織田家の新戦術 前編

 多気より兵を率いて大河内城に入った北畠具教のところにとびきりの凶報が届く。

 彼が大河内城に来た時には既に木造城が無血開城、滝川軍が周辺に約1万で展開。

 更に池田軍が大湊より船で上陸、田丸城も無血開城し約1万を展開。

 両軍は大河内城を北と東から圧迫するように進軍中であると報告がされた。


「敵の展開速度が速すぎます。おそらく、木造殿と田丸殿は・・・」


「内通しておったか。何という事だ、北畠に連なる者達がこうも容易く」


 弟の木造具政は幼い頃に木造家に養子に入った。

 離れていたが故に兄弟仲は良くもなく悪くもなくという程度ではあったが、一門筆頭格として支えてくれるだろうと思っていた。

 田丸直昌の田丸家にしても具教から3代前の当主から別れた北畠庶流なのだ。

 直昌との仲も悪くなかったはずだ、具教は彼を重臣として扱ってきたのだから。

 だが二人は寝返った。

 この北畠の血族が容易く敵に降った事実は具教に衝撃を与えた、一門ですら寝返らせる織田家の調略力に恐怖したのだ。

 だがこれが山育ちの具教と海側で育った具政と直昌の意識の差であろう。

 この時代の山育ちは情報量がかなり制限されるため、多様な考え方を持ちにくい。

 山は経済圏から外れており、商人があまり来ないからだ。

 結果、情報が少なく地元だけの考え方で固まる頑なな人間が育ちやすい。

 海側及び商路経済圏で育つ人間というのは商人が物流のため動き続けているため、色んな情報が勝手に入ってくる。

 故に流行が入りやすく多様な考え方に触れ、それらを利用しようとする人間が多く育つ。

 動き続ける状況に柔軟に対応せねばならず、情報が煩雑で一本気な頑なさではやりにくいのだ。

 美濃にしても経済圏の西美濃と山国の東美濃ではかなり人の質が違う。

 東美濃は比較的先代岸勘解由の様な人物が多く、ちゃんと大義名分と道筋を整えなければならなかったのに対し、西美濃は安藤伊賀や氏家三河の様に調略前からあからさまな行動に出る者達がいる。

