近江激戦編

甲賀の多羅尾

 夜、小堤城の奥の城主館で池田恒興は休む事にした。戦時であるため周りには篝火が焚かれ、何人も巡回の兵士が警戒に当たっている。彼等は基本的に二人一組で任務に就く。その一角、割と人気の少ない場所で異変が起きた。


「イテッ、何だ?あれ?急に眠気が……zzz」


「おい、寝るなって……あれ?何で?……zzz」


 館の門を警備していた兵士達は突然の眠気に抗い切れず、その場に蹲って寝てしまう。そこは人気が少ないため、他の警備兵は気付かなかった。

 それを確認したかの様に5人の男達が茂みから姿を現す。その内の一人の手には笛の様な細長い棒が握られていた。


「相変わらずの腕前だな。お前の吹き矢は」


「フン、我等、甲賀の技の前ではこの程度の警備などザルだな」


「よし、コイツラの服と鎧を拝借するぞ」


 彼等は寝てしまった警備兵から服や装備を奪うと、それを装着する。ここまで来るまでに5人全員の装備が整っていた。眠った警備兵は草むらの中に寝かして放置した。

 そして彼等は堂々と無人の門を開けて中に入る。ここからは池田軍の兵士として池田恒興の下まで行く為だ。

 小堤城最奥の城主館に池田恒興が寝泊まりしている情報は既に得ている。彼等はそこまで潜入する為に池田家の兵士に変装する手段を選んだ。何しろ彼等は5人しか居ない。確実に恒興を暗殺する為には彼の近くに行くまで事を露見させない事が大切なのだ。だからこそ吹き矢も睡眠薬を用いた。毒を用いては叫ばれる可能性を考えての事だ。睡眠薬を素速く効かせる為には当てる場所はかなり限定されるが、彼等にはその腕前もあった。

 5人は館を警備する幾人かの兵士とすれ違いながら奥へ進む。幸い変装を見破れる者は居なかった。

 彼等は館の最奥の近くの庭まで何事も無く進む。池田恒興の寝室は近いはずだ。常識的に大将は最奥で休むと相場が決まっている。その庭に来た時、彼等は庭の縁側に佇む一人の少女に会う。


「いい月ね。こんな夜に篝火は無粋だと思わない?」


 煌々と燃え盛る篝火に照らされた少女はそう言って笑う。男達は少女を池田恒興に仕える女中だと思った。情婦という可能性もあるが、彼女はまだあどけない。


「女中の方でありますか。たしかに無粋やも知れませんな。貴女も寝た方がいいですぞ。我等は巡回中ですがね」


「へえ、曲者でも巡回とかするんだ?」


「え?」


 言うが速いか、男達が少女の返答を理解する前に、彼女は横に置いてあった朱い槍を持ち上げて男達に振り抜いた。


「フン!」


「ガアッ」「グワッ」「ギャアッ」


 呆気に取られていた男達の内、三人が槍の横薙によって吹き飛ばされ城壁に叩き付けられる。残りの二人にも暴風の如き圧力がビリビリと感じられた。もう目の前にいる少女からは明らかな敵意しか感じない。あどけない笑顔は獲物を見付けた獣の嗤いに変わっていた。


「なっ!?」


「曲者って、ホント判りやすいわね」


「ま、待ってくれ、我等は池田恒興様に仕えている者だ!」


 形勢不利と見た二人は何とかこの場を凌ごうと味方だと強調する。だが少女はそれを一蹴した。


「はあ?馬鹿じゃないの」


「な、何ぃ?」


「池田家に仕えていて、私を知らないってどういう事よ?私は池田邸に住んでいるのにさ!」


「しまった、池田恒興の近親か!?」


 この少女の名前は『前田慶』、彼女は別に恒興の近親ではない。ないのだが、彼女は未だに池田邸に居候しているのだ。因みに犬山前田家の屋敷はちゃんと在る。恒興が用意したからだ。

 なのに慶は移らず、そのまま池田邸で暮らしている。犬山前田家屋敷は現在、前田利久の隠居屋敷と化している。彼だけでは広過ぎるので家老の奥村助十郎とその家族も住んでいるが。

 慶は池田邸での生活を気に入っていた。理解者と言える恒興の母・養徳院桂昌が居る。同年代から年下の養女達が居るので遊び相手話し相手に困らない。道場に行けば未だに勝てない親衛隊長の可児才蔵という強者が居る。副隊長の可児六郎もかなり強い。彼女の愛馬である浜風も池田邸の厩で主に加藤孫六が世話している。彼女が池田邸を離れる理由が無いのだ。恒興の願望は別として。

