続・渡辺教忠くん奮闘記
秋に入った頃、近く出陣があると報された農村では忙しい収穫期を迎えた。
実った米を急いで収穫して脱穀まで漕ぎ着けようと頑張っている所が多い。既に織田家領内及び傘下大名豪族には上洛の報せが出ているからだ。時期は秋の終わりから冬とされているが、出来る限り急ぐ様にと命令が出ている。それ故、城勤めの侍達も頻繁に担当の農村に行き、農民を急かしている。
織田家関係の侍が忙しく走り回る中、犬山の侍は比較的余裕があるといえる。それは土居清良が作った『回転式扱き箸』の性能もあるが、それ以上に農民のやる気が上がっているのが大きい。つまり上洛という重要な戦で役に立って、褒美にあの『回転式扱き箸』を貰おうという事だ。
そしてこの動きは池田軍団の与力になっている豪族達にも及んでいる。……恒興が2、3台づつ無償で配ったからだ。
優れた道具や技術は人が使って初めて『優秀』であると言える。どんなに凄いモノでも人が必要としなければ『優秀』とは呼ばれないのだ。
例えば北極に冷凍庫を持って行っても需要は少ないだろう。外に出せば勝手に凍るからだ。この場合、北極に住む人々には凄い技術とは思われても、必需品ではないから要らないとなる。『優秀』な道具とは見なされない訳だ。
なので『優秀』とは大多数に認められて初めて『優秀』となる。恒興はその足掛かりを作って、『回転式扱き箸』を犬山の名産品にしようと考えたのだ。そして上洛を控えた織田領内の農作業終了を早めようとも画策している。
もちろん、岐阜にも持っていき信長にも献上している。この『回転式扱き箸』は信長にも絶賛され、開発者の土居清良は信長から太刀を拝領した。そこに他所者である清良を妬む声が上がるのも必然ではあるが、信長は黙殺した。また、清良は恒興の家臣であるため、手出しなどすれば恒興が出てくる事くらいは誰でも理解しているため実害は無かった。そして清良にとっても職場は犬山周辺なので、周囲の雑音は大して聞こえないのも幸いとなった。
ただ、信長から『回転式扱き箸』を大量生産するようにとお達しが出てしまったため、犬山の鉄砲生産が止まってしまったという欠点もある。これについては恒興自身も出しているので、信長のせいではないが。上洛戦では鉄砲の数より兵士数の方が重要視されている事に他ならない。何しろ多方面を制圧しなければならないので、兵士がいなければ占領もままならないのだ。
池田邸に勤めている加藤政盛と飯尾敏宗も忙しそうに恒興の私室に報告に来る。政盛は主に農作業の進捗状況を、敏宗はそれに伴う各農村の徴兵予想数を割り出していた。
ただ、その報告を受け取る恒興は何処か上の空であったのが二人は気になったが。
「……さて、どうしたものかニャー……」
「どうしました、殿?何か気になる事でも?」
「あー、いやニャ、鈴鹿山脈の麓辺りに反抗勢力が居てニャー。それを調べとったんだが」
「それは……こちらから攻め入る事は出来ぬので?」
「うーん、大義名分が無いニャー。まだ敵対でもないし」
戦国時代というのは名前から戦乱の時代と認識されている。だが、のべつ幕無しに戦争をしていた訳でもない。日の本の戦争には暗黙のルールが存在しているからだ。
その一つが『大義名分』となる。これは勢力が大きくなればなるほど必要とされる。この大義名分を整えずに戦争をした場合、傘下にいる豪族が離れたり、家臣の離反にも繋がりかねない危険な物と言える。
その場合、主君は理由もなく戦争をして財を奪い取ったと見なされる。つまりは自分の財も理由なく奪われる可能性が高くなる。仕えていては自分が危険と判断し、無闇に戦を起こす悪徳の主君を理由に離反出来るのである。上手く立ち回って同調者を増やし乗っ取る事も出来るかも知れない。
これが勢力規模の小さい豪族や国人衆ならそこまで問題にならない。規模が小さいため主君と家臣の距離が近く理解が得られやすい。また豪族や国人衆は大抵、近隣と揉め事を抱えているので喜ばれる場合すらある。
