恒興の誤算

 ある昼下がりに恒興は出掛ける準備をして、正室の美代に声を掛ける。美代は自室にて針仕事をしていた。おそらくは産まれてくる赤ん坊の産着を繕っているものと思われる。

 最近、美代と藤が一緒に繕っているところを何度か目撃していたので、恒興はそう予測した。ただ藤は針仕事が苦手な様で時々にしかやらないし、美代に教わりながらでしか出来ない。

 だが美代は実家でもやっていた様で、最早仕事ではなく趣味の域にあるらしい。彼女は少し歌を歌いながらスイスイと縫っていた。

 そんな楽しげに繕う彼女に恒興は出掛ける事を告げる。


「美代、ニャーはこれから岐阜城に行くので留守を頼むニャ」


「あなた様、帯が曲がっておりますよ。……はい、行ってらっしゃいませ」


「ああ、済まんニャ」


 柔らかい笑みを浮かべ、落ち着いた様子で恒興の世話を焼く美代。この池田邸に嫁入りした当初の慌て振りは何処へやら、半年程ですっかり池田家に馴染んだ様だ。

 その様子に恒興も安心した。


「信長様に接見ですか?」


「いや、公卿の方が来られたので、その応対だニャー」


 恒興の用事は岐阜城に公卿が来たので、その応対に行くというものだった。


「え!?」


「意外かニャ?」


「ええと……はい。そういう応対は林佐渡守様がやられるものかと」


 恒興の言葉に美代は驚いた顔をする。

 他国の使者や貴人の応対は普通、家老の林佐渡の役目であり、恒興がするものではないからだ。恒興の役職にも外交分野は含まれていない。


「普通はそうニャんだけど、佐渡殿は貴人の応対は嫌がるからニャー。それに来た方が来た方なんで、ニャーが出た方が話は早いんだよね」


何方様どなたさまなのです?」


「山科権大納言言継卿だニャー」


「え!?あの!?」


 その名前を聞いて美代は更に驚いた顔をする。彼女が直接、山科言継を知っている訳ではないだろうが、噂の類いは聞いている。そんな感じだった。


「あのって、ニャんか変な噂を聞いている様だニャ」


「あ、はい。こんな事言ってはいけないんでしょうけど、……『銭ゲバ』と」


「やっぱりそれか。まあ、あの方が『銭ゲバ』というのは本当の話だニャー」


 美代が控え目に口にした噂は『銭ゲバ』であった。それは恒興の予想通りでかなり有名な事なのだ。

 ただ恒興は山科言継が私利私欲で金集めをやっている訳ではない事も知っていた。


「でもあの方が各地で資金集めしているのは全部、帝のため朝廷のためだニャー。私利私欲でやっている訳じゃない。あの方以外の公家が働いて無いせいだニャ。主にソイツらが働きもしないで陰口ばかり叩いて、活躍している山科卿を妬んでいるんだニャー」


 山科言継が金集めに奔走していたのは、帝の即位式の費用集めや朝廷の運営費を得るためだった。それは一重に朝廷自体が『金食い虫』と言える状態だからだ。

 何しろ朝廷にはやらなければならない行事や儀式が多数ある。これらには多額の資金が必要となる。

 それなのに彼等の財源の殆どを武士の発生から押領され続けていて、財政は火の車どころの騒ぎではない。この財政を支えるために山科言継は奔走しているのだ。

 では他の公家はというと……戦禍から逃げるか、都に居て貧乏生活を嘆きながら何もしていないのが殆どだ。こういう何もしていない連中が、帝にまで頼りにされる彼を妬んで噂を流している。


「凄い御方だったんですね。噂に踊らされてしまいました」


「ま、無理もニャい。だけど『銭ゲバ』は確かなので絶対金の話が出る。だからニャーが行くんだ。という訳で留守を頼んだぞ」


「はい、承りました。行ってらっしゃいませ」


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 岐阜城に参内した恒興は信長からの指示を受け林佐渡の部下から様子を聞いてから、山科言継が待つ部屋に向かった。既に信長との接見は済ませ、林佐渡が饗応中だという。


(今頃、佐渡殿は心身共にお疲れだろうニャー)


「づーねーおーぎー、アタシはもう疲れたよー」


(ほらニャ、やっぱり)