 現在、小堤城の城主館の警備は慶が連れてきた犬山前田家の兵士と池田家従者によって行われている。即ち、前田慶を知らない人間が居る訳がないのだ。たから慶は自分の事を『女中』と呼んだ男達が曲者だと確信していた。慶自身が知らない時点でかなり怪しいが伝令という可能性もあるので話し掛けた訳だ。

 因みにだが池田恒興と前田慶は親戚ではある。慶の出身は滝川一族で、恒興の父親も滝川一族からの入婿だからだ。どれくらいの親戚かは判らないが。


「ならば!」


「させないわ!」


 男は懐から吹き矢を取り出す。しかし相手の動きに気付いた慶は一歩踏み込んで槍を振るい、吹き矢を弾き飛ばす。


「しまっ……」


「終わりよ!」


 もう一人の男も刀を抜こうとするが、時既に遅く。慶の遠心力を最大限に込めた横薙は二人を捉え、そのまま壁に叩き付けた。


「グハァッ!?」「ガァッ!?」


「ふん、他愛もないわね」


 二人の気絶を確認した慶は朱槍を肩に担いで曲者達を見下ろした。

 その少し前、恒興は部屋で本を読んでいた。夜なので明かりを点けている。

 この戦国時代ではお皿に植物性油を注いだ中に灯芯(とうしん)を浸して明かりを灯す『灯し油』が一般的となる。いや、一般的と言ったが結構、高価である。だが暗闇の中で暮らせないので、各家庭でも必需品となる。その必需品が高価だというのは、一般生活において『苦』であった事だろう。

『灯し油』を使うのは町や平野部が殆どで、山間部などの村では使われない。山間部は薪が調達出来るので囲炉裏や松明を使うためである。

 恒興は明かりが勿体無いと思い、寝る事にした。


「はあ〜、明日に備えて寝るかニャー」


 そして目を閉じた時に、地震を思わせる様な破壊音が響いた。恒興は飛び起きて現状を確認する。


「ニャニャニャ、ニャんだー!?地震か!?いや、違う、揺れてない。じゃあ、……今の音はアイツか!?」


 恒興には一人だけこんな大轟音を起こせる人物に心当たりがあった。その人物は庭に居た筈なので、障子戸を開けて庭に出る。そこには案の定、朱槍を担いだ少女が居た。


「あ、やっと来た」


「やっと来た、じゃねーギャ!やっぱりお前か、お慶!あれほどニャーの安眠を妨害するニャと……」


「曲者、捕まえたんだけど?」


 安眠を妨害された怒りでまくし立てる恒興。だが慶は気にする風も無く、気絶している曲者達を指差して捕まえたと報告する。言われて恒興が視線を城壁側に向けると、ひび割れて崩れそうな城壁と気絶している5人の男達が見えた。


「え?あー」


「何か言う事は?」


「あー、お務めご苦労だニャー……」


「ふっふーん」


(うわ、ドヤ顔がムカつくニャー)


 まるで「ほら、私は役に立つでしょう?」と言わんばかりのドヤ顔に、恒興はムカつくという評価を下した。まあ、仕事はキッチリ果たしているので文句は言えないが。

 その後、加藤政盛と警備の兵士が駆け付けて5人に縄を打った。縛り上げられた男達は目を覚まし、自分達が失敗した事を悟り、暗殺対象であった恒興を無言で睨みつける。


「尋問するの?」


「しないニャ。どうせ何も喋らん」


「そういう事だ。さっさと殺せ!」


 敵意を剥き出しにしながら殺せと叫ぶ。それに対して恒興は冷めた目で返す。こういう輩が来る事など珍しい事ではない。特に潜入に長けた甲賀衆なら当たり前の手段だろう。寧ろ、ここまで潜入した事を褒めてやりたいくらいだ。


「はぁ、ニャーんで命を粗末にしたがるかね。人が余ってんなら、犬山来て働けよ。人手不足ニャんだよ」


「……フン」


 味方になる事を期待している訳ではないが、恒興は命を粗末にするなと諭す。甲賀の男達は一瞥して返しただけだったが。

 犬山に来て働けというのは、恒興にとっては別に社交辞令でも冗談でもない。本心である。実はこういう荒くれ者の仕事は増えていた。

 その理由は濃尾勢の経済規模拡大が原因である。経済規模が拡大したという事は物流が盛んになったという事だ。という事は荷運びの商隊が動き回っている訳なのだが、その商隊を襲う野盗も増えている。野盗や山賊にとって濃尾勢は良い狩場となっていたのだ。