あくまで規模の小さい勢力に限る話だ。織田家の様な大大名では不可能な話であり、だからこそ恒興は頭を悩ます。
「なるほど、厄介ですね。上洛前だというのに」
「それニャ。時間が差し迫っているんだ。多少、強引でもやるべきかニャー。上洛前だからこそ、大義名分は整えたいものだけどニャ」
更に問題なのは位置である。鈴鹿山脈の麓という事は山脈の反対側は南近江、つまり六角家が居るのである。その場所は簡単に調略出来る範囲なのだ。もし千種家が織田家に対抗するため六角家と手を結んだら、それこそ目も当てられない。織田家の上洛すら不可能にしかねない危険な可能性を秘めているのだ。
だからこそ恒興は早急な対策に迫られていた。戦争にせよ、懐柔にせよ、時間がないのだ。それこそ攻め滅ぼしてしまえば一番話が早いのだが、そうなると危機感を覚えた惣が立ち上がり大規模な一揆に発展する危険もある。
故に恒興は思案に暮れる、何か切っ掛けはないものかと。
「鈴鹿山脈と言えば、教忠が刺青隊を率いて滝川殿の領地に行きましたな。山脈に人買いの隠し道があるとかで」
「何か良い情報を持ち帰ってきてくれればいいのですが」
「ハハッ、アイツがそんな珠かニャー」
「ははは、まあ、たしかに」
「まあ、これについてはもう少し調べてみるニャー。豪族なら何かしら脛に傷があるだろ。報告ご苦労だったニャ」
「「ははっ」」
恒興は政盛と敏宗の報告書は後で読むとして、二人を下がらせた。そしてまた思案に耽る。とはいえ問題としてはどうにかなる範囲だと恒興は思う。
答えは簡単だ、滝川一益を桑名城に残せばいい。彼なら千種家をはじめとする惣を抑えられるだろうし、こちらが南近江に侵入すれば六角家も援軍を回す余裕はない。
ただ問題になるとすれば……一益が信長から大目玉を食らう事であろうか。恒興から説得はしてみるものの、いざとなったら甘受してもらおう。
恒興はそんな風にも考えていた。
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渡辺教忠は刺青隊の部下を3人連れて山の中を探索していた。隊員の中に鈴鹿山脈の峠道を歩かされて売られた元小作人がいて、その者からの情報を頼りに探索していた。
小作人売買というのは鎌倉時代から始まっており、果ては江戸時代の吉原などまで連綿と繋がる巨大市場だ。この戦国期には暗黙的に常識化されており、人買いが小作人を連れて街道を歩くなどそれほど珍しくはない光景だと言える。自分達が法に触れた品物を扱っている事は認識しているので、多くはないが。朝廷や幕府が取り締まりをする中、何故そんな事が出来るのか?答えは簡単で地方の大名はろくに取り締まらないからだ。
小作人を求めているのは自分達だけでは田畑を管理しきれない大富農が主となる。この大富農は田畑を守るため、小作人を逃がさないために必ず地元の武装勢力と繋がっている。つまりは国人豪族である。そしてこの守り賃が国人豪族の大きな収入源になる。
そして大名にとって国人豪族は国の小地域支配の根幹と言える。このため大々的に手を打てず、人身売買を見逃さざるを得ない。もし大富農や国人豪族を取り締まれば、大規模な一揆は避けられない。
そしてここ、濃尾勢は水が豊かで平野であるため田畑が多い。小作人の売り先としては日の本最王手と言える場所だ。
そこではある変化が起こっている。池田恒興が編成した刺青隊による人買い商人摘発である。まず街道を歩いている人買い商人は直ぐ様捕縛された。
国人豪族や大富農ではなく、人買い商人を取り締まる事で一揆に発展しない様に図ったのである。だが小作人が減れば彼等は自ずと危機感を募らせるのでは?と思われるかも知れないが、そこには恒興の
