弾正様漫遊記 その壱

 大和国多聞山城。

 この拠点の主である松永弾正少弼久秀は一人の付き人を伴っていた。彼らは櫓に登り、眼下に広がる南都を見下ろしている。その長屋形状に造られた櫓が『多聞櫓』と呼ばれ、近代的城郭に大きな影響を与えたという。その理由は長屋に鉄砲隊を整列させる事が出来るからだ。つまり防御壁がある高所から眼下に向かって一斉射を可能にさせたという訳だ。それまでは櫓台を築いて弓兵が撃っていただけだった。

 南都というのは奈良の町を指す言葉で、昔に都があった事に起因する。奈良が京の都である平安京の南に位置する事から『南都』と呼ばれる。この南都は遣隋使、遣唐使の全盛期には都であったため、多数の寺院が密集している。この多聞山城の南には法相宗大本山の興福寺、南東には華厳宗大本山の東大寺がある。東大寺は現在、戦乱で焼けて無くなっているが。大和国は仏教勢力の力が非常に強い地域で武家ですらなかなか手が出せない場所である。

 そんな場所に三好長慶の命令で侵攻したのが松永久秀である。一時期は大和国の大豪族・十市家を討ち、筒井順慶を打ち破り筒井城を一日で陥落させるなど大和国統一まであと一歩までいった実績がある。

 彼は南都を見下ろしながら今後を考える。


「まず、ワシが織田家で存在感を示すには大和国を完全に支配する事からだな。信貴山城も取り返したし順調じゃ」


 信貴山城は多聞山城の西にある城で木沢長政によって築城された。それ以前から防衛施設があった様で楠木正成が建てたという伝説もある。松永久秀は南都に近い多聞山城を政治拠点、信貴山城を軍事拠点として使っていた。そのため信貴山城には4層から成る高櫓を建築していた。この高櫓が後の『天守』の先駆けとなり、安土城の天守閣に影響を及ぼしたと言われる。一応、『天守』としては2番目の古さになる。

 この信貴山城は三好三人衆に攻め落とされたが、信長の上洛と佐久間出羽の摂津国侵攻により三好三人衆が四国へ撤退したため奪還した。


「そうなりましょう。相手は筒井順慶ですね」


「フン、あんな小坊主などどうとでもなるわい。奴はお人好しな上に頭の中がお花畑じゃ。この期に及んで『話し合おう』とか宣う阿呆だからな。その前にお前のところの脳筋共をどうにかせいという話じゃ」


 筒井家は興福寺一乗院に属する有力宗徒が武家となったもので、大和国のでは最大勢力を誇った。しかし父親である筒井順昭が早世したため、筒井順慶は僅か2歳で当主となる。こうなると戦国お得意の家督争奪&下剋上の嵐が……起きなかった。まったく。

 それくらい筒井家というのは鉄壁の結束力を持っていたのだ。当時の家臣や豪族達は「後ろにいる興福寺(大和国最大武装勢力)が怖いから、このまま筒井家を旗頭にしとこうよ」「賛成〜。幼児なら干渉とかしてこないっしょ」「ま、近隣で争うのもダルいしな」と忠誠心に溢れていた。

 という訳で、家臣や豪族達が勝手な行動をし三好長慶の敵と手を結んだりで問題が延焼。結果、松永久秀の侵攻を招く。この当時、筒井順慶は3歳だったが、松永久秀との敵対を運命付けられた。

 筒井順慶は何度も松永久秀に襲われ、筒井城も2度ほど奪われた。だが、彼は話し合いによる解決を諦めてはいなかった。

 そんな筒井家当主の思いとは裏腹に家臣や豪族達は「松永弾正、絶対殺す」で団結していて、勝手に戦争を仕掛けている状況だ。


「という訳で、問題は後ろにいる興福寺よ」


「興福寺……大和国守護職を持つ寺ですか」


「鎌倉時代の話だがな。未だに力が有り要注意ではあるが、まあ問題はない」


「何かされましたので?」


「カッカッカ、そんなに難しい話ではない。興福寺には幾つも派閥がある、比叡山よりはマシだがな。故に行動が遅い。ヤツラが行動を起こす前に勝負を決めれば、あとは交渉で何とかなる」


