甲賀合議
近江国甲賀。
甲賀衆の豪族の一人、多羅尾光俊は庭に出て考えに耽る。内容は池田恒興についてだ。
先日、池田恒興は大和国から帰還し、南近江の拠点である小堤山城に戻ってきた。もしかしたら勝勢に乗って進軍してくる可能性もある為、厳重に動きを調べさせている。
その物見に行かせた者が帰ってきた様だ。こちらに早足で来る足音が聞こえる。その足音は光俊の傍で屈み、一礼して声を掛ける。
「お頭、物見より只今戻りました」
「勘佐衛門か。ご苦労、報告を聞こう」
声の主は鵜飼勘佐衛門。光俊が信頼している実行部隊の忍である。
「はっ、小堤城に戻った池田恒興は半数の兵士に大休息を取らせた模様。もう半数にも交代で休息を取らせると思われますので、動く気配はありません」
「そうか」
「あと大和国方面の街道が全て塞がりました。派遣していた者達も戻れない様です」
勘佐衛門の報告から、池田恒興に動く気が無い事が分かる。つまり以前と同様の動きをしている。
そして報告はもう一つ。筒井家と松永家により大和国と甲賀を結ぶ街道が小さいのも含めて全て塞がった事。これにより大和国に行っていた甲賀者は戻れなくなった模様。山賊野盗が出るが伊賀まで遠回りするか、南近江から恒興の付城陣を突破するか審議中らしい。山賊野盗は人を殺すが、恒興は殺さない(荷物は没収)ので危険が少ないのはその実、南近江である。
「あの筒井家が2週間、いや実質は1週間か。筒井家は当主が柔弱との噂だが、家臣には強者が多い。それをこうもあっさりか。物資の状況は?」
「津島会合衆の者達が来てくれてますので、まだ一ヶ月は保ちます。商人から聞いたのですが、幾人かが織田家の網に掛かり捕らわれたと。織田家の警戒が強化されている様です」
「……彼等には済まない事をしたな。やはり限界は近いか」
「何か分かり次第、また報告に参ります。では」
そう言うと勘佐衛門はまた来た方向を戻る。他の仲間達からの連絡を待つ為だろう。一人になった光俊はまた考えに耽る。
(何故、池田恒興は動かない、か。もう答えは見えたな。『交渉』、これしかあるまい)
多羅尾光俊はこれまでの恒興の動きから、狙いは交渉であると断定した。そして光俊の中にも交渉という選択肢はある。なので彼は交渉について思考する。
(私が調べた限りでは織田家にコレという諜報機関が存在しない。故に畿内各所に拠点(コミュニティ)を持つ甲賀衆を評価している。だから極力、甲賀者を殺さない方針である、か。
織田家には諜報機関が無い。実際に諜報を専門とする組織が無く、織田家の他国情報取得はほぼ商人頼りなのである。この辺が織田家の外交下手にも繋がる。取得出来る情報が少なく、大量の情報を持つ恒興がいつも説明に回るのはこのためだ。
一般的に大大名ともなれば専属の諜報機関をお抱えとしているものだ。光俊は織田家がお抱えの諜報機関を探して甲賀衆に目を付けたのかと考える。多少、自惚れが過ぎる考えかもと自虐しながら。
(実利面で言えば、織田家の仕事を受けれるのは大きい。今なら独占出来るかも知れない。それに六角家からの仕事は絶望的だ。再興するにしても長期に渡り仕事は無いだろう。今回の報酬もどうなるやらだ)
今度は甲賀の事情を鑑みる。織田家程の大大名で仕事を出来るなら、甲賀衆にとって大きな利益である。今までは近江国内や京の都での仕事が大半だったが、織田家なら濃尾勢や畿内の各地まで仕事範囲が拡大する。これまで以上に稼げるはずだ。
それに六角家の仕事は現状及び再興間もなく辺りは絶望的だ。甲賀衆に金を使う前にお家の立て直しの方が急務だからだ。感謝はされるだろうが、それだけでは腹は膨れない。報酬もかなり後回しにされると予想される。