 もちろん、恒興や他の城主達も野盗山賊退治を行っているが、商隊に護衛を付ける事も大事だ。その護衛まで人手不足になっていた。商隊の護衛は商人が自前で雇うのだが、取り合いになっているくらいだ。だから甲賀衆の様な統率の取れた荒くれ者は欲しいなと、恒興は率直に思った。


「まあいいや、とっとと帰れニャ。と、その前に政盛」


「はっ」


「アレ、コイツラに渡してやれニャー」


「アレ、ですか?」


「ニャーが買っといたあの酒だニャ」


「はあ、分かりました。持ってきます」


 政盛は何故?と思ったが命令通りに酒を取りに行った。そして大きな酒樽を数人掛かりで運んで来て、男達の目の前に置いた。


「な、何だ?この酒樽は?」


「コレを持っていけ。で、お前らの上にいる人間に渡しといてくれニャ。どうせお前達の上には甲賀53家当主の誰かがいるんだろ?高価な酒だから、途中で呑むニャよ」


「あ、ああ……」


 酒樽を受け取った男達は5人掛かりで運びながら、甲賀への道を歩いて行った。


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 甲賀のある屋敷に六角承禎と息子の義治が居る。彼等は観音寺城を出た後、反抗作戦が始まるまで甲賀で過ごす事にしている。その二人に経過報告をするため、箕作山城の守将であった山中為俊は集めてきた情報を伝えていた。


「承禎様、織田軍は池田恒興が率いる20000余りの軍勢が甲賀に来るようです」


「20000……。織田信長は軍を分けたか」


「対して、甲賀は4000といったところです」


「敵は5倍ではないか!?勝てるのか!?」


 池田軍団は傭兵も合わせて総勢20000人程。対する甲賀は地域は広いが山里なので然程人口は多くなく、兵士は4000人くらいである。ただ、全員が山林戦を得意としている点が特徴となる。


「義治、単純な数で判断するな。甲賀は幕府の大軍ですら寄せ付けない『難攻不落』なのだ」


「はあ、なるほど」


 数の差に絶望的な声を上げる六角義治を父親の六角承禎は嗜める。彼の言う通り、甲賀衆に数の差は問題とならない。その昔には足利幕府の大軍を撃破した実績がある。『長享・延徳の乱』である。2度に渡る幕府の討伐軍もだいたい20000人前後で、当時の六角家当主・高頼は居所を知られない様に身を隠し、民衆蜂起と甲賀衆の反撃によって幕府軍を苦しめた。

 最終的に長期戦に耐えられなかった幕府軍は撤退。六角家当主は戻って来て、元の勢力を取り戻した。


「しかし予定外なのが、各地で反乱が起きない事だ。我等の反撃の手始めとなる予定なのに、何故蜂起しない」


 承禎は苦々しく、心境を吐露する。彼の言う通り、六角家の反抗作戦の先駆けとなるのは『民衆蜂起』だった。過去の幕府軍は近江に攻め入った際に必ず、物資と戦費の調達に動いた。これが民衆蜂起を招いたのである。そしてその混乱に乗じて反抗作戦が開始されていた。

 では何故、幕府軍は略奪を働いたのか?物資が足りないという事もあるが、理由の大半は『他国』だからだ。地元ではないので躊躇などしない。それに戦争にはお金が掛かるので、それ以上の物を手に入れようと各大名達は張り切って略奪に励んだ。

 これは別に幕府軍に限った話ではなく、どの軍団でも行う常識的な行為だ。信長の本拠地である濃尾平野とて、昔から平氏の軍団、源氏の軍団、幕府の軍団が通る度に略奪されたものである。武士という者は『自分の領地』以外の略奪については特に気にしない。それを諌めるべき上位の者に力が無いのも問題ではあるが。

 六角家の戦略は完全にその常識を前提に考案されていた。


「それについては、私からご報告申し上げる」


 六角承禎が愚痴をこぼしていると、部屋の襖が開いて壮年の男性が姿を現す。


「多羅尾殿、ご苦労様です」


「為俊殿も無事で何よりだ」


 山中為俊はその人物に頭を下げて挨拶する。甲賀の有力者であるその男に。

 男の名前は多羅尾四郎兵衛光俊。甲賀53家の一つである多羅尾家の当主であり、甲賀の有力者の集まりである『甲賀合議衆』の取り纏めを行っている。精悍な顔立ちに力強い身体付きは壮年を感じさせない。そして威厳に満ちた表情からは油断という文字が全く見えない。彼は六角承禎の前に座り礼をする。


