池田上野介恒興

 京の都の織田信長邸宅(仮)

 信長との会見を終えた恒興は控えの間に戻る。そこで待っていたのは、飯尾敏宗一人だった。連れてきたのは加藤政盛と飯尾敏宗の両名だったので政盛が居ない事に首を傾げる。


「敏宗、政盛は何処に行ったんだニャー?」


「政盛なら北畠様の案内に出ました。殿の御命令と聞きましたが」


「ああ、そうだったニャー」


 敏宗の答えにそう言えばそうだったと恒興も思い出した。北畠具教が六角承禎に会うというので案内に付けたのだ。六角承禎は現在、池田屋敷 (仮)に軟禁されているため、許可無しには会えない。なので恒興が許可を出したという証明に加藤政盛を出した訳だ。


「屋敷に戻りますか?」


「いや、まだ行かないといけない場所があるニャ。付いてこい」


「はっ!お伴つかまつります」


 加藤政盛は何時戻れるか分からないので、恒興は次の用事を済ます事にした。京の都で会う予定の人物がまだ居るからだ。


何方どちらに向かいますか」


「山科権大納言言継卿の屋敷だニャ。実は呼ばれてるんだよね」


 池田恒興と飯尾敏宗は馬を歩かせて山科言継の邸宅に向かう。後ろからは池田家親衛隊が10人ほど護衛に着いてくる。恒興は上洛したら来る様に山科言継から言われているのだ。要件は恒興の任官についてだ。


「流石は殿で御座います。あの有名な山科卿と交流されておられるとは」


「有名って、何で有名ニャんだよ?」


「……『銭ゲバ』と」


「じゃあ、ニャーがどういう目に遭ってるか分かるかニャーン?」


「お、お疲れ様で御座います」


 恒興にとって任官などどうでもよかったが、行かない訳にもいかない。山科言継の不興を買って良い事など存在しないだろう。

 だが任官の世話と同時に『銭ゲバ』と呼ばれる彼にどれだけ毟り取られるかを考えると、背筋に寒いものが走る。行きたくないと思いながらも、恒興は山科邸に到着した。


「池田勝三郎恒興、只今参上致しましたニャー」


「遅いわあああぁぁぁ!!!!」


「ニャー!?」


 山科邸の家人に案内され、山科言継の私室に入った恒興を怒号が出迎える。怒号の主はもちろん山科言継その人である。


「オノレは麿をどれだけ待たせるつもりじゃ!織田弾正忠と一緒に来るかと思って用意しとったと言うに!」


「いやー、六角承禎を捕まえるのにちょっと手間取りましてニャー」


「ほう、六角左京大夫殿か。捕まえたのか?」


「ええ、何とか」


 山科言継は恒興が織田信長と一緒に来ると思っていた。それに併せて動いていたのに、当の恒興が来なかったので怒っていた。

 しかし恒興が六角親子を捕まえる為だと言うと、怒りも直ぐに静まった。山科言継としても京の都の隣の大名の動向は気になるところだからだ。あまりに六角承禎が抵抗を続けると都にも被害が出る可能性もある。その心配が無くなったので怒りよりホッとした訳だ。山科言継は恒興の遅参を正当だと認めた。


「まあ、よい。此度はお主の官位の世話じゃ。実際、任官についてはもう終わっておる」


「え?ニャーはまだ希望とか言ってませんけど?」


「うむ、それは何も連絡しなかったお主が悪いの。まあ、空いとるかどうかも問題じゃから、麿が選んでおいた」


「はあ、ニャるほど」


 恒興に貰える官位は山科言継が前もって決定していた。しかも任官まで既に終わっているらしい。

 たしかに恒興は希望など言っていないし、山科言継が言う様に空いているかも問題だ。

 織田信長の弾正忠任官の時も前の弾正忠を退かせていた。一説にはそれが松永久秀で彼は弾正忠を信長に譲り山城守を自称したという。朝廷役職『弾正台』の官位は弾正いんを筆頭に弾正大ひつ、弾正少弼、弾正大じょう、弾正少忠、弾正大、弾正少疏と複数あるし、複数人任官もあれば一人で複数任官する事もあるので正確なところは分かっていない。