(交渉するとして問題となるのは六角御当主の身柄か。これだけは渡せない、甲賀の誇りに懸けて。池田恒興はそれを知っているのだろうか)
ならば織田家と交渉した方が甲賀の実利の為と言えるのだが、だからといって誇りを下げ渡す気まではない。
(交渉となれば、甲賀衆の織田家傘下入りとなるだろう。でなければ、我々も織田家の仕事を大々的に受けられない。だが六角御当主を渡せない以上は織田兵を郷内に入れる訳にはいかない。つまりは『ただの傘下』の立場を要求する事になる。……我ながら虫のいい話だ。仕事は欲しいが甲賀の権利を全て認めろ、こう言っているんだからな)
六角親子の身柄を守り通すなら織田家の人間は一人も甲賀に入らせない事になる。傘下に入り仕事を貰う関係になるのに織田家は立入禁止。流石に厚かましいとは光俊も感じるが、六角親子に危害が及んではならない。
これでは交渉にならないなと思う、普通ならだ。
(普通ならこの状況でそんな条件は認められないだろうな。要は池田恒興が何処までの条件を考えているかによる。……判らぬ、予測が出来ない。あの男なら全てを知っている、そんな気さえする)
光俊は池田恒興が全てを知った上で交渉を望んでいるのでは、と考えている。そうでなければ彼のこれまでの行動に説明がつかない。
敵に期待するなど愚の骨頂であると光俊も思うのだが、恒興の思考が読み取れない。だから交渉して直接確かめようという気になった。交渉せざるを得ない状況まで追い詰められたという話でもあるが。
(交渉するにしても、まずは織田家に繋がる者を探さねばな。池田恒興に繋がる者なら尚、良いのだが。まあ、それは無理か)
交渉をするなら素早く入りたい。だが現状では交渉の席に着く為の前交渉からせねばならないだろう。寺社に仲介を頼む手もあるが、何れにしても時間は掛かる。
何とか織田家臣と繋ぎを取れる人物を探さなければ。それこそ池田恒興と直接会える人物なら最高だなと光俊は考えて、無理だと自虐的に笑った。
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甲賀では主な豪族が集まり合議が開かれていた。ここに集まったのは甲賀上家二十一家を含めた甲賀五十三家という実力者、そして六角家が任命した奉行や甲賀所縁の者達となる。甲賀五十三家の中から十人が選出され、皆の前で合議を行う。この合議人の選出は持ち回りであり、家の力関係による不平等は無い。
甲賀の支配形態は二十一家をそれぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」の四地区に分ける。二十一家を顔役としてその傘下に残りの五十三家が付いている。ただ傘下とは言っても甲賀上家はただの顔役であり、その関係は対等である。
現在の合議人には多羅尾光俊や三雲定持の他八人。この計十人の合議人となっており、彼等以外は基本的に発言権は無い。恒興との交渉を考える光俊にとっては六角家第一を考える三雲定持が一番のライバルとなるだろう。彼を説き伏せずに織田家との交渉は出来ないと思われる。
「あれから織田軍に動きはない」
「このままでは我等は破滅だ」
「領民の間に不和が拡がりつつある。これは非常にマズイ」
合議人達は口々に現状の不満を吐き出し始める。現状は甲賀中どこも同じだ。津島会合衆が来ているとはいえ、あらゆる物資が十全に揃わない。そのため甲賀の民には制限と我慢を強いている。不満は溜まり、ちょっとした事で衝突する様になった。郷中に不和が蔓延し、このままでは甲賀の結束が失われると皆、戦々恐々としている。