「それで多羅尾よ、状況はどうなっておる?」


「まず織田軍は各地で物資の徴発を行っておらぬ様子」


「バカな!?略奪無しにあの大軍を維持出来るというのか?」


 多羅尾光俊は甲賀衆が各地に潜入して調べた結果を告げる。織田軍は戦国の常識を覆し、戦地での徴発を行わない。違反者には厳しい刑罰で望んでいるし、兵士も食糧があるのなら略奪はしない。一部が暴走する事はあるが。そんな織田信長が略奪を行うとすれば、その地域を綺麗サッパリ滅ぼすと決めた時かも知れない。つまり略奪は円滑な統治に大きく響くので、基本的にはやらないのだ。

 そして織田信長が戦国の常識たる略奪をしないで済む理由はやはり、日の本有数の穀倉地帯である『濃尾勢』を手中に収めているからだ。ここの生産量を考えれば、織田家の食糧事情は既に日の本一と言って良い。立地的にも京都からは少し離れるため、中央の政争にあまり巻き込まれず、京都に程よく近いため商業は発達していた。更に近隣で争っていた大大名は斯波家(御連枝)と今川家(御連枝)くらいなので、ある程度予定調和の様な戦しかしておらず、濃尾平野はあまり荒らされずに織田信長の代となった事も大きい。

 だからこそ織田信長は10万人近く動員しても養えるのである。


「その様で。それ故に民衆は蜂起する理由と機会を失っているのかと」


「それでは裏切りではないか!六角家からの恩顧を仇で返すか!」


「義治殿、それを民衆に言ったところで詮無き事です」


「多羅尾の言う通りだ。落ち着け、義治」


「しかし、父上……」


 織田信長に制圧されても、いつも通りの生活を過ごしているため蜂起のタイミングを逸していると光俊は話す。義治は民衆の裏切りだと主張するが、承禎と光俊の両者に一蹴される。

 民衆とはそういうものである。例えば現在でも、『日本政府の日本国統治に日本国民が恩を感じているか?』と問われればどうだろう。感じる感じない以前に問い掛け自体が変だと思わないだろうか?統治とは日常そのものなので民衆が恩を感じる話ではない。だが悪政に対して仇を感じる事はある。

 義治としては近江国の統治に頑張ってきた六角家に近江の民衆は恩を感じて然るべきと思うのだ。その辺りに為政者と民衆の温度差がある。統治を頑張っていた王が突然暴君になる一端の理由でもあるだろう。『俺はこんなにも頑張っているのに民衆は褒めてくれない』と。王にしても政治家にしても自らなるものなので、責任ありきで誉められるためになるものではないが。


「織田軍は大軍だ。兵糧切れはそう遠くないはず。六角家最強戦略『焦土作戦』の効果が出るまで今暫く掛かるか」


「その件につきましても、良くない報告が間諜より入っております。どうも濃尾勢で大規模な荷駄隊が編成されている様です」


「何ぃ!?まだ来ると言うのか!?」


「な、ならば、その荷駄隊を襲って糧道を断つべきです、父上」


「同時に東濃の森三左衛門可成が護衛に付く様です。また襲撃出来る場所は北近江坂田郡が有力ですが、敵の支配地域です。大規模に派遣する事は困難でしょう」


「甲賀衆の力でも出来ないと言うのか、多羅尾殿?」


「義治殿、益が無いと言っているのです。それが無くとも、小堤城には約20000の兵士を半年間、養える量の兵糧が運び込まれたとの事。無駄足になりかねない襲撃で甲賀の者達に死ねと仰るか」


「いや、そうではないが……」


 光俊は義治に毅然と言い返す。甲賀衆にとって六角家は主君と言う訳ではない。傘下ですらない。言ってしまえば『同盟者』に近い。そもそも甲賀は近江とは別の国と言ってもよい。美濃の一部と見られがちな奥美濃もそうだ。山で隔絶されているために美濃の一部扱いなのに美濃守護の統治下にはなかった。ただ、甲賀に関しては長い時の流れと六角家の外交努力により味方に付けているに過ぎない。

