姉川会戦 会談

 池田恒興との会見の後、遠藤直経は直ぐに浅井家本拠地である小谷城へ帰還した。遅れて帰ってきた直経に浅井家臣は驚愕した。彼は撤退中にいなかったので、前衛軍の中で討ち死にしたと思われていたのだ。そう簡単に判断するほど、前衛部隊の状況は地獄であった。だから誰もが遠藤直経は死んだと思っていた。

 遠藤直経は浅井長政に会見を申し込む。さして間を置かず直経は浅井長政と浅井家重臣が居並ぶ広間に通される。直経は長政の前に座り、一礼する。


「恥ずかしながら生き長らえて戻って参りました」


「いや直経。よくぞ戻ってくれた」


 申し訳なさそうに謝罪する直経。しかし浅井長政は気を遣う感じで返答する。長政は既に聞いていた、この遠藤直経が池田恒興を殺す為にその顔前まで行った事を。


りながら、池田恒興を討ち果たすに及ばず」


「池田恒興の顔前まで行くとはな、見直したぞ、若造。しかし、生きて帰ってきたという事は、池田恒興から何か言伝ことづてを預かって来たのじゃな?」


「はっ、その通りで御座います」


 その豪胆さには浅井長政の傅役である海北綱親も彼を見直した。そして遠藤直経が生きて帰ってきた事で、彼は織田家の使者としての役目を持っているのだと理解する。戦争中の敵地に使者を送るのは、当たり前の様に命の危険がある。だから捕えた敵将を使ったり、居なければ僧侶を使ったりする事が多い。


「池田恒興は何と?」


「講和の席に長政様が来る様に、と」


 恒興が直経に伝える様に言った内容は、講和条約に浅井長政本人が来いという事だ。この無礼極まる恒興の物言いに浅井家臣が口々に色めき立つ。


「池田恒興め、長政様に来いとは何とも見下してくれるではないか!」「もう我等を部下か何かと思っているのか!」「浅井家を大名ではなく豪族程度に見ている証拠だ!」


「長政様、皆の言う通りです。この様な要求を呑む必要はありませんぞ」


 喧々諤々けんけんがくがくと騒ぐ家臣達を代表する様に赤尾清綱も反対意見を述べる。殆どの者達が同意している意見なのだが、浅井長政と海北綱親の顔色は優れない。現状はそれを許さぬ程に酷いからだ。


「……そうは言うがな、清綱。兵士は暫く使い物にならん。今、攻め込まれれば、小谷城と言えどさして保たぬであろう」


「確かに、立て直すには時間が必要でしょうが」


「赤尾、悔しくはあるが、今は堪え忍ぶ時じゃ。儂らは意地の為だけに生きておるのではない。長政様の理想の実現こそが第一義であるはずじゃ」


 浅井長政と海北綱親の言葉に一堂は悔しそうに俯く。今回の敗戦はかなり酷い状況だ。充分に勝機は有る状態で得意の突撃陣形で真正面から挑んだ。敵を順調に切り崩し、恒興の本陣を蹂躙する予定であった。少なくとも池田軍第十一陣を越えた辺りまでは皆がそう思い戦意に溢れていた。だが彼等を待っていたのは、ただの地獄であった。浅井軍の行動の全てが池田恒興の計画通りでしかなかった。それを示す様に、逃げているだけだった池田軍第一陣から第十一陣までの部隊が一斉に反転攻勢を仕掛けてきた。自分達は敵の罠に嵌まった、浅井軍の将兵の全てがそれを悟った。つまり圧倒的な完敗をしてしまったのだ。士気など上がろう筈もない。

 この覆しようもない結果に、浅井長政と海北綱親はどうやって浅井家は生き残るのかを考える段階だと認識している。彼等には遂げたい理想がある。数年前までは六角家の下で忍従の日々を過ごしていたのだ。それが少し延びるだけの話だと思おうとしている。それ程に、池田恒興の手玉に取られたこの敗戦は大きなショックなのだ。しかし数年の忍従で立て直せると思えるくらいには、人的被害は軽いと言える。


