織田信長でもお母さんには勝てない
尾張国那古野城主の林佐渡守秀貞は京の都に滞在している主君・織田信長に会いに来ていた。濃尾勢の問題もあるので、報告がてら相談しようと思ったのだ。信長が京の都にばかり投資しているので、釘を刺しにきたとも言える。
しかし林佐渡が来ると、信長は自分の相談からし始める。畿内の状況はまだまだ定まらない、政情不安定というヤツだ。特に問題なのが、織田家に従うと決めた大名や豪族でも内部は織田家派と敵対勢力派で割れている事だ。摂津国辺りは酷く、三好家派が多数の武家は多い。その最たる例が『摂津池田家』である。
「摂津国に池田家があるんだ」
「知ってるよ。恒興の大元の武家だろ」
『摂津池田家』はご存知、池田恒興の大元と言える武家である。まあ、離れてからかなり経つので何も関係無いくらいなのだが、これでも関係有るとされるのが『家名』の凄さである。恒興は祖父より前には遡れなくなっているのに、摂津池田家発祥というだけで『摂津源氏』であると確定している。因みに、後に徳川幕府から家系図を提出する様に言われた池田家は「うちは池田恒興から始まったっス」と回答したという。
「そこの家中が内紛気味でな、恒興を介入させようと思うんだ」
「恒興を?」
「ああ、他のヤツより正当性が有るしな」
摂津池田家の現当主は池田筑後守勝正。彼は家督を継承したばかりであり、これに対し三好派と見られる池田二十一人衆などの家臣団が弟の池田知正を擁立し、更に荒木村重や中川清秀などの大豪族も同調しつつあると報告されている。特に荒木村重は摂津池田家先代の娘を娶っている親族衆で勢力も非常に大きく危険とも言える。何故こうなったかと言えば、勝正が重臣を何人か殺しているからだ。家督相続時には有りがちで、当主就任反対されたとかの理由だろう。これは完全に悪手であり、摂津池田家中は知正擁立で固まろうとしている。勝正が織田派なので、知正は反対の三好派になるという事だ。
信長としては摂津国で大規模な内紛など手痛い打撃になるので、池田勝正に恒興の後援を付けて収めさせようという魂胆だ。恒興が勝正を傀儡にする、恒興が摂津池田家を乗っ取るなどの手法も有りよりの有り。要は摂津国が治まれば信長は問題にしない。
「そこで一時的に恒興を摂津戦線に投入しようと思……」
「恒興は止めろーっ!!」
「な、何だよ、佐渡。何怒ってるんだ?」
この摂津池田家を収める為に恒興を摂津戦線に送ると話す信長。その提案に林佐渡は我慢の限界が来たのか、思い切り叫ぶ。そう、我慢の限界が来たのだ。いや、疾っくの昔に来ていた。だから林佐渡は信長の所まで報告に来たのだ。一回、ガツンと言う為に。
「殿、今日という今日こそは言ってやるよ!アンタな、丹羽だ柴田だ羽柴だ明智だ前田だ佐々だと、優秀なヤツラばかり引き抜いて、どーやって濃尾勢を経営するつもりなのさ?殿は『濃尾勢の大名』である事を忘れてないか!?」
林佐渡が言いたいのは織田家の優秀な家臣ばかり引き抜いていくな、という事だ。当然なのだが、優秀な家臣を持って行かれると濃尾勢の内政が悪化する。内政を悪化させない為に林佐渡が尾張国に残っているのだが、流石に彼女だけで維持するには濃尾勢は広過ぎるのだ。
しかし信長としては京の都を維持しなければならない。役に立たない家臣は連れて来てもしょうがない。だから仕事が出来そうな有能家臣から引き抜いていく訳だ。
「わ、忘れてねーって、分かってるよ。あと、出羽のヤツは入らんのか……」
「いーや、分かってないね。殿は何にも分かっちゃいないよ。あと、あの脳筋は要らん」
「そこまで言うか……」
