南朝の士

「殿、長野信包様の状況報告です」


 加藤政盛の報告を恒興は家老の土居宗珊と共に受け取る。長野軍には日野城攻略後も甲賀東を抑え続けてもらうので気になるところだ。その報告からは順調な様子が覗えるので恒興は胸を撫でおろした。


「フムフム、蒲生家が傘下入りか。今は条件詰めしてるところかニャ」


「他からの邪魔が一切入りませんでしたからな」


「水口と日野を結ぶ要所である上迫かみはざま城と下迫しもはざま城が早期に落ちた事が大きいニャ。……ん?この城2つを落としたのは千種忠正ニャのか?」


「ええ、そうですよ。しかも2倍の敵を退けて両城を落としたとか」


 千種忠正は長野軍の先発隊として水口方面に向かった。蒲生家日野城と甲賀水口は山で分断されているのだが、唯一軍勢が通れる道がある。その道を守るために上迫城と下迫城が建てられていた。この2つの城が健在な限り、甲賀は日野城に援軍を送り続ける事が出来る。その為、日野城包囲戦が始まる前に攻略する必要があったのだ。

 上迫城に800、下迫城に1200の兵が配置されていた。それに対して千種忠正は1200という状況だ。相手は約2倍弱、砦と呼ぶべき規模ではあるが城が2つ。されど長野軍の大軍が迫っているので無理をする必要はない。

 この状況で忠正は攻勢に出る事を決意した。その理由は上迫城と下迫城の距離である。水口と日野城を結ぶ街道は東西に走る、山間を走る谷の様な道になっている。その南北に2城が配置されている。水口に入る玄関口の様な配置で日野城側にある。この2城の距離は800mほどでお互いを遠目に視認出来るくらいに近いのだ。即ち、上迫城と下迫城は相互援軍関係にあると忠正は見た。

 彼は軍勢を二手に分けて兵数の少ない上迫城に向かった、街道を堂々と。それは当然、下迫城から見えていた。下迫城兵は上迫城と敵を挟み撃ちにすべく1000の兵数で出撃、千種忠正を背後から襲う。

 だがその時、森に伏せていた千種軍別働隊が下迫城兵を背後から強襲。更に千種忠正本隊も待っていましたとばかりに反転し、下迫城兵は逆に挟み撃ちにあってしまう。

 思わぬ攻撃を受けた下迫城兵は直ぐに崩壊、散り散りに潰走した。殆どは四散したのだが100名くらいは下迫城に逃げた。当然の事ながら下迫城は城門を閉じている、近くに敵がいるからだ。しかし逃げてきた味方を見捨てられず、城門を開いてしまう。

 その隙を逃さず千種軍別働隊が城内に突入。守将も捕らえられ下迫城はたちまちのうちに落城した。

 千種忠正は休まず下迫城から出撃、上迫城へと迫る。上迫城には800人しか居ない上に長野信包の大軍が迫っている事も知っていた。そして彼等の目の前で下迫城が落ちたので、兵士の士気は最低になった。そのため直ぐに降伏開城し、忠正は将を捕らえて長野信包に送った。城兵は全て解散させたとの事。これが蒲生家日野城包囲前に起こった戦いである。


「ほほう、それはなかなかですな」


「アイツ、やるニャー。これはちょっとした拾いものだったかニャー。ニャーは渡辺教忠の願い、小作人の開放、惣の解体を狙った訳だけど」


「殿がなるべく流血を避けた結果でしょう。よろしかったと思いますぞ」


(千種忠正か。前世においてアイツの事は知らニャい。おそらく信長様の伊勢攻略が本格化した時に踏み潰されたと思う。ニャーはその運命を変えたのか。ま、歴史を変えたというには小粒過ぎるかニャ、ハハ)


 恒興の前世における伊勢攻略戦は上洛後に本格化した。その時に逆らう豪族は軒並み潰されていった。その中には千種家も含まれていただろう。上洛を果たした織田家は完全に幕府勢力であるため、千種忠正が降る可能性は低い。伊勢国全体でも降る者は割と少なかった。何しろ伊勢国は反幕府の巣窟と言える場所だからだ。

 故に上洛の成功に勢いを得た信長は一息に制圧した。その過程で潰されたと恒興は思っていた。

 恒興は自分が変えた事象が信長に僅かでも良い効果があった事を喜んだ。


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 南近江下迫城。

 ここに本陣を置いて水口方面に睨みを利かせている者がいる。名を千種次郎大夫忠正という。北伊勢千種城主であり3万石の大名になったばかりの男である。

 彼の現在の役目は水口から来るかも知れない甲賀豪族の警戒である。甲賀豪族の蒲生家日野城への援軍を防ぐ為に下迫城に滞在している。

 というのも、長野信包は日野城を包囲した後、余剰の戦力で水口の中心部まで進出した。諸将は反対したのだが、信包は押し切って進軍した。日野城包囲は傘下大名達に任せて、信包は柴田勝家と滝川一益を伴い水口に入る。そこには反対した諸将は置いてきぼりにして、織田家臣のみで功績を稼ごうという魂胆があった。一応、柴田勝家と滝川一益も反対だったが。

 当初は大した抵抗も無くすんなりと制圧出来た。ただ水口には城と呼べる物が無いので野営する事になった。その後、柴田勝家と滝川一益は信長の命令で移動した。

 水口制圧から3日して何事も起きなかったため、信包はすっかり気を抜いていた。あの池田恒興が特に警戒している甲賀も自分にかかればこの程度だと。兄である信長にも誉められるに違いないと。