「しかし、長政様に来いというのは受け入れ難く」


「いや、私は行く」


「長政様!?」


「ここで騙し討ちを行う様なら、織田家の威勢など高が知れるというものだ」


「しかし危険な事には変わりませんぞ、長政様」


「そう言うな、じい。それに直に会って言いたい事があるのでな、あの池田恒興という男に」


 浅井長政は自分が池田恒興の所に行く意志を全員に表明する。家臣は皆が反対の様だが、浅井長政の意志は硬い。彼は池田恒興に直接物言わねば気が済まないと。それに講和の席で騙し討ちを行えば、織田家の威信に大きなキズを付ける事になる。そんな者に天下を治められよう筈もない。

 簡単に騙し討ちとかしてくる松永弾正があの体たらくなのが好例だ。彼はあれでも幕府を差配した三好家の家宰なのだ。


「あとは池田恒興の要求が何かという事だな」


「領土の大幅割譲が予想されますな」


「それなら、ここで講和などする訳ないじゃろうが。即座に小谷城まで攻め寄せた方が早いわい。他に何かあるはずじゃ」


 領土的には既に横山城は陥落している。更に現在、今浜城が攻撃を受けていると報告が来たが、間も無く陥落するだろう。いや、もう陥落したかも知れない。防衛兵士がほぼ居ないからだ。

 なので姉川以南はもう織田家に制圧された事になる。領土の大幅割譲となると姉川以北となるだろうが、そうなると小谷城自体が入りかねない。そんな条件の講和を受け入れるなど浅井家として有り得ない。池田恒興がもしそう考えているなら、講和など言わない。即座に小谷城まで攻め上がるだろう。


「ならば被害を嫌ったとかかも知れませんな」


「今回の戦いの被害じゃが、我が方はおよそ800」


「1割には満たないですが、かなりの痛手ですな」


 浅井軍は総勢で12000ほど。激戦の割にはそこまで死者は出ていない様に思われるかも知れない。しかし死者が1割に達していたら、再起不能レベルの大打撃である。負傷者はその3倍いると思った方がいい。そして敗戦により全軍の士気がどん底状態である。


 池田恒興があれだけ準備した陣形でこの程度の被害で済む理由は『鉄砲の性能の低さ』が挙げられる。この頃の鉄砲はまだまだ歪さが残る技術力で作られている。完全に真っ直ぐで完全に凹凸の無い鉄筒を作る事が不可能なのだ。また完全に球体の弾丸を作る事も出来ない。弾込めをしようとしたら弾丸が入らないという事もザラにある。そんな歪で凹凸がある鉄砲は弾丸に掛かる力が分散してしまう。人体を貫通するなど至近距離でなければ不可能である。また弾丸の形状もただの球体で貫通力は乏しい。したがって、鉄砲の弾丸が当たるのは最前列くらいで、前の人間を盾にすれば後ろの人間は助かったりする。遠藤直経もそうやって生き延びた。

 実際に鉄砲による死者は100人いくかいかないか。池田軍の左右の横撃で200人程度だろう。ではあと500人の死者は何によるものか?答えは『弓矢』である。矢は高空から降り注ぐ様に着弾する。鉄砲の数など比べ物にならない程の数の矢が放たれている。沼地に嵌まった浅井軍前衛部隊は矢盾を掲げて防ぐ事も出来なくなり、弓矢の餌食になり続けた。弓矢はそんなに殺傷力が有るのか?当たり所さえ悪くなければ致死性は無い。それは矢が1本ならの話だ。

 沼地に嵌まり致命傷ではない矢が刺さる。この程度ではまだ人間は死なない。だが、動きが鈍ったその者には第二射、第三射、第四射と矢が飛んできて刺さる。更に動きが鈍り第五、第六、第七、……という感じに延々と矢が飛んでくる。普通にハリネズミ状態になる。全て致命傷を避けたとして生きているだろうか?力尽きて沼地に沈んだであろう。

 この戦国時代は鉄砲が登場し、戦場を席巻した様に思われがちだ。しかし、実際は弓矢の方が格段に成果を出している。

 それでも織田信長が鉄砲に着目したのは目に見える派手な戦果と轟音だ。この二つは敵に恐怖を叩きつける為、結果として敵の士気を崩し人死にを減らして勝利する事が可能になった。一方で弓矢は一般的な武器である為に誰も怖れず、結果として士気が挫けず殺戮し続ける。今回の戦いでも、この差が圧倒的に出ている。


