淡海国

 いにしえの話をしよう、永久とこしえに近き話を。原初、人間に歴史なる物は無かった。人間に文字なる物は存在しなかった。だが言葉は確実に存在した。

『縄文時代』、日の本には誰が居たのか?答えは縄文人である。何を生業としていたか?答えは狩猟である。

 教科書には模範的にこう書かれる。だがこれはおかしいのだ。そもそも日の本は平地が少なく山や川ばかりの地形だ。草原が少なく動物が暮らしていくにはやや物足りない。皆が狩猟生活などしていたら、あっという間に獲物が足りなくなるだろう。もちろん、狩猟を生業とした縄文人も居ただろうが、大多数はもっと別の生業を持っていたはずなのだ。

 それは何か?答えは漁業だ。舟で海に繰り出して獲物を得ていた。少ない動物資源より無限とも思える水産資源の方が主流であったはずだ。だからこそ彼等の性格は海賊そのものでもある。彼等を『海人あま』という。彼等は近場となる大陸の辺りに繰り出し荒らし回った。

 この様な海賊生活を繰り返して幾星霜、彼等は稲作文化に出会う。稲作が優れた食糧確保術だと分かると、彼等は稲作文化を日の本に持ち帰った。だが、稲作をするには知識が必要になる、土木工事も必要になる。海賊生活の彼等がそれを身に付けている訳もない。という訳で近場から出来る人を招いてさらってきた。彼等が教科書にも出てくる文化の伝導者『渡来 (させられ)人』である。彼等の活躍もあり、日の本は無事に『弥生時代』へと突入する。

 弥生時代と縄文時代の最大の違いは生活様式の変化である。縄文時代は狩猟にしても漁業にしても獲物が減れば移動する。だが、農耕民族となった弥生人は耕作地に定住し、身を守るためにも集住した。誰から身を守るのか?海賊からに決まっている。日の本が一枚岩な訳はないのだから。

 こうして集住を始めた日の本人だったが海人の気質も持ち合わせる。彼等は日の本各地に舟で繰り出しては農耕出来る土地を探した。そして日の本各地に集落を造る『開拓民』にクラスチェンジしていった。ヨーロッパや北アフリカ各地に都市ポリスを建設していったギリシャ人やフェニキア人と同様だろう。海人の開拓の足跡は長野県の安曇野市という山岳地帯にも見られるそうだ。

 いにしえの日の本に居た主流民族は海人である。生活様式から考えるとこの答えに辿り着く。つまり古代日の本は海洋民族であったと言えるだろう。

 海洋民族には二種類の顔がある。海賊として集落を襲う面と、品物を運んで他の集落で物々交換する面。海人は海賊であり、開拓民であり、商売人でもあった。弥生時代には海人は日本各地に赴き農耕地を開拓、そこに接続出来る海商路も開拓した。貨幣は無かったが物々交換による交易は既に始まっていた。

 時は流れて、集落同士の争いが激化してくると豪族なる存在が現れる。戦いになれば優劣が付く。集落同士の戦いに勝利して相手を支配下に置く上で支配者が必要になるからだ。これが古代豪族となる。

 弥生時代は固定集住が始まった時代だ。狩猟にしても漁業にしても獲物を求めて移動するが、農耕地は移動出来ない。それ故に生活様式に一定のリズムが確立し始める。不安定な狩猟生活から安定した農耕生活への変更はある現象を起こした。それが『人口爆発』である。つまり人々の生活に余裕が生まれた事と『米』が食糧として如何に優れているかという証明である。

 だが古代の稲作がそんなに安定していると思えるだろうか?そう、天候一つで簡単に不作となる。それだけで大量の餓死者が出る。だが古代の稲作は人手が掛かる。人は増やさねばならない。だから子供をたくさん産む。そして不作の年が来て、また大量に餓死者を出す。弥生時代とは基本的にこの繰り返しであった。

 そんな日の本の中で山に囲まれ気候は比較的に穏やかで大きな川もある『大和国』の豪族達の力が大きくなっていく。そして彼等が中心となって周りの豪族も巻き込んで後に『大和朝廷』となる連合体が発足する。『大和国』が中心となった理由は食料生産の一点に尽きる。みんな生きていきたいからだ。