因みに、佐久間出羽守信盛は要らないらしい。理由としては、林佐渡と同格で命令出来る立場ではないからだろう。あとは佐久間出羽の家臣が戦方面に偏っている事も挙げられる。
「いいか、殿。濃尾勢は広過ぎてアタシ一人の手に余るんだ。これが続くと濃尾勢は商人や豪族の支配下になっちまうぞ」
「何ぃ!?アイツらはオレに対して牙を剝いているってのか!?」
林佐渡はこのまま行くと濃尾勢は商人や豪族の支配下になるという。それを聞いた信長は激昂して林佐渡に問い詰める。
「違うって。豪族は自分の領地から出て来ないから、まだいいよ。問題は商人さ」
「津島会合衆か」
「いいか、殿。内政において商人は必ず関わってるんだ。何でもかんでも、アタシらがやる訳じゃないんだよ。だが、武士の領分、商人の領分ってもんがあるのさ」
領地の内政において、商人は深く関わる。そもそも物流は商人が一手にやっているし、武家は販売の許可を与えているだけである。また、鉱山などもだいたい商人が経営していて、武家は掘り出された鉱石に税を掛けるという形で収入を得ている。これについては秘匿性を高める為に武家が自ら鉱山を経営して、掘り出した鉱石を商人に売る場合もある。信長が最近に奪取した生野銀山は商人経営である。
「商人の領分に武士が手を出せば、商人は反発する。堺会合衆は一時期そんな感じだったね。武士の領分に商人が手を出せば、武士が叩きに行く。近江商人がその類いだから、アタシは殿を止めない。存分にやりなよ。つまりは武士と商人で均衡を保つ事が大事なんだ」
林佐渡は武士の領分と商人の領分のバランスが大事だと言う。それなのに信長が使える家臣を軒並み京の都へ引き抜けば、当たり前の様に天秤は商人側に傾く。つまり足りない部分を商人に受け持って貰う事になる。これが長く続くと武士の領分が商人の物になって返ってこなくなる。
堺会合衆は殆どが都商人だったが戦乱を避けて堺に移った者達ばかりだ。しかし幕府ですら守れない現状を鑑みて堺は武装要塞化した。武家が戦の為に商人の領分を荒らした結果だ。
また逆に近江商人は時の権力者と上手くやりつつ、徐々に武士の領分へ浸透。気が付いたら近江商人無しで経営出来ない状態になっていた。特に生活必需品をかなり握られたのは痛かった。これは現在、恒興が解体中。
「濃尾勢はその均衡が崩れつつあるのか?」
「そーだよ!殿が優秀なヤツラを軒並み京の都に引き抜いていくから!その上で恒興も、だって!?アタシ一人でどーしろってのさ!!」
「いやー、えっとぉ……」
林佐渡は床をドンドンと叩いて訴える。この剣幕に信長も少し焦る。彼は濃尾勢の経営は林佐渡に任せておけば無問題と楽観的に考えていたのだ。
近江国も旧三好領も現在、利益が出ている訳ではない。経営はまだ始まったばかりであり、投資の方が嵩んでいる。将来的には莫大な富を信長にもたらしてくれるだろうが、今はまだ準備段階に等しい。更にはとんでもない金食い虫まで背負っている。つまり織田信長は濃尾勢の財を持ち出して、それら全てに投資している事になる。これで破産しないのが織田家の、いや、濃尾勢の豊かさなのだ。
「人手が足りなきゃ、アタシは津島会合衆に頼るしかない。時は止まってくれない、内政経営は維持していかなきゃならない。でも、それは商人が武士の領分に入る事を意味している。そーなったら最後」
「そーなったら?」
「濃尾勢は商人が支配する国になる。アタシらはその御用伺いに堕ちるのさ。商人の顔色を伺って生きるしか無くなる」
「おおう……」
「津島会合衆に野心があるって話じゃないよ。強制的にそうなるって話」
信長が人材を京の都周辺に投入すればする程に濃尾勢からは人材は消える。人材は育成が大切で突然生えてきたりしない。
