進撃の勝家
南近江国
ここは瀬田川に沿って南に下った場所にある宇野家の館城である。館城というのは鎌倉時代からよく見られる城の形で、館を中心にして周りに土塁や堀を造った物。住居を要塞化した感じである。
この館城の代表と言えば甲斐国
この関津城の守将である宇野美濃守は兵を集めて織田軍の到着を待っていた。六角家の本拠地・観音寺城が制圧されてからというもの、各地の六角勢力は士気が上がらず、寝返りも頻発していた。
宇野美濃守はそんな状況の中、自分が六角家の反撃の先駆けとなる事を考えていた。
「殿、織田軍が迫っていると報告が」
「フッ、とうとう来たか」
「敵方は瀬田城や大日山城を落として士気が上がっています。お気を付けくだされ」
「山岡殿は最初から甲賀に撤退する手筈。無人の城など落とせて当然だ。まあ、瀬田城は東側の防衛が難しいから仕方がないのかも知れんがな」
「はあ」
瀬田城を守っていた山岡景隆は織田軍が迫ると城を捨て、甲賀へと落ち延びた。それに伴い、大日山城の守将・山岡資広も山岡家当主に従い撤退。織田軍は労せずして城を攻略していた。
「だいたい、こちらに来る将など場当たり的な雑魚と相場が決まっている」
「そうなんですか?」
「考えてもみろ、こちらは京の都から遠ざかる。戦略的価値も低いから、大した将は来ないさ」
「なるほど、それならば撃退も可能ですな」
「そういう事だ。この関津城の勝利を六角家反撃の狼煙とするのだ!」
「流石は殿、鋭い読みです」
宇野美濃守は関津城に来る織田軍の将は無名であると予測した。その理由は関津城が京の都から離れ、戦略的にも価値が低いからである。価値が低いという事は戦功が少ない。よって無名な武将や若手の稼ぎ場となりがちである。
故に宇野美濃守はその無名の将を撃退して、味方の士気高揚と六角家の反撃開始の合図とする事にした。織田家にとっては戦略的価値が無くとも、六角家にとっては重要な一勝になる。そう、彼は確信していた。
「織田軍、来ました!」
「旗は?どんな雑魚い家紋を掲げているんだ?」
「えーと、あの家紋は……」
「雑魚過ぎて、未知の家紋だったらどうしようかな。日記には織田家臣・
話しているうちに、織田軍が関津城に現れる。宇野美濃守は家臣に旗に描かれているであろう家紋を尋ねる。部隊を率いる武将は必ず自分の家の家紋を掲げるからだ。
宇野美濃守はこの重要な一戦を日記に書いて、後世に残そうと思っていた。だが、無名の武将の家紋が分からなかったらどうしようなどと心配してしまう。
その考え中に織田軍は旗が視認できるくらいに近付いてきて、家臣から家紋が報告される。
「旗は……『二つ
「『二つ雁金』だと?まるで織田家一の猛将・柴田勝家の様な家紋じゃないか。雑魚にしては有名家紋だなぁ。……二つ雁金?柴田勝家?えーと?」
「あの、殿、これって……そのまま柴田勝家なんじゃ……」
旗に描かれた家紋は二つ雁金。そう、柴田勝家の家紋である。瀬田城を攻略した柴田軍はそのまま瀬田川を南下、行く先々の城を怒涛の勢いで攻略して関津城まで進軍してきたのである。
この事実に宇野美濃守は顔面蒼白になる。織田家の雑魚が来ると読んでいたら、織田家一の猛将が来てしまったのだから。
「そんなバカなぁーっ!?あの『68ヶ城の鬼柴田』だとぅーっ!?何でここに来るんだーっ!?」
「ど、どうしましょう?」
「おおおお、おちけつおちけつ、おちけつんだ」
「殿が落ち着いて下さい」
物見櫓の上で騒ぐ宇野美濃守。驚きのあまり、彼は『68ヶ城の鬼柴田』が来たと叫んでしまった。当然ではあるが周りの兵士達にも聞こえてしまい、鬼柴田来たるの情報は瞬く間に
「あの鬼柴田が来たんだと」「オラ達、どうなるべさ」「伊勢68ヶ城は柴田が皆殺しにして回ったと聞くぞ」「そんなぁ……」
兵士達はその情報に戦慄し、口々に噂を始める。それは止まる事を知らず、いつの間にか柴田勝家が伊勢68ヶ城を皆殺しにした事になっていた。因みに68ヶ城は誰も死んでないどころか、恒興によって最初から調略されていたので戦ってすらいない。
