同じ穴の狢

 京の都にある池田邸 (借り物)。

 加藤政盛に案内された北畠具教はここに来ていた。池田邸に軟禁されている六角承禎と面会する為だ。彼は加藤政盛の先導で見張りが立っている一室まで来た。


「北畠様、こちらの部屋に居られます」


「ありがとう、加藤殿。下がってくれたまえ」


「はっ、失礼致します」


 政盛を下がらせた具教は、引き戸を動かして中に入る。


「失礼致す」


「む、誰だ?」


 障子戸から明かりを取っていても閉め切っている室内は薄暗かった。その広い室内の隅に壮年の男性が一人。具教は何故一人きりの室内で隅に居るのか気にはなったが、まずは名乗る事にした。


「ふむ、そう言えば直に対面した事は無かったか。同じ催事に出席した事はあるはずだがな。お初にお目に掛かる、伊勢国北畠家前当主・北畠権中納言具教と申す」


「北畠殿であったか!これは失礼した。六角家当主・六角左京大夫義賢、現在は承禎と名乗っておる」


 部屋の隅に落ち着かない感じで居る男こそ六角左京大夫義賢、現在の正確な名乗りは梅心院承禎である。彼は来訪者が北畠具教だと知ると座り直し、居住まいを正して挨拶した。その慌てた様子に、具教は承禎が何をしようとしていたのか察した。


「それで御用の向きは何方どちらか?囚われの身であるワシに何か用でもあるので?」


「ふむ、囚われて尚、意気軒高と。隙あらば逃げようとしているな」


「な、何を根拠に」


「腰が浮いているぞ。何時でも動ける態勢だ」


「む、う……」


 そう、六角承禎は逃げる隙を探して、外を覗っていたのだ。だから部屋の隅に居たのである。それを具教に看破された承禎はばつが悪そうな顔で押し黙った。


「私相手に逃げれるとは思わん事だ。君を逃がして信長様の不興を買う訳にはいかないのでな」


「はっ、大した忠犬っぷりだな」


 具教は信長の名前に『様』を付けた。この事で六角承禎は北畠具教を見下した。織田信長に仕方なく降るだけではなく、積極的に協力している犬なのだと。

 織田信長に協力している具教にも事情はある。ここは織田信長の狂信的家臣と言える池田恒興の邸宅なのだ。そして六角承禎と義治を逃さない為に厳戒態勢を布いている。そんな中で織田信長の名前に『様』を付けなかったら、即座に池田恒興に報告される。何処に聞き耳を立てられているか分からない。具教としては恒興に睨まれるのは避けたいのだ。


「私と君は案外、似た者同士だと思うがね。所謂、『同じ穴のむじな』というヤツだ」


「ワシは貴殿ほど尻尾振りが上手くなくてな。済まんが勘違いだ」


「私は北畠家の名跡と伊勢国以外はどうでもよい。他は明日、焦土になってくれても構わんよ。一応、北畠家の使命があるので京の都だけは除外かな。君は違うのかね?」


「む、そういう話か。それはワシも変わらんな。六角家の名跡と近江国以外はどうでもいい。明日、近江国以外は海の底に沈んでも一向に構わん」


「我々、在地大名とはそういうモノだからな。領地に関しては得た場所が一所となるので変わる事はあるがな」


 二人が言っている事は大名や豪族の当たり前である。それが『地元以外はどうでもいい』という事だ。この考え方が大名や豪族のスタンダードで極地元優先と言える。

 この考え方があるから国外への遠征では暴虐を働く。地元ではないからどうでもいいのだ。こういった武家の性質は公家の制御を離れた平安末期からずっと変わっていない。源平合戦や南北朝の争いなど後世に語り継がれる英雄記の裏ではおびただしい数の一般民衆が暴虐に曝された事を忘れてはならない。他国の民衆など武家にとっては赤の他人なのでどうでもいいからだ。

