恒興の好物

 筒井順慶との会談を終わらせた恒興は広間に戻り、順慶と決めた事を筒井家臣へと伝達する。内容は筒井家を織田家の保護大名とする事。それに伴い、筒井順慶の身柄を犬山に移す事。織田家から代官が派遣されて筒井城に滞在するだろうという事。

 普通に並べただけでも、とんでもなく理不尽な内容となっている。特に主君を連れて行かれるというのは、武家としてはかなりのダメージとなる。例えば、織田信長が誰かに理不尽に連れて行かれて、池田恒興がどう思うかを想像してみれば分かるのではなかろうか。それだけに恒興も筒井家臣からの猛反発を予想していた。


「はあ?犬山に行く?何をアホな事を言うとるんじゃ、順慶」


「アホって何だよ、順政叔父さん」


「どう考えてもアホな発言じゃろうが!池田殿、これが織田家のやり口か!?それならばそれで、こちらにも考えがあるぞ!この程度で儂らを降せたと思い上がって貰っては困るわい!」


「そうだ!順政殿の言う通りだ!」


 予想通りの大反発であった。順慶の叔父である筒井順政をはじめ、家臣全員が声を荒げる。たしかに恒興は筒井軍を破り、本拠地を占領して当主も重臣も捕えた。傍から見れば完全勝利に見えるかも知れない。

 だが、それは筒井家が当主のカリスマで成り立つ場合や重臣のワンマン経営の場合に限られる。当然ではあるが、傘下の豪族や各地の城主、他の筒井家一門は未だ『健在』であるため、筒井家を倒したと言うにはまだ早い。彼等まで相手にするなら、大和攻略戦は泥沼化し、恒興は何時までも甲賀攻略に戻れなくなる。だからこそ恒興は穏便に事を納めたい。順慶の犬山行きはまったく乗り気になれなかった。


「あー、うん、そうだニャー。あー、もっともな意見だと思うよ。順慶、やっぱさー、犬山行きは止めニャいか?」


「ええー、何でだよう……」


 やる気が微塵にも感じられない恒興と、残念そうに食い下がる順慶。筒井順政は訝しげに二人を観察する。


(む?何だ、この違和感は?何故、池田恒興はこんなにやる気無さ気なんじゃ?コレの発案者は、まさか……)


 彼は自分が何かを勘違いしているかも知れないと思い始めた。筒井家臣からの怒号が飛び交う中、順政は深く思案する。


「こんな条件、飲めるものか!」


「そうだ!筒井家を保護大名などと!」


「……まあ、皆、落ち着け」


「順政殿、落ち着いている場合ではありませんぞ」


 思案に暮れていた筒井順政はある答えに辿り着いた。そして急速に頭が冷えていき、冷静な判断力を取り戻した。

 そして答えを出した順政は他の筒井家臣を止める側になっていた。そう、気付いて一気に冷めたのだ、この暴虐とも取れる筒井家への措置の『発案者』が誰なのか。


「いいから落ち着け。池田殿、少し家臣のみで話し合いたいのだがよろしいか?」


「いや、まあ、構わニャいけど……。周りは囲ませて貰うぞ」


「それで結構。皆、別室に行くぞ」


「あ、順政殿〜」


 そう言って筒井順政は立ち上がり、スタスタと別室へ向かう。彼の豹変ぶりに驚きながら、他の家臣達も後を追う。そして広間から2、3部屋離れた一室に入る。一応、後から織田家の兵士も来て、部屋の外回りを警備した。


「これで少しは落ち着いたか」


「順政殿、こんな条件、とても受け入れられませんぞ」


「そうだ。当主を人質に出せなどと、我らをバカにしているとしか思えぬ」


 どっこいしょ、と腰を下ろした順政に家臣達が詰め寄る。彼等は順政が自分達を止めたので何故なのかと説明を求めていた。


「普通ならそうだがな。池田恒興のあの様子を見るに、発案は順慶じゃろうな。池田自身はあまり乗り気ではないようじゃ」


「え?な、何故、殿が?」


「順慶じゃからとしか言いようがないわ。犬山で遊びたいんじゃろ」


(((有り得る)))


 筒井順政が辿り着いた答え。この暴虐の措置の発案者が『筒井順慶』だと看破したのである。

 筒井順政は筒井家当主後見役として順慶の面倒を先代にして兄でもある筒井順昭が亡くなった3歳の頃から見ている。大して勉強に励む事もなく、年相応に遊びに飢えている事も順政は知っていた。まだ少年である順慶にそれは可哀想だとは思うが、松永弾正の侵攻で戦争が続いているため仕方がない。だから順慶は戦争終結と遊べる場所を求めて、犬山行きを決めたのかも知れない。いや、順慶なら遊べる場所を求めてだけだな、と考え直した。


「ま、それが判って儂も冷静になれたわ。で、考えたんじゃ」


「と言いますと?」


「筒井家が保護大名となった場合じゃ」


「だから、そんな事を受け入れる訳には……」


「……儂らの敵は誰じゃ?」


「そんなもの、松永弾正に決まってます」


 渋る家臣に筒井家の敵は誰だと順政は問う。家臣達は即座に『松永弾正久秀』だと答える。ここまで来ても織田家は筒井家の敵だと目されていない。あくまでも彼等の敵は『松永弾正』、いや『三好長慶』であった。

 この争乱の元を辿れば、三好長慶と細川晴元と木沢長政、この3者による畿内支配権抗争にあった。この3者は激しく争い周りを全て巻き込んでいった。それは筒井家も例外ではない。

 結局は四国を基盤とする三好長慶が勝利するのだが、筒井家は細川家や木沢家の援軍として度々駆り出されていた。そのため三好長慶からは敵だと認識され、ここから大和侵攻が始まる。そして5年ほど前からは松永久秀を大将として侵攻が本格化したのである。松永久秀の攻勢の前に大和国の豪族達は次々に降され、筒井城も1日で落城させられた事すらある。

 そもそも大和国は寺社勢力の力が強い土地柄で大名と呼べる武家は居なかった。周辺の寺社と上手くやりながら、近隣で仲良く小競り合いをしているバラバラな状態だった。それが近年、筒井家でだいたい固まったのは、大和国への侵略者・松永久秀を追い払うためである。この様な成り立ち故に、筒井家は各地の豪族家臣がある程度の力を保有しており、本拠地を落とした程度では滅びないのである。


