熊野別当

 池田恒興が誠仁親王に熊野詣でを進言してから一週間後。誠仁親王は伴の者を連れて牛車で桑名の湊に到着した。伴の者は総勢で50人程で、神祇官や式部省に属する公家や護衛の舎人が20名、誠仁親王の家臣が20名、あとは身の回りの世話をする雑色となっている。誠仁親王の熊野詣に便乗して付いて来た公家も居て、若干予定より増えた様だ。まあ、その程度は許容の範囲だと恒興は思う。

 湊で待っている恒興の所に家臣を引き連れて誠仁親王がやってくる。この桑名から船で熊野まで行くので、牛車からは降りたところだ。その誠仁親王は少し申し訳なさそうに、恒興に話しかけてきた。


「上野介。私は言い忘れてしまったのだが、熊野詣の際には民衆に施しを与える慣例があるそうなのだ」


「ご心配には及びませんニャー、殿下。そちらはニャーの方で調べ上げております」


 誠仁親王が伝え忘れていた事は熊野の民衆への贈り物だ。これは慣例化しており、おそらくは熊野側でも期待している。誠仁親王は今から調達出来るか、と恒興に問いたい様だ。

 しかし恒興の方でも熊野詣でについて調べており、その辺りも抜かりはない。恒興の目的は熊野詣でを成功させて熊野別当と会う事であり、熊野の民衆をガッカリさせたら熊野別当と会えない可能性が出る。もし会えたとしても相手は不機嫌になっているだろう。そうなると建設的な交渉など不可能だ。恒興の最終目標は『熊野の危険性を排除する事』なのだ。つまり現在はその最終目標に辿り着く為の第一関門に過ぎない。ここで手を抜く訳にはいかない。


「流石は上野介であるな」


「して、上野介殿。如何程ですか?」


 突然、誠仁親王の後ろに居た付き人が発言する。主である誠仁親王に促される事なく、発言するのは失礼だと恒興は思うのだが。しかも恒興に対して知り合いの様な気軽さでだ。見た目はスラリとした痩せ型、二十歳前後の青年で表情は鉄面皮の様に動かない。恒興と面識は無い筈だ。……いや、何処かで見た気がすると恒興は青年をマジマジと見る。


「えーと?こちらの方はどちら様ですニャ?」


「ああ、この者は私の家司だ」


「山科内蔵頭くらのかみ言経と申します。殿下の財政を担当しております。先日は多額の上貢の御役目、ご苦労様でした」


「山科……殿……まさかニャー」


「父・山科権大納言言継同様、宜しくお願い致します」


(やっぱりー!親子だったニャー!あの銭ゲバ顔をそのまま若くしただけじゃねーか!)


 山科言経は山科権大納言言継の嫡子である。恒興は面識もないし紹介もされてない。しかし、恒興は山科邸に足を運んでいたので、山科言経の方は恒興を見掛けていた様だ。恒興も道理で見た事ある訳だと納得した。山科言継のニヤけた銭ゲバ顔を真顔に戻して若くした感じだからだ。ただ、父親とは違い、鉄面皮の様な表情を崩さないので堅物っぽい印象を受けた。


「して、如何程で?」


「あちらを御覧下さいニャー」


 恒興は腕で湊に停泊する巨大な船を指し示す。桑名の湊にある船の中では一際大きい。大型船を見た事が無かった誠仁親王と家臣達はその大きさに感嘆の声を挙げる。


「おお!大きい船だな。あれが安宅船というものか?」


「いえ、殿下。あの大きさですと安宅船の更に上、大安宅船で御座いましょう」


「あれは大安宅船というのか。初めて見たな」


 大きな船が多い桑名の湊にある一番大きな船。通常の安宅船より一回り程大きい。山科言経はそれを『大安宅船』と紹介した。


「あの大安宅船に食料品衣料品酒類を満載しておりますニャー」


「言経、これは多いのか?少ないのか?私には判断がつかぬ」


「過去の記録ですと亀山上皇の際は関船二隻分であったとの事。換算すれば安宅船一隻弱です。あの大安宅船は通常の安宅船より大きい様なので、積載量もかなりのものと考えます。おそらくですが、亀山上皇の熊野御幸の倍近い物量となり、過去最大となります」


 山科言経は見た目から物量を測り、予想の範囲で答える。それでも亀山上皇の熊野御幸よりも大きく上回り、過去最大である事は明白だった。


「過去最大!?上野介、気合を入れ過ぎておらぬか?」


「ニャハハ。殿下、多くて困る事はありませんニャ」


「しかし上野介殿。後に行う正親町帝の熊野詣の際にはこれ以上が求められますよ」


 山科言経は正親町帝の熊野詣にはこれ以上が必要だと言う。当然だろう、今回は熊野詣で復活の試験的な側面があり、本番が今よりショボかったら格好がつかない。恒興もそれくらい承知している。


