近江調略準備 前編

「殿、南蛮の本に興味はありまへんですか?」


 夜に恒興の部屋を訪れた弥九郎は一冊の本を恒興に見せた。それは日の本では見た事がない綺麗な製本がされた物だった。


「弥九郎、突然ニャんだ?」


「実は『デウス』様の本とか、実家から持ってきとるんです。日の本言葉に翻訳されとるんですよ」


 弥九郎は恒興にキリスト教への興味を持ってもらおうとこの本を持ってきたのである。父親である小西隆佐についでだと言われた『恒興キリスト教改宗』計画を推し進めようとしているのである。


「ほー、翻訳本とは珍しいニャー。その中に南蛮の戦記物とかニャいのか?」


「うーん、僕は持ってへんです。父上なら色々持ってると思います」


「おお、もしかしたら『韋駄天いだてん』とかもあるのかニャー?」


「『韋駄天』ですか?仏神の?」


 韋駄天とは仏教における天部の仏神の四天王・増長天の八将の一神である。

 一般的には足の速い神として有名である。


「いや、仏神の韋駄天じゃなくて、元になった人物だニャー。たしか『イスカンダル』って言うはずだニャ」


 韋駄天の元はインドの神『スカンダ』である。これを音写して『塞建陀天』となり、『建駄天』と略記され、誤記によって『違駄天』となり、道教の韋将軍信仰と習合して現在の『韋駄天』となった。

 そして『スカンダ』の元がアラビアの『イスカンダル』であり、『イスカンダル』は『アレクサンドロス3世』、即ち『アレクサンドロス大王』の事である。

 彼はヨーロッパからは『東征の覇王』、日の本から見れば『西方の覇王』となる。ギリシャ圏の小国『マケドニア』からギリシア、ペルシア、エジプト、インドと一代で広大な帝国を築き上げた征服王である。享年32歳なので驚異的なスピード征服と言える。韋駄天が『速い』というのはここから来ているのかも知れない。

 恒興は前世においてこの人物の存在を知り、ずっと伝記を読みたいと思っていた。しかし恒興にその情報をもたらした南蛮商人は日の本言葉に翻訳された本を持っていなかったので諦めざるを得なかった。

 そのため、小西隆佐なら翻訳本を持っているかもと期待したのだ。


「『イスカンダル』ですかー。今度、父上に手紙出しますんで、探してもらえんか書いときます」


「頼むニャー。楽しみが増えるニャー」


「それはそうと『デウス』様の本はいかがですか?」


「それはまた今度ニャ」


「ショボーン」


 こうして弥九郎の『恒興キリスト教改宗』計画はひとまず頓挫した。


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 恒興は白井浄三と囲碁の対局に臨んだ。

 これまでの成果か恒興はいつも以上に手応えを感じ、碁石を打っていく。今日こそは一勝を掴んでみせると意気込んだ。

 そして……。


「甘い、甘いねぇ、弟子さんよ。ほれっ」


「グハッ、……こ、これは投了……です……ニャー」


 ……負けた。いつも通りに。


「か、勝てん、どうなってんだニャー」


「だが碁力は上がってるぜ。相手してるワシが言うんだから間違いない」


 結局、いつも通りではあったが、負け幅は少し縮まっていた。そこは浄三も認めていた。

 相手をしている彼も恒興の成長を感じていた。


「ま、囲碁の講義も暫くお預けにしようと思うんだわ。ワシも少し動こうと考えている。許可貰えるかい?」


「ニャーは先生の行動を縛る気は無いですニャ」


「ところが、ところがよ、許可の要る話なんだわ、これが」


「ニャんです?」


「松永久秀を説得してくるんだよ」


 浄三は大和国を本拠としている松永久秀を説得して、織田家側に引き込むとの事。松永久秀は現在、多聞山城で三好三人衆及び筒井家と戦っているが、援軍は無く苦戦を強いられている。

 その松永久秀にとっても織田家は『敵の敵は味方』となるだろう。

 ただ、恒興は松永久秀の名前を聞いて、渋い顔をする。


「え!?いや、それはですニャー……」


(アイツ、胡散臭過ぎていらニャいんですけどー)