「そうじゃ、大和国に侵攻し、領地や仲間を奪っていったヤツは許し難い。だが、それは織田家ではない」


「しかし筒井家が織田家の保護大名となれば、あの松永弾正と轡を並べる事になるんですぞ」


「そう結論を急ぐな。筒井家が保護大名となった場合、松永弾正は儂らを攻撃出来なくなる。当たり前じゃなぁ、筒井家の領地保全には織田家が責任を負うんじゃから」


「まあ、そうですが……」


 筒井家の周りは西側に松永久秀がいて敵対している。東側は伊勢国と伊賀国になるのだが、特に敵対していないし、大半が織田家の勢力圏となる。北側には甲賀及び南近江、南側は紀伊国で雑多な武装勢力がいるが、どちらにしても敵対していない。

 つまり彼等の敵は松永久秀だけなのだが、筒井家が織田家の保護大名になった場合、一切の攻撃行動が出来なくなる。両家共に親織田家なので味方という存在になってしまう。それはとんでもない事だと家臣達は反論するが、順政は落ち着きをはらい諭す様に話を進める。


「ヤツは堪えられるか?」


「?」


「松永弾正じゃ。ヤツの野心が大き過ぎる事は誰でも知っとる。それは何処へ向かうんじゃ?」


「うーむ、ならば摂津国や河内国方面では?」


「バカを言うな。織田信長がそんな事を許す筈がない。何しろ信長は幕府役職より『堺』を選んだ男だぞ。堺会合衆を完全に傘下にするには摂津、和泉、河内の三国支配は必須じゃ」


 筒井順政は松永久秀が大人しくなど出来ないと判断していた。だが、他へ進出するのも難しい。北側には織田家、東に筒井家、南には行く価値が無く、西側は現在でも織田家と三好家が争っている。

 とりわけ織田信長が主眼に置いているのが、商業都市『堺』の安全確保だ。これを達成しなければ堺会合衆から上納金を得る事が難しい。従って、織田信長は摂津国、和泉国、河内国に居る敵対勢力を許さないし、手を出そうとする勢力も許さないはずだ。当然、松永久秀にも手出しはさせないだろう。


「と、いう事は松永弾正の野心は何処へ?」


「我らに決まっておろうが。とはいえ、4、5年は大人しくしておるじゃろ。その後、堪えきれなくなった松永弾正が筒井家の領地を侵せば……」


「ゴクリ」


「儂らは織田家の援軍を貰いながら戦えるのじゃ!!何しろ織田家は保護大名である筒井家の領地保全に責任があるからのぅ。援軍を出さなければ信長の名声が地に落ちる!」


「「「おお!」」」


 順政の計算で行けば、松永久秀は4、5年大人しくした後に大和侵攻を再開する。そしてその頃には織田家との関係も拗らせているはずだ。保護大名である筒井家には当たり前の様に織田家の代官が居るはずなので援軍要請もスムーズに行われる。この時に筒井家も頑張れば領地や仲間を取り返せるかも知れない。

 更に言えば、これまで三好家及び松永家と戦い続けた過程で見えてきた事が2つある。その事が筒井順政に保護大名化を容認させたと言える。


「それにだ、筒井家の独力だけで松永弾正を倒すのは難しい。今回こそはと気合いを入れてみたが、結果はこの通りよ」


「それは、たしかに……」


「悔しくはありますが……」


「問題はまだある。儂らは三好家との敵対から戦いっ放しだ。いい加減、儂らも領民も疲れておる。1年でも2年でもいい、ここらで大休息を取らねば領地が崩壊しかねん。そういう意味でも織田家の保護大名は悪い話ではないのだ」


「うーむ、それもありますな。戦いが続き、田畑は荒れ放題で直しもままならない所が多数ですからな」


「農民の中にも逃散する者が出ておりますし」


 筒井順政に保護大名化を容認させた理由。それは何度戦っても松永久秀を倒すところまで辿り着けない事と長期化していく戦争で領内の全てが疲弊の極みにある事だ。

 松永久秀は強いには強いのだが、筒井家とて決して勝てない相手でもない。以前にも三好三人衆と手を組んで追い詰めた事がある。だが本人は何処かへ逃亡し、しぶとく生き残る。何度戦っても倒すまでに到らないのである。

 そしてその間は戦続きとなるので民衆は疲弊していく。戦乱で荒れ果てた農地の修復もままならない。至る所で農作を諦めて逃げ出す農民が後を絶たないという。

 このまま行けば、筒井家の領地は壊滅的な被害になる可能性すらある。それが分かっていたから、順政は無理を承知で筒井城から援軍を出したといえる。もう、この戦いを終わらせたかったのだ。池田恒興に全てを覆される結果となったが。

 何にせよ、これを軽度で収められるなら、保護大名もさして悪い話ではない。織田家が繁栄するなら恩恵があるし、衰退するなら手を切って独立するだけの話だ。


「しかし、殿の事は本当によろしいので?」


「冷静になって考えて見れば、『犬山に行く』が既におかしいわ。大名家の当主が送られるならば織田信長の下が当たり前じゃわい。ならば京の都か岐阜となるはずなのに何故か行き先が犬山なんだぞ」


「あー、なるほど。殿ご自身が行きたいと言わない限り、候補に上がりませんな」


「そういう事だ。あとは厄介払いしたい家臣を数人、護衛に付けて送り出すとしよう。皆、分かったな?」


「「「ははっ」」」


 こうして筒井順政は家臣達を納得させた。自分達の切迫した状況を打開する為にも、保護大名化して戦の無い時間を得るのは悪い話ではなかった。

 特に最近問題になっているのは大和国から伊勢国へ通じる『伊賀路』に野盗がよく出る話だ。戦乱で野盗退治を疎かにしたため、かなり増えていると報告がある。こちらの対処もしなければならないし、戦乱で荒れ果てた田畑も直さねばならない。

 それに主君である筒井順慶の犬山行きは彼自身の希望なので、もう考えない事にした。あとは順政の言う通り、護衛と称した厄介払いを出して話を終わらせようと。現在、筒井城に居ない、いや戻れていない者達を。


 広間に戻った筒井順政と家臣達は、上座に居る恒興に座礼して結果を報告した。


「池田殿、順慶と保護大名の件、よろしくお願い致します」


「ニャんでやねぇぇーん!!?」


 全員笑顔の満場一致で180度転換した答えを聞かされた恒興は何がどうなってそういう答えになるのか見当が付かない。恒興にしてみれば織田信長が連れて行かれる様なものなので大反発しか予想出来なかった。まあ、恒興と彼等では忠誠心が違うのだろう。恒興にとって織田信長は代わりなどいる訳がないが、彼等にとって筒井順慶の代わりは探せばいるという事だ。少しだけ順慶が憐れに思える恒興であった。


「ん?どうか致しましたかな?」


「あ、いや、何でもないニャー。……っていうか、それでいいの!?」


「ええ、まあ。順慶の希望を叶えてやるべきかと思いましてな」


「順政叔父さん、分かってくれたんだね!」


「おお、順慶。犬山でしっかり勉強してこい」(どうせ遊びたいだけだろうがな)