 大和国においては東大寺と興福寺が2大勢力として君臨していたが、東大寺は戦禍で焼け落ちて没落状態となる。そのため興福寺が1強となった。……と見えるかも知れないが、現実はそうはいかない。何しろ興福寺は歴史ある寺院であるが故に内部に多数の派閥があり、意見の統一が難しい。

 興福寺自体が標的とされたなら一致団結して抵抗するのだろうが、筒井家は一応武家であるため「武家の争いに何で興福寺が?」と言い出す派閥も存在する。


「筒井家をそんなに素早く倒せるのでしょうか?」


「幕府と織田家の立ち会いで和平を結ぶ事になっておるからな」


「は?」


 松永久秀は既に手を打っていた。幕府と織田家の立ち会いの下、筒井順慶との和睦を結ぶ事を画策していた。条件次第ではあるが、筒井順慶が望んでいた展開であるため喜び勇んで来るだろうと久秀は推測している。

 久秀に付き従う男は耳を疑った。つい先程まで大和国統一のために筒井順慶を倒さなければという話をしていたばかりなのに和睦するというのだ。

 松永久秀は呆気にとられる男にニヤリと笑い掛ける。


「そこにノコノコやってきた筒井順慶を襲えばよい」


「え?しかし、そんな事をすれば幕府と織田家が敵になりますよ!?」


「『幕府と織田家の立ち会い』自体がウソに決まっとろう」


「ぇぇー……。そ、それは卑怯なのでは……」


「甘いのぅ、お主は。武士のウソは武略じゃぞ?今は『戦国』、騙される方が悪いのよ。グフフ」


 松永久秀は最初から筒井順慶と和睦する気はない。この和睦計画はすべてウソであり、ただ筒井順慶を殺すか捕らえる為のものだった。久秀としては捕らえる事が望ましい。流石に殺してしまうと興福寺が激怒してしまう可能性が高いからだ。一応、筒井順慶は興福寺の僧侶なのだから。

 流石の汚さに開いた口が塞がらないが、従者は松永久秀に聞いておこうと話題を変える。


「一つ聞いておきたい事があるのですが」


「なんじゃ?」


「キリスト教の良さとはどこなのですか?」


「ん?ワシが何時、伴天連の教えに帰依した?」


 男は松永久秀がキリスト教に帰依していると思い聞いたのだが、当の本人には意外な質問だった。


「貴方が大和国に布教を許したと聞きましたが」


「許可は出したな。だからと言って帰依せねばならん訳ではあるまい」


「そういうものですか」


 松永久秀は以前に大和国で仏教とキリスト教の宗論を行った。

 それは大和国の仏僧が堺にいたガスパル・ヴィレラという宣教師を追放せよと言ってきた時だ。それで久秀はキリスト教に興味を持ち、部下数人を派遣して調べさせた事がある。その部下はなんとキリスト教徒になって帰ってきて、久秀にキリスト教が如何に素晴らしいか語ったという。更に言えば、派遣した部下の中には久秀の学問の師匠まで含まれていた。

 そして久秀はキリスト教がどれくらい優れているのか大和国の学僧と宗論させたという訳だ。この宗論の結果、キリスト教に感化された者も多数出た。有名人だと高山友照・重友親子がこの宗論を切っ掛けに入信している。


「お主も見たじゃろう。仏教の中心部が如何にドス黒い物で巻かれておるか。それに比べれば伴天連の宣教師の方がまだ清浄だと言える。ま、ヤツラも一皮剥けば、だがな。グフフ」


「……」


「要はな、人は信じたいモノを信じたい、という事だ。それを止める事は誰にも出来ん。ならば信じたいモノを信じればよい。ワシはそう思っとるだけだ」


 松永久秀はキリスト教に入信する事はなかった。彼は仏を拝まなければ、神頼みもしない。やりたい事があるなら自分自身でやるべきと考える現実主義者。神も仏も『利用』出来るかどうかが重要だと考えている。いや神や仏だけではない、天皇、朝廷、将軍、幕府、権威、権力なども対象で利用出来るのか、役に立つのかで価値を判断している。古臭い因習などは役に立たないのであればあっさりと切り捨てる。

