謀議の町 前編

 山科権大納言言継を訪問した次の日、恒興は堺の町に出発する。堺の町には信長からの矢銭要求が届いている。未だに返事が無いのは恒興の義祖父である天王寺屋宗達や小西隆佐が押し留めているのだろう。つまり恒興の到着を待っているのだと予想される。

 加藤政盛と親衛隊10名ほど連れて出立しようとする恒興を池田家鉄砲隊を率いている土居清良が止める。


「殿、お待ちを!」


「どうした、清良。何か用事かニャ?」


 普段から冷静な清良が焦っているのは珍しいなと恒興は思う。何事かあったのだろうと馬から降りて事情を聞く。


「はい、実は淡路水軍の安宅信康殿から使者が来て殿に取次を頼まれまして」


「安宅信康って三好家の一門衆じゃねーか。清良、ニャーはお前に調略を命じた覚えは無いぞ。そのお前が何故、安宅信康と縁を持っているんだニャー?」


 清良の用件は淡路水軍の安宅信康から使者が来て、恒興との交渉の仲介を頼まれたらしい。しかし、これは越権行為になり得る。本来、敵方への外交及び調略は『命じられた者』以外は行ってはならない。でなければ、裏切りや敵と通じたと疑われる事になる。

 恒興は詳しく聞かなければと、清良を詰問する。


「えーと、ですね。私共、四国侍は多数の四国民と一緒に犬山に来ました」


「そうだニャ」


「どうやって来たと思います?」


「そりゃ、歩いてだろニャ」


「間に瀬戸内海があるんですが」


 土居宗珊が四国侍を呼び寄せて、土居清良や渡辺教忠達がやって来た。それと同時に四国民も大群でやって来た。恒興は歩いて来たと単純に思っていたが、言われてみれば瀬戸内海がある事を思い出す。瀬戸内海を船無しで渡れる訳がない。そしてあの人数を船で渡すとなると一艘二艘の船で済む訳がない、水軍の頭領くらいでないと無理な話だ。恒興は気付いた、その水軍の頭領が誰なのか。


「あ、そういう事かニャー!その時に皆を渡してくれたのが」


「安宅信康殿という訳です。その、流石に大きな借りがありまして、断り切れず」


「あー、その半分はニャーの借りでもあるニャー。よし、清良、安宅殿の使者には堺で会見すると伝えるんだニャ。堺なら安宅殿も安心して来れるだろ。必要ならお前も行け、部隊から離れる事を許可する」


「はっ、お任せ下され!」


 恒興は安宅信康と堺で会うと約束する。それを土居清良が使者に伝える訳だが、条件として安宅信康側が人質を求める場合がある。恒興が必要なら清良に行けと言っているのは人質の意味もある。安宅信康がちゃんと堺から帰れば開放される。恒興が滅多な事をしなければ大丈夫だ。清良は全て承知して使者に会いに行った。


 京の都を出発した街道を一路ひた走る。既に待ち人をかなり待たせている状態なので急いだ。そして堺の門まで来ると恒興は馬から降りた。


「政盛、お前は親衛隊とこの辺りで宿を取れ。武装兵は堺に入れないからニャ」


「はっ、お気を付けて」


 武装した侍は堺に入れない。これを徹底しているから堺は独立不羈を守り続けている。独立不羈とは他人の力に頼らず、他人に影響されず、他から束縛されずに行動する事である。なので随伴した親衛隊を加藤政盛に預けて近くで宿を取らせる。恒興は天王寺屋に泊まるので護衛は無用という事だ。


「ニャんだ?傭兵か?物々しいニャー」


 恒興は前に来た堺の門が少々違う事に気付く。武装兵の数が明らかに多いのだ。この武装兵は商家に雇われた傭兵で、何処かの侍ではない。ほぼ全員が野武士の類だろう。門に4、50人も居て、警備には多過ぎる。何か事件でもあったのだろうかと。