 だが事態は急変した。甲賀豪族達の夜襲が始まったのだ。しかも最初から取り囲まれている状態だった。彼等は暗闇の中、音も無く忍び寄って来たのだ。

 甲賀豪族達は信包が大軍と見るや山に隠れ、相手が臨戦態勢を解くのを待っていたのである。

 今までがあまりの楽勝振りだったので兵士まで気が抜けてしまっており、夜襲の効果も相まって、長野軍は大軍でありながら大敗。異変に気付いた北畠軍と千種軍が駆け付け、信包は何とか逃げる事が出来た。現在は日野城包囲軍の真ん中でいじけているらしい。

 そういう経緯もあり、水口は現在のところ敵の勢力下にあり、何時援軍が来てもおかしくなかった。

 ただ蒲生家とは傘下入り交渉に入ったのでもう少しの辛抱である。その前に警戒強化のため上迫城に北畠軍が入る事になっていた。


「殿、上迫城の引き渡しは完了しましたよ」


「おお、ご苦労だったな、知房」


 大矢知知房。

 かつては千種忠正も参加した惣『北勢四十八家』において、忠正と2大派閥を形成していた人物である。お互い、派閥の長として何度も火花を散らせた仲であるが、現在は千種家の家老を務めている。


「……」


「どうかしたかい、殿?」


「いや、お前と主従になるとは、人生は分からないものだなと思ったんだ」


「意外でしたか?私としては大矢知家が得をする様に立ち回ったつもりですよ」


 千種忠正は池田恒興により強襲を受けて、織田家に降った。そして恒興の依頼を受けて周辺で惣を形成していた豪族達の家臣化させる説得を行った。

 その時、敵対派閥の長である大矢知知房は滝川一益と単独交渉しようとしたが受け入れられず、何回も説得に来た忠正に降った。条件としては千種家の家老の地位である。家老については忠正も異議は無かった。大矢知家の規模は千種家に次ぐものだからだ。

 ただ大矢知知房は妥協で降った様なものなので、大した働きはしないだろうと忠正は思っていた。しかし家老になってからの知房は精力的に動いた。結果として惣の4割を知房が説得し、3割を忠正が、残り3割は自ら家臣化した。これにより『北勢四十八家』と呼ばれた惣は消滅し、千種家という3万石程の大名が成り上がった。

 知房は今回の上迫城及び下迫城攻略戦で別働隊を率いて活躍している。


「何時までも惣の体制を維持出来ないとは思っていました。なら時流の中で最善を選んだまでです」


「そ、そうか」


 大矢知知房は頼りになる、家老に相応しい働きだ。そう忠正も思ってはいるものの不安はある。

 それは忠正が南朝の意志を受け継いでおり、足利幕府を快く思っていない事だ。大矢知家は北畠家と足利幕府の戦いにおいて幕府方に付いていた。それ故に大矢知家は幕府支持だと忠正は思っている。惣内で彼と派閥争いをしたのも、そういう事情が下地にある。

 要は幕府(北朝)支持の大矢知知房が南朝支持の忠正に付いてきてくれるかという事だ。反発されるのが怖くて、その話はまだ出来ていない。


「殿、北畠様が挨拶にお越しです」


「私が出迎えてきますよ」


「あ、ああ、頼む」


 家臣の報告に大矢知知房は出迎えるため、本陣から退出した。そしてしばらくして北畠権中納言具教が姿を現す。忠正は立ち上がって彼を迎えた。


「これは北畠黄門殿、お声掛け下さればこちらから参ったものを」


「そんなに気を遣う必要はない。私が君に会いたかったのだ」


「私にですか?それは光栄な話ですが、北畠殿と私では家格というものが……」


「そんなものを気にする必要はない。千種家は『三木一草』に数えられる名家ではないか」


(うーん、ウチは傍流な上に父が家督を乗っ取った様なもの。胸を張って『そうだ』と返事出来ないところが悔しい。まあ、千種本家は既に消滅しているので言わぬが花だな)


 北伊勢千種家にはかつてお家騒動があった。それは忠正の父親・千種三郎左衛門忠基と当時の千種家当主・千種常陸之助忠治の間で起きた後継者争いである。この争いの形は戦国時代でもよく見られる典型的なものである。

 発端は忠治が子供に恵まれなかった事に始まる。このままではお家断絶と危惧した忠治は忠基を養子として貰い受けたのだ。

 当初からこの父子は良好な仲で、誰もが次の当主は忠基だと思っていた。家臣達も忠基を次期当主と仰ぎよく仕えていた。だが事態は急展開を迎える。忠治は晩年にして待望の男子・又三郎を得たのである。

 当然なのか必然なのか。忠治は実子である又三郎を後継者にしようと動く。既に千種家後継者として政務に当たっていた忠基も、その元で働いている家臣達も納得出来なかった。斎藤道三の時と同じ展開である。

 斎藤道三の時と違う点は家が割れなかった事だ。忠治には誰も味方しなかった。既に長年の実績がある忠基を廃して産まれたばかりの又三郎を当主にするなど家臣達は考えられなかった。そうでなくとも千種家は小豪族規模で周りとの諍いがある。領地を守れる強い当主こそ必要で幼君を戴いている余裕など無いのだ。

 結果として忠治と又三郎は千種家から追い出されて終わった。又三郎は現在、滝川家でモブ侍として働いているそうな。


 この様な例は枚挙の暇がない。これを『後継者いないから養子貰ったら実子が産まれたでござるの巻』という。……たぶん。


 この典型と言えるのはこの10年ほど後に起こる奥州南部家相続問題だ。南部家現当主・南部大膳大夫晴政は『三日月の丸くなるまで南部領』(三日月の頃に南部領に入ったら、抜ける頃には満月だ)と謳われる程の広大な領地を築き上げた。だが子供は女子ばかりだった。そこで叔父(弟説も有り)の石川高信の息子・信直を養子に貰い娘を嫁がせて後継者とした。

