熊野行幸

 池田恒興と九鬼嘉隆が頭を抱えて、少し時間が経過した。お互いゲンナリした表情から変わらない。それくらい何も思い浮かばない。相手は大和朝廷成立以前から独立勢力として存在し続けているとかいう、最早神話の世界に片足突っ込んでいる様な者達だ。


「どうするよ、上野殿」


「熊野か。どうにか出来るんならさ、とっくの昔にどうにかしてる筈ニャんだよなー」


「だよなー」


 熊野が独立扱いになっている発端は『神武東征』だろう。ここから仮説を立てよう。この際、神話となっている『神武東征』の話は一切を考えない。結局のところ、神話は神話だからだ。

 まずは神武帝の出発地を日向国に固定しよう。彼は九州の集落の長だ。しかし九州は弥生時代から近隣で戦争ばかりだ。かの卑弥呼も積極的に戦争しており、捕虜奴隷を魏の国に贈ったくらいだ。神武帝の時も戦乱に塗れていただろう。しかし弥生時代の農業はまだまだ収穫が多くない、故に飢えと隣合わせだ。戦争と飢餓、たくさんの人々がまともに生きれなかっただろう。そして神武帝の集落も襲われるか敗けるかして追い出されたのではなかろうか。何れにしても神武帝は農耕民を引き連れて新天地を求める逃避行を始めた。しかし問題がある。そう、『海』があるのだ。九州から出るには海を渡らねばならない。なるべく陸地を行くにしても、弥生時代に安全な旅が出来る訳がない。つまり神武帝一行はすぐに『海』に出たと考えられる。となるとだ、それを可能とする者達は『海人あま』以外には考えられない。

 次に海人について考えよう。海人は稲作の伝来から日の本各地を舟で行き、開拓民となる者達も現れていた。しかし各地を開拓するのなら、必ず『拠点』があったはずだ。見知らぬ土地で一切の支援なく開拓とは、最早それは『サバイバル生活』に他ならない。ならば海人の拠点は何処なのか?

 まずは『北九州』。これは間違いない、大陸側にも接続しやすいからだ。海賊としてだが。そして対馬海流が通っているので、山陰、北陸、東北に接続し易い。しかし北九州の海人は神武帝に友好的とは考え難い。寧ろ、敵かも知れない。北九州の海人が味方なら神武帝は故郷を脱出する必要はなかった筈だから。弥生時代の海人勢力は陸上勢力にとっては万に一つも勝ち目が無いほど強大だ。

 北九州の海人ではないならばもう一つの海人勢力だろう。太平洋側である瀬戸内、土佐湾、伊勢湾、遠州灘、相模湾、と。この東西に長い辺りの開拓に向いている拠点は何処だろうか?それは中間と言える『熊野』だと考えられる。ここを拠点に各地の開拓をしていたのだろう。しかし彼等は海人だ、開拓も稲作もなかなか進まない。まだまだ開拓出来そうな土地はあるのに、と。そこで熊野海人は神武帝の情報を聞いた。彼がたくさんの農耕民を連れて新天地を探していると。熊野海人は早速にも神武帝を迎えに行った。こうして神武帝一行は海を越えて、熊野海人から大和国を紹介された。

 では何故、熊野海人は親切にも舟を出して大和国を紹介したのか?それは『お米が食べたかった』の一言だろう。その為に日の本各地を慣れないながらも開拓していたのだ。神武帝一行が大和国で稲作をしてくれれば、熊野海人は海の幸と交換でお米が手に入る算段が着く。これこそが熊野海人の最大のメリットだった訳だ。

 神武帝一行は新天地を手に入れ、熊野海人はお米を手に入れる。正にwin-winの関係が成り立っていた。そしてこの二者の物流に使われたのが現代の『紀の川』であり、紀の川を仕切った『葛城かつらぎ氏』は次第に天皇すら凌ぐ権力者となる。その葛城氏からは『蘇我そが氏』が派生し、物部もののべ氏と共に本家の葛城氏を潰す事になるのはまた別の話だ。

 何はともあれ、天皇家は熊野に対して友好国であるという認識をしており、支配下とはしなかった。記録上では平安時代の宇多法皇の熊野御幸が最古とされているが、その前から熊野行幸 (天皇の場合は行幸、上皇や法皇の場合は御幸となる)はあった筈だ。特に斉明天皇は可能性が高い。彼女は出身が伊勢国で実家が熊野に近く、自分の息子に『大海人おおあま』と名付けるほど海人と親しい。その様に熊野は天皇家から特別扱いされ、熊野も大和朝廷を仲の良い隣人と認識していた。