「たしか迎えが来ているはずだけどニャー」


「池田様〜。こちらです〜!」


「おお、六兵衛。久し振りだニャー」


 恒興を迎えに来てくれたのは天王寺屋の番頭の六兵衛だ。恒興に向かって手を振っている。これですんなりと堺に入れると恒興も安堵した。


「この物々しさ、堺で何かあったのかニャ?」


「いえ、そういう訳やあらへんのですが。それも含めて大旦那様達がお待ちですよって」


「達?」


 大旦那様『達』という事は堺の天王寺屋に義祖父の天王寺屋宗達以外に誰か居るという事だ。まあ、十中八九、彼だろう。近江の事が気になって桑名の店から駆け付けたと思われる。そして六兵衛に案内されて天王寺屋の暖簾をくぐると思った通りの人物が待ち構えていた。


「よう来たなぁ、婿殿」


「待っとったでぇ、婿殿」


「お久し振りですニャー。やっぱり義父殿も来てましたか」


「まあな、ワテも婿殿の進捗が気になってもうてな」


「店先で話す事やないわ。奥へ行くで」


 天王寺屋宗達の他に恒興の義父である天王寺屋助五郎も待っていた。恒興にとっては予想通りだ。助五郎は最も近江商人の事が気になるはずだ。

 恒興は宗達に促され、三人で奥の茶室へ向かう。宗達の茶室は庭の中に造られた平屋一間。茶室の三方には笹や細竹が生い茂っている。残り一方に出入口があり、白砂が敷き詰められている。なかなか趣深いと思う反面、義祖父の宗達も練達の豪商なのだと分かる。この造りは間者避けでもあるからだ。自分達以外に人が近付いた場合、笹が鳴る、白砂が鳴く様に造られているのだ。つまりこの茶室は『密談用』に造られている訳だ。

 茶室に上がって一番に恒興は堺の現状を聞く。あの門の物々しさが気になっていたのだ。


「堺の様子はどうですかニャー?信長様から矢銭要求が来ていると思うんですが」


「それや、少しマズい事になっとんねん。その矢銭要求に反応して堺の商家が傭兵を雇おうとしとるんや」


 門の所で見た物々しさはどうやら織田信長の矢銭要求に対する反応らしい。つまり堺会合衆は反織田家に傾きつつあるという事だ。それを聞いて恒興も眉を顰める。


「あの入口の物々しさはそれですか。ニャんでそんな事に?」


「今井はんや、今井宗久はんが「織田家は堺の全てを奪うつもりや。いきなりの矢銭要求はその前触れや」と騒いどるんや。わしらと小西はんは黙っとるがな」


「今井宗久殿が?」


 堺会合衆が反織田家に傾きつつある原因。それは堺の豪商の一人、今井宗久が頻りに織田信長脅威論を述べているからだと宗達は言う。恒興は意外な名前が出たなと思う。


「まったく、とんでもない御仁やわ。このままやと堺会合衆は反織田家になってまうで。ワテらの計画もズレてまうわ。急いで手ぇ打たなゆうのに、親父が婿殿を待つって」


「婿殿はどない思う、これを?」


 恒興は宗達に促され、今井宗久について考える。


(今井宗久が?あの男は前世で『天下三宗匠』の一人、他は義父殿と千宗易だニャ。どうやって選ばれたかは知らないけど、信長様へ敵対行動を取ってなれるものかニャ?ていうか、真っ先に信長様から堺の統率権を貰ってなかったっけ?)