 まあ、恒興としても何の官位を貰おうが朝廷の仕事はしないのでどうでもいい。呼び名を貰う程度の話だ。例えば『左馬助』の官位を貰ったから朝廷の馬小屋を管理しろとか言われても困るのだ。恒興にそんな暇は無い。


「お主はたった今から『従六位上・上野介こうずけのすけ』となる。有り難く拝命するがよいぞ」


「ははーっ、有り難き幸せに御座いますニャー」(ま、名前だけの物だけどニャ)


「これでお主の名乗りは池田上野介恒興となる。宮中でも上野介と呼ばれる事になるの」


 恒興に渡される官位は従六位上の上野介。上野介は上野国の長官で各国の『守』に相当する官位と武家から・・・・認識されている。現代で言えば県知事と県警察長官を合わせた役職である。織田信長が名乗っていた『上総介』と同格の官位である、……信長は上総介に正式任官した訳ではないが。

 恒興にとっては呼び名程度の話で、これから彼は周りから『池田上野介』と呼ばれる。上野国には織田信長の勢力が及んでいないので県知事の権利はあっても県警察長官の治安維持が出来ないので意味は無いと言う訳だ。


「任官式とかは無いんですかニャ?」


「正六位以下は蔵人を除いて昇殿も出来ないからの。流石に略式任官となる。昇殿に関してはおかみがお呼びになれば、じゃな。滅多に無いでおじゃるが」


 任官式については状況によるが、低い官位ではやらないのが一般的だ。正五位以下はやらずに略式任官が多いだろう。五位以下となると地方大名が任官するケースが多いため、任官式の為に領地を放置して上洛しろというのは酷だ。結局、任官式が出来るのは京の都周辺の者か、上洛してきた者に限られる。ただ、恒興の場合は昇殿も出来ない六位なので当たり前の様に略式となる。まあ、任官式をやってもらうとなっても、式の費用は任官者持ちなのでやってほしいとは思わないだろうが。


「何と御礼申し上げればよいか。現在は戦時中ですので落ち着きましたら、謝礼の品を持参致したく存じますニャー」


「よいよい、謝礼など無用よ。上野介には以前に便宜を図って貰ったからの。これ以上取り立てては『銭ゲバ』と思われてしまうわ、ホホホ」


(あれ?謝礼目当てじゃないのかニャー?いや、既に『銭ゲバ』って思ってるけど)


 恒興は意外な事を言われてキョトンとする。この『銭ゲバ』が謝礼を求めないなんて、明日は槍でも降ってくるのかと警戒するレベルだ。


「因みにじゃが、任国官位にはかみすけじょうさかんがあり、守が最上位となっておる。存じておるか?」


「一応に。確かに上野国は介が最上位の筈ですニャー」


 任国官位は全ての国に当て嵌まる。例えば池田恒興の生国である尾張国なら最上位に尾張守が居て、尾張介、尾張掾、尾張目と上下が決まっている。既に誰も気にしていない建前に過ぎないが。

 だが上野国は上野介が現地最高位となるのだ。しかし、これは武家の常識である。


「武家の中ではそうじゃな。だが『上野守』が居ない訳ではないぞ」


「え?上野守なんて聞いた事がニャいんですが」


「当たり前じゃな。関東の上野国、上総国、常陸国は『親王任国』。つまり皇族の方々専用の役職よ。やんごとなき方々が都を離れて任国に行く訳あるまい。だから介が最上位などと勘違いしておるのじゃな」


