土居清良の発明

 秋に入り、稲穂が色付く頃。犬山は例年より忙しい秋を迎えた。

 秋の終わりには出陣出来る様にと、犬山城主・池田恒興から各地の農村に指示が出ていたからだ。

 そんな中、犬山の絹織物生産も始まった事を土居清良は恒興に報告した。それと同時に聞き取り調査の報告もしている。

 調査の内容は足の腱を切られた女性達が何処から来たのかである。


「殿、報告は以上です」


「そうか、ご苦労だニャー。女達は全員、関東から連れて来られたのか。何処の国か分かるかニャ?」


「細かい村の名前までは判別がつきませんので。おそらく、武蔵国が有力かと思います」


 女性達の出身は大体、関東武蔵国に固まっていると見られる。武蔵国は関東でも指折りの人口と石高を誇るので、清良はその辺りだと目星を着けた。


「武蔵国……大体、北条家の支配地域か。北条家が人身売買をやっとる可能性はあると思うかニャ?」


 そして関東武蔵国は北条が大半を治める地域。

 恒興は北条家が人身売買を行っている可能性を考え始めるが。


「無いかと。北条家は税率『四公六民』を実現しています。場所によっては『二公八民』もあるとか。民を売っていたら、直ぐに破産しますよ」


「驚異的な低税率だニャー」


 恒興のその考えは清良に否定される。

 その理由は税率。北条家は戦国最安といっても過言ではない低税率を初代の頃から実現している。これが北条家の根幹を支える力とも言える。

 だからこそ北条家は豪族や大名家を乗っ取っているのだろう。低税率故に他をあまり受け入れられない、分け与える程の潤沢な税がない。そして北条家領内で勝手な取り立てを許す訳にもいかない。

 だからこそ乗っ取って制御の利く一門化をしていると思われる。


「じゃあ、攻め手である上杉家かニャ?」


「報告によれば上杉家は武蔵国最北と言える成田家の『忍城』を攻略出来ず、そこから南下していないそうです。それに上杉家はそもそも富貴では?」


「そうだニャー。かなり儲かる湊を幾つか所有してるニャ」


 上杉家は武蔵国の北端にある成田家本拠・忍城を攻略出来ず、そこから南下はしていない。ここを放置した場合、背後を脅かされるためだ。

 そして上杉家自体はかなりの富を持っている。特に『青苧座』(麻布の服)は全国的に有名で『青苧なら越後青苧』と言われるくらいである。これを北陸水運に乗せて、敦賀に向けて出荷している。

 この青苧こそ上杉家の主力産業である。元は京の公卿が仕切っていたが、上杉景虎の父親・長尾為景の代で押領した。


「ただ、あそこの豪族はかなり自分勝手と聞きますので、その線はあるかも知れません」


 たしかに上杉家自体は関東出兵で嵩む戦費を自前で賄えるだろう。だが傘下豪族達はそうはいかない。なので彼等が勝手に行う可能性は否定出来ないと清良は指摘する。

 そもそも彼等は家臣ではないので、その行動の抑制は難しい。更に言えば、越後で泥沼の内戦をしていたくらいなので、気に入らなければ攻撃する、逆らうという性格を未だに持っている。

 今は上杉景虎の武を信奉していても、事あらば簡単に統制から外れてしまうのだ。ある意味で越後国はまだ治まっているとは言い難い。


「ニャるほど。後は関東の大名や豪族が戦争捕虜として売り捌く線か」


「有り得ない話ではありませんが、関東の大名や豪族の大半が平安鎌倉以来という歴史持ち揃いです。人身売買なんて言う悪評を立てられて存続出来るものなんでしょうか」


 近隣の大名が他国の民を捕まえて売り捌く、所謂『戦争捕虜』の可能性もある。ただ関東に限ってはかなり昔からの名家がひしめいている特殊な地方であるため、可能性は低いと思われる。

 要は『人身売買をしている』という悪評を立てられて、そんな長い歴史が成立するのかという話だ。

 清良の返答に恒興は頭を抱えて悩む。


「……うおおー!ニャんだ、この手詰まり感は!」


「殿は関東にいる大名や豪族が怪しいとお考えで?」


「だって、そうだろ。『甲斐国の高坂』とかいうヤツが一人でやっているニャんて信じられんニャー」


「その『甲斐国の高坂』が誰なのか、どんな組織に居るのかを突き止めないと何とも言えませんね。やはりまずそこからかと」


 恒興は未だに『甲斐国の高坂』についての情報を集めてはいたが、その正体は様として知れなかった。そのために元になっているかも知れない大名や豪族の洗い出しを考えたのだが、結局は手詰まりである。