 今井宗久は主に武器を扱う商人であり、堺において鉄砲や火薬を一番調達出来る。鉄砲や火薬を欲する織田信長に重用され、後年には『天下三宗匠』に選出されている。これは信長が認めた天下の茶人の三人という意味で、他は天王寺屋宗及そうぎゅう(助五郎)と千宗易となる。

 前世において恒興は商人に興味は無かったが今井宗久の名前はよく知っている。堺会合衆において一番に織田信長に従い、織田家と堺会合衆の取引では必ず今井宗久を通す事になっていたからだ。恒興も鉄砲弾薬の取引を何度もしたのでよく覚えている。だからおかしいのだ、彼が反織田家というのが。鉄砲を重視する織田家は今井宗久にとって美味しい取引相手のはずなのだ。


「おかしいですニャー。今井宗久殿とは昔に茶席を共にしましたが、『機を見て敏』という感じの精力的な人物と見ました。短慮に走る事は無さそうですが」


「まあ、せやないと堺で豪商にまでなれへんしな」


(今井宗久はかなり早く信長様から堺の統率権を得て、堺の第一人者になったはずだニャ。これを回答として現状からどう策を積み上げれば辿り着くかを考えるんだニャー。……そうか!)


 恒興は思考する。今井宗久が織田信長から信頼を得る事をゴールと捉え、現状からどうすれば辿り着くかを考える。それこそこれを一つの謀略と捉えて策という積み木を重ねていく。そして答えに辿り着く。


「堺会合衆を反織田家に扇動して、自分だけ信長様に取り入るつもりかニャ!」


「何やて!どういう事や!?」


「堺会合衆が反織田家になってるのを信長様が耳にすれば流石に不快になりますニャ。その辺りで今井殿だけで信長様に「私だけ・・は信長様に従います。堺の事は全てお任せ下さい。2万貫も私がお支払いします」って言いに行くんですよ。信長様の信頼を独り占めにするために」


「何や、それ。卑怯やで!」


 今井宗久の目論見は堺会合衆を反織田家にわざと・・・傾けて、その事が織田信長の耳に入った辺りで自分だけ臣従を申し入れる事だ。当然だが、信長は今井宗久を深く信頼し、堺に纏わる権利を彼に与えるだろう。その権利こそが彼の狙いなのだ。巨額になるであろう織田家との取引の一番美味しい所だけ貰うために自分だけで仕切りたいのだ。

 恒興の推理を聞いた天王寺屋宗達はニヤリと笑った。


「流石は婿殿や、よう読むわ。助五郎、お前もこれくらい読まんかい。婿殿の爪の垢でも煎じて飲めや」


「かーっ、この歳で叱られるとかかなんな、もう。泣きたなってきたわ」


「わしもおかしい思うてな。納屋の金廻りを調べたんや。やはり大金を集めとる節があるで」


 宗達もおかしいとは思っていた。織田家は鉄砲火薬をたくさん買ってくれる。それに対して三好家はあまり鉄砲を買おうとはしない。三好家の弓自慢武将達が鉄砲を嫌っている事もあるし、鉄砲は大変高価だ。結局、三好家では松永弾正くらいしか積極的に揃えようとはしなかった。それなのに今井宗久が織田家を嫌う意味が分からないのだ。

 そして調べてみれば、今井宗久が経営する納屋は大金を集めようとしていた訳だ。


「て事は、婿殿の予想通りなんか」


「しかしな、あの程度では2万貫にはまったく届かへん。これを婿殿に聞こ思うてな、迂闊な行動を避けとったんや」


「おそらくは一息に払う気は無いんでしょうニャー。分割払いにするつもりですよ。信長様から何らかの権利を先貰いして。そして今井殿は一人で払う気も無い。後で義祖父殿なり誰かが加わると踏んでいるんです。ですが、その場合でも堺の統率権は今井殿に持って行かれますニャー。『堺会合衆が敵対的の中で今井宗久だけが信長様に従う意志を示す』、これが最重要ですから」


 宗達が調べて、今井宗久が大金を集めようとしているのは分かったのだが、信長が要求している2万貫にはまったく届かないという。それに対する恒興の答えは『一括で払う気は無い』である。結局、この謀略で重要なのは自分だけが織田信長からの信頼を得る事である。現状は資金が足りなくても、権利を得た後で稼いで払えばいいという事だ。

 そして三好家が復活出来なければ、結局は堺会合衆も反織田家を続けられない。後追いで信長に従う者達から仲介料として資金を巻き上げれば、2万貫を一人で払わなくて済む訳だ。下手をすると、堺会合衆の商人全員から合計2万貫を巻き上げる事も可能だろう。しかも堺の統率権は信長から頂戴済みというたちの悪さだ。