「全て計画していたという事だな。我々くらいしか知らない山の隠し路まで殆ど全ての商路を塞がれた。今は津島会合衆が何とか織田軍の隙きを見て物資を持ってきてくれるが長くは続くまい。知っていると思うが、大和国も織田家の手に落ちた」
「あの筒井家がこうも容易く……」
「筒井家は決して弱くはない。当主は若く柔弱という噂だが、家臣には歴戦の強者が居る。それを僅か一週間程で制圧した池田恒興が弱将であるはずがない。甲賀では敢えて戦っていないだけだな」
現状、判明している事を光俊は語る。要点としては大和国が制圧されたので物資の供給先が津島会合衆だけとなった事だ。
伊賀衆にも期待はしていたものの、資金力が無い為、大した支援は出来なかった。これに関しては津島会合衆が動いているのが分かったので、無理はしなくなっただけだが。
そして池田恒興を弱将と侮る者が数名居たが、大和国の戦果を見るにそれは無いと断言する。甲賀ではハッキリと意図を持って戦わないだけだと光俊は述べる。その意図が何かまでは言わないが、皆の様子を見るにかなり戦意が落ちているなと感じる。交渉を切り出すなら好都合だと内心思ってしまう。
「こうなれば織田家の陣へ夜襲を掛けるべきだ!」
だが三雲定持は未だに意気軒昂の様で夜襲を提案する。まずは彼を何とかやり込めないと交渉に辿り着かないなと光俊は考える。
「自棄になるな。山林戦ならこちらに利があるが平地では不利だ。勝負にならん」
「『鈎の陣』の多羅尾殿がそんな弱気でどうする」
「それは私の父だ。奴らは『足利義尚』ではない。暢気に平地に陣を布いているのではなく、道の出口に砦を造っているのだ。彼等の進軍撤退は砦造成の為の目眩ましだったのだ」
『鈎の陣』というのは70年程前に起こった長享・延徳の乱の一戦を指す。当時の幕府将軍・足利義尚は六角家征伐を行った。六角家は本拠地である観音寺城を放棄、甲賀へと逃げた。そこで義尚は近江国栗太郡鈎に陣を布き、政務を行ったという。この場所を多羅尾光俊の父親をはじめ、甲賀豪族達は夜襲を掛けて大打撃を与えたというもの。その後もゲリラ戦を延々と展開し、足利義尚を苦しめた。これを『鈎の陣』と呼んでいる。
そして足利義尚が死去し、足利義材が将軍になると六角家征伐を再度実行。六角家は本拠地である観音寺城を放棄、甲賀へと逃げた。この長享・延徳の乱だけで観音寺城は2回も捨てられた。この時も甲賀衆はゲリラ戦を延々と展開し、足利義材はそこそこで帰った。この戦いで甲賀は幕府軍に対しても鉄壁の守りを見せたのである。
「だが多羅尾殿!このままではじり貧だ。甲賀の結束、物資がある内に攻勢に出るべきだ」
「分かっている。故に採決を取りたい」
「何のかな?」
「織田家と交渉するか、徹底抗戦するかだ」
多羅尾光俊は選択という形で全員に問いかける。今のところ、抗戦論を声高に叫んでいるのは三雲定持くらいで、他の者は現状に辟易している様だ。池田恒興が大和国に行く前後頃なら、合議は抗戦派ばかりだったというのに。おそらくは皆が出口の見えないこの戦いが嫌になってきたのだろう。所謂、
もしも池田恒興が甲賀に甚大な被害を与えていれば、今でも仇討ちの抗戦に皆が燃えていただろう。だが恒興は甲賀の恨みを大きく買う事を避けているし、甲賀地域の占領もしない。いや、全く入って来ない。ずっと睨み合ったままで、甲賀領民の士気が著しく低下している。生活苦と将来不安が蔓延しているので余計にだ。
皆が抗戦を叫ばなくなっているのなら、『交渉論』を受け入れる下地があると光俊は判断した。
「織田家と交渉など出来るのか?戦争しているのだぞ」