 機を見るに敏と言えば聞こえはいいだろうか。

 一応比較的の話であって全員という訳ではない、安濃津という重要港で育った細野藤敦という頑固者もいる。

 つまりは海側に居た彼等は商人から色んな情報を得ていたのである。

 特に織田家の情報はよく収集していたはずだ。

 神戸家や関家を見るに織田信長の従属大名の扱いは関所と関銭の撤廃だけで内政干渉は無い。

 そして戦いに向かない大量の傭兵を土木作業員にしての街道整備や堤防造り、それに伴う津島会合衆による商路開発。

 更にこれは従属国にも及んでいる、これは一番彼等を驚かせたであろう。

 常識的に大名とは優れた方策や技術は秘匿して独り占めにする。

 従属大名はおこぼれ程度で手懐けるもの、力を付けさせると逆らうと思うからだ。

 だからこそ従属大名や大豪族に嫁や養子を送り一族化するのである。

 そして主家からの嫁や養子を受け入れれば、色々と優遇措置を取って貰えるという図式である。

 だが信長は自分の味方である他大名の領地にも開発の手を入れている、現在も神戸家に堤防造りに技術者と作業員(傭兵)を送っている。

 このあたりが織田信長と他の大名との大きな違いだろう。

 信長は周りを開発すれば中心にある織田家が最も儲かる事を知っていたからだ。

 流通や開発による商品の増加、商人の増加と流動による経済効果を狙ったものなのである。

 信長自身が経済感覚というものに物凄く詳しくないと、こんな事は絶対に出来ない。

 これを知った具政や直昌が羨ましく思っても無理はない。

 そして恒興によって恐ろしい規模の経済封鎖が展開され、裏では滝川一盛を通して調略を受ける事になる。

 彼等に寝返りの名分など要らない、何しろ大軍が攻めてきて『落城』しただけだから。


「だが!その程度で数万の幕府軍を何度も弾き返したこの大河内城が落とせると思うなよ!」


 具教は防衛に絶対の自信を持っていた。

 数万の幕府軍に対し最外門である大手門すら抜かれた事のない、この大河内城に。


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 恒興は長谷城から進軍して大河内城の大手門に迫る。

 一方の滝川軍も神山城から出て大河内城の搦手側へと回る。

 そして城の正面の小高い山の上に本陣を置いた恒興は各部隊長を召集し軍議を開く。


「ヤバイ構造だね、大手門が崖の間に挟み込まれている」


「そうだニャー」


 佐々成政のいうヤバイ構造は大手門の位置である。

 大手門までの道程が長く、更にその道の両側を切り立った崖が尾根の如く突き出している。

 崖と崖の真ん中に大手門への道が有り、幅は50m程しかない。

 明らかに大軍が通れる道ではない。


「こりゃ大手門に辿り着く前にハリネズミにされるぞ」


「そうだニャー」


 前田利家も成政の言葉に同意する。

 当然だがその崖の上には城壁があり、弓兵が城壁の上から敵を狙い撃ちに出来る構造なのは一目瞭然である。

 大手門にたどり着くまでに多数の死傷者が出る事は当たり前と言わざるを得ない。


「そのための櫓が四ヶ所。そして大手門への道は山城なんだから当然坂道ときておるか。厄介だな」


「そうだニャー」


 猛将と名を馳せた柴田勝家もこの城の攻めにくさを予想する。

 問題なのは大手門までの道が坂道という事だ。

 ただでさえ坂道で速度が落ちる上に、上からは弓矢の嵐が吹き荒れる。

 門を破るための重い破城槌など持ってたどり着けと言う方が無茶と思える。

 そのため軍議の間に来た諸将も少しげんなりとした表情を見せた。

 ・・・ただ恒興だけが平然と聞き流していた。


「何だよ、さっきから気の無い返事しやがって」


「解説ご苦労さんとしか思ってないからニャー」


「えらく余裕だね」


「そりゃー旧時代の遺物さん達が攻めるにはちと辛い城だろうニャ」


 恒興の言う『旧時代の遺物』とは過去にここを攻めた足利幕府軍の事である。

 彼等の戦法は大体正面突破のゴリ押しになるので、ここで多数の死傷者を出して膠着状態になったのであろうと恒興は見ている。

 戦術をちゃんと運用するには寄り合い所帯の連合軍だと難しく、わかりやすい命令しか出せないからだ。

 だから足利尊氏も鎌倉幕府軍も戦術を駆使する楠木正成にいいようにやられたのだ。

 結局、楠木正成の足を引っ張ったのは味方である南朝の公卿達である。

 正面から戦う事に反対する楠木正成を、公卿達が会戦で足利尊氏を華々しく破るように強要した。

 結果、楠木正成は戦死した。

 ナポレオンの名言である『真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である』というのは正にこの事だろう。

『無能な働き者は銃殺するしかない』という言葉もあるくらいだ。


「ニャー達、織田軍が具教に『新時代の攻城戦』を見せてやるニャ」


 一般的に山城を代表とする旧時代の城は連郭式山城が多く、城門に攻め寄せる敵に対し周りの櫓から弓矢と投石の集中砲火で城門を死守する。

 連郭式とはくるわを本丸と並列に配置する事である。

 大手門が破られたら三の丸門で抵抗、次は二の丸門、そして本丸門と守る事になる。

 この防衛戦はかなり単純で門の死守と、城壁の上や櫓から徹底的に弓矢と投石の攻撃をする事である。

 対してこれから造られる事になる近代的城郭は敵を城門から引き込んで敵を始末するという構造に変わっていく。

 それが恒興の言う新時代の攻城戦に対応した結果だからだ。

 その好例となるのは真田昌幸が築く『上田城』や加藤清正が築く『熊本城』だ。(まだ無いです)