「池田軍はおそらく200も死んではおらんじゃろうな。被害を厭う段階ではない」


「むう、ならば何が目的なのでしょう」


 被害の軽さからも池田恒興が進軍を止める理由にはならない。領土的野心があるのなら、池田恒興は講和を言わずに小谷城まで進軍してくるはずだ。なら池田恒興は何を狙っているのか。

 最後の可能性は織田信長が浅井家にした通達。これを池田恒興が律儀に守っている可能性だ。


「一つ思う」


「長政様?」


「織田信長は最初から我等と戦うつもりだった様に思うのだ。こちらの要求にのらりくらりと返答を引き延ばし、甲賀の制圧が完了すると対決姿勢を顕にした。いや、上洛自体を隠れ蓑にしていたとも言える。上洛の邪魔は関係が無い限り控えるべきだからな」


「確かにその通りですな。それで出遅れたとも言うべきですが。しかし、そうであれば織田信長は上洛前から我等と戦うつもりであったという事になりますが」


「浅井家と織田家の間に遺恨など無い。というより、関係すらない。ならば何故にこちらを敵視している?」


 浅井長政は織田信長と戦う事になったのは、佐和山城などの扱いに関して意見がぶつかった為だと思っていた。その交渉の手切れついでに京極小法師や朽木家の人質の返還を押し付けていると見ていた。だが、長政は信長の行動はもっと前から計画していたのではないかと思い始めていた。それこそ上洛前から。


「……織田信長に理由が無いのなら、有るのは」


「京極高吉、ヤツしかおるまいて。聞けば京極高吉は上洛前から織田信長の所に身を寄せていたとか。ヤツの入れ知恵に間違いないわい」


 浅井家臣全員の脳裏にあの元主君の顔が浮かぶ。あれは愚物であった筈だ。追放してやれば何も出来ずに乞食になっていた程だ。なのに、いつの間にか織田信長に接近しており、彼を動かす程になっている。そして織田家の中でも中心人物というべき重臣・池田恒興の軍団を自分達に当たらせた。結果は先程味わってきた。そう、地獄を見る破目になったのだ。

 浅井家臣達は頭を抱えた、あんな男はさっさと殺しておけば良かったのだと後悔した。京極高吉が愚かで何も出来ないと高を括ってしまった事。その愚か者を殺して『主殺し』と後ろ指をさされたくなかった事。それで彼を追放に止めたのである。源頼朝や源義経を生かしてしまった相国入道と同じだ、と彼等は顔をふさぐ。

 京極高吉は笑いが止まらないだろう。かつて自分から全てを奪った者達に指一本動かさずに復讐出来るのだ。力は織田信長が用意してくれるし、軍団は池田恒興が率いてくれる。彼自身は堀家の鎌刃城で接待を受けながら高みの見物という訳だ。

 その情景を思い浮かべ、浅井家臣達は更なる怒りに震えた。


「ならば池田恒興の要求は織田信長の要求と同じで姉上の息子・小法師だな。そして朽木家の人質もか」


「だから池田軍は大して追撃して来なかったのですか。交渉で人質を取り返す為に」


 京極高吉が織田信長を動かして、まず取り返したいのは嫡子の京極小法師だ。おそらく池田恒興はそれを織田信長から厳命されているのだろう。だから池田恒興はそこそこで講和しようとしている。安全に人質を取り返す事を念頭に置いているのだ。池田恒興には目的の『ぎょく』を取る為に慎重に駒を動かす老獪な将棋打ちの様な印象を浅井長政は受けた。


「こちらが立て直す時間を欲する対価として、人質の解放要求か。受け入れ難いが受け入れられない訳ではない。理に適っているとしか言えないな。これが池田恒興という男か」


「如何為さいますか?」


「準備はしておけ。あとは直に聞いてからだ」


「ははっ」


 浅井長政は人質の解放を受諾する方針を決めた。今の彼には浅井家を立て直す時間が必要であるし、人質に価値が無くなったという事もある。

 おそらくではあるが織田信長は京極高吉に幾らかの領地を与えるだろう。京極家が復興しないと、織田信長が利用出来ないからだ。いつまでも根無し草では意味が無い。となれば、京極小法師の立場は不安定になる。京極高吉が別の子供を儲けてしまえば無意味ともなる。それならば浅井家の血を引く小法師に嫡子のままでいてもらった方が、後々で使えるかも知れない。手放す事にはなるが無価値よりはマシだ。