「この戦いは甲賀と織田家の戦い、我々はそう思っている。だが織田家はそうではない様だ。池田恒興からはいまいちヤル気が感じられない。向こうは甲賀と戦いたくないと思っている節が感じられる」
戦争は継続中だ。それは間違いないが光俊は前提が間違っているかも知れないと述べる。甲賀側はこの戦争を甲賀vs織田家と捉えている。だが織田家は甲賀となるべくなら敵対したくないと見えている。それ故に交渉という線は有りだと彼は考えている。
「だが多羅尾殿、その選択肢は死んでおるぞ。誰が織田家と交渉出来る?時間ばかり掛かってはジリ貧だぞ」
「それはこれから探すさ。山の隠し路を全て抑えられたのだ。甲賀の者が池田恒興の傍にいるとしか思えん。それを探してみるつもりだ」
三雲定持に痛い所を突かれた。光俊の論の弱点は未だに池田恒興に繋がりそうな人物が見付からない事だ。最悪、寺の僧侶に仲介を依頼する手段もあるが、何れにしても時間は掛かる。その間も経済封鎖は延々と続くだろう。
「時間が掛かり過ぎるだろうと言っているんだ」
「そうだ、多羅尾殿。それを待つ間に我等は破滅だ」
やはり反発は強い。いざとなれば自分自身が行くと言わねば納得させられないかも知れない。
一方の傍聴側に叫びたい者が居た。元箕作山城主の山中為俊だ。彼は箕作山城攻防戦で織田家の侍をやっている甲賀者を目撃している。「それは瀧孫平次だ!」と彼は叫びたかった。だがそれは出来ない。甲賀合議衆から選ばれた合議人以外が発言してはならない掟だからだ。甲賀で生まれ育ち、甲賀の掟を嫌という程に身に染みている山中為俊は黙っているしかなかった。
だがそんな彼の横に座っている者は暢気な声を挙げた。
「あ、あの〜、それなら……」
何を喋っているんだと山中為俊はその男を見た。たしか山岡景隆殿の小者だったと思うが。
ただ発言した小者を見たのは山中為俊だけではない。会場に居る全ての者が彼に注目した。そして合議人達は顔を真っ赤にして怒り出す。まるで親の仇でも見付けたかの様に。
「なんだ貴様は!!」
「甲賀合議人でない者が喋るな!!」
「うひぃっ!?」
一斉に怒号が小者へ降り注ぐ。そのあまりの剣幕に彼は声を出してたじろぐ。
「すまない、皆さん。一豊君、喋ってはいけない」
「す、すみません、殿」
その小者の名前は山内一豊。現在、山岡景隆の小者を勤めている。
彼の前に座っていた山岡景隆は部下の非礼を詫びる。山岡景隆の謝罪に合議人達は溜飲を下げ、この話は終わる。……はずだったのだが。
「いや、待て。山岡殿、彼は誰だ?」
「多羅尾殿、どうでもよいではないか。山岡殿の小者だろう」
「そうはいかん、私は彼を知らない。山岡殿の家人は全員知っているはずなのだ。私が一度見た顔を忘れないのは知っているだろう」
「それは知っているが……」
多羅尾光俊は強烈な違和感を覚えた。彼を知らないだけが理由ではない。
「一豊君と言ったか。君は誰だ、何処から来た?絶対に甲賀の産まれではあるまい」
この一豊という若者は確実に甲賀者ではない。甲賀の縁者で『甲賀合議衆』を知らないなど有り得ない。その掟に関しても近江国では有名なくらいだ。
「多羅尾殿、彼は……」
「山岡殿、私は彼を責めているのではない。聞きたいのだ、この難局を乗り越える術を。何か言いたかったのだろう?言ってみてくれ」
一豊を庇おうとする山岡景隆を光俊は制する。自分は彼を害しようというのではないと。ただ聞きたいのだ、彼が発した『それなら……』の先を。その先には何らかの方策があるのではないかと期待しての事だ。
「多羅尾殿、お巫山戯が過ぎるぞ!甲賀合議人でない者の意見など!」
「では我等に良い意見があるのか、勝ち目の薄い夜襲と長く掛かりそうな交渉以外に」
「そ、それは……」