だから林佐渡は濃尾勢の中心位置と言える尾張国那古野城から全体の内政指揮を採っていた。濃尾勢に戦乱が無いのも幸いし、それなりに上手くやっていた。しかし信長は家臣をどんどん畿内に投入していく。そうなると濃尾勢内政に使える家臣がどんどん減っていく。織田家の家臣が足りない分は商人側に出来る割合を増やしていく事になり、それが利権化して商人側に流出してしまう訳だ。当然、商人は慈善事業などである訳もなく、働いた分はきっちり持って行く。つまり織田家の収益は減っていくのだ。
「だからさ、恒興だけは止めてよぉ。何か知らんけど、アイツの家臣は内政に強いヤツが揃ってるんだ。恒興を引き抜かれたら、アタシは大打撃だ」
引き抜かれていく織田家臣。そこで林佐渡が目を付けていたのが池田恒興だ。いや、池田家臣団である。池田家中は他とは比べ物にならないくらいに内政面に強い家臣が揃っている。この家臣達を借りる事で林佐渡は濃尾勢の内政を維持していたのだ。
「それに国防にも問題が出る。濃尾勢には森家と滝川家が居るけど、そこまでアタシと関係が深い訳じゃない。反抗的じゃないけど、積極的に手を貸してくれる訳じゃない。まあ、アイツらの家臣は脳筋揃いで、自分達で手一杯だけどさ」
「三左と一益じゃ足らんか」
「そこを考えれば、恒興は津島奉行でアタシの部下な訳よ。その建前でアタシは池田家臣を使える訳。んで、恒興は三左と嫁を遣り取りしてるし、一益にとって恒興は滝川一族だ。つまり濃尾勢に敵が雪崩れ込んだ場合、恒興は全軍を纏める防衛大将になるって事さ。便宜上、アタシが総大将でもいいけど、実働部隊は恒興に委ねるからね。そこんとこ分かってる?」
「成る程な。恒興ならって話じゃなくて、恒興じゃないとって事か」
濃尾勢にも問題が無い訳ではない。それが森可成と滝川一益が配置されている理由でもある。森可成は東濃に配置されているのは、信州との国境線を守る為。滝川一益が桑名城に配置されているのは、隣に長島という火薬庫があるからだ。つまり二人は軍事面を期待されて配置されており、当然ながら家臣も軍事方面に偏っている。その家臣を借りられるのは両家にとって、あまり良い感じはしないだろう。そして林佐渡も無理して借りる程でもない。それに両家共に財政面も良いとは言えない。滝川一益は港が有り、恒興が商人を積極的に誘致したのでマシだ。しかし森可成は破産しそうなくらいだった。まあ、これも恒興が事業を渡したので大幅に改善したが。
林佐渡が借りたい家臣はやはり池田家臣団なのだ。恒興が未だに『津島奉行』であり、この奉行職は林佐渡の管理下にある。だから池田恒興は役職上で林佐渡の部下と言える。この為、林佐渡は池田家臣団を『部下の部下』として悠々と借りられるのだ。また池田恒興は戦上手な上に森、滝川両家とも深い関係にある。森可成とはお互いの嫡子に嫁を出し合っているし、恒興の父親は滝川一族出身だ。更に恒興は美濃尾張にかなりの影響力を持っている。この為、池田恒興は濃尾勢の防衛大将に一番相応しいと目されている。恒興は周辺への警戒も怠らないので、林佐渡は内政に専念出来ていると言える。
「殿が帰ってくれば問題は全て解決するんだがね?アンタがここでのうのうとしてられんのは、恒興が犬山に居るからだぞ。『応仁の乱』がどーしてああなったのか、忘れてんの?大名が領地放り出して、京の都でドンパチやってたからだろ。んで、戦費負担だけさせられた領地が爆発したんじゃないか。恒興が居なくなったら、こっちの可能性もあるよ。一回、濃尾勢無しで経営してみる?」
