蠢動する黒狐

 石山本願寺。石山寺、石山御坊とも呼ばれる浄土真宗本願寺派の本拠地である。ここは大阪湾の海岸にある大小10以上の島の最奥にある要塞というべき拠点である。

 寺が要塞化しているのには理由がある。それは『天文の乱』が原因で、法華宗や六角家の追討を受けて石山本願寺以外の畿内拠点を全て失ったからだ。本来の本拠地であった『山科本願寺』もこの時に焼き払われた。この石山寺だけが法華宗と六角家などの連合軍の猛攻に耐えきった。大小10以上の島がそれぞれ島曲輪として機能し、無類の防衛力を誇ったためだ。結局、連合軍はこの石山寺を攻略出来ずに解散した。

 その天文の乱以降は畿内に唯一残った石山寺を本拠地としていたが、本願寺派としてはいつか『山科本願寺』を再興する事を目標に活動している。

 本願寺派の組織は簡単に説明するとトップに法主を戴き、その下に実務を行う三人の坊官が居る。更にその下へと枝分かれしていくのだが、実務のトップといえば三人の坊官で『三坊官』と呼ばれている。この役職は下間一族で占有されていて、他者が入り込む事は出来ない。

 そのうちの一人、下間頼照らいしょうは自らの職務を終えて一息つこうと私室へ向かう。空は既に赤みさし、夕刻となっていた。今日は少し時間が掛かってしまったと、頼照は効率の悪かった部分を考える。だが考え事をし過ぎたせいか、廊下の角を曲がってきた僧侶とぶつかりそうになる。ぶつかりそうになった僧侶は少し身を避けて躱そうとする。


「おっと、これは頼照殿。お考え事ですかな?」


頼廉らいれんか。済まないな、少し油断した様だ」


 身を躱した大柄の僧侶は下間頼廉。頼照と同じく三坊官の一人で25歳。その身体は大柄なだけではなく、筋骨隆々でかなり鍛え上げられている。


「政務の方は頼照殿頼りですから、お疲れでしょう。私に言ってくだされば幾らか手伝いますよ」


「いや、お前には軍事的な方面を任せているからな。そう言えば、新たに雇った雑賀の信徒達はどうだ?」


 紀伊国雑賀には鉄砲の産地があり、精強な鉄砲傭兵『雑賀衆』が居る。雑賀に本願寺派の信徒が多い事もあり、多数の者を雇う事に成功した。とはいえ雑賀の鉄砲傭兵は各地に散らばっているので他大名でも雇う事がある。因みに織田家でも重宝されている。


「かなりの手練れですよ。わざわざ雇った甲斐があったと言うものです。……しかし彼等を雇うという事は戦が近いのですか?」


「そうではない。ただ、現状で我々には敵が多過ぎる。法華宗は元より比叡山との諍いも解決していない。更に天文の乱の影響で畿内の武家も油断が出来ない」


「たしかに。更には幕府の復権と織田家の台頭。状況がどう転ぶか読めませんな」


「織田家とは関係の改善を図る方針だ。法主様も戦は避けよと仰っておられる」


「長島の信徒がうるさいでしょうな」


「そちらには貧乏くじを引かせてしまう故、後で手当てが必要だな。それでも私は最大限、法主様の安全を図りたいのだ。頼むぞ、頼廉。法主様だけは何があっても守り通してくれ」


「言われるまでもありません。必ずや守り通してみせます。では、これにて」


「ああ」


 頼廉と別れた頼照は私室へ向かう。しかし廊下を複数人がパタパタと走る音が聞こえる。あれ程廊下を走るなと言っているのに何処の小坊主のイタズラかと頼照はやれやれといった感じの溜め息をつく。とりあえず一言は言わざるを得ないと音の方へ歩いた。

 向かった先には複数人の僧侶が居た。小坊主だけではない、大人の僧侶もいて慌てている。何があったのかは分からないが、異常事態なのは分かった。その僧侶の集団の中にある人物を見つけて声を掛ける。


頼資らいし殿、何があったのです?」


 頼照は慌てる僧侶達の中心に居た老僧侶に声を掛ける。彼の名前は下間頼資。三坊官代理といったところの人物だ。本来の三坊官がかなり若いので緊急の措置となっている。だが頼照にとっては大先輩に当たる人物なので失礼のない様に接している。