「むぅ……」
交渉に反対している三雲定持は即座に反発してくるが、結局は交渉か抗戦かくらいしか案が出ていない。そのどちらも欠点が大きい。
多羅尾光俊は他の意見が必要だと説く。これに関しては特に反論は無い様だ。合議の行き詰まりを彼等も感じているのだろう。
「それに合議人が認めれば発言は可能と決めているではないか。意見は聞くだけだ、それならいいだろう。決めるのは我ら甲賀合議人だ」
「ううむ……」
「そういう事なら」
合議においては合議人から他者に発言を促す事もある。一種の証人喚問の様なものだ。誰でも発言可能だと収拾がつかない事態になりがちなので制限しているに過ぎない。
「と言う訳だ。一豊君、どうぞ」
「と、殿?」
「多羅尾殿がああ言ってくださっているんだ。構うことはない、発言してくれ」
「はっ、良い案かどうかは解りませんが……」
「何だ!早く言え!」
「一々、茶々を入れないで貰おう。さ、続けたまえ」
発言しようとする一豊を三雲定持は威嚇する。彼は話が全体的に交渉に向かっているためイライラしているのだ。自分を六角家臣だと自負している三雲定持は織田家と戦って六角家再興を望んでいる。
そんな焦りが見える三雲定持を光俊は
「実はその、俺の義兄は織田家重臣の池田恒興なんです」
「「「……は?」」」
会場に居る誰もの頭が真っ白になった。意味が解らない、池田恒興の義弟が何故ここに居る?山岡景隆はこれを知っていたのか?いや、彼も啞然としている。
「「「な、なんだとーーっ!!」」」
だが次第に一豊の言葉の意味が理解されると、周りの人間が憤慨して立ち上がる。
「ど、どういう事だ!?」
「そうか、貴様が内通者だったのだな!」
「我等の情報を売るために潜入したのか!おのれ、切り捨ててくれる!!」
「ち、違う、俺は……」
合議衆の豪族達は口々に一豊を罵り立ち上がる。ある者は刀を抜いて一豊を斬り捨てようという者までいる。
多数の人間の殺気を浴びて一豊は弁明しようとするがおそらくは無駄。その程度で彼等は止まらない。では、逃げるか。それも出来ない。何故なら『逃げる』とは罪を認める事になるからだ。このままでは主君である山岡景隆にまで類が及ぶ可能性まである。たとえ斬られても逃げる訳にはいかない。一豊は一瞬だけ逡巡し覚悟を決めた。決して動かないと。
そして暴徒と化した豪族達が一豊に襲い掛かり……。
「座れぇぇぇぇぃっ!!!」
突如、広間に雷鳴が轟く。多羅尾光俊が一喝と共に、自らの拳を床に叩き付けたのだ。いや、拳を振り下ろされた床は叩き割られた。そのあまりの迫力に室内に居た全ての者が、まるで部屋に
「ひいぃ!?」
「た、多羅尾殿……?」
「これ以上、私を怒らせるなよ」
多羅尾光俊は言葉と眼光だけで暴れようとした者達を射竦める。普段から思慮深く冷静な多羅尾光俊が怒る。それはどれ程の怒りになるのか想像もつかない。立ち上がった豪族達は皆、金縛りにあった様に意気消沈して動けなくなる。
「う……多羅尾殿。しかし……」
「潜入しておいて自ら素性を明かす間者が何処にいる。少しは冷静になれ」
「それは、たしかに……」
「た、多羅尾殿の言う事に一理あるな、ハハ……」
これは多羅尾光俊の言う通りだろう。もしも一豊が間者なら最初から一言も発せず、内偵を続けるはずだ。
一豊を斬ろうとした者達は苦笑いをしながら席に戻った。
「……すまないね、一豊君。話の続きを頼む。君と池田恒興の関係、そして義弟である君が何故ここにいるのか、の辺りがいいかな」
(や、ヤバい。この人は怒らせてはいけない人だ)