 しかし1570年に待望の男子が誕生した。当然なのか必然なのか。実子に継がせたい晴政は「信直いらんな。暗殺したろ」と言わんばかりに暗殺者を送り込む。

 それで殺されては堪らない信直は「お前が死ね」と言わんばかりに暗殺者を送り返す。ここに凄絶にぐっだぐだなお家騒動が始まる。

 この様な騒動を家臣達は冷やかな目で見ており、中には暗殺命令を受けても呆れて家に帰った家臣すらいる。

 この争いは晴政が病死するまで続き、12年間にも及ぶ。この混乱は大きく、大浦為信はチャンス到来とばかりに信直の実父・石川高信を殺し津軽地方で独立を果たす。

 晴政の跡は実子の晴継が継いだのだが、その同年に死去。信直、お前がやったんだろと言われても仕方がない顛末である。この後に南部家は信直が当主となったが、更に混乱は続き南部家最強の武の象徴・九戸ここのへ家が制御不能になる。このお家騒動で青森県全域から岩手県北半分という広大な領地を持っていた南部家は青森県東半分程度に縮小してしまうのだ。


 その様な経緯もあり、忠正は恒興の前では堂々と千種忠顕の末裔と宣言していたのに、北畠具教の前では言い辛かった。


「しかし、北畠殿ご自身がこの上洛戦に来られるとは意外でした」


「それは北畠家が織田家に負けて養子まで入れられたからかな?それを不快に思って、私が織田家の為に働く訳がないと。まあ、普通ならそうだな」


「千種家も似た様なものですがね」


 北畠具教は笑顔でそう返す。そこには戦で負けた悔しさも家督乗っ取り紛いの養子入りも気にしている風はなかった。具教には分かっているのだ、養子の茶筅丸が如何に信長の息子と言えど、北畠家で育つ以上は北畠家の人間になると。であれば、彼は成長した後も北畠家の立場で動かざるを得ない。また、血筋の上でも茶筅丸には具教の娘を嫁がせるので、血筋はキッチリ残る。後継者が居ないから他家の養子を貰うのと大差ないと具教は割り切っていた。

 そんな事より具教にはやってみたい事があるのだ。

 ただ、その話の為に来た訳ではない。具教は同じ南朝の重臣であった千種家が再興出来た事が単純に嬉しく、祝いと語らいの為だけに来たのである。そして話題は南北朝に入る。自分達のルーツと言える話に。


「君は『太平記』を読むかね?」


「ええ、教養程度に。読んでいてあまり面白いものではありませんが。何しろ我が祖先、千種忠顕公の事は愚物の様に書いてありますから」


 太平記において千種忠顕はかなり否定的に書かれている。曰く、日夜宴会をして浪費していたとか。数百騎を繰り出して狩りに没頭していたとか。とにかく愚物であるかの様に書かれている。

 ただ、家臣のストレス発散のために宴会は必要だし、武家として生きていくなら狩りも出来ないとダメだろう。この千種忠顕は公卿である六条家の出身で武家ではない。そのため武家である家臣とコミュニケーションをとるために積極的に宴会を催したかも知れない。狩りに関しても武家を理解するため積極的だったのかも知れない。

 ただそれは元々武家である足利家には奇異に映った様だ。


「あくまで足利家視点で書いているからな。しかしだ、あの『太平記』は我々に教訓も与えてくれる」


「教訓ですか?それは何でしょう?」


「何故南朝は敗北したかだ」


 北畠具教が熱心に太平記を読む理由、それは太平記が足利家の勝利の物語ならば南朝の敗北の物語でもあるからだ。それを読み解けば、何故足利家は勝てたのか、何故南朝は負けたのかが解る。

 北畠具教は南朝の敗因に『建武の新政』が大きい事は分かっている。あれはかなりの数の武家が反感を持ち、結果、足利家の力を増してしまった。

 そのマイナスは大きいものの、北朝と南朝の戦いは一進一退くらいで推移していたはずだ。だがある戦いから明らかに北朝側が勢いを増した。それが楠木正成が討ち死にした『湊川の戦い』だと具教は見た。


「君は思った事はないか?何故あの時、楠木正成公の意見に聞く耳を持たず、公家達は出撃を強要したのか?何故公家達は楠木正成公に軍権を渡していないのか?」


「それは……」


「答えは簡単だ。公家達は楠木公を信じていなかったのだ。後醍醐帝は信じておられたというのに。私は『太平記』からその事を学んだ。生き方が違う公家と武家の間には『理解の齟齬』があるのだ」


 公家達と楠木正成の間にあった『理解の齟齬』、その代表例が『新田義貞の扱い』である。

 鎌倉幕府を直接打倒した新田義貞であったが、対足利戦においては失敗続きだった。この時、楠木正成は新田義貞を総大将から外す様に進言する。だが公家達はこの意見を一蹴し、彼を死地へと送ったのである。


 公家側の視点から見ていこう。実はこちらが一般人視点に近いのだが。

 まず家格からだ。新田義貞という人物は河内源氏・荒加賀入道・源加賀介義国を祖とする名家の出自である。源義国はあの八幡太郎義家の四男である。新田家の祖はその義国の庶長子である新田義重であり、その弟に嫡男である足利家の祖・足利義康がいる。このため、新田家は足利家の兄の家という自負を持っていた。公家視点で言えば河内源氏の名家である。それに比べれば楠木正成は一土豪に過ぎない。