 恒興にとって松永久秀は裏切り者の一人である。役に立った面も確かにあったが、最終的には敵となったので引き入れる気はなかった。

 彼が役に立った場面も恒興がやればいい事だからだ。

 だが、恒興の計画に齟齬が発生した事で、事情は変わったと言える。


「織田家の進軍路は近江路、そして三好三人衆は都付近に展開している。ヤツラの迎撃地点は何処になるよ?」


「……『瀬田』、そこ以外は有りませんニャー」


「そう、京の都は守れるのは琵琶湖の南岸『瀬田』しかない。あそこに展開されるのは面倒だぁな」


『瀬田』、ここはあらゆる戦いの舞台となった。特に有名なのは『治承・寿永の乱』の戦いの一つ、源義仲vs源義経・源範頼の戦いだろうか。

 この戦いでは源義仲が都を防衛するため宇治に500、瀬田に300で布陣した。これに対し瀬田方面から源範頼軍30000、宇治方面から源義経軍25000が襲いかかった。オーバーキルにも程がある。

 結果は源義経が宇治を突破して勝利した。……が、何と源範頼はたった300人に抑え込まれたのである。結局、源範頼軍が瀬田川を渡ったのは、宇治突破の報を聞いて義仲軍が逃げ出してからだった。

 それほど『瀬田』は防御が堅いのである!(範頼くんの指揮能力が~とか言ってはいけない)

 今回の上洛では宇治方面には回り込まないため、必ず瀬田方面を通る事になる。


「だから松永のオッサンには摂津や和泉方面で陽動をしてもらう。そうすりゃ三好三人衆は兵力を分散させなきゃならなくなる。まともな頭がありゃあ、戦線縮小して都は放棄するだろ。京の都ってえのは防衛力が皆無だからな」


(ううー、結局アイツを味方に引き入れないといけニャいのかー)


 変わってしまった事情、それはタイムリミットである。織田家の上洛は足利義栄が京の都に入り即位式を行ったら失敗となる。そのため早期に彼等を打ち払い、都に入らねばならないのだ。

 現在、山科言継を主とする公家達が遅延に動いているが、長くは保たないと言われている。

 この場合、三好三人衆が瀬田に陣を布いて迎撃してきたらという話だ。起こりうるのは織田軍の長期足止め、それが叶わなければ短慮を起こした三好三人衆が京の都に焼き討ちを掛ける可能性すらある。彼等を都から引き離す策は非常に有益と言わざるを得ない。

 恒興も渋々納得するしかない。


「殿、信長様の速やかな入京のためだぁな。許可頂けるかね?」


「はぁ、了解ですニャー」


「じゃ、早速行ってくるわ。次、会えるのは上洛後だぁな」


「気を付けてくださいニャー」


 恒興は都の安全を確保するためには、松永久秀を引き込むしかないと判断した。彼に三好三人衆を引き付けてもらい、速やかに信長が入京するのが最善と見たのだ。

 おそらく三好三人衆は六角家がある程度、織田軍を足止めすると睨んでいるだろう。

 六角家ほどの大名なら織田軍が如何に大軍であっても持ちこたえる。何しろ六角家には二度の幕府追討軍を撃退した実績があるからだ。それが『長享・延徳の乱』という二度の追討軍だ。長享の乱は『鈎の陣』としても名高い。

 六角家は鈎の陣でゲリラ戦術を駆使して勝利。延徳の乱では壊走する破目になったが、粘り強い抵抗で結局は全て取り戻した。

 この実績があるからこそ、三好三人衆は六角家を当てにして松永討伐を優先すると思われる。

 そのためこの陽動は成功率が高い。


(利用した様でスマンね、殿。ワシはあの方を助けたいんよ。長慶様の後継者を)


 そんな織田家の都合とは別に、浄三には叶えたい事があった。それは現在、松永久秀と共に戦っているある人物を助ける事であった。

 彼を助ける事で浄三は三好長慶から受けた恩を返したいと思ったのだ。

 彼はそれを為す事で真の意味で、恒興の家臣になろうと決めていた。


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 その後、恒興はある男に会うため、菩提山城に来ていた。そこには木下秀吉が居て、恒興を出迎えた。


「お、池田殿、久し振り」


「よぉ、城無し城主。久し振りだニャー」


「それを言わないでくれー!」


 墨俣城主・木下秀吉は『城無し』になっていた。この夏の増水により墨俣で大氾濫が起きたため、墨俣城はそのまま海に向かって移動していった。今頃は海底だろう、バラバラになって。