先程の怒りとは打って変わって笑顔で一豊に続きを促す光俊。瞬時に表情を変える光俊を見て、一豊は恐怖した。この手の人物は怒ると非常に怖いのだ。他人に向けられたものとはいえ、その怒りは既に見たので、一豊は若干緊張して話し始める。
「……はい、俺と池田殿は相婿の関係なんです。俺の嫁の姉が池田恒興殿の正室で」
「ふむ、よく池田家正室の妹を娶れたものだ」
「自分は元々織田伊勢守家の家老の嫡男です、……もう滅びましたが。家が滅びる以前に親が遠藤家の娘を許嫁にしたんです」
「成る程な。君の方が先だった訳か」
奥美濃遠藤家の娘を許嫁にしたのは一豊の父親である山内盛豊だ。山内盛豊と遠藤盛数は以前から親交があり、自分達の子供を婚約させていた。この頃の織田信長はまだ織田大和守家を倒した程度、池田恒興に到っては1500石取りの一侍に過ぎない。立場的に恒興より一豊の方がずっと上の侍だった。
だが時代は戦国。驕れる者久しからず、驕れぬ者さえ久しからず。織田信長の勢力拡大で二人の立場は逆転。恒興は犬山城主に成り上がり、一豊は牢人に落ちた。そして遠藤家の婚姻関係に池田家が入り込んだ為、恒興と一豊は相婿の義兄弟となった。
「でも自分は牢人で貧乏なので妻に思い切り迷惑を掛けて、それで義兄である池田恒興殿に怒られて……妻を義兄の元に預けて仕官の旅をしていました。そして辿り着いたのが山岡家だった訳で……」
「フム、成程。大体飲み込めたので、もう結構だ。ありがとう、一豊君」
結果として一豊は義兄となった恒興に怒られ、妻である千代を預けて仕官の旅に出た。恒興と自分で何故にこんなにも差がついたのか、戦国時代の激動と無情に一豊の目に涙が浮かぶ。
その様子に光俊もそれ以上聞かなかった。戦国の常とはいえ、お家の没落する話は悲しいものだ。
「多羅尾殿はこんな与太話を信じるおつもりか!?」
「この者が真実を話しているとは限らないのでは?」
抗戦派の三雲定持などが構わず反論してくる。まあ、彼等としては余所者の一豊が喋っている事自体が癪なのだろう。
「フッ、目の前に居る者が嘘を付いているかどうかぐらいは見れば分かる。それに池田恒興の義妹が妻なら、君が行けば池田恒興本人が会ってくれるのだろう」
「た、多分大丈夫ではないかと……」
「よし、これで織田家と交渉出来る人物が手に入った。採決と行こう、交渉か抗戦か。採決拒否は認められない」
光俊は一豊に恒興と会えるかを問う。一豊が問題無いと答えると、光俊は採決に入る。
合議人10人で抗戦か交渉かのどちらかを選ぶ。棄権や拒否は認められない。
「抗戦の者は挙手を」
多羅尾光俊が抗戦案の挙手を求めると、三雲定持は真っ先に手を挙げる。だが、それ以外の者は挙手しなかった。この時点で1対9になり、交渉が決定した。
この決定に三雲定持は激昂して立ち上がる。
「何故だ!?皆、多かれ少なかれ六角家から恩を与えられているはずだ!それを仇で返すというのか!」
「三雲殿、我々は豪族だ。甲賀豪族である以上は甲賀の安寧を考えるのが第一だ。六角家の事は心苦しいが」
「心苦しくも六角御当主を敵に差し出すか!?大した忠誠心だな!見損なったぞ、多羅尾殿!皆もだ、ここまで薄情だとはな!」
「うう……」「三雲殿、そう言われても勝ち目というものがな……」「このままでは……」
三雲定持には認められないのだ。六角家を見捨てる決定自体が。彼は糾弾する、六角家から恩を受けたのに仇で返すか、と。その矛先は多羅尾光俊のみならず、挙手しなかった合議人達にも向けられる。彼は情に訴えかけてでも決定を覆さなければならない。六角親子を織田家に渡す訳にはいかないのだから。
「……言葉を返す様で悪いが、私は六角御当主を織田家に渡す気は無い」
「どういう事だ?」