「ああ、頼照、実は法主様に面会を申し込む者がおってな、ゴホッゴホッ」


「頼資殿、大丈夫ですか?しかしそんな予定は聞いていませんが、誰なのです?」


「それが……先の管領・右京大夫晴元なんじゃ。その、法主様と相婿なのでな、帰ってもらうのが難しくて」


 細川晴元と聞いて頼照は眉を顰める。それはそれは不吉な名前と認識しているからだ。


「細川晴元……あの男、まだ生きていたんですか」


「如何すればよかろうか?」


「アレは出来れば法主様に近付けたくありません。私が応対しましょう」


「済まない、ゴホッゴホッ。わしの身体が壮健ならお前にばかり苦労を掛けぬものを」


「それを言っても始まりません。ご養生下さい。貴殿は頼龍らいりゅうを立派に育てるまで死ねないでしょう」


「ああ、そうだな。ではよろしく頼む」


 下間頼龍は三坊官の一人ではあるものの、未だに10歳の少年である。父親の下間真頼が数年前に死去したため、下間頼資に託され養育されている。その頼資も高齢にて体調を崩し始めたので、頼照は養生を推める。

 頼照は周りに居た僧侶達に頼資を送る様に指示を出す。頼資は彼等に付き添われながら、頼照の前を後にした。


「……何をしにきたのか、アヤツめ。天文の乱の時の様に我等をまた利用しようというのか」


 下間頼照は現在46歳。天文の乱の当時は30歳前後であった為、その経緯も及ぼされた被害もよく知っている。そして誰がそれを為したかも。

 そこまで分かっていても無下には扱えない。何故ならば、細川晴元は本願寺法主である顕如上人と相婿の関係だからだ。

 頼照は気を引き締め、晴元が待つ部屋へと向かった。


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 頼照が部屋に入るとダラけた壮年の男とその後ろに控えている若者が居た。ダラけた姿勢の男がくだんの細川晴元である。後ろの若者とは面識はないが、服装から上級の武士と見る。となれば、おそらく息子の細川昭元か。今の晴元に動かせる者は多くないはずだ。そう頼照は判断する。


「いやはや、結構待ちくたびれたでおじゃるよ。もしかして忙しかったでおじゃるか?」


「法主様はいつもお忙しいのです。貴殿と違って」


 姿勢も正さずに悪態をつく晴元に頼照は冷静に応対する。皮肉も入れつつだが。


「仕事のし過ぎは過労になるだけでおじゃるよ。どれ、麿が一つ、法主殿に手の抜き方を伝授するでおじゃる」


「結構です」


「頼照殿は堅物でおじゃるなあ。なら、麿のオススメ稚児を紹介するでおじゃるよ。さすればその堅く輝く頭も柔らかく……」


「な・ん・の、ご用件で御座います・かっ!」


 用件も言わずにくだらない話を続ける晴元に頼照は一喝する。こんな世間話を続けるなら早く帰って欲しいのだが、法主・本願寺顕如と相婿の関係にある為に無下にするのが難しい。下手な応対をするとその実家である三条家から苦情が来かねない。

 晴元は場を和ますジョークを言っているつもりなのだが、ちっとも乗ってこない頼照にやれやれと呆れた様子を見せる。


「相変わらず冗談の通じない御仁でおじゃるのう。麿は幕府を代表する者として挨拶に参った次第でおじゃるよ」


「ならば先に報せて欲しいものですが」


「麿は法主殿と相婿でおじゃるからなあ。あまり他人行儀はいかんと思ったのでおじゃるよ」


法主様は・・・・お立場が御座いますので気を遣って頂きたく」


 晴元は幕府を代表してと嘯く。他人行儀にしたくないから報せずに来たと晴元は言う。だが頼照はそれがただの嘘であると看破していた。

 簡単な話だ。細川晴元が復権したなどとは聞いていない。そんな事をしたら畿内中の大名豪族が反発するからだ。それ程に『天文の乱』とは影響が大きい。幕府としても地固めがまだ終わっていないのに、大地震を起こす気はないだろう。

 それに幕府を代表してと言うなら、何故従者が一人なのか。おそらく息子である昭元を従者にしているのは、他に従う人間が居ないから。幕府に居るとしても、幕府に立場がある訳ではないと頼照は見ている。