「はぁ、とりあえず考えるのは止めにしよ。でも何時の日にか帰してやれるといいんだがニャー」


「まあ、彼女達は皆、一時帰省を望んでいるんですけどね」


 恒興は帰りたいと望む彼女達を憐れむが、清良からは意外な言葉が出てきた。帰りたいというのは『一時的に』だというのだ。


「ん?どういう事だニャー?親元に帰りたいんじゃニャいのか?」


「ほら、殿が高い機材を買い与えたじゃないですか」


「まあ、そうだニャ」


「それによる稼ぎを手放したくないという者が全員でして」


 恒興は生糸生産と絹織物生産のために高額な機材を、彼女達に買い与えている。そこから得られる収入は農家として働いていた頃と比べて、遥かに高収入であった。

 また、仕切っているのが犬山城主という事もあり、それも安心感に繋がっている。恒興としてはキッチリ儲けているので、暴利を貪るつもりもないからだ。品質検査はしているが、要求水準を満たした品物に対する対価はちゃんと明記している。

 つまり出来た品物に対して対価を支払う『歩合制』を採用している。どれくらい頑張るかは彼女達任せとなっている。

 そして対価が見えているからこそ頑張っている者が多く、親元に帰りたいが仕事は絶対に続けたいと願う者達ばかりらしい。むしろ、親を連れてきてくれと言う者もいる様だ。


「……みんな、現金だニャー!」


「よろしいのでは。欲は人の生きる原動力ですし」


「まあ、そうだニャ。逞しいのはいい事だ」


「と、そうでした。殿に見せたい物があります」


「ん、ニャんだ?」


 そんな彼女達の様子に恒興は安心した。渡辺教忠が連れてきた時は今にも自殺しそうなくらい落ち込んでいると聞かされたからだ。

 清良の言う通りで欲は生きる原動力となる。それを持つ程になった事はいい事だと恒興も思った。

 恒興の様子を見た清良はこの件に関する報告を終了させ、新たな報告を始める。そして恒興にある物を見せるため、外へと促した。


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「……ニャんだ?この車輪は?」


 清良に案内されてきた場所は野原で、渡辺教忠が大きめの車輪と共に待っていた。

 その車輪は台座の上に乗せられていて、車輪中央部にある取っ手で回す様だ。更に車輪の接地面にはスパイク状に釘が打ち込まれている。

 とりあえず、この状態で車輪が使える訳もなく、恒興は何をするための物なのか見当も付かなかった。


「これは私が犬山の職人達と作った物で『回転式扱き箸こきはし』です!」


「回転式扱き箸?ニャんだ、それ?」


「百聞は一見に如かず。さ、この稲穂を持って試してください」


「フム、それでどうするんだニャ?」


「よし、教忠、回してくれ」


 恒興は清良から渡された稲穂を持って、台座に乗せられた車輪の前に立つ。そして清良は取っ手を持つ教忠に回すよう指示を出す。


「おおよ!そりゃー!」


「さ、どうぞ、殿」


「おお、そういう事か!この稲穂の先を当てるんだニャ!」


 車輪中央の取っ手が回る事でスパイク付きの車輪も回転を始める。これを見て恒興も何をするものか理解した。

 という事で、恒興は早速稲穂の先を車輪に当ててみる。


「ニャハハハハ!ニャんだ、コレ!籾が面白いほど飛んでいくニャー」


 当てられた稲穂はバリバリと音を立て、籾を落としていく。この回転式扱き箸は稲穂の籾を釘と回転力で削ぎ落とす道具なのである。

 恒興が持つ稲穂はみるみる内に籾が飛ばされ、ただの一本の藁だけが残される。


「ハァ、ハァ、ハァ」


「どれ、もう一本ニャー♪ニャハハ、楽しいニャ、コレは」


「でしょう」


 恒興は新しい稲穂を掴んで籾落とし作業を楽しむが、車輪を回している教忠は急速に疲れてきていた。

 何しろ取っ手よりも大きな車輪を回さねばならないため、力が要るためである。そして稲穂が当てられれば、それだけ負荷も掛かる。その上で車輪を回し続ける持久力も必要ときているので、渡辺教忠が既にバテ気味であった。