「勿論ですニャー。その時は織田弾正忠が本気を出しますから。あの大安宅船が二隻かも知れませんニャー」


「あの大安宅船が二隻もあると申すか!?」


「はい、殿下。実はあの大安宅船は二隻目で試験運用中ニャのです。今回は殿下の威を示す為に出しましたニャー。ただ試験運用中なので乗れません。殿下の安全の為にも我々は通常の安宅船で行きます」


 この大安宅船は物資運搬や兵員運搬の為に建造された物で戦闘用ではない。これが発展してかの有名な『鉄甲船』になる、という訳ではない。鉄甲船は記録から12〜18間であるとされるので22〜32mとなる。まあ、人の目測なので差がある様だ。しかし安宅船は30〜40m、関船は15〜20mなので鉄甲船の大きさはこの中間くらいになる。鉄板を張るとなると、あまり巨大には出来なかったのだろう。

 しかし恒興達の前には安宅船を遥かに超える50m級の巨大船が鎮座している。

 あまりに巨大な船である為、通常の船とは動かし方も異なり、水夫達も未だに訓練中である。そんな安定性を欠いた船に誠仁親王を乗せられない。なので、恒興達は普通の安宅船で行く事になる。

 だが、誠仁親王はこの大安宅船が二隻もあると聞いて、別の事を考えていた。


(これが織田弾正忠の力なのか。圧倒的だ。関白や山科権大納言が織田弾正忠を味方に付けるべきと力説するのはこの為か)


 織田信長が上洛して以来、朝廷は彼から直接の資金提供を受けられる様になった。それ以降、朝廷内の高級公卿の中にも織田信長を味方に付けるべきと主張する者が出始めた。

 誠仁親王は足利幕府が朝廷を冷遇しているから、代わりに織田信長を頼るという意味だと思っていた。しかし織田信長の力が圧倒的な事は見て分かる。足利幕府の代わりに織田信長を取り立てる、という意味ではなく、織田信長を武家の統率者にしていくという意味で高級公卿達が主張しているのだと感じる。

 そもそも幕府とは武家を統率する為の朝廷の出先機関という位置付けだ。ただの建前だ。実際は幕府が先に出来て武家を統率し、朝廷が追認した物である。だからか、幕府は朝廷の言う事を聞かない。ならば朝廷とは何故存在しているのか?と存在意義すら問いたくなる。

 それ故に織田信長を今のうちに味方に付け、彼を武家の統率者にし、朝廷がコントロールする。おそらく、公卿達の狙いはその辺りだろう。

 しかし織田信長の力の一端を見た誠仁親王はそれが可能なのかと疑う。結局、信長も権力を極めれば、朝廷と距離を置いた源頼朝になるか、朝廷を牛耳った平清盛になるかの二択ではないのか、と。それならば信長と親交を深めて、彼が朝廷内で孤立しない様に取り図るべきだと考える。誠仁親王が親王になる資金を出したのは織田信長なのだから縁はある。なので自分が信長が孤立しない様に親交を深めておかねばと思う。


「殿下、海は危険が多いですニャー。海の上では船員の言う事をお聞き下さいニャ」


「上野介殿、それは殿下に対して不遜ではないですか」


「言経、上野介は私の安全の為に言っているのだ。彼の気遣いを無下にする事は許さぬ」


「はい、差し出がましい事を申しました」


「上野介、忠言には耳を傾けると誓う。宜しく頼む」


「有難き幸せに御座いますニャー。なるべくその様な事は無い様に致しますので」


 熊野への航海は天候にも恵まれ順調そのものだった。海の天候は陸よりも変わり易いので油断は禁物。とはいえ、志摩水軍の中でもベテランを多く雇ったので、天候悪化は直ぐに察知してくれると信じている。

 そんな感じで船は進み、そろそろ熊野の湊が見えてくるという。恒興は誠仁親王を探して、甲板を歩く。すると、船尾の方で海を眺める誠仁親王を発見した。何やら物思いに更けながら溜め息をついている様だ。


「ふぅ……」


「殿下、お疲れで御座いますかニャ?」


 恒興は誠仁親王の体調が優れないのかと心配になり声を掛ける。


「ん?いや、旅路にではない」


「?」


「何と言うかな。上野介のおかげで熊野行きが決まって以降、度々主上に呼び出されてな」


「陛下にですかニャ」


「ああ、その度に「羨ましい、羨ましい」と小言を繰り返されて疲れてしまったのだ」


「行きたかったんですニャー、陛下も」


 誠仁親王は旅路に疲れていたのではなく、出発前から疲れていた。それは熊野詣でが決まった後、正親町帝に度々呼び出されては呪詛の如く「羨ましい」を繰り返されたからだった。そう、正親町帝も旅行をした事が無いのだ。

 何しろ天皇行幸は平安期以降に数える程しかない。365日、天皇の務めで埋まっているからだ。休みの日?そんなものは無い。正親町帝が親王の時には朝廷が極度の財政難でやはり何処にも行けなかった。天皇になってからは尚の事、何処にも行けないのだ。だから池田恒興を部下に付けて、熊野旅行を企画された誠仁親王が羨ましくて仕方がないのだろう。誠仁親王としては「そんな事を言われても」としか言いようがないのだが。