 そして朽木家が浅井長政の言う事を聞く事はもう無いだろう。後ろ盾となる幕府が復権したからだ。しかも幕府には織田信長という強力な手駒まであるので、今後は強気に出てくる事も予想される。完全に虎の威を借る狐の威を借る鼠だが。


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 浅井長政は直ぐに小谷城を出た。伴に付いてきたのは遠藤直経。長政を連れて来いと言われたのは彼だし、織田家の陣容を知っている。いざと言う時は長政を守る力となるだろう。そしてもう一人、傅役である海北綱親が付いて来た。長政としては小谷城に残って欲しかったのだが、本人が長政の盾となると言って聞かなかった。池田恒興の目的を考えれば、騙し討ちの可能性は限りなく低い。という訳で、説得するのが面倒なので来る事になった。他は護衛の兵士が50名程となる。

 池田軍団の本陣に着くと遠藤直経は池田家臣の取次に報告した。そして大して間を置かず、本陣の中に通される。

 広間の様に区切られた場所に一部が欠けた黒い兜、金色の揚羽蝶紋が入った黒い甲冑を着た男が奥の真ん中に座っていた。歳の頃は二十歳はたち前後。鋭い目つき。これが池田恒興か、と浅井長政は気を引き締めた。

 傍らに立つのは壮年の男性。既に出家しているのか、僧侶の様な禿頭。髭は豊かに蓄え、力を感じさせる目つき。噂に聞く池田恒興の家老、土居宗珊だろう。土佐一条家の家老を務めた有能な人物だと聞いている。

 他は二人に控える様に槍使いが居る。おそらくは親衛隊なのだろう。

 浅井長政は気圧される事なく、恒興に向かって歩き出す。恒興の前、少し離れた場所に床几しょうぎという椅子が置かれている。そこに座れという意味だろう。それ以上は近付くなという意味もある。浅井長政は床几に腰掛ける。その両脇に海北綱親と遠藤直経が立つ。


「お前が池田上野介か」


「ようこそ、浅井備前守殿。本当に来てくれるとはニャー。多少、交渉を入れてくるかと思ったけど」


「そんな時間稼ぎをしたら、小谷まで威圧に来るんだろう」


「よく分かってるじゃニャいか」


 そう言って二人はお互いに嗤い合う。こんな感じで池田恒興と浅井長政の邂逅は大変友好的に始まる。浅井長政は恒興の行動を看破し、池田恒興は長政が他人の思考を読める事を称賛する。


「私がお前でも同じ事をするからな。今回はお前に聞きたい事があったから来たのだ」


「ニャにかな?」


「何故、お前は近江国の民を苦しめる。彼等は略奪と暴威に曝され滅びればいいと言うのか!塗炭の苦しみの中に居ればよいと言うのか!」


「……」


「織田信長は何の権利が有って近江国を荒らしているのだ!?この地で生き足掻く我等を嘲笑いたいのか!?」


 恒興は浅井長政の言葉を黙って聞いた。成る程、この男は予想通りに近江国の事ばかり口にする。徹底的な小局主義、所謂、目の前の人間を救いたい、自分の手の届く範囲を守りたい主義だ。こういう人物は小局でしか物を語れない、自分の目で見た物が全てだと思う。

 逆に池田恒興は大局主義だ。遠大な計画を持って広く多数を救う。その途上にある障害は排除し、多少の犠牲を厭わない。大多数を救う結果を持って良しとする。

 小局主義と大局主義はどちらが善く、どちらが悪いという話ではない。例えば、貴方がプールで溺れたとして、「今、行くぞ!」と助けに飛び込むのが小局主義で、「二次被害が出る」と静観するのが大局主義だ。小局主義は勇敢とも取れるが、溺れる者は大暴れする。結果、救助者と要救助者が諸共溺れる事案が後を絶たない。下手をすればただ被害を増やすだけだ。大局主義は冷静とも取れるが、見殺しも選択肢にある。要救助者を飛び込まずに救う手段を探すだろうが、間に合わないかも知れない。被害を最小に止めたとは言えるが。どちらが正解だと思うのだろうか。そもそも溺れるなと思うのかも知れないが、この話に置き換えると「民は貧しく不幸になるな」と言っているに等しい。