これが『武名』の為せる業と言うべきか。正確な情報を得難い戦国時代では噂話が先行する事がよくある。その噂話にはよく尾ひれが付いてくるのだ。これによって面白く改竄される時もあれば、更に恐ろしく改竄される時もある。今回は後者であった。
「落ち着け、お前ら!如何に鬼柴田と言えど、この関津城を前にしては
「殿、柴田軍がこちらに向かって突進して来ます!」
「ノータイムで突撃して来るんじゃねえぇぇぇぇ!?ちったぁ考えろよーっ!」
宇野美濃守は関津城を目にすれば、如何に柴田勝家と言えど攻めるのを躊躇すると豪語した。だがそんな彼の予想とは逆に、柴田軍は関津城に向かって突撃を開始した。それはまるで獲物を見付けた猛獣の様だった。
「ひいぃ……」「オラ達、肉塊にされちまうだか……?」「い、いやだ、いやだ……」「まだ嫁さんも貰ってねえのに死ぬのか……?」
柴田勝家が向かってくると聞いた兵士達は更に恐慌状態に陥る。元々、士気が下がっているところに鬼柴田が来るという状況が重なり、兵士達は皆、最悪の未来を予想してしまう。こういう時は武将が兵士を奮い立たせる様な号令を出すべきなのだが、宇野美濃守自体が冷静ではいられなかった。
「フ、フフフ、おお愚かなり、ししし柴田かかか勝家!わわ我が関津城のけけ堅牢さにふふふ震えるがいいいわ」
「殿、震えてますよ」
震えながら強がる宇野美濃守だが、その声は弱くか細かった。そんな上司の様子は徐々に兵士達にも伝播し、そして爆発してしまった。
「嫌だーっ!肉塊にはなりたくねえーっ!」「助けてくれーっ!」「死にたかねえよー、お母ちゃーん!」「嫁さんが心配なんで帰るだーっ!」「「「お前の嫁は脳内にしかいないだろ!」」」
「待て!お前ら!敵前逃亡は死罪だぞーっ!」
兵士達は恐怖に堪え切れなくなり、皆一様に逃げ出した。その人波は瞬く間に大きくなり、我先にと柴田軍の攻める反対側、裏門へと殺到していった。
宇野美濃守は声を荒げて引き止めようとするも、一度走り出した彼等は止まらない。
「殿、兵士達が裏門を開けて逃げ出してます!」
「……待て、お前らーっ!待ってくれーっ!俺を置いて行かないでくれーっ!」
「殿ーっ、私もお供させてくださーい!」
結局、宇野美濃守もその家臣も逃げる他なかった。柴田勝家は城を包囲せずに、いきなり正門を攻撃したため裏門からは逃げたい放題だった。程なくして柴田軍は誰もいない関津城を占領した。
この後、宇野美濃守は戻ってきて、柴田勝家に降伏した。
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関津城を攻略した柴田権六郎勝家に笑顔は無かった。彼はただ茫然としていた。その顔には『何故、こうなった?』とだけ書かれていた。
関津城の接収作業及び戻ってきた宇野美濃守を護送する準備を終えて戻ってきた佐久間久六郎盛次に問い掛ける。
「ま、またか。何故だ?何故、まともに戦えないんだ、久六?いったい、何がどうなっているんだ?」
「六角方の士気の低さは想像以上の様だな」
柴田家の家老となった佐久間盛次は主君である柴田勝家に淡々と答える。佐久間盛次は勝家の姉婿に当たる人物で、平素から仲が良い。故に勝家に対し敬語も使わず、まるで兄の様に振舞っている。正式に家老となった時に、敬語を使っていたのだが、勝家から止めてくれと言われたからだ。
「こ、これでは、まるで武功が足らん」
「そうか?もう、大小合わせて20ヶ所も攻略したぞ」
瀬田城を落としてからというもの、柴田衆は瀬田川沿いにある城や砦を虱潰しに攻略した。だが、何処も関津城と同じ様に、攻め掛かれば敵の士気が崩壊。相手にすらならなかった。
不完全燃焼な思いをしながら勝家は目につく城砦を全て攻略。結果、数日で既に20ヶ所にも上る拠点を攻め落とした。
勝家は絶望に染まった感じで嘆いた。それは何故か?