 多羅尾光俊は既に織田家の方々ほうぼうに間諜を放っており、織田家の動きを掴んでいた。濃尾から更に荷駄隊が来る事、その護衛に東濃の森三左衛門可成が護衛兼援軍として来る事。危険を犯してまでその荷駄を撃退出来ても、池田恒興は小堤城に約半年分の食糧を持っている事も知っていた。


「義治、お前は少し黙っておれ。話が進まんわ」


「は、はい……」


 承禎は六角家と甲賀の関係をいまいち理解出来ていない義治を黙らせる事にした。六角家当主でも甲賀に対しては『命令』出来ない、あくまで『要請』に留めなくてはならない。彼等の反感を買って、敵に回られたら一貫の終わりだ。


「フム、状況が悪いな。まさか『焦土作戦』の第一段階で躓くとは」


「しかし切っ掛けさえあれば、南近江の民衆も立ち上がるでしょう。以前、幕府軍が来た時よりは小規模になるでしょうが」


「切っ掛けか」


「まずは目の前の池田軍を追い払う事ですな」


「勝てるか?」


「甲賀まで来れば地獄を見せましょう」


 多羅尾光俊は即座に答える、地獄を見せると。それだけ甲賀の地において甲賀衆は絶対的な力を持っている。

 戦には『地の利』『人の和』『天の時』が必要だという。これを相手より揃えた者が勝つとよく言われる。

 甲賀とは山国であるが故に、『地の利』こそが最も重要になる。当然ではあるが甲賀が地元の甲賀衆はこの地を知り尽くしている。これを抑えずに侵攻すれば、それこそ長野信包の二の舞だろう。

 更に『人の和』についても甲賀合議衆の結束は鉄壁である。『天の時』に関しては移ろい易い『天』であるが故に不明。攻め手である恒興に若干の分がある。

 総合して見ても甲賀衆の勝利は揺ぎ無い。


「しかし池田恒興を打ち負かした後も長期戦が予想されるな。こちらの兵糧の備蓄状況はどうか?」


「五十三家それぞれ、兵糧を買い込んでおきましたので問題無く。後はそれぞれの持ち場を合議によって決めます」


「ウム、よろしく頼む」


 今回の戦は池田軍を退けても、まだ続く。かなりの長期戦を見越して五十三家の各当主は兵糧を買い込んでいる。池田軍は織田家の一部でしかないのだから。


「では、これから合議がありますので私は失礼致す。申し訳無いが、御当主と義治殿は合議への参加をご遠慮頂く」


「分かっておる。ワシらは甲賀者ではないからな」


「多羅尾殿、私は行ってもよろしいな」


「構わないが、『甲賀合議衆』以外の発言は出来ないぞ」


「ああ、合議の内容を承禎様に伝えたいだけですので」


 山中為俊は合議に向かう光俊に付いて行く事にした。その日の合議では六角家に対する支援を決議し、織田軍侵攻ルートの予測とそれぞれの持ち場について話し合われた。

 その後、多羅尾光俊は自身の館に戻った。門前で馬から降りた光俊に家臣が駆け寄り頭を下げる。光俊は家臣の様子から何か報告があるなと察した。


「お帰りなさいませ、光俊様」


「何事かあったか?」


「はっ、小堤城に潜入していた者達が戻りました」


「何?『戻った』だと?」


「はっ」


「直ぐに会おう」


「こちらで御座います」


 光俊は部下を小堤城に潜入させていた。織田家の傭兵募集に乗じて紛れ込ませた者達で情報収集及び撹乱を目的としていた。かなりの手練れを選んだはずだが、それが『戻った』というのはおかしいと思った。失敗したのなら生きては戻れない任務だからだ。

 家臣に案内され、庭まで来た光俊が見たのは自分が送り出した部下達と大きな酒樽だった。光俊の姿を認めると男達は一斉に頭を下げて謝罪の言葉を口にする。


「お頭、この様な醜態を晒し申し訳も御座いませぬ!」


「お前達が任務を放棄するとは考えていない。何があった?」


「はっ、我等は池田恒興の暗殺に踏み切りましたが、武運拙く捕らえられました。ですが、池田恒興は我等を殺さず、そのまま解き放った次第で」


 彼等が任務に失敗して生きて帰って来た理由、それは単に池田恒興が殺さずに放逐したからだった。そこに光俊はおかしな事をすると感じた。


「そうか。池田恒興は何か言っていたか?」


「殺すだけ無駄だと」


(自分の命を狙った者を解き放つか。度量が大きいのか、驕っているのか)