こすいなぁ。今井はんがこないな事するやなんて」


「あほう、助五郎。生目を抜き合う堺の町で何を言うとるんじゃ。しかしここまでや、婿殿が来たでのう」


「ああ、堺会合衆はまだ完全に反織田家になった訳やない。先走ったヤツが傭兵を雇い始めただけやしな。しかし親父、どう対処するんや?」


「簡単や。わしら、天王寺屋が2万貫を支払うと宣言すればええ。次の会合には婿殿も出席してもらうさかい、これ以上ない証人や。これで今井はんは出し抜く事が出来へんし、目論見もご破算やな」


 この謀略はまだ完成していない。だから今井宗久以外が2万貫を払うと言えばご破算となる。そして証人として恒興が居る事も決定打となる。こうなると今井宗久が直接、織田信長に会っても無意味だ。まだ堺会合衆は反織田家化していないのだ。

 しかし2万貫を天王寺屋で払うという事に助五郎は渋い顔をする。2万貫という金額は天王寺屋であっても気軽に出せる物ではないのだ。


「う〜ん、2万貫か。厳しいなぁ」


「わしらは婿殿と結んで稼いどるんや。これくらい必要経費やと思わんかい。……とはいえ、2万貫一括は流石にキツイのう。分割に出来へんか、婿殿?」


「あ、はい。それはニャーに任せて下さい。それに義祖父殿が宣言すれば、今井殿は謀略の失敗を悟って追従すると思いますニャー。彼の目的は『信長様の関心を買う事』ですから」


 恒興は分割払いをあっさり承諾する。こういうのは支払う意志が重要だ、もちろん2万貫は貰うが。

 それに恒興は宗達が宣言すれば今井宗久は謀略失敗を悟り即追従すると見ている。彼の目的は織田家との取引で儲ける事だ。だから独占したかった訳だが、失敗したからといって織田家との取引までは諦められないはずだ。だから恒興は今井宗久が食い下がってくると予想した。


「成程な、わしらに独占されては計画どころではないっちゅう事やな。下手を打てば、自分で扇動した反織田家にそのまま巻き込まれるで」


「それは泣きっ面に蜂やぞ、親父」


「まあ、今井はんに本気で反織田家になってもろても面倒や。折半くらいで許したろ」


 恒興の推理を聞いて宗達と助五郎は安堵する。天王寺屋だけで2万貫を支払う事態は避けられそうだ。恒興の予想ではこのタイミングで他の商家も動くはずだと。なので天王寺屋が支払う金額はもっと少なくなるだろう。


「それで近江商人に関してはどないなっとるんや」


「わしもそれは知りたいのう。婿殿はどこまでやるんや?今の近江商人は全て排除するんか?」


 次の話題は近江商人について。恒興は近江商人を何処まで追い詰めるのかである。この辺は堺会合衆としても北陸水運の商路に関わるので気になるのだ。恒興が近江商人に打撃を与え過ぎると北陸水運が麻痺してしまう事も考えられる。


「そこまでやる必要はありませんニャ。大きな木を揺らしてやれば小鳥は逃げ出すものですから。一番大きい木は切り倒しますが」


 恒興の考えは単純明快で大きな木を揺らす事。つまり大きい商家を狙って打撃を与えて、傘下の商家の離反を促す事だ。恒興は信長に楽市楽座で新しい近江商人を育てる事を提言したが、素人から育てようとかは誰も言ってない。そう、この離反した小鳥商人達を集めて楽市楽座で信長の信奉者に育て上げる予定なのだ。