 この時は近江国の豪族も一傘下豪族に過ぎなかった。しかし大和国が中心となると、そこに向かって物流が起こる。物流を仕切る者は富を成し大きな勢力となっていく。東国の物流を支配した『熱田神宮』や瀬戸内の物流の起点である『難波』、そして越の国の物流を支配した『淡海国』だ。この内、最も強者だったのが『淡海国』の豪族である。時は4世紀頃、東国は日本武尊命やまとたけるのみことの東征で平定されたばかりで、瀬戸内は海賊だらけだった。唯一、安定した商路は『北陸水運』だけであった。故に『淡海国』の豪族は巨大な富と軍事力を有した。

 日本武尊命の息子である仲哀天皇の時代に『淡海国』の力が更に強まる。仲哀天皇の后に息長帯比売命おきながたらしひめみこと、後に『神功皇后じんぐうこうごう』と呼ばれる女性がなる。神功皇后は近江国の豪族・息長氏の出身で彼女が『淡海国』の力を背景に大きな影響力を持った。

 神功皇后は征西を為し、九州南部に勢力があったという『熊襲くまそ』以外は全て討伐した。そして九州北部から朝鮮半島の仁那地域へ出征する。当時、そこには辰韓、弁韓、馬韓という国 (規模は豪族クラス)があった様で『神功皇后の三韓征伐』と呼ばれる。詳細については省くがこの遠征は技術と鉄の確保を目的に行われた。技術の確保は学んでいる暇などないので、技術を持つ人間を大量に拐った。……弥生時代の人間に道徳など説いても無意味である。この行為は時代のおかげもあり大成功となった。おそらくだが、この辺りで漢民族の東漢あずまのあや氏やはた氏が日の本に渡って来たと思われる。

 この頃の中華圏は戦国時代という言葉では生温い大殺戮時代『五胡十六国』の真っ最中である。これは中華圏で異民族の『五胡 (異民族の総称)』が大暴れした時代で「目に着いた→ムカついた→一万人ほど生き埋めにしたった」が息を吐く軽さで数え切れないほど行われた。しかし、この時代が無ければ仏教は辺境の一宗教で終わっただろう。そしてたくさんの漢民族が五胡に追われ故郷を脱出した。その内、朝鮮半島に脱出した者達は休まる暇も無かった。朝鮮半島でも高句麗、百済、新羅による三国時代に突入、戦乱に塗れた。そんな所に大和朝廷の神功皇后まで乱入してきたのである。

 避難してきた漢民族達はこれまでかと覚悟を決めたであろう。彼等が見てきた為政者といえば、異民族を見付けては皆殺しにする者達ばかりだった。しかし神功皇后はこれまでの為政者とは違い、異民族を見付けては船に乗せて自国へ連れ帰っていた。聞けば倭国 (漢民族からの日の本の名称)では大和朝廷が一番の強者で逆らえる勢力はほぼ存在せず戦乱は無いという。そして技術を持つ人はどんな出自であれ優遇する政策を採っているともいう。彼等は神功皇后に一縷の望みを懸けて日の本へと渡った。そして神功皇后はその人材を基に日の本に新しい時代である『古墳時代』を導き出したのである。

 まあ、それはそれで良いのではあるが、問題はその後だ。実は『神功皇后の三韓征伐』の少し前に仲哀天皇が崩御している。次代は二人の息子の応神天皇となるのだが、仲哀天皇崩御時にはまだ産まれていない。……普通に考えてもおかしい。産まれた時に父親が死亡していると嫡出が認められないはずなのだ。それこそ種違いを疑われるだけだ。なのに誰もそれを疑わず、応神天皇があっさり登極している。

 これが『淡海国』の力を示している。誰も逆らえなかっただけだ。文句一つも許さない程の権勢、反対した者がどうなるかは想像にお任せする。更に仲哀天皇には后が複数人居るのだが、彼女らはどうなったのであろうか。仲哀天皇の他の皇子も居た様だが、反抗して死んだとの事。まあ、そんな応神天皇の対抗馬になりそうな者を彼女は生かしておかないだろうが。応神天皇があっさり即位しているという事はそういう事だ。……弥生時代の人間に道徳など説いても無意味である。

 時は流れて、継体天皇の時代。彼は応神天皇の来孫で名を『男大迹王をほどのおおきみ』という。『淡海国』の旗頭となっていた皇族であるが、その勢力範囲は淡海国のみならず、えつ国 (福井県から新潟県)、三野みの国、尾治おわり国にまで及んだという実力者であった。その様な実力者であった事から登極を望まれたらしく、正当性を確保する為に武烈天皇は暴君とされた説がある。