 次に実績だ。新田義貞は関東にて20万を率いて、直接鎌倉幕府を打倒した英雄である。20万もの諸侯の上に立ったのだから当然、英雄的カリスマの持ち主だ。その実力によって華々しく敵を打ち破った。建武政権樹立の一番戦功だ。比べて楠木正成は負ければ逃げ隠れし、味方が有利になったら出て来ただけだ。彼に出来たのは時間稼ぎのみと実績からは判断される。それでも後醍醐天皇に寵愛されているので出世した。

 これを知ってどちらを尊重するかなど聞くまでもないだろう。


 武家視点で見ていこう。

 新田義貞の知名度だが、「誰?知らんな」のレベルである。日の本全体ではなく、関東だけで見てもこのレベルである。因みに新田家を知ってる人でも「新田家ってまだ続いていたんだ。へえー」くらいか。これにはもちろん理由がある。

 新田家は平安末期に興り、新田義重の積極的な開拓によって上野国中心に大勢力を誇った。一時期は足利家を遥かに超え、足利家の後ろには新田家がいるから手が出せないと思わせる程だった。だが時は流れ新田家は平安末期には衰退してしまう。……平安末期に興って平安末期に衰退するんかい、とツッコミ入れる人もいるかもだが、実は初代である新田義重がやらかしてしまうのだ。この新田義重は関東に居ながら、あの鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に逆らってしまった。というか平家に「頼朝ヤバイっすよー、反乱するっすよー」と連絡入れたのはコイツである。当然だが日の本一根に持つ男の称号を持つ源頼朝はスタイリッシュに仕返しを敢行する。新田義重は結局、源頼朝に降るのだが、その前に新田分家のいくつかを先に承認し独立させたのだ。このため新田家の領地は一気に6分の1にまで減少する。関東の最有力勢力の一角であった新田家は、これで小大名規模に落ちた。

 更に4代目の新田政義がリーチ一発ツモ中東三暗刻ホンイツドラx3の数え役満を決めてしまう。幕府が捕えた謀反人を逃してしまい、幕府の許可無く朝廷に任官を要求、朝廷に拒否されると拗ねて仕事放棄、都から自宅に無断で帰り、勝手に出家した。全て幕府の許可無くして出来ない事で一つでも家が潰されかねないものを5つもやらかした。結局は当時の足利家当主・足利義氏が方々に頭を下げて回って何とかお家取り潰しだけは避けた。が、新田家は一小豪族程度に没落した。このため新田家の事を知らない人が多数なのだ。

 では何故、新田義貞は20万もの軍勢の大将だったのか?ここにも武家特有の事情があった。実は新田義貞が自身で集められたのは150騎、徒士合わせて500人程である。ここに幕府に恨みを持つ者(主に僧兵)が集まって7000となる。一豪族が7000集められただけでも大したものだが、これでは鎌倉幕府に勝てる訳ない。では20万とは何処から出た数字か?

 そう、20万を集めたのは別の人物だった。その人物の名は『足利千寿王』、後の『足利幕府2代目将軍・足利義詮』である。当時で4、5歳の幼児だ。この子供が呼び掛けただけで20万の大軍が集まったのだ。『足利家』のネームバリューの凄まじさである。当然ながら幼児に軍団の指揮など出来ないので名目上の総大将となり、指揮権を一族である新田義貞に任せたという経緯である。理由は足利尊氏が御連枝を全て京都に連れて行ったので、他に一族が居なかったから。

 つまり新田義貞の英雄的戦果は足利千寿王なくして成り立たない。集まった諸将も「代理なら仕方ないね」と新田義貞の指揮を認めたに過ぎなかった。そして鎌倉幕府を打倒したのは足利家というのが武家の共通認識だった。20万は足利家の呼び掛けで集まったのだから。

 そのため将も兵士も新田義貞を知らず、士気の低下が著しかった。ハッキリ言うと「何で無名のヤツが俺達に命令すんの?」と不満だったのだ。

 楠木正成はこの事を指摘していた。義貞に総大将は務まらない、彼が辛いだけだと。


 楠木正成は別の人物を総大将にすべきと訴えたが、公家達には新田義貞を失脚させて自分が総大将になりたいと言っている風に捉えたのかも知れない。後醍醐帝の寵愛をいい事に一土豪が勝手な事を言っている、そう認識されてしまった。これ程に武家と公家の認識の差は酷いのだ。北畠具教は太平記からこれを読み取った。


「結局は公家達が楠木公を理解する事は無かった。所詮は下賤の出自と思っていたのだろう。一方で楠木公も理解してもらう努力はしていない様に思う。一豪族であった楠木公は朝廷工作が得意な様には思えぬからな。全てはそこから狂った様に感じるのだ」


「それがあの悲劇に繋がった訳ですか」


 楠木正成が討ち死にした後の南朝はボロボロに負けていった。新田義貞も北畠顕家も相次いて討ち死に。南朝は吉野へと追い詰められた。

 北畠具教はあの時、楠木正成が公家と意思疎通出来ていればと思う。そうであれば新田義貞は総大将から外れ、相応の立場で活躍したのではないかと。自分の祖先である北畠顕家も無茶な決戦を挑まずに済んだのではないかと。


「つまりは公家と武家には埋め難い認識の差があるのだ。ただ公家は南北朝の頃より武家の考えに近寄ってきている気がする。幕府の朝廷イジメが相当堪えた様だ」


「朝廷と幕府の仲の悪さは有名ですからな」


 足利幕府発足当初から朝廷はロクな目に合っていない。足利尊氏には弟との戦いに利用され尽くし、南北朝統一後も皇位を好き勝手に操作された。南北朝統一の和約も無視され続けた。