「怖い事言うなよ、佐渡。分かった、分ーったよ、恒興の話は無しだ。濃尾勢はオレの最大の財源だ。これに火が点いたら、流石にオレは終わる」
林佐渡は現状を『応仁の乱』に例える。かの大乱で下剋上が頻発した主原因は大名が地元を顧みず、京の都周辺で争っていたからだ。戦争には多額の資金が必要になる。その戦費負担だけをさせられた地方で下剋上の嵐が巻き起こった、という事だ。
然るに信長も濃尾勢の富を消費して京の都周辺で戦いを繰り広げている。濃尾勢の富を濃尾勢の外で使われるのを、濃尾勢の人々がそこまで快くは思っていない。特に商人は。
現代でもよくある考え方なので、理解は難しくないだろう。自分達が払った税金は自分達が豊かに暮らせる為に使われて欲しい、という考えだ。だから日本国が諸外国に多額の援助をしますとなったら、『バラマキ』だと批判する人が現れる。諸外国に援助というのは後々に様々なメリットを考えての事なのだろう。しかし大衆は即物的で目先しか見えないものだ。日本政府が何を狙っているかなど、国民が理解するのは難しい。援助の理由は説明しても、援助のメリットまでは説明しないからだ。下心有りますって告白する様なものだし。
イギリスのEU離脱も似たようなものだ。イギリスの富が諸外国にばかり使われたから怒ったのだ。
『応仁の乱』からの下剋上というのは、自国の富を私物化して京の都で消費した大名に対する地元民の怒りと捉える事が出来る。これは織田信長も一緒ではあるが、彼が下剋上されない理由は林佐渡と池田恒興がしっかりと見張っているからだ。濃尾勢の商人、豪族、武家などいろいろと便宜を図れる窓口となっている。濃尾勢の経営はこの両輪で上手く行っている。
信長にとって濃尾勢は本拠地であり財源である。彼が京の都周辺で活動する資金の大部分は濃尾勢から出ている。つまり織田信長にとって林佐渡と池田恒興は、劉邦における蕭何という事だ。
「理解ったみたいだね。これでダメなら、アタシは養徳院様を連れて来ようか、とまで考えたさ」
「流石にそれは止めろ」
「おやおや〜、養徳院様に会えるのは嬉しいんじゃないのかな〜」
「養徳院を政治に関わらせるなってんだよ。それに……」
林佐渡は信長の説得に失敗したら養母の養徳院桂昌を連れてくるつもりだったらしい。その話に信長は露骨に嫌な顔をする。彼は養徳院桂昌が政治には関わりたがらないのをよく知っている。愛する母親の嫌がる事はしたくないのだ。
「それに?」
「……本気で怒った時の養徳院は怖いんだよ」
「知ってるよ。たしか、あれは『桶狭間の戦い』より一年前くらいだったっけ」
そして信長は養徳院桂昌が本気で怒ったら非常に怖い事を知っている。その話は林佐渡でも知っている。彼女は『桶狭間の戦い』より一年前くらいの話を思い出した。
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『桶狭間の戦い』より一年前くらいのある日。
織田信長は池田恒興や数人の供回りを連れて豪族の領地を視察に行った。まあ、豪族に招待されたので御馳走になるのが目的ではあるが。
信長が清洲を出た頃は晴れていたのだが、天気は急変し豪雨となってしまった。風雨が強まり全員、ずぶ濡れになってしまった。
「クソっ、本格的に降ってきやがった」
「どうしますニャ、信長様。目的地はまだ先ですよ」
「しゃーねえ、今回は止めだ。帰るぞ」
あまりの風雨により信長は中止を決断する。ずぶ濡れで行っても楽しくないし、それに清洲から出てそんなに進んでないので帰った方が早いと判断したのだ。
「そうですニャー。このままでは風邪をひいてしまいますから」