 継体天皇は実力があるだけでなく、優秀でもあった。彼を傀儡にして実力だけを利用したかった大和豪族とは次第に衝突する様になる。その発露が『筑紫君磐井ちくしのきみいわいの乱』となる。筑紫君磐井は九州北部に勢力を持ち、仁那の維持の為に強き天皇を望んでいた。だからこそ磐井は強き継体天皇を歓迎した。だが継体天皇と大和豪族の間で衝突が起こると、継体天皇派の磐井は邪魔になった。そのため、大和豪族の物部麁鹿火もののべのあらかびが強襲して殺害する。磐井は何故自分が襲われるのか事情すら知らずに死ぬ破目となった。その後、筑紫君磐井は外国と通じて裏切った事にされた。新羅と通じたとされているが、新羅側にそんな形跡が無いのである。……古墳時代の人間に道徳など説いても無意味である。

 そんな問答無用の大和豪族でも淡海国の力を背景にしている継体天皇は排除出来なかった。継体天皇は大和豪族と争いながら寿命を迎え、後継者に息子の安閑天皇を指名する。大和豪族は皆反対したが継体天皇は受け付けなかった。しかし継体天皇が崩御すると安閑天皇とその皇子は即日で殺された。誰がやったのかは言うまでもない。日本の史書によれば安閑天皇は4年程、治世がある様だが、大和豪族の捏造である事が海外の記録でバレている。百済と高句麗で「日の本の王が死んだ日に次の王と王子が死んだ」と大使が本国に報告していたのだ。彼等がウソをつく理由が全く無いので大和豪族の改竄が発覚した。……古墳時代の人間に道徳など説いても無意味である。

 まんまと安閑天皇を殺害して、自分達の権勢を取り戻した大和豪族。安閑天皇の後ろ盾は淡海国ではないので問題は無いはずだった。……が、安閑天皇の後ろ盾である尾治国が熱田神宮を中心に蜂起。大和国に向かって攻め上がってくる事態に発展した。これに驚いた大和豪族は急遽、実弟である宣化天皇を立てて事態の収拾を図る。尾治国人も宣化天皇に刃を向ける訳に行かず、蜂起は収まる事になった。

 その後は大和豪族の天下と言える。次第に蘇我氏の権勢が極まっていくのだが、これを打倒したのが淡海国の力を継承した葛城皇子かつらぎのみこ、後の『天智天皇』である。葛城皇子は乙巳の変いっしのへんにおいて蘇我入鹿を討った。蘇我入鹿は皇族殺しを罪とされたが、実は皇族殺しが罪とされたのは彼が初めてだったりする。だいたい祖父の蘇我馬子は天皇殺害の疑い (ほぼクロ)があるし、安閑天皇も暗殺した大和豪族もその事実は隠蔽している。天皇ですらこの扱いなのに皇族に容赦などある訳がない。雄略天皇など皇族を殺し過ぎて後継者問題で困ったくらいだ。……飛鳥時代の人間に道徳など説いても無意味……ではないよ、そこそこあるからね、道徳。こうして葛城皇子は皇族軽視の状況を改め、強き天皇による統治を確立していくのである。

 当時の日の本には天皇即位には30歳以上という制限が暗黙的にあった様である。子供が即位しても役に立たないからだろう。そのため葛城皇子は乙巳の変の後で直ぐに即位せずに叔父の孝徳天皇を就け、葛城皇子は皇太子になる。孝徳天皇の理想政治が失敗すると彼を見放し、母親の斉明天皇を再度即位させ、葛城皇子は皇太子になる。

 この時に日の本にビッグインパクトが起こる。『百済の滅亡』である。これは唐朝が高句麗を南北から挟撃するために橋頭堡として百済を攻略したのである。何の前触れも無く、突然攻め込まれた百済はあっという間に滅亡した。この百済を再興する為に大和朝廷は出兵する。そして有名な『白村江の戦い』が起こり、大和朝廷軍は唐朝軍に敗北した。

 この結果に葛城皇子は焦った。このままでは日の本は唐朝に滅ぼされると。だから彼は日の本を改革して強国にしないといけないと考えた。それも直ぐにだ。それに白村江の戦いの前に母親の斉明天皇が崩御していたので葛城皇子が即位して改革を主導するのが好ましい。改革に必要な人員は百済からの亡命者が使える。だが彼にはある大問題があった為、即位を渋っていた。

 問題は後継者だった。大和朝廷では天皇位に就くと同時に皇太子を設定しなければならなかった。しかし葛城皇子には立太子出来る程の格を持った皇子は居なかった。そのため誰もが皇太子は実弟の『大海人皇子おおあまのみこ』だと見ていた。というか、それ以外の選択肢が無かった。天智天皇はこれまでの兄弟相続を止めて嫡子相続にしたかった。兄弟相続はいつも殺し合いの理由になっていたからだ。しかし背に腹は代えられず、即位と同時に大海人皇子を皇太子にする。


「大海人、私はこの国を改革する。唐朝の脅威に打ち克つ為にも日の本を百済式で改めて、整った行政機関による富国強兵を成し遂げるんだ」

「それは良いんだけど、兄ちゃん。嫡子は?」

「……正直、スマンかった」

「オレ、遊んで暮らせなくなっちゃったじゃん」

「いや、遊んで暮らすって、お前ね」

「それが兄ちゃんの為だって思ってたんだけど?兄ちゃんは兄弟相続を止めたいんでしょ」

「……マジでスマンかった」

「皇太子代行はするから、はよ男の子な。……で、兄ちゃん、百済式に改めるって言うけどさ、ソレは何語でやるの?」

「ああ、そうか。百済式にするなら漢字を百済読みに直さないとやり難いな。よし、日本語を次第に禁止して百済読みに変えていこう」

「えぇ……、物凄く反対されそう」

「大海人、唐朝の脅威は目前なんだ。多少強引でもこの国を発展させなければならない。何、淡海国の力を持つ私に逆らえる者はいないさ」

(兄ちゃんの自信の源は淡海国か。だけど淡海国だっていつまでも最強って訳じゃないんだけどなぁ)


 天智天皇は父親である舒明天皇の後ろ盾であった淡海国と越国の力を継承していた。大海人皇子は母親である斉明天皇の後ろ盾であった伊勢国、三野国、尾治国の力を継承していた。そして両親が天皇という正当性まで兼ね備えていたため、即位立太子に反対意見など皆無であった。

 大海人皇子の指摘通り、大和朝廷に百済式の行政体制を敷くなら漢字を百済読みに代えなければならない。漢字とは中華王朝で発明され、百済も日の本も輸入している。しかし、百済も日の本も本来の漢字の使い方をしておらず、日の本に至っては無理矢理日本語に当て嵌めて使っていた。現代に『訓読み』と『音読み』が残っている時点で察して頂きたい。そのため、漢字の日本語当て嵌め使用は非常に使い勝手が悪く、乱雑な漢字文章にしかならなかった。『大和=やまと、近江=おうみ、上総=かずさ、武蔵=むさし』これを見れば音すら合ってないというのが判ってしまう。結局、日本語に漢字を馴染ませるには『平仮名』の発明を待たねばならない。これに比べれば百済の漢字は本来の使い方に近く、無理なく漢字を使えていた。報告書を作るにしても記録を残すにしても、百済式は有利だった。故に天智天皇は言語そのものを日本語から百済式に変えようとした。

 こうして天智天皇は国政改革の野望に燃えて即位した。しかし大海人皇子の予想通り、百済人優遇政策は強い反感を生んだ。だが天智天皇はその反発を力で抑え込む為に『近江大津宮』に遷都する。淡海国の力を最大限に使える場所に都を移したのである。

 それ故に人々の不満は破裂せずに溜まり続けた。反比例するかの様に大海人皇子の信望は高まり続けたのである。それを重荷に感じた大海人皇子は皇太子を辞し大和国吉野に隠棲出家する。大海人皇子が自ら去ったので天智天皇は庶子の大友皇子を無理矢理に立太子して後継者とした。そして天智天皇は国家改革の志半ばで崩御した。

 この後、あの『壬申の乱』が起こる。壬申の乱は中々に稀有な発生をしている。普通は首謀者が扇動して乱が起こる感じなのたが、壬申の乱は反乱が起きてから首謀者が担がれている。

 発端は大友皇子 (弘文天皇とも)が父親である天智天皇の御陵みささぎ(巨大なお墓、古墳)を整えようと三野国から人足を調達した事に起因している。大津宮の使者から話を聞いた三野国人は『人足』を『兵士』と勘違いして怒り狂った。


「何ぃ!?兵士を集めるだと!?兵士を集めて何をする気だ?決まっている、大友皇子は邪魔な大海人皇子を消すつもりに違いない!おのれ、俺達の皇子様みこさまを殺されてなるものか!立ち上がれ、三野国人!皇子様の為に!!」

「「「うおっしゃぁぁぁ!!」」」


 こうして三野国にいきなり反乱の火が点いた。それを見た尾治国は熱田神宮を中心に蜂起した。


「三野国が蜂起した。俺達も行くぞ!大海人皇子を奉じて日の本を正常に戻すんじゃあぁぁ!!」

「「「よっしゃ、おらあぁぁーっ!!」」」


 因みに尾治国造は反乱を思い止まる様に説得していたが、熱田神宮には逆らえなかった模様。国造というのは朝廷から任命された国の長官で、現代でいえば県知事に相当する。それでも熱田神宮には逆らえない。

 この二国の蜂起に伊勢国も続いた。


「皇子様の本拠地はこの伊勢国。ヤツラに遅れを取る訳にはいかん!伊勢国人よ立て!(遅れた)悲しみを忠義に変えて、立てよ!伊勢国人よ!!」

「「「じーく・大海人!!」」」


 一方その頃、大海人皇子はどうしてたかと言うと大和国吉野で出家生活を満喫していた。もちろんなのか鸕野讃良皇女うののささらのひめみこと(後の持統天皇)も一緒に居た。……妻同伴の出家とはいったい……。それはさて置き、大津宮に残してきた大海人皇子の皇子や皇女が吉野に来て事態が発覚した。ここからの大海人皇子の行動は速い。吉野に残れば殺されると判っていたんだろう。彼等は直ぐ様に伊勢国を目指して伊賀国に入る。

 この伊賀国が一番の難所だった。道の険しさもあるのだが、何より伊賀国は大友皇子派だと思われていたからだ。だが大海人皇子の来訪を知った伊賀国人は皆、大海人皇子に臣従を申し出た。大友皇子は元の呼び名を『伊賀皇子』といい、伊賀氏は大友皇子の『壬生』(世話役、後ろ盾、養育者)であった。しかし天智天皇は大友皇子に皇太子としての格を持たせる為に壬生を大友氏に代えたのである。この事で伊賀国人は「自分達は天智天皇に捨てられた」と感じていたのだ。大海人皇子は「兄ちゃん、やらかしてるなぁ」と思いながら臣従を受け入れた。

 伊賀国人の案内を得て大海人皇子は伊勢国に入る。そこで伊勢国人や各地に散っていた大伴の武士もののふと合流する。だが、この頃には三野尾治軍で異変が起きていた。蜂起したのはいいが、肝心の大海人皇子が来ていないため士気がだだ下がりになり関ヶ原から一歩も進めなかった。「もしかしたら大海人皇子は来てくれないかも知れない」と疑心暗鬼状態であった。

 そこに大海人皇子の庶長子である高市皇子たけちのみこが先んじて到着。大海人皇子はここに向かっていると宣言し、三野尾治軍のボルテージは爆発的に上がった。そして予告通りに大海人皇子も合流、三野尾治伊勢連合軍は士気最高潮で淡海国へと進軍する。これを見た大海人皇子は悟る。


「そうか、兄ちゃん、やっと解ったよ。捨てられないんだ。オレ達は『日本人である』事を辞められないんだよ。明日から日本語を使うなって出来る訳ないんだ。だからみんな怒っているんだ。……もうコレは止まらない。やる所までやらせてもらうよ、兄ちゃん」


 大海人皇子軍に相対する淡海軍には当時の最新装備が配備されていた。その最たる物が百済の技術で作られた『いしゆみ』、古代〜中世において猛威を振るいおびただしい死体の山を築くクロスボウである。このクロスボウ隊が淡海軍の主力となっていたのだ。中世の鉄砲と同じくらいの飛距離に速射性を兼ね備え、加えて多少の訓練だけで扱える汎用兵器であるクロスボウ。これが大海人皇子軍に襲い掛かる……前に全滅した。

 何が起こったかというと大伴の武士が原因だった。クロスボウという兵器は一般的に矢の飛距離は中世の鉄砲とそこまで変わらない。つまり100m前後なのだが大伴の武士は最低でも300mは矢を飛ばしてくる。300mは最低限であり剛弓の使い手は500mにも及ぶという。しかも馬を走らせながら撃つとかいう変態的な強さを誇る。長弓騎兵とでも呼ぶべきなのかも知れないが、世界史上でも日本にしか存在していないので一般的ではない。しかもこれで長弓はおまけで乱戦突撃が本領とかいうキチガイ仕様となっている。おそらくだが流鏑馬やぶさめという行事の発端はこの大伴の武士であると思われる。