 これらの城は敵を引き込んでいくつもの狭路に分断し、『虎口こぐち』という一方的に攻撃出来る場所に誘い込んで始末する。

 また城の高低差や内堀を活かして外郭に侵入した敵を内郭から徹底射撃したり、視覚的トリックを利用して本丸に向かっているのに絶対にたどり着けなくしてあったりと、大手門を破られてからが戦ですと言わんばかりの造りになっていくのである。

 そのため近代的な城には城壁に『狭間さま』と呼ばれる穴が空いており、ここに鉄砲を差し込んで外郭に侵入した敵に対し一方的に射撃する。

 狭間は効率良く敵を倒すためだけではなく、城壁そのものが敵の反撃を防いでくれる優れ物で近代的城郭には必ずといっていいほどある。

 なので狭間の無い旧時代城郭は城壁の上まで身を乗り出して、弓矢や投石で攻撃することになる。

 後年の話になるが堅牢無比と謳わた稲葉山城こと岐阜城は『関ヶ原の戦い』の前哨戦として福島正則に1日で落城させられた。

 これは守っていた織田秀信(信長の孫)がヘタレている訳ではなく、岐阜城が近代化改修をしていなかったためである。

 つまり岐阜城は斎藤道三の頃から城郭が変わっておらず、信長が変えた所は天守閣を造っただけの時代遅れだったからだ。


「それで一番手は誰にするかニャーと・・・」


「ハイハイハーイ!ウチがやる!肥田家先陣、いいでしょ!」


 今回は攻め手の順番を隊毎に決めなくてはならない。

 大手門への道が狭いため、攻め手の順番を決めておかないと門前で大渋滞を起こすからだ。

 そんなことになれば明らかに弓矢の的になるだけだ。

 その1番手に肥田玄蕃が元気良く立候補する。


「張り切ってるなぁ、玄蕃ちゃん。でも攻城戦一番手は貧乏くじになるかもよ」


「えー、何でよー」


「健全な門を攻撃する事になるからですよ。後発の方が有利なんです」


 玄蕃と仲のいい佐藤紀伊と岸勘解由がそっと忠告する。

 その言葉が示すとおり、肥田家の先陣に異議を唱える者はいなかった。

 何故なら先陣は一番最初に攻撃するため、当たり前だが城門が一番堅い。

 つまり功名となる城門突破や城内一番乗りから最も遠い役目となるからだ。

 傷ついた城門を攻撃した方が突破の確率が上がるため、攻城戦の先陣には大した魅力が無いのである。


「勘解由の言う通りだが、どうせ城門が1日で落ちる事はないから気にしなくていいニャ。それより何でそんなに張り切っているのかニャ?」


「だって私たち、織田家に臣従した時に川沿いの未開地を差し出したでしょ」


「ああ、人もいないし農地も無い土地だったニャ」


 肥田家、佐藤家、岸家など木曽川流域に領地を持つ彼等は、織田家臣従の際に川沿いの洪水地帯を信長に差し出した。

 毎年洪水になるため人も居らず農地も無い荒れた土地であった。

 要は自分達の手に負えない面倒な領地を差し出して臣従の証としたのだ。

 そしてその時は織田家のお金で堤防が出来ればいいなあくらいしか思っていなかった。

 他にも氏家家が墨俣の領地を差し出し、木下秀吉の領地となっている。(夏に水没して逃げ出す事になるが)