 上野国、上総国、常陸国の守を名乗る者は存在しない。いや、存在しないのではない。その三国の守になれるのは皇族だけなので知らないだけだ。所謂、『親王任国』である。

 皇族が任国に赴くのは皇籍から外れる時くらいだ。そして皇籍から外れたら上野守にもなれない。つまり歴代の上野守はずっと都に居て、現地に来た事など一回も無い。だから上野介が現地最高位と認識されている。


(そういや、そうだったニャー。信長様も最初、『上総守』って名乗ったんだよニャ。直ぐに気付いて『上総介』に直したけど)


 今川義元が治部大輔の他に上総介の官職を持っていたので、信長は桶狭間の戦いの後で「上総介に勝ったオレは上総守だろ!」と言ったという。後で上総守が皇族専用と気付いて直した。この逸話が示す様に、織田信長は朝廷の官位にも疎い。上野守、上総守、常陸守を名乗った武士が歴史上に存在しないだけでも分かりそうなものではあるが。


「つまり官位上ではニャーに上司が居るという事ですニャ。それで上野守は何方のお方で?」(ま、そこそこ上貢しとけば大丈夫ニャー)


「此度、上野守に就任為さったのは『誠仁親王さねひとしんのう』殿下でおじゃる」


(……誠仁親王殿下って次の帝やないかーい!?何でニャーがそんなやんごとなきお方を上司にせにゃならんのよ!?もっと、こう、名前が記憶の端にも引っ掛からないどうでもいいお方とか、居るでしょ!)


 誠仁親王は正親町天皇の皇太子である。そして次代の天皇……ではない。正親町天皇は誠仁親王の天皇即位を願っていたが、1586年に父親である正親町天皇より先に早逝した。このため次代の天皇は孫の後陽成天皇となる。恒興は1584年死去なのでその先は記憶が無く、誠仁親王が天皇になったと思っている。


「分かっておると思うが、誠仁親王殿下は皇太子であられる。親王殿下によくお仕えするのでおじゃるぞ」


「は、はいですニャー……」


(そういう事か。次の帝である誠仁親王殿下にテキトーな上貢してたら、帝の心証が悪くなるニャ。それは信長様にも影響が出る訳で、ニャーがサボれば信長様が恥をかく事になる。ニャーがサボれない様に、親王殿下が得をする様に計って上野介って訳か!こ、こうなったら稼ぎまくらないと!上貢で破産なんて冗談じゃないニャー!!)


 ここまで来て恒興は漸く山科言継の狙いを完全把握した。この男は恒興に対して謀略を仕掛けていたのだ。内容は池田恒興を皇太子である誠仁親王の資金源にする事。毎年、上野守である誠仁親王に上野介である池田恒興は上貢義務が発生するのだ。

 上野守はおそらく五位相当の官位だろう。皇太子がそんな低い官位を持っている訳がない。もっと上位の官位を持っているはずだ。つまり誠仁親王は恒興の上野介任官と同時に上野守にわざわざ任官したのだ。官位は昇位はあっても降位はないので、複数任官したのだと思われる。

 他の大名なら大して悩まないだろう。上司に皇族が居ても上貢義務など果たしている者などほぼいない。だが、恒興の場合は少し特殊だ。何しろ、主君である織田信長が帝に認めて貰おうと朝廷外交を頑張っている最中なのだ。皇太子である誠仁親王が恒興の働きが悪いと言えば、それは織田信長にダイレクトに影響が出てしまう。恒興も信長に怒られる事態となる。だから手が抜けないのだ。上野国を支配出来てる訳ではないので、多少は上貢を負けて貰えるかも知れない。だが、それは織田家は資金力が万全ではないと白状する様なもの。恒興としては絶対に避けたい。

 これを山科言継は狙って誠仁親王に上野守任官を薦めたのは明白だ。高位任官しているはずの皇太子がわざわざ低い官位の上野守に自らなる訳がない。だいたい山科言継は『此度』と言った。それは新しく任官した事であって、恒興の上野介任官とセットだと言ったに等しい。そして恒興に山科言継の謀略を跳ね返す術は既に無かった。「官位は要りません」などとは言えないからだ。観念した恒興は阿漕あこぎに稼いでやると心に誓った。