「全員、戻るぜ。風邪ひくんじゃねぇぞ!」
「「「ははっ!」」」
信長は恒興をはじめ、供回り全員に帰還を命じる。風邪をひくなよ、と付け加えて、その場で解散した。その後、信長は恒興だけを連れて自宅に戻った。
「やっと帰って来たか」
「風呂でも入りましょうニャー、信長様」
「おう、そうだな。恒興、お前も入っていけ」
「はいですニャー」
自宅に戻った信長は恒興の提案で風呂に入る事にする。風呂といってもサウナの様な蒸し風呂なので一緒に入れる。
しかし屋敷の門をくぐった二人は違和感を覚える。いつもなら雑色が飛んで来て出迎えるものだ。
「あれ?ニャんで誰も出て来ない?おーい!信長様のお帰りだニャー!」
恒興は玄関で声を張り上げるが、しーんとした反応しかない。まるで誰も居ないかの様に。
「何だ?何で誰も居ないんだよ?」
何が起こったのか理解らない。信長が愕然としていると屋敷で働く雑色の一人が気付いて駆け寄って来る。
「信長様!?な、何故、お帰りに!?」
「お前は雑色の。オレが自宅に帰って来たら悪いのかよ?他のヤツラは何処だ?言え!」
「そ、それは……」
「早く言えニャ。信長様の命令が聞けニャいのか」
信長は雑色の男を威圧し、更に恒興は刀を少し抜いてギラリと光らせる。口籠っていた雑色の男は恐れ慄いて土下座する。
「ひいぃ、言います、言います。皆は遊びに行ったのです」
「あ?」
「の、信長様が暫く帰られないとの事で、今のうちに気晴らしをと、その」
「……」
「ニャんてヤツラだ。信長様が居ないからってサボりか」
屋敷の女中達をはじめとした家人は信長が外出して数日帰って来ないという事なので、これを機に遊びに行ったらしい。家族と過ごすなり、気晴らしするなり、人それぞれであろう。
屋敷の主人である信長が居ないからといって、仕事が無い訳ではない。正に鬼の居ぬ間の何とやら。それを聞いた恒興はサボりかと呆れ、そして信長は静かにキレていた。
「恒興」
「はっ」
「全員捕まえて地下牢に放り込め。明日にでも全員処刑してやる」
「直ちに参りますニャー」(うわぁ、信長様キレてるニャー。馬鹿な事をしたもんだ)
織田信長は怠惰な人間を一番嫌う。彼は給金を払っているのに仕事をしない輩に容赦しない。明日には全員処刑してやると静かに答え、恒興に捕まえて来いと命令する。
恒興は命令を実行する為に清洲城の侍達も駆り出して捕まえに行った。対象の者達はかなり散らばっていたので、捜索には時間が掛かり、全員を捕えた時には朝日が登っていた。
徹夜になってしまい眠い目をこすりながら、恒興は池田庄の自宅まで帰った。
「はあー、疲れたニャー。徹夜になっちまった」
「あら、恒興。信長様のお供ではなかったのですか?」
玄関まで辿り着いた恒興を出迎えたのは母親の養徳院桂昌。彼女は恒興が信長のお供で出掛けたのに、突然帰って来た事に驚いていた。
「これは母上。それが中止になって、昨日の夕方に戻ったのですニャー」
「もう朝ですよ」
恒興は昨日の夕方には戻ったというが、現在は朝だ。恒興が夜通し、いったい何をしていたのか、少し気になる養徳院である。
「いや、アホな連中がいましてニャー。信長様が不在なのをいい事に女中達が遊び呆けていたんですよ。で、ニャーが捕まえに行って、この時間まで掛かったんですニャー。ま、今日にでも処刑されますが」
「……」
「どうしたんですかニャ、母上?」
「どうしたじゃありませんよ、恒興。貴方はおかしいと感じないのですか?」
「あ、あの、母上、何をそんなにお怒りで……」
養徳院はいつもの表情だ。柔和で見る人に好印象を与えるであろう。しかし恒興には理解る、問答無用で。恒興eyeには見えるのだ、自分の母親から立ち昇る怒りのオーラが。