 ただ公家も一方的にやられているだけではない。足利幕府が揺らぎ出すと独自の行動をし始める。ある者は朝廷の資金を稼ぎに、ある者は有力大名に与力し、ある者は荒れ果てた都を去り、ある者は地方で大名化した。彼等は武家の社会に適応し始めたのである。このため両者の齟齬は縮まってはいるが、依然として根強い。


「私は思うのだ。あの時、楠木公を公家達が信じていれば、楠木公が巨大な軍権を持っていればと。足利尊氏ごときに負ける事など無かったと」


「たしかに」


「だから今回の上洛戦に出て来たというべきか。私は織田信長に楠木正成公になって欲しいのだ。帝を守護する最強の鉾と楯にな」


「織田信長を楠木正成公に……」


「となれば、公卿であり武家でもある私の出番かと思ったのだ。何とか織田信長に近づけないものかなと」


「良いお考えと私も思います」


 北畠具教の願いは織田信長を楠木正成にする事だった。彼を説得し幕府支持から朝廷の味方へと転換させ、朝廷と織田信長の橋渡し役になろうとしていたのだ。そのためなら北畠家に養子を入れられた事など、信長と会える機会程度にしか感じなかった。

 ここまで話して北畠具教は少し顔を曇らせる。


「ただ、ここに来て問題も出てきてな。息子の具房の事だ。独立した木造家と田丸家を敵視し始めてな。やはり北畠の家政を取らねばならんかも知れぬ。京の都に行っている場合ではないかもな」


 北畠具教の問題。それは現北畠家当主で息子の北畠具房が以前に独立した木造具政と田丸直昌を敵視し始めていた。彼はもう一度、両家を北畠家の下に収めるべきだと考えていた。さすがに木造具政も田丸直昌も独立を手放す気はない。何より、そんな事を織田家が許す訳がない。北畠家が再び木造家と田丸家を傘下にするのは信長の次男・茶筅丸が家督を継いでからの話だ。

 具教は自分の息子を止めなければならない。でなければ、北畠家は織田家から制裁を受けるだろう。

 そのため具教は家督は具房に渡したまま、家中の実権は取り上げなければならないと考えていた。そうなると伊勢に帰らねばならず、京の都行きは断念せざるを得ない。具教は胸の内の心境を吐露する。

 そんな内々の事を喋ってしまうほど、具教は忠正を同志として認めていた。


(北畠殿は京の都に行くか戻るかで悩んでいるのか。しかし織田信長を楠木正成公にか。たしかにそうなって欲しいものだ。そうなれば『巨大な軍権』を有した楠木正成公となる……待てよ?それはつまり……)


 忠正は聞いた話を整理する。織田信長を帝の力にしたいという具教の理想は解る。朝廷は経済的にも実力的にも織田信長の力を頼りにするのだから、彼が楠木正成の様になってくれるに越した事はない。

 だが、そこではたと気が付く。南北朝の時、『巨大な軍権』を有した帝支持者がいたのではないかと。そしてその男は帝に刃を向けてきたのではなかったか。

 忠正はその事に気が付いた。


「北畠殿、その話は危ないのでは?」


「ん?ここでの会話を君が吹聴するという意味かな?」


「それは有り得ません!同じ『南朝の士』である北畠殿を売るなど!言葉が足りませんでした。私が言いたいのは織田信長を楠木正成公にという部分です」


「ふむ、危ないとは?」


「織田信長は現状でも10万近くの軍を動かせます。つまり北畠殿が望んだ『巨大な軍権を有した楠木正成公』だと言えます。それに池田恒興の言を信じれば織田信長は帝の支持者です」


「ほう、あの織田家重臣の池田恒興がな。織田信長は帝の支持者なのか。それは良い情報だ」


「千種城に直接乗り込んできました。そこで彼とは本音で語り合いました。だからこそ私は一時的に足利義昭などを担ぐ気になったのです」


「私も池田恒興には大河内城でやられた。顔を合わせる事は無かったが」


 忠正は恒興と直接会って話している。まあ、強制的にだが。その時に恒興から幕府の欠陥についてまざまざと聞かされた。そしてそれは織田信長との共通認識だと。ただ帝と信長を繋ぐためには、まず足利義昭を担ぐ必要があるという結論だった。それが最短の道だと。


「北畠殿が語った公家と武家の認識の齟齬がまだあるのなら、織田信長はもしかしたら『足利尊氏』になってしまうのではありませんか?」


「!?。……その可能性はある、たしかに」


 忠正が気付いた危険、それは織田信長が足利尊氏になるのではというもの。既に確固たる地盤を有し、統制の取れた家臣団を持ち、全力で10万以上の兵力を保有している。

 これが足利尊氏の様になれば、朝廷にとっては悪夢の再来となる。

 足利尊氏とて最初から叛意があった訳ではない。彼は彼なりに建武の新政を成功させようと武家との妥協点を模索していた。その行いを公家達は責め立て、結局もの別れになった経緯がある。つまり足利尊氏の叛意は後天的なものであると言える。

 ならば織田信長が後天的に帝支持を止める可能性はあるのだ。


「足利尊氏の軍権は自分勝手な御連枝大名に依存していました。ですが織田信長の軍権は忠実な家臣のみ。家中の統制力が違います。朝廷と織田信長の間を誰も仲介しなければ、彼は足利尊氏に、いやあの天皇位を簒奪し朝廷を潰そうとした『足利義満』になるかも知れませんぞ」


「なっ!?あ、足利義満に?それはマズイ、あの時は御連枝大名の筆頭格だった管領の斯波義将が反対に回ったから未遂で終わったのだ。今の織田信長には止める者がいない……」


