信虎の慟哭と決意

 武田信虎は山科言継を岐阜城に送り届けると、そのまま南へ足を向けた。そして鵜沼に入り木曽川を見に行ったのである。

 そこで彼が見た物は夏の増水で暴れ狂う木曽川と、それを難なく受け流す堤防であった。

 信虎はこれ程の水量で溢れないなど信じられなかった。見れば堤防の付近で畑仕事に勤しむ農民もいる。彼等は水が溢れないと信じているのだ。そうでなければこんな近くで暢気に畑など作っている訳がない。

 信虎は甲斐の風景を思い出す。甲斐国の釜無川や笛吹川が増水を始めれば皆が安全を求めて避難する。特にこの二つの川の合流地点は必ず水没する。そこが甲斐国でも一番の穀倉地帯なのに、全て流されてしまうのだ。

 畑も田んぼも流され絶望に沈む甲斐国の民、かたや恐ろしい水量で流れる川の横で暢気に畑仕事をしている織田家の民。何故にこんなに違うのかと信虎は感情を爆発させる。


「何故じゃあ!何故、こんな堤防が尾張にあって甲斐には無いんじゃぁぁ!!こんなの不公平ではないか!……う、ううう、これが、この堤防が甲斐にあれば、ワシだって、ううう……」


「御屋形様……」


「……」


 その様子に信虎の従者である大蔵信安も悲しくなる。彼も知っている、甲斐国の水害が如何に酷いか。蹲って泣き叫ぶ信虎の気持ちは痛いほど解るのだ。


「あ、私はこの堤防について調べてまいります。直ぐに戻ります故、お待ちくだされ!」


「……」


 魂が抜けた様に木曽川を眺めて微動だにしない信虎。大蔵信安は掛ける言葉も見付からず、居たたまれなくなり情報収集を申し出る。

 信虎からは何も返事は無く、彼は呆然と木曽川を眺めていた。


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 土屋長安は犬山の番所に詰めていた。ここは犬山で起こる騒動の対処や訴えなどを聞く場所である。ここには常時50人程の兵が居て、町の警羅も行っている。こうした番所は各地に有り、親衛隊や最近隊員が増えて来ている『刺青隊』も参加している。とりわけ警羅は親衛隊が隊長になる事が多い。親衛隊は手練れであると同時に恒興の信頼があるからだ。

 だが犬山の町となると長安が居る事が多い。警羅に出る訳ではないが、商業絡みの案件が多いからだ。あとは津島会合衆と連絡が付けやすいという理由もある。

 その犬山の番所で一番地位が高い長安に番所の兵が報告を行う。


「はあ?堤防の事を嗅ぎ回っているヤツがいるっスか?」


「まあ、堤防は至る所に造られてますから今更感有りますけど、一応報告をと」


「怪しいっスね」


「はあ」


 その報告に長安は顎に手を当てて訝しむ。その様子はまるで事件の手掛かりを見付けた時の探偵のように。

 報告した兵士が言う通り、堤防は織田家領内の至る所に造られている。なので織田家領内の大きな川に行けば隠しようもなく存在しているので今更感は否めない。


「よし、俺が行って捕まえてやるっス」


「え!?長安様、戦えるんですか?」


「護衛に十人くらい付いてくるっスよ!」


「あ、数で囲むんですね」


 自分で捕まえてやると息巻いた長安は護衛を十人くらい連れていく。まあ、彼は内政担当で元々腕っぷしに自信が無いので仕方ない。

 そして犬山の町中で聞き込みをしている怪しい男を発見。長安は即座に兵士を展開し取り囲んだ。


「おい、そこの怪しいヤツ!神妙にするっス」


「ま、待ってくれ!?私は別に……うん?お前、長安か!?」


「……て、お、親父ー!?何してんスか?」


 兵士に取り囲まれた男は慌てて言い訳を始めようとするが、その前に見知った顔である事をお互いが気付いてしまった。

 その怪しい男の名前は大蔵信安。武田家に猿楽師として仕えていた土屋長安の実の父親だったのだ。


「何してんスか!?じゃない!お前こそ何してるんだ!?」


「何って、俺、今は織田家に仕えてるっスから」


「はあ!?織田家に仕えてる!?お前、土屋様はどうしたんだ?」


「そ、それは……土屋様とは甲斐の内乱ではぐれたっス。それで追っ手を懸けられて、駿河から尾張まで逃げたっスよ」


「そうか、大変だったな」


 信安も甲斐国の反乱の話は聞いていた。

 穴山信君の統治に対して、直ぐに国内諸勢力が反発。穴山信君が対処を誤った事もあり、大規模反乱へと発展した。これに長安の元主君であった土屋昌続も参加していた。戦いは優勢に進もうとしていた。