「……浅井長政、お前は意外と『くだらない』事を言うんだニャ」


「何だと!?」


「略奪と暴威に曝される国は、日の本の中で近江国だけニャのか?」


「む、……」


 恒興には長政の言う重度の『地元主義』がくだらないと感じる。恒興は常日頃から地元の犬山民ばかりを可愛がってはいない。寧ろ、他国から来た者達に配慮した政治をしている。それが地元民には不満なのだが。

 地元民は尾張国内ならやっていけるだろう。しかし、他国から来た民は寄る辺が無いのだ。織田信長や池田恒興といった為政者が彼等の面倒を見ないと地元民に嬲り殺しにされてもおかしくない。だから恒興は地元民軽視余所者重視を止めない。大を救う為に小を犠牲にしているのだ。その姿勢が余所者を安堵させ定住に繋がり、犬山は大都市へと発展する礎ともなった。

 その余所者がたくさん犬山に来るという事は、別の場所では他国で余所者が大量発生している事に他ならない。そう、略奪と暴威に曝されている訳だ。


「ニャーの生国は尾張国だ。濃尾平野は昔から穀倉地帯だからニャ、略奪など数え切れん。しかも近江国と違って毎年暴れる大河が三本も在るんだよ」


 恒興は自分の生国である尾張国を例に出す。今は比較的安定している国であると認識されているが、桶狭間の戦い前までは他国と変わらないくらいに酷かった。特に木曽川による水害は毎年の様に恒興を悩ませた。


「富士川の戦いの時に平家の軍団が尾張国を通った。その時の濃尾平野は木曽川が大暴れして壊滅状態だったらしい。それでも平家の軍団は略奪した。さあ、餓死者はどれくらいだニャー?」


 富士川の戦いとは何とも古い話をしていると思われるだろうが、例として出せる外国勢力からの略奪暴威が近江国、尾張国にもほぼ無いからだ。特に近江国など鎌倉時代初期から佐々木氏がずっと統治しており、六角家や京極家に分かれた後でも外国勢力を近江国内で暴れさせなかった。唯一の例外は幕府の六角家討伐くらいか。

 結局、近江国でも尾張国でも、しっかりとした大名が治めた国の略奪暴威というのは内側の争いが多くなる。下剋上が流行る理由である。


「略奪と暴威に曝される?そんなの何処でも一緒だニャー!近江国だけじゃねぇよ!今も日の本各地で大名豪族が略奪に走っとるわ!だから終わらさなきゃならんのだろうが!」


 略奪と暴威を無くしたい。池田恒興と浅井長政が言っている事は同じだ。だが、範囲は違う。

 浅井長政は日の本全てなど今の自分では荒唐無稽。せめて隣人は救おうという感じだ。もしも浅井長政が近江国を統一したのなら、彼の手の届く範囲がもっと拡がったのなら、彼は救う対象を近江国から日の本まで拡大したかも知れない。だが、それでは時間が掛かり過ぎると恒興は思う。


「ニャーの昔の領地は毎年、8割が水没してたよ。毎回、防水工事を皆と額に汗してこさえて、川が全てを無意味だと嘲笑うんだ。どんな絶望だと思うよ?」


「……」


「でも、信長様が治水に力を入れて、去年は小さな被害に抑える事が出来たニャー。そういう物は日の本全てで享受すべきだと思う。だが今の日の本には奪う事しか考えない輩が多過ぎる。抵抗する事しか考えない輩が多過ぎる。話を聞かない輩が多過ぎる。お前もその一人だぞ、浅井長政」


「その為に近江国を奪いに来たという事か。そこに生きる者達の苦しみなど顧みず、犠牲になれと言う訳だな、池田恒興」


 これが恒興の本音だ。今の日の本には奪う事、抵抗する事、話に耳を貸さない事に終始する者達ばかり居る。だからぶん殴ってから話を聞けと叫ぶしか方法が無い。今回の戦いも同じだ。

 しかし浅井長政には受け入れられない。恒興は全体の為に誰かに犠牲を強いる。それが今回は近江国な訳だ。突然やって来た他人に「お前が犠牲になれ」と言われて納得出来る人間などいないだろう。


「お前の言っている事が分からん訳ではない。だが、それでも私は、目の前で苦しむ者達を見捨てられん」


 浅井長政は恒興の言う事が理解できない訳ではない。ただ受け入れられない。自国を犠牲にして他国を救えという論が。言い換えてしまえば、恒興の論は「家族を犠牲にして赤の他人を助ける」と言っている。受け入れられる人は、そんなにいるのだろうか。これは例え話であって、恒興が家族を犠牲にする事はない。