「うん、俺、頑張るよ!」(よっしゃー!これで平和に暮らせる)


 順慶の思いをほぼ完璧に看破している順政は満面の笑みでエールを送った。筒井家の内政において順慶が役に立つ事は無いし、居なければ指示を仰ぐ必要すらないので時間の短縮にもなる。結局、生きていてくれさえすれば良いのだ。

 それにだ、順政には一つだけ懸念点がある。軍事行動を封じられる松永久秀だ。あの男が大人しくしているなど考えられない。

 その辺りを考えても順慶は領外に出た方がいい。暗殺の危険も予想される。流石に織田家領内まで手を出す事はないと思うし、恒興も周囲の監視は怠らないだろう。


「マジかよ。頭痛いニャー……。まあ、分かった。信長様に連絡を入れるニャ」


「それと池田殿、もう一つ報せるべき相手がおりますな」


「ん?誰だニャ?」


「『興福寺』です。こちらは、順慶、お前が直接行ってこい。その方が早いわい」


「あー、そっか、先生達に挨拶しないと」


「ニャるほど、興福寺か。それじゃあ明日、一緒に行くか。才蔵、六郎、親衛隊を準備しろ」


「「はっ」」


 興福寺とは比叡山延暦寺と並び称されるほど、日本仏教界の大物である。その実力は平安期から400年間、強訴で無敗を誇ったほどだ。

 現在はある事件が過去にあり、強訴などはしなくなった。強勢は保っているものの、対外的には暴れなくなっている。

 流石に筒井順慶は興福寺の一員という扱いなので、連れて行くなら説明せねばならない。でないと、興福寺と敵対する事になる。恒興としては敵を増やしたくないので、順慶と共に興福寺に行く事にした。


「政盛、信長様に今回の顛末を報告してくるニャー。ニャーは甲賀攻略に戻りたいから、代官の派遣を頼んで来てくれ」


「はっ、お任せを」


「順政、一つ依頼したい事があるニャ」


「何ですかな?金、米、兵の供出なら余裕が無いのでお断りしますが」


「違うニャ。ソレ言ったら即座に反旗を翻す気マンマンだろ、お前ら」


「バレましたか、はっはっは」


「まったく、逞しいこって。……依頼したいのは大和国から甲賀へ到る道を全て封鎖してほしいんだニャー」


「ああ、そう言えば甲賀攻略中でしたな。その程度でよろしければ、直ぐにでも」


「頼むニャー」


 最後に恒興は大和国から甲賀へ到る道の封鎖を依頼する。そもそも、それが目的でここまで来たのだから。決して松永久秀を助けに来た訳ではない。それに至っては、ただの口実である。だから恒興は多聞山城の安全が確保出来た時点で行くのを止めて筒井城に向かったのだ。


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 会談が終わり、少し休もうかと恒興は広間を離れる。そこに親衛隊に指示を出していた可児才蔵が恒興を見付けて駆け寄る。


「殿、ちょっと相談がありまして」


「ニャんだ、才蔵?」


「知己に会ってきてもいいですかね?ほら、興福寺なんで」


「ん?槍の師匠に挨拶かニャー?」


「師匠に会うと槍合わせとか長くなるんで、それはまた今度に。実は『六方衆』の人に会いに行こうと思いましてね。修業時代に鍛えてもらったりしてたんで面識があるんですよ。……そういうの、今の殿に必要じゃないですかね?」


 興福寺には大雑把に二大勢力が君臨している。摂関家の近衛家が仕切っている『一乗院派』。同じく摂関家の九条家が仕切っている『大乗院派』。この二派閥は別当(院主)の座を巡って度々戦争を起こしている。この時に巻き込まれるのが興福寺の末寺の僧兵達である。大和国最大武装勢力が二分して争うのだから被害も尋常ではない。それで末寺の僧兵達は公家の主導権争いで巻き込まれる事に嫌気が差して、独自集団として纏まる。それが『六方衆』である。

 恒興にとっては繋がりを持てるなら、この上ない相手である。利用する為ではなく、暴れさせない為にだ。過去にある事件があった為に興福寺の僧兵達はかなりの苦境にある。このままにしておけば、何れ暴発する者達が出る。そうなった時、純粋な武力である彼等を止められるかという懸念があるのだ。才蔵もそれを知っているからこそ、恒興に申し出たのだろう。知古を救いたい、恒興なら上手い手段を講じてくれると。


「お前、なかなかに目聡いニャー。そうか、許可する。ついでにだニャー、……」


 六方衆に知り合いがいるという才蔵に恒興は許可を出すと同時にある策を授ける。恒興は六方衆を味方に付ける策は直ぐに思い付いた。彼等がどういう状態にあるのかは過去にあった事件でだいたい知っているからだ。あとは大和国の実情と絡めれば、直ぐに出来上がる。


「なるほど、そりゃいいですね。それじゃ一丁、行ってきます」


「おお、よろしくニャー」


 恒興の策を聞いて、才蔵は明るい顔で出掛けて行った。恒興も笑顔で才蔵を送り出し、部隊指揮を才蔵から可児六郎に代えるために彼を呼んだ。


「おーい、六郎。才蔵が抜けたからお前が部隊の指揮を取るニャー」


「はい?まさか才蔵のヤツ、またですか!?」


「ああ、違う違う。ニャーの用事で出したんだ」


「はあ、そうでしたか。殿のご命令なら了解致しました」


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 次の日、恒興は順慶と可児六郎率いる池田家親衛隊100名で法相宗の大本山寺院である興福寺へと赴く。興福寺の場所はまったく遠くない。いや恒興は通り過ぎたと言うべきか。興福寺は多聞山城の近くにあり、春日大社の隣に存在する。因みに東大寺も春日大社の隣にある。つまり奈良の町にあるという事だ。

 興福寺には筒井順慶を犬山に連れて行く事の説明の他、筒井家との戦争の結末とこれからの統治についても話しておく事になる。その上で賛成か反対かの是非を問い、意見を擦り合わせて合意へ導くのが妥当と言える。興福寺の支持さえ取り付けられれば大和国はだいたい治まる見込みだ。

 興福寺は大和国最大武装勢力。つまり僧兵をたくさん擁している訳だが、この僧兵は興福寺には殆ど居ない。大和国各地にある興福寺の末寺に分散しており、集結すれば万にも届く人数になると言われている。それ故に興福寺と協調体制を築ければ、大和国の統治は上手く行くと見て良い。

 順慶は馬で進み、門の前で降りる。そして待ち構えていた興福寺僧侶に挨拶をする。


「あ、ども、ご無沙汰してます」


「これは順慶君、よく来てくれた。院主様をはじめ、皆、君の到着を待っていたよ」


「先生達に心配掛けない様に説明しに来ただけだから。じゃ、入りまーす」


「どうぞどうぞ」


 笑顔で迎えられた順慶は促されるがまま、門をくぐり中へ入る。恒興も親衛隊を引き連れ、順慶の後を追う。


「ふむ、ここが興福寺か。なかなかキレイに整えられてるニャー」


「おおっとぉ、申し訳御座いませんが、池田殿をはじめ織田家の方々は当院への足労はご遠慮して頂きます」


「ニャんだと?」


 順慶に続いて入ろうとした恒興は門前で僧侶に止められる。順慶だけ入れておいて、恒興達は一切入れない。あからさまと言える引き離し策である。


「これよりは神聖な場。穢れ多き武家の方々は禁足となっておりますれば」


「……」


(フッ、こう言われてはぐうの音も出まい。このまま順慶君だけを入れて、織田家の者達を排除出来れば、彼を匿うも容易。それはこの池田恒興とて分かっているだろう。だからこそ認められない。そうはさせじと食い下がってくるはず。フフフ、それが狙い目だ。そこで何度か突っ撥ねてやる事で、興福寺は織田家に対しても怯む事は無いと内外に示すのだ!さあ、池田恒興よ、どうする、どぅうぅするぅぅ?)


 底意地の悪そうなしたり顔をした僧侶はいろいろと理由を付けて通さない事にしたのだ。順慶を恒興から引き離してしまえば、彼を幾らでも匿う事が出来る。逆を言えば、織田家としてはコレを認める訳にはいかない。筒井家を保護大名とするには順慶の身柄が必須なのだ。この僧侶は恒興が食い下がるはずと読んだ。

 最終的には通す事になる。一応、今回の件で織田家側の代表と話し合いをする事は興福寺上層部でも決まっている。だが、その前にどちらが上なのか思い知らせてやろうとこの僧侶は思ったのだ。織田家に一歩も引かない興福寺、織田家重臣に面と向かって物申すカッコいい自分を見せ付ける為に。

 順慶を渡す訳にはいかない(筈の)恒興の表情はまったく変わらず、事も無げに言い放つ。


「……あっそ、じゃあニャーは帰るんで、後の事はよろしく」


「えっ?」


「六郎、帰るぞ。親衛隊も撤収だニャー」


「はっ」


 呆気にとられる僧侶を置いて、恒興は親衛隊と共に帰ろうとする。順慶の扱いについて勘違いを起こしているのはその実、僧侶の方である。順慶が必要なのは織田家ではなく筒井家の方だからだ。筒井家が織田家から保護措置を貰うのに必要なのが順慶の身柄なのであって、興福寺が勝手に匿った場合に取り戻すのは筒井家となる。

 これが順慶を犬山に連れて行った後なら恒興の責任になる。しかし連れて行く前なので、たとえ匿われても筒井家の人間が連れ戻せばいいだけだ。それよりこの僧侶は分かっているのだろうか?自分の行いで織田家と興福寺が戦争になるかも知れない危険な火遊びをしている事に。

 という事で、恒興はちょっとお灸をすえる事にした。付き合わずに冷たくあしらう感じで。

 案の定、狙いを外された僧侶が慌てて恒興に詰め寄って来る。


「ま、待ち、お待ちを!?何故お帰りに!?」


「いや、お前が言ったんじゃニャいか。『入れない』って」


「いやいやいや、それは入れないだけでして……」


「はあ?それじゃ何か?お前はニャーに、この雨でも降りそうな天気の下で何時までも待ってろってか?ニャーがそんな暇人に見えるのか?」


「あ、いえ、失礼致しました。ここでは何ですので、当院の外にある茶屋にご案内させて頂きたく」


「寺に茶屋があるのか?珍しいニャー」


 茶屋という単語に恒興は反応する。お茶が広まっていない戦国時代において、茶屋というもの自体が珍しい。恒興が知っているのは堺にあった茶屋だが、その様相は現代風に言えば高級料亭に近い。喫茶店の様な気軽さで入れる場所ではない。

 何しろ出されるお茶は抹茶であるし、使われる陶器の碗もその他の道具も高額ときている。間違っても庶民の憩いの場ではなく、悪代官と悪徳商人が笑いながら悪巧みをしている様な立派な建物となる。この冨貴の邸宅サイズでないと出来ないとされていた『お茶』を、一般的な小屋サイズまで縮小して世に広まりやすくしたのが千利休の『わび茶』の功績と言える。まだ先の話ではあるが。

 それに戦国時代では『煎茶せんちゃ』が流行ってないので、喉を潤す為に出て来る飲み物は『白湯さゆ』が一般的となる。つまり茶屋という物は殆ど無く珍しいので、恒興も少し興味が涌いた。


「茶屋と言うのも語弊があるかも知れません。営業している訳ではなく、当院の僧侶が個人的に持っている庵でして。時々、来客用に使うんですよ。こちらです」


「……それなら待つかニャー」


 恒興が知っている茶屋ではなく、個人が所有している庵であるとの事。恒興は若干、ガッカリしたが、気を取り直してお茶を頂く事にした。そういえば恒興は戦続きでお茶をゆっくり飲んでいる暇も無かったので、たまにはいいかと思った。


(ふう、ヤレヤレ危ない。勝手に帰らせたら、私が院主様に怒られるじゃないか。もう何もせずに庵に案内しよう)


 その一方で僧侶の方は冷や汗をかきっぱなしだった。だいたい筒井順慶との会見の後は、織田家との会談予定なのだから入れない訳がない。なのに帰らせたら、どう考えても彼の責任になり怒られるだろう。

 その僧侶はもう恒興にちょっかいを出さず、興福寺の外れにある庵へと案内した。


「央顕殿、居られるか?」


「これはこれは本院の。何か御用で?」


 庵の引き戸を開けた僧侶は中に呼び掛ける。すると奥から老境の男性が玄関にやってくる。作務衣さむえ姿に綺麗に剃り上げた禿頭とくとう、彼も僧侶である様だ。しかし、何故こんな寺から離れた場所に僧侶が住んでいるのか恒興にはよく分からない。特に必要性がある様にも見えないし、接客用にしても小さい。とりあえず親衛隊100人が入れる訳もないので、外で待機を命じる。