 ---------------------------------------------------------------------


 山科言継の屋敷から恒興が出てきたので飯尾敏宗は出迎える。しかし恒興の表情が感情の無い能面の様になっていたので、心配になった敏宗は声を掛ける。


「如何でしたか、殿?」


「ケツの毛まで毟り取られてきたニャー」


「お、お疲れ様で御座います」


 恒興は悔しいのか怒りなのか判らない顔で答える。『銭ゲバ』の異名に相応しい何かがあったのだろうと敏宗は察した。


「敏宗、もう一か所寄るぞ。ニャーも稼がないとニャ」


「はっ、お伴仕ります」


 どうにも遣る瀬無い恒興だが、上貢の件は現実である。つまり上貢の分を余分に稼ぎ出す必要があるのだ。そのためにも、恒興はある場所へ行く。上洛前から構想していた計画を実現させる為に。

 そして一行は賀茂川の辺りまで来た。川では複数の人々が布や糸を水に浸していた。おそらくはゴミや汚れを取り除き、余分な染料を洗い流しているのだろう。敏宗は京の都ならではの光景かと見入る。


「あれは糸でしょうか?何とも鮮やかな色ですな」


「ああ、おそらくは染色した糸を洗ってんだろうニャー。ここは西陣織の工房だ」


 次に一行は工房の中に入っていく。そこには様々な色の糸を手繰たぐり、反物へと仕上げていく絹女が居る。とはいえ、男も居る。絹女とは恒興が勝手に名付けたもので一般的ではない。しかし、糸を手繰る絡繰の大きさには恒興も圧倒される。何しろ高さは恒興の背丈の倍はあろうかという巨大さだった。


「室内の絡繰もかなり大掛かりな物ですな。中々に圧巻というべきかと」


「ニャーが購入した絡繰は個人で扱える物だからニャ。これ程大掛かりならさぞかし凄い物が出来るんだろうニャー」


 その工房の一角で何人かの若者達に指示を出す壮年の男性を見付ける。おそらくは彼が工房の主なのだろうと考えて、恒興は声を掛ける。


「御免、邪魔をするニャー」


「なんや、アンタらは?織物が欲しいなら店に行ってくれへんか」


 男は恒興達が西陣織を買いに来た客だと思い、店に行く様に促す。ここは工房で販売はしていないからだ。


「織田家の池田上野介恒興という者だニャー。ちょっと相談があってな。工房の主は居るかニャ?」


「わしがそうや。それで織田家のお侍様が何の用事なんや?」


「実はニャーは犬山城主でニャ、城下で絹織物を生産している」


「犬山で絹織物生産が始まったとは聞いとったが、お侍様が城主やとはな」


 恒興は自分の身分を明かす。そして早速、『上野介』と名乗る。任官した以上、使わねば損だという感じで。

 工房主は犬山で絹織物生産が始まった事は知っている様だが、大して興味は無い感じだ。まあ、一朝一夕で犬山織が西陣織のライバルになる事はないと思うからだろう。それが分かっているから恒興はここに来た。