「今は堤防も出来て、人も居て農地も出来たでしょ。あの土地が元々肥田家の物だったと思うと返して欲しくて」


 信長にとってこれは願ったりであった、というか臣従したばかりの豪族の領地のどう手を出そうか考えていたくらいだ。

 それ故に信長の行動は速かった、新しいおもちゃを手に入れた様に堤防を造りまくっていった。

 何しろ造れば造るほど農地が増え、人が増え、市場が増え、結果収益が増えるという好循環だったからだ。

 そして人が入植し村が出来て市場も出来た頃、彼等は「元々あの土地は自分達の物だったのに」と思う様になっていた。

 身勝手な話ではあるが、彼等は功績を稼いで差し出した土地を褒美に貰いたいのである。


「だから先陣で功を立てるの。肥田家の強さを見せるわ」


「まあ本人も張り切っているので良いのでは?」


 せっかくやる気になっている者が立候補しているのでと宗珊も薦める。

 城内一番乗りするなら一番手以外の方が確率が上がるので玄蕃以外立候補者がいなかった。


「まあそうだニャ。先陣は肥田家、第2陣は柴田衆にウチの飯尾隊を加える。以降は佐藤家と岸家、遠藤家、金森隊と滝川隊、久々利家の順番で大手門を攻撃するニャー。各々、準備は怠るニャよ!」


「「「ははっ!」」」


 恒興は宗珊の推薦を受けて肥田玄蕃を先陣とする。

 以降は柴田勝家と飯尾敏宗、佐藤紀伊と岸勘解由、遠藤慶隆、金森長近と滝川一盛、久々利頼興の順番で攻め掛かる事に決める。


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 肥田玄蕃は少し凹んで肥田家の陣に帰った。

 あの場では先陣を主張して受理された訳だが、それは言い出した手前引っ込めなかっただけなのだ。

 軍議が終わった後、やってしまったと後悔した。

 玄蕃は肥田家のみんなを功名の場から遠ざけてしまったと。

 そして戻って家老の肥田兵内ひょうないに報告するのだった。


「先陣ですか?」


 肥田兵内は40歳前後の壮年な男で、先代肥田忠直の庶兄として肥田家を支える家老である。

 玄蕃にとっても伯父に当たる者であまり強く出れない上に、家中を仕切っているのはこの兵内であった。

 父親の忠直が芸術に没頭して遊んでいるため、現在の玄蕃の後見役でもある。(普通は父親が後見役)

 それ故、玄蕃は俯いて申し訳なさそうに報告した。

 怒られると思ったからだ。


「うん、みんなが後陣の方が有利って言ってた。やっぱり余計な事しちゃったかな、私」


「いえいえ、そんな事はございません。流石はご当主、この兵内、感服致しましたよ」


「え、そうなの?」


 怒られるどころか英断だと褒められてしまい、玄蕃の表情も一気に明るいものになる。


「手柄というものは証拠だけではなく、指揮官の印象も大事ですので。先陣で暴れて肥田家が有用である事を見せればいいのです」


 兵卒や備大将未満の侍の功績は如何に敵を討ち取ったかになる、その証拠品が『くび』である。

 だが肥田玄蕃は兵数1千を擁する立派な備大将である。

 このため備大将の功績の有無を判定するのは『総大将の恒興』なのである。

 その恒興の印象と『軍目付』の加藤政盛の報告を元に功績が決まり、恒興から信長に上申されるのである。

 傘下豪族である肥田家への褒美は恒興からではなく信長から出るものだからだ。

 あくまで肥田家は与力豪族として信長から池田家に派遣されている体裁なのである。

 だから恒興は小高い山に張った陣から動かず、味方の働きをじっと観察しているのである。

 もちろん状況に応じて援護や部隊交代の指示も出す。

 つまり恒興の居る陣は織田全軍の指揮所であり、伝令報告の拠点でもある。

 故に恒興が陣から動く時は戦闘終了か全軍壊走となる。

 例外は上杉家で総大将が有り得ないほど動き回る、そのため上杉家の伝令の仕事は苛烈を極めるだろう。

 要は恒興に肥田家は強くて役に立つと思わせれば、自然と褒美の多少も変わってくるという事だ。

 他人があまりやりたがらない役目を率先してやる事も有意義だと兵内は言う。


「そのためにも大切な戦意高揚の儀式|(ライブ)です。皆も待っていますから行きましょうか」


「うん!」


 兵内の説明に納得した玄蕃は笑顔で肥田家の兵士ファンのみんなが待つ肥田家の陣内ステージへと向かっていった。


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 早々に準備を終えた岸勘解由は隣にある佐藤家の陣を訪れていた。