 まあ、理由に関してはお茶を貰いながら聞けばいいかと思う。


「申し訳ないが、コチラの方を接待して頂きたい」


「ほう、武家の方ですか」


「用事が終わり次第、迎えに来るので。それまでは宜しく願う」


「承知致しました。それではこちらへどうぞ」


「ん、分かったニャ。邪魔をするぞ」


 老境の僧侶は丁寧に恒興を奥へ案内する。その対応に恒興はそそくさと興福寺へ帰って行った嫌がらせ僧侶とは雲泥の差があるなと感じた。恒興に付き従って入室するのは親衛隊副隊長の可児六郎のみとなる。


「頼むとか言ってる割に態度のデカいヤツだったニャー」


「仕方がありません。彼は本院の優秀な僧侶ですから。私の様な破戒坊主とはあまり繋がりを持ちたくないのでしょう。申し遅れましたな、私はこの庵の主人で鞍屋央顕です」


「織田家臣 池田勝三郎恒興だニャ」


 老境の僧侶と恒興は囲炉裏を挟んで向かい合う。囲炉裏が真ん中にあると視界の邪魔になるので若干、横にズレてはいる。

 鞍屋央顕と名乗った老僧侶は恒興の名前を聞いて驚きながらも、囲炉裏に火を点けて湯を沸かす準備をする。


「成る程、貴方があの池田恒興殿ですか。それは本院の僧侶達も気を遣う訳ですな」


「フム、名前ばかり先走りするもんだニャ」


「有名税とはそういうものでしょう」


 恒興の名前を出すだけで驚かれる、恐れられる、警戒される、そんなのは慣れっこだ。ただ前世と比べると驚かれる頻度が多いかなとは思う。おそらくは恒興の若さが原因だと言える。二十歳そこそこの若者が得る名声となかなか認識出来ないという事だろう。

 ただ、恒興の方も『鞍屋』という名字ではない屋号には聞き覚えがあった。


「とは言え、ニャーだけではないみたいだがな。『鞍屋』?たしか奈良の町にそういう商家があったはずだニャー」


「ご存知とは光栄です。お察しの通り、私は鞍屋の隠居でごさいまして」


 恒興の睨んだ通り、目の前に座る老僧侶は大和国の商家出身の様だ。商人でも出家する者は多数いる。恒興の義祖父にあたる天王寺屋宗達もその一人で、『宗達』の名前は出家した時に貰った名前である。通常、商人は姓名を持たず、天王寺屋助五郎の様な屋号と通称を合わせた名前となる。大元が武家である加藤図書助順盛やその息子の加藤政盛は最初から名字と通称に名前を持っている例外となる。

 ここからも分かる通り、武家と商家を分けているのは姓名だけである。加藤図書助の様に武士から商人化した者も居れば、武士のまま商売をする者達もいる。信長の母方の実家である土田家がそうで、武士ではあるが水運業を営んでいる。この様な事情の為、武士と商人の境界線は非常に曖昧だと言える。


「ここに住んでいるのかニャ?」


「ええ、隠居して出家した訳ですが、修業などは行っておりません。老後を静かに暮らそうと思うのみですので。故に私は僧侶の戒めを破る者、『破戒僧』という訳です。本院で真面目に修業に励む者達の目の毒ですので、寺から離れて庵を構えております」


 鞍屋央顕は自身の事を破戒僧と位置付けている。破戒僧とは僧侶が守るべき戒律を破る者の事を指す。その中で特に重要とされるのが五戒。不殺生ふせっしょう不偸盗ふちゅうとう不邪淫ふじゃいん不妄語ふもうご不飲酒ふいんしゅの五つとされる。解り易く言うと殺害、窃盗、淫蕩、ウソ、飲酒を行ってはいけないという事だ。これは僧侶だけではなく仏教信徒にも適用されるという。……が、宗派によって多少なり違うとだけ言っておこう。


「毒になるモノを目にしたら悟りが開けないってか。逆だろ、その程度で揺らぐ悟りなら開けてないと同義だニャー」


「まあ、規律の問題でもありますからな。それを守らねば興福寺も瞬く間に比叡山の二の舞いでしょう」


「たしかに。それはそれで困るニャー」


「私はただのしがない商人でしたので、寺のお務めも出来ません。ここに住んでいるのは店を任せた息子の邪魔をしない為、と言ったところですかな」


 仏教の五戒だが、浄土真宗は妻帯、肉食、飲酒が開祖である親鸞聖人からOKとなっている。結局は酔って暴れたり、豪遊したり、女性を囲ってハーレムを作ったりするのが問題なのであって、慎みを持って行い修業に励めるなら問題ではないという事なのだろう。親鸞聖人の凄さは恒興が指摘した「毒になるモノを目にしたら悟りが開けないのは逆だ。その程度で揺らぐ悟りなら開けてないと同義である」という事を理解していた事にあると思う。かの仏陀ぶっだとて断食修行に失敗し、女性が持ってきた一杯の乳粥にこの上ない幸福を感じたという。その時、仏陀は悟ったといわれている。「この断食修行は無駄だ」と。つまり戒律を犯せば悟りが開けないという話ではないという事だ。

 これよりも問題となっているのが戦国時代の比叡山延暦寺だ。何しろ彼等は仏教の五戒を守るとしながら、酔って暴れて豪遊して女性を囲ってハーレムを作っているのだから。そしてそれらにはかなりのお金が掛かるのは当然。その為の金稼ぎにおいては、かなり強引で暴力的ときている。特に悪僧による土倉(金融業)は最も評判が悪く、これが比叡山が悪名高い原因となっている。

 しかしだが、この様な悪事とも取れる行為は比叡山の下部である僧兵達が中心となっていて、比叡山上層部は真面目に修業する僧侶が多い。そもそも、戦国時代の延暦寺は女人禁制である訳で、女性は寺外に居るはずだ。つまり女性は寺外、比叡山の麓にある僧兵達の宿舎に居て、そこはまるで色街であると方々から批判されている。

 何が起こっているのかと言うと、上層部の僧侶が下部の僧兵を抑えきれなくなったのだ。長い年月が経ち、寺内に多数の派閥が出来上がり権勢争いを続ける中で、僧兵達の統制を失い無法地帯となっていった。そして自浄作用も失っている。

 比叡山延暦寺は既に手遅れであり、過去の権力者も焼き討ちを掛けているほどである。足利6代目将軍の足利義教と半将軍と呼ばれた細川政元である。この二者は焼き討ちを掛けたものの、延暦寺は勢力をあまり減らしていないし活動しているので懲罰、あるいは政治的アピールの可能性がある。そう考えると延暦寺を行動不能にまで追い込んだ織田信長の焼き討ちは凄まじかったという可能性がある。この辺は今でも賛否両論あるが。