 時は流れて、鎌倉に武家政権が誕生した。日の本統一を果たした源頼朝は熊野という外つ国の存在を許すだろうか?答えは『あっさり認めた』。というのも、この時期は頼朝の弟である源義経が畿内を逃げ回っており、彼が熊野水軍に匿われたら大惨事になる。『味方に居たら負けフラグ』こと源行家は義経と組んでいたので、熊野に行く可能性は高いとされていた。行家の姉が熊野別当家に嫁いでいたからだ。なので頼朝は先手を打って熊野の権利を全て保証した。自由を得た熊野水軍は堂々と海賊行為に勤しんだという。特に伊勢平氏の居る伊勢国に盛んに進出したとか何とか。因みに熊野は源行家を普通に見捨てた模様。

 その後、足利幕府軍は熊野制圧に向かったものの、和歌山県印南町辺りまでしか進めなかった様だ。海に出れば水軍の餌食になるから、陸地から進める限界だった模様。

 しかし熊野水軍が海賊行為に勤しんでいるのに、仲の良い隣人とはどういう意味だ、と思うかも知れない。そこは見解の相違というものだ。熊野にとって仲の良い隣人とは天皇家と朝廷の事であって、武家や民は含まれていないのだ。だから海賊行為をしていても、天皇家や朝廷とは仲が良いよと言っている訳だ。まあ、『国』や『領土』という概念を理解していない感じだろう。和歌山県西部を占領されても何も思わない模様。


「流石の上野殿でも良い案は浮かばんか。何しろ『まつろわぬ者達』の最大勢力だもんな」


「まつろわぬ者達、ね。日の本との境界線でまつろわぬ者達。言葉も文化も経済も日の本のくせに、自分達は日の本ではない外つ国だと言い張る。ケッ、ニャに言ってんだ、テメエらって感じだけどニャー」


『まつろわぬ』とは『まつろう事を拒否する』、『まつる』とは『服従する』という意味がある。つまり遥か昔から服従する事を拒否し続けている者達という事だ。言葉、文化、経済と日の本と同じ物を使いながら、自分達は日の本ではないという態度に恒興は悪態をつく。日の本の物を多数使っておきながら外つ国を謳っているのが気に入らないのだ。


「ま、奴等は日の本の支配ってもんを受けた事は無いからな」


「しかし熊野水軍にも支配者は居るはずだニャ。なら交渉の線で考えよう。誰かしら交渉出来ないかニャ?」


 熊野水軍と戦っても勝ち目は無い。なら戦わない事だが、それでは何も守れない。戦わずに守る方法は交渉となる。ある程度の譲歩をして友好を結べれば御の字といったところか。

 だが九鬼嘉隆は直ぐに首を横に振る。


「熊野水軍にか?無駄だから止めとけ」


「ニャんで?」


「実は纏まってはいないんだわ、アレ。個々別々に動いていて、水軍って呼べる程の組織じゃないんだよ」


「は?それで強いのかニャ?」


「侵略者に対しては全員が団結するからな。普段は別々に行動してて、たまに徒党を組んで襲って来るんだ」


 熊野水軍は一般に想定される様な組織形態をしていない。個別のグループが無数にあり、普段はバラバラに行動している。海賊行為をする場合は幾つかのグループが勝手に連合して動く。グループの長とグループに所属する水夫しかいない。これが無数にある。つまり全てが個人であり、どの水軍に交渉しても熊野水軍全体の意思決定には繋がらない訳だ。


「ニャにそれ……。じゃあ交渉先も無い訳?」


「無い訳じゃ無いんだが。あそこは難しいだろうな」


「何処だニャ。まずは言ってみ」


 熊野水軍の組織形態は一般的なピラミッド型組織ではなく、頂点の下に全グループが並列に並ぶほうき型組織になっているのだ。なので頂点は存在している。ただ、九鬼嘉隆は交渉するのは難しいと顔を曇らせる。


「『熊野大社』だ。とりわけ熊野水軍に影響力があるのは熊野速玉大社に本拠を置く『熊野別当』の堀内氏虎だな」


「『熊野別当』って……熊野大社を仕切ってるって事じゃニャいか!?」


 熊野別当とは熊野大社の責任者であり代表。熊野の祭事神事を取り仕切り、熊野の民の崇敬を受ける人物。熊野の神官を纏め、熊野の全てに影響力がある支配者と言って良い。熊野の王か?と問われれば、そうとも言い切れない。まず別当職は絶対世襲ではない点があり、民衆の支持が必要な点だ。ある程度、民衆側にも権利があり、無茶ばかり出来る訳ではない。現代で言えば、『総理大臣』と思ってくれれば良い。あくまで熊野の代表だ。