 そんな皮肉混じりの返答も気にする事なく、晴元は話を続けていく。


「まあ、幕府の復権も成ったので本願寺ともこれまで通りに仲良くしていきたいと思うのでおじゃるよ」


「幕府の復権は真に目出度めでたい事ですな」


「実情はそうとも言い切れんでおじゃるがな。頼照殿は今の幕府の体制をどう考えるでおじゃるか?」


「私は浄土真宗の一僧侶です。それを語る舌は持ちませぬ」


 晴元の話の筋が変わる。いきなり幕府の内情の話に切り換える。頼照は警戒を強め、何かしらの言質を取られない様に返答する。


「何をするにも織田信長、織田信長でおじゃるよ。そのうち、幕府は織田信長に乗っ取られるやも知れんでおじゃ」


「それはそちらで対処して頂きたい。我々には関係の無い話です」


「そうでおじゃるかな?あの織田信長が貴殿らを見逃す筈は無いでおじゃ。今に難癖をつけられるのがオチでおじゃるよ」


「その様な事はありません」


 どうやらコレが本題か、と頼照は感じる。つまり晴元は織田信長に対する悪言をしにきたのだと。

 頼照はくだらないとしか感じない。もう武家の争いに巻き込まれるのは御免だとも。それが本願寺派僧侶としての本音であった。


「そなたらは伊勢長島で信長相手にいろいろと敵対していると聞くでおじゃるが?」


「あちらには自重を命じています。問題も話し合いで解決すべきかと」


「織田信長の挑発に堪え続けなければならないとは、ちと酷ではおじゃらんか?」


「……貴殿はどうやら我々を織田信長殿と敵対させたい様ですね」


 やはりそうか。この男は我々と織田信長を敵対させたがっている。三好長慶の父親である三好元長を我々に殺させたのと同じ様に。この男が語る『正しい行い』に従った結果があの『天文の乱』の勃発という事だ。天文の乱の当時、30歳前後だった頼照はこの事をよく覚えている。


「そうではないでおじゃるよ。麿はただ法主殿の心配をしているのでおじゃる。このまま織田信長の餌食になるのは忍びないのでおじゃる」


「残念ですが当方には八世蓮如上人が定めた『王法為本』という法があります故、織田信長殿と争う愚は犯しませぬ」


『王法為本』と聞いて細川晴元は久々に聞いたなという顔をした。そもそも三好元長討伐に本願寺派が手を貸した原因にこの『王法為本』の考えがあったからだ。


「『王法為本』とな。たしか、王の棒とキ○タマがなんとやら、とかいうアレでおじゃろ?知っているでおじゃるよ」


「『王の法を基本とする』!で・御・座・い・ま・す・っ!!!!」


 とんでもない勘違いをして覚えている晴元に、机を叩き割らん勢いで頼照は拳を振り下ろす。非常に頑丈に造られた机の様で事無きを得たが、畳なら突き破っていたかも知れない。

 流石の迫力に晴元も少したじろいで釈明する。


「ちょっと間違えただけでおじゃるよ〜。そんなに気合いを入れて怒らんでもいいではおじゃらんか」


「はぁ、はぁ……」


 一気に力を使ってしまったのか、頼照は少し肩で息をして呼吸を整える。


「それの問題は『誰』を『王』と見做しているのかという事でおじゃる」


「『王』というのは為政者の事で必ずしも組織の頂点を指している訳ではありません。八世蓮如上人も当時の為政者であった細川政元を『王』と見做しておりました」


 日の本には『王』という位はない。かつて足利義満が『日本国王』とされたが、それは明朝側だけの認識である。つまり『王』というのは明朝から見たもので、仏教もしばしば大陸側の認識を取り入れる。その観点から『王法為本』の『王』は足利義満の様な最高権力者及び執政者を指していると思われる。

 だからこそ『半将軍』とまで呼ばれた細川政元を八世蓮如上人は『王』と見做し、彼の要求に応えていた。

 十世証如上人が細川晴元に協力し天文の乱に到ってしまったのも、彼を『王』と見做した事に起因する。

 ならば、現時点で世の中を動かしている力を持つ織田信長が『王』と見做されるのは当然と言えるのだ。


「ニョホホホホ。これは可笑しや。信長が為政者?あれはただの力。世の安寧など考えておらず、ただただ己が欲望に忠実な力。故に公方様が御さねばならぬでおじゃるが、お若い故これがなかなかに難しい」


「その力が無ければ幕府自体が成り立たないのに、よく仰る」


 その力で上洛させてもらい、その力で幕府を再興させてもらいながら、その力を疎ましく話す晴元に頼照は心からの冷笑を贈る。だが晴元はそれも意に介さず話を続ける。


「他人事ではおじゃらんよ。その欲望の牙はこの石山にも突き立てられるでおじゃる。麿はそれを警告しにきたでおじゃるよ」


「それこそ下らないですな。我々は先頃、織田信長殿の求めに応じ、5千貫もの矢銭を差し出しました。他の寺社は応じてない様ですし、織田殿との関係も大きく改善したでしょう」