「お前は大多数を救う為なら少数は当たり前の様に切り捨てる男だ。日の本の為に近江国に犠牲を強いている。今、はっきりと理解った。私とお前の道は交わらない」


「その様だニャ。ニャーは近江国の民にも『いい目』を見せてやるつもりなんだがな」


「人を踏み付けながらか?大した『いい目』だ」


「……何を言っても無駄な様だニャ」


 浅井長政は宣言する、池田恒興と同じ考えに到る事は無いと。その様子に恒興も諦めの表情になる。恒興は近江国の力を利用して日の本全体に役立てる事を考えている。確かに近江国は犠牲と言えなくはないが、それは不幸だろうか?寧ろ、周りが発展していけば商圏が拡がり、その中心たる近江国は今より豊かさを享受出来るだろう。何故、長政はそれを重視してくれないんだ、と恒興は苛立ちすら覚える。


「京極小法師は母親である姉上ごとくれてやる。朽木家の人質も全員連れて行け。幕府が復権した以上、もう価値は無い」


「分かったニャー。姉川を境界線とし姉川以北には侵入しないと約束しよう」


 講和条件は直ぐに定まった。浅井長政は織田信長の要求を呑み、京極小法師とその母親である浅井慶、そして朽木家の人質全員の解放を約束する。恒興は既に制圧済の姉川以南を除く浅井家領地への進攻を停止。姉川を境界線とする事を約束し、それ以上の領地割譲を求めない事を約束する。

 講和が成ると浅井長政はさっさと退出した。もう恒興と話したい事は無いといった感じだった。

 浅井長政の堂々とした態度を土居宗珊は評価していた。


「なかなか骨のある若者でしたな、浅井長政は」


「宗珊、アレは殺さねばならんニャ」


「殿!?」


「スマンがこれは善悪の問題じゃねーギャ。アイツが生きている限り、近江国の民は巻き込まれ続ける。ニャーは浅井長政が理想を捨てて、近江国の民の利益を取ってくれると思っていた」


 宗珊の評価とは裏腹に、いや骨があるからこそ恒興は長政を殺す決断をした。骨があり過ぎて、自分を曲げる事が出来ないからだ。


「だがアイツは理想に傾倒している。利益を得る為の譲歩を良しとしない。なら行き着く先は、理想を遂げるまで命を消費し続けるニャ」


 恒興はかつて言った。『正義』『信念』『理想』に傾倒する者は殺す、と。これが理由である、その傾倒する物に『命』を消費し続けるからだ。それが実れば消費された『命』も無駄ではないんだろう。実らなかったら?実るまで何処までも『命』を消費するだけだ。実ると信じて。

 恒興はこれを憎悪している。『正義』『信念』『理想』を持つ事が悪いのではない。恒興にだって『正義』『信念』『理想』は在る。それが『欲望』を上回る事がいけないのだ。『命』とは『欲望』である、生きたいと願う『欲望』である。これを上回るから『命』を消費しても何も感じないのだ。『正義』『信念』『理想』の為には仕方ないと思ってしまうのだ。恒興はこの考え方を唾棄すべき物と確信している。

『理想』と言えば織田信長も『理想家』だろうと感じる人がいるかも知れない。だが、織田信長の理想とは人々の生活に重点が置かれた物が多く、戦国の世では『夢想』とすら捉えられがちだから『理想家』というイメージが付いたのだろう。しかし信長の理想は経済的な物が多く、経済とは人が生きていく為に回す物で、人が生きていくとは即ち『欲望』なのだ。つまり織田信長の『理想』は『欲望』を上回る事はなく、現実に則した物である。だから恒興は信長の『理想』を支持している。決して盲目的に支持している訳ではない。


「しかし浅井家とは講和が成りましたぞ。これを破棄するのは、信長様の名声にキズを付けましょうな」


「そこだよニャー、問題は」


 宗珊は講和が成った事を強調する。恒興の言っている事は理解るが、状況が悪いという事だ。講和などの約定の破棄は周辺に多大な影響を与える。特に他大名や家臣豪族からの信頼を失墜させ、最悪は反乱や裏切りの理由にすらなる。