この戦国期の情報伝達は殆ど商人のみである。地元から出ない国人豪族や大富農が独自に情報を仕入れるのはほぼ不可能である。このため人買い商人が来なくても彼等は「最近、小作人を売りに来ないなー」くらいにしか思わない。そして濃尾勢において情報を伝達してくれる商人は『津島会合衆』である。彼等と恒興の関係は今更語るまでもない。
更に海から運ぼうものなら、『九鬼水軍』が容赦なく襲い掛かる。実は彼等には信長から人買い商人は勝手に襲って財を押収してもよいという、ある種の『私掠免状』が出されている。
水軍衆とは漁師ではない、海賊なのだ。大名のお墨付きで襲えるのなら喜んでやる。……一応、漁業もやるし、運搬業もやる。護衛もやる。
ここでネックとなるのは、やはり運ばれてきた小作人の扱いだ。そのまま水軍衆に入れるのも有りなのだが、人数が多かったり、船仕事に向かないと受け入れにくい。
そこにも恒興が関わる。水軍衆で受け入れられない小作人は人手不足の犬山で引き取り、犬山で新しい仕事に就かせるのだ。そして恒興から水軍衆には礼金を出す仕組みになっている。
つまり水軍衆は人買い商人の財を手に入れ、小作人を届ければ更に礼金が出る。利益しかないのでやらない訳がないのだ。
このため濃尾勢には人買い商人に対する重度の情報封鎖が敷かれ、国人豪族や大富農は現状を把握する事も難しい状態を意図的に作り出されていた。
だがそれでも人は利益から目を背ける事が出来ない。人を買い付けたなら売り捌かなければならない。人買い商人達は道無き道を行き、濃尾勢への浸入を試みる様になる。そのため人買い商人は山の中の道を選ぶ事が多くなってきた。
渡辺教忠率いる刺青隊はそれを追って、滝川一益の領地である鈴鹿山脈に入ったのだが……。
「隊長、オラ達迷ってません?」
「ここ、どの辺だがや?」
「いや、迷ってなどいない!ここの尾根の向こうに道があるはずだ!」
「ほんとかなぁ」
渡辺教忠はそう宣言し、3人の部下を連れて山の尾根を登った。そして少し開けた場所にたどり着き、青々とした景色を一望出来た。その眼下に広がる一面の緑は雄大でありながら、どこか自然の懐深さを感じさせる。山の緑と空の青の境界線にいる、彼等はそんな感覚を覚えた。
そう、彼等はやりきったのだ、この険しくも美しい山の中で。ここでしか見られない風景にたどり着いたのだ。
彼等の顔にはやりきった自分への称賛と自信が浮かんでいた。これまでの苦労が吹き飛ぶ様な充足感に彼等は包まれる。
そして教忠が一言。
「……何処だ、ここ?」
……実は迷ってしまっていた。
「やっぱり迷ってますやん」
「遭難しとるがや!」
先程までの感覚は何処へやら、部下達は頭を抱えて遭難した事を嘆く。
「いや、待て。……あそこに村があるぞ!煙が見える!」
教忠が指し示す先には2、3本の煙が立ち上る。物凄く山の中ではあるものの人が生活している証である。その場所に行って飲み水の確保及び麓への道を聞けば、とりあえず遭難からは逃れられる。
「た、助かった~」
「隊長、あの村で麓への道を聞きましょう」
「いや、だから迷ってなどいない!ここまで予定通りだ!」
「もうええがや……」
迷っていないと主張する教忠に部下達は疲れきった顔で冷ややかな答えを返した。
鈴鹿山脈は南北に延びていて広い。このため、今回は数部隊で探索する方式を採用した。南側を渡辺教忠が、北側からは土居清良が指揮を採っていた。そして清良の部隊で人買い商人を捕捉、捕縛に成功した。例によって護衛をしていた乱波者には逃げられてしまったが。
その後、清良は捕まっていた小作人達を解放し犬山へと送って、教忠の合流を待っていた。……が、待てど暮らせど彼は現れなかった。南側に行った部隊は教忠達を除いて全て帰還しているのにだ。
その段になって清良は教忠が遭難したと判断、彼等が行ったはずの場所で痕跡を探していた。
「まだ見つからないのか、教忠は」
「すいやせん、ここら辺は初めてなんで迷ったのかも」
