閑話 海の掟

 駿河湾沖。

 岡本随縁斎が率いる船団は海岸の近くを沿う様に航行していた。日の本の船は積載量が低いので荷物を大量に積むと食糧や水があまり積めなくなる。その為に補給港に近い沿岸を沿う様に進む事が大半である。それに凌波性が低いので外海に出るのに不適という事情もある。

 しかし他国の沿岸には当たり前だが、その地域の水軍が存在する。彼等は海賊の側面も持つので他所の船が襲われる事案が頻発している。だからこそ岡本随縁斎は『軍船いくさぶね』で荷物を運んでいる。一応、船標ふなじるしという所属を示す旗を掲げて進む事で襲われずに済む算段である。今掲げている旗は加藤図書助の商家の物。積荷は加藤図書助に属すると示している。彼がこの地域の水軍に通行料を払っているので安全な訳だ。とはいえ、油断出来る相手ではないので、岡本随縁斎の船団は武装もしている訳だ。

 その船の一室で、海から拾い上げられた少女は治療を受けていた。上半身裸で背中傷の治療を受けている。治療に従事していたのは女性で少女より2、3才年上と見られる。海の人らしく浅黒く焼けた肌をしている女性は傷薬を塗った後、包帯となる白い布をキツく締め付けた。


「いたたたっ!?」


「ほい、終わり」


 その力強さに少女は悲鳴を上げる。手当をしてくれた女性は岡本凪。男しか居ない筈の船に一人だけ乗っていた女性である。普通、船仕事は男性の独断場で女性はほぼ居ない。男女で居たら間違いなど当たり前の様に起こるからだ。しかし、彼女は岡本随縁斎の孫娘なので誰も手が出せないし、男達も出さない。それだけ岡本随縁斎が部下から慕われている証左である。……まあ、手を出したら間違いなく鮫の餌だが。


「もうちょっと優しくしてよ」


「十分優しいさ。しかしアンタあれだねぇ。頑丈つーか、キズがみるみる塞がっていくねぇ」


「まあ、それは良い事だけど」


 少女の背中傷は致命傷レベルの大きさだった。助け出してから凪がずっと手当てしているのだが、傷の治りは驚く様な速さだった。何を食べていたらこんな治癒力を得られるのか、凪の方が知りたいくらいだ。しかし少女には答えられない事情が存在した。


「で?記憶の方は?何か思い出した?」


「そっちは全然だわ。私は何処で何をしていたか。名前すら思い出せない」


 目を覚ました少女は記憶喪失になっていた。溺れて酸欠状態になった人間は記憶喪失になる事がある。凪も話には聞いた事があったが、実際に見たのは初めてである。しかし理解る事はある。


「ま、農民じゃない事は確かだね」


「どうして?」


「アンタ、染め物着てたんだぞ。農民が染め物なんて着る訳ないだろ。アタイだって殆ど着ないんだ」


「そうなんだ……」


 まずは少女の服装だ。彼女は柄の入った染め物の着物を着ていた。そんな物を着ている農民など関東には居ない。岡本家の娘である凪であっても普段から染め物など着ない。正月などの慶事時に限られる。


「ま、アンタの連れも同じで思い出せないらしいよ」


「連れ合いじゃない!」


「何でわかんの?」


「……そんな気がしないだけよ」


 助けられたのは少女だけではない。もう一人、オッサンがいるのだが、そちらも信じ難い事に記憶喪失になっていた。凪はそのオッサンを少女の『連れ合い』と評した。親子にしては似てないし、歳の差婚など珍しくないからだ。しかし少女はそれを全力で否定する。根拠は無いがそんな気がしないらしい。


「そうかい。ま、そのうち思い出せるよ。アンタは運が良いし」


「はあ?死にかけて海に流れてた。どこら辺が運良いのよ?」


「でも死んでない」


「それはそうだけど」


 運が良いと言われて、少女は反論する。死にかけて海に流された自分の何処が運が良いのかと。しかし凪はあっさりと『死んでない事』だという。血を流して海にいれば普通は鮫の餌だ。無傷であっても溺れて死んでないとおかしい。しかも偶然、船に拾われるという3重の奇跡な訳だ。どんな強運なんだよ、と凪は言いたい。