 こういう武家の在り方を嫌ったのが織田信長である。全軍に軍規を徹底させ、違反者には断固たる態度で臨んだ。それでもまだ徹底しきれていない、戦争なんだから少しくらいはと考える者が多いからだ。織田軍の京の都における法令の厳しさが取り上げられるという事は、他ではなかなか徹底出来てない裏返しと言える。この辺りは将の考え方次第で地元民 (兵士)と織田信長の考えの何方に重きを置くかによる。地元重視なら多少の事は見逃すだろう。信長の命令があっても、自分の支持基盤である兵士には甘い。

 因みに池田恒興は信長至上主義なので見逃さない、処刑まではしないが。故に池田軍団は一部を除いて軍規が徹底されていると言える。


「貴殿はいったい何が言いたいんだ?」


「君と私は『同志』になれると思ってね。説得に来たのだ」


「ワシにも尻尾振りの練習をせよと?馬鹿馬鹿しい」


「信長様は気に入らないかね?」


「六角家の領地を奪い、名跡をも奪おうとしている相手を気に入る訳がないだろう!貴殿だって同じではないか!伊勢国の領地は大きく削られ、北畠家の名跡も奪われている!」


 普通は六角承禎の意見がまともだ。殺人未遂事件の被害者と加害者がその後に仲良くなれるのか、という事と同義だ。彼等の場合は掛かっているのが、自分の命ではなく領地と父祖から受け継いだ家名となるが。

 寧ろ、北畠具教の方が一般的には常識外れだ。しかし彼は自分の目論見があって信長に従っている。だから同じ境遇の六角承禎を誘いにきたのだ。


「その通りだ。だからこそ、私は信長様の下で活動しているのだよ」


「はぁ?意味が分からんわ」


 具教の言葉が全く理解出来ない承禎は困惑する。この男には名家大名としての誇りは無いのかと。

 答えを言ってしまえば、北畠家は名家大名より帝に仕える大名の意識が高いので、他の大名とは違う選択肢を選べるだけである。その中で具教は己の望みも達成する道を選んだ。


「六角家の領地を奪われたというが、六角家臣や豪族はそのまま残っているではないか。甲賀に籠もっていた者達も赦されている様だ。信長様は領地の安定を重視しているからな。変わったのは上役くらいだ。『奪った』と言うほど変わってはいない。六角家の直轄地以外はだが」


「ふん、詭弁を」


「六角家の名跡だが、信長様の三男・三七様が養子に入り継がれる様だ。北畠家にも次男の茶筅様が養子に入っているのと同じ状況だ。狙いは名家である北畠家と六角家の名跡で支配権を確保、そして織田家の名前を更に上げる事だな」


「下賤の家がのうのうと、腹立たしい」


 一般的に織田信長は上洛戦において南近江を制したと言われるが、その実は現地豪族や旧六角家臣をそのまま吸収しただけである。つまり一番上に居るのが六角家から織田家に変わっただけだと言える。現地勢力まで変えるとなると殲滅戦に発展しかねない。無駄に血を流し過ぎるのを避けるために、ある程度の暗黙のルールがある。

 武士は会戦によって勝敗を決めて、負けた側は責任者が処罰されて勝者に従うというモデルが出来上がった。今回は会戦を行っていないので、旧六角家臣や豪族が頭を下げて従えば問題無しとなっている。ただし、会戦に及んだ者や反抗した者には領地没収などの罰がある。

 そして六角家には信長の三男である三七が養子入りする事になっている。これは戦国時代における家督奪取の常套手段だ。具教の北畠家にも家督奪取の為に信長の次男である茶筅丸が養子入りしている。

 六角承禎は織田家を成さしめるのが悔しい様で、苛立ちの表情を隠さない。


「ふむ、一つ聞くが、六角家は何時から名家となったのかね?」


「貴殿はワシを馬鹿にしているのか!?」


 具教は分かり切った事を知らないかの様に質問する。その態度はまるで「六角家は名家なのか?」と問われている様に承禎には聞こえた。信長への不快感で悪態をついていた彼は自分の家が馬鹿にされたと感じ激昂した。