「そうだぞ。熊野における祭事神事を取り仕切ってる。日の本で言えば天台座主とか興福寺別当とか、そういう位置に居る。気位も相当高い。交渉出来そうか?」


「聞いといてニャんだけど無理だわ。もうソレ、お公卿様の最上位くらいだから」


「う〜ん、分からんが公卿なら交渉出来たりするかもな」


 熊野別当となると日の本で言えば、天台座主や興福寺別当などの宗教的権威と同列と言える。熊野は修験道の聖地という事もあり、熊野側もそういう認識をしている。熊野別当と交渉出来るとすれば上位の公卿以上の身分と肩書が必要になるだろう。簡単にホイホイと会える人物ではない。


「それなら北畠家に仲介して貰えば何とかなるかニャー?」


「無理無理、止めとけ。俺が産まれる前だが、北畠家と熊野水軍は戦争してるんだ。だから両者は険悪なままだぞ」


 それなら北畠中納言具教に頼めば何とか出来るかと恒興は思ったが、九鬼嘉隆は即座に否定した。どうやら北畠家と熊野は以前に戦争しており和解はしていない様だ。


「マジか。ニャんで北畠家と熊野がぶつかったんだニャ?」


「熊野水軍は海賊だ。海上で船を襲い物品を奪う。または海岸沿いの町を襲い奪う。昔はこれで良かったんだ。しかし日の本の貨幣経済が成熟してくると状況は変わった。食い物なら食えばいいが、装飾品や貨幣だったらどうすんだ?」


「売ればいいニャー」


「何処で?熊野で経済が完結してると思うか?」


「ああ、分かったニャ。それで売り先を確保しようとして北畠家とぶつかったのか」


 熊野水軍が一番に困るのは略奪品の売買である。何しろ売り先が無い。熊野が経済的に発展しているなら話は別だが、そんな訳はない。山深く他所との交流も乏しく、沿岸にへばりつく程度の農地しかない場所が発展している筈はないのだ。

 だから略奪品が食料であれば自分達で食べればよいが、食べれない品物はそもそも扱いに困る。熊野で売れる訳もなく、売るなら日の本側になる。それで「正義の体現者たる北畠家が許さぬ!」(意訳・うちのシマを荒らしてんじゃねーよ!)という感じでぶつかった。


「そういうこった。因みに結果は熊野水軍を追い返したものの志摩水軍はボコボコにされた。ま、そんな経緯もあって、志摩水軍は反北畠家思想が根付いていた訳だが」


「使えねー、剣豪大名マジ使えねーニャー」


「いや、北畠具教より前だと思うぞ」


 当然、熊野水軍と戦うのは志摩水軍でありボコボコにされたのだが、志摩国近くに拠点を造るのは阻止した。志摩水軍は被害甚大だが北畠家そのものは大した被害は無い。そして戦に対する志摩水軍への報酬も少なかった事から、北畠家に不満を持つ者が増えた。そんな経緯もあったから、志摩水軍はあっさり織田家に鞍替えしたのだ。


「ま、そんな訳で略奪品はなかなか売れず、熊野の食料事情は昔から悪いんだ。俺の先祖も脱出するくらいにな」


(ニャるほどな。熊野は賄える人口を超えてるって事だニャー。これは交渉材料になる。食料援助?いや、それは愚の骨頂か。一時凌ぎしかならニャい。自分達の食い扶持は自分達で何とか出来る様にならんとニャー)


 恒興は熊野の食料事情と経済事情が悪い事を知り、コレを交渉材料にしようと考える。最初は食料援助を考えたが、それは悪手だと取り下げる。即物的援助というのは緊急事態でないと意味を為さない。食料など食べてしまえば終わりだ。それよりは長期的援助によって自立出来る様に計らうべきだ。でなければ、熊野の危険性が永遠に取り払われない。腹が減ったから襲ってくる、では恒興の頭痛の種がいつ迄も消えない。

 交渉材料は有る、あとは交渉人の問題だ。


「それなら山科権大納言言継卿に依頼するかニャー。縁も名目も無いだろうけど」


「大丈夫かよ、それ」


「ま、言ってみるだけ言って……ん?」


 恒興は交渉人に山科言継をと考える。権大納言という役職を持つ従二位という高位の公卿。とはいえ、何の関わりも無い熊野に対して交渉出来るかは不明。とりあえず言ってみるかと考えた恒興は突如閃く。


(そうだよ、それだよ!ニャんで今まで思い付かなかったんだニャー!山科卿だよ!ニャーはあのおっさんの謀略に嵌められたんだ!)