 頼照の自信、それは織田信長の矢銭要求に応えたという事実だ。それは5千貫もの大金であり、調べたところ矢銭要求を受けた寺社の中で本願寺派だけが支払っていた。この事からも織田信長の心象は大きく改善したはずだ。

 それが下間頼照の余裕の理由でもある。


「ほう、そして『山科本願寺再興』という訳でおじゃるか?」


「まあ、最終的にはそうですな」


「くくく。それは叶いそうにおじゃらんなあ」


「何?」


 下間頼照が余裕な態度を見せている事から、晴元は彼等は『最終悲願』へと近付いたと感じているのだと感じた。その『最終悲願』というのが天文の乱で連合軍に焼き滅ぼされた『山科本願寺の再興』なのである。たしかに織田信長の力なら山科本願寺の再興も容易いだろう。だからこそ、その幻想を打ち砕かなければならない。夢は叶わないから夢だと言うのだと。


「そもそも織田信長が山科本願寺の事など知ってる訳がないではおじゃらんか。それどころか石山本願寺を破却するやも知れんというのに」


「な、なんと!?どういう事か!?」


「ヤツは寺の武装化が気に入らんだけでおじゃるよ。『武器を買う金が有るなら寄越せ』と、言ってる事はこの程度の話よ。そなたらはただ5千貫を巻き上げられただけでおじゃる。石山には金も武器もある。次はそれを欲すが織田信長よ」


 晴元は織田信長はただ金を巻き上げたいだけだと語る。驚く頼照に信長を盗賊の如き悪党だとまくし立てる。警戒していた頼照でもその言葉は妙な説得力があった。

 その妙な説得力の秘密は幾らかの正解を混ぜて語っているからだ。織田信長は山科本願寺の事など知らないし、寺社の武装化も気に入らない。更に寺社が金銭財を貯め込んでいる現状も経済的に良くないと考えている。それは織田信長の為政者としての態度に表れているため、晴元の言葉に妙な説得力をもたらした。


「そ、そんな事は……」


「では、矢銭を支払った後、何か連絡でもあったでおじゃるか?何か優遇措置でも貰ったでおじゃるか?」


「……」


 何も無かった。返答も返礼も未だに無い。頼照はその事実を突かれ、返答に窮する。

 その事を幕府内に居る晴元は認識していた。何らかの措置なり、使者なりが出ていれば、また言葉を変えるだけだ。何れにせよ、容易い事だと。


「あの男は長島も許さんでおじゃろうのう。さてさて、石山と長島が破却されて山科本願寺の再興も叶わない。そなたらは何処に行くでおじゃるか?皆で仲良く加賀行きでおじゃるかな?」


「ぐっ……」


 石山寺や長島願証寺が破却されれば、寄る辺となるのは加賀国しかない。それを晴元に指摘されて頼照は唇を噛み、拳を強く握って怒りを堪えた。

 そんな彼に晴元は語気を優しく変えて囁く様に言う。


「頼照殿、『王』とすべきは誰かを間違えてはならんでおじゃるよ」


「し、しかし織田家を敵に回して貴殿らに勝ち目などあるまい」


「現公方様は各地の大名からなかなかに期待されておりましてな。東の大大名・上杉家に北条家からも挨拶に来たでおじゃるよ」


「形だけでしょう、そんなもの」


 一応、全国の大名が挨拶の使者を派遣している。まあ、新幕府の様子見と新将軍の品定めの様なもの。頼照の言う通り、形だけだ。


「そして西の大大名・毛利家もでおじゃる。外交僧の安国寺恵瓊殿が来てハッキリと明言したでおじゃるよ。『毛利家は公方様の臣下』であると」


「なんと……。あの毛利家が」


「毛利家の嫡男の名前を見て判らんでおじゃるか?『輝元』でおじゃる。前公方様からの偏諱ではあるが、『輝』は臣下に下げ渡す文字でおじゃ。つまり毛利家は幕臣でおじゃる」


「……」


 挨拶に来た大名の中でも毛利家は少し様子が異なる。毛利家専属の外交僧・安国寺恵瓊を派遣し、『毛利家は幕臣である』という事を強調したのだ。これは足利義輝が将軍の頃からで、毛利元就の孫で嫡男の毛利輝元の『輝』は足利義輝からの偏諱である。