「何故か理解らないのですか?」
「え、えーと……ニャー……」
「信長様の屋敷に行きますよ。もちろん、貴方も」
「あ、あう……はいですニャー」
養徳院桂昌は直ぐに支度をして信長の屋敷に向かった。当然、恒興も連行される事になった。
信長の屋敷の庭で恒興が捕まえてきた使用人達が後ろ手に縛られ座らされている。まるで御白州で裁判の聴取をしているかの様。違う点は信長に聴取する意思は無いという事だ。
「信長様、どうかお許しを!」
「ほんの出来心だったんです!」
「たまには家族と過ごしたかっただけで!」
使用人達は信長に寛大な措置を願う。周りには刀を抜いた侍達が並んでいる。その中央の台の上に座り、無表情で冷たく見下ろす信長が居る。これだけの状況なら自分達がどうなるのかは容易に想像がつく。
「うるせぇよ。オレが居ないからって仕事が無くなる訳じゃねぇだろが」
「そ、そんな……」
「もうサボりませんから……どうか御慈悲を……」
「もういい、聞く気はない。
信長は冷たく言い放つ。刀を持った侍達は罪人の横に立ち、両手に持った刀を上に振り上げる。相手を苦しませない様に、思い切り力を込めて振り下ろす為だ。何人かは泣きながら南無阿弥陀仏を唱える者もいる。そして信長が『やれ』と命令を発した時に、突然乱入した女性の静止の声が響き渡る。
「お待ちなさい!」
「ん?何で養徳院がここに?」
信長は養徳院を見て意外な顔をした。流石にマズイ場面を見られたと思ったのだ。彼女の後ろに顔を俯かせた恒興が連行されている。恒興から情報が伝わったのは一目瞭然だ。
養徳院は信長の真正面に立ち毅然と言い放つ。
「信長様、これは如何なる仕儀に御座いますか?」
「コイツラはオレが居ないのをいい事にサボってたんだ。もう信用ならねぇよ。毎回、そうだったのかと思うとよ」
全てが (恒興により)バレていると感じた信長は率直な理由を言う。彼はこの使用人達にはもう信用が無いと。
「信長様、この世に完璧な人間など存在しません。この者達とてたまには遊びたい日もあるでしょう。それはそんなにいけない事でしょうか。完璧を求めて働かせ過ぎていませんか?」
「でもよぉ、オレは給金を払っているんだ。だから仕事しろって事をだなぁ……」
養徳院は他人に完璧を求めるなと諭す。信長が勤勉主義で能力成果主義であっても、それを他人にまで押し付けるな、と。成果を出した者を取り立てるのは良い。普通の事だ。だが働きが悪いからと処刑はやり過ぎだと言っている。どうしても働きが悪いなら他の場所に移すなり、解雇すれば良い。
痛い所を突かれた、信長は養徳院から視線を外す。実は信長も怒りに任せて行き過ぎたとは思っていたのだ。だから気まずくなって信長は真正面から切り込む養徳院を見れなくなった。
「信長様、私は貴方に人の目を見て話しなさい、と教えた筈ですよ。何故、先程から私を見ないのですか?」
「う、……」
「だいたいこの者達を処刑してしまって、明日から誰が貴方の屋敷で働くのですか?手を休めたら殺される屋敷で」
「……」
「もう理解っているのでしょう。やり過ぎたと。この養徳院桂昌に免じて、罪一等減じて貰えませんか?」
養徳院の言う事は正論だ。しかし正論をぶつけられたからこそ、信長は自分が惨めになっていると感じた。それこそ信長は皆の前で母親に叱られている気分になっている。だから彼は素直になれず、叫ぶ様に反論する。駄々をこねる子供の様に。
「くっ、うるせぇ。当主のオレが処刑と決めたなら変える訳にはいかねぇんだよ。当主の権威が損なわれるからな!」