 恒興の閃きは山科言継に何を謀られたのか、だ。自分は上野介の官位を貰う時に何をされたか。それを思い出したのだ。


「ニャはは〜。ニャー、思い付いちゃったニャー。そうだよ、コレがあったじゃないか。ニャはははは」


「どうした?何かあるのか?」


 突然立ち上がりニヤニヤしながら笑う恒興に九鬼嘉隆は怪訝な顔をして尋ねる。そりゃ、さっきまで悩み続けていた人間が満面の笑みで笑い出したら気味が悪いだろう。


「ニャーは『上野介』なんだよニャー」


「知ってるよ。それがどうした?」


「じゃあ、これは知ってるかニャー?上野介には上司に『上野守』が存在するんだ。そして現在の上野守は誠仁親王さねひとしんのう殿下ニャんだよ」


 そう、上野介の上司には『上野守』が存在する。上野国は親王任国であり、皇族以外は上野守に就任出来ない。そして山科言継の謀略により上野守に就任したのは正親町帝の嫡子である誠仁親王であった。山科言継は池田恒興を誠仁親王の金蔓にしたのである。


「誠仁親王……殿下?」


「正親町帝の皇太子だニャ。やるぞ、『熊野行幸くまのぎょうこう』だ!これなら堀内氏虎は出て来ないと格好がつかニャい」


 誠仁親王は現在11歳。朝廷の財政難の為、親王宣下の儀式も行っていなかったが、織田信長が上洛して朝廷に資金提供したので親王になれた。立太子の儀式はまだ行われていないので正式な皇太子ではない。しかし正親町帝に他の男子がいないので、既に周りから皇太子扱いされている。『春宮』『東宮』『太子』と呼ばれる事もあるが、一般的には『殿下』と呼ばれる。

 当たり前だが上野介は上野守に会える。恒興の計画は誠仁親王に働き掛けて『熊野行幸』を実現する事なのだ。『行幸』とは天皇が皇居を出て各地を訪問する事である。また、上皇や法皇、女院の場合は『御幸』と呼称する。熊野行幸で熊野別当が出て来ないなど有り得ない、必ず堀内氏虎は出て来る。


「熊野行幸だとぉっ!!?帝を動かせるのか!?」


「チッチッチ〜、いきなりは無理だろうニャー。だから親王殿下に先触れとして熊野詣を行って貰うんだニャ。亀山上皇の最後の熊野御幸より300年あまり、熊野は皇族の熊野詣に飢えている筈だ。今はこれだけでも十分だ。九鬼殿は何とか熊野の縁者を探し出して、この事を伝えてくれ。噂でも聞き付ければ堀内氏虎は必ず出て来るニャ」


「わ、分かった!」


 天皇の行幸は現実的ではない。ある理由があって、行幸は平安中期から殆ど行われていないのだ。その代わり上皇や法皇の御幸は増加した。

 しかし現在は上皇も法皇も存在しない。その為、誠仁親王を説得して熊野詣をして貰おうという事だ。正親町帝の行幸に備えて、という名目で。

 九鬼嘉隆には噂として誠仁親王の熊野詣を報せて貰う。組織としての交流は無くても、個人単位での交流はある。個人取引している熊野の水夫に噂を持ち帰って貰えばよい。指示を聞くと嘉隆は返事をして直ぐに部屋から出て行った。

 そして恒興も部屋から出て叫ぶ。


「政盛ーっ!」


「はっ、お呼びでしょうか、殿」


「上洛するニャー!上野介として誠仁親王殿下に会見する。お前は親王殿下に上貢の品を用意しろ!」


 恒興は加藤政盛を呼ぶと、誠仁親王への上貢の品を用意する様に指示を出す。上司だから簡単に会えるだろうが、流石に土産無しで会える相手ではない。


「は、はい!如何程の品を用意致しますか?」


「一千貫相当だニャ!」


「皇族の方に贈る品物ですと用意に2、3日掛かります!」


「急げニャ!」


「ははっ!」


 上貢の品は一千貫相当。品物も適度に貴人向けの物を用意しなくてはならないので、準備には2、3日掛かる。恒興は政盛に急ぐ様に言うと、自分も上洛準備に走った。


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 恒興は京の都に上洛すると、前もって予約を入れておいた誠仁親王に面会する。誠仁親王の住まいは禁裏(皇居)の近くである。禁裏だと恒興は入れないので助かったと安堵した。


「お初にお目に掛かります、親王殿下。池田上野介恒興に御座いますニャー」


「忙しいだろうによく来てくれた、上野介。山科権大納言から話は聞いている」


 部屋で待っていたのは礼装を整えた高貴な少年。誠仁親王11歳である。少年という年齢に反して、物腰柔らかで大人びている。

 恒興はこの誠仁親王について前世の記憶を辿る。恒興は織田信長の随伴として彼に会った。話した事は無いが。会った当時の歳は16、7だと記憶しているが、朝廷の財政難により誠仁親王は親王宣下を受けられずにいた。織田信長は即座に資金提供を申し入れ、親王宣下の儀式が開始され、彼は正式に親王となった。