「していない。何時からだと聞いているんだ」


「鎌倉の御世に決まっているだろう!佐々木定綱公が源頼朝公の信任を得て近江国を与えられた時からだ!」


「そうだな。我が北畠家も鎌倉時代の公卿だ。伊勢国を領地としたのは南北朝の辺りだが」


「それが何だ?」


 六角家の大元である佐々木氏が大きく立身出世したのは、鎌倉時代初期に源頼朝に仕えていた佐々木定綱が近江国に赴任してきた時からと言える。比叡山延暦寺と諍いを起こして一度流罪になったが、源頼朝が呼び戻して再び近江国を与えた。そして近江国に再び赴任した佐々木定綱は比叡山延暦寺との抗争を再開した。こうして六角家は佐々木氏の本家として宇多源氏の名家として認識された。

 北畠家の家祖は鎌倉時代初期の公卿で北畠雅家という。官位は正二位権大納言。伊勢国司に就任したのは南北朝時代で北畠親房と見られている。


「つまり我々はある時を境に名家に成り上がったのだよ。それまではお互い『源姓』で纏められていた訳だがね。では、織田家が今、成り上がってはいけないのかな?」


「そんなもの、認められる訳がないだろう!」


「そうかな?我々は自分の家名以外はどうでもよい筈だ。織田家がどの位置にいようが関係あるまい」


「そ、それはそうだが」


 具教はどんな家も大人物が現れて大きく立身出世して名家となったのだ、と主張する。それについては六角家も同様だ。だから織田信長という大人物が現れた織田家が名を上げるのは当然だという理論だ。

 反論しようとする承禎だったが、具教は織田家がどうなろうが知った事ではないとバッサリ斬る。これが先程の大名の基本的な考え方『地元以外はどうでもいい』に繋がる。織田家の名が上がろうか下がろうが他人事だという話だ。これは六角承禎も認めざるを得ない。


「つまりだ、私はこの織田家の名跡を遥か高みまで上げてしまおうとしているのだよ。それで君にも手伝って貰おうと思ってな」


「何でそうなるんだ!?」


「決まっている。我々の家の名跡を取り戻す為だ。戦って勝てるならいいが、既に降されているからな、私も君も」


「まだだ、まだ諦めてなどおらん!」


 だから具教は織田家の名跡の価値を上げようという。そのために六角承禎を誘いに来たと。

 承禎は何処でどう考えたらそうなるのか理解出来ずに叫ぶ。それに対する具教の答えは自分達の名跡を取り返す為だというのだから。

 やれやれという感じで具教は落ち着くようにと手で制す。


「黙って聞きたまえよ。私の目論見は織田家の家名を北畠六角より遥か上に上げてしまおうという事だ。別に織田家がどうなろうが我々の知った事ではあるまい?」


「まあ、確かに知った事ではないな。だが家名を上げて何になるんだ?」


「……信長様のご子息は堪えられるかな?彼等は成長した時にこう思うだろう。自分達は織田家の子息、織田信長の息子なのに何故、織田姓を名乗れないのか。何故、北畠六角の様な低い家名を継がされるのか、と」


「低いって、あのなぁ」


「そういう風に誘導していくのだよ。織田家の子息なのに織田姓が名乗れないとはご不憫ですな、とな。彼等は未だに3、4歳の子供だ。幾らでも機会はある」


 具教の目的は織田家の価値を北畠家や六角家よりも高めてしまおうという事だ。そして養子に入った信長の息子達が織田姓に復したいと思う様に仕向けていくのだ。織田信長は子煩悩なところもある為、彼等が強く願えば容認も有り得る。彼等が織田姓に戻れば必然的に北畠家や六角家の家名が浮くという訳だ。


「理屈はそれなりに分かるが、子供達が織田姓に復したからといって我等の名跡が返還されるとは限るまい。それこそ何処の馬の骨とも知れんヤツに渡されるだけかも知れんぞ」


「だからこそ私は信長様の下で働いているのだよ。武士の功績という物は絶対に無視が出来ない。それを無視して功臣を抹殺した大名がどうなるか、などと語るまでもあるまい。三好元長を抹殺した細川晴元、太田道灌を抹殺した上杉定正が良い例だ」


 名跡が浮いたからといって、それが彼等に返される可能性はほぼ無い。もしも茶筅丸や三七が織田姓に復したとして、信長は浮いた名跡をストックしておくだろう。その後に目を掛けたい家臣に下げ渡すのが普通となる。