 恒興の独断で信長に影響を及ぼす訳にはいかない。恒興はどうしたものかと悩むが、宗珊は言葉を続ける。


「なので某は浅井長政が暴発する様に仕向けましょう」


「宗珊」


「浅井側から講和を破棄させれば、何も問題は御座いませんな」


 約定を破棄する事は悪影響が大きいが、相手から約定を破棄してくれれば何も問題は無い。寧ろ、それが大義名分になる程の利益だ。土居宗珊は浅井家側から約定を破らせる計略を練ると進言した。


「宗珊、悪い顔してるニャー」


「いえいえ、殿には敵いませんとも」


 恒興はニヤリと笑って家老の理解が得られた事を喜ぶ。宗珊とて綺麗事だけで世の中が回る訳ではない事は知っている。この主従は浅井長政を暴走させる事で意見を一致させた。

 願わくば、暴走する前に理想を捨ててくれと思いながら。


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【あとがき】


 恒「竹中半兵衛をサイコパスに書き過ぎなんじゃないか?ニャー、困ってるんだけど」

 べ「何を言っているのかな?作中最強のサイコパスは池田恒興くんだよ。君は基本的に『信長さんに逆らうヤツは37564』だからね。恒興くんの作戦は基礎に37564があって、そこからなるべく殺さない方策を取っているに過ぎない訳だ。つまり最初は『殲滅』する事から思考が始まっているのさ。恒興くんの頭が悪かったら、もう2、3回は殲滅してると思うけど」

 恒「う、確かに上手く行かなかったら殲滅の可能性は何回かあったけどニャー。だが、それもこれも書いている『べくのすけ』こそがサイコパスだからだろニャー!」

 べ「……うーむ、否定出来ない」(笑)



 『約束は破る為にある』と言ったのはスターリンさんですニャー。彼は大きな成果を出しましたが、大きな被害も出しました。

 『約束は破らせる為にある』と言ったのはビスマルクさんですニャー。彼は『鉄血宰相』と呼ばれ、欧州外交を綱渡りしながらドイツ帝国建国まで成し遂げました。

 この『約束を破る者』と『約束を破らせる者』の対比はなかなかに面白いと思いますニャー。

 ビスマルクさんは完全な政治家で軍隊経験すらありません。なので軍事に関しては軍制改革を断行した陸軍大臣のローンさんとプロイセン軍を指揮した参謀総長のモルトケさんに丸投げしてました。予算だけ取ってくるから後はやっといて、みたいな。この三人がドイツ帝国建国の三英傑ですニャー。

 このビスマルクさんを早くから危険視して外交戦でバチバチやり合っていたのが、英国首相のパーマストンさんです。あの『アヘン戦争』を主導し『恐るべきパーマストン』と呼ばれてました。しかしパーマストンさんは最大の政敵としてヴィクトリア女王さんと敵対していました。その為、パーマストンさんがビスマルクさんを阻止しようとすれば、ヴィクトリア女王さんがパーマストンさんの邪魔をするという奇妙な構図になっていました。プロイセン王太子妃はヴィクトリア女王さんの娘さんなのも影響したかもです。「おい、パーマストン。娘の嫁ぎ先を攻撃するな」と。

 結局、パーマストンさんはビスマルクさんを排除出来ずに亡くなり、後にフランスのヴェルサイユ宮殿にてドイツ帝国建国を宣言される事になりましたニャー。

 ヴィクトリア女王さんは「何で自分はあの時、パーマストンの邪魔をしてしまったのか」と嘆いたそうですニャー。


 大河ドラマの感想

 ちょっと恋愛ドラマ要素が強いですニャー。しかし築山殿の割を食った早川殿が可哀想ですニャー。そしてちょこちょこ挟まるギャグ要員服部半蔵さん。

 氏真さんは鹿島新当流の達人じゃなかったっけ?皆伝は貰ってないけど、家康さんが勝てるのだろうか……。

 戦のセットがショボいー。だから最近の大河は戦いのシーンが少ないのですニャー。鎌倉殿の13人の一ノ谷の戦いでも源義経さんが5、6人に吠えてるだけでしたしニャー。この辺は「ああ、昔は良かった」と思える部分ですニャー。

 氏真さんは戦の才能だけが無いんですニャー。でも武芸、華道、茶道、連歌、蹴鞠、詩歌は才人と言えます。

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