近江調略準備 後編
秋が差し迫り、恒興はある人物を呼び出した。その者に任せている事の進捗次第で上洛戦の計画が変わってくるためだ。政盛からその人物が来た事を報告された恒興は、彼が来たのを見計らって障子戸を開けた。気を遣った訳ではない、放置すると面倒な事をしてくるからだ。
だが障子戸を開けた恒興の目に飛び込んできたのは、既にポージングをして待ち構えていた金森長近だった。
「友よ!待たせたね!」
長近は右手人指し指を天に突き上げ、左手を腰に、足はがに股の様なポーズを取っていた。顔だけ恒興に向け、ドヤ顔をしている様は、中々イラッとくるものがあった。
彼は恒興が先んじて開けてくるだろうと読んでいたのだ。前回の様に。
「……久々にやりやがったニャー、このやろう。最近、落ち着いてきたと思っていたのに」
「フッフッフ、若い娘に負けていられないからね」
長近は玄蕃ちゃんに対抗心を燃やしていたのだ。ポージング勝負で負ける訳にはいかないと。
とりあえずそんな勝負は無いし、玄蕃ちゃんのポーズはファンに向けたものなので意味は無いと恒興は思う。
「玄蕃ちゃんはそんなポーズしないと思うがニャ。ま、いいニャ。南近江の経過報告を聞こうか」
「8割方の豪族には賄賂をばら撒けたと思うよ。これで寝返るって者はいないけど」
現在、長近に任せている仕事は南近江の豪族に対する『賄賂バラ撒き』である。
南近江に残っている金森家の従者達は生活のために商売をやっている。それは昔の長近の給料は低かったので、一部は家臣に、大半が金森に残ったのだ。そして恒興に仕えて大加増を受け、約半数は家臣として召し抱えた。
今回、その残った半数を主に動かして『賄賂バラ撒き』を行っているのだ。
六角家の豪族がそんな簡単に織田家の賄賂を受け取るのだろうか?それはやり方次第だと言える。だから金森の者達が相応しい訳だが。
まず金森の者達が豪族に贈り物として賄賂を差し出す。この時に織田家の名前は出さない。出し渋る商人が多い中、積極的に賄賂を出せば仲良くなっていくのは当然だろう。金森の者達も「この辺で安全に商売が出来るのは○○様の武名の賜物で御座います」とでも言っておだてる。武名を誉められて悪い気がする武家はいないのだ。それに自国の商人から賄賂を貰って何が悪いとも考えるものだ。普段から関銭を取っている延長程度にしか考えない。
そうして仲良くなってから「実は織田家からです」と教えるのだ。
斬り殺されるのでは?と思うかもだが、ここが金銭の魔性とでも言うべきか。人はもたらされた利益を無視出来なくなるのだ。そして見ず知らずの人間ならともかく、既に仲良くなっていれば尚更、斬れないものだ。
そしてこれを知って狼狽える豪族などいない。家の存続、一所の保全のために敵と交渉するのは当たり前だ。その窓口が向こうからやってきただけという認識だろう。
基本的には六角方として動き、織田家が勝ちそうなら寝返ればいい。一般的に城を囲まれたら降伏しても仕方がないと見なされるのだから。
なので織田家が勝ちそうで豪族の城に迫ってきたら、豪族は挨拶に行って「誰々からお誘い頂きました」とでも言えば完了だ。
だが中にはいきなり斬り殺す人間もいるだろう。そういう人間には最初から近付かない。
「観音寺城近辺で受け取らなかったヤツはどいつだニャ?」
「鯰江城主・鯰江貞景と日野城主・蒲生定秀が受け取りを拒否したよ。あとは指示通りに『甲賀』には手を出してない」
「フム、そいつらは個別に対処だニャー。甲賀はいい、金森の者達が危険だニャ。ところで佐和山城の様子はどうだニャ?寝返りそうか?」
そして斬り殺さなくても、忠義なのか頑固なのか、賄賂を拒否という人間もいる。こちらは個別に対処する。交渉も拒否なら攻め滅ぼす事になるだろう。こうなると根斬り(皆殺しの意味)も覚悟しなくてはならない。
そして甲賀に至っては賄賂を持ち掛けた金森の者達が危険に晒されるので、最初から除外している。甲賀は手が出し辛い特殊な支配形態をしているからだ。なのでこちらも別対処となる。
そして話題は恒興が一番気にしている場所、近江路の関所とでも言うべき『佐和山城』の事になる。
「後藤高治かい?ダメだね。流石に暖簾に腕押し、家老の次男を寝返らすなんて無理だと思うよ」