「それにアタイがこの船に居る」


「だからそれのどこが」


「へー、それじゃ何かい、アンタ。上に居るムキムキ汗だくの男共の手で裸にひん剥かれて治療されたかったってのかい?そっちがお好みなら呼んでくるけど?」


「それだけは嫌ああぁぁぁーーーっ!!!」


 更に運が良いのは偶然にも岡本凪が船に居た事だ。通常、船には男しか居ないので、当然の事ながら治療に当たるのは水夫の男共な訳だ。その場合、命が懸かっているのだから嫌だ何だと言ってられない。

 考えただけでも全身がゾワゾワする。少女は激しく叫んで拒否反応を示した。それを見た凪はからからと笑っていた。


「だからアタイが居て運が良いって事さ」


「はぁーっ、はぁーっ、正直助かったわ」


 岡本凪が船に居たのは本当に偶然なのだ。祖父である岡本随縁斎が仕事で熱田の町に行くと言うので、半ば無理矢理に付いてきたのだ。彼女は発展しているという熱田の町を見てみたかったのだ。孫煩悩なところがある岡本随縁斎は凪の要請を断り切れなかった訳だ。


「私達はこの後、どうなるんだろう」


「予定では熱田の町で降りるんだよ。その辺の寄港先で降ろしてもいいけど、記憶喪失じゃ生きていけないだろ」


「それは熱田で降りても一緒なんじゃ……」


 自分達が今後どうなるのか、少女は不安になる。それに対して凪はあっさりと熱田の町で降りる事になると告げた。記憶喪失の人間を二人、適当な場所に降ろしても生活出来ないからだと言う。熱田の町でも状況は変わらないと言う少女に、凪は分かってないなーと呆れた表情をする。


「ちっちっち、甘いね。熱田の町には『加藤図書助』という豪商が居てさ、アタイらのお得意様な訳なの。その人にアンタらを預けるって事さ」


 熱田の豪商である加藤図書助は彼等の荷物主であり、重要な取引相手でもある。その加藤図書助に頼み込んで男と少女を預かって貰う予定なのだ。彼ならば信頼出来るので男と少女の面倒も見てくれるだろう。記憶喪失になってしまった彼等の今後も考えての決定であった。


「?商人になれって事?」


「なりたきゃなれば?ただ、これからを考える時間は必要だろ。商家でお世話になりながら考えなって事。そこまで考えて、降りる先が熱田の町って訳さ」


「成る程……」


 少女は預け先から商人になれと言われているのかと勘違いした。凪は何を素っ頓狂な事を言っているのかと呆れて、好きにすれば?と返す。そんな簡単に商人になれる訳ないだろと。

 ただ記憶喪失でどの様に生きていくのか、考える時間は必要だろうという配慮である。その今後の面倒も含めて加藤図書助に頼む訳だ。


「でも加藤殿の下で商人になれたら凄いかもね。あの人、もの凄い勢いのある商人だし。何でも織田家の大重臣と昵懇の仲で、その重臣と組んでかなり儲けてるみたい」


「おだ……家?うう……」


 凪は加藤図書助が織田家の重臣と組んでかなり儲けていると話す。一方で少女は『織田家』の名前に反応する。何かを思い出したかの様に。


「関東のじゃねーぞ。ていうか、何か思い出した?」


「何か引っ掛かるけど、分かんない」


「難儀だねぇ。記憶喪失ってヤツは」


 凪は音は一緒でも関東の小田家ではないと付け加える。少女が何か思い出したのかと期待したが、結局分からないらしい。その様子を見た凪は記憶喪失といっても限定的なんだなという感想を持った。それはそれで難儀ではあるなとも。