 恒興の予想通り、林佐渡は酷く疲れた顔でヨタヨタ歩いてきて恒興の肩に掴まる。どんな激務をこなしたらそんか顔になるのか聞いてみたいくらいだ。

 まあ、多分気疲れであろうが。


「お務めご苦労様ですニャー、佐渡殿。後はニャーに任せてゆっくりお休みくださいニャ」


「頼んだよー。アタシ、おうち帰るー」


 恒興にバトンを渡した林佐渡は同じ様にヨタヨタ歩いて帰っていく。途中、気付いた那古野城の侍に支えられながら。

 そして恒興は山科言継が居るであろう部屋に声を掛け、返事を待ってから中に入る。


「畏れ多くも饗応役を務めさせて頂きます、池田勝三郎恒興で御座いますニャー」


 恭しく礼をする恒興が見た人物こそ顔に真っ白な白粉を塗り、歯をお歯黒で染めた烏帽子を被った壮年の男性、山科権大納言言継であった。彼は夏の暑さを凌ぐため、手に持つ扇子でゆっくり扇ぎながら恒興をじっくり見ていた。


「ホホホ、お主が池田恒興か。待っておったぞ」


「はっ、ニャーの名前を御存知とは恐縮で御座いますニャー」


「いや、知らぬ」


「え?」


 待っていたのに知らないとは不思議な事を言われてしまったので、恒興はつい呆気に取られた声を上げてしまう。

 言継は特に気にした風は無く言葉を続ける。


「麿は林から饗応役が代わると聞いていただけじゃ。じゃがな、麿は正にお主を待っておった訳じゃな」


「はあ」


「林はただの饗応役であろ?その林が居なくなり、お主が来た。つまり実りある話をしに来たのではないかの?」


 言継の言う実りある話はやはり献金の話であろう。信長からはそういう話はしない、当主自ら金の話をするのは野暮というものだ。

 本来であれば林佐渡がすべきなのだが、彼女は出来る状況になかったので恒興が来た訳だ。恒興は既に信長から金額についても連絡されている。


「はっ、我が主・織田三郎は朝廷に対し五千貫文を献じるとの事で御座いますニャー。こちらが目録となります」


 織田信長の通称と言えば『上総介』が有名ではあるが、これは勝手に名乗っているので朝廷に対しては使えない。つまり今の織田信長は無位無冠なのだ。

 故に信長の通称は元の『三郎』となる。

 この『三郎』は織田家の嫡子が名乗る名前の様で、三男という意味ではない。なので信長の父親である織田信秀も通称は『三郎』だった。まあ、信長の次の代からは『三郎』を名乗らなくなったが。

 この『三郎』を嫡子の通称としている家は割と多い。何しろ足利将軍家の嫡子が『三郎』を名乗っていたからだ。足利家では嫡子は『三郎』とハッキリ定められていて、ある事情で廃嫡された子供は『三郎』から『太郎』に変わったくらいだ。それにあやかった物かも知れない。

 また、幾つかの家では『太郎』は早世するという認識がある様で、長男嫡子は『太郎』を避けるという事もある。

 有名なところでは真田信繁(幸村)が『源次郎』で、兄の真田信之が『源三郎』というのがある。このため信繁が実は兄である説も存在する。

 この時代の太郎次郎などの順序は家の事情によるので、全く当てにならない。


(五千貫文じゃと!?これは予想以上に出てきたものじゃのお。2年前、石見大銀山を所有する毛利家が出した額は二千五百貫文程じゃ。まさかその倍とは、やはり麿の見立ては正しかった)


「ホホホ、善き哉、善き哉」


 内心驚きながらも言継は平静を装う。

 2年程前、言継は正親町天皇の即位式の費用を得るため、石見大銀山を所有する毛利家を訪ねている。その時、毛利家から出された献金額は約二千五百貫文である。

 これは毛利家が出し渋った訳ではない、織田家の経済力が想像以上である証明なのだ。


(五千貫文か……十分な成果と言えるが、もう少し出せそうじゃの。ホホホ、ここからが麿の交渉力の見せ場よ)


 五千貫文は十分過ぎる成果と言えるのだが、言継はまだ出てくると見た。そして彼は目をギラリと光らせ、恒興を見据える。ここからが彼の戦場、開戦の狼煙が上がったのである。


