄」


「ニャんだ、みんなも知ってたのか。あと栄、お前は口の利き方を覚えろニャ」


「私を早く『甲斐御前』にしない兄が悪い、蜜柑出せ」


「お前は『甲斐御前』なんて呼ばれん。『尾張御前』か『犬山御前』のどっちかだニャー」


 蜜柑を出せ、とぶっきらぼうに言う妹の栄を恒興は嗜める。しかし栄は夫となる武田勝頼の領地が回復されていない事を不満に思っている様だ。つまり恒興に取り戻してこいと言っている。

 因みに女性が嫁いだ際の呼ばれ方は出身国か出発地域が一般的となる。なので恒興の妹である栄は尾張国か犬山を冠して呼ばれると予想される。他は夫が決めたり、住んでいる場所に因んだりと割りと自由ではある。


「お兄ちゃん、蜜柑、無いの?」


「いや、あるニャー。おい、箱を持ってこい!」


 義妹の千代に促され、恒興は従者達に箱を持って来る様に命令する。三人掛りで持って来た箱の大きさは屈んだ人間が一人入りそうなサイズだ。そこにはぎっしりと橙色の果実が入っており、玄関にいる女性陣は感嘆の声を挙げた。


「わあ、蜜柑だ〜」


「凄い!いっぱいあります!」


「こりゃ、一人につき2、3個はあるで〜」


 藤は箱の大きさからたいたい300個前後と予測した。一人につき2個〜3個の割り当てがあると計算した。


「お義父様、私達も、その、いいのですか?」


「当たり前だニャー。何でお前達を除け者にする理由があるんだ。女中さん達も含めて、みんなで食べるんだニャー」


「「「わあい!」」」


 養女の一人が恒興におずおずと質問する。自分達もこの貴重な果実を口にして良いのだろうか、と。そこには養女は引き取って貰っている、という劣等意識がある。恒興がダメだというなら従わなければならない。しかし恒興は即座に了承する。当然だと付け加えて。もちろん、池田家にも序列くらいはあるが、今回の蜜柑は全員の分があるので考える必要などない。

 養女達は恒興に引き取って貰ったと考えがちだが、恒興は養女達を引き取ってやった等とは考えていない。そもそも、この少女達を養育しているのは母親の養徳院だ。昔は引き取っているだけだったが、恒興が犬山城主になると養徳院が全員を養女にした。父親の名前に『池田恒興』があると結婚が有利になるからだ。戦国時代の億万長者ラインである一千石以上の家にも嫁げる。下級武家の生まれでも彼女等は嫁ぎ先で苛められたりもしないだろう。泣かせると『池田恒興』が出てくる可能性が……いや、確実に出てくる。この様に恒興を利用しているから負い目もあるのかも知れない。

 だが、養女達が恒興を利用している様に、恒興も養女達を利用しているのでお互い様だろう。恒興は犬山城主だ。統治を円滑に進める為には地域の有力者と結ぶ必要がある。その一番早い方法が『婚姻』関係となる。しかし恒興に嫁を出すのは皆が出来る事ではない。では恒興の近親に嫁を出す、或いは嫁に貰うという方法があるのだが、生憎と恒興には『信長の妹』という栄しかいない。不可能である。

 そこで注目されるのが、恒興の養女である。彼女等を犬山周辺の有力者の跡取り息子に嫁がせる事で、恒興の犬山経営を盤石にするのである。

 例えば、犬山の有力者の一人に『河田源十郎』が居る。彼は木曽川の川並衆で犬山周辺を根城にしていた。犬山が寒村だった頃はさして儲からず、三川川並衆の中でも河田党は有象無象の一つでしかなかった。それが恒興の犬山開発で河田党は多大な恩恵を被り、周辺の他党を取り込みながら巨大化していったのだ。今では三川川並衆の中でも蜂須賀党、前野党に並ぶ程になり、石基準にして万石に届く勢いである。しかし、河田源十郎の地位はけして盤石なものではない。恒興が他の川並衆を優遇すると言えば、直ぐに終わる程に脆弱だ。だから河田源十郎は恒興との縁を求めた。

 方法は二つ、『完全家臣化』と『半家臣化』である。完全家臣化は恒興の干渉が酷くなり収支から行動まで制限を受ける。半家臣化はある程度の自治が認められる。ただ、池田家の方針を守りつつ行動する事は求められる。河田が狙うのは後者である。前者はただの『降伏』だからだ。その為に注目されたのが恒興の養女達である。河田は自分の幼い嫡男に嫁を依頼したのだ。それを受けて恒興は母親の養徳院に報告、恒興の養女の中から歳の近い娘を出す事になった。結婚は先だが婚約は成った。これで河田党の次代党首は池田恒興の縁者となる訳だ。河田党が池田恒興から無視される事はない。その代わり、池田家を支持し続ける宿命を背負う。

 この様に恒興にとっても養女達は憐れみや情けで養育している訳ではない。彼女等も恒興の統治の支えとなっている。除け者にする理由など何処にも無いのだ。


「うんうん、頑張って食べてくれニャー」


 喜ぶ養女達を見て恒興はうんうんと頷きながら、何気無しに呟く。その言葉を聞いた全員はピタッと動きが止まる。今、この男は変な事を言わなかったか、と。


「今、あなた様、何て言いました?頑張れとか言いませんでしたか?」


「言ったニャー」


「な、何故?」


「いや、だって、お前。腐らせたら勿体ないニャー」


「一人につき2、3個の割り当てやろ?そんなん頑張らんでも」


 そう、この猫男は『頑張れ』と言ったのだ。理由は蜜柑が腐ったら勿体無いから。理解出来ない訳ではないが一人2、3個食べれば無くなる蜜柑を腐らすなど有り得ないだろう。しかし恒興は事も無げに言い放つ。


