家康は京に行きたい

 織田家の軍勢が続々と集まる佐和山城。その城内の一画に織田家の家紋である『織田木瓜』ではない家紋を掲げる軍団が居た。掲げられた旗に描かれた家紋は『丸に三つ葉葵』、三河松平家の家紋である。この葵というのはフタバアオイの事で普通は二葉である。そしてフタバアオイの家紋を持っているのが賀茂神社で有名な賀茂氏であるため、松平家は賀茂氏の一族ではないのかとも推測されている。


「殿、このままではマズイですぞ」


「分かっておる。分かってはおるがなぁ」


 織田家の上洛に際し、援軍として駆け付けた松平家は既に窮地に陥っていた。佐和山城内に割り当てられた松平軍の陣内で当主・松平蔵人佐家康と家老である酒井左衛門尉忠次は今後の相談をしていた。……今後というか、ほぼ直近の話ではあるが。


「やはり織田家に援助を求めるべきではないでしょうか?」


「そうではあるが……。だからと言って面と向かって兵糧が足りませんなどとは言いたくないな。何か情けない感じになってしまう」


 その窮地とは兵糧不足。戦う前から松平軍では兵糧切れが予想されていた。その対策として酒井忠次は織田家に兵糧を求める事を提案している。彼とて体面の悪い事だとは思うが、だからと言って連れてきた兵士を餓えさせる訳にはいかない。頑なに渋る己の主君を説得していく。


「殿、この上洛は織田家の都合ではありませんか」


「それはそうなのだが」


「家臣の中には殿が織田家に気を使い過ぎだという者もおります。殿は大名家の当主なのです。もっと毅然とした態度を取るべきです」


 酒井忠次は家康にとって重臣中の重臣と言える。年齢的には家康より一回りほど年上で、血縁的には妻が家康の叔母なので義理の叔父に当たる。仲の良さは家康の駿河人質生活に付いて来た最高齢の家臣であり、家康にとっては歳離れた兄の様な存在である。

 だからこそ忠次は家康に直言できる家臣であり、厳しい事もズバッと言う。その言動からは織田家への不快感が顕わになっていた。

 今回の援軍要請に関しての呼び掛けはかなり雑であった。松平家に要請が来ると同時に、今川家には足利義昭から休戦の使者が出ていた。普通は松平家の返事を待ってから今川家に交渉すべきである。

 織田信長としては時間短縮したつもりなのだが、松平家臣は『休戦を世話してやったんだから援軍に来いや』と上から目線で言われていると感じていた。まあ、時間短縮というところからも、家康が断らないと思い込んでいる訳だが。

 それでも家康が戦いのために用意していた兵士をそのまま援軍にして出たので家臣から文句が出始めていた。殿は織田家の言いなりなのかと。忠次はそれを指摘している。


「そう言うな、忠次。我等が今川と対等以上に戦えるのは信長殿のおかげでもあるのだ」


「それはそうですが……」


「もしも織田殿との関係が悪化してしまったら、三河統一など夢のまた夢だ」


「まあ、岡崎を完全に空にして戦争出来るのも周りが全て織田家だからではありますが」


 とはいえ忠次も分かってはいる。松平家が今川家と対等以上に戦える理由が。後ろがほぼ織田家の領地なので全兵力を攻撃に出せるからである。

 もう一つ挙げるとすれば、まったく援軍に来ない北条家だ。これについては今川氏真が援軍要請していないだけかも知れない。松平家は今川家より規模が小さいのだから援軍など頼めないと。

 その上で今川氏真は北条家の援軍には行っている。結果、三河の今川方は見捨てられた様になっているため、三河制圧は順調に推移している。

 だが三河制圧が進むにつれ、別の問題が噴出して困ってはいる。松平家康はその問題から逃げたくて援軍を自ら率いてきたと言ってもいい。そして織田信長の佐和山城着陣より早く佐和山城に到着した。