 岸家の準備が素早く終わったので、念のため隣を見に来たのである。

 縁戚なのだし必要なら手伝おうと思ったのだ。


「準備は進んでいますか、紀伊」


「おう、勘解由か。バッチリだぜ・・・って、何だよ。いきなり怪訝な顔をして」


「あ、いえ、大した事ではないのですが、私は紀伊の事を『義兄』と呼ぶべきかなと」


 岸勘解由の妻は佐藤紀伊の妹なので形式上は義理の兄弟となる。


「止めてくれ。年上から義兄呼ばわりされたくねーって。紀伊、勘解由でいいじゃないか」


「まあ、そうですね。・・・しかしやっていますね、相変わらず」


「ああ、いつ見ても不可思議だよな。肥田家の陣は」


 佐藤紀伊の陣の隣に肥田家の陣があるのだが、そこは異様な熱気と歓声で溢れていた。

 陣幕によって視界が遮られているので中の様子までは見えないが、紀伊も勘解由も内容は知っている。

 歌っているのだ、彼女が、肥田玄蕃が。

 玄蕃のために一段高い舞台ステージが特設され、その周りを肥田家の兵士ファンが取り囲んで熱狂しているのだ。

 もちろんお触りはや舞台への乱入は禁止、やったヤツは他の兵士ファンの手によって制裁されるという都市伝説いいつたえがあるらしい。


「あれで肥田家は強いんだから、文句は言えんが」


「真似すら出来ませんしね」


 今こうして二人が喋っている間にも彼女は歌っているのだろうが、周りの兵士ファン達の雄叫びで全く聞こえない。

 そう、声援を通り越して雄叫びになっているのだ。

 何をどうやったら人をそんなに熱狂させられるのか、二人には皆目見当がつかなかった。


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【あとがき】

べ「小学校1年の時に親から貰ったプレゼントは『小説・武田信玄』、尊敬する武将は『武田信玄』公ですニャー。べくのすけです」

恒「のっけから法螺吹いてんじゃねーギャ!!」

べ「何で嘘になるのさ」

恒「架空小説だからって武田家潰したヤツのセリフじゃないニャー」

べ「それは物語の方向性だから、武田再興をやりたいから」(欲望)

恒「まあ、信虎と勝頼がどっかに居る時点でモロバレな伏線だニャ」

べ「で、その過程で使えなくなったエピソードの考察でも入れとこうかなと」

恒「エピソード?」

べ「今回は『三段撃ち』の有無、長篠の戦いは無いからね」

恒「武田家が存在してないからニャー。で、三段撃ちがどうしたニャ?」

べ「長篠の戦いで三段撃ちが使われたかどうかはタイムマシンを作って誰か見に行ってほしい。ここでは可能かどうか考える」

恒「ほう、ほう」

べ「三段撃ちが無かった根拠は『不可能』であり、時代小説の脚色だとする論だね。火縄銃(マスケット)は再装填に3分掛かる」

恒「そうだニャー」

べ「世界でも三段撃ちの様な連続発射は熟考されていた。その一人がオラニエ公マウリッツ。彼は『テルシオ(槍兵陣)』を擁する当時最強国であったスペインから独立するため、新戦術を考案する。それがマスケットの連続発射陣だ」

恒「オランダの呼び方はこのオラニエ公の領地が元ですニャ。オランダという国は存在していないので注意が必要ですニャー。正式な国名は『ネーデルラント王国』ですニャ」

べ「そして訓練に効率化に取り組んだ末に10列の連続発射陣の構築に成功したのだ!」

恒「それじゃ十段撃ちだニャ」

べ「だけどこの訓練に効率化にを突き詰めた傭兵訓練マニュアルは軍事革命とまで評価されている。そして後にオランダはテルシオを打ち破り独立を果たした。因みにマウリッツは1567年の生まれです」