「こんな事では……お市様を迎えるなど夢のまた夢ではないかーっ!!」
「ええーっ!?お市様、どんだけハードル高いんだよっ!?天女か何かか!?」
「天女にも等しいお方だが、何か?」
「いや、そんな真顔で言われてもな」
勝家はここで大きな武功を稼いで、市姫との祝言の許しを信長から貰いたかった。稲葉山城攻略戦から今に至るまで許可が出ていないのだ。信長自身が忘れているとかそんな事はないと信じたい。
佐久間盛次は十分だと思う。どう考えても織田家で一番功績を挙げていると思うのだ。それでも娶れない市姫は天女なのかと驚くが、勝家は平然と天女に等しいと返した。
「もっとだ、もっと城を攻略しなければ」
「我等の割当てはこの関津城で最後なんだが。もう終わってしまったぞ」
「そんなバカなっ!?うう……、ワシはどうすればいいんだ」
瀬田川沿いの六角家勢力は関津城で最後だった。ここから更に南に行くと妙見山城と大石城があるのだが、そこにいる大石家は六角家勢力ではない。独立小豪族なのだが、現在は大石本家嫡流が途絶えて大絶賛内乱中との事。放って置いて良い様だ。
因みにこの大石家から、かの有名な『赤穂浪士』大石内蔵助が輩出される。
膝が折れ、地面に両手をつき嘆く勝家に盛次は提案する。
「そうだな、観音寺城方面に戻って『青地城』を攻略するというのはどうだ?」
「青地城?そこは勝三の領分だぞ。怒られないか?」
青地城は関津城から北東へおよそ10km。瀬田川に合流している大戸川を遡るだけで辿り着く場所にある。もちろんその間にも小さい砦はあるだろうが、今の調子なら問題無く進めると盛次は考えた。
しかし青地城は事前の攻略割り当てで、池田軍団が攻め落とす事になっていた。
「逆に考えるんだ、池田殿を手伝ってもいいやって考えるんだ!池田軍団は青地城を落としてから観音寺城まで戻る予定だろ。だが、まだ動いていない。ならば池田殿にとっても時間の短縮になるはず」
「なるほどな、よしやるか!」
盛次のよく解る様な解らない様な理論で勝家は青地城に行く事を決意する。全ては市姫のため、出来得る限り武功を稼ぐのだと気合を入れた。
「柴田衆、青地城に進撃するぞ!気合いを入れろっ!!」
「「「おおおおぉぉ!!!!」」」
そんな鬼気迫る主君の檄に巨人の雄叫びかと思う程の咆哮が柴田衆から揚がった。
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恒興は池田家の武将を集めて各所からの報告を受け取っていた。出席者は恒興の他、家老の土居宗珊、加藤政盛、飯尾敏宗、金森長近、加藤教明、土屋長安、土居清良、奥村永福(前田慶がサボりなので代理)である。純粋な池田家臣のみとなっている。
そして伝令役である加藤政盛から新しい報告が渡される。
「殿、柴田衆からの戦況報告です」
「瀬田城は落ちたんだから、特に問題にならない砦ばかりだろ。今、どの辺だニャー?」
「柴田衆の現在地はこちらです」
こちらと言われて恒興が見た書状には驚愕の事実が記載されていた。恒興の余裕の表情が一気に吹き飛ぶくらいの。
「ん?……はあ!?瀬田城から石山城、平津城、大日山城、関津城まで攻略して、更に戻って来て青地城攻めてるだとぅぅぅ!?そこ、甲賀の西入口じゃねーギャ!!」
「その青地城、もう落城寸前だそうです」
青地城へと進軍した柴田勝家だったが、既に青地城に到達。恒興に報告を入れた頃には青地城は陥落寸前になっていた。その青地城から東に進むと、そこは甲賀と呼ばれる地方に入る。甲賀は恒興の主戦場となる場所である。
「ニャんだ、この速さは!?瀬田城以外は小粒な城ばかりとはいえ異常だろ。このままじゃ甲賀に突入されるニャー!」
「柴田殿の張り切り様は、お市様との祝言が引き延ばされたからでしょうか」
「にしたって、気合入れ過ぎだニャー!暴走してんのか!?小さいのを含めると25ヶ所も落としてやがるぞ」
誰から見ても、柴田勝家の速さは常軌を逸していた。恒興が評した様に敵を求めて暴走している様にしか見えない。そこに市姫の事が絡んでいると政盛から指摘された恒興は、あの男ならばやりかねんと思った。
「柴田殿は『68ヶ城』で御座いますからなあ」
「教明、それはニャーが全部、調略済みだったからだニャ。いくら六角側の戦意が低いったってさ」
「その戦意が低い所に『68ヶ城の鬼柴田』が来たら、誰でも逃げるんじゃないっスか?」
「あ……、そういう事ニャ」
「さ、流石にマズイですよね」