 そして他人の信心に口出しする事もない。自分の甥である内藤忠俊(如庵ジョアン)がキリスト教に入信した事も大して気にしていない。


「伴天連の宣教師と南都寺衆の宗論は傑作じゃったわい」


「そこで貴方が伴天連側の勝利としたと」


「そうじゃな。ただキリスト教の方が理論としては整っておったというだけじゃ。論者の差と言うべきか。伴天連側の代表として来た『ロレンソ了斎』という者の説法は強烈であったわい」


 ロレンソ了斎。

 戦国のキリスト教布教において彼の存在を欠かす事は出来ない。盲目の琵琶法師であった彼はフランシスコ・ザビエルと出会い、キリスト教に入信した。その後はキリスト教徒の日本人学者としてフランシスコ・ザビエル、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・フロイスなどを支えた。盲目でありながら琵琶法師になる程、彼は頭が良い上に弁が立った。そしてロレンソ了斎は琵琶法師であった為に仏教について深い知識も有している。これが決定的な差だった。

 学僧達が如何に優秀であったとしても、彼等はキリスト教は知らない。だがロレンソ了斎は仏教を熟知している上でキリスト教を学んでいる。だからロレンソ了斎は仏教が抱える矛盾点をこれでもかと攻撃出来た。キリスト教を知らない学僧達は的外れな質問しか出来ず、ロレンソ了斎は全て封殺してしまったのだ。

 論者の差が圧倒的に出てしまった結果と言えるだろう。


「だいたいな、話自体が噛み合うておらなんだわ」


「え?」


 もちろんだが、松永久秀も宗論を聴いていた。だが彼は論者の差などは見ておらず、あくまで仏教とキリスト教の違いを掴んでいた。その論戦の評価は『話が噛み合ってない』だった。

 例えば一神教であるキリスト教は『神は自分の姿を模して人を創造した』との事だが、これを仏教に当て嵌める事が出来るだろうか?仏教にはインドの動物神が多数、仏化しているのはご存知だろう。当て嵌めてしまうと馬人間、牛人間、象人間などがいないとおかしくなってしまう。同じ理由で神道も無理だ。

 西欧人にとって『神』とはありがたい存在なのだろう。だが日本人は『神』が決してありがたいだけの存在ではないと考えている。何しろ日本には『祟り神』までいるからだ。人間にとって悪い存在まで『神』になっている。これも日の本でキリスト教が大して広まらない要因かも知れない。


「仏教とキリスト教、この二者は『大いなるもの』への接触アプローチ方法が違うんじゃ」


「『大いなるもの』ですか?」


「神でも仏でもデウスでも好きに呼べ。例えば日の本の神道における最高神はどの神じゃ?」


天照大御神あまてらすおおみかみです」


「何故、伊邪那岐イザナギ伊邪那美イザナミではない?日の本を産んだ神が何故に最高神ではないのじゃ?伊邪那岐と伊邪那美は天照大御神の親とも言える存在じゃぞ?」


「それは……」


「答えなど簡単じゃ!『太陽』だからよ!太陽は恵みをくれる。太陽無ければ実りは無い。だから人々は太陽に『いつまでも恵みを下さい』と祈るのよ。大地など祈らんでも、もう在るではないか。そういう『人の欲望』が天照大御神を最高神にしたのじゃ!」


 太陽神が最高神というのは珍しい話ではない。世界を見ても太陽神が最高神だという宗教は多数存在している。太陽神で最高神で皇祖神で女神は流石に天照大御神ただ一柱だが。

 理由も単純、太陽だからだ。太陽無くして実りはなく、太陽光無くして生活出来る者はいない。だからこそ昔の人々は太陽と交信したかった。その接触アプローチ方法が自然発生型宗教の原形となる。神道はこれに分類される。


「何故、実りが欲しいか?何故、恵みが欲しいか?そんなもの生きていたいからじゃろうが。反対に人は『死』を怖れる。その答えとなっているのが仏教とキリスト教なのよ」


「死の答え……」


 対して仏教やキリスト教は説法によって成り立つ。偉大な人物の言葉を弟子達が伝播する事で宗教として成立した。最大の違いは自然発生型宗教は生きる事に重きを置く場合が多いのに対して、説法によって成り立つ宗教はどう生きてどう死ぬかに重きを置いている場合が多い事だと思う。つまり『死の答え』である。