「織田家と交渉し傘下に入るとしても、織田家の兵士は一兵たりとも甲賀には入れない。六角御当主の引き渡しなど論外だ。この条件は織田家に飲んでもらう」
「そんな虫のいい話が通るのか?」
多羅尾光俊は自分の交渉条件を話す。それは定持が聞いても甲賀に都合が良過ぎる内容だった。だが、多羅尾光俊の意思は揺るがない様だ。
「通らないなら、私も覚悟を決めよう。他の者はどうか?」
「そうだな、六角御当主引き渡しなど出来ない」「甲賀衆の誇りを捨てる様なものだ」「我々はまだ一度も敗けていない。領地を占領される謂れなど無い」「そうだ、織田家が甲賀に入る権利は無いんだ」
交渉派の首魁と言える多羅尾光俊が六角親子を庇う発言をしたので、見捨てるしかないと思っていた合議人達も声を大にして追従する。まるで最初からそのつもりだと言わんばかりに。
「これでどうかな、三雲殿」
「相分かった。六角御当主の安全が確保されるなら、今は納得しよう」(御当主が無事なら時期を改めるだけだしな)
この決定には三雲定持も納得する事にした。どちらにせよ六角親子が無事なら、いくらでも仕切り直す事が可能だ。甲賀の窮状も理解しているので、今は引く事にした。
「山岡殿、一豊君を貸して貰ってもよろしいかな?」
「ええ、私に異存はありません」
「では、一豊君。池田恒興と繋ぎを付けてくれ。交渉は我々がするので、席を用意して欲しいと伝えてくれればいい」
「わ、分かりました。直ぐに行ってきます」
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今回の合議は終わった。大半の者達は織田家との交渉が早まる事に期待し、笑顔の者も居た。六角家派の者達の顔は渋い感じではあったものの、物資遮断の包囲を解かないと勝負にならない事は認識している。なので渋々、了承といったところか。『とにかく包囲を解く』、交渉派も抗戦派もこれが第一だと考えている。抗戦派は包囲を解かせてから、再び蜂起すればよい。考えている事はその程度だろう。
だからこそ、この場に山内一豊が居た事は幸運だった。彼の存在は最終的にそんな感じで皆は受け止めた様だ。だが多羅尾光俊は一人、渋い表情で考えに耽っていた。
(池田恒興とは恐ろしい男だ。この土壇場で池田恒興の義弟が甲賀に居るだと?これを偶然で片付けられるほど、私は楽観的ではない。確実に池田恒興の策略なのだろう。だが、あの山内一豊の言葉に嘘は無かった。嘘を吐く者を私は見破れる。声色、心音、挙動、視線、吐息、表情などに変化が表れるからな。では山内一豊は池田恒興の操作を受けていないのに甲賀に来た事になる。いや、彼は甲賀ではなく山岡家に仕官したのだ。これは山岡殿が甲賀に避難していなかったら、全てが御破算だ。こんなか細い糸の綱渡りを読み切るのか、池田恒興は)
多羅尾光俊は人の嘘を見破る特技がある。どんな嘘吐きでも自分に嘘は吐けない為、どんなに隠しても変化が出てしまう。光俊はそれを見て取れる、相手が目の前に居る事が前提条件ではあるが。この特技から光俊は山内一豊が嘘を吐いていないと判断している。
なら彼が山岡家に仕官したのは偶然となる。そもそも仕官なんて簡単に出来るものではない。山岡景隆が牢人を募っているなど聞いた事も無い。更に山岡景隆が領地を捨てて甲賀に避難したのも苦渋の決断だったはずだ。彼が領地で防戦する可能性も織田家に降伏する可能性もある。山内一豊が甲賀に来る可能性は極めて低いはずなのに、池田恒興はこの策略を実行した。信じられない程に可能性が低いのに、事は彼の思惑通りに進んでいる。