「漸く解放されたかと思うと、安堵の溜め息が出てしまったよ」


「左様でしたか。大変でしたニャー」


「分かるかも知れないが、主上は上皇になりたがっている」


(正親町帝が上皇に……はっ、思い出したニャー。信長様の最大の失敗を)


 正親町天皇の退位要請。それは織田信長の失敗の中でもかなり大きいものだった事を恒興は思い出した。

 事の発端となったのは織田信長が朝廷に参内し、正親町帝と面会した時だ。この時の正親町帝は体調が思わしくなかったのか疲れている様子だったという。面会を終えた信長はその後、「帝は休まれた方がいいのではないか」と発言した。これを放言大好き公家に聞き付けられてしまったのだ。そして信長の言葉に尾ひれ羽ひれを付けられた。「休み無しの天皇が休む」→「朝儀や公務が出来ない」→「天皇失格」→「退位しろって事か」と、こんな感じの様だ。そして何時しか「織田信長は正親町帝を退位させようとしている」という話に置き換わった。恐るべし放言大好き公家の業である。その後の朝廷では織田信長が天皇位を自分の都合だけで取っ替え引っ替えした足利尊氏の様になるのでは、と戦々恐々となった。その話は当然、正親町帝の耳にも入る。

 話を聞いた正親町帝は……大喜びした。天皇が退位するという事は上皇になるという意味だからだ。平安期からずっと言われ続けた言葉がある。『自由に振る舞いたければ上皇になれ』である。これは白河院が上皇になって権勢を振るった事に由来する。

 白河院は最初から政治をしていた訳ではない。天皇位や上皇位にあった時は藤原氏に政治を任せていた。しかし、藤原氏があまりにも摂政関白の座を巡ってグダグダと身内争いを繰り返し政治を蔑ろにするので、「アイツ等に任せておけん。私がやる」となったのだ。『我より始めよ(前例が無いなら私が前例となる)』という自身の言葉通りな性格をしていた白河院は『院政』を開始したという訳だ。

 これが文字通りの前例となり、上皇になれば政治が出来る、上皇になって自由に生きたい、と多くの天皇が上皇を目指す様になった。上皇位は天皇位にある者にとっての憧れとなっていった。この憧れのせいで怨霊になった崇徳天皇やマジで自由気ままに生きた後白河院など、多種多様な人物が現れる切っ掛けともなった。なので正親町帝も上皇になって自由になる事に憧れを抱いていた。そして正親町帝は信長に「私を上皇にしてくれると聞きました。期待しています」と手紙を送ったらしい。信長としては「何の話だ?」と首を傾げた。

 時は下り、織田信長が右大臣の頃、正親町帝から正式に譲位の要請があった。誠仁親王に天皇位を譲り、上皇に登るとの申し出があったのだ。信長はこれを快諾した。しかし彼はその為に何れ程の儀式が存在し何れ程の資金が掛かるか知らなかった。天皇が上皇に登るなら、当然だが新しい天皇即位も行う。誠仁親王は立太子の儀式を済ませていなかったので、これも行う必要があった。更に天皇即位と同時に立太子の儀式を行う事も理想だ。とにかく儀式儀式で資金は湯水の如く消える事は確定だった。この頃の織田家は畿内に覇権を確立しつつあったが、各方面軍は大大名との戦が始まった辺り。信長は東西南北に資金を投入しており、とてもではないが莫大な儀式資金が捻出出来なかった。そして正親町帝に失敗の報告をせねばならなかった。

 この事で信長は自分に右大臣の資格は無いと大いに恥じた。それ故に彼は右大臣の職を辞任したのである。これが不味かった。朝廷の官位は懲罰による剥奪や死去出家隠居による俗世からの完全離脱以外には官位の返還など有り得ないのだ。信長の行動に放言大好き公家達が超反応を見せる。曰く、「信長は朝廷を見限ったのか」「信長は博多の制圧を目指している。そこから唐高麗を征服するに違いない」「そうか!唐高麗を征服して天皇位より上位を創り、自らがなるつもりか!だから信長は朝廷を無価値と見做したのだ!」「右大臣職を辞任など、そうとしか考えられん!」と言いたい放題だった。そして「織田信長は大陸まで制覇するつもりだ」という噂がまことしやかに広まった。信長からすれば「何の話だ?」と首を傾げるだけだった。しがない噂話なので放置したのも悪手となる。

 当時の恒興も下らん噂だとしか思わなかった。だが、織田家内の者達には影響があった。滝川一益は「関東が終わっても唐高麗で使い潰されるのか」と嘆いたという。明智光秀は幕府に続き朝廷との折衝も無くなって自身が用済みになる未来を予期していたらしい。そして唐高麗に飛ばされるのかと。羽柴秀吉は官位が筑前守だった為、噂を聞いた彼は「コレ、絶対俺が先鋒じゃねーか!?」と叫んだとか何とか。筑前国に博多があるからだ。更には功臣であった林佐渡や佐久間出羽を大した理由も無く追放に及んだ事。織田家重臣を次々と地方へ送り、畿内や濃尾勢を信長の息子達に振り分けている事。様々な要因が重なり、織田家中は動揺した。恐るべし放言大好き公家である。


