浮気騒動

 一盛を南伊勢の調略に向かわせて数日後、恒興は金森長近を呼んで今後の美濃調略を話し合う。

 その際、登場の変なポーズを決められない様に、彼が来た瞬間に恒興自身で障子を開いた。

 長近は少し拗ねていたが無視した。


「岸勘解由の様子はどうだニャ?」


「ようやく会ってもらえる様になったところだね。利治様に手紙を書いて貰ってやっとさ」


 東濃攻略成功により現在の調略対象は中濃加茂の堂洞城主・岸勘解由かげゆ信周一人となっていた。

 彼は長近がただ来たくらいでは会ってくれないので、斎藤利治に依頼して手紙を書いてもらっていた。

 さすがの岸勘解由も斎藤道三の息子で斎藤義龍の弟の手紙を無視できず、少しづつ会える様になっていた。


「なら頃合いだニャー。岸勘解由に投げ掛ける言葉を変える」


「どんな感じだい?」


「それはな、『斎藤龍興は義龍公の後継者に相応しいのか』だニャ」


 斎藤龍興に対する一番の切り札は現在信長の元にいる斎藤義龍の弟・斎藤新五郎利治である。

 彼こそが織田家による美濃攻略の最重要人物なのである。

 信長による美濃攻略の大義名分は『斎藤家当主は龍興ではなく利治だ』なのであって、『美濃譲り状』などという有るか無いか解らない手紙ではない。

 そんな紙切れが一国を切り取る大義名分になったら、誰でも偽造に走るだろう。

 当初信長は舅・斎藤道三が討たれ、仇討ちも失敗したことで美濃を攻める大義名分を失った。

 そこで信長は譲り状の話を広め大義名分の代わりにしようとしたが、その後直ぐ利治が信長の元に逃げてきて意味を失った。

 そして譲り状の存在は利治からもらったことになった。

 なので斎藤利治とは美濃攻略の大義名分そのものなのだ。

 因みに信長の正室であるお濃の方は嫁いだ時点で織田家の女性となるので、斎藤家の男子が絶えない限りは大義名分にならない。


「成る程、そろそろ切り込んでいく訳だ」


「東濃制圧作戦で龍興が動かなかった事を出汁に使うといい。あと岸家のお隣の二家、佐藤紀伊と肥田玄蕃にも声を掛け始めるニャー」


 東濃制圧作戦において龍興が動かなかった事実は非常に大きな揺さぶりになる。

 たとえそこにどんな理由があってもだ。

 豪族達は『織田家に攻められたら東濃の様に見捨てられる』と思ってしまうのだ。

 だから龍興は無理をしてでも出撃はしなければならなかった。

 そこら辺が若い彼には理解出来ていないのだろう、もし義龍が存命なら少数でも必ず出撃し領地を守る意志は見せたはずだ。


「そうだね。特に可児が織田家の領地となった今、彼等は最前線の領主となった訳だ。領地を荒らされたくないが故、簡単に落ちるかもね」


 加治田城主・佐藤紀伊守忠能の領地は猿啄城の北方で、岸家とはかなりの隣近所である。

 岸家自体が佐藤家の分家なので当然といえば当然かもしれない。

 そして米田城主・肥田玄蕃充忠直の領地は森可成の兼山城の北方直ぐの場所で、思い切り最前線になっている。


「ああ、それだニャ。佐藤と肥田は何を言ってきても寝返らせるなよ。ニャーが全てを整えてやるから、時が来るまで待てと伝えるニャー」


「?・・・さすがに何故なのか理解出来ないのだけど?」


 佐藤家と肥田家は領地的に岸家を東西で挟む様に存在している。

 そのため佐藤・肥田両家が寝返れば岸家は領地が孤立することになるので、岸家攻略は成ったも同然になる。

 更に言えば猿啄城も孤立するので、中濃攻略の大半が終了する事になる。

 長近が考えるに恒興の目標達成の近道だと思うのだ。

 なのに恒興はそれをわざと選ばず、時間を掛けようとしている。

 長近は主君である恒興の考えを理解したくて説明を求めた。


「佐藤と肥田の寝返りは岸勘解由の態度を硬化させる可能性があるニャー」


 それを聞いて長近は前々から疑問に思っていた事を思い切って聞いてみる。


「我が友よ、君は岸家にかなり気を使っている様だけど何故なんだい?」


「ニャーは中濃の全てを無傷で欲しいからだ」


「無傷とは・・・また強欲だね。でも君なら出来ると思えるよ」


「頼んだニャー、長近」


 長近は納得した、と同時に性急な考えをしていた自分を恥じた。

 この戦国の世にあって戦で血を流すのは当然の話だが、それでも流れる血は少ない方がいい。