 だが、何事もやり通す意志を見せる事は必要だ。それを『一罰百戒』にて表す。意味は一人を罰して百人を戒める。

 有名なのは『孫子』だ。彼は仕えた呉王闔閭こうりょに「私は如何なる者でも訓練出来ます」と言った。それを聞いた呉王は悪戯心を出して「自分の愛人達を軍隊にして見せろ」と言った。そこで孫子は将軍としての軍権を授かり、愛人数百人を二つの部隊に分けて、特に身分の高い二人を部隊長にして旗の指示を教えた。孫子は紅白の旗を振って部隊に動く様に指示したが、愛人達は動かなかった。孫子は部隊長の愛人を呼んで旗の意味を丁寧に説明した。しかし旗を振っても愛人達は笑うばかりで動かない。孫子は部隊長の愛人を呼び寄せて、『命令不徹底』を理由に処刑すると宣言した。流石の呉王も慌てて命令を取り消す様に言うが、孫子は「軍は国家の大事。王者であっても曲げる事能わず」と言って本当に切り捨てた。その後、愛人達は孫子の行いに震え上がり旗の指示に忠実に動いたという。


「という事は、標的は仰祇屋、やな」


「仰祇屋仁兵衛か。あの男は手強いで」


「しかし、まだ動いている様子は無いですニャー」


「有り得へんわ。あの男はそんな甘いヤツやあらへん。絶対、何かしとるで」


「そちらはわしらも調べとくわ。何か分かったら直ぐに知らせるさかい」


「はい、警戒しますニャ」


 罰する一人は仰祇屋仁兵衛となる予定だ。近江商人の中で最も強勢、傘下に収めている商家も多数と標的として最も相応しい。そして宗達や助五郎が警戒している通り、簡単に倒せる相手ではない。恒興の予想でも仰祇屋仁兵衛は降伏する様な人物ではないと見ている。


「それで今後ですが、天王寺屋には逃げ出した小鳥達の宿り木になって欲しいのですニャー」


「そこがワテらの出番か。そこから『楽市楽座』へ導く訳やな。任しとき」


「ふむ、近江国の商家を幾つか傘下に出来るな。ええ話や」


 恒興が天王寺屋に頼みたいのは逃げ出した傘下の商人達を楽市楽座に導く事。簡単に言うと「天王寺屋の傘下になったら楽市楽座に出店出来るで」と誘うのだ。こうする事で仰祇屋及び近江商人の大店から傘下を奪って弱体化を促進する。


「あ、ニャーもお二人の意見が聞きたいんですが」


「何や、何でも言うてみ」


「実はですニャー、犬山織でも西陣織の様な芸術品を作ろうと思いまして『唐物生糸』を仕入れようと思うんですニャー」


「ほうか、職人はどないするんや?素人やと生糸が無駄になるで」


「そこは西陣の職人あたりを引き抜こうかと思いますニャー」


 話が一段落したところで、恒興は二人に私事を相談する。件の『犬山織高級化計画』である。『唐物生糸』を輸入し西陣織職人を引き抜いて西陣織に匹敵する芸術品を作り出そうという計画である。

 計画を一通り聞いた宗達と助五郎はお互いを見合う。


「ふうむ、助五郎、お前はこの話をどう思うんや」


「ん?親父と一緒やと思うけどな」


「ほうか、なら同時に言うたるか」


「せやな」


「え?同時?」


 同時って何?と恒興は思う。その意味は二人の口から同時に同じ言葉が発せられるという事だった。


「「アホっちゃうか、婿殿」」


「はい、同時にアホ頂きましたニャー!チクショー!」


 二人の容赦無い言葉が重なって飛んでくる。最大級のアホ宣言を出された恒興は天を仰いで叫んだ。


「あのなぁ、婿殿。犬山織の売りである安さを捨ててどないすんねん。唐物生糸なんて使つこうたら値段が跳ね上がるやないか」


「高級品を作るな、とは言わへん。新しい挑戦をするのは悪うない。しかしな、それは今の事業を安定させてからの話やろ。犬山織はウチも小西はんの所も入荷が半月待ちなんやが?儲けたいんなら増産が先やろ。仕事の順番、間違えとらへんか?」


