姉川会戦 激突

 日は高く正午頃、浅井長政の軍団は姿を現した。大して間を置く事もなく法螺貝のブオーという音が鳴り響き、兵士達は猿叫の声を挙げる。平野を滑る雪崩の如く、走り出した彼等は中央を先頭に全体が角錐の形となる。これが日の本の戦における基本的な突撃陣形、所謂『魚鱗の陣』である。

 対する池田軍団は動かず、じっと槍を構える。陣形は報告通り、横陣を重ねたものである。所々に馬防柵などが建てられているものの、何故か柵は中央ではなく両端に建てられていた。これを事前に把握していれば『おかしい』と思ったに違いない。普通、馬防柵は中央から配置するものだ。しかし既に走り出した彼等は中央が空いている事を『幸運』としか思わなかった。既に止まる事など出来ないのだ。

 そして浅井軍先頭と池田軍第一陣中央が激突。浅井軍の将が盛んに「せ圧せぃ!」と叫び、浅井軍は恐ろしい勢いで池田軍の陣を突き破っていく。敵陣の真ん中に穴を開けて拡げていく。魚鱗の陣とはこの様な戦果を出し、最終的に中央突破する陣形である。池田軍は真ん中を突き破られ、兵士達は左右に退くしかなかった。

 その戦況を伝令から受け取り、加藤政盛は本陣に居る池田恒興と家老の土居宗珊に報告する。


「我が軍の前衛と浅井先鋒が激突!第一、第二、第三陣が突き破られました!」


「ま、そんニャもんだろ」


「予想通りですな」


 恒興と土居宗珊は報告を聞いても驚かない。寧ろ、それくらい出来るだろう、と余裕さえ見せている。だいたい十二段もの防御陣を布いたのだから、そこで終わってもらったら困るという余裕の態度だ。

 その直ぐ後、政盛の所に伝令兵が到着。政盛は受け取った報告を恒興に伝える。


「第四、第五、第六陣、突破されたとの事!」


「焦んなって。まだまだ半分だニャー」


「ですな。勝負はこれからですとも」


 報告を聞いて焦る加藤政盛を恒興は窘める。浅井軍が半分を突破する事くらい最初から予想済だ。その為に恒興は十二段の奥に行く毎に強い部隊を配置している。なので前陣の方は比較的破られやすくなっているのだ。因みに最奥となる本陣前の第十一陣に配置されているのは飯尾敏宗本隊と稲葉彦本隊である。

 余裕の態度を崩さない恒興を余所に、政盛の所には更に伝令兵が来る。


「第七、第八、第九陣、突き破られました!敵方、止まりません!」


「おお、頑張るニャー」


「江北武者は強いとは本当でしたな」


「え、コレ、落ち着いて居られる状況なんですか?」


 池田軍は十二段の内、九段まであっと言う間に穿うがたれた。政盛は焦るが恒興と宗珊は未だに落ち着いている。その理由は十二段横陣は奥に進む程、精鋭が配置されているからだ。


「フッ、政盛、落ち着くニャー。第十陣と第十一陣は精鋭を配置しといた。そこを易々とは……」


「第十陣、突破!第十一陣突破は時間の問題との事!」


 恒興が喋り終わる前に、伝令兵が飛んで来て大声で報告する。もう加藤政盛を介して報告している程の余裕が無いのだ。何しろ第十一陣の次は本陣、つまり敵はもう目の前である。


「……」


「……」


 伝令兵の報告に恒興と政盛は見つめ合って黙る。政盛の目は「何が『精鋭を配置した』なんですか?」と言いたげだった。


「ニャっはっはっは、浅井長政は強いニャー。第十一陣の次はここ、本陣じゃねーギャ。突破力がくそヤベー」


「あっはっはっは、困りましたな、殿。浅井軍の突破力は想像以上でしたぞ。これでは六角家も堪らなかったでしょうな」


「笑いながら喋ってる場合ですかーっ!!」


 恒興と宗珊はもう笑うしかないという感じで浅井軍の突破力を手放しに褒めちぎる。ヤケにでもなったかの様に笑い合う二人を加藤政盛は全力でツッコミを入れた。当然の話だが、浅井軍は目の前だ。笑っている場合ではない。