「賄賂も効かないかニャ?」
「それは受け取ってるね。でもそれは彼の父親である六角家家老・後藤賢豊に織田家と六角家の仲を取り持って欲しいという依頼料に過ぎないよ。彼もそう思っている」
現在、佐和山城には城代として六角家家老・後藤賢豊の次男である後藤高治が在城している。恒興は彼に対して寝返り工作を仕掛けていた。
何しろ佐和山城という城の立地は近江路の南近江の入口なのだ。そこを攻略しない限り織田軍は南近江に入る事も出来ないからだ。そしてこの城を拠点として六角軍が展開する事も面倒なので寝返りという手段を取っている訳だ。
ただ長近は流石に無理だと思っている。六角家の柱石とまで言われる家老の息子なのだから。
後藤高治は次男なので家を継ぐ立場にはないが、将来的には分家の当主や豪族の婿養子になるだろう。つまり六角家での未来も悲観するものではないので不満も少ない。既に父親の権勢もあり、若くして城代に出世している。
長近は手応えが無い事を報告するが、恒興は気にした風も無かった。
「構わんニャー。受け取ってるなら交渉という選択肢が生まれる、双方にとってニャ」
「まあ、彼も満更ではないみたいだよ。役得くらいに考えてるんじゃないかな。結構な金額だしね」
戦国時代、大名や豪族への賄賂は常態化している。そもそも商人が払う上納金など賄賂と言って差し支えない。大名や豪族は税金の様な物という認識だろうが、多く払う者を優遇するのだから、それは賄賂になっている。
だからこそ地元で商売をしている商人から金銭を受け取る事を当たり前だと考えている豪族ばかりなのだ。そこに恒興が付け込む隙がある。
だからこそ金森長近が適任と言える。彼は美濃出身だったが親の代で勢力争い負けたため、南近江金森に移り住んだ。この時、付いてきた家臣達が生計を立てるために商売を始めたのだ。だが彼らも出来れば武士に戻りたいだろう。そのために長近の功績を稼ごうと必死になっている。
「それでいいニャ。金森の者達は予定通りにやってるか?」
「問題無く。それなりに
「それならいいニャー。はぁ、何とか間に合ってくれんもんかニャー」
「?何がだい?」
「内緒だニャ」
恒興はそう言って薄く笑った。
----------------------------------------------------------------
南近江国観音寺城・大広間。
この城の主である六角右衛門督義治は大声を出して、その提案に反応した。
「何っ!?織田家と和議を結べだと!?そう言ったのか、賢豊!」
「義治様、これ以上意地を張るべきではありません。織田家の兵力は想像以上です」
六角家の家老を務める後藤但馬守賢豊は頭を下げて主君に報告する。彼は上洛を目の前に控えた織田家との和平を提案していた。
「よく言う。足利義昭を捕らえようとしたのはお前だろうに」
「あの時はそれが六角家にとって最善でした。ですが今は状況が違うのです、織田家は空前の規模の上洛軍を編成しています。このまま衝突すれば南近江を大いに荒らす事になるでしょう」
以前に六角家を頼った足利義昭を捕らえる決断をしたのは、前当主の義賢である。その実行を指揮したのは後藤賢豊であるため、義治は賢豊が主導したと思っている。
それにも関わらず彼は織田家との和平を提案してきたのだ。それは織田家の上洛規模を知り、南近江が荒らされてはならないと考えたからだ。件の義昭捕縛未遂についても、義昭の方から許すと言われているのだから、交渉次第で何とかなると考えての事だった。
「足利義栄公を担いでいればいいだろう、次期将軍に決まったのだから。足利義昭の出る幕など無い」
「その足利義栄公は将軍に就任出来ていないではありませんか。公家共の露骨な嫌がらせが始まっています」
足利義昭を担いでいない六角家は足利義栄を担いでいる。征夷大将軍への就任が決まった足利義栄が本当の幕府将軍であるというのが六角家のスタンスである。このため三好三人衆とは擬似的な協力関係となる。
ただ問題はその征夷大将軍就任が公家達の露骨な妨害で延び延びになっている事だった。これを賢豊は認識したのだ。彼等は織田信長を待っているのだと。