 もちろん、長安も戦っていたのだが、戦局は急転直下した。上杉景虎の襲来である。

 反乱が大規模になったとはいえ、彼女率いる越後精鋭兵に勝てる訳もなく、反乱軍は各地で敗退。反乱軍は各地で念入りに潰され、土屋昌続は行方不明。長安も上杉軍の追求から逃れる様に駿河へ脱出、そこから尾張へと渡った。


「で、何で親父が堤防の事なんか嗅ぎ回ってるんス?」


「おお、それよ!実は堤防が何時出来たのか、誰が造ったのか知りたくてな」


「誰も何も俺と同じく池田恒興様に仕える同僚の大谷休伯殿っスよ。出来たのはここ一年くらいっス」


「何だと!?そうなのか。よし、私は御屋形様に伝えてくる!お前はここでちょっと待ってろ」


 相手が実の父親だからか、長安はあっさり情報を喋ってしまう。まあ、機密と言える程の情報ではないが。

 それを聞いた信安は早速、信虎への報告に戻る。自分の息子が犬山城主の家臣になっている事、その息子の同僚に堤防を設計した者がいる事、詳細等は後で長安に聞けばいいのだ。それよりこの情報を一刻も早く主君に届けて、生気を取り戻してもらうのが先決だと信安は判断したのだ。


「……え?『御屋形様』?」


 走り去る父親を見送る長安。彼はその去り際の一言に呆然としていたのだ。信玄は亡くなり、その子供も全員処刑されたと聞いていた長安にはその新しい『御屋形様』が誰だか分からなかったのだ。


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 大蔵信安は犬山の船着場から対岸の鵜沼に戻ろうとした。だがその船着場には信虎が居て誰かを待つ様に腰掛けていた。彼は信安と合流するため鵜沼から渡し舟で渡ってきていたのだ。

 既に悲嘆に暮れた表情は無く、持ち直したようだ。


「御屋形様!ここにおられましたか!」


「おお、信安か、スマンかったな。もう大丈夫じゃ」


「それは良う御座いました。それより堤防に関して有力な情報を得ました」


「何と、どんな情報じゃ!?」


「実は私めの愚息がいつの間にやら織田家に仕えておりまして。その愚息の同僚の大谷休伯なる者が堤防を設計したとの事」


「ほう、信安の息子がか。織田信長の直臣なのか?」


「いえ、犬山城主・池田恒興に仕えていると。大谷休伯も同じだと」


 信虎は『犬山城主・池田恒興』の名前を聞いて少し考え込む。この船着場からは犬山の町並みが見えている。それを眺めながら考えているのだが、信虎はこう思っていた。


(これが町か?巨大な城にしか見えんぞ)


 犬山の町は恒興が主導する『総構え』に改築されている。いや、今も改築中であった。

 当初、町を囲む壁と堀は二郭で済ます予定ではあったが、出来上がる前から犬山は人口が増加し、犬山の町自体が拡大していた。それは総構えと犬山の税率の低さが関係している。

 総構えとは町自体を城内に覆ってしまうため、当たり前だが町は城壁の中に有る。このため内側は盗賊や山賊に襲われにくいと言える。また、敵に城を攻められた時でも町人は最初から城内にいるので乱暴狼藉略奪を受けないのである。落城しなければだが。そして現在、周辺は織田家全盛期であり犬山に攻め寄せる敵勢力はいないし、数々の城を落とし織田家の勢力拡大に大貢献した池田恒興が城主なのである。その名声で住民の安心感という物が段違いだった。