 そして秀吉は堤防が決壊する前に墨俣城から逃げた。それで竹中家の菩提山城に居候しているのである。


「大谷殿がしっかり堤防を造ってくれないから」


「藤吉、お前なぁ。休伯は最初から無理だって言ってただろうが。墨俣は長良川に木曽川がぶつかってる地点だニャー。水量が多過ぎるんだ、どんな堤防も乗り越えられるとよ」


 問題は堤防の性能などではない。単純に水量が多過ぎたのである。更に大谷休伯の堤防により他の木曽川流域で洪水は起こっていないため、水量の分散は起こらず、100%の力で墨俣に向かって来た事も災いした。それが増水した長良川と合流したため、とんでもない水量となり墨俣の堤防は簡単に乗り越えられたのである。

 まあ、墨俣に住んでいたのは秀吉達と川並衆なので被害は墨俣城のみだが。


「ううう、俺の城がー」


「お前だって、それ知ってたから楽に避難出来たんだろニャ」


「俺の領地はどうなるんだろう……」


「休伯は一応、信長様に工事計画書と費用の予想試算、予想工期を割り出して報告したニャー。それを見た信長様は真っ青になってたニャ」


 休伯が信長に提出した計画書は堤防造成ではなく、木曽川の水量分散と川の進路変更であった。木曽川に支流を幾つか造って水量を分散し、灌漑用水に利用する事。木曽川の進路を南に曲げて、長良川との合流を現在の『T字』から『Y字』にして流水の力を受け流す事だった。

 ……だが、それは運河を造るに等しい計画であった。つまり国家プロジェクト級の計画である。それに掛かるであろう費用、人員、期間は壮大な物となる。とても上洛という一大事業を控えた信長はGoサインを出さなかった。このままでも被害は農地が一つも無い墨俣だけだからだ。


「え?という事は……」


「ニャーが思うに、あのままじゃね?」


「そんなー!?」


 秀吉は泣き崩れた。

 とりあえず恒興は放っといて、目当ての人物に会いに行く事にした。秀吉がこの程度でへこたれないのは知っているし、墨俣の件は大谷休伯が匙を投げた以上、恒興に出来る事はないからだ。

 そして恒興の目当ての人物は城の広間で待ち構えていた。

 そう、この菩提山城の主・竹中半兵衛重治である。これが彼と恒興の初顔合わせであった。


「ようこそいらっしゃいました、池田殿。私が竹中半兵衛重治で御座います」


「犬山城主・池田勝三郎恒興だニャー」


「お噂はかねがね聞いております」


 城主の座に座る線の細い青年はニッコリと微笑んで恒興を迎えた。

 恒興がここに来た理由は他でもない、上洛準備のためだ。その準備のために、この菩提山城にやってきたのだ。また、竹中重治との顔合わせをしておこうという目的もある。

 そういう訳で恒興は早速、本題に入る。彼との話は上洛進路上に存在する豪族の事だった。


「秋の終わり頃になるだろうが、信長様は上洛軍を発せられるニャ。それに合わせて堀家が寝返る様に工作して欲しい」


 その豪族は北近江坂田郡鎌刃城の堀家である。関ヶ原を抜けた辺りから佐和山城辺りまでの支配地域を持つ大豪族である。つまり彼等が北近江の近江路を殆ど塞いでいる存在なのだ。