 例えば恒興に次男が居たとして、池田家を継げない次男を信長が優遇したい時に余っている名跡を渡すのだ。こんな感じで信長が気に入った者を素早く立身出世させる目的でも使いやすい。

 実例としては武田家臣の高坂昌信が有名だろう。彼は農民出身で武田信玄の奥近習となり春日虎綱と名乗った。その後、彼を更に出世させる為に空いていた香坂家を継がせた。香坂家は信玄から処罰された武家なので、昌信は『香坂』を『高坂』と変えて名乗った。

 この様に元に戻される例はあまり無い。だが名跡を渡される条件は有る。信長の子息でないのなら、功臣または功臣の息子や功績がある贔屓にしたい家臣となる。

 ならば自分が信長の功臣となればいい。そう考えた具教はわざわざ上洛したのである。織田弾正忠家の成り立ちを考えれば、朝廷との交渉は苦手と予想したので勝算はあった。ただ信長が予想以上に苦手としていて、具教が来た時でも何も交渉していないとは思ってなかったのだが。


「つまり信長様の子息が成長するまでに功績を稼いでおけば、家督が返還される可能性が高まる訳だが」


「うーむ、出来なくはないが微妙だな。それほどの功績が稼げるかがカギとなるな。織田家内でワシが出来る事などあるのか?」


 北畠具教の計画は理解出来なくはない。だがそれは朝廷との交渉が出来る具教だからこそ功績が稼げるのだ。なら六角承禎は何をすればいいのか?彼自身では何も思い付かない。

 悩む承禎に具教はニッコリ微笑みかける。その笑みを見た承禎はやけに迫力のある笑みだなと思った。そう、具教には切実な悩みがあって承禎を誘いに来たのだ。


「ある。というか、手伝って貰いたい」


「いったい何をだ?」


「うむ、信長様はな、実は『外交が下手』なのだ」


 具教の悩みは『信長の外交下手』である。これは具教が信長の傍で働き始めてから発覚した事だ。これは朝廷との交渉に限った話ではない。実は大名や豪族に対する交渉も下手で、具教だけでは対応し切れないほど酷いものなのだ。

 外交が下手だと聞いて承禎は首を傾げる。大名とは家臣豪族間の調整が主な仕事と言ってもよい。統治や内政など基本方針さえ決めてしまえば、あとは家臣がやるものだ。この指揮を採るのが家老や奉行で当主はする事は基本的には無い。したがって当主が日常的にしているのは、主に家臣豪族間の諍いの仲裁となり、これは外交と言える。信長も木下秀吉と寧々の仲裁をしているくらいだ。大名や豪族との外交はこの延長でしかないので、外交下手とはどの様なものか承禎にはよく分からなかった。


「はぁ?下手って、どんな感じなんだ?」


「そのな、手紙を出す時にな、相手の通称や役職を忘れたのか書かない事が多くてな」


「それは姓名だけという事か?ケンカでも売っとるのか!?」


「更に殿や様の敬称を省略する時もちらほらあるのだ」


「敬称無しの書状とか宣戦布告状でしか見た事ないわ!?」


 人物の宛て名は姓+通称か役職+名前+敬称が最低限の礼儀となる。常識の範囲なので出来ていない事に六角承禎は驚愕する。

 実際、この信長の酷い書状というのは徳川家や浅井家などの同盟大名にも送られていて、浅井家の離反の原因ではないのかとまで言われている。信長としては相手を貶す意図はなく分かってくれると判断していた模様。まあ、理解される訳もなく、徳川家臣も浅井家臣もかなり怒ったという。

 武士という者達は名前に関する刃傷沙汰が驚くほど多い。鎌倉時代など名前を間違えただけで斬り合いが始まるくらいにデリケートな問題であった。書状に関する間違いを防ぐためにも、武家は『祐筆ゆうひつ』という書の専門家を雇う事が多い。で、現在の織田信長の祐筆は美濃国や尾張国のお寺の住職なので連れてきていない。お寺からは離れられないからだ。という訳で自分で書状を書いている。