 そして土居清良が提案した税率引き下げも大きな要因となった。人は誰しも自分で稼いだ金を他人に渡したくはない、税金なら仕方無いだろうがなるべく安くあって欲しいものだ。そういう一面もあるがそれ以上に現犬山城主が経済産業振興に積極的という事も手伝っている。仕事がいくらでもあって、それでいて税率が安いのだ。

 つまり襲われず安全な暮らしが出来て、色々な仕事がある上に税率が他所よりも安い。何時、襲われるか分からない、重税な所が多々ある戦国期において、この条件で人が流入しない理由があるだろうか?恒興が商業発展を目論んで堺を真似し行った総構え改築は結果的に正しかったのである。

 なので恒興は最外郭を大きめに取って三郭目を建造中である。

 信虎は尾張国で有名な町は津島と清州と熱田だと思っていた。それ以外は見る価値が無いと。故に信虎は最初、駿河から出ると熱田、津島と船で渡って清州に入り京の都へと向かった。彼は武田家再興を目指すと同時に、甲斐をどの様に発展させるか模索していたのだ。

 だが今、彼の目の前に拡がる犬山の町はその三都市もあわやという発展振りだった。これほどの町がありながら他国に知られていないなど有り得ない。

 だから信虎は思った。この町はここ最近で出来た物に違いないと。そして会ってみたくなった、この犬山を発展させたであろう城主に。


「……そうか。信安よ、その息子を通じてワシが池田恒興に会える段取りを付けてくれぬか?」


「池田恒興ですか?織田信長ではないので?」


「そうじゃ、頼めるか?」


「はっ、長安にやらせてみます!」


 信安は織田信長ではなく池田恒興と確認すると、長安が待っているであろう場所へ急いだ。


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 次の日に土屋長安は恒興に接見を申し込む。

 この日は別に暇だったので、恒興は考え事をしながら縁側に座って庭を眺めていた。なので申し込まなくても庭に来れば良かっただけだが。


「殿、一つ相談があるんスけど」


「ん、ニャんだ?」


「実は殿に会って頂きたいお方がいるんスよ」


「お方?」


 長安が『お方』と口にした事で恒興は訝しむ。長安がそんな『お方』と呼ぶ様な偉い人間を連れてくる訳がない。それだけに恒興も少し興味が湧いた。


「はい、武田家先代当主・武田信虎様っス」


「はい?ニャんで武田家先代当主がニャーに?」


「いやー、そこまでは俺も分かんねっス。とにかく取り成してくれって言われて」


(うーん、普通に考えれば武田家再興話かニャ?でも何でニャーに?そんなの信長様に直接言えば早いのにニャー。ま、いいか。ニャーに信長様へ取り成せって話かもニャ)


 恒興が考えるに武田信虎の話は武田家再興の話だろう。むしろそれ以外なら吃驚するくらいだ。

 長安が話を持ってきたのも元武田家臣なのだからだろう。おそらく長安→恒興→信長と繋いでいくつもりなのかも知れない。だが凄く無駄な話だとも思う。

 武田家先代当主であるなら、それこそ岐阜城に直接行けばいいのだ。信長は必ず会うだろうし、織田家の事情としても名家・武田家が上洛に参加してくれるならば有り難い。それに武田信玄亡き今、信虎は武田家の名跡を持っているといっていい。何れにしても信長が会わないという事はないのだ。

 既に武田信虎は来ているとの事で、恒興は疑問に思いつつも会ってみる事にした。


「目通りが叶い、祝着に御座る。武田家先代・武田信虎に御座る」


「ようこそ、信虎殿。ニャーは織田家臣・犬山城主・池田勝三郎恒興ですニャー。それで、ご用の向きは何処いずこでしょうニャ?」


「貴殿もご存知でしょうが武田家は上杉家に降され、我が息、晴信(武田信玄の旧名)も失意の内に亡くなりました。ワシは武田家再興を目指し、晴信の仇も取りたいと思いましてな」