 浅井軍先鋒隊に属した遠藤直経は池田軍団の脆さをおかしいとは感じていた。しかし既に味方の勢いを止める事は出来ない。事ここに至っては、敵陣を二分する程の突破をするしかない。例えどんな陣容が待ち構えていても突き進む以外の道は無いのだ。遠藤直経は共に走る兵士達を大声で鼓舞する。


「よし!皆、圧せ圧せーっ!!敵本陣に一番乗りだーっ!!」


「よっしゃー!やったるべ!」「オラが一番だ!」「織田の弱兵なんぞ相手にもならんわい!」


 意気軒昂な兵士達はとうとう池田軍第十一陣を突破。陣の両端に立てられている馬防柵を避けて、中央に密集して突破口を開いて行く。そして兵士達は我先にと池田家の家紋である『丸に揚羽蝶』がたくさん掲げられている陣へと突っ走る。陣幕を斬り破り、中へ突入する。しかし、そこは本陣ではなかった。


「な、何じゃー!?」


「どうした?……うおっ!?」


 前方を走る兵士達の足が急に止まる。遠藤直経は何が起こったのか分からなかった。しかし前に進めば、その正体を自分の身を以て知る事になった。


「何でこんな所に沼が在るんだ!?そんなバカな!?」


 そこは水の張った田んぼの様な沼地であった。この沼地が池田軍第十一陣と第十二陣の間に横たわっていた。遠藤直経はこんな場所に沼地など在る訳がないと驚愕する。そう、沼地など無い、いや無かった、では何故に在る、造ったのだ、誰が?池田恒興以外には居ない。


「浅井家の諸君、ようこそ地獄の釜へだニャー」


 沼に足を取られ、勢いよく転けていく浅井軍。それを沼地の向こう、本陣中央から見下ろす全身黒鎧の男、池田恒興が宣言する。ここは『地獄の釜』であると。恒興の周りには土居宗珊の四国衆弓兵隊や土居清良の鉄砲隊がずらりと並んでいた。正に殺しの間となっていた。

 全てはこの為であった。恒興は信長から借りた戦えない傭兵5000人を投入して本陣前を耕し水を引き入れて沼地を造った。問題は地質であった。姉川周辺は大き目の石が多く耕すのに時間が掛かる。だから事前に土居清良を派遣して適度な地質を探させて、この場所に本陣を置いて沼地を造った。次に柘植衆をほぼ全員を投入して情報を封鎖した。沼地を造っているなどと知られる訳にはいかない。沼地の周りには陣幕を張り巡らし、直前までその存在を秘匿した。そして馬防柵を両端にばかり配置する事で浅井軍の進攻ルートを中央のみに限定させた。

 恒興は浅井軍の勢いを止める為にこの沼地を造ったのだ。ただそれだけの為に造った。

 何故なら浅井長政が『魚鱗の陣』で突っ込んでくる事を知っていたからだ。いや、正確ではない。浅井長政は『魚鱗の陣』以外を使えない事を知っていた、である。簡潔に言うと江北武者の強さは個々の強さであってチームワークではないからだ。陣形訓練など誰もしていないのだ。だから浅井軍が一丸となって攻め掛かれば、自然と『魚鱗の陣』になってしまうのである。

 この『魚鱗の陣』は『鋒矢ほうしの陣』と同じく突破力に能力を全振りした陣形である。この突破力で中央を突き破り、敵陣を分断する事を目的としている。その反面、兵士の足が止まってしまうと無力になるという欠点がある。

 だから恒興は沼地を造って待ち構えた。『魚鱗の陣』は足さえ止めてしまえば、如何様にも出来るからだ。


「こ、こんな詐術の様な真似を!武士の戦をする事も出来んのか!臆病者めがーっ!!」


 自分達は嵌められた。沼地の泥の中で遠藤直経は本陣に居る池田恒興とおぼしき人物に吠える。正面からまともに戦う事も出来ないのか、と。


(そうだ。誰かは知らんがお前の言う通りだ。ニャーは臆病者ニャんだよ。怖くて怖くて仕方ないんだ)


 池田恒興は前世の記憶を持っている。それが実際に体験した事なのか、はたまた夢で見た荒唐無稽な物かは判らない。しかし今世は記憶そのままではないがある程度準拠した動きをしている。即ち、恒興の記憶は有効な物なのだ。