「それ、20箱あるからニャー」


 この一言で一人につき2、3個が一人につき60個近くに変化した。静寂と「何、言ってんだ、この猫」という視線だけが池田邸玄関を支配した。幾ら貴重だといっても一人60個は度を越している。戦国時代の蜜柑は酸味がレモン並にあると考えてよい。


「恒興、貴方は限度というものを考えなさい」


「そうは言いますが母上、これでも家臣達の家には配って来たんですニャー。池田家中はしばらく蜜柑づくしですよ」


「仕方がありませんね。私も尼寺に持って行くとしましょう。あと、森家には贈りましたか?」


「おお、それですニャー。三左殿に半分くらい送りましょう」


 やれやれといった感じで養徳院が恒興を叱る。しかし恒興も蜜柑を独占している訳ではない。熊野の民衆が施し品の返礼にと蜜柑を集めたのだが、量は大安宅船が満載になる程だった。熊野はこれでも一部に過ぎないと言える程の蜜柑の産地である。なので誠仁親王や山科言経、公家にも相当数持って帰って貰ったし、恒興は家臣の家にも配り歩いて帰って来たのだ。

 という訳で養徳院は親戚関係を築いた森可成にも贈る様に勧める。恒興はそれは名案と森家に送る事を決める。恒興の中では蜜柑は贈る物ではなく送る物に変化しつつあった。


「こ、これで一人30個くらいになるんか。現実的な数字になったな」


「贅沢な話かも知れませんが、量が多すぎると嫌になりますからね」


「まったく、人間ってヤツは。ってところかニャー」


「あなた様のせいです!」


 有り難い品物も量が多くなると有り難みが薄れる。人間とはそういうものだ。それを恒興が指摘すると、美代から恒興のせいだと抗議された。


「ところでうちの伊勢海老はどうなったんや?」


「そっちも問題無いニャー。今回の礼として、九鬼殿が持って来てくれる。ニャんと、生きたままの新鮮な物だそうだ」


「それ、スゴイな。みんなの分があるとええな」


 藤は思い出した様に伊勢海老の件を恒興に尋ねる。そちらも問題なく、九鬼嘉隆が伊勢海老を生け簀に入れて持って来る事になっている。熊野水軍と戦争する事を考えれば、伊勢海老でも安い代償と言うべきだ。

 直ぐに、という訳ではないが、藤は何れ来る事に満足した。数も1、2匹程度ではあるまい。それでは九鬼嘉隆の面目が立たない。しかし10以上という事もあるまい。なら切り分けて、鍋物にするのが良いと心踊らせた。


 ある朝の池田邸。元気な藤と見るからに気怠そうな美代は井戸端に居た。顔を洗って1日を始める為だ。


「朝や!今日も1日頑張るで!」


「はい……」


 先に起きた藤がまだ寝ていた美代を叩き起こした構図だ。しかし日の本では『明六あけむつ』が起床時間とされているので、藤は常識に従っているに過ぎない。明六つを過ぎても寝ている者が寝坊助という訳だ。明六つは地域によって違うが、朝日が登り始めたら明六つというのが一般的である。


「美代はほんま寝起き悪いな。ほれ、顔洗い」


「パシャパシャ」


「次はうがいや」


「ゴボゴボ」


「ペッと吐く」


「オロロロロ……」


「なんっでやねーんっ!?そっちの『吐く』とちゃうわーっ!」


 藤の指令通りに顔を洗う美代。そして指令通りに最後は吐いた、……胃の内容物というか、アレだ。まあ、昨夜の食事が胃に残っている訳がないので、胃液が殆どのようだが。

 一頻りツッコミを入れてから藤は美代に寄り添った。


「ちょ、美代、大丈夫なんか!?」


「ぎ、ぎぼちわるいです……」


「調子悪いんか?はっ、まさかアンタ、お目出度なんか!?」


 藤は思い出した。昨日、皆が結構酸っぱいと言って食べていた蜜柑。皆が頑張る中、美味しい美味しいと一人有り得ないペースで食べていたのが美代だった。酸っぱい物が欲しくなる、この経験は藤にもある。だからお目出度ではないのかと考えた。


「お目出度ですって!?」


「よくやった、姉よ!」


「お義母様、妹ちゃん!?」


『お目出度』という単語に反応して養徳院と栄が急に現れる。池田家の人間にとって子供が産まれる事は慶事であり重要である。池田家は後継者の少なさでいつも苦労してきたのだ。恒興が大きく立身した以上、男の子でも女の子でももっと欲しい。


「無礼講だニャー!酒持って来いニャー!あと、梅ばあちゃん呼んできてー!」


 恒興も無礼講を宣言する。恒興にはまだまだ子供が必要だ。嫡男は居ても未だに一門衆は組織出来たとは言い難い。15万石以上、小牧の開発に成功すれば20万石近くになる領地を幸鶴丸一人に継がせるのは現実的とは言えない。幾らかを兄弟に分割相続させて一門衆分家を造る段階に池田家は来ている。

 もちろんだが、恒興の娘を欲しいという武家や大名もこれから出てくるはずだ。だから男女どちらでも大歓迎である。

 恒興は歴戦の産婆である梅を呼んで来るようにと命令を飛ばした。


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【あとがき】


 ロマサガ2、ロマサガ3、サガフロ1とやったので、ロマサガ1というかミンサガリマスターをやりました。2週間で120時間とか、やっちまったぜ……恐ろしいゲームだニャー……。_(┐「ε:)_



 謀略は完了する前に笑うと失敗するフラグを建設、完了ですニャー。新しい子供は男の子で『古新丸』くんですニャー。

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