 息子である信玄の仇をと聞いて恒興はふと疑問に思う。たしかこの親子は相剋劇をやらかして、息子の信玄が信虎から家督を奪い追放したはずだと。

 恒興はその疑問を信虎に問い質してみる。


「ニャる程。そういえば信虎殿は信玄殿に追放されたと聞いておりますニャ。恨んではいないのですか?」


「ああ、アレですか」


 信虎はその問いに思い起こすような遠い目をした。ああ、そんな事もあったなと。


「アレはワシと晴信で仕掛けた茶番劇でしてな」


「はぁ!?」


 そして返ってきた答えは『茶番劇』、この答えには恒興も驚愕した。


「池田殿、貴殿は3歳で家督を継がれたとか。すんなり行きましたかな」


「そんな訳ないですニャ。家督簒奪の動きが出て家臣の殆どに逃げられましたニャ」


「でしょう。一緒です」


 信虎が当主だった当時の武田家は豪族家臣の力が非常に強く、才能があっても実績の乏しい若者が当主としてやっていくのは難しかった。それは3歳で家督を継いだ恒興も一緒である。

 戦国期の幼年相続で上手く行っている所も有るには有る。大和国筒井家や近江国堀家などはその典型と言えるだろう。

 筒井家は元々興福寺の宗徒で武家化した仏教勢力。なので年端もいかない幼君でも正式な後継者でないと寺衆との縁が切れてしまうため誰も簒奪出来ない。下手を打つと寺衆が敵に回る。

 堀家は家老の樋口直房による一強体制で、彼が幼君を立て続ける限りは安泰である。

 恒興の場合は母親の養徳院と織田家先代の織田信秀に守られたのが理由だ。代償は大きかったが。

 こんな感じで特殊な理由でもないと幼年相続は難しい。だが幼年相続は一際難しいというだけで、若年相続でもかなり難しいのが戦国期というもの。実力と実績、強固な家臣団、先代の指名と後見などが揃っていないと円満な相続は難しいのだ。

 ではこれらが揃っていない新当主はどうするのか?大抵、実力のみで黙らす。それ以外に手が無いのである。


「武田家は長年、甲斐にあるため豪族というのも殆どが昔に別れた一族でしてな。相続についてもかなり口を出してくるのです」


(武田家は長年どころでは済まない年数甲斐にいるはずだニャ)


 武田家の始祖は八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光とされているが、実はそれよりもっと前である。その新羅三郎義光の祖父・河内源氏の祖である源頼信が甲斐守に任命された時からだ。そして祖父・頼信、父・頼義、新羅三郎義光と継承されている。甲斐守就任が1029年なのでここが甲斐武田家発祥と言えるだろう。

 自身を上回る才能を持つ晴信に家督を譲りたいと考えた信虎だったがこれには障害があった。反晴信派閥の豪族だった。彼等は聡明でやり手な晴信が当主になると自分等の権利を侵されると警戒したのだ。最悪、暗殺も有り得る。こういう力が強い豪族は自分達に従順な主君を望むものだ。そこで信虎は晴信と不仲になったという芝居をし、弟・信繁を後継者にしようと動く。案の定、反晴信派閥の豪族が信虎・信繁支持に回った。そして事前の計画通り信虎が出かけた隙にクーデターを起こさせ、信虎は追放。釣られた豪族も一掃し、武田家の相続は上手く事が運んだのだ。要は相続と粛清する豪族の炙り出しであった。

 そして信虎は止めとばかりに自分の悪評を信玄に流させたのである。

 この手法は日の本の歴史でも使い古された『武烈天皇暴君説』である。これは第25代武烈天皇(小泊瀬おはつせの稚鷦鷯尊わかさざきのみこと)が悪行の限りを尽くした事に由来する。そしてこれを正した次代の継体天皇(男大迹王をほどのおおきみ)の即位を正当とするものだ。

 だがこの説は非常に疑問が残る説である。そもそも古代の日の本に暴君が存在する余地が無いのだ。暴君など出れば周りの大豪族が実にあっさり殺す。蘇我入鹿(鞍作)が聖徳太子の息子である山背大兄王を殺したのも都合が悪かったの一言に尽きる。皇極天皇が自身の息子である中大兄皇子を皇太子とせず、他人の子である古人大兄皇子を皇太子としていたのは蘇我氏の圧力だろう。