 そのため淡海軍のクロスボウ隊は何も出来ない内に大伴の武士の遠射によって壊滅させられたのである。そしてクロスボウこと弩は『役立たず』の烙印を押され日本史には登場しなくなる。

 こうして大海人皇子は淡海国の軍事力を叩き潰し、壬申の乱に勝利して天武天皇として即位する。淡海国の栄光は天武天皇によって終わった。だが淡海国の重要性、敦賀の重要性は何も変わらなかった。東国は開発が遅れている上に平安京を目指すには近江国を通らねばならない。瀬戸内は海賊の棲家で遣唐使や唐朝の使者にまで襲いかかって身代金を要求してくる困ったちゃんがひしめいている。結局、平清盛が掃除するまであまり使い物にならなかった。そんな事情もあり、淡海国の残滓から近江商人が産まれ、平安期には大勢力となり平安京の権益を侵すまでになった。


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 淡海国の後継者である近江商人の会合は紛糾していた。彼等の縄張りであった甲賀地域が突然、津島会合衆に制圧されていたのだ。同様に織田軍に制圧された堅田衆の拠点には堺会合衆の天王寺屋が出張ってきているという。交渉を続けてきた織田信長が牙を剥いてきたのは明白であった。


「浅井家を動かして今すぐに坂田郡を寸断するべきだ。これで津島会合衆を弱らせられる」


「だが甲賀が制圧されたのだ。伊勢国から甲賀を経由されるだけではないか?」


「それより堺会合衆の対策をするべきだ」


 集まった近江商人達は意見を言い合い、喧々諤々と騒がしくなる。そこに壮年の男が入ってくる。


「皆、遅くなってすまないな」


 現れたのは近江商人仰祇屋の主人である仰祇屋仁兵衛だった。仰祇屋は近江商人の中でも最も大店である。彼は会合場で一番上座に着席して全員を見る。


「それで織田信長に対する結論は出たのかね」


「はあ、織田信長は我々の敵になったと。それでどう対処するかで揉めています。何とか一泡吹かせられない物かと」


「ふふふ、ならばこれはどうかな。先頃、織田信長は幕府を通じて撰銭令えりぜにれいを発布した」


「またですか。大きなお世話なんですがね」


 撰銭令えりぜにれい

 上洛した織田信長が経済対策として出した幕府・・の法令である。全国に適用しようとしたのだから当然、幕府将軍の名前で発布された。

 概要は簡略して伝える。日の本には二種類の通貨があった。平清盛が輸入した『宋銭』と足利義満が輸入した『永楽銭』だ。永楽銭は問題無いのだが、宋銭は既に500年ほど経過しているため劣化が酷く、大半が『悪貨』となっていた。だからといって宋銭の使用を止めて永楽銭に切り替える事も出来ない。永楽銭が圧倒的に不足しているからだ。大きくなった日の本の経済を支えるにはお話にならない程に少なかった。しかも日明貿易は既に途絶えてしまった。そうなると『悪貨』である宋銭を嫌い『良貨』である永楽銭を好んで取引する様になる。これを撰銭行為と呼ぶ。

 この撰銭行為は経済流通を悪化させる要因でもある。そこで足利幕府では経済流通促進のために、宋銭も永楽銭も同じ価値の通貨であるとした。これでどうなったかと言うと、大量の粗悪な私鋳銭が造られる破目になった。何しろ一枚の永楽銭から複数枚の悪貨が鋳造出来たからだ。つまり永楽銭を溶かせば価値が3倍にも4倍にもなる。混ぜものも大量にされた。当然なんだが、この法令は直ぐに消えた。しかし私鋳銭は消えていない。そして商人達はより一層に撰銭行為をする様になった。

 こうした撰銭行為を各地の大名も防ごうとした。織田信長の撰銭令もその一つである。信長は撰銭行為に罰則を設けて、『悪貨』と『良貨』の交換レートを定めたのである。一見して常識的であり、信長はこの撰銭令を足利義昭の命令として発布した。これにより足利義昭は立派な将軍だと民衆が思うだろうと期待して。