 であるならば、この先に起こる事も有効となる。起こる事に対して先手を打てる利はある。だが起きて欲しくない事も避けれない事象もある。恒興が前世の記憶を持っていなければ、起こる事すら予想出来ないので恐怖するに値しない。そう、池田恒興は前世の記憶を持つが故に、これから起こる事象に恐怖し、それを変える為に足掻いているのだ。


(ニャーはこの上無く恐怖しているんだ。。だから、だからニャ……)


 池田恒興が最も怖れる未来の事象。それは最愛の兄を喪った事。京の都は本能寺で発生した日本史を代表する謀叛劇だ。恒興はこの『本能寺の変』を防ぐ事を大目標にしている。

 その為に恒興は当初、明智光秀を殺せばいい、本能寺を消滅させればいい、と考えていた。だがそれは短絡的な思考であると気付いた。明智光秀が居ないから誰も謀叛を起こさない訳ではない。本能寺が無いのなら謀叛の舞台が別の場所になるだけだろう。なら明智光秀を殺害する事も本能寺を消滅させる事も無意味なのだ。寧ろ、それらを残す事で謀叛のタイミングが分かるのではないかと考えている。

 それよりも恒興は明智光秀が率いていた『兵士』の事を考える。本能寺の変の時に明智光秀が率いていた兵士は丹波兵と近江兵である。丹波国人は当たり前の様に信長を恨んでいただろう。丹波国人に対してはこれから手を打つべきだと、恒興は考えている。

 問題はもう一つ、近江国人だ。信長を恨んでいた近江国人といえば浅井家関連が多数となる。だが浅井長政とは既にぶつかっている。なので取れる手段は戦で負かした上で浅井家を降す。更に近江国人の恨みを池田恒興が引き受ける事だ。


「今、死んでくれニャー、浅井家の諸君」


 池田恒興は沼地に嵌まった浅井軍の兵士達に告げる。


「鉄砲隊、前に出るニャアアァァァー!!弓隊、構ええぇぇぇ!!」


 恒興は采配を持つ手を高く掲げて叫ぶ。采配とは短冊状に切り裂いた布や紙を棒の先に付け、遠くから見えるようにした道具で武将が部隊を統率する時に使う。他にも軍配や軍扇を使う武将もいる。


(この手を振り下ろせば沢山の人間が死ぬ。そんな事は理解っている。理解っていてこの沼地を造ったんだからな。この弾丸はニャーの物だ、このやじりはニャーの物だ、この殺意はニャーの物だ。ニャーを存分に怨むがいい。いいな、決して『信長様』を怨むんじゃないぞ!)


 恒興は既に覚悟している。自分の号令一つで多数の命を奪う事を。こうしなければ勝利は得られない。こうしなければ浅井長政を降す事は出来ないのだ。

 ただ思う、自分を何処までも怨めばいいと。その戦いが圧倒的である程、悽惨である程、近江国人の脳裏に池田恒興の名前が恐怖と共に刻まれるだろう。この恐怖こそが武士の支配の源泉だ。その上で織田信長は主君として近江に善政を敷けば良いのだ。池田恒興は大いに嫌われ、織田信長は大いに慕われる。これが恒興の計画する近江国の盤石支配だ。逆らえば池田恒興が来る、織田信長に従おう、となる訳だ。

 だから池田恒興は躊躇わない。その手の采配を振り下ろして号令する。


「全軍……撃てニャアアァァァー!!!」


 恒興の号令と共に無数の弾丸が発射される。空を埋め尽くす矢は豪雨の如く、沼地に降り注ぐ。沼地は一瞬にして地獄絵図へと変わる。圧倒的な暴力が人の命を刈り取っていく。身動きも出来ないまま、逃げる事も出来ないまま、次々に倒れていく。鉄砲隊も弓兵隊も恒興の命じるまま、機械の様に何も考えずに撃ち続けた。


「太鼓三連!打ち鳴らせぃ!!」


 悽惨な地獄が作られても、戦はまだ終わらない。土居宗珊の号令を聞いた太鼓打ちはドドドン、ドドドン、ドドドンと三連打を打ち鳴らし続ける。その音は戦場に木霊し響き渡る。そして左右に分断されていた筈の池田軍団全軍が動く。