 忠正は更に続ける。織田信長の実力を考えれば、統制しにくい御連枝を武力基盤とした足利尊氏より、安定した権力基盤を築き上げた足利義満になるのではと。

 足利義満は実質的に南北朝を終わらせ、確固たる幕府権力を築いた。彼が邸宅を北小路室町に置いた事から足利幕府は『室町幕府』と呼ばれた。

 南北朝を統一し、絶大な権勢を振るった足利幕府3代目将軍。彼はその力で朝廷を押さえ付け、全国の武家の頂点に立った。足利幕府の権力を完全に確立出来たのは、その実、足利義満からである。

 そして彼は北山文化を隆興させ、一説には天皇位すら簒奪しようとしたという。それに伴い朝廷潰しすら行おうとした。ただ御連枝筆頭の管領・斯波義将が否定的であったため、義満個人の考えの域は出なかったという話だ。

 そんな栄華を極めたと認識されている義満の治世であるが、足利幕府崩壊はこの男から始まったと言える。

 それが最たる例が勘合貿易だ。これがとんでもない失敗だった。

 足利義満が行った業績の一つとして歴史には語られるが、これこそが足利義満の最大の失敗とさえ言える。まず勘合貿易とは日明貿易とも言い、相手国は中華王朝『明』である。この明は大中華思想を継承しているため、『降伏』した相手国としか貿易しない。この降伏を『冊封』といい足利義満は明の皇帝から『日本国王』の称号が授けられた。ここがかなり重要なキーワードとなる。

 つまりは形式上、日の本は明に降伏しているのだ。貿易がしたい義満の一存で。

 では何故、そこまでして貿易がしたいのか?答えは『儲かる』からだ。日の本から貢物を載せた船を出す、これに掛かる費用はだいたい1万貫だという。これが明に行って返礼品を載せて帰ってくるとおよそ10万貫以上になったという。つまり10倍になって返ってくる訳だ。明王朝は降伏した国に対してはかなり気前良く返礼品を出して威信を示していた様だ、地続きで攻め易いある半島を除いて。

 これによって足利義満は巨万の富を得て、北山文化を育て上げたのである。1回派遣する毎に10倍の価値になって返ってくるのだから形だけの降伏などどうでもよくなった訳だ。

 だが勘合貿易には問題もある。船が帰ってくる可能性が結構低いのである。日の本の船は竜骨を使用していない方舟形なので、外洋における走波性が低い。故に船が難破したり沈没したりで帰ってこない。あと海賊に襲われた可能性もある。例えば5回派遣して帰って来なかったら5万貫の大損である。もはや国家財政が破綻するレベルである。もしかしなくてもギャンブルなのだ。勘合貿易は義満の死後、一時期停止して6代目の足利義教の頃に復活したが8代目の足利義政の頃には1万貫を用意出来なくなり中止された。その後は大内家主導で続いたが、大内家が滅びた現在は密貿易のみとなっている。

 勘合貿易は経済面で幕府を追い詰めたが、実は統治面でも追い詰めた。明に降伏しているという点が重要なのだ。日の本は100年ほど前に2度の元寇を撃退した。その記憶がまだ残っているため武士達は「何で勝った俺達が大唐に降伏せにゃならんのよ?」と不満が噴出したのだ。因みに一般人は『明』と『元』の違いが分からない。

 特に問題となったのが『関東』である。何しろ直接元寇を撃退したのは関東武士団が中心だったからだ。明への降伏はこの関東武士団の誇りを大きくキズ付けた。

 このため関東武士団の足利義満評価は「ふぁっきゅー、ブチ殺すぞ、ゴミが」となった。また、鎌倉公方2代目足利氏満は足利義満との確執を深め、反幕府思想を持っていた。この両者が結び付き関東にデカイ爆弾が醸成されていく。

 この爆弾は4代目鎌倉公方足利持氏の頃に炸裂する。室町幕府に対して敵意を剥き出しにし始めた持氏を関東管領山内上杉家の上杉禅秀が宥める。だが、持氏は自前の論理展開で上杉禅秀にこう返答する。

「ふぁっきゅー、ブチ殺すぞ、クソジジイが。もうテメエの家に関東管領職はやんねー。ざまみろ」

 これに対して上杉禅秀は冷静に粘り強くこう説得した。

「ふぁっきゅー、ブチ殺すぞ、クソガキが。誰のお陰で広大な領地を経営出来てると思ってんだ」

 上杉禅秀の大変粘り強い説得?も虚しく両者は決裂。この後、関東戦国の幕開けとなる『上杉禅秀の乱』が勃発するのである。しかも反幕府の足利持氏側に幕府が付くとかいうグダグダっぷりで。上杉禅秀さんの「え?誰のせいでこうなったと思ってんの?」というコメントが聞こえてきそうだ。


 この様に足利義満は安定した治世を実現した様に思われがちだが、問題はかなり多かった。朝廷からは恐怖の大王の様に思われ、南朝側の武士からは悪魔の様に嫌われ、貿易利益にあずかれない諸武士からは蛇蝎だかつの如く嫌われ、関東武士団からはふぁっきゅーだった。息子である足利4代目将軍の足利義持が勘合貿易を廃止し、北山文化の殆どを破壊したのは、こうした不満層へのアピールがあった様に思う。父のやってきた事は間違いだと示した訳だ。

 まだ織田信長が足利義満になると決まった訳ではない。修正は十分可能というか、始まったばかりだ。だからこそ武家と公家の齟齬を解消出来る人物が信長の傍に居るべきだと忠正は確信する。