「それで犬山織の発展の為に職人を雇おうと思ってるニャ。誰か有望な者を紹介して欲しい」


「そういう話かい。ならお断りや、他を当たってくれ」


 恒興は犬山織の発展の為に職人をスカウトしに来たのである。職人を雇い、唐産の生糸を仕入れ、犬山織を西陣織にも負けない品物にするために。

 だが工房主は聞いた瞬間、取り付く島も無く断る。その様子を無礼と感じた飯尾敏宗は刀に手を掛けて一喝する。


「貴様っ!殿に無礼を働くか!」


「ほらな、お武家様はいつもそうや。力で何でも出来るって思うとる」


 敏宗の一喝を受けても工房主は身動ぎ一つしない。まるでその程度は覚悟していると言わんばかりだ。


「止めろ、敏宗。口出しするニャ」


「は、申し訳ありません」


「親方はニャーが武家なのが気に入らないのかニャ?」


「当たり前や。わしらの祖父母や親がどんな目に遭わされたと思うてんのや。ここに居る職人達は皆、『応仁の乱』の被害者の子供孫や。塗炭の苦しみを本人から聞いて育った者達ばっかや。戦火から逃げて全てを失い、そこから『西陣織』を育て上げたんやぞ!更には『天文の乱』で、また焼け出された。わしらがいったい何をしたんや!?全て、お武家様の都合だけやないかい!」


 工房主は武士が嫌いだった。応仁の乱や天文の乱で彼の父祖や家族は焼け出され略奪に遭い、命があるだけマシな状態になった。彼等は何もしていない、ただ京の都で暮らしていただけだ。なのに突然、武家同士の争いに巻き込まれ、足軽達に略奪され、京の都は灰燼に帰した。そんな状態から西陣織は始まった。西軍大将である山名宗全の陣があった事に由来する『西陣』の名を冠して。

 職人が生き残っていた事や商人の協力もあり、西陣織の復興は素早く、足利幕府の後ろ盾を得る事が出来た。

 喜んだのも束の間、今度は天文の乱が勃発。京の都の各所で比叡山延暦寺の悪僧と法華宗徒が争い、都はまた灰燼に帰した。そして西陣織の工房も悪僧達の徹底的な略奪に遭った。工房主はこれらを起こした武家を酷く恨んでいる様だ。


「ニャーはその武家と関わり無くてもか?」


「わしらからすれば一緒やで。しかし、アンタらに言うても詮無き事ちゅうのも分かっとる。だから帰ってくれ。協力は出来へん」


「そうか、分かったニャー。帰るぞ、敏宗」


「はっ」


 工房主が味わった苦渋を思えば武士アレルギーになるのも理解出来る。だいたい天文の乱など20年前くらいで、あの工房に居た人物は何らかの形で直接的な被害を被っただろう。その証拠に工房主を止める者は皆無だった。

 取り付く島も無い感じなので恒興は諦める事にした。後ろにいる飯尾敏宗が殺気を放ち始めたのでマズいとも思った。とはいえ、西陣織の工房はこの一つではない。ここがダメなら次に行けばいい。恒興はそう考えて、あっさりと退いた。


「殿にあの物言いは流石に許せませぬ」


「気にするニャ。京の都は厳戒態勢なんだし、法を守らせるニャー達が破るのは明らかにマズい」


「しかし……」


「愚痴りたかったんだろ。ニャー達に言われてもニャーって思わんでもないが。ま、武家に協力する気がねぇってのは本心かもニャ」


 工房を出ても憤懣ふんまん遣る方無い感じの敏宗を恒興は宥める。そこには信長が京の都にて発した法令もあるし、幕府を後ろ盾にしているから他の武家と関わる気が無いという工房主の考えも理解出来る。


「えらく強気ですな、彼等は」


「後ろ盾に幕府が付いているからニャー。一応、幕府の資金源の一つだし」


「成程、故に強気であると。……そこな女、止まれ!それ以上、殿に近付くな!!」


 工房を出た恒興一行の前に4、50代くらいの女性が進み出る。整った身形ではあるが武家の女性という感じではない。

 敏宗は恒興の前に馬を進めて女性を威嚇する。


「大変申し訳ありません。先程の工房主の妻で御座います。主人の非礼をお詫びしたく」


 女性は先程の工房主の妻との事。夫の非礼を詫びに来た様だ。


「ああ、工房の女将おかみか。いいんだニャー、とりあえず他を当たるから」


「出来ればそれも止めていただけないかと」


「む、何故だニャ?」


「西陣織の職人達は長年に渡り厳しい修行を経た者達ばかりです。その手塩に掛けた者達を連れて行かれては潰れる、又は品質を大きく下げかねません」


「……」(泣き言に等しいニャ)