 その時からだろうか、誠仁親王は織田信長に気を掛け、彼が朝廷内で孤立しない様に味方をし続けた。正親町帝は度々、織田信長の要請を無下にする事があった。それは周りの放言大好き公家達から有る事無い事を吹き込まれるのが原因であった。そういう時に誠仁親王は織田信長に謝罪の手紙を送り、放言大好き公家を叱り、正親町帝に意見をしたという。更には織田家と本願寺の和睦を取り持ち、本願寺法主の石山退去も説得した。誠仁親王は終始、織田信長の味方であり続けた為に、本能寺の変の際には明智光秀に捕らえられた。その光秀に毅然と「自分は腹を召すべきか?」と尋ね、光秀に味方しない意志を明確にしたという。その後、誠仁親王は釈放された。

 恒興は誠仁親王が勤勉で聡明、しかも織田信長の味方であり続けた事を思い出す。そして今世でも信長は即座に資金提供しているので、誠仁親王は親王宣下を既に受けている。織田家への好感度はそれなりに有る筈だ。ここで一気に誠仁親王を織田家の味方に付けよう。気合いを入れる様に恒興は思った。


「御挨拶が遅れ大変失礼致しましたニャー。あ、こちらは上貢の品物の目録になります。御付きの方に渡しておきますニャ」


「上野国にはまだ致っていないと聞いているがよいのか?無理は禁物ぞ」


 恒興は品物の目録を見せて、他の家人に渡すと言ってまた懐に仕舞う。流石に手渡しは無礼に思われると警戒しての事だ。まあ、大名でも書状は小姓が受け取るものだし、作法と見てもいい。一応、公式の場では、という条件は付くが、相手は親王なので儀礼は重んじる。


「御心配有難き幸せに御座いますニャー。ですが無用に願います。それよりですが、殿下は熊野について如何思いますかニャ?」


「熊野?うむ、どうと言われても、な。行った事が無いのだ」


「そうで御座いましょうニャ」


 恒興は素早く本題に入る。親王相手に世間話をしている訳にもいかない。時間は限られていると見た方が良い。

 なので熊野についての印象を聞いてみるが、誠仁親王は少し返答に困った風で行った事が無いと答える。ま、これは恒興の予想通りだ。


「上野介が既知か分からぬが、朝廷はずっと財政難でな。私は京の都から出た事も無い。帝もご同様であらせられる」


 朝廷はずっと財政難であった。足利幕府からは上納をケチられ、諸大名の献金も幕府にばかりだった。諸大名が官位欲しさに朝廷へ献金してくれる様になったのは、その実ごく最近の事で山科言継が各地の大名に促したからなのだ。信長の父親・織田信秀の所に山科言継が来たのも、その一環だ。それでも足利幕府による中抜きで雀の涙ほどしか届かなかった。正親町帝が自分の息子の親王宣下も出来ない程だったのだから。

 そんな状況で旅行など出来る訳がない。これは恒興も予想済みである。つまり、誠仁親王は京の都を出た事すらない、と。ここで恒興は大仰に嘆く様を見せる。


「おおお、おいたわしや。何と言う不幸であらせられますか。帝が此れ程の理不尽に遭われておられるというのに、武家の者共は素知らぬ顔で戦ばかり。誠に嘆かわしい限りですニャー」


「そう言ってくれるか、上野介」


 恒興は武家の不義を訴え、帝は理不尽な目に遭っていると主張する。自分も武家であるという事は置いといて、本気で嘆いている振りをする。大袈裟な演技ではあるものの、誠仁親王は恒興が朝廷の味方をしているのは嬉しい様だ。


「しかし日の本の戦乱は未だ鎮まらず。帝の御心痛は如何ばかりか。そこでニャーは考えたのです。帝の御心を少しでも晴れやかにする為にも『熊野行幸』など行っては如何でしょう?」


「『熊野行幸』!?それは可能なのか?」


「勿論で御座いますニャー。亀山上皇の『熊野御幸』より既に280年を数えます。いにしえすめらみことや平安鎌倉期の上皇法皇女院様方が愛し足を運ばれた熊野の地。それなのに足利幕府が出来て・・・・・・・・以来は一度も行われず・・・・・・・・・熊野の民草は悲嘆に昏れておりますニャー」


「それは……」


 熊野行幸は遥か昔から行われている。ただ記録上では平安期からしかないので上皇や法皇、女院の熊野御幸しかない。最新の熊野御幸は亀山上皇のもので、今から280年程前になる。その頃は『元寇』があった時期で、鎌倉時代後期となる。その後は皇族による熊野詣は行われていない。元寇以降の鎌倉幕府は財政難だったので無理だろうが、時代が室町時代に移っても熊野詣は再開されなかった。足利幕府は殆ど旅費を出さなかったからだ。

 恒興は『足利幕府が出来て以来は一度も行われていない』という所を強調した。それは暗に幕府批判とも取れる発言だ。

 誠仁親王であっても驚いて言葉を詰まらせる。彼は心の何処かで思っていたのだ。池田恒興も所詮は武家である。その恒興が幕府に逆らってまで朝廷の、帝の味方はすまい、と。期待をし過ぎてはならない、と。