 そしてこの一点においても仏教とキリスト教では解釈が違う。


「仏教は修行によって仏という『大いなるもの』になろうという宗教じゃ。つまりは『死』によって全ての修行が完了する。キリスト教の『大いなるもの』は全知全能の存在、つまりは天然自然ことわりの全てであり、人もその一部であると説く。一の『死』は大いなる全に還る、ただそれだけの事だとな」


「は、はあ……」(り、理解が追いつかない)


「簡潔に言えばな、こんなもん噛み合うものか!出発点からして違うわい!」


 難しい解釈をするときりが無い。簡潔にすると『大いなるもの』に対する解釈が一神教と多神教では何も噛み合わない。ここが出発点である。そして『死』という終着点も全然違う。

 だが面白い事に内容には類似点が多数ある。つまりどう生きるか、の部分だ。どう生きるかとは人々の生活そのものだ。殺す事はダメな事ですとか、奪ったりウソついたり、人の嫌がる事をしないとか。不幸な目にあったら祈りましょうとか、人々の生活実態に合わせた内容なのだから当然かも知れないが。


「だがキリスト教はそれなりに役に立つ。大和国は寺衆の力が強過ぎるから削ぎ落としたいと思ってな。武家がキリスト教に帰依していけば、ヤツラは弱体化する。まあ、まだまだ時間が掛かるがな」


「貴方はあの『大うすはらいデウスはらい』の綸旨を出させた人ですよね?」


「まあの。だが、あれは失敗じゃ。寺衆の歓心など買っても無駄、ヤツラが靡く事などなかったわ。寧ろ、やって貰って当然としか考えておらん。あんな連中、そのうち括り殺してやるわい」


「……」


 男は久秀が何を言っているのかと思った。何しろこの松永久秀は朝廷から『大うすはらいデウスはらい』の綸旨を出させ、キリスト教を迫害した張本人だからだ。キリスト教を利用しようとしているのに迫害する、仏教勢力を味方に付けようとして失敗するや皆殺しにすると宣う。何ともチグハグな人物だなと男は思った。

 これが松永久秀の最大の欠点、『遠大な計画が練れず先を見通す視野が』である。とにかくこの松永久秀という男は現実主義者で何事も即物的なのだ。

 一見して愚物にしか見えないかも知れないが、その分、彼は目の前にある問題の対処には神がかり的な能力がある。それは内政や統治において遺憾無く発揮された。

 三好長慶時代の畿内はまさに問題だらけだった。それもそうだろう、ある男が起こした『天文の乱』で各地がズタボロだったのだから。三好長慶が織田信長の前に天下人の様に見られていたのも、このズタボロ状態を立て直した事が大きい。

 この時に辣腕を振るったのが松永久秀だ。何しろ目の前に問題が山積している。彼は三好長慶の指示の下、問題という問題を片付けていった。そして三好長慶から多大な信頼を得るに至る。

 ここで重要なのは『三好長慶の指示』という点だ。そう、松永久秀は方針に従って仕事をこなしているのであって、自分で方針を決めたりはしなかった。当然だが方針については三好長慶が全て決めていた。

 それが三好長慶の死去によって崩れた。松永久秀は懸命に三好家を盛り立てようとした。それこそ手段を選ばず。だが遠大な計画を練れない松永久秀は場当たり的な対処ばかり繰り返して、結局何がしたいんだ!?という行動ばかり取ってしまう。それが原因で三好三人衆に見捨てられた訳だ。

 つまり松永久秀とは究極の『王佐の才』なのである。『王』が居ないと『才』が発揮出来ないのだ。主が方針を決めて、久秀が方針に合う様に問題を片付ける。この能力において松永久秀に並び立てる人物はそうそう居ないと言える。彼の不幸は三好長慶という主を失った事と、自分が『王佐の才』だと気付かず大きな野心を持っていた事だろう。


「お主も解ってきているのだろう?何を仏教から排除すべきなのか。グフフ、良いぞ良いぞ、お主は見所が有る。ワシが鍛えてやろう。なあ、よ」


「はっ、学ばせて頂きます」


 松永久秀に付き従っている男の名は『本多正信』。三河国出身で以前に恒興が行き倒れているところを助けた事がある。

 恒興に助けられた後、本多正信は摂津国石山に赴く。そこで彼が目にしたものは輝かんばかりの説教で人々を導く本願寺顕如法主とその下で団結し未来を夢見る信者達。……そしてそれを利用する取り巻きの坊官達だった。

 その様子に失意を隠せない正信は次に加賀国へ行った。『百姓が持ちたる国』で本願寺派の将となったのだが、そこで見たものは絶望でしかなかった。農閑期になると他国に侵攻する事は知っていた。その理由が食糧を奪う為と食い扶持を減らす目的で行われていたのだ。仏教がどうとか浄土真宗がどうとかいう話など欠片も無い。ただの地獄でしかない戦場を正信は生き抜いた。

 他国侵攻が終わったかと思えば、今度は加賀国内部で殺し合いを始める。浄土真宗の本願寺派と高田派との戦いだ。これが加賀国の一年のルーチンワークなのだ。『百姓が持ちたる国』とは地獄ですら生温い場所だった。現実を知った正信は絶望に沈み、加賀国を後にした。

 それから正信はフラフラしながら摂津国石山に戻ってきたが、やはりそこに救いは無かった。そうやってフラフラしているうちに恒興から貰った路銀も底を尽き、正信は大和国の町中で行き倒れる。その彼を見付けて拾ったのが、町の視察に来ていた松永久秀だった。

 久秀は絶望に染まった顔の正信に興味を持ち、話しているうちに気に入った。そして正信を自分の下で学ばせる事にしたのだ。松永久秀は時折、こういう事をする。才能が有りそうな人間を育てたがるのだ。そのため家臣の中にも出自が判らない者がいたりする。

 こうして本来交わるはずが無かった二人が師弟関係となっていた。


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【あとがき】

キリスト教と仏教の解釈については弾正様の勝手な思い込みですニャー。ただのファンタジーなので宗教論争はお断りしますニャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァー。……という言葉を残してべくのすけはタキオン粒子となって逃げましたニャー。


筒井順慶さんが『順慶』と名乗るのは1566年ですがこの小説ではずっと筒井順慶さんでいきますニャー。その前の名前は筒井藤政さん。理由は改名すると誰だか判らなくなるから。



おまけ♪

何故キリスト教の『神』は日の本において『デウス』と呼称されたのか?

答えは日の本が『多神教』だからである。この国の最初の宗教は『神道』、ご存知の通り『多神教』である。神様は『八百万』ほど居る。単に『神』というと「どの神様?」と聞き返すのが日の本の民なのだ。一神教が理解出来ず、神様くらいはそこら辺に居ると考えている。そのため最初に日の本に布教に来たフランシスコ・ザビエルは困った。キリスト教の根幹たる『神』がまったく理解してもらえないのだ。そこで彼は『神』の存在を説くために日の本に馴染み深い大日如来の『大日』を用いる事にした。


「皆さん、大日を拝みましょー」


それを聴いた人々はクスクスと笑った。少し恥ずかしさも含んだ笑いだった。


「外人さん、ダメだよ。まだ昼間なんだからさ〜」「そういうのはさ、家に帰って嫁さんとな。おっと、これ以上は恥ずかしくて言えねえや」「おもしれー外人さんだな〜」「笑った笑った。さ、帰るべ〜」


「え?ええー?どういう事なんですかー?」


ザビエルは訳が解らなかった。だが彼としても布教を諦める訳にはいかない。時に人々に笑われながらも彼は粘り強く布教した。その成果が出て、元仏僧の信者を得たのである。そこでザビエルは元仏僧に自分の体験を語った。


「フム、まずは『神』を『大日』と訳した事がマズイですな。これではキリスト教が仏教の一派と勘違いされてしまいます。既に仏教はこの国の隅々に行き渡っておりますので、宗旨変えに来たと思われたのでしょう。ですので、この国には無い単語で『神』を表すべきですな」