「まあ、随所にマズい文言が多く、摂津国や近江国の豪族達がかなり反感を持ちつつある現状なのだ」


「何?ワシが工作せんでも蜂起しそうなのか?何なんだ、その墓穴外交は。……そのまま蜂起させるべきか」


 これは良い事を聞いたと六角承禎はほくそ笑む。織田信長が勝手に墓穴を掘っているなら、工作しなくても蜂起出来るかも知れないと。


「外交面では問題しかないんだが、軍事面と内政面について織田家はかなり強い。特に君の領地だった近江国では引き続き『アレいけだつねおき』が暴れるらしい」


「……アレか」


「アレの強さは私も大河内城で身に沁みたからな。アレが伊勢国にいたら、私は絶対に行動を起こさん」


「甲賀がほぼ無傷で降されたという事はアレもほぼ無傷だしな。分が悪いか……くそぅ」


 六角承禎の淡い期待は直ぐに崩れてしまう。何しろ、近江国では引き続きアレこと池田恒興が活動するというのだ。流石にアレにとことんまで痛い目に遭わされた承禎は意気消沈する。


「信長様から少し聞いたのだが、アレは今後、近江商人への攻勢に出るそうだ」


「何、本当か!?それはいい気味だな!ワシ、わくわくすっぞ!ワハハハハ!ざまぁ、近江商人共!」


 突然笑い出す六角承禎に具教は少し呆れる。先程から怒ったり落ち込んだり笑い出したりと、喜怒哀楽の激しい男だなと思う。

 だが六角承禎にとってはかなり愉快痛快な話だ。近江商人に六角家は長年に渡り苦しめられてきた。六角承禎自身も父親の六角定頼も苦悩に塗れながらも、全く抵抗出来ないほど近江商人は強い。反抗などすれば、直ぐに品物を止められるか値段を大きく吊り上げられる。六角家傘下の豪族を対象にされたら、離反の原因にすらなる。

 その近江商人に対し、あの池田恒興が攻勢を掛けるという。六角家の最強の盾というべきだった甲賀すらも無傷で降す実力。六角承禎は結末がどうなるか楽しみになったのだ。


「私にとってはよく分からない話だがな。アレが対処しなければならない程なのか、近江商人というのは?」


「まあ、近江国と街道で繋がっていないと実害は感じにくいかも知れんな。伊勢国なら大湊商人だったか?彼等に聞いてみろ、とことんまで嫌な顔をしながら解説してくれると思うぞ」


「そうなのか。戻ったら聞いてみよう」


「アレが近江商人を叩いてくれるなら、今は静観すべきかも知れんな。叩けるだけ叩いて欲しいわい」


「……」


 六角承禎が蜂起を見送る決断をあっさりしてしまうほど近江商人は酷いのかと具教は驚く。伊勢国に帰ったら大湊の商人達に聞いてみようと思った。


「コホン、話を戻そう」


「ああ、外交が下手くそという事だったな」


「ああ、朝廷には私の顔が利くのでいい。問題は大名や豪族だ。畿内ならばだいたい君の顔が利くのではないかな?」


「成程な。確かにワシ以上に適任者は居らんと自負出来るところだ。幕府大名豪族の間を多数、交渉してきたからな」


 朝廷との外交は北畠具教が進めているし、太閤の二条晴良を紹介して以降、他の公家も織田信長と交流し始めている。こちらは順調と言える。

 しかし例の無礼極まる書状の件もあり、織田家傘下の大名や豪族が信長に対して反感を募らせている。しかし北畠家は南朝方であるが故に大名豪族間の顔は広くない。このままでは織田家に対する謀叛に繋がるだろうし、その隙を幕府が見逃す訳もない。話は簡単で織田家一強体制を幕臣が快く思ってない事くらいは当たり前だ。だから織田家から離反した者は幕府に取り込まれる。離反者も織田信長以外の宿り木を探すはずだ。そして織田信長の力が減れば減るほどに幕府は力を増し、昔の様に朝廷を押さえ付ける。そうなれば、またしても帝のささやかな自由は消え失せる。これが具教の考える最悪のシナリオだ。