「ここら辺に来たのは間違いないはずだが。……ん、あった!」
清良は報告を聞きつつも歩いて、何かを探して木の幹を調べていた。そして木に付けられた人為的な痕跡を発見する。
「何がです?」
「木に三本線のキズ、教忠がよくやる事だ」
「はー、なるほど。流石は幼馴染ですなー」
「これを辿れば追い付くはずだ。こちらも迷わない様に、枝に布でも巻いておけ」
「へい、わかりやした」
「なんだかんだ言っても、お二人は仲がいいんだなー」
「ソコ、お喋りしてないで行くぞ!」
「「へい!」」
清良は痕跡のあった木を中心に、別の木に同じ痕跡がないか探させた。そして同じ痕跡を見つけながら進み、教忠の行方を探ったのだった。
教忠達は尾根を下り、煙が見えた場所へと向かっていた。鬱蒼と生い茂る木々の中にポツンと開かれた村が見えてくる。規模的に見ても10人から20人くらいの村だろう。山の斜面の僅かな平地を田んぼや畑にしている様だ。
その様子を見て、教忠は不思議に思う。何故、こんな不便な場所に村があるんだろうと。麓に続いているであろう道も木々に邪魔されて見えないくらいだ。こんな所に商人が来る事はないはずだ、余程の特産品でもないと。
この村は教忠がおかしいと思うくらいに閉鎖的な場所に存在しているのである。
「隊長、この村はもしかしたらヤベえかも……」
「どうした?」
「多分ですけど、ここは隠田村じゃねえかと……」
「俺も隠田村から逃げてきた口だから分かるがや。こういう所は大抵、国人豪族が経営してるんです」
「あれか?発見したら殺されるとかいう……」
一口に国人豪族といっても様々である。最初から地域に根差していて半独立勢力的な川並衆や津島商人のような者達もいれば、主家を失い野良化した武士もいる。こういう隠田村を経営している場合は大抵、野良化した豪族である事が多い。何故なら隠田村とは主家に対して税金逃れのために作られるからだ。
彼等とて最初から独立勢力なのではない。元々地元に居て家臣となったか、違う場所からやって来たかの違いはあるものの、昔は家臣として務めてきた。だが、度重なる戦乱で主家が衰退、又は滅亡してしまい、野良の豪族となった。
彼等は土地を支配する武家である以上、税金は安くなるべく自分の懐に入れたいものだ。
その結果がこの『隠田村』なのである。つまり主家に対して税金を払わずに済む田畑を作っているのである。
無論、それは違法であり見付かれば主家から罰せられる。見付かればの話だが。
なので見付けた侍は殺す。これを徹底している。主家を失っても尚である。
主家を失い独立勢力となってもコレを続けているのは、他に維持の方法を知らないのだろう。先祖が作り上げたシステムを守り続けた方が楽なのだ。
隠田村が違法である事くらいは彼等も認識しているので、大抵の場合は人目に触れない場所に作ってある。そして隠田村で働く者もまともな農民ではない。そう、ここには多数の『小作人』達が働かされ搾取されているのだ。
国人豪族は大抵、隠田村を経営しており、多数の小作人を管理している。だから『一向一揆』には有象無象の小作人が戦わされる。旗頭は寺でも主体となっているのが国人豪族だからだ。自分達の管理している小作人を駆り出してくるからだ。
その事実を認識して一行は青ざめる。この辺は滝川一益の勢力圏とはいっても、滝川家もかなりの寄り合い所帯である。もし彼等の利益たる隠田村を暴こうものなら織田家から離反も有り得る。
教忠は自分の行動一つで滝川家に、そして織田家の上洛に差し障る局面にいると分かったのである。
「……出来る限り、穏便にいこう。このままじゃ遭難確実だしな」
「分かりやした。気を付けてくだせえ」
という訳で慎重に村に近付いた教忠達だったが、鬱蒼と生い茂る草木に音を隠せるはずもなく、直ぐ様見付かり村人達に囲まれる事となる。
「待て!俺達はただ道を訊ねたいだけで……」