「そうなのでしょうか?彼等の笑い方はそんな感じではない様な気がします。なんと言いますか、まるで私がイヤらしい話をしている、そんな笑い方の様な……」


「あ、ああ〜、そういう事ですか、ははは」


「何かご存知なんですね!?」


「いや〜、実は『大日』というのは『女性の股』を指す隠語になっておりまして……」


「はいィィィィィィィィィィィィィィィィィィー!?」


「仏教用語にはしばしばそういう事がありましてな。『観音開き』とか『御開帳』とか、ははは」


「あばばばばば……」


自分が信じる『神』にナニを当てはめたのか理解したザビエルは大通りに飛び出して叫んだ。


「皆っさーーーーんっ!!!!『大日』を拝んではいけまっせーーーーん!!!!!!」


こうして元仏僧の助言を得て、ザビエルはキリスト教の『神』を『デウス』と呼称する事にした。



おまけの付け足し

ザビエルがある村で布教していた時の事。


「神を信じる者は救われます。さあ、皆さん、神に祈りましょー」


キリスト教未開文化圏における布教は難しい事は言わずに形から入る。キリスト教を知らない人々に説教をしても理解出来ないからだ。このやり方で彼らはアフリカ・インド・東南アジアで布教を展開して日の本まで来た。(明では失敗中)

ザビエルに村の若者の一人が質問した。


「一ついいですか?」


「どうぞ」


「僕の祖父は農民として正しく生き、そして先日亡くなりました」


「素晴らしい方だったのですね」


「ですが祖父はキリスト教を知りません。では祖父は地獄に落ちたのですか?」


「え、いえ、それは……」


ザビエルは言葉に詰まった。彼は『神を信じれば救われる』を『信じていない者は地獄に落ちる』という理論展開をしてきたのだ。若者の質問に他の村人も気付いた。


「ああ、そういう事か。キリスト教信じたら、オラ達の先祖はみんな地獄に落とされるぞ」「とんでもねーな。やめやめ」「はい、解散ー、帰ろーぜ」


「え、ちょっ、みなさーん!?」


慌てるザビエルを放って村人達は帰っていった。この件でザビエルは日の本がこれまでの布教姿勢が通用しない場所である事を認識した。


「ダメだ。この国の民衆は頭が良過ぎる。これまでのフワッとした説法で形から入らせるやり方じゃ通用しない。これだけの理解力を民衆ですら身に付けているのなら理論的に説教しなければ布教は成功しない。……もしかしたら、この国での布教が成功したら、日の本はキリスト教の東方大道場になるかも知れない。頑張らないと!」


フランシスコ・ザビエルのたたかいはこれからだ。(続く?)



おまけのその後♪

フランシスコ・ザビエルはキリスト教の布教の過程である事に気づく。それは日の本の民衆は無闇に上に逆らうを良しとしない性格である。上からの布教を思い付いたザビエルは京の都に行った。……が、これは失敗した。宗論を申し入れた比叡山に門前払いされたからだ。

だがザビエルは諦めない。次は当時の北九州から西中国の実力者である大内義隆に会いに行った。そして門前払いされた。

困ったザビエルは元仏僧に尋ねた。


「日の本の貴人は姿格好も重要視致します。キリスト教の清貧の考えは素晴らしいと思いますが、まずは会わねば話になりません。身なりを整えましょう」


「分かりました。会の規定には反しますが仕方がありません」


こうして身なりを整え、贈り物も持参したザビエルは大内義隆と会い、キリスト教の布教の許可を求めた。それに対する大内義隆の答えは……。


「オッケー、ついでに教会も建てちゃう」


という感じだったとか。

山口に念願の教会を建てたザビエルは日の本でのキリスト教繁栄を疑わなかった。そして彼は布教を更に推進すべくインドに戻ってから中国に入り、そこで病に倒れ帰らぬ人となった。日の本での布教の成功を信じて。

そして山口にあった教会は……。


「キリスト教?許さん、破壊しろ」


という訳でかの某謀神様が破壊してしまった。これについては相手が悪い。某謀神様は子供の頃から毎日、朝起きると朝日を観音様に見立てて祈る生粋の仏教信者。これを亡くなるまで続けたくらいの信仰度なのだから。(これを教えたのは養母である杉大方。無論、生粋の仏教信者)

そして某謀神様の家は仏教勢力と関係が深く、仏教勢力がキリスト教を敵視し始めていた。某謀神様としては新興宗教より地元に根付いている仏教勢力の方が統治に重要という事情もある。

という訳で、ザビエルの教会は無くなってしまいましたとさ。

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