 だからこそ畿内の大名豪族を上手く宥められる六角承禎の助力が必要なのだ。彼も具教と同じ境遇なのも都合が良い。


「最たるは足利義輝公と三好長慶を和睦させた事かな」


「まあな、そもそも三好長慶は戦いを望んでいなかった。なので義輝公を説得するだけでだいたい事は済んだな」


「もう一人、当事者が居たはずだが?」


「細川晴元の事か?ワシはヤツには内緒で事を進めた。反対するのは目に見えておったし、ワシは父と違ってヤツの妄言に付き合う気は無かった。ま、恨まれただろうがな」


「賢明な判断だ。彼は六角家の戦力をとことんまで利用し尽くすつもりだったろうからな」


 三好長慶は当初から細川晴元の家臣であった。たとえ自分の父親を晴元に殺されていても主家は主家なのである。当然なのだが、両者の関係は上手くいかなかった。三好長慶は父親を無実の罪で殺された恨みがあるし、細川晴元はまた勢力を盛り返してきた三好家が鬱陶しくなっていた。事ある毎に意見を対立させる様になり、お互いの関係はギクシャクしていった。そして謀叛人の懲罰を巡り、意見を却下された三好長慶は実力行使に出る。

 この頃の幕府は細川晴元政権下なので、細川晴元への謀叛はそのまま幕府への謀叛となる。結果、当時の足利幕府将軍の足利義晴は細川晴元と近江国へ逃走した。

 幕府将軍が足利義輝になっても両者の戦いは続いた。そして戦いは三好長慶が優勢であり、戦場も山城国から近江国へと変わろうとしていた。ここに来て娘婿の細川晴元を助けるべく六角家当主・六角定頼が動く。『近江国にて無敵』とまで言われた戦巧者が三好長慶に襲い掛かる……前に死去した。今まで動かなかったのは体調不良だったからと思われる。

 跡を継いだ六角義賢 (承禎)は直ぐ様に使者を派遣。足利義輝と三好長慶の和睦を実現させた。この交渉には細川晴元は加わっていない。反対されるだけなので、六角義賢は最初から報せなかったのだ。何しろ三好長慶の和睦条件に『細川晴元の隠居と細川京兆家当主に細川氏綱を据える事』が入っていたからだ。つまり細川晴元を主君と仰ぎたくないという長慶の意志だ。自分の地位に固執している細川晴元が承諾する訳がない。

 なので和睦が成立して足利義輝が京の都に帰還しても細川晴元は抵抗を止めなかった。その後も晴元は三好長慶に挑んでは負けた。だが晴元は幕臣を動かして三好長慶を幕府内から排除しようとする。この動きは三好長慶に直ぐにバレて速攻で潰される。そして幕臣がやった事なので幕府の責任となり、足利義輝は近江国朽木谷へと逃走した。

 六角義賢は「またかよ」と思いながらも三好長慶と交渉して足利義輝が帰れる算段を付けたのである。六角義賢という人物は意外と面倒見が良く、外交交渉の練達者である。

 その間も細川晴元は戦って負け続けたがとうとう捕縛される。しかし三好長慶は父親の仇である細川晴元を殺さずに幽閉に止めた。父親の仇と云えど、元の主君だからと処刑しなかった。たとえ処刑しても、その被害の大きさから誰も批判など出そうにないのにだ。この点からも三好長慶の『優しさ』『批判に臆病』『波風立てない穏やかさ』などの性格が覗い知れる。

 そんな事は関係無い細川晴元は自分から下剋上した三好長慶を恨み、自分を裏切り三好長慶と交渉した六角義賢を恨み、自分に内緒でその交渉にほいほい乗った足利義輝を恨んだ。自分が何もかもを失ったのはアイツラのせいだと。


「君の顔の広さで織田家と畿内の大名豪族の橋渡し役を願いたいのだ。あと、信長様の文書直しも手伝ってくれ。一人では手が足りない」


「意外と重責ではないか。だがそれをやるには織田信長本人の信頼が必要だ。一朝一夕で就ける役目ではないぞ」


「そこは私と同じ手で行こう。信長様は武芸に熱心でな、最近は弓術も手解きしている。弓術なら達人の君を紹介出来る」


「ふむ、そういう算段か」


 六角承禎を織田信長に引き合わせるのは難しくない。それこそ北畠具教と同じ手段が使える。あの時は林佐渡が仲介した。今度は具教が仲介すればよいのだ。

 信長は武芸に興味がある。武家の当主なのだから当然とは言える。そのために剣術指南役、弓術指南役に馬術指南役まで揃えている。しかし剣術指南役は実力的に具教より劣るし、弓術指南役も承禎ほどの達人ではない。だから信長が承禎の弓術にも興味を持つと断言出来る。