「時に池田よ。お主らは『天下布武』なるものを標榜し、上洛せんと図っておると聞いたが真であるか?」


「はっ、お耳汚しでは御座いましょうが。ニャー共織田家としましては足利義昭様こそ、真の公方様と思っております故」


「成る程のぉ、しかし障害は多いの。さしあたっては三好三人衆なる者達が擁立しておる『足利義栄よしひで』という者が征夷大将軍位に就く予定になっておるしの」


 言継が持ち出したネタは織田家の最大の関心事である『上洛』についてだった。

 織田家の上洛の第一目的は足利義昭の将軍就任となる。だが先頃に三好三人衆が擁立する足利義栄が将軍に就任する事が決まったのである。言継はここに付け入る隙があると睨んだのだ。

 対して恒興もこの情報は知っていた。しかし恒興は何も焦る事はなかった。何故なら彼には『前世の記憶』があったからだ。


(出たニャ、『足利義栄』。ヤツは確かに将軍にはなるニャー。だが病気で都に入る事なく亡くなる、つまり対抗馬にすらなっていない訳だニャ。ここら辺は前世の記憶を持っているニャーは有利だニャ)


 そう、足利義栄が将軍になる事は分かっていたのだ。そして彼は京の都に入る事なく若くして病死する。つまり幕府の政務など一度も執る事は無いのである。

 この『前世の記憶』こそ最大の武器だと恒興は思っている。だからこそ上洛を急ぐ信長に延期を求め、計略の完成を優先させたのだから。


「しかしながらですニャー、山科卿。病弱な彼では阿波国を出る事すらままならないでしょうニャ」


 笑顔で答える恒興の返事に言継は首を傾げる。まるで思いもよらない解答であった様だ。


「?何を言っておるのじゃ?足利義栄はピンピンしておるし、既に都の近くで待機しておるぞ。帝は宣下をお下しになられたという事で麿は会うてきたので間違いはないぞ」


「え?」


(あれー?たしか病没したよニャ、前世だと。……はっ、まさか!?)


 恒興は自分の記憶を振り返る。しかし確かに足利義栄は京の都に入る事なく亡くなったはずである。

 だがそこに一つの盲点がある事に恒興は気付く。

 そう、『前世の記憶』は恒興の最大の武器にして、足枷でもあったのだ。


(そうか、今は永禄4年だニャ!義栄が病死するのは今から6年後の話だニャー!!……つまり、今は病気ではなく健康な訳で……。ニャんでこんなとこ(寿命)だけ前世の通りニャんだよ!!責任者出てこいニャァァァー!!)


『前世の記憶』はこの世界がある程度同じだから意味がある。とりわけ人間関係や周辺の勢力関係、事情などが先読み出来る点にある。

 つまり恒興が起こると分かっているイベントは起こるべくして起こっているのだ。決して恒興が知っているから起こっている訳ではない。

 然るに足利義栄の件はどうだろう。彼は病気になったから京の都に入れなかった。では病気じゃなかったら?当たり前だがそのまま京の都に入って征夷大将軍に就任するはずだ。


「……何ぞ、思い違いがある様子じゃの?」


「あ、いえ、その、あのですニャー」


(ヤベエェェェー!アイツが都に入って正式に就任したら、コッチが幕敵認定されちまうニャー!)


 足利義栄が正式に将軍就任となったら、織田家の上洛は大失敗に終わる可能性が高い。

 将軍に就任した足利義栄は間違いなく対抗馬となった足利義昭を討伐する。そして彼を担ぐ織田家は幕敵認定されるだろう。そうなれば織田家の周りは全て敵となるし、傘下大名も離反する。