 そう、美濃岐阜城の信長はまだ来ていない。なのに三河岡崎城の家康はもう来たのだ。出迎えた恒興は「うそーん」とコメントした。


「兵糧はいつもより多目に持ってきたはずだろう。何故だ?」


「当家基準では多目だったのですが、全然足りませんでしたね」


「うう、どうしよう……」


「正直に話す以外にないのでは?刈り働きが出来るなら、そこら辺から徴収してきますが……」


「それはならん。信長殿は刈り働きも焼き働きも全軍に禁止しておる」


「しかし、兵達を飢えさせる訳には……」


「……そうだ、織田家の知古に打診してみよう!彼なら他に知られず、上手く取り計らってくれるかも知れん」


 そこまで来て家康は彼の事を思い出す。以前に茶席を共にし、現状の佐和山城の責任者で自分を出迎えてくれた者を。彼なら家康の事情を上手く汲んでくれると期待したのだった。


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「松平様。この度は公方様の上洛にご参加頂き誠に恐悦至極ですニャー。お呼び頂ければ、こちらから伺いましたものを」


「ああ、挨拶程度だから気にしないで貰おう。池田殿には三河の出奔者の面倒を見てくれて感謝している」


「それで何かございましたかニャ?わざわざ城外の陣までお越しとは」


 池田家の陣は佐和山城内から城外に移っていた。何しろ既に4万近い軍勢が小城である佐和山城に集結したため、収容しきれなくなったのだ。松平軍は賓客扱いなので優先的に城内となっている。既に編成を終えている池田軍団は外で号令待ちをしている。現状、信長がまだ来ていないので防衛戦闘以外はしないが。


「えーと、その要件なのだが……」


(なんか言いにくそうだニャー。不都合でも起こったかニャ?こういう時は……)


 要件を問われて家康は周囲を見る。周囲にいるのは加藤政盛や飯尾敏宗といった家臣やその部下達である。その視線の動き方から恒興は察した。家康は人払いして欲しいのだと。

 こういう時にも恒興が身に着けているあの技術は役に立つ。


「そうそう、松平様。またお茶でも如何ですかニャ?以前、お気に召していた様なので」


「おお、それはいい。是非、馳走になろう」


 恒興の提案に家康はそれだ!という顔になる。要は恒興以外に聞かれたくないのだから、茶に招かれる事で自然と二人きりになれるのである。恒興は恒興で上洛後に公家の対応があるかも知れないので一式持ってきていた。


「では殿、私はここでお待ちいたしますので」


「そうですか。政盛、酒井殿の席を用意するニャー。粗相のない様にな」


「はっ」


「では忠次、少し行ってくるぞ」


「はっ、ごゆるりと」


(……池田恒興か。織田家の実質NO.2で勢力規模は我等と同等。てっきり殿の事を侮っているかと思ったがそんな事はなかったか)


 酒井忠次は織田信長の無礼な呼び付けは、織田家自体が松平家を下に見ているのではと疑っていた。故に恒興もぞんざいな態度を取るのではと思っていた。何しろ池田家は織田家臣でありながら、領地は松平家と同レベルなのだ。

 だが恒興から驕り高飛車な態度は一切見受けられない。織田信長が家康の事を侮っているのではという思いは少しだけ彼の中からは薄れた。


 恒興と家康は池田陣中にある小高い丘に登り、ここでお茶を用意する事にした。その場所は小高いので佐和山城に集う全軍が見渡せる場所でもある。そしてその奥の景色には大きな琵琶湖が背景となって雄大さを見せつけている。

 秋の終わりで少々肌寒いが天気は快晴で熱いお茶を頂くには持って来いな日和だ。お茶の準備をする恒興の横で家康は美しい琵琶湖を眺めていた。その目は遠くから来た旅行者と同じものだ。