考えを変えない信長を見て、養徳院は少し嘆息する。
「そうですか」
「あっ、それ、ニャーの刀!?」
養徳院は後ろに居る恒興の刀を手を取り引き抜く。そして、その刃を自らの首に押し当てる。
「では、私も当主に対し直訴を行ったという事で処刑されねばなりませんね」
「ま、待てよ、何でそうなるんだよ!?」
「当主が権威を守る為に決定を変えられないのなら、是非も無し。貴方は『織田家当主』という肩書きのみですか?それとも『織田信長』という人間ですか?」
「うう……」
当主が法だと言って考えを変えないのであれば、自分も処刑されなければならないと養徳院は述べる。この行動に信長でも焦る。自分は養徳院を害する気は無い、ただ褒められたいだけなのに。始めから彼女の目を見ておくべきだった。そうすれば彼女の意志の強さを感じ取れたはずなのだ。
信長は織田家当主を立派に務める自分を養徳院に認めて欲しいだけだ。また、養徳院に庇われる使用人達も気に入らなかった。だから意固地をおこしたが、こんなつまらない理由で母親を失おうとしている事に信長は漸くにも気が付いた。
「さようなら、吉法師。我が愛しき子」
「待てーっ!分かった、分かったからーっ!」
養徳院は信長を幼名で呼び、腕に力を込めて別れを告げた。最期に「愛している」と。それを聞いた信長は堪らなくなり、彼女に駆け寄って止めた。
「分かったよ。今回は無かった事に……」
「何ですか、吉法師。聞こえませんよ、はっきり物を言いなさい。母はその様に育てた覚えはありませんよ」
「今回は不問とする!今回の件で解雇とかはしない!今後は定期的に休める仕組みを作る!」
「理解れば良いのです」
信長は叱られた子供さながらに、これからの改善点を大声で叫ぶ。それこそ、その場に居る全員に聞こえる様に。そこまでして、漸く養徳院は満足し刀を下ろした。
「はあ、はあ、はあ、ふぅ~」
信長は焦った表情そのままに胸を撫で下ろし、深い溜め息をついた。そして漸く安堵した。
一方、救命された使用人達は捕縛を解かれ、口々に感謝の言葉を養徳院に言った。
「養徳院様、ありがとうございます!」
「この御恩は一生忘れません!」
「……私からも貴女達に言わねばならない事があります」
「「「え?」」」
感謝を伝えられた養徳院の顔に喜びは無い。というか、彼女は使用人達を助ける為に来たのではない。愛しの我が子である織田信長が人の道を誤らぬ様に説得しに来たのだ。だいたい彼女等に罪が無い訳ではないのだから。そこはしっかりと叱らねばならない。
「当主が不在だからと遊び呆けるとは何事ですか。敵が来たらどうするつもりですか。戦国の時代とは油断した者から滅ぶのですよ。これで皆殺しにされた城は枚挙に暇がないのです。心を改めなさい」
「「「す、すみません!」」」
使用人達を叱った養徳院は、恒興を振り返る。そこには恐縮した恒興がモジモジと立っていた。信長が叱られ、使用人達も叱られ、自分が何も無い事がある訳ない。つまり叱られ待ちの子供の様相だ。
「恒興」
「はい、母上」
「何の為に貴方は信長様の傍に居るのですか?兄が道を踏み外すのなら、弟が引っ張り上げ支えねばなりません。それが何故に言う事を聞いているだけの者に成り下っているのですか。その様な者は家臣だけで事足ります」
「はい、申し訳御座いませんニャー」
「貴方は今日、御飯抜きです」
「ゴフぅ……」
恒興は徹夜で走り回ってヘトヘトな上に、1日の御飯抜きを言い渡される。その瞬間、恒興は膝から崩れ落ちた。最終的にこの件で一番重い罰を与えられたのは恒興という事になるのだろうか。物理的にの話で。