「はい、仰る通りですニャー」


 恒興はぐうの音も出ない。特に宗達の言葉は痛い。彼の言う通りで犬山織は売れ過ぎて在庫不足なのである。初期に比べれば関東のカイコも買い取り、絹女も仕事の無い女性や子持ちの未亡人を中心に人数を増やしている。可児村の養蚕業も拡大させて、一山だった桑山は三山に増やした。恒興が主導して植林伐採事業を立ち上げて桑山を増やしたのである。現在も桑の植林は続いている。

 それでも犬山織は人気を博して、今も品薄状態が継続している。宗達から「余所見しとる場合か?」と言われても仕方のない状況だ。


「だいたい西陣織の職人は『絹織物』職人や。犬山織は『つむぎ織物』やで、相性は良くあらへんな。西陣でも紬織物自体は作っとるで、でけへん訳やないけど。ま、西陣は紬織物でもクソ高いんや」


「紬織物……ですかニャ?」


「そこからかい。まあ、ええわ。わしがちゃんと説明したろ。一般的に絹織物は長い1本の生糸を編み込んで作られる。あの艶、光沢、滑らかさはこうして生まれるんや。これを『絹織物』と呼ぶ。しかし生糸は長い1本の糸ばかりではない。カイコの質が悪いと途中で千切れたりするもんや。そんな質の悪い屑絹を紬いで糸を作り編んだ織物を『紬織物』と呼ぶんや。紬いだ糸やとどうしてもゴワゴワして光沢も失われるが、絹は絹やで町衆には好まれるんや」


 絹織物には二種類が存在する。一つが『絹織物』だ、ややこしい表現ではあるが。これは西陣織や博多織に代表される2mあまりの1本生糸を用いて作成された織物を指す。1本の生糸を織り合わせると絹独特の光沢と手触りの滑らかさを出す事が出来る。この2mあまりの1本生糸が『唐物生糸』を使う理由である。国産カイコではそこまで長い生糸が生産出来ないからだ。これはカイコ自体の品質の差であり、数千年単位でカイコの品種改良をしている唐物にまったく敵わないのである。

 故に犬山織や関東の絹織物は『つむぎ織物』と呼ばれる。それは短い生糸を集めて1本の糸に紬ぐ事から呼ばれる。複数本の生糸からなる紬糸は太い上に凹凸も多数。それ故に『絹織物』と比べると光沢と手触りの滑らかさがかなり失われてしまう。


「西陣や博多でも紬織物自体は作るで。せやけど高いんや、そもそも原料が高いわ。だから質は落ちてもそこそこ安い関東産の紬織物は売れとったんや。ワテらもずっと加藤はんから仕入れとった。しかしなぁ、その関東産も戦乱で手に入らん様になって来て、「いよいよウチらも麻着るんか?」って町衆の女房達がおののいとったんやで」


「そないな時に婿殿の犬山織が始まったんや。そらもう、町衆は大注目や。しかも値段が関東産の半分くらいで質が変わらんと来た。お陰で町衆の女房達が「今の内やぁ!」って買いまくっとる。わしらも小店や他地方の商人に卸すだけで、てんやわんやになっとんねん。儲けたいんなら、まずは需要を満たせる供給体制を作る事や。高級品とか賭けに出る前に増産せいや」


「はい、ボコボコですニャー」


 流石に相手は販売のプロ。恒興では反論の一つも出ない。

 犬山織は多方面で言われているが『安い』のだ、それも圧倒的に。それまで主流だった関東産の紬織物の半分近くの値段で質が変わっていないのである。理由は輸送コストの削減、関東から考えても犬山は格段に京の都に近い。もう一つの理由が仕切り、犬山織は仕切っているのが池田家のみなのだ。普通、織物の様な儲かる商材には多種多様な者達が利益の分捕りに動く。だが恒興はその様な寄生虫を近付けなかった。養蚕業者も職人も絹女も恒興自身が雇っていて、手を出そうものなら恒興が武力で排除するだろう。だから関東産の絹織物よりも格段に安く販売出来るのである。これが町衆に待ち望んでいた織物と認識され、爆発的な需要に繋がっている。