「ふむ、こんな風に琵琶湖を眺めながらの野趣やしゅとは、何とも贅沢だな」


「たまたまではありますが、こういうおもむきも乙で御座いましょう。それでニャんか不都合がありましたか?もう誰にも聞かれる心配はありませんニャー」


「うん、あー、何というかだな……。我が軍もそのー、遅れては信長殿に失礼と思ってな、取り急いで来た訳で、えーと……」


(いや、信長様の方が遅れてるんですけどニャ。まったく、あの公方様にも困ったもんだニャー)


 信長が遅刻している理由、それは公方・足利義昭のせいだった。当初、信長は纏まった兵数が揃う第二陣で出撃する予定だった。だが恒興の要請で足利義昭の接待役・京極高吉が鎌刃城に移ってしまった。このため信長自身で足利義昭を接待せねばならなかった。

 そしていざ行かんというところで義昭はいろいろと注文を付け始めたのだ。足利将軍に相応しい軍装を整えよとか、各地の民に見せ付ける様に行軍して歓待を受けるとか、名馬じゃないと外にでないとか、雅楽や能が見たいとか。結果、各城主や豪族はかなり来ているのに信長だけ来ていないという事態になった。因みに家老の林佐渡と佐久間出羽も巻き込まれている。

 京極高吉を動かしただけで、ここまで被害が出るとは恒興でも読めなかったのだ。

 とはいえ、そちらは本題ではない。要は目の前の恰幅の良い男は何が言いたいのかだ。そちらは恒興も直ぐに気が付いた。


(ああ、ようやく分かった、兵糧が足りないんだニャー。ま、それも仕方ニャいか。ウチ以外に兵站を整えて遠征出来る大名なんて存在しないからニャー)


 戦国の大名の中で兵站を整えて遠征できる大名は数える程しかいない。それは織田家と武田家だけであった。武田家は今世では滅亡しているので織田家のみとなっている。……武田家が遠征兵站出来る事自体驚きであるが。

 大半の大名が兵站構築は出来ない、それは松平家(徳川家)も例外ではない。実は徳川家康は人生の中で自分自身で遠征した事が1回しかないのだ。その1回を『関ヶ原の戦い』という。大変有名な戦いである。

 その『関ヶ原の戦い』の前哨戦である会津征伐が遠征に当たる。この時、徳川家康は兵站及び、それに付随する行軍計画の構築に失敗。西国大名の多数が遅刻する破目となり、石田三成の挙兵に巻き込まれる事態となる。

 織田家のやり方をそのまま引き継いでいた豊臣秀吉にとって遠征兵站など当たり前の話で、各大名達は家康もそうするはずだと思っていた。その指示を待っていたら、関東までの遠征と兵站は自分達でやってくれと言われてしまったのだ。つまり何の計画も無く、いきなり現地集合と言われてしまった。これで遅刻せず来いというのは無理がある。

 それでも実戦経験豊富な大名は即座に動いたが、比較的若い、豊臣家の元でしか戦をした事が無い大名はかなりの遅刻となってしまった。徳川家に豊臣家と同様な兵站が出来ると思い込んでいたからだ。

 ただ、会津は家康の本拠地である関東の隣と言ってもいいので遠征自体は出来た訳だ。

 では、この時代の基本的な兵站はどうなっているのかというと、荷駄で運ぶ。それを戦場の近くの城や砦に運び込む。必要な分だけ計算して腰兵糧として持っていく。足りなくなれば兵糧を集めてある城や砦から補給させるのが基本となる。

 こうなると必然的に兵糧集積地の付近でしか戦えないのである。補給圏外に出てしまうとあっという間に飢える事になる。つまり大半の大名が他国に遠征など絶対に出来ないのである。最低でも現地に城や砦を1個は攻略、又は調略する必要がある。

 だが、これに当てはまらず他国に攻め入る大名もいる。その場合は攻め込まれた現地は地獄を見る事になる。兵站は無い、補給拠点も無いとなると、残る可能性が焼き働きと刈り働きによる強制収奪になるからだ。自前で用意出来ないなら現地調達せねば軍が維持できない。用意できてもやるヤツが多い事も否定できないが。

 織田信長は焼き働きや刈り働きの類を嫌っていた。それは占領地の商業や農業に大打撃を与えるからだ。占領地の民が従順であるなら、なるべく損害を与えずに従わせる事を念頭に置いていた。だからと言って兵士を飢えさせる訳にはいかない。飢えれば暴走する兵士は必ず出るし、刑罰だけ強めても意味はない。

 そして織田家は先代の信秀の頃から傭兵が多い。当然ではあるが、この傭兵が食料など持っている訳がない。というか、武器防具もない。だからこそ兵糧、武器防具をキッチリ揃えてやる必要があった。

 支配下豪族等があまり当てにならない織田家だったからこそ、兵站能力が磨かれた。最初から全兵力の食料を用意しなければならない。ここからどれだけ集めれば何日保つか計算出来るようになり、どういう運用なら大軍が維持出来るか計画出来る様になる。

 だからこそ織田家の軍政というのは、まず1カ所に集まる必要がある。そこで編成や行軍順番、経路などを確定し、それに必要な食料を荷駄で付いて行かせる。また、兵糧切れしない様に順次、補給を回す。本隊と連絡を取り合い、必要に応じて補給を回す仕組みになる。つまり大軍になると食料の大部分を信長本隊が持っているのである。この頃になると信長は殆ど前に出なくなるのは、自分の部隊に大量の荷駄隊が居るのでそうそう前に出られないという事情もある。

 近隣で戦う場合はそんな大仰な兵站など要らない。こまめに補給拠点から補給すればいいだけだ。だから徳川家康は終生、兵站など出来なかったのだ。織田家、豊臣家の元で遠征に参加していた時は兵站を任せっきりにしていた事を『関ヶ原の戦い』で露呈してしまっていた訳だ。

 そして晩年でもこの有様なので、若き松平家康に兵站が出来る訳がない。ここは近江国で、近隣に補給できる松平家の城などない。遠征にどれくらいの食料が必要かも計算出来ていないし、普段から荷駄隊を大量には使わないので持ってきた食料も少なかった。荷駄が増えると護衛に兵士を割かれるため、普段からあまり使わないのが災いしたのだ。


「これは大変失礼を。共に公方様を支えんと兵をお出しくださった松平様に苦労をお掛けする訳にはまいりませんニャ。すぐに荷駄の手配をさせます。気の利かない台所奉行は叱っておきますので、どうかご容赦の程を」


「あ、まあ、そんなに気にはしておらぬので手柔らかにな」


「しかし、三河からのお越しなのにとても早かったですニャー。信長様も驚いているでしょうニャ」


「あ、いや、何というかな。丁度良かったというべきか」


「?ニャにかありましたので?」


「池田殿も知っていると思うが、我が松平家は三河で戦争中だ。しかし西三河を制した後は苦戦が続いていてな」


 何となくではあるが家康の口が軽くなって来たなと感じる。お茶の効果なのか、頭の痛い問題が解決したためなのかは判別がつかないが。ただそこに松平家の素早い参陣理由がある様なので大人しく聞いてみる。


「今川家が反攻してきましたかニャ?」


「それもある。ただもっと問題になっている事がある」


「ニャんです?」


「松平家古参の家臣と東三河や奥三河の豪族の間でイザコザが起きているのだ。ちっとも収まる気配が無くて」


(うわっ、出たよ、面倒クサイヤツラだニャー。同じ国に住んでるんだから、少しは仲良くしろよ。……ま、それで仲良くできたら戦国時代なんかないか。でも、あそこはホント細かい事で揉めるからニャー。そしてその細かい事をいつまでも覚えてるし。もうちょっと保身とか融通とか考えてくれれば楽ニャんだけど)


 三河松平家は西三河での内乱を勝ち、東三河や奥三河へと兵を進めている。戦果的には順調と言える。だがその制圧事業が進めば進むほど見えてきたものがある。それが西三河の古参の家臣と東三河、奥三河の新規家臣との間で起こる権力闘争である。

 古参の家臣は彼等を従わせたい訳で頭を押さえつける。新規家臣はお前らに何の権利があると反抗しているのである。家康自身もこの仲裁に右往左往しており辟易している。

 簡潔に言うと、戦で勝った程度では人というモノは従ってくれないのだ。この従うにも理由が必要というのが『人間』というモノの面倒臭さである。確かに家康は戦で勝ったし多くの今川方豪族を降伏させた。この『降伏させた』という表現が悪いのかも知れない。実際は今川家を見限った豪族に味方してもらった、が正しい。だから言う事を中々聞いてもらえないのである。これを現状の家康が何とかしようと思うと多くの血を流す決断をしなければならないだろう。

 このまま古参の家臣と新規家臣の諍いが続けばその決断が必要になる。それがイヤで家康は国から出てきたのだ。公方様の要請に応えるんだからと理由を付けて。今川家も足利義昭の顔を潰すわけにはいかないので、三河に侵攻出来なくなる。家臣達も家康が居ないので大胆には動けなくなる。つまりは三河の諍いを燻っているだけの状態で止めてきたのだ。

 根本的な解決には何もならないが、家康不在の松平家臣と今川家からの調略が無くなった三河諸豪族は息を潜める様に大人しくなっている。

 この時間稼ぎで諍いが少しでも収まる様にしたいと家康は考えていた。現状、何も打開策は無いのだが。


「まあ、そんな訳でな。上洛に加わる事を条件に公方様が今川家との休戦を取り持ってくれたので渡りに舟だったのだ」


「ニャるほど、今は今川家に攻撃されたくないと。では上洛行は良かったと言えるでしょうニャー」


「まあ、時間稼ぎにはなる。少しは収まってくれればいいが」


「ニャーが言ってる『良かった』はそう言う意味ではニャいですよ」


「うん?ではどういう意味だ?」


「その三河の問題の根本は『松平家が舐められている』んですニャー。要は東三河と奥三河の豪族から何で松平家に自分達を支配する権利が有るんだって思われてるんですよ」


 話を聞いて恒興はその根本を見抜いていた。これは権利の問題なのである。

 例えばあなたが見知らぬ男に「俺のために働け」と言われ、給料から天引きされていたらどう思うのか?不当だと怒るのではないだろうか。

 もう一つ例えば、あなたが自分の子供に「養育して」と言われ、給料からそれを払っていたらどう思うのか?いや、普通だろ、ではないだろうか。もしくは、言われるまでもないか。

 この構図はあなたの給料から天引きしている点はどちらも同じである。違うのは『権利』なのである。見知らぬ男に金を出さねばならないはおかしい。彼には自分からお金を取る権利は無いのだから。だけど自分の子供なら自分のお金で守り育てる『権利』を有していると考える。親の観点からは『義務』と言い換えてもいい。

 現状の松平家は東三河や奥三河の豪族から『見知らぬ男』の様に思われているのだ。だからこそ松平家は『権利』を有する事が最善となるのである。


「う、それは……。しかし手の打ちようがな」


「権利が無いなら貰ってくればいいですニャー。これからその権利が貰える所に行くのですから。……お金、掛かりますけどニャー」


 人を、国を支配する権利などそうそう簡単に手に入らない……訳ではないのがこの日の本の歴史の恐ろしい所だ。あるのだ、国を支配できる権利を発行している場所が。そしてこの上洛行はそこへ向かっているのだから。

 そう、朝廷である。そこは官位という支配権を発行している機関でもある。実際に国の支配権を持つ役職は『守』が一般的で『守』が皇族しか任命出来ない国は『介』が最高位になる。織田信長が以前に名乗っていた『上総介』がそうである、自称ではあるが。『上総守』は皇族しかなれないので現地の支配者最高位は『上総介』になるという事だ。皇族は都から出てこないからだ。

 この任命さえあれば国の支配者になれる……という事はない。それが有効なら戦国時代など来てはいないだろう。一番必要なのはやはり『実力』である。根本として実力が無ければ、誰も話を聞いてくれないのだ。だからこそ三河一の実力者となった松平家康にはこの実力に添える権利が必要となるのである。官位とは実力があって、はじめて役に立つ代物なのだ。


「そうか、『官位』か!となると『三河守』あたりが適当だな」


「ただ改姓は必要だと思いますニャー。任官実績がない家だと任官までにお金と時間がとても掛かりますから」


『官位』を得るために改姓が必要……という事は別にない。だが資金を節約したい場合は中々有効ではある。

 過去に任官実績があれば、家督継承と共に官位も継承させてもらうという事が可能である。例えば飛騨の三木良頼は姉小路家を名乗って朝廷に認めてもらった。そこで姉小路家が過去に任官していた従三位参議の官位を得ている。従三位以上は公家の中でも高位の『公卿』になるため、一国人領主でしかなかった姉小路良頼は『公卿』となるのである。

 その『公卿』の称号が役に立ったかは議論の分かれるところだが。

 という訳で三河守が欲しいのなら、任官実績がある家名を探さねばならなくなる。


「それについては考えがある」


(ま、ここで『徳川』姓が出てくる訳かニャ。たしかそんな感じだったはずだニャー)


「松平家の祖である『世良田』姓を名乗ればよいのだ!」


「え?せ、世良田ですかニャー?」


「うむ、昔に世良田政親を松平郷で匿っていた事があって、松平家は彼の子孫なのだ。我が祖父・清康公も『世良田二郎三郎』を名乗っていたからな」


『世良田二郎三郎』には聞き覚えのある方も多いと思う。これは実のところ家康の祖父・松平清康が名乗っていた名前なのである。

 松平清康は戦の天才であり、その武略で三河国を席巻した。当然ではあるが当時の支配者である三河吉良家と対立、吉良家ではない支配者を立てて三河国の支配権を確立せねばならなかった。

 そこで出てきたのが『世良田氏』である。鎌倉時代、三河国は源範頼が治めていたが失脚。その後は足利家の支配下となる。その時に足利家から派遣されたのが『世良田頼氏』である。当時の足利家当主・足利義氏の娘婿に当たる人物だ。鎌倉時代は任官=支配者という考え方となるため、家康は彼が三河守に任官したと言っている。

 その後、世良田頼氏は失脚するのだが世良田家が消滅した訳ではない。南北朝時代では足利方として戦い、その後は南朝方として信濃国で戦った様である。世良田家が南朝方だった理由は判然としないが、宗家である新田家に義理立てしたか、例の兄弟ケンカに巻き込まれて進退窮まったかのどちらかである。

 ともかく世良田家は幕府軍に負けて一族が殆ど討ち死した。だが、当時10歳に満たない世良田政親は逃げ延びて松平郷で匿われたという経緯だ。

 家康の祖父・松平清康はこの世良田政親の子孫が松平家の祖であると主張したのだ。だから松平家は三河を支配できる権利があるという論理である。


(あれ?徳川は何処に行ったんだニャー?)


「あー、しかし頼れそうな公家に伝手がないな」


「あ、それなら山科卿を紹介しますニャ」


「おお、忝ない」


(うーん?どうやって徳川姓になったんだっけニャー?……まあ、いっか。松平家が徳川になろうが世良田になろうがニャーには関係ねー話だニャー)


 とりあえず恒興は考えるのを止めた。他家である松平家が何を名乗ろうが恒興には関係のない事だからだ。そして特に問題もないので山科言継を紹介する程度に留める。山科言継が取次をするかは分からないが、誰かしら公家を紹介してもらえるはずである。

 という訳で、この問題は公家に丸投げする恒興であった。


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 彼等、松平家の京の都活動については語らないので結論のみとさせていただく。まず松平家康の取次となった公家は近衛前久、関白に就任している公家中でも最高位の人物である。『戦う関白』としても有名である。

 何故これ程の高位公家が現状一豪族程度でしかない松平家の取次になったかは謎ではある。だが、この時期の近衛前久は関東から帰ってきたばかりでヒマだったという事もある。

 まず家康が言っていた『世良田姓を名乗って三河守』は失敗した。朝廷側に世良田氏の三河守任官の事実が確認出来なかった。昔に世良田頼氏が三河の支配者だったので、彼が三河守だと家康は思っていたのだが当てが外れていた。

 三河守任官が無理になった家康は近衛前久と協議した。そこで世良田支族『得川えがわ氏』(徳河、徳川でも可)に目を着けたのだ。源氏から藤原氏支流へ分流したのが得川氏という事に改竄し、『徳川』への改姓と藤原氏への本姓変更ともに従五位下三河守に叙任された。(藤原氏なら三河守任官は容易だったとおもわれる)

 これが『藤姓徳川家』になった経緯である。この三河守任官を以て、三河国の支配権を手に入れた。そしてここから徳川家による三河完全支配が進んでいくのである。

 因みに徳川姓は家康個人しか名乗ってはいけない事が条件になっている。だからなのだが、家康の長男である信康は徳川姓を名乗れなかった。因みに徳川家が大大名になってからはその制約も解消したと思われる。

 そして最終的に『藤姓徳川家』は……書物を改竄して『源姓徳川家』に変えている。


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【あとがき】


べ「どうして武田家は遠征兵站が出来るんだろう?必要ないのに」

恒「これも孫子ニャのか?」

べ「たしかに記述はあるよ。紀元前基準だけど」

恒「それで本当に兵站構築出来たなら孫子無敵だニャ」

べ「一応、現代でも通じる兵法書だからね」


恒「徳川家改竄ばっかじゃねーギャ!」

言「当然でおじゃろ。かなりの武家がこんなもんではないかの」

恒「あれ?山科言継卿?べくのすけは何処行きましたかニャー」

言「『ファンタジーですからー』と言いながら逃げて行ったぞ」

恒「あんにゃろー……」

言「そちとて摂津の領有権を主張するために『摂津池田家』を利用したでおじゃろ?」

恒「そ、それは~、遡ればですニャー」

言「一緒じゃ。家康は遡れば世良田、得川に辿り着くと言っておるのじゃから。もっとすごい例は飛騨の姉小路家じゃ。旧姓を三木家というのじゃが姉小路家との関係は全くない。だいたい三木家はただの国人の一つ。下剋上お得意の家名乗っ取りからの朝廷正式認定で本物の姉小路家となった訳じゃな。この程度麻呂達の手に掛かればお手の物じゃ」

恒「そう言えば津軽家もそんな感じでしたよニャー」

言「それは近衛卿じゃな。つまりはこんな事が徳川家康個人に出来る訳がないのじゃ。如何に権力者になったといえどもな」

恒「じゃあ、この改竄はやっぱり?」

言「ワシラじゃ。大名からの依頼を受けて記録を改竄し辻褄が合うようにしておるのよ」

恒「何故にそんニャ事を!?」

言「何故って、記録と違うからダメじゃと言い続けるのか?それで献金してもらえるのかの?多少、グレーな手法を使ってでも望みを叶えて気持ち良く帰って貰わねば金が出てこんではないか」

恒(やっぱり金かニャー!)

言「それに官位が売れれば売れるほど、大名は朝廷を維持せねばならなくなるのじゃ。朝廷が無くなったら官位も意味が無くなるからのう。この官位斡旋と出自改竄はだいたい戦国時代に多数行われておる。多少、出自が怪しい程度なら麻呂達で何とかしてやるぞ。だから献金献金献金!」

恒「うわぁだニャー……」

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