「ならば誰がおやりになられますか!?何時おやりになられますか!?今この時を好機と捉えるべきですニャ!幕府に力無く、織田弾正忠の威勢が強まっているこの時こそ、古の権威を復活させる時と心得ますニャー」


「待て、上野介。お前の気持ちは嬉しいが、あからさまに幕府に反抗する様な発言は控えた方がよい」


「ご心配には及びませんニャー。この池田上野介恒興、幕臣などでは決して御座いません。しかして、この身は朝臣あそんに御座いますれば、帝の御為を思いこそすれ、幕府の命に伏す義理を持ちませぬ。これは我が主である織田弾正忠も同じに御座います。幕府が動けないうちに、いろいろと取り戻しましょうニャー」


 誠仁親王は慌てて周りを見渡す。こんな事を放言大好き公家の耳にでも入れば何を噂されるか分からない。一応、信用出来る家人以外は居ない筈であるが。

 しかし、恒興はあくまで強気で幕府に何を言われようが構わないと豪語する。自分は朝臣であり幕府の犬ではない、と。そして織田信長も一緒であるとも。だから自分達と一緒に朝廷の権威を取り戻そうという論法である。


「確かにお前の言う通りかも知れぬな。しかし、現実問題として帝の行幸は難しいだろう」


「で御座いますニャー。帝はお忙し過ぎます。正に藤の蔦が絡まるが如し」


「ふふ、上野介の舌鋒も鋭さを増すばかりだな」


『藤の蔦が絡まるが如し』と発言した恒興を、誠仁親王は鋭い舌鋒と評した。この言葉が示しているのは『藤原氏の呪い』という意味であり、指しているのは藤原道長の事だからだ。

 藤原道長はご存知、『摂関政治』を始めた人物で平安中期の公卿。彼は摂関政治を展開し朝廷権力を極め、藤原氏の最絶頂期を到来させた……と勘違いしていないだろうか?実は摂関政治などしなくても藤原氏は既に最絶頂期であり、寧ろ摂関政治のせいで藤原氏は奈落へと落ちていくのである。

 では藤原道長は何故、摂関政治を始めたのか?それは『天皇から権力を剥奪する』為である。ただこれだけである。藤原道長は天皇に権力と権威が集中しているのは危ないと感じていた。このままだと天皇が大きな失政を犯した場合、権力の座から引き摺り降ろされ権威も失墜する。また権力と権威を兼ね備えた天皇位が魅力的過ぎて、皇族によるクーデターも起こると予期していたのだ。だから天皇位には権威はそのままで権力だけを剥奪する事にした。そして天皇のスケジュールを朝から晩まで365日を朝儀や公務で埋め尽くし、忙しくて政務に関われない様にしたのだ。こうすれば失政を犯しても権力者を処罰すれば済むし、天皇位の魅力も半減しクーデターを起こしてまで取る意味も無くなる。そして天皇の権威は損なわれない。これが藤原道長の呪いである訳だ。その為、帝は毎日の様に予定が詰まっている為平安期から鎌倉期に熊野行幸は行われず熊野御幸のみとなっている。

 まあ、藤原道長が亡くなると摂政関白の座を巡って藤原氏同士の争いが始まり、そのどさくさの間隙に白河法皇の院政が始まってしまう。そして藤原氏の最絶頂期は終わりを迎えた。という顛末だ。


「ニャはは、これは失礼を。ニャーが愚考致しますに、まずは殿下が熊野詣を行うのはどうでしょう?」


「私がか?それは如何なる存念か?」


「現帝であらせられる正親町帝が熊野行幸をと考えますと、上皇位にお登りになってから熊野御幸にすべきと考えますニャー。しかしそれには時間を要します。その間、熊野の民草は悲嘆に昏れ続け、更に幕府が力を取り戻し干渉してくるやも知れません」


「うむ、そうだな」


「故に今のうちに前例を作っておくのです。その為に熊野行幸に備えとして殿下が熊野詣を行うのです。そうすれば何れ行われる熊野御幸は以前より計画していたと干渉に対する反論になると考えますニャー」


 正親町帝の熊野行幸は前述の通り、忙しいので難しい。やるとすれば、正親町帝が上皇になってから行く事になる。だが、それでは熊野行幸が何時になるのか分からない。なので誠仁親王に先に行って貰い、正親町帝の熊野行幸に備えようという事だ。

 また、幕府が力を取り戻すと、正親町帝の熊野行幸に干渉してくる算段が高い。これまでの足利幕府の朝廷へのやり様を見てきたからこそだ。足利幕府は皇族を利用こそすれ、尊重する気は無いのだ。