 松平家(徳川家)も現段階では離れるだろう。足利義昭と敵対した時に徳川家が離れなかったのは武田家対策で一致を見たからで、今世では武田家自体が無い。

 信長が足利義昭と敵対しても問題なかったのは、朝廷と京の都、そして畿内を大半抑えていたからだ。現時点では織田家は地方の大大名の一つに過ぎない。

 故に恒興は焦る、読み違えたと。彼は足利義栄が京の都に入る事はないと、高を括って失念していたのだ。

 その焦りの表情になった恒興を見て、言継はほくそ笑む。


「麿が力を貸して進ぜようか?」


「ニャ!?」


「要は足利義栄に将軍になられたら困る訳じゃろ」


「で、では宣下は取り消せるのですかニャ!?」


 恒興は期待する、山科言継ほどの公卿なら宣下を撤回する事が出来るのではと。

 足利義栄の将軍就任を阻止するのであれば、そもそも将軍就任を無かった事にしてもらうのが早い。

 だが言継の表情は厳しいもので、明らかな拒否であった。


「……何を言うておるのじゃ?帝がお下しになられた宣下を一臣である麿が取り消せる訳あるまい。というか、そんな真似は誰にも出来ぬ、してはならんのじゃ。その様な事をしたら帝の御叡慮が麿の意見で覆った事になる。では天子とは何ぞやという話になって、帝の権威を損なうであろう。何れだけ金を積まれても嫌じゃの」


「え、じゃあ……」


「宣下は取り消せぬ。出す前であれば思い止まられるよう説得は出来るが、出たものは無理じゃ」


 そう、帝が下した命令は取り消しや撤回はほぼ有り得ないのである。もし他者の意思でそれが取り消しなり撤回なりが為されたならば、帝の上に誰かがいる事になり、天上人としての帝の権威を破壊する事になる。

 そしてそれは朝廷権威の完全失墜と日の本の秩序の崩壊をもたらす。

 日の本の『天皇制』は世界中にありふれた『王権神授説』ではない稀有な存在である。

『王権神授説』では王権を神から授かるものなので、王様になりたければ権力を握って神に認められたと宣言するか、神の代理人である教会に認めて貰えばいい。それこそ農民でも乞食でもやり様でなれる。そこらへんの馬の骨が皇帝にだってなれるのだ。

 だが日の本の『天皇制』は皇祖神・天照大神の直系のみがなれるとされているので、そもそもなれる候補は限られている。

 つまりどんな権力者であってもなれないからこそ天皇は尊い存在であり続けたのである。

 そしてこの『天皇制』が存続し続けたのも奇跡に近い。それこそ平安期以前は天皇位簒奪に動いた者もいる。

 それらが一切出なくなったのは『藤原道長』の功績が大きい。彼が皆に示したのだ、天皇位は簒奪するより嫁を出して親族になった方が効率的だと。天皇の権威を損なわず、権力を行使出来ると。

 だから武士達も『天皇制』を破壊せず、都合の良い皇太子を担ぎ、そこに娘を乳母(公家でないと嫁は基本無理)などにして権力の掌握を図った。

『天皇制』存続はそんな欲深い者達の都合によって為されたのである。

 更に公家達もその流れを利用し、武家と結んで天皇との橋渡しをする者が多数現れた。上杉氏などはその典型で彼等は鎌倉期までは公家であった。『承久の乱』で失墜した朝廷権威を復活させるため、足利家と手を結んだのだ。そこから足利家に嫁を出し、外戚となって徐々に武家化していった。

 こうして『天皇制』は年数を重ね、絶対不可侵と言える域に達していった訳だ。

 そうまでして護り通した『天皇制』を公卿である山科言継が破壊する可能性など0である。


「そんニャ~。どうしたら……」


「一度出た宣下は取り消せぬ、取り消せぬが……何時、就任式を行うかは麿達次第じゃがな!」


(ブフウゥゥゥー!?まさかの『牛歩戦術』!?)


 言継が自信満々に言い出したのは将軍になれる宣下は出たが、就任は引き延ばせるというものだった。

 それは正に『牛歩戦術』と云うべきものだ。『牛歩戦術』とは相手の求めに対し、のらりくらりと曖昧な返答を繰り返し時間を稼ぐ戦術。

 実は公家達の得意戦術でもある。それこそ吉日を選んでいるとか、良くない災害があったとかで幾らでも引き延ばしてくる。


「ニャ、ニャるほどー。将軍位に就く許しは出たけど就任は引き延ばせると」


「そういう事じゃ。その間に信長が上洛して足利義栄を追い払えば良い。そうすれば帝も足利義栄は頼り無しと見て、宣下を取り退げて下さるじゃろう。帝の御叡慮を変えられるのは帝ご自身のみ」