 では何故、武烈天皇は暴君にさせられたのか?それは継体天皇の即位根拠の薄弱さである。何しろ継体天皇は第15代応神天皇(誉田別尊ほむたわけのみこと)の来孫きしゃご(本人から5代後の子)なのである。何処からどう見ても傍系でしかないのだ。どう考えてももっと近い皇族はいるはずである。この継体天皇の即位が大豪族の力が強かった証明でもある。

 継体天皇は元々中部地方から北陸地方にかけての実力者だった。これを上手く大和朝廷に組み込むために大和の大豪族から天皇に望まれ、暴君の治世を正した英雄だから相応しいと理由付けたと思われる。

 つまり大豪族の都合で祭り上げられた天皇だが中部地方から北陸地方にかけての実力者というのは伊達ではなく、傀儡になる様な能力の低い天皇では無かった。そのため大豪族と激しい権力闘争があったようである。

 このように前任の地位を簒奪したり、資格のない者が上り詰める時にはよく『武烈天皇暴君説』と同じ様な説が出てくる。特に前の権力者が残忍だったという時は疑って見ると面白いだろう。

 因みにだが継体天皇が傍系である事は間違いないが、仁賢天皇(億計天皇おけのすめらみこと)の皇女が嫁入りして、その子供が欽明天皇となっている。女系1回ならセーフ理論は天皇家でも健在なようである。

 この場合、残忍な父親であった信虎を追放して当主になった信玄は正義であり、誰よりも当主に相応しいと喧伝し反対意見を封殺したのである。

 その事実は恒興でも驚愕してしまう。


(こ、こいつはとんでもねージジイだ!家のために自分の人生も命も軽く投げ捨てやがった。目的の為なら何でも犠牲に出来る奴だ。……こういう手合いは忠誠心なんて欠片も無い、反面、目的に沿っていれば決して裏切らないという正に諸刃の剣だニャ)


「このくらい出来ませんと武田家の当主は務まりませんな」


 これを平然とのたまう信虎に恒興は恐れを抱く。この老人は武田家のためなら何でも犠牲にする。織田家が武田家のためにならないと見れば、信虎はあっさり見限るだろう。

 何しろ彼は武田家のために自分自身すら犠牲にしたのだから。


「で、このワシを貴下に加えて欲しいのです」


「はい!?何でその話をニャーにするのです?信長様に直接言った方が早いですニャ。大義名分に武田元家臣、兵士、領民まで手に入るなら信長様はお喜びになるはず」


 更に信虎は平然と自分を恒興の家臣にしてくれとのたまう。これには恒興も吃驚する、というか出来る訳が無い。どう考えても500年以上の歴史を持つ河内源氏の名家を新興の池田家の下に置ける訳がない。織田家でも同様である。