「あとは君が信長様へのわだかまりを消せるかどうかだ。如何かな?」


(織田信長の下に付く、か。普通に考えれば屈辱であるし、家名と領地を奪われた恨みもある。しかしだ、京極高吉が織田信長に付いているという。具教の計画に乗らなかったら、六角家の名跡は京極家に取られる可能性も出る。同族である京極家に取られたら、取り返すのは難しいだろうな。そして京極家は佐々木家惣領を名乗る、……それだけは、それだけは何よりも我慢ならん!)


 六角家には他の大名にはない特殊な事情が存在する。それが京極家の問題だ。彼等は元は同じ源姓佐々木氏である。他にも分家として大原家や高島家がある。佐々木氏の系譜的に六角家が本家であり、他は全て分家なのである。だが、これが大きく崩れたのが南北朝時代に京極高氏が現れたからだ。

 京極高氏は若い頃に京の都へやってきた足利高氏と友誼を結んだ。同年代で『高氏』という同じ名前だったので意気投合したらしい。そしてご存知の通り、足利高氏は『足利尊氏』と名前を変えて足利幕府の初代将軍となる。この尊氏に一貫して協力し続けた京極高氏は大きく立身出世する。そして近江、若狭、出雲、飛騨、上総、摂津などの国の守護職を歴任した。分家である京極家の圧倒的な勢力拡大に本家である六角家も飲み込まれ、殆ど傘下の様な状態になるという屈辱を味わった。

 更にこの京極高氏は『婆娑羅大名』としても知られている。『婆娑羅』とは華美で権威を軽んじ自由奔放に振る舞う常識外れな人物を指す。悪く言えば性格的に迂闊で他人の事を考えない人物だ。

 京極高氏の人物像を示す逸話としては白川妙法院焼き討ちがある。これは妙法院の桜が綺麗だったので、京極高氏が枝を折って持ち帰ろうとした。しかし親王の御所の桜を傷付けるとは何事だ、と僧侶に叱られた。その説教に怒った高氏が妙法院を焼き討ちしたという事件だ。

 また、京極高氏には比叡山に纏わる話もある。比叡山が佐々木氏と長年に渡り争っているのは周知の事実だ。ある時、京極高氏は比叡山延暦寺を訪問する事になった。話し合いのためと思われるが、高氏は一計を講じた。それは猿の毛皮で出来た腰巻を着けて訪問したのだ。比叡山延暦寺において猿は神獣とされる。当然、延暦寺の僧侶達は烈火の如く怒り出したという事件もある。

 この様に京極高氏という人物は非常に自分勝手で相手を挑発する行為を好む。当然なのだが、六角家にもいろいろやっていて、幕府権力を使って佐々木氏惣領の座を奪った。そして『佐々木判官』や『佐々木道誉』などと名乗ったという。六角家は惣領権まで奪われてしまう憂き目を見た。当時の六角家当主は怒りのあまり憤死寸前であったという。

 まあ、この直後に京極高氏は上記の事件を立て続けに起こして流罪となっている。京極高氏は上総と摂津の守護職を取り上げられた上に、佐々木氏惣領の座を六角家に返却させられた。

 相手が調子に乗り過ぎてバカをやった結果、幸運にも佐々木氏惣領の座を取り返した六角家。彼等が京極家を上回るのは応仁の乱以降になる。いや、上回るというか京極家が勝手に没落しただけだが。

 六角承禎は織田信長に取り入っている京極高吉が、あの京極高氏の再来になる事を恐れているのだ。


(賛同すれば北畠具教を協力者に出来る訳だ。それに織田信長に近付けば、織田家の内部情報も手に入る。蜂起以外の道も見えるかも知れん)