教忠は直ぐに事情を説明しようとするが、怪しい者と訝しむ村人達の警戒は消えない。教忠もこのままではヤバイと感じた。
その時、村人の一人が何かに気付いた様に声を上げる。
「むむっ、あれ?あんた、まさか……若?若様ですかい!?」
「何?お前は誰だ……いや、何処かで会ったような?」
「お忘れですかい、小吉ですよ。幼い頃一緒に遊んだ、ほら」
「おお、そうだ、小吉じゃないか!こんな所に居たのか!」
その村人は教忠の見知った者だった。彼が幼少期に一緒に遊んでいた幼友達であった。そしてあの時、少年時代の教忠の目の前で連れていかれた者達の一人でもある。
彼は人買い商人に連れられ、この北伊勢に来ていたのだ。
その後、教忠達は小吉の住んでいる小屋に案内された。この隠田村に来て7年程になる小吉は村でも長く居るので村人から信頼があり、教忠達も事なきを得た。
そして昔を懐かしむ様に彼等は話始める。
「若、本当にお久しぶりで」
「小吉、もしかしてみんな此処に連れて来られたのか」
「はい、他の者達も別の村に居ます」
小吉の話ではあの時連れていかれた者達は全てこの隠田村に売られたとの事だった。この様な隠田村が大小合わせて10村あり、それぞれ別の村に居る様だ。
「そうか、みんな無事なのか?」
「……」
「どうした?まさか……」
「権作のヤツは先月、与平と善蔵は去年に……」
「そ、そうか……くっ」
(俺の幼馴染みが3人も……。そう言えば小吉も他の奴等もガリガリに痩せてるじゃないか)
教忠は幼馴染みの死に涙するが、同時に気付く。目の前の小吉の痩せ細った体に。肉付きなどは殆ど無く、骨と皮のみではないかと思う程だ。
そしてそれは小吉だけではなく、他の村人も同様であった。
「小吉、お前達は大丈夫なのか?」
「俺達もいずれは、と覚悟してます……」
俯いて話す小吉の顔には既に限界の表情があった。彼はもう諦めていた。
「だったら俺の領地に来い、みんなで。今の俺は殿から自分の領地を戴いているんだ」
そんな小吉を見ていられず、教忠は自分の領地に来る様に言う。何も考えず、つい口に出してしまったが、教忠自身は妙案だと思った。自分の幼馴染み達を全員、領地に匿えばいいのだ。そう、主君である池田恒興の様に。
「無理ですよ、若。俺達は逃げられねぇ。麓に到る道は千種家に押さえられてる。逃げたヤツは見せしめに殺される。逃げれば残っている者達も痛い目に遭わされる。連帯責任だって。俺達だけ逃げる訳には……」
この辺の隠田村を支配しているのは千種次郎大夫忠正という。鈴鹿山脈の麓、千種城に本拠を構える国人豪族である。
この国人豪族が隠田村から麓に通じる道を塞いでいて、小作人の逃亡を阻止しているのだ。
そして逃げようとした小作人は追い掛けて、見せしめに殺す。また、逃亡を阻止出来なかった村人達にも連帯責任として体罰を加えるという。小吉は自分だけ逃げれば、残った者達が酷い目に遭う。そう言って教忠の提案を断る。
「それなら全員で逃げればいいんだ!」
「10村全員で200人くらいいるんですよ」
「う……200人か。いや、殿なら200人だろうが2000人だろうが」
全員で逃げればいいと主張する教忠も、人数が200人と聞いて尻込みする。彼の領地といっても既に領民は居るため、新規に200人も受け入れるのは容易ではない。
だが、広大な領地に新規開拓までしている恒興ならば楽に受け入れられる人数だと教忠は思う。
ただ問題は……恒興がまだこの事を知らず、教忠は許可を得ていない独断専行の状態である事だ。
少し躊躇う教忠に別の者から声が掛かる。
「あんの~、渡辺様にお客様が」
「は?こんな所に俺の客?誰だ?」
はて、誰であろうと教忠は思う。何しろ彼がここに居る事は誰も知らないはずである。客など来るはずもないのだが。
「私に決まっているだろう。まったく、何処で油を売っているかと思えば」