「北畠殿、どうか京の都に行ってもらえませんか?」


「そ、そうだな。行くべきなのは解る。だが……」


「具房殿とは私が話をしましょう。なに、彼も『南朝の士』。解ってくれるはずです。私は北畠家、木造家、田丸家の間に立って仲介します」


 北畠家中の事が気になる具教に、忠正は仲介を申し出る。木造家や田丸家と協議して北畠具房を説得するのである。千種忠正は三者共に初対面ではあるが、『南朝の士』という共通点があるので会って話くらいは出来ると踏んだ。


「それは助かる。済まないが頼めるか?」


「ええ、お任せ下さい。都の方はお願いします」


「心得た。……今日は君に会えて良かった。私の為すべき事が見えた気がするよ」


「北畠殿、お気を付けて」


 北畠具教は肩の荷が下りた様な表情で下迫城を後にした。それは大きな決断を下した者がする晴れやかな笑顔であった。


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「ふう、大変な仕事を引き受けてしまったかもな」


 北畠具教が帰った後、千種忠正は独り言ひとりごちる。これからの事を考えると少々荷が勝ち過ぎている様にも思う。忠正はついこの間まで小豪族に過ぎなかったため、大名相手の交渉などした事がないからだ。

 ああでもないこうでもないと一人悩んでいると不意に声が掛けられる。


「全くですよ」


「!?」


「殿もああ言う話をするなら人払いくらいして下さい。ああ、私が気付いて人払いしたので、私以外は聞いてませんよ」


「知房……聞いたのか?」


 声の主は千種家家老の大矢知知房だった。彼は聞こえてきた話のヤバさに気付いて、急いで陣の周りを人払いしていた。そして彼は誰も近づけない様に自分で見張っていたのだ。

 その事を知った忠正は覚悟を決めつつ、彼に問い質す。内容はもちろん南朝についてだ。どうか知房が利益だけで主義を変える者でありますようにと願いながら。


「薄い陣幕越しですからしょうがありません。それに北畠様の話はもっともだと私も思いますし」


「え!?そうなのか?私はてっきり……大矢知家は幕府側かと思っていたが」


「ああ、北畠家と幕府軍の戦いの時に、大矢知家が幕府方に付いた事ですか。殿はあの時、大矢知家がどんな目にあったかご存じで?」


「いや、あまり……」


「幕府軍に略奪されましたよ、思い切りね。その年は領民の3人に1人が餓死したそうです」


 大矢知知房が言う幕府と北畠家の戦いとは約120年前程に起こった雲出川の戦いである。足利6代目将軍・足利義教が明徳の和約を無視した事で北畠家が反乱を起こした。これに対し、幕府は土岐持頼、土岐持益、長野満藤、赤松満祐、山名持豊、仁木持長、一色義貫という当時のオールスター軍団を送り込む。大矢知家は地元勢力として幕府軍に味方した。

 だが、それなのに幕府軍は大矢知領で略奪を働いたのである。


「なんと……」


「私の曽々祖父ですかね。遺言状が残っていまして幕府軍の所業がありありと書かれています。沢山の恨み言と共にね」


 幕府軍が大矢知領で略奪を働いた理由。それは単純に兵糧が足りないからだ。何しろ遠征であるため食料が足らず、現地で補給するのが基本だからだ。敵地で補給する事は『孫子の兵法書』にも基本とされている。

 これは別に珍しい事ではない。遠征というのは地元ではない場所で戦うので、略奪するにしても他国だから遠慮がいらない。現代でも他国の軍が現地で暴虐を働く事はある。自分の国ではないから遠慮しないのだ。かの国が中東に何万発のミサイルを撃ち込んでも良心の呵責などないのと同じだ。

 だから他国から来た軍団は伊勢国で略奪を働いた。足りなければ現地の味方勢力からも取り立てただけの話だ。拒否されれば、圧倒的な力で強制収奪に及んだ。

 この場合、遠征しても略奪しない織田家が特殊なのである。


「あれを見て幕府に好感を抱く訳ありませんよ。足利尊氏の再来なんて冗談じゃない。北畠様には是非とも頑張って頂きたいです」


「そうだったのか。という事は千種家と大矢知家は同志だったのか。もっと早く気付くべきだったな」


「領地の係争があったので仕方ないかと。まあ、そんな訳でもう少しだけ私を信頼してくれてもいいですよ。その先は自らの働きで勝ち取りますので」


「ああ、頼りにしているぞ、知房」


「そうそう、大矢知家は田丸直昌殿と親交がありますので、取次ぎ出来ますよ」


「本当か、助かる!」


 大矢知知房は田丸家との交渉は可能だと申し出る。以前から付き合いがあるので繋ぎを取るくらいは出来ると。

 忠正は田丸家を足掛かりに交渉出来ると喜んだ。そして大矢知知房は家老として頼りになると認識を深めた。


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「ここに来て良い風が吹いてきたな。千種殿の協力があれば上手く立ち回れるかも知れぬ」


 北畠具教は数騎の伴を連れて上迫城に戻る。千種忠正と会えた事で己の道が開けた様に感じていた。そして具教は同志である千種忠正にもっと活躍してもらえる様にしなければとも考えていた。


「そうだ、千種忠顕公の官位を彼に授けられる様に交渉せねばな。たしか忠顕公は丹波の国司でもあったな。帝も『南朝の士』が復興した事をお喜び下さるだろう。『南朝の士』とは既に南北朝の敵対関係を指す言葉ではない。真に帝を支える武士を指すのだからな」


 この後、北畠具教は兵を家老の鳥屋尾満栄に預けて京の都に向かう。そして自身の家の事など忘れたかの様に、精力的に朝廷と織田信長の間を奔走する。その行動を信長は訝しく思ったが、朝廷の事情や文化作法に通じた具教は頼りになる存在でもあった。