恒興は眠いのに空腹で眠れないという地獄を味わったという。……一応、味噌汁だけは御飯扱いではないので、それで腹を満たしたとか何とか。
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「殿であっても『母親』には勝てないって事だね。殿と恒興は何とも似た者兄弟じゃないか」
「うるせーよ」
林佐渡はニヨニヨしながら似た者だと感想を述べる。信長は苦虫を噛み潰した様な表情をして、顔を背けた。
同時刻の尾張国犬山。
恒興は小牧山城にて保護した身寄りのない少女達を支援する為に、尼寺に投資しようと母親の養徳院桂昌と相談していた。すると彼女は何の前触れもなくクシャミをした。
「くしゅん」
「大丈夫ですかニャ、母上。もしかして風邪ですか?」
「問題ありません。誰かが私の噂をしているのでしょう。しかし風邪には気を付けなければなりませんね」
「ま、ニャーは風邪ひきませんけどニャー」
恒興は今まで風邪をひいた事のない健康優良児である。庄内川で寒中水泳をしようが、寒い日に薄着だろうが、風邪をひいた事がない程だ。
「そうでしたね。豪雨の中、一晩中走り回って徹夜しても風邪ひきませんでしたね。うふふ」
思い出した様に笑う養徳院に恒興も思い出したくない過去を思い出した。だが、その件で恒興も今更ながら思い付く事があった。
「……嫌な記憶ががが。母上に引っ張り回された挙げ句に飯抜きで寝られニャかったし。というか、今頃気付いたんですが」
「何をですか?」
「アレはもしかして呉夫人の真似なのでは?ニャーの『三国志演義』を読みました?」
呉夫人とは後漢末期の三国時代の人。呉皇帝・孫権の母親。諡は武烈皇后。
彼女には孫策という息子がいた。孫策は孫権の兄であり、武勇に優れ周辺をあっという間に制圧して『小覇王』と呼ばれた。また優秀な人間を多数登用して後の呉の礎を築いた。しかし彼には大きな欠点があった。無用無能と見做した人間には容赦が無く、人を殺し過ぎるところがあった。孫策が人を殺し過ぎる為、呉夫人は彼を叱る事にした。自分が考える才能が無いからと人を無能扱いして殺すな、と。しかし孫策は自身の才能を鼻にかけて聞く耳を持たなかった。
ならばと呉夫人は「自分は井戸に身を投げて、息子の不徳を天帝に謝罪しに行く」と言って井戸に飛び込もうとした。孫策は慌てて母親を止めて、これまでの事を謝罪しなるべく殺さない様にすると誓った話だ。
この呉夫人は政治には関わらず、また家臣の育成や支援を行い、呉の人々から尊敬されたという。中国史でも賢夫人として名前が挙がる。
「『三国志演義』は私の父上の蔵書で恒興の物ではありませんよ」
「やっぱり。ニャんか母上にしては大胆過ぎると思いましたニャー」
「どうなんでしょうね、うふふ」
『三国志演義』は元末明初に成立した書物。日明貿易が盛んになった足利義満の時代には日の本にも入ってきて和訳された物も出回った。それを恒興の祖父は蔵書としていて、恒興も継承した。その中の呉夫人の記述があの時の話に似ているのだ。
養徳院桂昌はただ笑ってはぐらかしていた。
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【あとがき】
荒木村重さんは大豪族。摂津池田家当主から嫁さんを貰って親族衆になったぞ、やったね。跡継ぎの勝正さんが気に入らんから弟の知正さんを擁立して追い出したぞ、やったね。知正さんがオワコンの将軍に付いたから裏切って信長さんに味方して大名になったぞ、やったね。そして後に……。
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