「おお、流石は山科卿ですニャー」


 言継が示した方策は就任式を引き延ばしている間に上洛して足利義栄及び三好三人衆を追い払えというものだった。

 足利義栄が京の都に来れない、幕府将軍として政務に就けないと聞けば、帝も考えを変えるであろうと。

 そう、帝の命令を変えられるのは帝なのである。


「さしあたって、コレを行うには他の公卿も巻き込まなくてはのう。しかし工作するとなると金が掛かるのう。しかして麿は金欠じゃしのう。おお、困った、困った」


(そうか!コレは金の無心だったのか!だからアンタは『銭ゲバ』ニャんて呼ばれるんですよ!……でも義栄の将軍就任は阻止してもらわないと。現段階での幕敵はキツいニャー。家康ですら離れると思うニャ)


 言継はこの『牛歩戦術』をやるには他の公家の協力が必要だと言う。それは遠回しな献金額の上乗せ要求であった。

 ただ恒興は現段階での幕敵を避けるためには仕方無いとも感じている。五千貫文を出したのだから、その内で何とかして欲しいとも思っているが。


「のう、池田よ。少し都合してくれぬかの?」


「え、でもたった今、五千貫文をですニャー……」


「それは帝への献上であろ?麿が帝の御物を私用すると思うか?」


(ヤベェニャー。ただの金の無心ニャのに何も反論出来ん。これが交渉力の化け物とまで揶揄される山科卿の実力ニャのか)


 恒興の淡い期待は言継の理論武装の前にあっさり崩れ落ちる。そもそも交渉において海千山千の大大名達を相手にしてきた山科言継に勝つには恒興では役者不足というしかない。

 だが足利義栄の将軍就任を阻止しなければならない恒興には選択肢が存在しなかった。


「山科卿にお骨折り頂く以上、我等としても失礼を働く訳には参りませんニャー。加えまして一千貫文を献上致しますニャ」


「もうちょいと♪」


(もうちょい!?)


「で、では一千五百貫文で……」


「もう一声♪」


(こ、この人はーっ!)


「……に、二千貫文です……ニャー」


 ここに二千貫文の増額献金が決まる。

 恒興の完敗というしかない。信長に何れだけ怒られるか考えるだけでも恐ろしい恒興であった。


「善き哉、善き哉。麿に任せておくが良い」


(ホホホ、まあ、今はこんなものじゃろう。取り立て過ぎてもいかん。織田家にはもっと稼いでもらって、更なる献金をして貰わんとな)


 にんまりと微笑んで快諾する言継。一方の恒興は既に虫の息だった。

 だが言継としても足利義栄の将軍就任は何としても阻止するつもりだった。織田家が想像を超える経済力を持っている事も理由の一つだが、もう一つの理由があった。


「じゃがな、池田よ。引き延ばすにしても限りがある。年内にまでに上洛せよ、これが条件じゃ」


「年内……ですかニャ」


「そうじゃ、年内じゃの。そこまでは何とかして見せよう」


(年内か。時間としてはギリギリかニャ)


 言継は年内までの上洛を恒興に促す。それが引き延ばせる限度であると。

 となると織田家としては秋の収穫期を終わらせたら即座に上洛軍を発しなければならない。その上、上洛路を塞ぐ六角家を早期に降さねばならないという事だ。

 時間的な余裕は全くないと恒興は考える。


「池田よ、麿が何故ここまで織田家に力を貸すか分かるかの?」


(いや、アンタは金が欲しいだけニャんでは?)


「……将軍職宣下の際、関白の近衛卿が三好三人衆に対し朝廷に一万疋献上せよと命じたのじゃ。征夷大将軍就任の条件だとな」


 三好三人衆が足利義栄を将軍に就けるにあたって、関白である近衛前久は一万疋相当の献上を条件付けた。

ひき』は物品の価値を量る単位で通貨単位ではない。元々は犬の取引で使われ、一疋何文という使われ方をしたという。この『疋』が転じて『匹』に変わったとされる。

 現在の京の都でのレートは一疋=100文程で、一万疋は一千貫文程の様だ。


「そしたら奴等、五千疋相当しか出さなかったのじゃ!おまけにウチではそれで一万疋だとのたまう始末!あんな貧乏人共が天下を差配するなど以ての外じゃ!あの体たらくで朝廷の財政を支えられる訳がないわ!」


(予想に違わず金が欲しいだけじゃニャいか!?)