 恒興が六方衆に気を掛けているのも、この辺が関係している。この比叡山堕落の過程を興福寺も辿る可能性が出てきている。このまま放置すれば僧兵達は暴発するかも知れない。当初の恒興は興福寺がどうなろうが大和国がどうなろうが、大して興味は無かった。自分の治める地域ではないからだ。今回だって適当に松永弾正を手伝ってさっさと帰るつもりだったが、順慶が保護大名を言いだした事で全てが面倒な方向に変わった。大和国の保全が織田家の責任に加わってしまったのだ。だから興福寺の僧兵が比叡山僧兵と同じモノになる事は容認出来なくなった訳だ。

 そちらの交渉は六方衆に知古が居るという才蔵に期待するとして、恒興は鞍屋が何を扱っている商人か聞いてみる事にした。内容如何によっては親しくしておくのもやぶさかではないと。


「ふーん、鞍屋ってのは何を扱ってるんだニャ?名前からは何も想像出来ないニャー」


「いろいろと扱いますな。というより、物流が主と言えます。私が家を継いだ時には落ちぶれてましてな。若くして嫁いで来た妻に迷惑を掛けたものです。農村から藁を貰い、草履や笠、蓑を編んで二人で売り歩いたものです」


(やべー、老人の昔語りが始まったニャー)


「幾らか金を貯めて一頭の馬を買いました。大して見所もない老いた馬でした。ですが人間より余程、力がありますからな。馬に鞍を乗せ、沢山の荷物を載せて二人と一頭で大和国中を歩き廻りました。ご存知ですかな?商売というのは余っている物を足りない地域に持っていくだけで稼げるものです」


「まあ、ご存知だニャー」


 鞍屋央顕は沸いた湯を茶椀に移し、抹茶を入れて茶筅でかき回していく。とても慣れた手つきで澱みなく。そして彼の昔語りも加速していく。

 恒興は昔語りが始まってしまった事に少し失敗したかなと思いつつ、話を聞き続ける。どうやら鞍屋は大和国各地の物流を主に手掛けていて、扱う品目はかなり広い様だ。これなら恒興が大和国から仕入れたい物は鞍屋に頼んでもいいかなと思う。


「それが私共の基本となったので屋号を『鞍屋』としました。最初に飼った馬は年老いていましたので5年後に亡くなりました。その頃には大きく稼いで馬を5頭ほど保有していた程です。店も大きくなり、息子も大きくなりました。ほんの2年前に妻が亡くなりましてな。苦労ばかり掛けたなぁ、もう少し労ってやるべきだったなぁと、今は後悔ばかりですよ」


「それはお悔やみ申し上げますニャー」


「ありがとうございます。これが潮の引き時かと思いましてな。多少の不安は残るものの息子に任せて、ここに来たのです。息子はあまり商才に恵まれなかったみたいで心配の種が尽きませんが。……抹茶をどうぞ」


「ん、馳走になろうかニャー。ま、親ってのはそんなもんだ。どこまでも子供の事が心配になる。本人達は「うるせー」って思ってるだろうがニャー」


「しかし、そうも言っていられない事態になっていますからなぁ。あのバカ息子は甲賀への商隊派遣を企画しております。明後日には出ると報せてきました。ご存知でしたかな?」


 鞍屋央顕は出来上がった抹茶を恒興に差し出す。恒興はそれを手に取り頂こうとするも、央顕から発せられた一言で手が止まる。

 先程までの和やかな恒興はもう居ない。抹茶を飲まず、手を下ろして恒興は鞍屋央顕を見据える。


「あ?ニャんだと?」


「こんな崩れかけの石橋を商機として渡ろうというのですから、開いた口が塞がりません。そんな事を貴殿が許すはずがない。あの甲賀攻略戦で『かの者達』に一撃を入れようとしている貴殿が。まさか『かの者達』を相手にしようというお方がおられようとは、私も驚く他ありません」


「……ニャんの話をしている?」


『かの者達』と聞いて恒興は底冷えする様な声で応える。そして手に持っていた茶碗も床に置いて央顕に何の話か分からないと返す。いや分かっていて、それ以上踏み込むなと警告しているのだ。


「甲賀を降そうとなさるなら、必ず『かの者達』ともぶつかりましょう。貴殿がそれを認識していないとは思えませんが」


「……」


 だが鞍屋央顕は止まらない。どんどんと踏み込んでくる。恒興が出陣前から計画していた作戦の一部を、この老僧侶は見通している。そう認識できた時、恒興から発せられていた底冷えするオーラは段々と殺気へと変貌する。

 それを横に侍る可児六郎もひしひしと感じている。恒興が斬れと命じれば、即座に斬り伏せる。その覚悟を彼は決めていた。


「『かの者達』……かつてこの日の本を支配せし者達、その末裔。長い年月の間に軍事力を失い、歴史の闇に消えた者達。されど未だに厳然たる『力』を持っている。その名を」


「「淡海國おうみのくに」」


 恒興と鞍屋央顕、同時に同じ名前を挙げる。

『淡海國』というのは読み音が示す通り、『近江国』の事である。琵琶湖の大昔の呼び名は淡海あわうみであった様で、年月が経つにつれて『あわうみ→あわみ→あうみ→おうみ』と変わった説がある。その『おうみ』に『近江』の字が当てられた様だ。

 そして、これが池田恒興が倒したい真の敵なのである。彼には最初から六角家などの大名も甲賀衆などの豪族勢力も眼中に無かったのだ。真の敵を倒すための、ただの通過点でしかない。だがそれ故に、これを推理して見せた鞍屋央顕を生かしておく事は出来ない。その覚悟をしたから恒興は『淡海國』の名前を出したのである。


「……やはりご存知の様ですな」


「当たり前だ。甲賀攻略は奴等への攻勢の第一歩でしかニャい。……が、この話をしたら自分がどうなるか想像出来なかったのか?死んでもらうぞ、この話はまだ知られる訳にはいかニャいんでな」


「お待ち下さい。私が『かの者達』に与する事はありません。苦渋を舐めさせられこそすれ、良い目などにあった事はありませんから」


「そんな事聞いてんじゃねーギャ。何が目的だニャ?奴等にニャーの攻勢を気取られる訳にはいかないんだよ。お前から話が漏れる可能性は0じゃない……分かるよニャ?」


「幾らか協力出来ると思います」


 恒興が態度を豹変させた事で鞍屋央顕は焦り出す。まさか恒興がここまで態度を変えるとは予想出来てなかった様だ。彼としては恒興を手伝おうと口にしただけで、鞍屋にとって良い交渉が出来ると踏んでの事だった。鞍屋央顕は生粋の商人としてしか生きていなかった為、恒興の様な武家の考え方に疎かったのが原因と言える。彼は激しく後悔したがもう遅い。虎の尾ならぬ猫の尾を踏んでしまったのだ。……虎じゃないだけマシとか言ってる場合ではないだろう。


「信用すると思うか?今、会ったばかりの人間を。ニャーがそんな迂闊なヤツに見えるのか?この話はニャーにとって秘中の秘だ。敵対中立なら殺す、味方でも信用出来ないなら殺す。それくらいの話だぞ」


(迂闊であったか。息子を止めて織田家に取り入るべく、池田殿との会見を考えていたらいきなり本人が来た。それ故、私自身がはやってしまったか)


「最期の機会だニャ。お前の目的を言え」


(池田殿の殺気がこれ以上なく膨れ上がった。興福寺との関係を無視してでもという強い意志を感じる。……私の目的か。私がしたかった事。息子が心配なのは本当だ。池田殿の事を知らず、甲賀との商売で儲かるなどと暢気な事を言っている。あんな息子では店を潰すだけだ。だから私が交渉して店が存続出来る道筋を整えるべきだと思った。それで筒井城に居る池田殿と話せないかと画策していたのだ。御仏のご配慮か池田殿の方から私の所に来た。だから焦ってこの話を出してしまった訳だが。……そうか、私は店を潰したくないだけか。そうだ、たったそれだけだ)


 鞍屋央顕は何故この話をしたのか考えた。それは当然、鞍屋の当主となった息子を救おうと思ったからというのもある。だが、それ以上に彼は鞍屋そのものを潰されたくないという想いを持っていたという事だ。息子の事を出汁にする必要はない。央顕自身の意思で潰されたくないのだと、はっきりと認識した。何故ならば。


「妻と共に歩いて大きくした鞍屋を潰されたくない。先に逝った妻に鞍屋は潰れてしまったと報告したくないのですよ。一番大きな理由を考えればコレしか思い当たりません」


「……」


「たしかに息子達も助けたい。だが彼は成人している。先の人生をどうするかは彼に委ねられている。私があまりにしゃしゃり出るのは良くないと思います。となると、理由としては二番目かと」


「……」


 恒興は何も言葉を発さない。ただ鞍屋央顕を睨んで、その言葉を聞いている。横には刀の抜刀態勢に入ろうとしている可児六郎が居る。恒興からの命令が無いため、腰の刀に手を当てた状態で固まっているが。


「これでご納得頂けないならば万策尽きました。この身はご自由に処断してくだされ」


 そう言って、鞍屋央顕は首を差し出す様に頭を下げる。その時に彼が目にしたものは、床に置いた茶碗を手に取り抹茶の一気飲みを開始する恒興だった。

 それにどんな意味があるのか、何のジェスチャーなのか、鞍屋央顕には分からない。彼は黙って見ているだけだった。そして可児六郎にも分からない。彼に分かるのは『斬れ』という命令ではない事だけだった。


「ふぅ……、欲と業の深い旨い茶だったニャー」


「は、はぁ、それは、どうも……」


 抹茶を一気に飲み干した恒興が一息つく。恒興としては鞍屋央顕が淹れた抹茶を飲み干す事で、彼の事を信じるに足る味方と位置付けたジェスチャーだったのだが、央顕と六郎を見るに少し滑ってしまった様だ。気を取り直して恒興は続ける。


「いいだろう、鞍屋央顕。お前の提案を受けてやるニャー。南都から出る商隊を止めたら、織田家は南都の商人に無体は働かないと約束しよう。鞍屋は優遇して使う様に織田家内に通達を廻しておくニャ」


「はっ、それは有難きお申し出」


「ただし、それは商隊を止めたらの話だニャー」


「必ずや」


 恒興は鞍屋央顕に優遇を約束する。何が恒興の琴線きんせんに触れたのかは分からないが、今の彼は殺気の欠片も無いスッキリとした笑顔だった。鞍屋央顕は自分が死地を脱したのだと実感した。

 その時に外から親衛隊員の一人が来て、恒興に興福寺に来るよう連絡されたと報告した。恒興はやっとか、と腰を上げて鞍屋央顕の庵を後にした。

 その道の途中で可児六郎は恒興に質問する。


「殿、一つ聞いてもよろしいですか?」


「ニャんだ、六郎?」


「殿はあの鞍屋央顕と初対面で会う約束もしてないですよね」


「そうだニャ」


「何故、いきなり起用しようとお考えになったのですか?」


「ニャんでそんな事が気になる?」


「私も可児村の発展には人材の登用が必要だと思う次第です。なので殿がどの様に人を起用しているのか知りたいと思いまして」


 可児六郎も恒興の家臣の中では領地持ちである。元々、可児村の土豪であり、豪族と呼べるほどの勢力はないため家臣化している感じだ。だがその可児村は恒興の養蚕事業の中心地となっており、事業拡大のため流民まで積極的に受け入れる事になった。それはいいのだが、管理する侍はやはり足りなくなってきた。こうなれば可児一族から積極的に引き上げていこうと思うが、その前に恒興の選考基準を参考までに聞いておこうと思ったのだ。


「ニャるほどな。まあ、ぶっちゃけると鞍屋央顕が出した協力案、南都の商人を止めて甲賀に補給させないってヤツな」


「やはり魅力的な提案が決め手と?」


「実はアレ、意味無いんだニャー。だってニャー、既に筒井家の家臣に甲賀への道を塞ぐ様にって指示出したもん。今頃は誰も通れないニャ」


 鞍屋央顕は生粋の商人で、武力を用いる者がどう動くかが想像出来ていない。事実、恒興は筒井家との話し合いが終わったら即座に道の封鎖を依頼している。それを想像していなかったために、央顕は商隊止めが恒興の得になると考えていたのだ。


「え?じゃあ、何故です?」


「単にニャーが気に入ったからだ。ニャーに面と向かって『嫁さんと築いた物を壊されたくない』ってよ」


 恒興の琴線に触れたものは一つ。夫婦で築いた物を壊されたくないという一言であった。命まで掛かった場面で正直にこれを言える鞍屋央顕を恒興は見習いたいとまで思った。そして気に入ったのである。多少、鞍屋の当主がおバカな息子であったとしても贔屓に使ってやろうと思う程に。


「ニャーもくありたいものだニャーと思ったのさ」


 これを語る恒興の顔はとても楽し気に見えたという。


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【あとがき】


 これはファンタジーですニャー

 これはファンタジーですニャー

 これはファンタジーですニャー

 これはファンタジーですニャー

 何か間違っててもファンタジーですニャー

 これくらいで大丈夫かニャー?