 だが目の前の男はなるべく血を流す事無く、中濃を自分のものにしたいと言ったのだ。

 物事を強引に進めれば流す血の量は増える。

 だから恒興は限りなく我慢強く順序立てて、豪族達が従いやすい名分を整えているのだと。

 東濃攻略において斎藤大納言家を利用したのもそうだ。

 東濃の豪族には元々斎藤正義に従っていた者が多いから、御家再興となれば戻るのは普通なのだ。

 こうすれば東濃の豪族は裏切ったと後ろ指を指されず、立場を織田家陣営に移す事が出来る訳だ。

 そして彼等はこう言えるだろう、『自分達は元の主家に戻っただけ』と。

 この様な名分を恒興は中濃に関しても組み立てているのだと長近は理解し、その助けになるべく頑張ろうと思い決めた。


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 長近が立ち去った自分の部屋で、恒興は昔の記憶を思い出していた。

 昔といっても恒興の前世の方である。

 その中の岸家に関連する記憶を思い出して、独り言(ご)ちる。


(・・・長近にはああ言ったけど、格好付けすぎかニャー)


 恒興が岸家に拘る理由は前世での経験が重きを為している。

 それは堂洞合戦と呼ばれた殲滅戦の事だ。

 事の経緯はまず中濃豪族の岸・佐藤・肥田の3家は親族で半ば同盟関係の様なものがあり、特に佐藤家から岸家には嫁が出されていた。

 だが佐藤家と肥田家は織田家に寝返り、岸家攻略の尖兵となった。

 両家の裏切りに怒り狂った岸勘解由は佐藤家から来ていた嫁の八重緑を磔にして殺す。

 佐藤紀伊の娘・八重緑はそこで8歳の短い生涯を終える。

 その後、進退極まった岸勘解由は城内の女子供孫に至るまで殺戮。

 これは岸勘解由自身がもう生き延びる気は無いからと、家族を先に送ったのである。(ただし、孫の一人が乳母に連れられ逃げ延びたので岸家は断絶を免れる)

 これを聞いた信長は岸勘解由の説得を諦め、徹底的な殲滅を指示したのである。

 まず城外にて堂洞城に合流しようとした岸孫四郎信房を包囲殲滅。

 これを聞いた岸勘解由の妻はこう言った。


「我が子が見事な討ち死にを遂げました。さぁ、私達も討ち死にを急ぎましょう」


 岸勘解由は堂洞城の門を開き、妻と共に残る全軍で織田信長目指して突撃した。

 たった2百名足らずであったが、全員が死兵と化しており、その戦闘力は凄まじかった。

 その凄まじさは前衛の丹羽衆を引かせ、柴田衆を押し返した。

 そして信長の元には行かせないと立ちはだかった池田衆は散々に打ち破られ、恒興自身が岸勘解由夫妻に追い駆けられるという結果だった。

 結局この夫妻は最後を悟ると、お互いを刺し合って果てた。

 こうして堂洞城殲滅戦は終わる。

 だがこの経験は恒興に強烈な教訓を与えた。


(ニャーはもうあの堂洞城主夫妻に追いかけ回されるのはイヤなんだ。城の全員が死兵になって襲い掛かってきて、ニャーも殺されるところだったんだニャー)


 その教訓は死兵を相手にしてはならない、死兵を作ってはならないだ。

 これはこれまでの恒興の行動にも現れている。

 どんな策略を行おうと逃げ道だけは残しておくのだ。

 例えば伊勢の経済封鎖も事前に食料を伊勢から大量購入しておけば兵糧責めも組み込む事ができた。

 そうすれば食べる物さえ欠乏した伊勢はもっと早く落ちたかも知れない。

 恒興はこれを解っていたがやらなかった。

 それは大量の餓死者を生む上に、高い確率で死兵を生むと見たからだ。

 その結果残るのは人が減り過ぎ焦土と化した伊勢の国だろう。

 そんなものを得て信長が喜ぶはずがない。

 だから恒興は経済封鎖で米には手を出さなかった。

 米は通貨の代わりにも出来るし、米があれば何とか生きていけるからだ。


(でも、あの力が無傷で手に入ればニャーの中濃軍団はかなり強くなる。それは信長様の天下統一の大きな力になってくれる筈だ)


 そして恒興はあの強さが欲しいとも思った。

 あの強さが織田家のものになれば信長の覇業の力になると考えたからだ。

 だから恒興は岸家を無傷で欲しかった、彼等にとても気を使っているのはそのためだ。


(だから落ち着けよ、恒興。今のニャーならやれる筈だ。深く冷静に一つづつ策と言う名の積木を積み上げるニャ)