「稲葉衆、反転せい!戦場をあけに染めよ!」


「反撃の時だ!飯尾衆、反転せよ!」


 美濃衆を率いる稲葉彦、犬山衆を率いる飯尾敏宗、二人はそれぞれの部隊を反転させて浅井軍に攻め掛かる。それに続いて左右に分かたれた筈の池田軍団は次々に部隊を反転し攻勢に出た。浅井軍は気付いていなかった。横陣が圧されて左右に分かれるのはおかしい事に。普通、横陣が圧された場合、兵士は後ろに下がって鍋底状の形になるのだ。当たり前だが、後ろへの突破は許してはならないからだ。だが池田軍団はほぼ最初から左右に分かれている。これを戦いながら把握せよ、というのはなかなかに酷ではあるが。

 これが意味する事は何か?池田恒興は最初から浅井軍を本陣前まで誘導する事が目的であり、左右に分かれた部隊は浅井軍の魚鱗の陣を包む様に展開した。それ即ち、『鶴翼の陣』に変化したのである。十二段横陣というのは沼地を隠す為の目眩ましに過ぎなかったのだ。


 軍団が進まなくなった事を浅井長政も気付いた。魚鱗の陣は足が止まってしまうと何も出来なくなる事も知っている。彼は即座に決断する。


「これはいかん!一度、下がって立て直さねば!」


「な、長政様!」


「どうした、じい?」


 長政が部隊に命令を出そうとした時、傅役の海北綱親が焦った表情で長政の横に馬を併せた。その報告は長政の予想を上回る事だった。


「我が軍後方に竹中半兵衛襲来!退路を塞がれましたぞ!」


「か、完全包囲、だと……」


 不利を悟った浅井長政が軍団を下げようとしたこの時、横山城から来た木下軍団別動隊の竹中半兵衛が襲来した。この為、浅井軍は池田軍団の鶴翼の陣に2方向を抑えられ、更に竹中半兵衛に後方を抑えられた。つまり、ここに『完全包囲』が完成したのである。


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【あとがき】


 今年の大河はなかなか面白いのですが、やはりモヤモヤする所はありますニャー。

 家康さんと瀬名さんって仲良いの?冷めきってて別居してたはず、とか。

 本多正信さんって家康さんに名前を覚えられてたの?その割には帰参した後も『鷹匠』という、どうでもいい仕事に就いていたんだけど。家康さんは鷹狩りが大好きなので話す機会があり、そこで「あれ?正信って優秀じゃね?」って気付いたとか。

 ま、この辺は人の解釈で如何様にでも変わりますのでいいかニャーと思います。


 べくのすけ的モヤりポイントはやはり『織田家』です。あまりにも態度が横柄過ぎますニャー。『織徳同盟』は家康さんでなければ成立しなかった同盟で信長さんが大きく譲歩した形ですニャー。そうしなければならない程に松平家には反織田家の闘士が揃っている場所なのです。家康さんの祖父である清康さんは松平家単独で織田家と渡り合いました。この人は単独で今川家とも渡り合いましたニャー。クッソ強いです。更に父親の広忠さんは織田家にだけは降りませんでした。

 そんな反織田家の巣窟であんな態度を取ったら串刺しですニャー。いくら水野の叔父さんでもね。というか、松平家臣からしたら水野さんは裏切り者認定のはず。三河武士は面倒くさいですニャー。

 そして怖くて高圧的な信長さん像ですニャー。織田家と松平家の勢力に圧倒的な開きが出来るのは信長さんが美濃国を征服してからです。現在の信長さんは竹中半兵衛さんにボコボコにされている程度です。そんな態度では同盟を即座に切られてしまいますニャー。

 あ、秀吉さんはあのままでいいかと。権兵衛さん日記ではあんな感じですし。

 思うに、高圧的で理不尽な織田家と信長さんを設定しているのは、瀬名さんと信康くんの処刑を信長さんのせいにしたいんでしょうニャー。家康さんのせいではない、彼は苦悩したんだ、というドラマにしたいのかニャーって。

家康さんの人生で「どうする?」の連続はやはり秀吉さん没後の豊臣政権内の立ち回りだと思うんですよニャー。そこに重きを置いてほしいニャーと思うべくのすけですニャー。

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