村人に促され姿を現したのは、別動隊を率いていた土居清良であった。彼は教忠の残した痕跡を追ってここまでたどり着いたのだ。
思わぬ来客に教忠は喜んで協力を依頼する。
「おお、清良。いいところに来た、手伝ってくれ」
「いきなり何だ?」
「この辺りの小作人を全員脱出させるんだ」
「は?」
「小作人の隱田村なんだよ、この辺は」
「……見れば分かるさ」
土居清良もこの村が何なのかくらいは察しが付いていた。民政に深く関わっている彼は山奥の隔離された村が何かは把握している。
そして彼にとっても、この村の存在は忌むべき物でもある。
「200人くらい居るらしいが、殿なら匿えるだろ」
「……お前、殿に許可を取ったのか?」
「いや、ここに来たのは偶然だったから……」
清良は教忠をじっと見返す。清良もこういう隱田村で行われている事は人買い商人並みに嫌っていた。
だが、それでも通すべき筋は通さねばならないと考えている。自分達の勝手な行動が主君の邪魔になってはならないのだ。
教忠の気持ちは分かるが、それでも恒興の許可は取るべきだと。
「……いいか、犬山に居る元・小作人達は自発的に逃げ出してきた者達だ。殿は逃亡にまでは関与していない。そこまでやるにはお題目が必要なんだ。最初から犯罪者確定の人買い商人を捕らえるのとでは訳が違うぞ」
「しかしな……」
「何の名目で手を出すんだ?下手を打てば危機感を覚えた大富農や国人衆が連合して大規模な一揆になりかねない」
「う……」
「まずは殿の許可を取れ。帰り道なら俺達が確保している」
清良に諭され教忠は納得せざるを得なかった。たしかに自分の一存のみで決めて、恒興の計画に支障をきたしてはならないと。
「分かったよ。小吉、俺は必ず戻ってくるぞ。気をしっかり持て」
「分かりました、若。若は昔から嘘だけはつきませんでしたし」
「ああ、戻ってくる。約束する」
小吉と約束を交わし教忠は元の山道を戻っていく。道には清良が括り付けたであろう布が巻かれていたので、今度は迷う事もなかった。
犬山に戻った教忠と清良は急いで恒興に報告する。隱田村がある事、小作人がいる事、全員を脱出させたい事である。
だが、それに対する恒興の反応は鈍かった。
「あのニャー、今の織田家は上洛前ニャんだぞ。要らん騒乱を起こす訳にはいかんだろが」
「はっ、申し訳御座いません……」
隱田村というものは珍しくない。基本的に国人豪族という存在は必ずといっていいほど持っている。現在、織田家の傘下にあっても尚だ。
流石にコレを大々的に摘発すると、せっかく傘下に収めた国人豪族が反旗を翻す事態に繋がりかねない。それは上洛を控えた織田信長にとってみれば、致命的な騒乱になる可能性を多分に含んでいる。
故に恒興もある程度は見て見ぬ振りをしているのだ。その対処は上洛を成功させ、もっと織田家の権力を拡大させてからだと考えている。
今は何はなくとも上洛を成功させねば話は始まらないのである。
だがそれが分かっていても教忠は諦める事はできず、恒興に食い下がる。
「と、殿!どうか俺達、いえ、俺だけでも行かせては貰えませんか!」
「いや、だからお前な、ニャーの話聞いてたか?」
「無理を言っているのは承知の上!どうか、どうか!2度もアイツラを見捨てられないんです!」
「むー……」
(どうしたもんかニャー。全てを捨ててでも行きそうな勢いだ。もう少し詳しく聞いて方策を考えてやるべきかニャー)
これまでになく必死な教忠を見て、恒興も考えてみようか悩む。このまま放置すると、もしかしたら教忠を失う破目になるかも知れない。それは避けたかった。
現在も拡大を続けている刺青隊の隊長として慕われている教忠を失えば、隊は機能不全を起こすかも知れない。
今回の上洛に刺青隊が出陣する事はない。留守中の治安維持と人買い商人を狩る事が彼等の仕事だからだ。
だが教忠を失い、隊が機能不全を起こしたら、恒興は別の部隊を犬山に残さねばならなくなる。それも上洛の不利に働いてしまうなと恒興は考える。