(これも全て池田恒興の策略というものなのか?甲賀を封じ込め、一方で義弟を人知れず潜入させる。考えてみれば、津島会合衆の件もおかしい。織田家が本気なら商人など通しはしない。これも池田恒興なら織田軍の警備に穴を開けさせるなど容易い話だ。これが彼の『謀略』なのか。……どうやったら防げるのだ、こんなもの)
よくよく考えてみれば津島会合衆の事もおかしい。彼等の動きに池田恒興が気付かない訳がないのだ。ならば池田恒興は津島会合衆の動きを黙認している。いや、違う。彼が津島会合衆を動かしている、というのもおかしくない話だ。そして織田軍の甲賀攻略における最高指揮官の彼が警備に穴を開けている。こう考えると、全ての疑問に辻褄が合う。
多羅尾光俊は本物の『謀略』を垣間見て戦慄する。自分はどんな戦場でも冷静に努めてきた。一対多の不利な状況でも震える事無く対処してきた。だが『謀略』の全貌を垣間見た今は、震えと冷や汗が止まらない。
(我々は最初から釈迦の手の上で踊らされる孫悟空だったのか。ならばこの交渉が上手く行かなければ、我々も孫悟空の様に暗く重い五行山の下に封じ込められるのだろうな。気を引き締めなければ。甲賀に暗黒の未来をもたらしてはならない)
光俊は今の甲賀の状況を西遊記の主人公の孫悟空だと感じた。
調子に乗って暴れる孫悟空が釈迦如来に懲らしめられ五行山の下に500年封じられる。ここに三蔵法師が来て孫悟空を開放し、西遊記が始まるのである。
今の甲賀は暴れる孫悟空で五行山の下に封じられる寸前なのだと光俊は認識した。
このまま封じられる訳にはいかない。孫悟空には三蔵法師が来てくれたが、甲賀には誰も来てくれないかも知れないのだから。
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小堤山城に戻った恒興は兵士達に休息を取らせた。そして自身も部屋で休息を取ろうと思ったのだが、そこに加藤政盛が報告を持って現れる。
「殿、津島会合衆の商人が何人か我が方に捕まったそうです」
「は?ニャんで?誰が捕まえた?」
「それが、長野信包様が突然にやる気を出して商人を捕まえたとか。捕らえられた商人は既に解放された様です」
「んもー、あの方は。座っててくれるだけでいいのに、何でやる気なんか出すかニャー。分部光嘉に連絡、『ちゃんと見張っとけ』ってニャー。何なら信包様には蒲生殿をもっと接待しといてって伝えるニャー。それ、凄く重要だからね」
主君の弟に結構ヒドイ扱いかも知れないが、恒興は長野信包が心配なのである。先頃には甲賀まで突入して襲撃されて逃げてきた。何処か間違ったら命は無くなっていた話だ。もしも信包が討ち死にしたとなったら甲賀包囲なんて暢気な事は出来ない。仇討ちの為に殲滅する破目になる可能性すらある。
だから恒興は信包が何もしなくてもよい様に取り計らっていた。これは兄弟を大切に思う織田信長の意思でもある。
「畏まりました。早速、取り計らいます」
多羅尾光俊を戦慄させている謀略の主は、主君の弟の暴走に頭を悩ませていた。
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【あとがき】
この甲賀攻略戦から終了までは小説開始くらいで大筋を書いていたのでサクサク進む予定ですニャー。大和編は余分でしたが。
この甲賀編後くらいに『かの者達』についての話になります。解説だけで一話分くらいになるかも。何しろ話は日本の創世まで遡る……『妄想』ですからニャー。『妄想』ですからニャー。『妄想』ですからニャー。(エコーです)
あ、因みに日本神話は含みませんニャー。
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