 北畠具教は承禎と同じ境遇であるため同志となれる。お互い同じ目的のため、裏切りの可能性も低い。いや、裏切る理由など思い付かない。

 六角承禎としても京極高吉に負けられない事情もあるし、蜂起も今現在は都合が悪い。それに織田信長の傍に居るなら各種情報が手に入る。それも利点の一つである。


(極めつけは、『アレいけだつねおき』が近江商人と対峙する事だ。アレの強さはよく分かったし、かなり期待出来る。近江商人を叩けるだけ叩いて貰ってから近江国を得るのが理想か。となれば、私情は捨てて北畠具教の計画に乗るべきか)


 六角承禎が一番期待しているのが、池田恒興が近江商人に攻勢を掛けるという話だ。近江商人には六角承禎も苦労ばかりさせられた。

 承禎が苦労してきた近江商人に、同じく承禎が苦労した池田恒興がぶつかろうとしている。どういう結果になるのかは非常に気になるところだ。近江商人の勢力が減じれば良し、対処法などが見つかればなお良しである。

 これらの事情を踏まえて、六角承禎は決断した。


「分かった。私情は全て捨てようじゃないか。信長様との邂逅の算段をよろしく頼む」


「任せて貰おう。君は『軟禁』なのだから監視さえ付けば外には出れる。あとは私が信長様を導こう」


 六角承禎が意を決し、信長の名前に『様』を付けた。それを聞いて具教はほくそ笑む。一人きりの家督奪還の戦いに心強い同志を得たと。あとは二人の力で織田信長の名声を高める、とことんまで高めるのだ。織田家の名跡の価値が北畠六角より遥か高みに昇るまで。養子に入った信長の息子達が織田姓に戻りたくなるまで。


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【あとがき】


 恒「三好長慶は元の主君である細川晴元を殺さなかったんだニャー。という事は、三好長慶も下剋上大名だったのか」

 べ「ま、そうだね。一応、三好長慶さんは幕府の直臣になったので細川家から離脱した感じだけど。それにしても数ある下剋上大名を見ても『主殺し』はやらない人が多いんだよね」

 恒「信長様も斯波義銀を追放しただけだったニャー」

 べ「その人は厳密に言えば信長さんの主君ではないけどね。信長さんの主君は織田大和家の織田信友さんで、この人が主君の斯波義統さんを殺した『主殺し』なので討伐した感じ。一覧ではこんな感じになったよ」


 織田信長→主君である織田信友が『主殺し』の謀叛人で、主君の主君である斯波義銀の命令で討伐。後に斯波義銀は追放。

 浅井亮政→主君の京極高吉は追放。

 朝倉孝景→主君の斯波義廉は追放、尾張国へ。

 三好長慶→主君の細川晴元は幽閉。

 北条早雲→そもそも下剋上してない。下剋上したというなら対象は駿河今川家になってしまう。

 尼子経久→主君の京極政経とは和解しており、尼子経久の庇護の下で死去。

 斎藤道三→主君の土岐頼芸は追放。

 長尾景虎→下剋上してない。越後上杉家当主の上杉定実に嫡子がいなかったため断絶。その後、山内上杉家を継承。

 徳川家康→主君の今川氏真は後に庇護している。

 長宗我部元親→主君の一条兼定は毛利家により九州へ逃走。その後の内乱で勢力拡大。下剋上してない。(訂正)直接対決してましたニャー。追放。

 宇喜多直家→主君の浦上宗景は追放。

 陶晴賢→主君の大内義隆を『殺害』

 龍造寺隆信→主君の少弐冬尚を『殺害』


 べ「下剋上大名でも『主殺し』までは避けているっていう結果だね。龍造寺さんはその頃は大名じゃなくて大友派の一豪族だし。陶晴賢さんはギルティという事で」

 恒「北条早雲は堀越公方に対する下剋上と見做されるらしいニャー。でも北条早雲と堀越公方は何の関係も無いただのお隣さん。幕府権威的に上という事かニャ」

 べ「幕府権威を含めると数限りなく下剋上大名が出てくる。そのカウントの仕方だと北条家は3回も下剋上した事になるよ」


 北条早雲→堀越公方に下剋上

 北条氏綱→小弓公方に下剋上

 北条氏康→古河公方に下剋上 (NEW)

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