だから賢豊は焦って和平案を持ってきたのである。このままでは自分達が担いでいる錦の御旗は意味が無くなると。
「……三好三人衆は武力を行使するんじゃなかったのか?何のために都周辺に展開しているんだ?」
「あれはただの脅しです。武力行使は最終手段、使えば悪名は避けられません。将軍暗殺ですら松永弾正に全ての責任を被せた奴等にそんな度胸がある様には見えませぬ」
現在、三好三人衆は京の都の南、宇治の辺りに展開している。その総数は一万人ほどだ。
これが朝廷への脅しには違いない。だが嫌がらせが始まっているにも関わらず、彼等は動く気配が無かった。
賢豊は三好三人衆が積極的に動くつもりが無い事を見切った。脅し以上の事をやって悪名を得るのが怖いのだと。だがそんな物に躊躇している様では織田家の上洛軍は六角領に侵攻してくる。故に賢豊は三好三人衆を見限るべきだと考えた。
それを聞いても尚、義治の顔は優れなかった。それではまるで六角家が恥知らずな変節漢ではないかと。
「……一戦もせぬうちから降れというのか、お前は」
「降伏ではありません、和議です」
「ご家老、義治様はそれでは降伏と変わらないと仰っておいでなのですぞ」
ここで義治の傍に控えていた男が発言した。彼は義治に仕える尾上兵部という。
「黙れ、兵部。お前の意見は聞いていない。惣領であるワシに逆らう気か?」
「グッ……」
兵部の意見は賢豊によって一蹴される。彼は義治の家臣であって賢豊の家臣ではない。だが兵部の尾上家は後藤家の分家であった。
そのため惣領となるのは後藤賢豊である。この場合、家臣でなくとも上下関係が定まっている。
「待て。兵部は私の家臣だ。暴言は控えよ」
「はっ、されど義治様、どうかご一考くだされ。ご命令頂ければ命懸けで織田信長と交渉して参りますので」
最後にそう言い残し、賢豊は広間から退席した。
後藤賢豊には織田家を説得する自信があった。それは既に織田家側から和議の申し入れがあったからだ。とは言うものの、それは織田信長の意思という訳ではない。犬山城主・池田恒興が打診してきた事、賢豊は次男の高治からその事を聞いた。
所謂、非公開の前交渉というものだ。だが池田恒興ほどの重臣であれば話も纏まるだろう。故に彼には織田家との和平を取り付ける自信があった。懸念される義昭捕縛の件も義昭自身が許すと言っているのだから、どうにかなると踏んだ。
そして彼はそれをわざわざ『命懸け』と言いながら提案している。その言葉の裏には自分にしか出来ない、自分こそが一番六角家のために働けるというアピールの様なもの。傲りといってもいいものが見え隠れしていた。
それは義治にも見えていた。賢豊が去った後で彼は腹立たし気に、床を踏みしめた。
「賢豊め、忌々しい!何が織田家との和平だ!」
義治にとって後藤賢豊の存在は鬱陶しいものだった。この思いは彼が嫡子であった頃から変わっていない。義治が六角家当主になる前からありとあらゆる事に口を出された結果だ。
以前にこんな事があった。義治は六角家嫡子として早い内に後継ぎをもうける必要があった。その義治には意中の娘がいて、彼女を正室にしようとした。だがそれに大反対したのが後藤賢豊である。彼は娘の家がただの豪族であると言い、六角家に相応しくないと反対した。
家中でも権勢が大きい賢豊が反対した事で、父親である六角義賢も認め、この話は流れた。
義治は悔しい思いだったが、仕方ないとも思った。家格というのは重要なのだ。六角家ほどの名家なら尚更だと。
だが義治はその後、尾上兵部から真相を聞いた。それは娘の家が後藤賢豊の息が懸かってないからだと。つまり後藤賢豊は自身の権勢を脅かす様な一族を中枢に近付けたくなかっただけなのだ。
そんな自分勝手な都合で恋心を潰された義治は賢豊を激しく恨んだ。それからというもの、義治と賢豊は事ある毎に意見を違える様になった。
「織田家の日の出の勢いを恐れて、後藤殿も日和ったのかも知れませんな」
「フン、あんな成り上がりの『越前の神官』共と何故、平安以来からこの近江を治める名家・六角家が手を結ばねばならんのだ」
「はっ、全く嘆かわしい事かと」