 戦や内政に聡明な信長でも『都の力学』というものにはトコトン疎かった。簡単に言ってしまえば、公家達の言っている事が言葉遊びにしか思えない時が多々あるのだ。そんな時、具教が居れば公家の言っている事を武家が理解出来る様にしてくれる。朝廷の狙いなども合わせて解説してくれる。そういった役割に彼はなっていく。

 更には具教自身が剣術の達人として、信長やその側近達に稽古をつけてくれる様になる。一緒に修練に励めば顔を合わせる時間が増える。仲が親密になる。信長は具教の人となりを知り、信頼するのに然程時間は掛らなかったという。

 そして後に恒興は信長の横にいる人間を見て、大変驚く事になる。


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【あとがき】

本作最大のターニングポイントとなりますニャー。この重要さに比べれば、今までの歴史改変は些事と言い切れますニャー。

あとこの話は南朝視点です。

そしてこれは超ファンタジーですニャーーーー!!


べ「足利義満さんは皇位簒奪を目論んでいたという説がある」

恒「とんでもねーヤツだニャー」

べ「朝廷が持っていた祭祀権と人事権を取り上げ、息子さんの元服式を親王と同等のもので行った。そして自身は上皇の様に振る舞ったという」

恒「こ、これは確定かニャ」

べ「現在のところ、義満さんの皇位簒奪は否定されているけどね」

恒「これだけやっといてかニャ?」

べ「皇位簒奪となれば、息子さんあたりを天皇位に就ける事だと思うけど、その動きが無いんだ。対抗馬であるはずの天皇の子息(親王)に何もしてない。簒奪の意思があるなら濡れ衣着せて追放くらいするんじゃないかな?義満さんならそれくらい出来るだろうし」

恒「それはそうだニャー。じゃあなんでこんな事になっているんだ?」

べ「そこは妄想するしかない。という訳でべくのすけ論展開」


義満「ちょっとー、朝廷さん、お金使い過ぎだよー。もうちょっと支出減らしてよー。あんなに祭祀ばっかり要らないでしょー。もっと厳選してよー。ボクも文化活動にお金使いたいんだよー」

公家「善処するでおじゃる」(金集めるのがオメーの仕事だろがい、バーカ)

義満「官位も多過ぎだよねー。あんなに人要らんでしょー。そっちも考え直す様に帝に言っといてよー」(現代でいうところの議員数削減)

公家「伝えるでおじゃる」(誰が伝えるか、ボーケ。麿達の給料を削ろうとか有り得んわ)

後日

義満「アイツラ何もしねーじゃんよー。もう怒った、祭祀権と人事権は取り上げだー!」

公家「こ、これは皇位簒奪の動きでおじゃるー!?」


べ「こんな感じじゃね?」

恒「義満がまともに見えるニャ!?不っ思議〜。じゃあ義満が求めた『太上天皇』というのは?」

べ「それは尊号で死後に貰うものだね。天皇位にはならないよ。死後ならいいんじゃねという事で朝廷は認めたんだけど、お父さん大嫌い息子の足利義持さんにより辞退された」

恒「ニャるほど。しかしアンチ足利のべくのすけが足利義満を庇うとはニャー」

べ「誰がアンチ足利なのかな?」

恒「足利幕府をボロクソに書いてるじゃねーか。尊氏もボロクソだったしニャー」

べ「べくのすけの目線はいつもフラットのつもりだけど?足利尊氏さんは初代将軍だけど政治はほぼしてないよ。戦ってばかりだ。その後始末をさせられたのが2代目の義詮さんだし」

恒「破天荒な初代、そのツケを支払う2代目かニャー」

べ「例えば足利義輝さんは将軍として頑張った。でも暗殺されて可哀想。一般的なイメージはこうかも知れない」

恒「まあ、そんな感じだニャー」

べ「これを現代に例えよう。総理大臣になりました。でも閣僚から信頼されてませんので言う事きいてもらえないです。そうこうしてる間に経済は失策続きで各地で強盗が頻発してます。という事で辞める事にしました。……これを可哀想だというのかい?」

恒「それは非難轟々だと思うニャ」

べ「たとえ頑張っていても結果が伴わなければ批判される立場に彼は自らなったんだ。その責任は取らなければならない。それは義昭さんも同じ」

恒「だからボロクソに書く訳かニャー」

べ「失敗が多い足利将軍の中でも義満さんは比較的安定していたと言える。一応、南北朝を終わらせたしね。ただデカイ爆弾を残したのはいただけない。ヒントは関東」

恒「ああ、次の代で大爆発したニャ」


恒「朝廷の祭祀ってそんなに多いのかニャ?」

べ「多いよ。天皇の一年が祭祀で埋まるくらいに」

恒「それ、年がら年中じゃねーギャ」

べ「そうしたのは多分、藤原氏だね。こんな感じかな」


藤「政治を意のままにしたいわー。せや、天皇の仕事(祭祀)増やして忙しくしたろ」

天「祭祀が多過ぎて政治が出来ません」

藤「政治は摂政関白に任せてよ」(⌒▽⌒)


恒「おい、藤原」

べ「これが後の院政の温床にもなる。天皇位にいる間は政治が出来ず、上皇か法皇になってからやる様になるんだ」

恒「ああ、結局、摂関政治って長続きしなかったらしいニャ」

べ「家督争いでゴタゴタしたからね。院政がどんなものかは崇徳天皇の話を読むといいよ」

恒「崇徳天皇って怨……」

べ「それ以上は言わないお約束」

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