「上杉北条より毛利家の方が重要でおじゃろ、そなたらには。誰を『王』とすべきか、もうお判りじゃな」


「……」


「さて、今宵はこれでお暇させて頂くでおじゃる。頼照殿、また・・お会いしましょうぞ」


「……」


 一言も発せず塞ぎ込む頼照に晴元は別れを告げる。もうこれ以上は語らなくても、彼の心は決まっただろうと確信したからだ。

 晴元が従者の若者と出ていった後も、頼照は動かず考え続けた。


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 帰路に着く細川晴元はすこぶる上機嫌であった。夜道は月明かりで照らされ、松明すら必要としないくらいには明るかった。

 そんな上機嫌の父親を怪訝な顔で見ているのが、従者として付き添った細川昭元である。


「ニョホホ、頼照殿が出て来てくれて、話が早かったでおじゃる。話をつけるなら組織の長より実務の長の方が良いでおじゃるからな」


「父上、一つ聞きたいのですが」


「何でおじゃるか?」


 細川昭元は晴元と下間頼照の会談で話題に出ていた事を聞いてみる事にした。何しろ、話の中に出てきたある事は彼は聞いた事が無かったからだ。


「織田信長殿が石山を破却するという話は本当なんですか?私は聞いた事がないんですが」


『織田信長が石山寺を破却する』。晴元がこの事を言い出した時、頼照が一番驚いていた。この発言で流れが一気に変わり、それまで梨の礫だった頼照が耳を傾ける感じになった。しかしながら昭元はそんな話を聞いた事がないのだ。

 いったい何処の情報だと尋ねる息子に晴元は首を傾げるだけだった。


「はて?何の話でおじゃ?」


「いやいや、父上が言ったんじゃないですか!?」


「麿はただ『かも知れぬ』と言っただけでおじゃるよ。そんな仮定の話を真に受けられても困るでおじゃるなあ」


 そう、晴元は『それどころか石山本願寺を破却するやも知れんというのに』と最初に言ったのだ。つまりそれ以後の話は全て仮定の話を基に語られていた。


「え?え?えーーーっ!?じゃあ、あれは嘘なんですか!?」


「『人間の可能性は無限大』でおじゃる。未来の話を誰が否定出来るんでおじゃるか?本当に起こるかも知れんでおじゃろ」


 人の不安を煽る。人の心に不安を差し込む。これを導く様に話す技能に晴元は誰よりも長けている。彼は知っているのだ、人間は不安を抱え込むとそれを払拭するために暴力すら容認する様になると。どんなに警戒されていても、抱えている不安を刺激してやれば、ひっくり返るのだと。だから実務の長である下間頼照が出てきたのは好都合であった。


「踊れ踊れ、名族たる麿の為に。河内源氏ならぬ下賤共は麿の役に立って初めて意味を得るのでおじゃるからな、ニョホホ」


(この人は……黒いなんてもんじゃない、もっとドス黒い何かだ……)


 名族意識を前面に出してケタケタと嗤う晴元。それを見る昭元の目はまるで何かの怪物を見るかの様であった。


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 夜も深けて来ても下間頼照は動く事が出来なかった。織田信長への怒りが収まらなかった。


「織田ぁ……信長ぁぁぁ……、何処まで我等を愚弄すれば気が済むのだぁぁ……」


 思えば、最初に襲われたのは伊勢長島周辺の末寺。その門前市に対して略奪を仕掛けたのは織田信秀だ。本願寺側からは手を出していない。

 更には長島川並衆の稼ぎを大きく奪った織田信長。彼等はいつも奪う側だ。本願寺派はいつも奪われてきた。

 その門前市襲撃も長島川並衆への打撃も棚上げにし、手を取り合おうとして差し出した矢銭5千貫もただ奪われたに過ぎない。その上で石山寺と長島願証寺が破却されるとはどういう事なのだ。

 何故、織田家が奪う事は容認されて、我々は被害に遭い続けるのか?こんなのはおかしい、こんなのは間違っている。このままでは何もかもを奪われてしまう。それだけは容認出来ない。

 下間頼照は決意を固めた表情で誰も居ない部屋を後にした。


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【あとがき】

 兵力0のラスボス・細川晴元さんの回ですニャー


 お寺さんの組織内には詳しくありませんので、実務のトップが三坊官くらいのフワッとした感じで認識して下さいニャー。

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