 しかし、これは近江商人にとってカモでしかなかった。


「ふふふ、愚かな事だ。織田信長には思い知ってもらう。我らの前にこうべを垂れるまでな」


「仰祇屋さん、何かするおつもりで?」


「皆で『良貨』である永楽銭を貯め込むのだよ。ただでさえ数が足りない永楽銭が市場から消えれば永楽銭の価値は跳ね上がる。相対的に『悪貨』の価値は下がり取引すら嫌がる様になるだろう。民衆もお気楽に買い物などと言ってられなくなるのだよ。そして法令を発布した織田信長の評判は地に墜ちる訳だ」


「成程、それにこの法令は幕府将軍の名前で発布されている。足利義昭の名声まで地に墜ちて、幕府と織田信長の離間も狙えますな。では早速行おう!」


 津島会合衆の甲賀侵略を受けて、近江商人は織田信長を敵と認めて行動を開始する。市場は需要と供給により価格が変動するのは当たり前だ。交換レートを定めてもコントロールなど出来ない。良貨である永楽銭の数が減れば、需要が高まり価値が上昇する。価値が高まり過ぎると撰銭行為どころか取引拒否まで起こるだろう。悪貨が多い民衆は買い物すら出来なくなっていく。この効果は絶大であり、後に足利義昭は民衆から『悪御所』とまで罵られてしまうのだった。


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【あとがき】


 解釈は全て妄想ですニャー。この小説に歴史的事実は欠片も無いと御承知頂きたい。解り易さ優先しておりますので、『天皇』という概念が無い時代の人物も『天皇』と呼称しておりますニャー。継体天皇を男大迹王と言っても理解しにくいと思ったので。神功皇后は昔は『神功天皇』として日本史上最古の女性天皇で在位は70年あります。しかし神功皇后は非皇族なので、現在は天皇と認められていませんニャー。つまり息子である応神天皇は即位時70歳という事になり、書物によって在位期間が変わりますが、最低110歳、最高150歳となり存在が疑われておりますニャー。


べくのすけの考察 浅井家編

浅井家と朝倉家は仲が良く同盟関係と言ってよい。こうしたのは小瀬甫庵さんです。彼は歴史家ではなく小説家です。つまり我々の大先輩です。

浅井家と朝倉家の同盟を示す物は無く、両家の仲の良さを示す事柄すらありません。そもそも浅井家は『土一揆』です。下剋上大名だけど名家ぶりたい朝倉家が認める筈がありません。だから名家六角家の要請に喜び勇んで攻めてきた訳です。金吾丸まで造った朝倉家ですがいつまでも外征している訳にはいきません。一向一揆は毎年来るので元々帰る予定でしたし、浅井家が六角家に従えば無問題。「家臣の分際で六角殿に迷惑掛けるな」という感じでしょう。浅井家を大名と考えると間違いに嵌まります。

では小瀬甫庵さんは何故両家が仲が良いとしたのでしょう?べくのすけは2つの理由があると推察します。

まずは『長政さんが裏切った理由が不明』だからだと思います。実はさっぱり分からないのです。何しろ裏切られた本人である信長さんですら身に覚えが無く、しばらく信じなかったくらいです。結局、誰も知らないし、何の証拠も残ってないのです。なので小瀬甫庵さんは妄想する以外に手が無かったのでしょう。

もう一つは時代背景です。小瀬甫庵さんが『信長記』を書いた時の時代は江戸時代初期。最高権力者はあの『お爺ちゃん大好き将軍』として有名な『お孫様』です。彼は開祖徳川家康さんの神エピソードをこれでもかと捏造してくれました。そして彼にはもう一人のお爺ちゃんがいます、当然ですが。誰かお分かりですね?そのお爺ちゃんが醜い裏切りを働いた、などと書いたらどうなるか?『信長記』はこの世に存在せず小瀬甫庵さんは『お孫様』によって処刑された事でしょう。だから小瀬甫庵さんは考え出さないといけないのです。浅井長政さんが正義と友誼と信念の名の下に格好良く戦ったと。織田家への裏切りは信長さんに原因があったと。『信長記』はその結果から出来上がったのではないかとべくのすけは推察しますニャー。

という訳で浅井家と朝倉家は仲が良い訳ではない。むしろかなり悪いと推察しました。となると、やっぱり問題が出てくるのです。長政さんが何故裏切ったかです。だからべくのすけは探しました。浅井家と朝倉家を動かせる、結べる存在を。そこで旧型の『近江商人』にスポットを当ててみましたニャー。

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