 言継が織田家に協力するもう一つの理由、それが『三好三人衆は金が無い』であった。

 それは言継が今まで一生懸命に各地を奔走してきた事を考えれば、直ぐに分かるだろう。彼は帝に朝廷に潤沢な資金を提供出来る存在を求めているのだ。然るに資金を出し渋る三好三人衆に幕府権力を牛耳られたくないのである。


「じゃがのぉ、池田よ。三好三人衆にこれでは足らぬと言ったらな、奴等は武力行使の構えを見せたのじゃ」


 三好三人衆が五千疋しか出さなかったのは、おそらく京の都と摂津で『疋』の価値が違ったためだろう。

 三好三人衆は一万疋相当を献上したのに五千疋相当だと言われ、朝廷は何処までも難癖付けて搾り取るつもりだと認識した。それならばと僧兵達の様に武力で恫喝する事を選んだのである。


「麿達は武力を持ってはおらぬ。都を焼かれるくらいなら将軍位くらいくれてやれと一部の公卿が騒ぎ出し宣下と相成ったのじゃ」


「ニャるほど、武力行使の構えを見せた三好三人衆を武力で追い払い、都の静謐を取り戻せと仰せですニャ」


「そういう事じゃ。都を焼かれる訳にはいかぬから、就任を止められるのは年内と心得よ」


「ははっ」


 恒興は得心がいった、山科言継がこれ程までに織田家に協力する理由が。

 彼は織田家のにも期待を寄せているのだと。その武力で天皇の御所を護りたいのだと。


「では七千貫文献上の件、よろしく頼んだぞよ♪」


(……ケツの毛まで毟り取られた思いだニャー。これ、信長様から大目玉かも)


 そんな思いも何処へやら、貰う物はしっかり貰っていくのが山科言継という公卿であった。

 恒興は信長に何を言われるやらと戦々恐々になって平伏した。


「おお、そうそう、池田よ。お主にも官位の世話をしてやろう」


「え?いえいえ、ニャーごときがそんな畏れ多い」


「これから麿の相手をお主がしてくれるのじゃろ?ガチガチの林では話が出来ぬぞ。麿の相手をするのなら官位くらい持っておくが良い。今回、信長は従五位下じゅごいのげ弾正忠だんじょうのじょうに奏上しておく。お主は正六位しょうろくいより下で考えておくが良いぞ」


「はあ」


「ホホホ、では退がるが良いぞ」


 そう言って山科言継は愉快そうに笑い、恒興は退室となった。夜も更けてきたので休むとの事だった。

 恒興としてはこれから山科言継と付き合うのかと思うと少しゲンナリとなるところはある。だが彼自身はそう悪い人間ではないと感じた。それは「官位の世話をする」と言ってくれたからだ。

 別に恒興は官位が欲しい訳ではない、それこそ戦国期には自称官位で溢れている。恒興自身もそれで十分だと思っている。

 では山科言継の好意が有り難い訳は『恒興が人間扱いされるため』だからである。

 それは誰からか、他の公家連中からである。

 公家は余程しっかりとした出自の武家でなければ人間扱いすらしないのだ。昔ほど酷くはないが未だに根強い。では人間扱いしない人をどう呼ぶのか?『丸』を付けて呼んでくるのである。『丸』を付けて呼ぶ事は『犬』を表す、つまり人を犬扱いしてくるのである。

 恒興ならば『池田丸』とでも呼ばれるだろう。

 それをさせないために山科言継は恒興に官位の世話をすると言ったのだ。流石に正式な官位を持つ人間を犬扱いは出来ない。例え出自が農民貧民であってもだ。

 何故なら正式な官位を持つという事は天皇に臣として認められたという事だからだ。それを否定する事は天皇を否定する事になるので、公家の誰も恒興の事を犬扱い出来ないという訳だ。