「理に適っているな。私としても吝かではない。しかし朝廷の財政を考えると」


 誠仁親王は自分が熊野に行くという案が恒興から出されると明らかに明るい表情になった。それはそうだろう、この少年親王は何処にも旅行した事が無いのだ。嬉しくない訳がない。だが、その熊野詣に掛かる費用を考えると顔を曇らせる。


「案ずるに及びませんニャー。今回の熊野詣費用は全て、この池田上野介恒興にお任せ下さい。万難を排し、殿下に一切のご心労をお掛けしませんニャー」


「よいのか?」


 恒興は朝廷に一切の金銭的負担を掛けないと約束する。それを確認すると、誠仁親王の表情はぱあっと明るくなる。やはり行きたい様だ。


「はい。それにですが、熊野行幸を行う前に一度視察は必要ニャのです。それを殿下の熊野詣と重ねるつもりです」


「それは何故なにゆえか?」


「熊野行幸は熊野にとっても280年振り。仕来たりを識る者はおらず、過去の記録や文献をひっくり返して調べる事になりましょう。いざ熊野行幸としたところで不備が有れば熊野側は大恥で御座います。殿下の熊野詣は過去を再現する為に必要な先触れとお考え下さいニャー」


「成る程、その様な存念か。確かに熊野別当に恥を掻かせるなどあってはならぬ。ならば私と共に神祇官かんづかさから一人、式部省のりのつかさから一人、あと十数人の内舎人うちとねりを連れて行こう。調整する故、後に連絡する」


「はっ、承りましたニャー」


 恒興は皇族の熊野詣は280年ぶりとなる。熊野側でも仕来たりや儀式を忘れている可能性がある。だから誠仁親王が先に行って、お互いに過去を取り戻す必要がある。恒興はそう主張する。

 誠仁親王も頷き、神祇官、式部省、あと十数人の内舎人を連れて行くと言う。神祇官は儀式や神話を保管する部署。式部省は様々な記録をつけ、過去の記録を保管する部署。内舎人は護衛である。


神祇官じんきかん式部省しきぶしょう。神話と記録の両面から照らし合わせるつもりだニャ。誠仁親王は聡明にして勤勉という評価は的を射ている様だ。……しかし、『謀略』ではニャーの方が一枚も二枚も上手。そりゃそうだよ、ニャーの人生経験値は50歳を超えてんだから。この程度の誘導は造作もない。ニャハハハハハ……ハッ!?)


「……」


 恒興は勝利を確信した。いくら誠仁親王が優秀と言えども、『謀略』において恒興に勝てる訳がない。何しろ恒興の年齢的経験値は50年を超えているのだ。11歳の少年が優る様なヌルい人生は送っていない。熊野は皇族の熊野詣に飢えている、少年親王は旅行に行きたい、金銭的問題は恒興が解決する。全ては計画の内なのだ。

 自然と顔が綻ぶ恒興。他人から見れば邪悪そのものな表情だっただろう。それを誠仁親王にジッと見られているのに恒興は気付いた。


「あ、あの、殿下、何か御座いましたかニャー?」


「いや、面白い顔をしているなと思ったまでだ」


「いやー、ニャーも嬉しさが溢れてしまい、どういう顔をしていいやら判らず……ニャハハ」


「ふふふ、おかしな男だ」


「見苦しい物をお見せしてしまいましたニャー」


(……珍獣を見る様な目で見られてしまったニャー……)


 自分の悪い癖が出てしまったと恒興は猛省する。謀略は悟られたら失敗する。今回は誠仁親王に珍しがられただけで済んだが、気を付けなければと思う。笑うのは謀略が成功した後にすべきなのだから。


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 熊野。

 熊野速玉大社がある神宮の湊に大型の軍船が集結している。激しい風と波を物ともせず、次々と船はやって来る。それを遠くから眺める男がいる。熊野別当の堀内氏虎である。


「ふむ、軍船いくさぶねは集まりつつあるか。そろそろ攻勢を開始せねばな」


 集結してきた軍船を見て氏虎は言う。今回の攻勢は過去数百年の中でも最大規模となる。故に失敗など絶対に許されない。

 そう決意を固める氏虎の下に一人の若者がやって来る。


「父上、た、大変です!」


「どうした、氏善。堀内家の跡取りが取り乱すなどみっともない」


 やって来たのは堀内氏虎の嫡子である堀内氏善である。急いで来たのか、多少慌てて報告する氏善を父親の氏虎は嗜める。


「それどころではありません!まだ噂なのですが、誠仁親王が熊野を詣でられるとの情報が!」


「な、なんだってーっ!!?誠仁親王と言えば今の皇太子ではないかーっ!!あ、わわわ、えらいこっちゃえらいこっちゃ」


「父上、取り乱さないでください」


 氏善の報告から誠仁親王の熊野詣が伝えられると、氏虎は跳び上がらんばかりに驚く。そして誰よりも慌てふためく。直前に取り乱すなと言っていた父親が取り乱す姿に、氏善は反撃と言わんばかりにツッコミを入れておく。