「ハァ、ハァ、ハァ。ま、まだ、回す、のか、清良!何時、まで、何、だよ!」


「ニャーが飽きるまで」


「殿が飽きるまで、だってさ」


「鬼か、アンタらぁぁぁ!!」


 限界が近い教忠に二人は鬼畜な返答で返した。

 結局、これは失敗の試作機という事でそこそこで作業を終える事になる。理由は回している人がすぐに疲れるから。


「しかしニャー、もっと幅広に出来ないかニャ。これだと効率が悪いと思うんだけど」


「ええ、私もそう思いますが幅を広げると負荷が大きくなって、教忠が死にます」


「俺かよ!ゼェ、ゼェ……」


 恒興は車輪の太さが稲穂2、3本くらいしかないのは不効率だと指摘する。だが稲穂の本数が増えるとその分、負荷が増えるので回せなくなるのである。

 なのでコレは失敗の試作機なのである。


「ですがこの度、改良品が出来たので、そちらもお試し頂きます」


「おお、かなり幅広になったニャー。よし、回すニャー、『教忠』!」


「また俺ですかー、殿ー!」


 清良は別の荷馬車に載せられた荷物を部下と共に降ろしてお披露目する。清良が造った新しい回転式扱き箸は台座の上に車輪が10個程重ねられており、かなり幅広な物となっている。


「教忠、安心してくれ。今度は踏むだけだ」


「お、こりゃいいや」


 前述で清良は負荷が増えると回せないと語っている。車輪が10個になれば、単純に負荷は10倍になって回せないはずである。

 それに対する清良の改善策こそ『踏む力で回す』である。

 一般的に足の力は腕の力の3倍以上あり、更に体重という力も一番加えられる。そして足の筋肉は持久力にも優れるので理にかなっているといえる。


「……この機構は、『くらんく』かニャー?」


「そうです!あの『繰糸機』に組み込まれた『くらんく』を利用してみたんです!」


 そして足で踏む往復運動を車輪の回転運動に変換しているのが、南蛮の最新技術である『くらんく』である。清良はあの繰糸機に組み込まれた『くらんく』を犬山の職人達と複製したのだ。

 渡辺教忠が踏む事で車輪が回り、勢いが付いたあたりで、恒興は稲穂を纏めて当ててみる。


「こりゃ、スゲー!まとめてバリバリ脱穀できるニャー!」


「でしょう」


 恒興が差し込んだ稲穂はバリバリと音を立て、籾を落としていく。籾は黄金の滴となり滝の如く、恒興の足元に落ちていく。恒興は先程よりも楽しくなってきて調子に乗って次々に稲穂を当てていく。


「ん?おい、教忠ー。速度が落ちてるニャー」


「いや、殿、そんな、事、言われても……。って、何時まで踏み続ければいいんですかー?」


 とはいえ、教忠の方は立った状態から、ひたすら踏み続けている訳である。流石に教忠も疲れてきて、回転式扱き箸の速度は段々と落ちてくる。腕で回すよりはマシでも、疲れがくるのは仕方無いだろう。


「ニャーが飽きるまで」


「殿が飽きるまで、だってさ」


「やっぱり鬼だ、アンタらぁぁぁ!!」


 疲れきった教忠に対し、二人は鬼畜な返答で返した。

 結局は教忠が疲れ果て、野原に倒れ込んで終了した。


「これで判った事は『便利だが一人では限界がある』ですね。いったい何人の教忠が犠牲になるやら」


「犠牲は俺だけなのか?俺だけなのか!?」


「改良するなら、体を支える取っ手があると楽になるだろうニャー」


「いいですね、それ。更に『くらんく』を両側に取り付けて複数人で踏める様にしましょう。これで力不足も補えます」


 今回の改良型の問題点はやはり力不足という点だろう。武人として鍛えている教忠であっても直ぐに疲れてしまうほどの体力を必要としているのだ。

 それに対して恒興は体を支えるための手摺棒を付ける事を提案する。教忠が直立した状態から足を上げて踏み込んでいたのが大変そうに見えたからだ。何か掴まれる場所があれば、もう少し楽に踏み込めると思ったのだ。