恒「あのー、その8年後に長篠の戦いニャんですけど。その頃にヨーロッパは十段撃ちですか」

べ「次の人物はスウェーデン王グスタフ2世アドルフ、通称『北方の獅子王』。彼は勇敢でありアイデアマンでもある。騎馬鉄砲隊『竜騎兵(ドラグーン)』の生みの親でもある。生まれは1594年だ!」

恒「伊達政宗より30年程遅いニャ!」

べ「彼はマウリッツの訓練書に学び、更に訓練と訓練を重ね六段撃ちと漸進(キャタピラ)射撃陣を構築した」

恒「キャタピラ射撃陣?」

べ「陣というのは隊列が重要だけど、前進して射撃するとどうしても隊列の維持が難しい。だからマウリッツは射撃した最前列を最後方に回らせた。だけどこれでは部隊は進めない、弾幕を張りながら敵に迫ることが出来ない。そこでグスタフ2世は最前列が射撃したらその場で次弾装填させて、最後尾が最前列に出て撃つスタイルを取った。これなら隊列を崩さず、かつ人一人分前進できる。これを漸進射撃という。島津家の輪番撃ちに近い概念だ。(島津家の方が百倍危険)」

恒「ここでようやく六段ニャー」

べ「お次で最後、三段撃ちをガチで実現させた人物。プロイセン王フリードリヒ2世、通称『大王(デア・グローセ)』。マリア・テレジアに女王と認めて欲しけりゃシュレジェン寄越せと戦争を仕掛けた啓蒙思想溢れるお方です」

恒「啓蒙の意味を調べてから喋れニャ!」

べ「彼は訓練に訓練と訓練を重ね、更に死人が出る程の訓練に訓練と訓練を重ねた結果、三段撃ちを実現させたのだ。彼等プロイセンの効率化は常軌を逸しており、掛け声にまで及ぶ。普通号令は『次弾装填、並べ、構え、狙え、撃て、次弾装填』といったところだがプロイセン流は『次弾装填、振り向け、撃て、次弾装填』なのである。このため諸外国からプロイセン兵は音だけで人を殺そうとすると揶揄された」

恒「頼むから敵味方の識別くらいはしてくれニャ」

べ「フリードリヒ大王は1712年生まれ。日本は江戸時代で6代目将軍・徳川家宣の治世だね」

恒「ここでようやく三段撃ちかニャー」

べ「三段撃ち否定の材料としてこの三人は必ず出てくる。そして信長の兵士が傭兵が主で精兵ではない上に訓練マニュアルもないのだから出来る訳がないという主張かな。これを聞いて恒興くんはどう思うかな?」

恒「『早合』忘れてんじゃねーギャ。アレなら熟練するだけで20秒で再装填完了だニャー。あれは雑賀のヤツらが当たり前の様に使ってくるから、普通に織田家にも導入されるニャ」

べ「雑賀衆は敵じゃないの?技術秘匿するのでは?」

恒「アイツ等は大名じゃないニャ。惣国一揆の一つニャんだよ。だから本願寺に雇われたヤツらもいれば、織田家で稼いでいるヤツもいる。伊賀と一緒で個人主義だニャー」

べ「成る程、では三段撃ちは可能か」

恒「長篠でやったかどうかは知らんが可能と言えば可能だニャー。とりあえず物語では上洛後くらいに使える様にしてくれ」

べ「でも『早合』はヨーロッパから伝わったそうなんだが、それなら上記の偉人達は何故『早合』を使っていないのだろうか?」(ヨーロッパでは1300年代には紙式簡易薬莢が存在するらしい)

恒「それは・・・永遠の謎だニャー」

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