「オホン、で、噂の出処は?」


「志摩水軍です。なんでも正親町帝の熊野行幸に備えての視察も兼ねているとか」


「そうか。では氏善、まずは噂の真偽を確かめよ。日程の辺りは特に」


 落ち着いた氏虎はまず噂の真偽を確かめる様に指示を出す。熊野水軍の中にも個人レベルで志摩水軍と交流している者はいる。その者に真相を探らせる訳だ。というか、交流している者がいるから噂が流れて来た訳だが。


「はい、分かりました。しかし父上、もうすぐ志摩水軍への攻勢が始まるはずですが」


「止めさせろ!戦争など起こしたら親王が熊野に来なくなるだろ!」


「はい、即時中止を伝えます」


 氏虎は大規模攻勢の中止を決める。流石に戦争などしたら誠仁親王は熊野に来るのを止めるだろう。考えなくても分かる話だ。


「あと過去の記録や文献から儀式、仕来たりなどを詳しく調べるのだ。なるべく再現しなければならん」


「はっ、直ちに行います」


 更に過去の熊野御幸に関する記録や資料を確認する様に指示。流石に280年ぶりとなる熊野御幸を覚えている人間など、この世に存在しない。記録や資料から掘り起こすより他はない。

 指示を確認すると氏善は直ぐに走り去った。湊に向かった様なので、まずは水軍に中止命令を出しに行ったのだろう。


「こうしてはおれん、私も語り部の婆様の所に行かねば!もしかしたら過去の熊野御幸の内容を語り継いでいるかも知れん」


 堀内氏虎は一人、小躍りしている様なステップでその場から去った。心は弾み浮かれながら、昔を語り継ぐ老婆の元へ行ったのだ。

 何故、堀内氏虎がここまで浮かれるのか?その理由は今回の攻勢にも密接に関係している。それは財政難である。熊野全体が儲かっていない状態で熊野の民衆の不満が溜まっているのだ。そして民衆の支持を失えば分家の者に別当の座を脅かされる。つまり堀内氏虎は熊野別当の座を守れるかの瀬戸際にいる。だから今回の攻勢に関しては中途半端に終わる気はなかった。志摩水軍の撃破、最低でも志摩国の近くに拠点を築くつもりだった。瀬戸際にいる氏虎はそこまでやらねばならなかった。

 しかし、追い詰められた氏虎に突然降ってきた『皇太子の熊野詣』は正に奇跡と言ってよい。過去の事例を見ても皇族の熊野御幸は熊野の民を熱狂させた。それ程のパワーがあるのだ。これは天皇家による古からの積み重ねである。天皇家は熊野を優遇し続け尊重し続けた。決して裏切らない天皇家の行いに熊野の民は感激し、まるでアイドルに熱狂するファンの様になっていた。皇族が来る度に熊野の民は熱狂し、熊野御幸を取り仕切る者を尊敬した。

 即ち、堀内氏虎が熊野御幸を仕切れば熊野の民は彼こそが熊野別当に相応しいと認識する。誰も彼の座を脅かせなくなるのだ。それなら無理して戦争などする必要は無い。だいたい万が一、攻勢に失敗でもすれば、それこそ氏虎の立場は無くなる。

 誠仁親王の熊野詣を成功させれば、堀内氏虎は冒険的な挑戦をしなくていい。財政難に関しても猶予が出来る。それに熊野御幸の際に皇族はたくさんの貢物を持って来て、熊野の民に施すのが慣例となっている。正にお祭り状態、一時的にしろ熊野の経済は上向きに転じると予測出来る。これが堀内氏虎を小躍りさせる程の行事『熊野御幸』である。


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【あとがき】


 前回の訂正・『まつろう事を止めない』→『まつろう事を拒否する』ですニャー


 恒興くんの腹芸回となりますニャー。目的の為なら嘆く振りくらいお手の物主人公の池田恒興くんですニャ。


 秀吉さんが死去してようやく家康さんの『どうする』の連続が来るかニャーと思いましたが、そんな事は無かったニャー。黒田長政さんに嫁を出す話がサラッと終わって拍子抜けしてしまいました。長政さんは蜂須賀家から嫁さんを貰ってたんですが、家康さんが知らずに婚姻話を持って行ったんで、長政さんは嫁さんを追い出しました。「徳川家から嫁貰うから、お前は実家に帰れ」と。当然、蜂須賀家政さんはブチギレ。蜂須賀家とも婚姻を狙っていた家康さんは大いに困ったという「どうする、家康」ポイントだったのですが。何か巻き展開で足早でしたニャー。残念。

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