 当の本人は大して気にしていない様で、凪の方を見ると話題を変えてきた。


「そうだ、何か仕事は無い?」


「何だい、藪から棒に」


「仕事の手伝いくらいはしようかと」


「止めときな。素人のアンタに出来る事なんて掃除くらいなもんさ」


 仕事をしたいという少女に対し凪は明らかに遠慮する感じで止めた。どちらにせよ戦力にならないから大人しくしていろと。少女の見た目の年齢、性別から考えても、船仕事初心者で出来る事など限られている。それこそ船内掃除くらいだ。揺れる船の上に出そうものなら、もれなく海にダイブして余計な手間が増えるだろう。


「じゃあ掃除をするわ」


「だから止めときな。怪我人なんだからさ」


「でも、何かしてないとね。だいぶ回復したし」


「あのさぁ。アタイはアンタの為を思って言ってるんだが、同時にアタイらの為でもあるんだ」


「え?」


 はあ、やれやれといった感じで凪は少女を見る。口調は砕けていても、その目は決して笑ってはいない。言わなきゃならないかという感じで凪は続ける。それが『自分達』の為でもあるのだと。


「言っておくけどさ。アンタが病気にでもなったら、アタイは容赦無く……アンタを海に捨てるからね」


「す、捨てるって……」


「あのなぁ、船の上は逃げ場が無いんだ。アンタが病気になって、それが流行り病だったらどうなる?アンタを置いといたら、全員に伝染って船が動かなくなって全滅だよ。そうなる前にさっさと捨てると決まってる。コイツは『海の掟』だ。ここに居る以上、従って貰うよ」


「……」


 海に生きる彼等には『海の掟』という法がある。陸上で生きている人間より過酷な死と隣り合わせで生きている彼等には独特の法律が暗黙的にある。

 その一つが『病人は直ぐに海へ捨てる』である。これは全員に適応される。戦国時代は医者の数がとても少ない。日の本には南蛮船の様に船医は居ないし、病気に対する知識も乏しい。なので病人を船に置いておけば、流行り病だった場合、最悪全員に広まる恐れがある。そうなれば船が動かなくなり全滅が容易に有り得る。

 少し後年になるが、これで捨てられて死亡した元大名すらいる。九州の名家・日向国大名だった伊東義祐である。彼は島津家に日向国を追われた後に流浪、息子の祐兵が織田家で禄を得たというので堺に向かう船に乗り、そこで発病。そのまま海に捨てられ浜辺に打ち上げられたという。海に生きる人間は武士だろうが元大名だろうが容赦しない。それほどに『海の掟』を徹底している。


「怪我人は無理せずに安静にしてろって事。わかった?」


「わ、わかった」


「よろしい。どうせ、あと3日で熱田に着くからさ」


 凪の迫力に圧されて少女は頷くしか出来なかった。少女が理解した様なので、凪は満足した様に笑顔に戻った。彼女だってやりたい訳ではないのだから。


「いやさ、船賃とか、気になってさ。少しでも働こうかなーて……」


「気にする必要ないよ。もう貰ったし」


「え?何時?」


「アンタの連れだよ。あのオッサンが腰にぶら下げてた刀さぁ、かなりの名刀でお爺ちゃんの刀より上等な物らしいよ。それがアンタ達の船賃及び治療代って事で話が着いてるのさ。だから遠慮すんない」


「そ、そうなんだ」


 船賃を気にする少女に、凪はもう貰ったと話す。実はもう一人の記憶喪失オッサンの刀が彼等の治療代、船賃、商家の紹介料という話で着いていた。生きている人間から取り上げたら窃盗なので、目を覚ましたオッサンに岡本随縁斎が交渉をしたのだ。刀は武士の誇りなので嫌がるかと思われたが、オッサンはあっさり承諾。少女と二人分の料金という事で刀を渡したという。だから二人はお客さんみたいなものなので、遠慮するなと凪は笑う。


「でも病気になったら云々は本気だから。ちゃんと大人しくしててよ?」


「うん、安静にしてまーす……」


 ただし凪は最後に警告だけはしておく。この少女は何か動き回りそうな気がしたからだ。


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【あとがき】


これで関東戦国は一段落ですニャー。次は何を書きましょうかニャー。順慶くんが本領を発揮する話。関東からの脱出者。日の本の外国。古新丸くん。まあ、しばらくは日常話が続きますニャー。

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