 そして清良も改善案を出す。『くらんく』を車輪の両側に付け、踏み板の幅を拡げて複数人で踏む事で、一人あたりに必要な力を減らそうという訳だ。


「よし、清良!犬山の鉄鋼職人と木工職人を総動員して大量生産するニャー!」


「鉄砲職人もですか?しかしそれは……」


 それを聞いた恒興は犬山の職人達に総動員令を発する事を決定する。対象は大工や道具類製造の木工職人と鉄砲や鉄器を製造する鉄鋼職人である。

 清良は戦に関わる鉄砲職人まで駆り出す事に戸惑う。彼としても優秀な鉄鋼職人である鉄砲職人達の助力は欲しい。だが、鉄砲の数も戦には重要なのだ。

 それ故、清良は返答に詰まったのだが、恒興はぶれない意志を即答で返した。


「構わんニャ、上洛が差し迫っているんだ。時間の掛かる脱穀作業の効率化は最優先にするべきだニャー」


 恒興の目的はあくまで『織田家の上洛』。これを最短距離で進めなければならないのだ。

 池田家には傭兵が少なく、主力は農民兵となる。なので出陣しようと思うと、農作業を終わらせないと兵士が集まらないという状況に陥りかねない。

 織田家の傭兵とは大体、信長も下にしかいない。なので織田家が農繁期でも戦えるというのは信長直轄部隊に限った話なのである。


「了解しました。早速取り掛かります!」


「出来上がったら、功績の大きい農村から配置していくんだニャ。そちらも任せるぞ、清良」


「ははっ!」


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 その後、清良は犬山の職人を総動員して『回転式扱き箸』を改良、試験、生産と忙しい日々を過ごした。新型の『回転式扱き箸』が完成すると、犬山で最も徴兵に応えている村を訪れた。


村長むらおさ、こりゃすげぇよ!脱穀があっという間に終わっちまう」


 その村ではこれから脱穀作業に入るところであったため、これは丁度良いと使い方を指導しながら試してもらった。

 その評価は上々であった。


「清良様、こんなえらいもんを頂いてしまってもいいのですかな?」


「この村は殿の徴兵命令によく応えてくれているからな。その褒美だと思うといい」


「ありがてぇ、池田の殿様が犬山に来てからというもの、昔が嘘みてぇに暮らしが良くなりますなぁ」


 恒興は犬山に赴任してから、産業育成に力を注いでいる。この辺は恒興の前世の経験がそうさせていると言える。

 前世ので恒興は京の都や堺に近い摂津国を治めていた時期がある。ここを治める過程で恒興は産業や流通の大切さを学んだ。そのノウハウを犬山に活かしているのだ。

 更に税率の引き下げもあり、犬山の農民の暮らしにも余裕が出てきた。その余裕分、市場にも活気が出ている。

 当然、その恩恵は犬山全体、いや周辺にも及んでいる。

 そして恒興が今取り組んでいるのは『米相場』の安定化である。戦国期の米相場の変動はかなり酷い、秋になると倍近く変動するのだ。

 なので恒興は常日頃から米を備蓄する事にした。市場から備蓄を買い込んでおく事で、信長の突然の出陣命令に応え、急な敵の来襲に備え、市場の在庫を減らすのである。無論、減りすぎれば供給もする。また、備蓄があれば飢饉の時にも対応出来る。

 通常、大名豪族達は戦の時にならないと備蓄を買い込まない。だからこそ後年の『鳥取城飢え殺し』が起こったのだ。秀吉が大枚を叩いて先に買い込んだため鳥取周辺から食料が無くなり、毛利方は備蓄が買えなかったからだ。

 当然、恒興はそれを覚えているし、敵がやらないとは限らない。そういう意味でも備蓄は必要と考えている。


「それもお前達がよく兵として働いているおかげだと殿は思われている。信長様の上洛は近い。よろしく頼むぞ」


「ははーっ」


 村人達は喜び、我先にと脱穀を進めていく。そして彼等は強く認識する、今の城主の命令に応えていれば見返りはちゃんと貰えるのだと。

 そこには恒興の徴兵命令は応え易いという事実もある。なぜなら村から兵として出した若者達がほぼ全員帰ってくるからだ。村ではこの1年、死者0人負傷者2人程度に留まる。「行って飯食ったら戦が終わった」と話す若者もいるくらいだ。村の老人達は「手柄立てて来んかい」と笑いながら返すのだが。