 なので上洛するには彼等の領地を通行する必要がある。恒興はその堀家の寝返り工作を依頼しに来たのだ。


「私が堀家を寝返らせるのですか?少々、荷が勝ち過ぎているやも知れませんよ?」


「そうか。では、火の海に沈めて進むニャ。それでいいかニャ?」


 そんなはずは無いと恒興は確信している。

 何しろ浅井家から離反させたのも、六角家に付かせたのも、その堀家を懲罰に来た浅井長政を撃退したのもこの竹中重治なのだから。絶対に堀家とは深い関係にあるはずだと。

 それを聞いて重治は薄く笑う。


「フフフ、冗談ですよ。堀家寝返りの件、確かに承りました。ですが条件は有ります」


「ニャんだ?」


「堀家は元々、浅井家の傘下でした。これが織田家に寝返れば、浅井長政は必ず抗議してくるでしょう」


 元々は浅井家の支配地域であった場所が織田家の物になれば文句の一つくらいは言いたくなるだろう。信長がそれに付き合う必要性は皆無だが。

 だがその程度で領土が諦められるなら、人間は戦争などしないだろう。

 竹中重治はその場合、浅井長政と戦う事になると示唆しているのである。


「浅井家が上洛中に牙を剥いてくる事はないニャー。大体、上洛軍は大軍だ、牙を剥くなら……」


「上洛直後か、上洛失敗時か、ですね」


「失敗などせんニャ」


「では上洛直後でしょう。その浅井家対処に木下軍団を加えて欲しいのです。これが条件となります」


 竹中重治の条件は木下軍団を近江経略に加えて欲しいという事だった。

 それはつまり近江経略を任された恒興の指揮下に入る事になる。


「木下軍団の決定権を持つのは藤吉であってお前じゃないニャ。藤吉は何て言ってるんだニャ?」


「そちらも私が説得します。殿も功を立てて新しい領地を貰いたいでしょう。何時までもこの狭い菩提山城に居候していたくはないでしょうし」


「それは木下軍団が池田軍団の指揮下に入るって事だぞ。ニャーは近江経略の責任者ニャんだから」


「勿論です、従いましょう」


 恒興はこれ以上なく重治が胡散臭く見えていた。普通、豪族がこんな事考える訳が無いのだ。

 それは『上洛』だからだ。

 上洛は名誉である。だから信長と一緒に入京したいというのであれば分からなくもない。

 今回の上洛には同盟者の松平家、傘下の北畠家、木造家、田丸家、神戸家、関家まで参加する。参加出来ないのは上杉家との国境を守る森可成くらいだ。各家とも上洛と聞いて張り切って準備しているくらいだ。それくらい上洛は名誉な事なのである。

 大豪族くらいになると京の都に入って名を挙げたいと願う者が多数だろう。恒興は興味が無いが。

 それなのにこの男は入京に微塵も興味がなく、近江に残って恒興の手伝いを申し出ているのである。一体、何処に狙いがあるのかはっきりしないのだ。

 以前、恒興が自分で言った『竹中半兵衛重治は戦狂い』は正しい評価なのかも知れないと思った。いや、そうでなければ説明出来ないと思ったのだ。

 だが何にしても戦争をする以上、そこには『欲しい物』が有るはずなのだ。それが恒興には見当も付かなかった。


「何が目的ニャんだ?」


「堀家を寝返らせる以上、私が彼等の安全を図らねばなりません。でなければ無責任でしょう」


(言ってる事は道理ニャんだがな。何考えてる?)


「ご納得頂けませんか?」


「いや、分かったニャー。藤吉の方にはよろしく伝えておいてくれ。信長様にはニャーから報告しておく」


「ええ、ありがとうございます」


 結局、恒興は重治の条件を飲んだ。何処に目的があるか分からないが、それは現場で突き止めるしかないと考えた。

 それに木下軍団が一時的に恒興の指揮下に入るというのは悪い話ではない。恒興としても木下軍団のある人物を借りたいと思っていたからだ。その人物はもちろん竹中重治ではない。

 そして木下秀吉の軍団は最初から入京する事が出来ないので、彼は必然的に近江居残り組となる。計画されている訳では無いが、さる事情により織田家としては木下軍団を入京させる訳にはいかないのである。

 初めから入京出来ない事は判っているので、部隊を遊ばせておくよりは指揮下に入れた方が有用であるという事もある。

 つまり竹中重治の提案は恒興が断る様な話ではないのだ。


(くそっ、全然読めんニャー)


 ただやはり気になるのは竹中重治の不気味さであった。恒興は細心の注意を払って見ておかねばと心に決めた。


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【あとがき】

アレクサンドロス3世=韋駄天は俗説ですニャー。

アレクサンドロス3世 (ヨーロッパ)=イスカンダル(アラビア)=スカンダ(インド)=韋駄天(中国)となります。

現在、この説は学者さんには否定されてます。

なんでも『インドのサンスクリット語の方がアラビア文字より古いから、スカンダの方が先に成立している。イスカンダルがスカンダになったは有り得ない』そうです。

あのー、大王様は紀元前300年頃の人なんですけど。

しかもアラビアの人が読んだのは古代ギリシア文字のはずなんですけど。(大王様はマケドニアの人だし)

古代ギリシア文字を翻訳して『アル・イスカンダル』と読んだんだと思うんですけど。(アルはアラビアでは定冠詞に当たります)

でも、アレクサンドロス3世=韋駄天、ロマンが有ると思いませんかニャー。大王様はインドまで来た訳ですし。

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