「バカを言うな、教忠。彼等を連れ出せば、国人豪族が出てくる。お前一人で千種家を相手にするつもりか?」
「だったら見捨てろって言うのか、清良!」
「ん?ちょっと待て、お前ら。今、何つったニャ?」
熱く言い合う二人の言動の中に聞き捨てならない単語が含まれていたので、恒興は二人に聞き返した。
それは今、恒興が最も頭を悩ませている事だった。
「見捨てる、ですか?」
「違う、その前だニャー」
「俺だけでも行かせてほしい?」
「その後ろ!」
「えーと、一人で千種家を相手に……」
「それだ!千種だと?千種次郎大夫か!?」
「はい。鈴鹿山脈の麓、千種城主・千種次郎大夫忠正で間違い御座いません」
「そうか、相手は千種家ニャー。それを早く言えよ、ふむ……」
そう恒興は呟いてニヤリと嗤う。その表情は二人から見ても邪悪そのもので、少し背筋が凍るものだった。
恒興は横に置いてあった小机を引っ張り出すと、筆に墨を着けて書状を書き出す。
「あ、あのー、殿、何を書いて……」
「政盛!」
「はっ、お呼びでしょうか」
「文だ、桑名城の滝川殿だニャー。大至急ニャ!」
「はっ!」
書き終わった恒興は教忠の問いには答えず、即座に加藤政盛を呼ぶ。桑名城の滝川一益に早馬を出して書状を届けるためだ。
「才蔵!六郎!」
「はっ、可児六郎、只今参りました!」
次いで親衛隊を率いる可児才蔵と可児六郎を呼ぶ。
……が、慌ててやって来たのは副隊長の六郎のみだった。
「……ニャんで六郎だけで来るんだ?才蔵は何処行ったニャ?」
「たぶんですが、馴染みの酒場に行ったのではと……」
「……まだ昼ニャんだけど」
「昼酒という事になるかと……」
「……」
「……申し訳も御座いません!」
才蔵はどうやらサボリで馴染みの酒場に行ったらしい。六郎の登用で少しは気が引き締まったかと思いきや、最近はまた緩んできている様だ。
恒興は溜め息をつきながらも、気を取り直して続ける。これを聞けば才蔵が飛んで戻ってくる事は分かっているからだ。
「ったく、アイツは~。まあ、いいニャー。六郎、才蔵を呼び戻して親衛隊を準備させろ。こう言えばすっ飛んでくるだろ、『戦』だと」
「ははっ、直ちに!」
命令を聞いた六郎は直ぐに城下に向かう。才蔵が行ったであろう酒場に向かって。
次に恒興は清良に向き直る。
「清良、鉄砲隊を招集して桑名城に入れ。以降は滝川殿の指示に従うニャ」
「はっ」
まず清良は鉄砲隊を率いて桑名城の援軍にする。滝川家はまだ経済的な基盤が犬山ほど出来ていないため、鉄砲自体が少ない。それをみこしての処置である。
そして恒興は最後、教忠に向き直る。
「教忠、村々の小作人を全員説得して脱出させるニャー」
「は、はい!」
「明後日の夜が満月だニャー。松明も点けずに道を走れるだろ。全員の面倒ならニャーが見てやる、家も畑も用意してやる。これで全員を決行までに説得しろ。いいニャ」
「はい、ありがとうございます!」
「教忠、励めニャー」
「ははっ!」
教忠は深々と頭を下げ、次の瞬間には走って行った。幼馴染みを助けられる事、主君に理解さるた事が余程嬉しかったのであろう。直ぐ様、馬に乗って駆けて行った。
それを見送った恒興はよっと腰を上げて自分の甲冑の準備をし始める。
(千種次郎大夫忠正。この一撃で終わらせてやるニャー)
この件は上洛を控える織田家、北勢を治める滝川家、そして上洛計画を練っている恒興の頭痛の種であった。下手に手を出せば、大規模な一揆に発展する可能性すらあり、恒興でも手をこまねいていた。
だが渡辺教忠が持ち帰った情報は上手く利用すれば大義名分化も出来るものであった。
家臣が持ってきた千載一遇の機会、逃してなるものかと恒興は気合を入れた。
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