「婿殿、ワテらは『家族』やから厳しく言うんやで。これが他人やってみぃ、「勝手に破滅したらええわ、なるべく稼がせて貰お」って、こんな感じになるで」


「せや、わしらとて婿殿には洒落にならん投資をしとるんや。破滅してもろうては困る。お藤かて不幸になってまうでな」


「はい、有り難い話ですニャー」


 恒興の凹み具合を見て、宗達と助五郎は少し言い過ぎたかとフォローに回る。厳しい事を言うのは『家族』だからだと。たしかにその通りだ、どうでもいい他人なら「好きにしろ」で話が終わってしまう。酷い人間なら儲けだけ貰って立ち去るだろう。


「やけど、何でそないに稼ぎたいんや?何かあったんか?」


「実はニャー、朝廷から『上野介』の官位を頂きまして」


「ほう、そらええこっちゃ」


「でも、上司である上野守が誠仁親王殿下ニャんです。つまり上貢義務が発生しましたニャー。それでより稼ぐ必要がある訳でして」


 恒興がより稼ぎたい理由。それは恒興が『上野介』に任官した事で、『上野守』の『皇太子・誠仁親王』が上司となってしまった。つまり誠仁親王への上貢義務が発生したからだ。まあ、『犬山織高級化計画』はだいぶ前に計画していたのだが。

 これを聞いた宗達と助五郎の目が怪しく光る。まるで咥え甲斐のある骨を見付けた犬の如く。


「誠仁親王殿下って皇太子やないか!親父、これは……」


「おお、金の匂いがするのう、助五郎!流石は婿殿やで!」


「え?ニャに、その反応?」


「当たり前やんけ!朝廷に意見を出し易くなるやろ。普通はいろんなお公家様にあっちゃこっちゃ根回しして漸くや。それが婿殿を通したら一撃、それこそ婿殿の代理権をもろて貢物持ってったら直ぐに誠仁親王殿下に会えるっちゅう事やろ」


「それにや、わしが聞いたところによると現帝である正親町帝は『生前退位』を強く望んでおられると言われとる。つまり上手くやれば誠仁親王殿下の即位は早まるで。これは早目に親王殿下と接触すべきや。天王寺屋を挙げて婿殿を全力支援するでぇ、わしらは『家族』やからな!」


 宗達と助五郎は早速、誠仁親王を利用することしか頭にない。流石の逞しさに恒興も閉口してしまう。

 朝廷に、それも皇太子の邸宅に出入りしている商人というだけで天王寺屋の名声はうなぎ登りに上がっていく。普段は都商人に独占されているシェアに問答無用で食い込める。貢物次第ではあるが朝廷の高位公家にも意見してもらえる。『親王殿下も推薦』とか宣伝文句も使える様になる。天王寺屋にとって、これ以上ない程の朗報だった。宗達も満面の笑みで『家族』だからと強調してくる。


(二人共、なんつー邪悪な顔だ。これがニャーの義父と義祖父です。この人達にかかれば親王殿下も美味しい美味しい果実の如しニャー。しかし『生前退位』か。それが信長様の最大の失態、今世は必ず達成しなければ。だから信長様もニャーももっと稼がないといけないんだ)


 恒興が考える織田信長の最大の失態。それが『正親町帝の生前退位』である。正親町帝は生前退位を望んでいたというよりは白河天皇以降の天皇は皆、生前退位を望んでいる。では白河天皇に何があったのか、日本史に詳しい方なら分かるだろう。そう、『院政』を始めたのが白河天皇、後の白河法皇なのだ。そして院政を開始する条件が生前退位をして『上皇』になる事なのだ。だから正親町帝は生前退位に憧れているのだ。