 というのも今の恒興は計略謀略を多用するため、戦は始まった段階で勝ち筋が見えているものが多い。そして恒興自身、兵の損失を特に嫌う。

 恒興が治める犬山は昔に比べてかなり発展した。恒興自身もそうなるようにと努力し、必要なものには投資を怠らなかった。有力商人達の助力も得て、犬山は尾張最大の商業都市・清州を凌ぐほどに成長した。

 それはいいのだが、そのせいで発生したものもある。慢性的な人手不足に陥ったのだ。なので農閑期には農家の若者が盛んに犬山の町で出稼ぎをする様になった。主に次男以下の将来的に田分けされずに家から出ていく者達が多い。

 この段階で農村に多大な人的被害を出したとしよう。何が起こるか、まずは農作業の遅れと生産高の減少だろう。そしてそれは食糧事情による相場変動も起こす。農閑期の働き手も減少する。この時点で恒興には不利益が多数ある。

 犬山の経済力なら他国から食料を買う事は出来る。だが織田家内であればいいのだが、他家からだと問題がある。それに頼るようになると、食糧供給を止められるだけで国が滅ぶからだ。だからこそ食料の自給生産は国の基本であり、これを怠る国は酷い未来と隣り合わせだと認識するべきだろう。

 だから恒興は兵の損失を嫌う。ここまで育ててきた犬山を崩壊させたくないからだ。

 とりわけ池田軍の前線には血気盛んな美濃者が出る事が多くなってきている。

『回転式扱き箸』という便利な道具を貰った村は清良とある約束をしていた。その村の脱穀が終わったら周辺の村にも貸出して欲しいというものだ。それに従い、受け取った村は周辺の村々に貸出し、『回転式扱き箸』の評判はうなぎ上りに上がっていった。そして周辺の村々では「羨ましい」「殿様の命令を聞かねば」「頑張って褒美に貰おう」などの声が多数上がったという。


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 ある昼下がり、恒興に来客が来た。桑名城主・滝川一益である。

 彼は恒興が見て分かるくらいに疲れた顔をして伴の者達と現れた。


「突然、済まないな、池田殿」


「そんな顔をして何かあったのですかニャ、滝川殿?」


 まず一益は突然の来訪の無礼を詫びる。その様子に恒興は一益が相当困っていると見た。


「実は上洛の派兵が上手く揃えられないかも知れなくてな。信長様に取り次いでもらおうと思って」


 一益の用件は織田家の上洛に際し、兵士が出せないというものだった。それを信長に報告する前に恒興から取りなして貰おうという事だ。

 だがそれは何よりもマズイ話である。

 織田家の一大事である上洛に協力を渋るなど、城主の座を取り上げられても仕方ないほどの失態である。恒興が取りなしても、信長の怒りは避けられないだろう。何しろ滝川軍は主力の一つとして戦う予定なのだから。信長の計画が大きく狂うのは間違いない。

 それに悩んで疲れた顔になっているのだろう、と恒興は見た。なのでまずは事情を聞く事にする。


「それはマズイですニャー。何か事情があるので?」


「鈴鹿の山々に『北勢四十八家』という『惣』があるのは知ってるか?その有力者である千種城主『千種次郎大夫忠正』がまだ恭順してないんだ」


 北勢四十八家。

 今でいう四日市、桑名、いなべ周辺の国人豪族の総称である。北勢地域とはこれらの国人豪族が群雄割拠していた場所で大名自体が存在しない。だからこそ滝川一益は簡単に桑名に入れたのだが、統治となると簡単ではなかった。