マズイ事態になりつつある事は全員が認識した。青地城は甲賀地方の西入口と呼べる城で、既に落城寸前。それが終われば高確率で甲賀に進撃すると誰もが予測出来た。というより、甲賀以外に敵地が無い。
「マズイなんてもんじゃないニャー!このままじゃニャーの計画が……。おい、誰か!あの『
「「「……」」」
『
「ニャぁぁぁんで全員、ソッポ向いてんだ、テメエらぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
恒興はそのシンクロ率に思わず絶叫した。
「い、いやぁ、殿、そうは申されても無理ですよ。お市様の事が絡んだ柴田殿を止めようなんて」
「他人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られてなんとやら、と申しまして」
「あーあー、忠勇溢れる家臣に恵まれてー、ニャーは幸せ者だニャー!」
土居清良や飯尾敏宗の反論に、恒興は物凄い勢いで不貞腐れた。険悪な雰囲気になった陣内の空気を家老の土居宗珊は笑い飛ばす。
「ハッハッハ。皆もまだまだ青いですな、殿」
「宗珊、お前もさっきソッポ向いてたよね?ニャー、ちゃんと見てたよ?」
豪快に笑う宗珊に対し、恒興はノータイムでツッコミを入れる。責める様なジト目で。
「うぉっほん、それは置くとして。柴田殿がこのままの進路では不都合な訳ですな。ならば別の場所に行かせてはどうかと。殿にはその権限がありますし」
「ま、そうだニャー。……柴田衆には坂本に行かせるか。明智衆はまだ一つも城落としてニャいから、
宗珊の意見を取り入れ、恒興は柴田衆を坂本方面に転進させる事にした。そこには明智光秀が派遣されているのだが、いきなり暗礁に乗り上げている状態だった。
明智光秀の最重要課題は琵琶湖水軍の一角・
「明智殿は苦戦中ですかな」
「さっき、長安が言った言葉が答えだニャー」
「俺が言った言葉っスか?」
「『68ヶ城の鬼柴田が来たら、誰でも逃げる』ってとこニャ。こいつは権六の『武名』が成せる業だ。然るに明智光秀は無名だから、ガチ抵抗されてるって事だニャー」
「なるほど。では、尚の事『68ヶ城の鬼柴田』に行ってもらいませんとな」
武名が殆ど無く、無名と言ってもいい明智光秀は周辺の六角家勢力にガチで抵抗されていた。その実、瀬田川を渡ってから堅田手前の衣川城までは城らしい城は無い。小さな砦が点在しているのみではあるのだが、その一個目で足止めされていた。「明智光秀?誰だ、それ?なんぼのもんじゃい」ってな具合に抵抗されている。
流石に恒興もテコ入れが必要と判断し、柴田勝家を投入する事にした。そして明智光秀には『さっさと堅田まで行けニャー』と手紙を送った。
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【あとがき】
武士の武名は大切ですニャーってお話。
べ「勝家さんX市姫さんは考えるの面倒だから、そのままにしたんだよね。お互い年齢が若いけど」
恒「おかげで権六が面白おかしいヤツになっているニャー」
べ「キャラが勝手に動き出すというのはこういう事かもね。当初の予定では勝家さんは忠義厳粛な猛将として描く予定だったのにね」
べ「市姫さんの嫁ぎ先の候補に恒興くんという意見も読者からあったんだ」
恒「それについては残念ながら無いニャ」
べ「うん、市姫さんの嫁ぎ先は手懐けたい豪族、重要だけど縁が薄い家臣、同盟相手の大名かその嫡子と相場が決まるからね。信長さんが恒興くんを手懐ける意味は無い」
恒「だいたい、ニャーは元々織田家の子息扱いだったんだからニャー」
べ「え、そうなの?」
恒「ああ、ニャーの初名は『信輝』って言うんだニャー。『信』は織田家の通字だ。これは信秀様から貰った名前だニャ」
べ「『織田信輝』だった訳か」
恒「ニャーは元服前から池田家当主だから織田姓は名乗ってニャいけどな。で、信秀様が亡くなって信長様が織田家当主になった時に『恒興』にした。君臣の別を付ける為にニャ」
ベ「真面目だね」
恒「ニャーは信長様の弟として甘えていたかった訳じゃねーギャ。有能な家臣として信長様の役に立ちたかったんだニャー。厚遇してくれた信秀様には悪い事をしたかもだけどさ」
ベ「一本気な話だけど、意外と恒興くんは面倒な性格かもね」
恒「うるせーニャ」
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