 順を追って説明しよう。事の発端は藤原道長の『摂関政治』だ。平安時代以前の天皇はしばしば無茶苦茶な人物がいた。寺を建てまくって財政を火の車にした天皇や、皇位を関係無い他人に渡そうとした女性天皇など。藤原道長はたった一人が権力を握るのは危険だし、失政が続くと天皇自身が危ういと考えた。だから天皇に嫁を出して摂政関白となり、政治を仕切る事にした。そして天皇が政治に関われない様にする為に、天皇の一年を儀式で埋めてしまったのである。これで天皇は誰がなっても儀式ばかりで無茶苦茶出来ないし、失政があっても摂政関白が悪いだけで天皇に危険が及ぶ事は無い。天皇の神聖性と不可侵は護られる……はずだった。

 この『摂関政治』だが、藤原道長が居なくなると直ぐに躓いた。藤原家の氏長者争いが始まったからだ。その隙を突いて、白河院の院政が始まる訳だ。ここからあらゆる天皇が上皇になって院政を始めたり、趣味に没頭したりする。故にこういう認識が出来上がった。『好きな事をしたけりゃ上皇になれ』と。特に後白河法皇など政治にも関わったが、殆どを趣味に没頭していた。後白河法皇は今様いまようという歌謡を愛好していたらしい。

 という訳で、天皇が儀式から開放されて自由な人生を歩むなら『生前退位』をする他は無かった。だが足利義満が室町に居を構えて以来、上皇になれたのは後小松天皇と後花園天皇のみ。後花園天皇から正親町帝まで実に100年近く上皇が出ていないのだ。理由はただ一つ。儀式にお金が掛かり過ぎるからだ。

 何しろ生前退位だと退位式や上皇の儀等の余計な儀式がたくさん増えて資金が掛かる。なので幕府がやりたくなかっただけだ。天皇のまま崩御してもらえば葬式だけで済むという、身も蓋も無いがそういう話だ。

 正親町帝の場合、参内した信長が正親町帝に拝謁した後で「帝は体調悪そうだから休んだ方がいい」と発言。それを聞きつけた公家が尾ヒレを付けて「信長は正親町帝を辞めさせようとしている」と噂した。それが正親町帝の耳に入り、生前退位させて貰えるんだと喜んだ。喜びのあまり「生前退位させて貰えると聞きました。期待しています」と信長に手紙を送ったらしい。

 そして右大臣になった織田信長を呼び出して生前退位の話を出した。信長は引き受け、生前退位の準備をした。だが、この生前退位は失敗した。信長は生前退位に掛かる費用を用意する事が出来なかったのだ。右大臣の頃の織田家は正に最絶頂期、それでも信長は資金集めに失敗したのだ。

 そして織田信長は正親町帝の願いを叶えられない自分に右大臣の資格は無いと位を返上した。だが朝廷では位の返上など前代未聞で、普通は引退である。なお、復帰はある。この信長の行動は波紋を呼んだ。『信長は朝廷を見捨てた』→『信長は日の本に未練は無い』→『信長は大陸を制覇して天皇位の上を作るつもりだ』と訳の解らない噂が拡まってしまった。これにより織田信長と朝廷の間がかなりギクシャクしていたのは確実だと恒興は感じていた。

 だから信長による正親町帝の生前退位は果たさねばならない。その為にもより一層、稼がなければと恒興は思う。あの最絶頂期の織田家よりもずっと。


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【あとがき】


 恒「何で他の小説始めたんだニャー?」

 べ「同じ物書いてると飽きて書かなくなるからねー。何も思いつかなくなるんだ。だから、たまに他の物を書く。そんなこんなで形にならない書きかけが20種類以上あるよ。召喚士は久々に形になったのでジリジリ書いていく予定」

 恒「形になる基準ってあるのかニャ?」

 べ「べくのすけ我流だけど『始まり』と『終わり』が決まっている事。ここまで出来れば、後は中身を書いていくだけだから」

 恒「ほう、じゃあ池田さんも『終わり』が既にあるのかニャー?」

 べ「あるよ。『恒興くん、老衰で死亡』」

 恒「何十年書くつもりだニャ、テメエ」

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