 部下が生きて帰って来た事は素直に嬉しい。捨て駒にされる任務も多い甲賀衆だが、別に死んで欲しいとは思っていない。ただ命を捨ててでも任務を果たす必要があるだけだ。

 潜入という任務は生還率が低い。発覚すれば間違い無く生きては戻れない。潜入に使われる者は身分が高い訳もなく、どんな武将も殺すのを躊躇わないだろう。だからこそ池田恒興という男は稀有な存在だなと光俊は思う。

 光俊は池田恒興の思考を読もうとするが、驕り高ぶる人物なのか、度量の大きい人物なのかは判別がつかなかった。


「あ、あと、コレをお頭に持って行けと」


「これは酒樽か?」


「高い酒だから途中で呑むなよと念を押されました」


「フム、木槌を」


「はっ」


 光俊は酒樽の蓋を割る為、木槌を持ってくる様に命じる。程なくして木槌を受け取った光俊は「フンッ」と気合を入れて振り下ろす。蓋を割った酒樽に入っていた酒は透明の水の様なモノだった。酒の香りを感じ、光俊は驚愕する。


「これは……『清み酒すみざけ』か。こんな高価な物を」


「清み酒……ですか?」


「生臭坊主共が『般若湯はんにゃとう』とか言って呑んでいる酒だ。僧坊酒そうぼうしゅとも言う」


「大寺院でしか醸造出来ないという、あの」


 清み酒とは一般に出回っている乳白色のにごり酒とは違い、透き通る様な透明の酒。その製法は寺院にしかなく、一般では醸造出来ない。それ故にこの酒の事を『僧房の酒』と呼ぶ。何故、寺院でしか醸造出来ないかといえば、『遣唐使』が深く関わる。遣唐使では仏教を学ぶため、多数の僧侶が海を渡った。そこで唐朝の酒造りの知識を持ち帰った僧侶が寺で造ったのが始まりだという。……何を持ち帰ってるんだとツッコミたいが、遣唐使はありとあらゆる知識を持ち帰る事が目的だ。因みに寺ではこの酒を『般若湯』と呼んでいる。一般には販売されておらず、売ってもらえたとしても非常に高価である。

 寺院でしか醸造出来ないとされているが、戦国期の混乱で製法は寺院から漏れてしまい、町衆でも醸造出来る様にはなった。だが、まだまだ一般的ではなく、かなり高価な酒である。多羅尾家当主の光俊でさえ中々呑める代物ではない。


「あ、お頭、毒味を!」


「要らぬ。毒が在れば匂いで解る」


 光俊は器に酒を掬って一息にあおる。キリッとした味わいに旨味のある酒、以前に一度しか味わった事がない酒を光俊は思い出した。これは確かに高価な清み酒であると。

 そして彼は部下達に器を差し出す。


「フム、良い酒だ。お前達も呑んでみよ」


「は、はい。では失礼して……」


 器を受け取った部下達は我先にと酒樽に群がった。何しろ一生に一度も呑めるかどうかという酒なのだから。

 光俊は酒の味を確かめながら、池田恒興について逡巡していた。


(池田恒興……。何故、こんな贈り物をしてくる?こんな程度で我等の戦意が削がれるはずもない。戦いたくないと思っている?詮無き事だ、既に甲賀の合議は六角家支持で決まった。織田家に迎合する者はいない……では、これは何のつもりなのか?)


 思考はあまり纏まらない。池田恒興の狙いが何処にあるのか、それは効果があるのか。恒興の名声を考えると愚物である筈がない、織田信長から大権を渡されているところからもそれは分かる。そして最終的に恒興の狙いが何であるかを予測した。


「お頭、どうかしましたか?」


「……池田恒興か。この男は強敵だ」


「まあ、20000もの兵を率いていますから」


「そういう意味ではない。この酒を贈ってきた意味は、おそらく交渉の窓口を開いておくためだ。戦う前から何かあれば交渉に来いと言っている。……こういう手合はあらゆる事に手を打ってくる。油断するな」


「「「ははっ!」」」


 光俊が予測した恒興の狙いは『交渉』。だが甲賀衆の合議では織田家に対する抗戦で決まった。結果は満場一致であり、交渉の余地などない。

 それ事を恒興が分かっていないとは思えない。ならば恒興の目指す交渉とは何なのか。光俊は恒興に不気味な恐ろしさを感じ、より一層、気を引き締めた。

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