 因みに『四十八』とは多いという意味で、実際には五十三家ある。


「『惣』……、厄介ですニャー」


『惣』、これが戦国期を理解する上で最も重要な言葉である。

 そもそも国の支配形態とは大名が頂点に居て、その下に家臣や豪族が居る、そして民となる。これが基本だ。だがその基本が出来ている国などほぼ無い。

 何故なら民との間に高い割合で居る『国人豪族』という存在があるからだ。

 彼等は地域に根差した支配階級で、規模的には大きくても小豪族程度である。これが全国的に無数居る。

 そのような小豪族程度は大名の力で潰して回ればいいと思うだろう。現実的に取り込めない国人豪族は潰している。そんな現状は彼等とて把握している。

 だから『惣』を形成して団結するのである。力で押し潰してくる権力者に対して抵抗するために。

 そして彼等が団結して起こす抵抗運動を『一揆』と呼ぶのである。農民反乱を『一揆』と定義するのは江戸期からで、戦国期の『一揆』は全て国人豪族主導である、これを『国人一揆』または『惣国一揆』という。

 この『国人一揆』には特徴がある。頭がいないのである。勢力規模により優劣はあっても、参加している者は同志であり部下ではない。

 有力者は居ても意志疎通には合議を必要とし、国人豪族単位で勝手に動く事も珍しくない。

 また、部下ではないため自分の利益こそが最優先で近隣と揉め事を起こす困った存在でもある。あくまで巨大な勢力と戦うために団結するのが『惣』というものだ。

 現代の言葉で現せば彼等は『ゲリラ組織』である。

 戦国期の『国人一揆』の代表格は色々ある。加賀や紀伊、伊賀などが該当する。そして『北近江浅井家』もその一つなのだ。

 そもそも浅井家とは北近江の国人の一つで京極家に仕えていた。応仁の乱の後で京極家支配が揺らいだ時に、浅井長政の祖父・浅井亮政が国人一揆を主導し京極家を圧倒、北近江を制圧した。そしてその『国人一揆』の性質そのままに大名になってしまったのである。

 そのため重臣連中は家臣ではなく同志であり、浅井家当主というのは国人一揆同盟の盟主に過ぎないのである。自分達の利益が損なわれれば簡単に引きずり下ろされる程度でしかない。既に浅井家前当主・浅井久政は重臣達によって引きずり下ろされている。


「ある程度は取り込んだんだが、一番大きい千種家を中心に四十八家の半分近くが団結している。傘下に組み込む交渉は上手くいっていたはずなのに、急に態度を硬化させて話も聞かないんだ。おかげで全軍は出せないんだよ。隙を見せればどうなるか……」


「フム、分かりましたニャ。ニャーも探ってみましょう。どうにもならないなら信長様に報告を」


「助かる。一つ頼むよ」


 この『惣』にどう対処するかで大名としての未来が決まるといっても過言ではない。

 特に上洛戦をする織田家にとって、後方補給基地としての濃尾勢の安全確保は絶対なのだ。どうにもならなければ皆殺しも視野に入れなければならない。そんな覚悟を持たねばならない事に恒興は少し辟易としたが仕方ないとも思う。

 何しろこれは上洛時期を見誤った恒興にも責任がある。

 そういう思いを持ち、恒興は千種忠正の調査を進めるのだった。


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【あとがき】

恒「浅井家が大名ではなく惣国一揆……、またとんでもない持論展開したニャー。そろそろ偉い人に怒られるんじゃないか?」

べ「そもそも戦国大名って何さ?後世の我々が勝手にそう呼んでるだけじゃないかな?戦国期は正式に任命された守護大名を除いて、大きければ大名なんだよ。定義は無いさ」

恒「1万石以上が大名ニャのでは?」

べ「それが定められたのは江戸時代だね。検地すらほとんど出来ていない戦国期では自分の領地の石高を知ってる大名なんてごく僅かだと思うよ」

恒「ニャるほど」

べ「浅井家の成り立ちは間違いなく国人一揆が母体だ。という事はその一揆に参加した有力豪族は高い地位を得たと考えていいだろう。旗揚げ以来の仲間を高い地位に据える事はよくある事、というかそうしないと納得しないよね。べくのすけはそれが浅井家重臣だと見ている」

恒「自分勝手な利益を優先しているという事かニャ」

べ「その割には団結しているけどね、大名に見えるくらい。六角家という明確な敵がいたから。それが織田信長さんの上洛でいなくなった。敵を失った一揆は意味を失い、団結を失い始めた。敵が必要だ、さて…という妄想をしているんだよ」

恒「妄想かよ!?」

べ「この小説は100%妄想だよ!何言ってんの、今更!?」

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