 工房の女将は職人の引き抜きを止めてほしいと願う。西陣織の職人は長年の修行を要する。その長年に渡り修行させた者を引き抜かれたら大打撃なのは確実だろう。

 だが恒興は違う、そうは思わない。引き抜きで大打撃なのは理解出来るが、引き抜きに応じる者は現状に満足が出来ないからだ。恒興は強制的に人を連れていく真似はしていない。

 つまり引き抜きに応じる者は自分の意志に従っているだけで、女将の言い分はただの泣き言である。それが嫌なら職人が満足する物を提供せよという話だ。


「それに各地で西陣織と同様の品が作られれば西陣織は価値を無くすでしょう。西陣で作られる意義を失いかねません」


「だから諦めろというのかニャ?」


 そして西陣織の職人が各地で西陣織と同じ物を作ったとしたら、西陣織というブランドに意味が無くなると女将は危惧している。だが犬山織の質を上げたい恒興にはイマイチ響かない。というか、恒興は犬山織を発展させたいのであって、西陣織が滅ぶかどうかは眼中にすら無い。ハッキリ言ってどうでもいい。

 なので女将は話を犬山織の事に変える。


「前に犬山織を拝見致しました。ハッキリと申し上げれば、西陣織にかなう品物ではありません。だからこそ素晴らしいと思います」


「ん?どういう意味だニャ?」


 女将は品質的に犬山織は西陣織に敵う品物ではないと宣言する。だから『素晴らしい』のだと。恒興は『素晴らしい』の意味がよく理解出来ないので聞き返す。


「西陣織は芸術品の域にあると自負しております。それ故に作り手は長年の修行を要し、しかも多人数が作品に関わります。幕府への税金もありますので結果として価格は高騰し、買えるお客様はお公卿様かお大名様くらいです」


「犬山織を高級化しても少ない客の奪い合いになるって言いたいのかニャー」


「はい。ですが現在の犬山織は素朴な色彩に丈夫で、しかも安価です。農民でも頑張れば買える値段なんて前代未聞ですよ」


「その安価を少しでも上げたいと思って、ここに来たんだがニャー」


「値段が上がれば買えなくなる人が増えるだけと存じますが」


「痛い所を突いてくるニャー」


 西陣織は芸術品の域にある。それは美代の西陣織を見た恒興も認めるところだ。だからなのだが、価格が恐ろしく高騰して、そこら辺の金持ち程度では買えない値段をしている。

 それに比べて犬山織は庶民でも頑張れば買える値段をしている。今の犬山織の値段は同じ品質と言える関東の絹織物よりも格段に安いのである。この値段を実現している犬山織が高級化しては買えない人が出るだけだと女将は言うのだ。


「すみません。私も西陣織を守りたいので。どうか、どうか職人の引き抜きはご勘弁下さい」


「分かったニャー、女将。助言も貰った事だし、今一度考えてみるニャ。今日、ニャーはここに来なかったという事にしてくれ」


「ありがとうございます。大変申し訳ありません」


 恒興は女将の説得に応じる事にした。特に最後の辺りは同じ事をある人物から忠告されていたのだ。だからなのだが、恒興はもう少し意見を募ろうと考えた。


「殿、よろしかったのですか?」


「うーん、実はこの話は犬山でもしていたんだが、お藤も同じ事を言ってたんだよニャ。やっぱり問題が多いのかニャーって思って」


 女将と同じ事を言っていたのは恒興の側室である藤だ。彼女が「犬山織が高級化して誰が買うんや?」と言っていた。だから恒興も自信があまり無く、粘り強く交渉しようとはしなかった。