 恒興が山科言継と付き合うならば、必然的に他の公家とも交流する事になる。その時に恒興が辛い思いをしないように言ってくれたのである。

 そんな彼の好意は嬉しいのだが、今回の件を信長に報告せねばならない恒興の表情は沈んでいた。


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「七千貫か、恒興」


「申し訳ございませんニャ、信長様。ニャーの力量が足らず……」


 恒興は山科言継の部屋から退室すると、直ぐに信長へ報告を行った。

 何れほどの怒りが飛んでくるかと戦々恐々としていた恒興だったが、信長は特に気にした風はなく冷静であった。


「ん、構わねえぞ、恒興。確かに二千貫は大金だが、それで山科卿を味方に付けられたのなら安いもんだ。オレ達は朝廷に伝手が全く無いからな」


「ははっ」


「しかし年内に上洛か。こうなったら収穫期が終わり次第、上洛を開始するぞ。恒興、お前の仕掛けを待ちたかったが仕方ねえ。いいな?」


「はい、各城主達にも通達を出しますニャー」


 恒興も覚悟を決める。例え恒興の計略が成功しなくても、今の織田家の力なら出来るはずだと。

 力押しの戦になって損害が多数出たとしても、足利義栄に本物の将軍になられるよりはマシなのだ。

 恒興は出来る限り速く農繁期を終わらせるため、家老の土居宗珊や民政担当の土居清良と相談しようと思った。


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【あとがき】

べ「この時代の貨幣価値は国によって違います。物の価値も全然違います。そこらへんを真剣に考えると頭がパンクしそうなので、この物語ではテキトーで行きますニャー」

恒「テキトーて、お前。今有る単位は銭の『貫文』、物品の『疋』、布の『反』、これまた銭の『匁』とか、数え切れんくらいあるよニャー」

べ「『匁』は多分だけど大内家が勝手に作った。大内家は『日明貿易』の最前線だったから、海外に対応する貨幣価値が必要だったのだと思う。こんな感じで各国の大名は勝手な単位を作ったり、勝手な価値変更を行っていると見るべき。甲斐の武田信玄公が金で国内通貨を鋳造していたのは紹介したよね」

恒「ニャるほど、あの朝廷と三好家の『一万疋献上』はそういうことか」

べ「これも予想でしかないけど摂津と山城で既に『疋』は二倍の差があったのかも知れない。朝廷相手に値切るほど、三好三人衆は恥知らずじゃないと思うよ」

恒「三好三人衆は一万疋を献上したのに、五千疋しかないと言われて屋上行こうぜってニャった訳か」

べ「この物語では単純に『貫文』と『疋』しか出さないつもり。それ以上出しても混乱するから」

恒「あとは価値設定かニャ」

べ「1貫=1000文が理想。これは理想でしかない」

恒「どういう意味だニャ?」

べ「『貫』は重さの単位だから、銭1000枚で決められた重さに達することはまず無い。現代技術くらいでないと精密に同じ重さの貨幣は造れないよ。加えて『撰銭(悪貨)』問題もある。貨幣は使えば使うほど磨り減ったり欠けたりする物だから。こういう銭を『鐚銭(びたせん)』という。『宋銭』なんて500年近く使っているんだよ」

恒「……物持ち良過ぎだろニャー、日の本の民」

べ「だから信長さんが朝廷に献上した銭には鐚銭が大量に入っていて問題になったんだ。信長さんであっても良貨を集めるのは難しいという事なんだ」

恒「あったニャ、そういう事も」

べ「で、『疋』なんだけど……正直、分からん」

恒「おい」

べ「1疋=10文とあるけど、これは幕末の話。この物語に当て嵌めると三好三人衆は100貫をケチって50貫しか献上しなかった事になってしまう。流石に無いね。1疋=100文くらいが妥当な線かなー」

恒「それくらいでいいニャー。これ以上ややこしくすんニャ」

べ「更にややこしい事に銭貫と銀貫と金貫があって、価値が……」

恒「止めろニャァァァ!!」

べ「これくらいにしておこう。べくのすけも頭がパンクしそう」

恒「……今更に思うんだけどニャ。茶器1個5、6百貫文て高過ぎね?」

べ「海外超有名ブランドの最高級一点物(日の本基準)という事で!!」


恒興くんの官位で貰えそうな物となると正六位で常陸介、上総介、上野介、兵衛佐、太宰大監、安房守、若狭守、能登守、佐渡守、丹後守、石見守、長門守、土佐守、日向守、大隅守、薩摩守。従六位で太宰少監和泉守、伊賀守、志摩守、伊豆守、飛騨守、隠岐守、淡路守、壱岐守、対馬守くらいかニャー。まだあると思いますが。

長門守あたりが誰とも被らないし、語呂もいいなーと思っています。紀伊守はね、従五位なんですよ。

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