 順慶くんの設定ですが中学生のべくのすけから歴史知識を抜いたレベルにしておりますニャー。ベースがべくのすけなのでアホですニャー。ただべくのすけは小学校1年の時には武田信玄公の小説を読み図書室に行っては歴史ものを読んでいましたので、歴史知識は抜いておかないとヤバイレベルの歴史ブレイカーになってしまうのですニャー。使い方を知らずに公式丸暗記は実話ですがね。



 べ「今回は歴史を題材にした小説が背負う宿命について、一つ報告しよう」


 恒「宿命ってニャんだ?」


 べ「歴史とは過去の事なんだけど、我々はそれを正確に知らない。捏造されたり消失したりするからとも言えるが、イメージだけで作られた話を歴史としている事があるからだ。応仁の乱における日野富子さん像や浅井長政さんが織田信長さんに「越前攻めるなら相談して」という約束をしたとか」


 恒「日野富子は細川家の捏造が可能性高いらしいし、長政との約束って信長様はまだ美濃攻略に苦戦中の時だニャー。何で越前が出て来るんだ?って話だニャ」


 べ「そしてそれら『通説』は新たな資料が出て来たり、歴史解析の深度が進むと覆される事がある。その一つに『楽市楽座』が出て来た」


 恒「ニャ、ニャんだってーっ!?ど、どんなふうに変わったんだ!?」


 べ「まず、『楽市楽座』とは自由商売の奨励と座(既得権益)の廃止、他国商人を呼び寄せて商業の活性化を図ったものとされ、織田信長さんの代表する政策とされてきた」


 恒「そうだ。ニャーも美濃加茂でやったし」


 べ「だけどこの『楽市』と言うものの意味が変わったというか、間違っていたようだ。そもそも『楽市』というのは遥か昔から存在している。市は門前市や鳥居前市が主だ。それは何故か?最初に問題となっていたのは『物品の所有権』なんだ。盗品を第三者が買っても所有者が請求したら返さないといけない。こうなると盗人だけが儲かる世界だ。これでは買った人だけが損をするので商売にならない。そこで商人が寺社と手を組んで『楽市』を作った。この『楽市』に並べられる品々は神、又は仏に捧げられた品であるため、『所有権』が神仏となり人間の所有権は消えてしまう。これが『楽』の本来の意味だ。請求権が消えて、買った人は返さなくてよくなる。だから神仏の門前で市を開くのが当たり前になったんだ」


 恒「……?それ、元の持ち主が損をしているだけなんじゃニャいか?それじゃあ、『楽市』=『盗品売買』じゃニャいか!?」


 べ「普通に考えて、寺社が勢力を持ち始めた平安期に出来た概念ではないかと思う。これで稼いで僧兵などが武力を持ち、市を守る為に僧兵が勢力を増していったのではないかな。そして時代が進むと『楽市』の意味が変化してくる」


 恒「どんニャふうに?」


 べ「六角家の場合は商人同士の争いが激化したため石寺新市を『楽(諸役免除)の市』として宥めたという経緯。まあ、税金を払わなくなったので無税を追認させられたという事らしい。今川家の場合は富士大宮に多数の武田方と思しき者が脱税や横領をしていたため、「諸役免除は『楽市』と認めた所だけだ。それ以外は許さない」と布告を出した事だ。この翌年くらいに武田信玄さんは駿河に侵攻してくる。つまり六角家や今川家が『楽市制』を始めた訳ではない。彼等は『楽市』を追認しただけだった。そして『楽市』は諸役免除の市という意味になっている」


 恒「……あれ?諸役免除?あれ?これってニャー……」


 べ「この時代の『楽市』っていうのは『免税特権』の事なんだよ。既得権益商人が更に稼げるだけの話だね。今川家に至っては武田家対策の一時的措置だし。それに六角家も今川家も『楽市』という名称をサラッと使っている訳で説明すらしない。つまり『楽市』とは常識的なもので、その言葉を聞けば何があるのか解るくらいには浸透している『市』の形態なんだ。例で示すとこんな感じ」


 民衆「戦乱で市が荒れた、どうしてくれる!」

 大名「ごめんねー。1年くらい『楽市』指定して無税にするから、大人しく従ってよ」

 民衆「しゃーねーな」


 恒「自由商売とは一体……。民衆ってなってるけど商人や寺社衆が大半だろうニャー」


 べ「勘違いとは信長さんのやろうとした『楽市楽座』を基本に考えていたため、本来の『楽市』の意味がズレて認識されていたという事だ。最初は信長さんも『免税』だけで使っていたけど、あまり上手く行かなかったんだ。『楽市』自体は家督相続前からやっている。熱田の町に出したのが最初で、面白い事に『藤原信長』と署名している」


 恒「あれ?信長様は平氏って……」


 べ「それは伊勢調略を始めた辺りで突然言い出すよ。結局、上手く行かないの連続で試行錯誤を重ねて岐阜の『楽市』でようやく形が見えてくる。この時に初めて『楽市楽座』という言葉を使った」


 恒「おお、流石は信長様だニャー」

 べ(この『楽市楽座』という言葉はね、条文の中に突然「この市は楽市楽座にします」って出て来るだけなんだよ。当然、みんなは「楽市はわかるけど楽座って何だ?」という反応で『楽座』に対する説明は無かったんだよ。君が丸パクリしたのはソレだよ。みんなは「だから『楽座』って何なんだよぉぉぉ」ってなってた。キズつくだろうから言わないでおこう)


 べ「それで『楽市楽座』の集大成が安土に出来上がる訳なんだけど……」


 恒「ニャんだよ?そんな所で言葉を切って」


 べ「どうも信長さんはこの後に『楽市楽座』から方針を転換したらしいんだよ。征服した越前国では座を保護する政策を実行して限定的な『楽市』のみにしている」


 恒「ええー、これは『戦国異聞池田さん』的にもマズイ方針転換だニャー。どういう事だニャんだ!?」


 べ「たぶんだけど信長さんは長期的に市場を育てる方針から、成長を捨てて短期で思い切り稼ぐ方針に切り替えたんだよ」


 恒「だからニャんで!?」


 べ「答えは一つしか思い浮かばない。『朝廷』というとんでもない金食い虫を背負ったから」


 恒「ああ、そうか。信長様はお金の余裕が無くなったんだニャー」


 べ「信長さんは上洛当初から資金がヤバくなってたからね。計算の出来る人だから、数年後には破産する未来が見えたのかも知れない」


 恒「寺社や堺に資金を要求したのも、資金繰りがヤバくなってきたからっていうのもあるからニャー。上洛前に濃尾勢を大開発出来たのは吉となりそうだニャ」


 べ「まだまだ足りないと見ておいた方がいいかもね。という訳で、恒興くんはもっともっと稼がなければならない訳だ。頑張りたまえ」


 恒「へーい。ま、そこら辺もちゃんと計画してるニャー。『かの者達』への攻撃の一環として。……比叡山の悪僧共も真っ青になる一撃をニャ」

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