「犬山織は安い安いと評判ではありますが、殿が安くなる様に取り計らっておられるのでは?」


「ニャー、そんな事してないぞ。生産者の取り分、絹女達の取り分、ニャーの取り分を計算して商人に卸しているんだ。取りっぱぐれる様な真似はしてねーギャ」


「政盛なら親である加藤図書助殿から何か聞いているかも知れませんな」


「まあ、堺に行く予定だから天王寺屋の義祖父殿にも聞いてみるニャー。職人勧誘を進めるかはそれから考えるニャ」


 恒興はこの後で堺の町に行く予定なので義祖父である天王寺屋宗達の意見も聞いてみようと思った。唐産の生糸の仕入れは天王寺屋にする予定だったので、どちらにせよ話をせねばならない。それまでは職人引き抜き計画は凍結させる事にした。


 ---------------------------------------------------------------------

【あとがき】


 べ「何故、犬山織は安いのか。これにはちゃんと理由がある」

 恒「分かった!輸送費用だニャ!国産絹といえば関東が主になるから京の都まで遠いのが原因だ。犬山はかなり近いしニャ」

 べ「ファイナルアンサー?」

 恒「クイズ番組かよ。ファイナルアンサーだニャ」

 べ「ボーっと生きてんじゃねーよ!!」

 恒「壮絶なパクリは止めろニャー!!」

 べ「正解の前に恒興くんも言った犬山織の価格設定について見てみよう。()内は適当な利益と考えてほしい」

 恒「はい、ドンだニャー」


『カイコ繭』生産者 (恒興が計算)+『反物仕上げ』絹女 (恒興が計算)+『仕切り』池田家 (恒興が計算)+『卸売り』加藤図書助 (図書助が計算)+『販売』各商人 (各商人が計算)


 べ「こんな感じで卸し問屋の加藤図書助さんに行くまでは恒興くんがだいたい仕切っているんだ。ここには少数の商人以外は関わらないスタイルだ」

 恒「当たり前だニャー。犬山織は池田家の利益で、ニャー自身が創業から頑張ってるんだから」

 べ「それを踏まえて他の絹織物を見てみよう。はい、ドン」


『カイコ繭』生産者 (雀の涙)+『反物仕上げ』絹女 (雀の涙)+『仕切り』大名家 (暴利)+『仕切り』重臣 (暴利)+『仕切り』豪族 (暴利)+ 『仕切り』国人衆 (暴利)+『仕切り』運送業者 (暴利)+『卸売り』商人 (商人が計算)+『販売』各商人 (各商人が計算)


 べ「こんな感じかな?大名から運送業者までは重複する時もあるよ」

 恒「なんちゅー中間搾取層だニャー!?『仕切り』が多過ぎるわーっ!」

 べ「西陣織はここに『仕切り』幕府 (暴利)と『仕切り』多数の幕臣 (暴利)が加わるよ。大名や重臣は消えるけど」

 恒「そりゃ、女将も泣くわニャ」

 べ「これは戦国時代のスタンダードだよ。儲かる品物には雲霞の如く集るものさ。これが関東の絹織物生産が戦国時代に滅亡した理由の一つだと思うよ。そこに戦乱が加わったしね。だから恒興くんだけが仕切っている犬山織が安いんだ。因みに関東の絹織物生産が復活するのは江戸時代になる。文化を育てるのは平和なんだと思う」

 恒「犬山織の販売が好調だからさ。ニャー、生産者や絹女の給料は上げたんだよ。そしたら更に皆のやる気が出て生産性も上がって、池田家にはかなりの利益が上がった。それでも犬山織は安いと言われる。そうか、全ての原因は『中間搾取層』だったのか!」

 べ「西陣織は値段を高くせざるを得ないから芸術品の域まで高めようって感じなのかな。職人魂を感じるけど、利益の殆どは幕府や幕臣に吸い取られていたと見ていい」

 恒「つくづく酷い時代だニャー。でもこれは『絹』に限った話じゃないんだよニャ」

 べ「乱世だからね。人の欲望が暴走しているんだよ。こんな感じだから関東の蚕生産者や絹女達が職人や指導員として多数、犬山に移住した事になってるよ」

 恒「そこは有り難いニャー」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る