名家である六角家で育った義治にも名族意識という物が当たり前のように存在している。これも織田家との和平に反対する一因となっている。織田信長を下賤の成り上がりだと嫌っているのだ。
それは恒興が見切った通りの反応でもある。恒興はこの病気クラスの名族意識が邪魔をして、和平など実現しないと最初から解っている。その上で和平提案をしているのだ。
だが後藤賢豊の様な実利主義は乗ってくると踏んだのだ。その事で主君との仲が更にこじれると期待して。つまり賄賂を駆使した『離間の計』を仕掛けているのである。
そこまで見切れる人間は六角家には存在していなかった。
「大体だ、父上が隠居する前はそんな事、一言も言わなかったじゃないか。つまりアイツは俺じゃ信長ごときにすら勝てないって思ってるんだ。くそっ、舐めやがって!」
「……殿、実はある噂を耳にしました」
「ん、何だ?」
「どうも、佐和山城代である後藤高治殿の所に織田家の者とおぼしき輩が足しげく出入りしていると」
「何だと!?」
尾上兵部は佐和山城周辺で織田家の人間が動いているのを察知していた。それは織田家の動きを警戒しての事ではない。ある事情で後藤賢豊の身辺を探っていた時に偶然、知ったものだった。
「高治殿は最近、とても羽振りが良いとも。城代がそんなに稼げる訳がありません」
「当たり前だ、城代はただの代理、六角家領の代官に過ぎん。……そうか、賢豊め、息子を介して織田家と繋がっていたのか。手を込ませて発覚しない様に図っていたのだな」
「お命じ下されば、詳細に調べます」
「ウム、兵部、佐和山の件を詳細に調べよ。判り次第、賢豊を問い質してくれる!」
「御意!」
(フフフ、隙の無い賢豊の粗を探して佐和山を調べた甲斐があったというもの。これでヤツの失脚は必然だ。……お前が悪いのだ、賢豊。私を蔑ろにするから)
尾上兵部もまた、後藤賢豊を憎んでいた。事ある毎に惣領として命令してくる、彼を蔑ろにしてくるなど我慢の限界であった。
今回に至っても、兵部は後藤家の家臣ではないのに惣領権を振りかざし、意見を黙殺している。それは今回に限った話ではない。いつもなのだ。
大体、尾上家が後藤家から分かれたのは何代も前の話だ。それなのに何時までも宗家面しているのが気に食わないのである。
そのため尾上兵部は後藤賢豊の攻撃材料を探して、佐和山城も探っていたのである。
義治の命令も取り付けた兵部はこれで後藤賢豊を追い詰められるとほくそ笑んだ。
-----------------------------------------------------------------------------
【あとがき】
べ「うわぁ……、賄賂まで使い始めたよ。黒くなっていくなぁ、恒興くん」
恒「お前が言ってるのは『政経賄賂』の事だろうニャ。会社や個人が偉い人に贈って優遇措置を貰ったり、外交交渉を有利に進める為の所謂『ロビー外交』だったり。戦国の賄賂はそれもあるけど、別の意味もあるニャー」
べ「フム、それは?」
恒「一つは交渉の窓口を確保しておく事ニャ。賄賂を受け取ったヤツは外交のチャンネルを開かなきゃならない。これは城囲んだ後でも有効ニャんだ。囲まれた側だって交渉がしやすくなる効果がある。結果的に城は早期に落ちるかもだし、人死も少なくなる」
べ「なる程。受け取ったら無視出来なくなる訳だ。そう言えば伊勢攻略時の木造家と田丸家がそうだったね」
恒「あとは……『敵味方の識別』にも使うニャ。受け取らなかったヤツは完全な敵だニャ、容赦無く攻め立てる」
べ「敵の交渉すると見せ掛けて時間を浪費させる手を最初に潰しておくんだね」
恒「ま、ケースバイケースだがニャ。賄賂は受け取ると無視出来なくなる最強の手段の一つだニャ。越前なんか入れ食いだったぞ、何しろある国のヤツラのおかげで戦費が嵩んで困窮してたからニャー」
べ「うわぁ……」
恒「しかしあの騒動の前振りが出たという事はそろそろ上洛かニャー」
べ「うん、あと4、5話後に上洛開始かな。そこからは戦争の時間だー!(やっとかよ)」
恒「よしだニャー!では、張り切って……」
べ「別の話書くかー!」
恒「ニャんでだー!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます