外伝 ウチの姉上が関東でも軍神すぎてツライ

 常陸国土浦城。

 この城の城主である菅谷すげのや左衛門大夫政貞の元に凶報が届く。

 報せを届けたのは彼の養子である菅谷政頼である。


「親父、大変だ!」


「そんなに慌てるんじゃねえよ、頼。何があった?」


「落ち着いてる場合じゃねえですよ。氏治様が出陣されたと報告が」


「何ぃ!?まさか海老ヶ島城か!?時期尚早とお諌めした筈なのに……大至急兵を集めろ」


 菅谷政貞は小田家当主・小田讃岐守氏治に仕える家老である。

 小田家領の南側の防衛を任され土浦城主となっている。

 その小田家には最近奪われてしまった海老ヶ島城という城がある。

 小田家の領地の北端にある城と言っていい。

 ここを取り返そうという主君の提案を、時期を待つべきと政貞は止めていたのだ。


「それが親父、氏治様は既に敗北されたと」


「何だと!?それで氏治様はどうなった!?」


「小田城も落城し行方知れずと……」


「バカ野郎!!とっとと捜してこいや!氏治様が敵に捕まったらどうするつもりだ!」


「すいやせん、親父。すぐ行ってきやす!」


 そして出陣の報告が届く前に負けていた。

 おまけに本拠の小田城まで落城したとの事。

 政貞は息子を走らせ、氏治の捜索を始めたのだった。


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 やっとの思いで政貞は土浦城で主君・氏治と再会した。

 氏治は城下の農民に匿われて逃げ延びていたのだ。


「うええぇぇーん!政ー!」


「氏治様!!心配しやしたぜ!一体何がありやしたんで?」


 小柄なショートボブの髪型の少女が政貞に抱きついて泣いている。

 彼女が小田家当主・小田氏治である。

 とりあえず慰め、泣き止ませ、鼻をかませ、また慰め、政貞は事情を聞く事が出来た。


「海老ヶ島城攻めは止めたけど兵は集めてたでしょ。だから止めた振りして再開したら、いい奇襲になるかなと思ったの」


「ええ、それは味方にとっても奇襲なんですが」


 海老ヶ島城は上杉景虎の関東到来の少し前に、結城佐竹連合軍に攻撃され結城家傘下の下館城主・水谷みずのや正村が占拠していた。

 そして景虎が関東に来ると小田家も佐竹家も結城家も上杉側に付いたため、氏治は海老ヶ島城を取り戻せなくなる。


 だが景虎が関東を出ると北条家は古河公方を掌握、古河公方の家臣である結城家が北条方に寝返る。

 これを絶好の機会と見た氏治は海老ヶ島城を取り戻す事に決めていたのである。

 政貞はこの計画を時期尚早として止めていた。

 問題は相手が相手だからだ。


「これが大当たりでこちらが3千に対し海老ヶ島城の水谷正村は3百しか集めてなかったの。だから私は……『川を背に布陣したの』」


「……何故そこで『背水の陣』をお敷きになるんで?」


「みんな頑張って戦ってくれるかなって」


(ああ、結果が見えやすぜ)


「そしたら何でか圧されて川に叩き込まれる破目にー!うええぇぇーん!」


(おおう、やっぱり)


 水谷伊勢守正村。

 結城四天王の一人にしてほぼ関東最強クラスのこの男が海老ヶ島城にいるから問題なのだ。

 彼は多少の数の差など物ともしない。

 水谷正村の強さは個人の武もあるし指揮能力もあるが、それ以上に兵士の練度が高いのである。

 つまり小田氏治+寄せ集めの兵士VS水谷正村+精兵中の精兵になっていたのだ。

 こうなると兵力差10倍でも相手にならない上に、小田軍は少しでも押されると川に落とされる。

 戦は呆気なく終わった。


「そしたら真壁久幹と多賀谷政経まで出てきて小田城が奪われちゃったのー!うああぁぁーん!」


「真壁に多賀谷!?あんの裏切りもんのボケ共が!」


 真壁安芸守久幹は小田城の北にある真壁城の城主。

 多賀谷修理大夫政経は小田城の西にある下妻城の城主。

 この二人が手を結んで小田城を占拠したのである。


 これが関東情勢のお約束『隙を見せたら食らいつけ』である。

 こういう時に限って関東では大義名分も必要とせず、突然攻めてくる。

 そして出てくる言葉は「隙を見せた方が悪い」である。


 真壁久幹と多賀谷政経もそうだが、水谷正村も過去には小田家に仕えていた経緯がある。

 だから政貞は彼らを裏切り者と呼ぶが、彼等はそう考えていない。

 あくまで小田家が栄えていたから傘下になっていただけ、衰退したから見限るのは当然と思っているのだ。

 これも関東の日常風景だ。


「私の小田城がー!酷いわ、私が何したっていうのー!」


 既に小田城は数度奪われている、全部政貞が取り返したが。

 大体氏治の迂闊な行動が原因だが、自業自得は言わないお約束となっている。


「安心してくだせえ、氏治様。小田城はあっしが必ず取り戻しまさぁ」


「ぐすっ、本当に?」


「本当でさぁ。だから氏治様は待っていてくだせえ。あったけえ料理と風呂を用意しましたんで」


「うん、政、お願いね。あと私の事は『氏治ちゃん』って呼んでってば」


「すいやせん、それだけはご勘弁を……って前にも言いやしたぜ。流石に主君を『ちゃん』付けで呼べやせん」


「むー、私は気にしないのにー」


「お願いですから、こちらの年齢としを考えてくだせえ」


 氏治は自分のことを『氏治ちゃん』と呼ばせようと努力していた。

 政貞だけでなく他の家臣にも言っているのだが、未だに誰もそう呼んでくれない事が不満であった。

 氏治は15歳でまだ少女かも知れないが、政貞は既に40歳。

 この歳で人を『ちゃん』付けで呼ぶには勇気が必要だった。

 特に大切な何かが壊れていきそうで。(主に家臣の信頼とか威厳とか)

 因みに真壁久幹が離反した理由に、この『氏治ちゃん』問題があるという噂まであった。


 少し文句を言いながらも氏治は諦めた。

 次こそは説得してみせると気を取り直して、ご飯にお風呂に向かっていった。


 氏治が去った後、政貞は集めた軍勢に向き直る。

 この土浦城から出撃するのは1千となる、それ以上は土浦城防衛に支障が出るので無理なのだ。

 対する小田城には真壁久幹と多賀谷政経が2~3千と見られている。

 差は大きいがやらねばならない。

 それに小田城での戦いなら小田氏治を慕う民衆の蜂起も期待できる。

 勝ちの目が無い訳ではないのだ。


「おう、おめえら」


「「「へい、親父おやっさん!」」」


合戦カチコミじゃぁ!!」


「「「応っ!!」」」


 菅谷政貞は息子の政頼と共に小田城に向けて進軍を開始した。


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 甲斐の反乱をプチプチと叩き潰した上杉景虎は、その後忙しい一年を過ごした。

 まずは長野業正の死去で緩み始めていた上野国支配を立て直し(武力で恫喝)、秋は農繁期なので帰国。

 冬には毎年の風物詩である一向一揆が襲ってくるので殲滅。

 その間に北条家は北上し、武蔵国松山城が包囲される。


 上杉景虎は雪解け前に越後を出国し、武蔵国松山城を救援しようとした。

 だが雪で閉ざされた三国峠を越えるのはほぼ自殺行為である。

 故に景虎自身は良くても、兵士の疲労と士気低下はとんでもない事になって進軍できなかった。

 結果として松山城救援は間に合わなかった。

 これにより武蔵国岩槻城の太田資正が孤立してしまう。


 なのでまずは自分を裏切った豪族を討伐しようとしているのだが。


「何なのよ、この城」


「武蔵国成田家本拠『おし城』です、姉上」


「水没してる様にしか見えないわね」


「武蔵国成田家本拠『忍城』です、姉上」


 上杉景虎の問いに答えるのは弟・上杉卯松(8歳)である。大事な事なので2回言っておいた。


 武蔵国忍城。

 武蔵国北部に位置し、成田家の本拠となっている沼城である。

 その様相は大きな池(沼地)の中にいくつもの島が点在し、それぞれを独立した曲輪としている。

 そして城門に到る道は非常に狭く荷車2台分くらいで5、6人並ぶのが精一杯、はみ出せば沼地行きである。


「わざわざ二度も言わなくていいわ。それで大手門はまだ落ないのかしら」


「大手門の周りの島曲輪から集中砲火を浴びてる上に、道が沼地で進めません」


 この忍城の特徴は道が沼地でろくに進めないのである。

 船で入ったほうが早いと言われるほどで6割水没している。

 そして当たり前ではあるが城門前は2~3つの曲輪から集中砲火される様に造ってある。

 こちらは進むのにも難渋しているのに、相手は楽々迎撃出来る造りなのだ。


「何なのよ、ホントに。私に対する嫌がらせなの?」


「いや、まあ、誰に対してもこうだと思うんですが。姉上ご自身なら突破出来るのでは?」


「嫌よ、泥で汚れるじゃない」


「え?理由そんだけですか」


 実は景虎は開戦当初に一人で城門まで行った。

 当然矢と鉄砲の集中砲火を浴びたのだが、全て掠りもしなかった。

 これには忍城兵も「上杉景虎は神仏の化身か」と恐れ慄いていたのだが、一人で城門が破れる訳もなく帰ってきた。


 一人で敵の前に出る行為を景虎はよくやっている。

 小田原攻めでも城門前まで行って、ご飯食べて帰ってきた。

 当然矢と鉄砲の集中砲火を浴びたが無傷だった。

 更に小田原攻めの前哨戦だった『唐沢山城の戦い』でも、包囲している北条軍を一人で突破。

 包囲されている唐沢山城へ援軍として入る、一人で。

 このたった一人の援軍を得た唐沢山城の城兵の士気は上がり、包囲していた北条氏政は撤退した。


 卯松はこの姉の回避力だけは本当に神だなと思う。


「それより最近関東諸侯の集まりが悪い気がするのよね」


「どの大名も自分たちの争いをゆうせんさせているようです。先ごろも小田家が多賀谷、水谷、真壁に攻撃され本拠を失ったとか」


 成長し少し漢字を使い始めた与六(5歳)が答える。


「小田?小田家は私の支持者のはずよね。多賀谷、水谷、真壁っていうのは?」


「そのあたりは線引きがむずかしいです。多賀谷は結城家にぞくするので敵対、水谷は支持者でしたが今はたぶん結城側で、真壁は独立勢力ですが支持者です」


「何でそんなに曖昧なのかしら?」


「そりゃ、アイツ等全員独立勢力だからですよ。だからその時の事情で勢力をあっさり変えるんです。昨日は敵でも今日は味方ってな具合に。因みにこの忍城の成田家も独立勢力ですよ。ここ数年で上杉北条上杉北条と勢力を変えてますがね」


 この関東の事情を最もややこしくしているのが『豪族体質』である。

 自分の『一所懸命』でしか動かない豪族ばかりで、君臣の別すら定かではないからだ。

 そんな彼等が鎌倉公方を支持するか、関東管領を支持するかで終始している場所を関東という。

 そして『一所懸命』に則り、都合に合わなければ直ぐに離反していくのである。


「関東がまきょうと呼ばれるよういんかと」


「成田のヤツは忠義って言葉を知らないのね」


「そう言いたいなら他人の烏帽子を叩き落として、公衆の面前で恥掻かすとか止めてくださいよ。あの程度で怒るとか更年……スンマセンでしたー!!」


 いつの間に抜いたのか景虎の愛刀『姫鶴一文字』の刃が卯松の顎の下にあった。

 一言多いなぁと己の主人を見つめる与六であった。


 この卯松が言っているのは鶴岡八幡宮で行われた景虎の上杉家継承及び関東管領就任の事である。

 小田原攻めにおいて味方だったはずの成田家が、北条家に寝返った理由がここにある。


 この鶴岡八幡宮の儀式の時、成田家当主・成田下総守長泰は過去の慣例から下馬せずに景虎を出迎えた。

 景虎はこれを自分を見下ろす無礼と怒り、長泰の烏帽子を叩き落とすという恥辱を与えた。

 この行いに怒った長泰は忍城に帰ると北条家支持を宣言したという事情だ。


 だがこれは捏造の可能性が非常に高い。

 鶴岡八幡宮の件ではなく、成田家の過去の慣例の方だ。

 これは家祖・成田助高が源頼義(河内源氏2代目棟梁)から対等の礼を受けたというもので、歴代の河内源氏棟梁も慣例に従ったというものだ

 そのため源義家や源頼朝に下馬の礼をしなかったらしいが……そんな記録は無い。

 義家はともかく頼朝の行動はかなり詳しく『吾妻鏡』に載っているのだ。

 それこそ頼朝がいつ愛人宅に行ったのか、何回行ったのか、結果北条政子がどんだけブチ切れたのかというゴシップネタまで載っている。

 これで北条義時以外の北条家贔屓が無かったら、素晴らしい歴史書と認められただろう。


 このように『吾妻鏡』には鎌倉幕府が行った様々な儀式・祭典の記録があり、下馬せずにやっていたら必ず記録される。


 では成田長泰がこの過去の慣例を利用したのは何故だろう。

 その答えが上杉家との領土問題である。成田家には『羽生城』という所領があった。

 城主は北条家臣だったがこれは暫定的で統治は成田家で行われていた。


 だが景虎の関東侵攻で羽生城に勤める家臣の広田直繁は北条家臣の城主を追い出し城を乗っ取る。

 そしてそのまま景虎に臣従してしまったのである。

 その後、成田家も領地安堵を条件に臣従するが問題の『羽生城』は返ってこなかったのだ。


 成田長泰はこれに絶望し、一刻も早く上杉家から離れたかった。

 上杉家に臣従している限り『羽生城』を取り戻せないからだ。

 だがただ寝返ったのでは『変節漢』の汚名を免れない。

 なので景虎側から口実を作る様に仕向けたと言うのが真相だろう。

『相手から手を出させる』、戦争外交の基本である。


 これは上杉景虎の失策だった。

 景虎は広田を難癖付けてでも排除し、成田家を味方にしておくべきだったのだ。

 おかげで上野国の国境線に『忍城』という厄介な前線基地が出来てしまい、上杉軍はそれ以上南に行くことが難しくなった。

 更に成田家への処遇を見た関東諸侯は、景虎の家柄への配慮の無さや格式を軽んじる様を見て失望。

 北条家への寝返りが加速し、寝返らなくても消極的になっていった。

 だからあっという間に北条家が勢力を盛り返せたのである。

 因みに上杉家は小田原攻めの時に古河公方に足利藤氏を擁立して関東を去ったが、直ぐに北条家の推す足利義氏に取って代えられた。

 これにより古河公方の家臣である結城家が北条方に寝返っている。

 この損得勘定で動かず義理人情を優先する景虎の思考は関東ではかなりの欠点となる。


 上杉景虎が来る前の北条家は伊豆、相模、武蔵、下総を完全に、上野、下野を3/4ほど勢力圏にしていた。

 障害となっていたのは佐竹家、里見家、宇都宮家、小田家、長野家くらいで、関八州制覇は目前だったのだ。


 これが上杉景虎が関東に来ると北条家は領国の伊豆と相模と武蔵の一部、そして何故か北条支持だった下総千葉家以外に殆ど離反される。


 だが景虎が関東から出ると岩槻城の太田資正を残して殆どが北条家に戻った。

 小田原攻めで滅亡寸前だった北条家は、半年もしない内にまた関東に覇を唱える様になった。

 これを地図で眺めれば皆こう思うだろう。

「これ、なんてオセロゲーム」と。


「全く、私の何が不満なのよ。こうして毎年来てあげてるのに」


(毎年来るからなんじゃないかな)


「まあいいわ。ここはもう引き払いましょう」


「え?どうするので?」


「小田家を援護するわ。何かあれば力になろうって言ったでしょ」


 景虎は以前に『金小札色々威胴丸』を小田家から贈ってもらったと勘違いしている。

 そのため小田家が窮地に陥っているのを見捨てられなかった。


「景虎さま、小田城にいくには結城家などの領地がじゃまなのですが」


「踏み潰して進めばいいじゃない。まさか全てがこの泥城じゃないでしょ」


「いや、泥城て、アンタ」


「こんな城に時間掛けててもしょうがないわ。それにそろそろ勝利が必要でしょ」


「まあ、それは確かに」


 だが景虎にも改善しなければならない問題がある。

 それが彼女も言った『関東諸侯の集まりが悪い』というものである。

 この原因など簡単で景虎の強さが舐められているだけだ。

 だからこれを払拭するためには『勝利』こそが求められる。


 小田家援護を理由に結城家などの北条方を攻め、手近な勝利を得ようと景虎は考えたのだ。

 つまりこの『忍城』を落とすのは諦めたのである。


「柿崎!」


「はっ」


「引き払うわ。軍勢を纏めなさい。……あと、城下町、焼いておいて」


「ははっ」


 景虎は忍城の城下町に対し焼き討ちを命じる。

 忍城が落なかったので少しでも経済的打撃を与えておくためである。

 また戦後処理を難しくする事で、成田家が活動出来ない様にする目的もある。

 とは言えこの焼き討ちは建物を焼くに留まる。

 何せ農民は全て成田長泰が城内に匿ってしまっており無人だからだ。


 この後、軍勢を纏めた景虎は小田城に向かうため、北条方の佐野昌綱が治める唐沢山城へ向かった。


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 忍城から引き上げた上杉軍は佐野家の唐沢山城に攻め掛かった。

 佐野家は独立した大名ではあるが、景虎が関東を離れた隙に北条家に寝返っていた。


 この唐沢山城は上野国から下野国へ行く場合、必ず通る道に鎮座している。

 このため何としても攻め落とす必要があったのだが、かなり防御が堅い山城で苦戦していた。


「ちょっとー、何時まで掛かってるのよー。もう着陣して3日なのよ」


「3日で大手門が落ちりゃ苦労しませんよ、姉上」


「この唐沢山城は堅城ですからしかたないことかと」


「城攻めばっかで飽きたわ。どーして野戦に応じてくれないのよ、どこもかしこも」


「それが北条方の方針だからじゃないですか。大体、兵力で劣る佐野昌綱が出てきたりはしませんよ。まあ、北条の援軍が来るって話は無いので100%見捨てられていますがね」


 北条家はとにかく野戦を避け、籠城を繰り返している。

 それどころか援軍すら寄越さない。

 忍城にも援軍は来なかった、その南方にある武蔵松山城から動く事はなかった。

 越後兵が主力の景虎は秋前に帰国すると分かっていたからだ。


 関東諸侯の支持を取り戻すため、華々しい勝利が欲しい景虎はかなり苛立っていた。


「もう怒った。私が行ってくるわ」


 子供っぽい怒り顔を作って景虎は大手門へと歩き出す。

 卯松はそれを止める気はなかった。


「あのー、いいんですか。景虎様、行っちゃいましたよ」


「ほっとけ、与六。飽きたら帰ってくるしどうせ無傷だろ」


 卯松は子供っぽい喋り方になっている景虎を見て、相当ストレスが溜まっているなと感じていた。

 彼女はイライラし過ぎると口調が子供っぽくなる事を卯松は知っていた。

 だから適当に暴れてスッキリすればいい。

 どうせこの唐沢山城攻略には時間が掛かるので、その間本陣でイライラされても面倒だと卯松は思っていた。


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「全くこの程度の城のどこが堅城なのかしら。やっぱり前陣を上野兵にしたのが間違いね」


 景虎は真下に大手門を見下ろす。


 唐沢山城の大手門脇には『鏡岩』という岩山が聳え立っている。

 この岩山は大手門への道を狭めるだけでなく、大手門に取り付くにはこの岩山をぐるりと迂回しなければならなかった。

 そして鏡岩は外側は切り立った5m程の崖だが城内からは登れるようになっており、崩れないし燃えない櫓として機能している。

 ここから真下を迂回している敵に矢を射掛けたり、石を投げ落としたりする構造になっているのだ。


 この完全に垂直な崖を登れる訳がない、そのはずだったのだが。


「ガラ空きじゃない、から入れば」


 桃色の鎧を着た女性があっという間に登ってきて、この『鏡岩』を制圧してしまった。

 いや、登ったというより僅かな足場だけで跳び上がって来たという方が正解か。

 そして岩の上にいた城兵は全て斬り伏せるか、岩から落ちるかした。


「最近暴れられなくてストレスだったのよね。さあ、楽しませてもらうわ」


 景虎は身を踊らせて崖を降る。

 目標は大手門を守る敵兵の真っ只中。

 上杉景虎は唐沢山城大手門に対し一人逆落としを仕掛けた。


 そして少しの時間の後、大手門は陥落した。


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 本陣で座っている俺こと上杉卯松は今目の前が訳の分からない状況に陥っている。

 いや、ここに居る全員がそうではあるまいか。


 何しろスッキリした笑顔で、いつも通りの無傷で姉上が帰ってきた。まあ、それはいい。

 問題は姉上が片手で引きずってきたのが唐沢山城主・佐野家当主・佐野昌綱という事だった。


 どうやら彼は大手門の戦いが有利に進んでいるという事で、陣頭指揮に出ていたらしい。

 そこに突然、姉上の一人逆落としを喰らい為す術無く捕まってしまった。


 結局当主が捕まってしまった唐沢山城は開城した。

 だが開城の条件として佐野昌綱の命の保証と領地安堵を要求。

 非常に厚かましい条件のはずだが、意外にも姉上はこれを飲んだ。

 そして佐野家を傘下大名とし、佐野昌綱も即座に開放した。


 今までの姉上と違う恩情沙汰に俺は首を傾げるばかりだった。


「どうして佐野家にここまで甘い沙汰を?」


「……鶴岡八幡宮で成田長泰が吐き捨てていった事、覚えているかしら?」


「えーと?」


「『歴史を軽んじる者に関東は靡かない』よ。何となくわかってきたわ。つまり『一所懸命』、『領地』、『領民』、『家』……何百年という結び付きが深すぎるのよ。多分、佐野昌綱を殺せば、佐野家を潰せば、戦は反乱に変わるわね」


 この関東は『関東八屋形』をはじめとする多数の歴史ある古い名家がひしめいている。

 その中で北条家が新参であることは有名だが、関東の新参と言えばもう一つある。

『上杉家』だ。

 上杉家は鎌倉6代目将軍・宗尊親王と共に関東にやってきた藤原重房が上杉姓を賜ったのが始まりであり、鎌倉中期に興った。

 これで新参扱いされるのである。


 それ以外の家は大体平安中期~末期で興した家であり、何百年も同じ領地を治め続けてきたのである。

 この枠組みを崩すことが非常に難しく、下手に手を出すと噛み付かれる。

 更に周りからも信用されなくなるという連鎖反応のオマケ付きだ。

 なので現状維持で傘下にするのが一番面倒が無いと言える。


「な、成る程」


「私はそんな暇じゃないし、早く小田城に行きたいのよ。さあ、次はどこかしら」


「次は下野国祇園城主・小山秀綱です」


 弟から次の目標を聞いた景虎は全軍に進軍を命じた。


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【あとがき】

実年齢でいけば

氏治ちゃん28歳

政さん50歳オーバーですニャー。


独断と偏見と架空小説なので

氏治ちゃん15歳

政さん40歳くらいにしますニャ。


忍城を知るために『のぼうの城』を観ましたがとても面白かったですニャー。

津波は過剰演出でしたが。(水は徐々に貯めないと堤防が壊れる)

しかしべくのすけの予想に反して『甲斐姫』が全然暴れませんでした。

まあ忍城の戦いでは甲斐姫は十代の小娘(多分18)でただの飾りという説もあるので、間違ってはいませんニャー。

ただ甲斐姫はこの『忍城の戦い』の3ヶ月後に大暴れします。

相手は蒲生軍ですニャ。


北条征伐の後、成田家は秀吉の沙汰待ちという事で蒲生氏郷預かりになります。

大名としての替地が決定したら連絡するよって感じです。

蒲生氏郷も忍城の見事な戦いに感じ入っており、成田氏長(甲斐姫の父親)を城主として遇します。

この時、監視役に付けられた新参の蒲生家臣・浜田兄弟はこれが気に入らなかった様です。


『忍城の戦い』の3ヶ月後、葛西大崎一揆が発生。

蒲生氏郷が出撃し、成田氏長も成田家全軍を率いて出陣した。

この隙に浜田兄弟は城を武力制圧した。

浜田兄弟は「成田家なんて敗残の罪人、自分達の言い分は当たり前に認められて城主になれる」と考えての行動だった様です。

伊達政宗の調略という説も有り(この説が一番有り得ると思えるのは偏見でしょうかニャ?)


城に残っていた甲斐姫は突然の事で為す術無く逃亡。

更に逃亡先で甲斐姫は寝たきりになっていた仲の良い義母が浜田兄弟に殺された事を知る。

これにブチ切れた甲斐姫は残された百名足らずの兵で浜田弟の追撃軍(2~3百?)に突撃を敢行。

『忍城の戦い』を生き抜いた成田家兵士の強さは尋常ではない上に、甲斐姫も敵兵を斬り倒しまくった。

ついには浜田弟が追い詰められて甲斐姫に討ち取られる。


その後、蒲生氏郷の元に成田家謀反の報せが届くが、氏郷はこれを否定。

即座に浜田兄弟の謀反と断定し、成田軍に帰還を命じる。

そして駆け付けた父・氏長と合流し、甲斐姫は奪われた城に攻め込む。

首謀者である浜田兄を見つけ右腕を斬り飛ばし、蒲生氏郷に突き出した。


『忍城の戦い』の3ヶ月後にこんな暴れ方する人ですから、忍城で暴れいても不思議じゃありませんニャー。

因みにこの甲斐姫は大阪夏の陣で単独突破して脱出したという噂までありますニャ。(冗談だよね、流石に)

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