 出来るとすれば京極家の様に足利義昭の傘下であろう。あるいは織田家と対等な同盟関係となる。織田家臣・池田家の下など以ての外である。


「確かに武田家を再興させるだけならその方が早いですな」


「なら、ニャーじゃなくて信長様に……」


「それじゃ足らんのです!!」


「ニャッ!?」


 恒興の答えに信虎は叫ぶ。そこには紛う事なき怒りが見え隠れしていた。その迫力に恒興は一瞬怯んでしまう程の怒りが込められていたのだ。


「ワシや晴信が戦い続けた理由をご存知か?武田家の天下を実現しようとした訳では御座らん。全ては豊かな甲斐を創るためなのです」


 信虎や信玄が戦い続けた理由、それは『豊かな甲斐を創るため』であった。甲斐国の水害とは想像も出来ない程に酷かった。ここは本当に人の住める土地なのかと疑うほどだ。

 水の国・日の本は水害の国・日の本と同義なのである。信虎の怒りはこの『水』に向けられたものだった。


「ワシは戦って富を奪うしか思い付きませんでした。だからワシより才能がある晴信に早々に家督を渡したのです。上杉のあの強さは予想外でしたが」


「だから何でニャーなのです?」


「木曽川の堤……素晴らしいものですな。あれを造ったのは貴殿の家臣の大谷殿とか」


 そう、信虎が恒興の家臣になってまで欲しい物、それは木曽川にある堤防であった。それを設計した技師が恒興の家臣だと聞いて、今回の接見を申し込んだのである。


「だからですよ。一度、貴殿に甲斐を治めて頂きたい。そして治水が終わり豊かになった甲斐を武田家に頂きたいのです。勿論、甲斐が頂けるよう老骨に鞭打って働きますとも」


 そしてその為なら家名だの誇りだの歴史だのはどうでもいいと言い放てる男、それが武田信虎であった。

 恒興は特権意識が病気レベルの名門大名でこんな考え方をする信虎は恐ろしいと思った。形振り構わない人間ほど恐ろしいものはない、それが名門大名だと恐ろしさは増すのだ。

 そしてこの老人は名門という名声の使い方を心得ている。既に恒興はこの提案を蹴る事は出来ないのだ。しかも今回は公式接見ではなく、私的な縁で来ている。そのためこの会談自体が秘密裏になっており、武田家が池田家の下に付いたと風聞される事もない。というより恒興自身、そんな事言い触らしたくない。自分の方が危うくなるから。そう、彼は計算尽くであった。

 恒興は諦めて、この件を信長に持って行く事にする。

 ただ、もう一つ問題が有る。それも聞いておくことにした。


「しかし後継者はどうするので?今から信虎殿が嫁を貰ってもうけるので?それとも越後に捕らわれている信廉殿ですかニャ?」


「いえ、実は晴信の息子で一人生き延びた者がいる様なので捜そうと思います。許可頂けますかな?」


「ニャーも協力しましょう。名前は何と言うので?」


「四郎勝頼、名字は諏訪を名乗っているかも知れませんな」


 信虎は甲斐から逃げ出した武田勝頼の情報を知っていた。何しろ未だに上杉家の人間が血眼で探し回っているからだ。そして『武田』を名乗れば自分が危うくなるのは解っていると思うので、母親の実家である『諏訪』を名乗っていると予想した。


「何はともあれ、これからよろしくお願いしますぞ、池田殿」


(このまま織田家の上洛が成功すれば、信長は京の都から離れられぬ。甲斐の統治に来るなど無理じゃろうな。じゃが何れは東国支配に乗り出すはず。その時に訳の分からん馬の骨に来られても迷惑というもの。今のうちに唾を付けておかねばな。フフフ)


 信虎は信長が上洛したら京の都の近辺から離れられないと見ていた。朝廷や幕府は野放しにすると勝手に動き出すので離れられないのだ。それでいて名目上、上位存在なのだから余計に厄介である。更に厄介な事に寺社勢力の本拠地までそこに固まっている。短期間ならともかく、時間の掛かる治水工事や開発は無理だと彼は判断した。

 だから大谷休伯を家臣としている恒興に直接、甲斐国を治めてもらおうと思ったのだ。彼であれば信長の名代として遠国に出征は十分有り得る。そして恒興の金で甲斐国に治水工事や開発をやってもらおうという目論見だった。

 そして武田家を池田家の下に置けない事など最初から知っていた。つまりこの接見は恒興と縁を繋ぐためだけに行われたのだ。


(こえーじいさんだニャー)


 恒興はこの件を即座に信長に報告した。結果としては武田家当主と言える武田信虎を池田家臣に出来る訳もなく、織田家同盟者・足利義昭傘下大名として遇する事が決まった。

 一応、信虎は挨拶には行ったが、今も池田邸に居候していたりする。


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【あとがき】

べ「『総構え』は堺が発展した要因。この戦国時代に安全に暮らせるというのはかなりのアドバンテージだからね」

恒「ニャーも計画したきた甲斐があったニャー」

べ「そして堺の繁栄が終焉したのも『総構え』が無くなったからだよ」

恒「石田三成が堀を埋めたからだニャ。でも戦乱は終わっていたんだし用済みじゃニャいのか?」

べ「問題はそこじゃないよ。堺の堀は海に繋がっているんだ。埋め立てた土砂が海に流れ込んで港を使えなくしてしまったんだよ。土砂が堆積して堺の港は浅瀬になってしまい、喫水の深い大型船は発着出来なくなってしまった。そしてその頃には大阪港が整備されていたから、船はみんな大阪へ行った」

べ「わざとやってんのか、三成」

恒「かもね。彼は秀吉さんのためなら手段を選ばない人だから」

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