「天皇は束縛が強い。息が詰まる程に。だからなのだが、天皇位にあった方は皆、上皇に憧れを懐いたという。上皇に登る事だけが自由になる唯一の方法なのだ」


(やはり正親町帝の希望は今世でも変わっていないのニャー。今度は絶対に成功させないと。それにはもっと、もっと金が要るんだニャー)


 正親町帝の憧れを止める事は出来ない。ならば情け容赦無く金を稼ぐ必要がある。もっと、もっとだ、と恒興は自分に言い聞かす。その上で熊野の説得は必須だ。敵ならば経済に流通に百害の存在だが、味方に出来れば百利の存在となる。話によっては、堺〜津島間の海上輸送も出来るかも知れない。実現出来れば何れ程の経済効果が生まれるだろうか。


「主上は白河院の様に政治をしたいのではない。後白河院の様に趣味に生きたいのだ」


「ニャる程です。心に留めておきますニャー。殿下、そろそろ熊野の神宮湊が見えてきますニャー。船首に行きませんか?」


「そうしよう」


 恒興は誠仁親王を伴い、船首へと向かう。そこから見える海を見て両者、感嘆の声を漏らす。熊野の神宮湊には船、船、船と大小様々な船が集結していたのだ。見えるだけでも200隻近い船が居る壮観な景色だった。


「おお、これは盛大な歓迎だ」


「皆、殿下を出迎える為に集まったのですニャー」


「それは嬉しいな」


 恒興は笑顔で、あれは熊野の歓迎だと話す。誠仁親王もこれ程の歓迎を受けるとは想像していなかったので、とても喜んでいる様子だ。

 しかし、恒興は内心、別の事を考えていた。つーか、あれがただの歓迎で集まった訳ではない事くらい見れば分かる。


(何だ、あの数は!?関船でも30隻くらい居るじゃねーギャ。しかも武装してやがる。やっぱり志摩侵攻一歩手前だったのかニャー)


 20m級の関船が30隻近くに小早船の様な小型船が多数。しかも関船には武装が積んである軍船だ。というか、関船で漁業などしない。関船は櫂で動かすオール船なので漁業には不向き。熊野水軍の特性を考えれば海賊用の軍船以外には考えられない。恒興は自分の計画がギリギリのタイミングであった事に半分驚愕し、半分安堵した。

 しかし驚いているのは恒興サイドだけではない。熊野水軍の水夫達も同様だ。志摩侵攻で集まったが中止命令が出て、彼等はそのまま親王を出迎える事になった。で、待っていたら異様にデカい船が現れたのだ。関船でもそのまま踏み潰して進めそうなくらいの大きさだ。

 小型船に乗っていた熊野水軍に所属する三人はポカーンと大安宅船を見上げる。


「あれが親王様の船なんか?なんちゅうデカい船だ」


「むぅ、あれは……!」


「何か知っているのか、喜平!?」


「うむ、あれは志摩水軍で建造された安宅船を超える大安宅船に間違いない!」


「な、何だって!?お前、そんな情報を何処から!?」


「えーと、志摩水軍に居る親戚から、かな」


「それ、絶対自慢か宣伝だよ!」


 喜平という男はあの船が志摩水軍で造られた大安宅船であると見抜いた。何故それを知っているのかと尋ねられると、彼はあっさりと志摩水軍の縁者から聞いたという。

 それを聞いて別の男も反応する。


「はっ、そういう事か!」


「何か知っているのか、権作!?」


「オラが聞いた話によると、織田信長は勤王の志高く、天皇家を盛り立てているらしい。あの大安宅船もその一環で出て来たんじゃないか?」


「な、何だって!?お前、そんな情報を何処から!?」


「え、志摩水軍に移籍した友達からだけど」


「全部、志摩水軍じゃねーか!」


 権作という男は気が付いた様に話をする。そしてその話も志摩水軍経由で伝わってきたものだった。まあ、その話は全て、恒興が流す様に指示したものである。

 本来、敵に新造艦の情報など渡さないのが定石である。戦力はなるべく隠しておくべきだ。しかし熊野は敵ではない、味方に付けたいのだ。だから「こっちはこんな大きな船があるよ」と宣伝している。実力を誇示して無駄な争いを避けるためだ。なので、今回の熊野詣でに持って来た訳だ。

 織田信長が天皇家を支えているという話は熊野の歓心を買うためだ。熊野が天皇家の事を想っているなら効果があると踏んでの事だ。


「そらそーよ。志摩水軍以外の何処から情報を仕入れろって言うんだ?志摩水軍には親戚や友達がたくさん居るのに」


「そらそーか」


「「「アハハハ」」」


「「「……」」」


 熊野水軍の水夫三人は一頻り笑ってから俯いて頭を抱える。自分達が親戚や友達が多い志摩水軍に攻撃を仕掛けようとしていた事に気付いて自己嫌悪に陥ったのである。

 熊野から志摩国へ移住者が多い理由は海流だ。日本の南側の海には西から東に向かって流れる『黒潮』がある。だから熊野から志摩国に行くのは非常に容易なのだ。そして熊野からの移住者が多い背景には、熊野はその人口を養えるキャパシティが無いという事だ。熊野水軍だって一枚岩ではない。グループ同士の縄張り争いくらいなら幾らでもある。それに負けて生きていけなくなった者達が家族を連れて熊野を脱出する訳だ。準備万端の移住ではない。だから行き易い志摩国に移住者が多いのである。そして他と大して交流していない熊野の情報源が縁者の居る志摩水軍となるのは必然的である。

 恒興達の船は熊野水軍に見守られながら神宮の湊に入る。恒興はもう船旅は御免だとばかりに、我先にと上陸しようとする。


「よっしゃ!上陸するニャー!」


「お待ち下さい、上野介殿!!」


 飛び出そうとする恒興の肩を後ろからガシリと掴んで止める山科言経がいた。その顔には「勝手な事をするな」と書いてある様だった。


「何かありましたかニャー、内蔵頭殿?」


「船に渡しを掛ける水夫はともかく。まずは舎人とねりが出て殿下の降り立つ場所を固めます。その後に殿下が舎人の輿に乗り進みます」


「はあ、そうニャんですか」


「その後、熊野別当が熊野の神官を引き連れて殿下を迎え、熊野の神官が先導し殿下は舎人を伴に熊野速玉大社へ向かいます。家臣はその後に続きます。これが慣例なのです。勝手に降りないで貰えますか?」


「はーい、分かりましたニャー」


 どうやら船から降りる時から儀式みたいなものが始まっているらしい。なので船を降りる為の橋桁を掛ける水夫は除いて、他の者は慣例通りにせねばならないようだ。とりあえず恒興は慣例までは知らないので、素直に従う事にした。


「という訳で、上野介殿も家臣の列へお並び下さい」


「いいえ、ニャーは殿下からの施し品を熊野の民に配るので残ります」


「……?それは貴殿でなくてはならないので?」


 山科言経は恒興に家臣の列に並ぶ様に促すが、これを恒興は拒否した。恒興は施し品を熊野の民に配るのだと言う。


「何かあった場合、責任者が居ないとまともな判断が出来ない事もありますニャ。殿下の御名を汚さない為にもニャーがやります」


「そうですか。たしかに、それも重要ですね」


 山科言経は若干、残念そうに応えた。彼としては恒興に家臣の列に加わってほしい様子だった。しかし強制する事はなく引き下がった。彼も分かっているのだ、武家である恒興と並ぶのを嫌がる公家がいる事を。

『身分』というのは重要だ。高くなれば高くなる程に。恒興の『身分』は公家からすれば高いものではない。特に問題となるのは『出身』だ。恒興の池田家は摂津源氏池田家に源流があるとされるが、家系図を失伝しているので確定までは出来ない。つまり、出自が怪しい武家である。それに比べれば公家は全員、由緒正しい家系図記録があり、出自もハッキリしている。それ故に誠仁親王の他の家臣達は池田恒興が同列に並んで歩く事を快く思っていない。今回の熊野詣では発案から段取り、資金調達まで恒興だけでやっているので公家達も文句までは言わないだろう。自分達もそのついでで恩恵を受けているのだから。しかし内心は面白くない訳だ。


 官位に左右がある理由をご存知だろうか。左馬助と右馬助、左近衛大将と右近衛大将、左大臣と右大臣等々。それは貴人を左右で固める為である。そしてこの左右は同格の者を配するのが慣例となるので、官位も同格で左右があるのだ。貴人の左右を固めるのは武官が多い為、武士は割りと左右の付いた官位を好む傾向がある。そして公家や武家では左右をなるべく同格にするのは常識となっている。

 この事柄にまつわる話が源義経にある。義経は平家を壇ノ浦の戦いで滅ぼすと、京の都に凱旋した。義経は軍事パレードの様に民衆に見せつけて行軍。その際に自分の左右に伴を配置していた。一人は鎌倉武士で源頼朝の信頼も厚い『土肥実平』、彼を選んだのは鎌倉武士への義経なりの配慮なのだろう。しかし、もう一人が問題だった。義経の左右に選ばれたもう一人は彼の家臣、『伊勢義盛』である。この男は元々山賊であり、親族を殺した罪で投獄されていた過去を持つ。この人選に由緒正しい鎌倉武士の土肥実平は憤慨した。自分はこの山賊と同類という意味か、と。鎌倉武士達は一様に実平の境遇を嘆いた。「鎌倉殿(源頼朝)の挙兵から功を立て続けている土肥殿にこの仕打ちはあんまりだ」と。だが義経は意に介さなかった。「鎌倉武士は位置や順番に拘り過ぎだ。奴らはそんなに暇なのか?」とまるで聞く耳を持たなかった。これは源義経が鎌倉武士から嫌われたポイントにもなっている。

 この件は源頼朝の耳にも入った。すると頼朝は直ぐに謝罪の手紙を土肥実平に送った。手紙を受け取った実平は「自分の事を理解ってくれるのは鎌倉殿しかいない」と忠誠を改にしたという。

 更に伊勢義盛は騒動を起こす。源義経が兄の頼朝に謝罪の手紙を送る『腰越状』の場面である。この時に伊勢義盛は公卿で権中納言の一条能保の家人に悪絡みをし喧嘩騒ぎを起こした。これは義経と一条能保で止めたので大事には到らなかった。しかし、これを聞いた源頼朝は大激怒。頼朝にとって一条能保は朝廷との橋渡し役をして貰っている大切な人物だった。そんな高位公卿に恥を掻かせた伊勢義盛は頼朝の逆鱗に触れてしまったのだ。その為か、頼朝は弟である義経を一切許さず、彼は失意の内に帰京する事になる。

 その後、源義経は失脚し、西国行きも失敗して畿内を逃げ回る事になる。すると伊勢義盛は義経をあっさり見捨てて山賊に戻り、故郷の鈴鹿山脈辺りに潜伏した。「義経の功績は俺のおかげ」みたいな自慢話を吹聴していた様だ。しかし、それも長くは続かなかった。何せ鎌倉武士達が伊勢義盛を血眼で探していたからだ。「関東の名将・土肥実平に屈辱を与えし男・伊勢義盛!絶対に生かしてはおかん!」と凄まじい勢いだった。結局、伊勢義盛は捕まり、斬首刑の後に梟首(さらし首)という末路を迎えた。


 この例が示す様に身分が大きく違う者が同列に並ぶと不幸な結末しかならない。とはいえ、誠仁親王の随伴を理由無く断るのも失礼だ。なので恒興は適当な理由を作って離脱する事にした。施し品の配布に恒興は必要ない事くらい、山科言経も分かっている。だが、恒興と並びたくない公家がいる事も知っているので、気を遣って追求まではしなかった。


 その後、誠仁親王は舎人が担ぐ輿に乗り、熊野へと降り立った。輝く様な絹織物の礼装に身を包む誠仁親王。すると集まっていた熊野の民衆から大歓声が巻き起こる。


「キャアー!殿下よー!」「何て凛々しいお方なのー!」「こっち向いたわー!」「ステキー!」「私に微笑んだわ!」「違うわ、私によ!」「ウホッ、いい美少年!」


「流石は殿下。大人気ですね」


「今、変なの居ませんでしたかニャ!?」


 黄色い大歓声に混じって何か変なヤツが居たと、恒興は民衆の中を探す。後で捕まえておかないと誠仁親王が危ないから必死に探すも見付からなかった。


「気のせいでしょう。それより来ましたよ。熊野の神官達です。先頭にいるのが熊野別当ですね」


(あれが熊野別当・堀内氏虎か。計画通りに出て来たニャー)


 誠仁親王の前に黒い神官服を着用した一団が現れる。その先頭には一際装飾が施された神官服を着た中年の男性がいる。山科言経はあの男性が熊野別当の堀内氏虎だと言う。それを船の上から眺めている恒興は計画の第一関門が終わった事を認識した。


「では我々も参りますので、上野介殿は配布の方をお願いします」


「お任せ下さいニャー」


 熊野別当・堀内氏虎に導かれ、誠仁親王の輿は進み始める。熊野の民衆は道の左右に分かれて、静かに一行を見守る。儀式の一部なので騒いではいけない事を熊野の民衆全てが理解している様だ。

 誠仁親王の輿に続き、家臣達も整列して付いて行く。恒興は施し品の用意を加藤政盛達に指示するのだった。


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【あとがき】


 ロマサガ2リマスター、ロマサガ3リマスター。面白過ぎるニャー。不朽の名作とこの事です。さてミンサガリマスターも買わねば……。

 佃煮もやらかした様ですニャー。べくのすけです。やらかしたニャー。……もう食べ物はファンタジーですからーで行きますニャー。べくのすけでした。


 晴「べくのすけのせいで源氏株が下がってるでおじゃる。何とかするでおじゃ!」

 べ「あ、細川晴元さん、お久しぶり」

 晴「ま、麿の必殺技『本願寺挙兵』がそろそろ起こるであろうから、細川晴元無双が始まるでおじゃるがな」

 べ「え?本願寺はまだ挙兵しないけど?」

 晴「何故でおじゃるか!?」

 べ「今、挙兵したら森武蔵ちゃんが長島に参戦出来ないじゃん。それに下間頼照さんだけで挙兵する訳がないよ、常識で考えてくれないかな」

 晴「では下がった源氏株はどうするのでおじゃ?」

 べ「株が低い人を上げればいい。という訳で、源義経さんの影に隠れているどころか押し潰されているくらいの存在感しかない源範頼さんの勝戦を紹介しよう」


 寿永3年(1184年)1月、源範頼は木曽義仲を討つ為に西進、先に近江国に行った弟の源義経に合流しようとしていた。しかし美濃国と尾張国の境目である墨俣に伊勢平氏が向かっている事を知り、開戦を決める。その軍議にて、源範頼は一大発表をする

「今回は私が先陣を切る!」

 軍議に参加した武将達は「何言ってんだ、コイツ?」としか思わなかった。そこで範頼のお目付け役として来ていた平千葉介常胤が苦言を呈する。

「蒲殿(源範頼)、そりゃいかんよ。お前さんは総大将なんだぜ」

 平千葉介常胤は源頼朝の父親である源義朝の代から仕えている古参中の古参。千葉県北部に勢力を持っていた。頼朝が石橋山の戦いで敗れ、安房国に逃れた際も一千騎近くを率いて迎えに行った。源頼朝が敗けたのに、直ぐに復活出来たのはこの千葉介が来たからだ。それ故に頼朝の信頼も厚く、範頼のお目付け役になったのだ。

「私はこの初陣で先陣を飾り、その誉れを兄上に捧げたいのだ!」

「いやいや、先陣ってのはまだ功績が少ない若い奴らの出世の足掛かりにするもんだ。それを総大将が奪っちゃいかんでしょうよ」

 千葉介は範頼に苦言を呈し、諸将も頷く。しかし範頼は憤慨してしまう。

「うるさいっ!黙れえぇぇ!」

「ぐはっ!?」

 範頼は怒りそのままに千葉介を殴った。諸将は驚き、範頼を直ぐに止める。

「私は源頼朝の弟、蒲冠者源範頼だ!私に逆らう奴は皆こうしてやる!」

 殴られた千葉介は無言で俯いていた。その様は怒りが爆発寸前だったという。

「千葉介殿、大丈夫ですか?」

「……軍議は終わりだ。また明日やるから全員戻れ」

 千葉介は即座に解散を命令する。まだ範頼がいろいろと騒いでいたが、全員無視して解散した。

 自分の陣に戻ると息子の常重が心配そうに声を掛ける。

「大丈夫か、親父?」

「あ?あんなヘナチョコの拳がワシに効くかよ」

「いや、親父がキレて範頼殿をぶち殺しかねんと」

「そんなガキじゃねえんだよ、ワシは!」

「でもどうするんだ、親父?範頼殿の先陣なんて認められないぞ」

「それな。もしも蒲殿が戦死なんてしたら、ワシは鎌倉殿に何て言えばいいんだ」

「鎌倉殿に伝えて止めて貰うとか」

「間に合わん。明後日には接敵する」

「じゃあ、もう力づくで押し込めるしかないよ」

「だよな。ワシ等が源氏の御曹司に手を出すとか問題になりそうだが」

 二人は最終手段である力づくで止めるを選択するしかなかった。後でどんな問題になるやらと、頭を抱えた。そんな時に一人の男性が二人の前に現れる。

「こんばんは、千葉介殿!足利家当主・足利義兼名代・山名義範、援軍を率いて只今参着しました!」

「おお、山名殿か!援軍ご苦労!」

 現れたのは新田義重の庶子、山名義範である。彼は新田家所属ではなく足利義兼の家臣の様な者。足利義兼が幼児の頃から付いている育ての兄というべき人物で、足利義兼と共に源頼朝に付いた安房国合流組である。父親である新田義重の制止を振り切ってまで足利義兼に付いて来た為、源頼朝からの信頼も抜群。頼朝は敵対した新田家は苛める一方で山名家は厚遇していた。

「そこで聞いたんですが、千葉介殿、蒲冠者に殴られたとか」

「そうなんだよ、聞いてくれ。蒲殿が先陣を切ると言って聞かないんだよ」

「は?総大将が先陣?頭でも沸いてんですか?」

「それでワシが諌めたらこの様よ」

「……それはそれは教育のし甲斐がありますね」

「山名殿、頼まれてくれないか。ワシ等が蒲殿に手を出したら大問題だ。しかし源氏の一門である山名殿なら」

「ええ、承りました。源家・義国流一族相伝の秘技を披露致しましょう」

「え?何それ?必殺技でもあんのか?」

「何、大した事ではありません。『言って分からない奴は肉体言語で理解らせる』。これだけですよ」

「やっぱ、お前の一族って頭おかしいぞ」

 次の日の軍議は粛々と進んだ。肝心の源範頼は無言で無表情、死んだ魚の目をしていたという。そして源範頼は初陣を勝利で飾った。因みに範頼には後で兄の頼朝から千葉介を殴った件で激怒の手紙が届いたとさ。


 べ「源平合戦が無双ゲーになったら範頼さんはプレイアブルキャラクターになれるかも?」

 晴「そんな訳あるかでおじゃあぁぁぁー!」


 平千葉介常胤は何故、源義朝の家臣だったのか。

 千葉介は千葉県北部に勢力を持った『関東八平氏』の一つ。そこには『相馬御厨』という非常に儲かる荘園があった。千葉介はその相馬御厨を守る為に周辺と日々戦い続けた。千葉介が戦いにうんざりしていた頃にある男がやってきた。それが南関東に勢力を築き始めた源義朝だった。

「千葉介、相馬御厨で揉めてるんだってな。それじゃ相馬御厨は俺が貰ってやるよ」

「何がそれじゃなんだよ!?ぶち殺すぞ!」

「そうかい。『言って分からない奴は肉体言語で理解らせる』。これが河内源氏の流儀だぜ!」

 こうして合戦となり千葉介は義朝にボコられた。

「もう止めてくれ!相馬御厨はアンタの物でいいから!」

「ようし、素直なヤツは好きだぜ。じゃ、相馬御厨の管理は任せた」

「は?アンタが相馬御厨を管理するんじゃないのか?」

「何で俺がそんな面倒くさい事をしなきゃならないんだ。出すもん出しゃ、後はお前の好きにしろ。あと俺が集合掛けたら即来いよ。遅れたら殺す」

「は、はいー!」

 千葉介がこれで心から家臣になった訳ではない。不都合があれば直ぐに裏切るくらいは考えていた。しかし源義朝は相馬御厨を攻撃された際には必ず援軍に来た。しかもクソ強い。上納金も相馬御厨の守り賃と考えれば妥当な範囲で、寧ろ平和を得られた相馬御厨は千葉介の経営により利益を増していた。なので千葉介は裏切る理由が無かった。

 その後、源義朝は南関東を席巻。そして北関東足利に本拠地を置く源義康(足利義康)と手を組む。それにより南関東の顔役は源義朝、北関東の顔役は源義康という体制が築かれ、関東に一時的な平和が訪れる。これをべくのすけは勝手に『関東源氏両輪体制』と考えている。この効果で関東の各所は著しい発展を遂げた。裏切る機会が無かった千葉介はこの恩恵をかなり受けて真面目に務めた結果、彼は源義朝の重臣格になっていた。上にライバル的な平上総介広常が居て多少気に食わなかった様だが。

 源義朝は朝廷に出仕を始める。朝廷での立ち回りは下手くそなので源義康が手伝う事で上手く行っていた。保元の乱の際は千葉介も源義朝と共に戦っている。

 しかし『関東源氏両輪体制』は突如崩れる。源義康が30歳という若さで病死したのだ。しかも跡継ぎの源義兼(足利義兼)はまだ3歳だった。義康は兄の源義重(新田義重)に後事を託した。義重は全力で義兼を養育した。この時に守役兼兄役兼教育係として付けられたのが義重の庶子・源義範(山名義範)である。義重は義兼を守る事に尽力したが朝廷に出仕した事はなく、源義朝を補佐するなど不可能だった。その為、源義朝は次第に朝廷で孤立し、平治の乱を起こして敗死する。この時、千葉介は領地守備で一緒には戦えなかった。そして関東は平家に降る事になる。

 平治の乱の後、権力を握ったのが平清盛。彼は一族郎党に国司の任を与えて関東に放った。国司とは守介掾目などの地方統治の官位役職を指す。これまでは上位の国司は在京していて現地には行かない為、現地豪族のやりたい放題なのを平清盛は問題視したのだ。平清盛は地方統治を進める為に平家の者達を派遣したのだが、平家の者達は勝者の特権と勘違いした。これが地獄の始まりだった。

 この国司は任期を設けてあった。すると平家の者達は任期期間に出来る限り絞り取ったのだ。何しろ任期が終われば国司は他人に変わるのだから、荘園が寂れようが餓死者が出ようがどうでもいいのだ。関東中は地獄と化した。

「義朝様に仕えていた頃はあんなに良かったのに、どうしてこうなったんだ。こんな事になるなら、都に行って義朝様と一緒に戦えばよかった。……そういえば、御曹司が伊豆に流されていたな。準備はしておくか……」

 そして以仁王の令旨を切っ掛けとして源頼朝は挙兵を決意する。千葉介の所にも参集要請が来た。

「いよいよか!今に見てろよ、平家のヤツラめ!で、御曹司の決起は何時だ?」

「え?頼朝様はもう決起なさいましたが」

「早すぎるだろー、御曹司!徴兵には時間が掛かるんだって!前もって連絡してくれー、報連相大事だよー!」

 源頼朝は平家の監視下であり軍事に関する教育を全く受けられなかった。その為、徴兵に時間が掛かる事すら知らなかった模様。結局、千葉介が兵士を集めている最中で、源頼朝はあっさり敗北。

「まだだ!御曹司は何処かに落ち延びたはずだ!」

「殿、頼朝様は安房国に落ち延びた模様です!」

「よっしゃー!迎えに行くぜ!」

 千葉介は頼朝の無事を聞くと軍勢を出して安房国へ向かった。だが彼の胸中は別の事もあった。

(御曹司、源頼朝か。アンタに義朝様程の器量があるのか?もし無いのなら覚悟して貰わなきゃな)

 この千葉介の考えは杞憂であった。面会した源頼朝は父親の義朝に適う、いやそれ以上だった。更に彼の隣には先に到着していた源義兼(足利義兼)が居たのだ。これを見た千葉介は確信した。関東に平穏をもたらした『関東源氏両輪体制』の復活を予期させるに十分だったのだ。そして千葉介常胤は忠臣として鎌倉幕府の重鎮であり続けた。






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