 岸勘解由暴走のトリガーは佐藤家と肥田家の寝返りと恒興は見ている。

 なのでこの2家は説得はしても寝返りはさせない。

 そして岸勘解由説得の鍵となっているのが、斎藤龍興の権威失墜と斎藤利治の立身になると思っている。

 第一に岸勘解由の忠義の相手は『斎藤義龍』であって龍興ではない。

 ただ常識的に龍興を後継者として仕えているだけで、持っていき様で龍興を利治にすり替える事は可能と思われる。

 というより斎藤家の当主としての正当性は龍興より利治の方がずっと上である。

 それどころか利治は義龍よりも上なのだ。

 何故かというと利治の母親は正室の『小見の方』で義龍の母親は側室の『深芳野』だからだ。

 なので本来、義龍は嫡男ではなく庶長子である。

 庶長子は庶子なので基本的に家を継げないが、正室に息子がいない場合は嫡男とすることが出来る。

 つまり次男の孫四郎龍重(母親は小見の方)が産まれた時点で義龍は嫡男から庶長子に変えなければならなかったのに、斎藤道三が武家の常識に疎かったため変えてなかった。

 そして義龍が嫡男として30歳も越えたのに道三が突然廃嫡すると言いだしたので、親子相克の戦いに発展したのである。

 だが利治は正当性はあっても実力が無かったので、今までその存在を無視されていた。

 それが勢いを増した織田信長の後見を受け、再注目されている訳だ。

 恒興の頭の中ではこの現在13歳の少年にどんな立派な功績を立てさせるかで思案に暮れていた。


(後は藤吉の方とどう繋げていくかだニャー。蜂須賀と前野は説得が終わったらしいし、一度会って計画の擦り合わせをしなければな)


「ねぇ、旦那様。ちょっとええ?」


 自室で一人考え込む恒興の前に、何時の間にか藤がやって来ていた。

 普段ならまず声を掛けてから入ってくるはずなのに、彼女らしからぬ無作法だなと恒興は思う。

 だが何故そうなったかは彼女の顔に書いてあった。

 一応、恒興は藤に問い質してみる。


「お藤、ニャんで怒ってるんだ?」


「あ、判るんや。旦那様やないから安心しぃ」


 そう、彼女は怒っていた。

 彼女は一重瞼なので目が細く少し吊り上がっている、所謂キツネ目だ。

 なのでそこまで大きく表情が変わる訳ではないが、代わりに怒ると眉間に皺が寄る。

 流石に半年以上一緒にいれば解ってくる。

 だが彼女が怒る事自体珍しく、またここまでハッキリと怒ってるのは恒興も初めて見るのだった。


(誰ニャ!お藤を怒らせたヤツは!まさか政盛か!?)


 恒興はもしかしたら加藤政盛の妻が藤に訴えて来たのかと思った。

 政盛の妻と藤は商家出身なので仲が良いのである。

 普段から怒らない人が怒ると怖い、恒興はこの対処は厳罰にせねばと心に決める。

 ・・・じゃないと、恒興の御飯が大変な事になりそうだから。


「お義母様がお呼びやから、来て欲しいんやわ」


 更に母・養徳院絡みであった。

 この時点で恒興に拒否権はない。


「・・・はい、只今参りますニャー」


 恒興は一体何の話がされるのか戦々恐々となった。


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 恒興が藤と共に呼ばれた部屋に入ると異様な光景が広がっていた。


「ぐすっ、酷いわ。私が何をしたというの」


「おねは悪くない、悪くないよ」


 まず目に入ったのは泣いている寧々と慰めている松。

 そして「そろそろ三枚におろしてやろうか」という表情の妹・栄がいる。


「あのやろう、そろそろ三枚におろしてやろうか」


(そのまんま口にしやがった!)


 まぁその『あのやろう』はどうやら恒興ではない様だ。

 もしそうなら既に襲い掛かって来ているはずだ。

 そして中央の上座に母・養徳院が笑顔で座っている。

 呼んだ本人なのだから居るだろうが問題はそこではない。


(ヤバイニャー。これ母上、スゲー怒ってるんですけどー。他人には判らないだろうけどニャーには判る、背中から赤黒いオーラが立ち上っているニャー)


 養徳院桂昌。

 彼女は滅多に怒らないし、怒った顔を見たことがある者はいない。

 だが恒興は知っている、この母親は怒らないのではなく怒った顔を見せないのだと。

 特に彼女は自分の家族同然の者を傷付けられると今目の前の状態になる。

 そして寧々や松は幼い頃に養徳院の手習いを受けており、養徳院は彼女達を実の娘の様に可愛がっていた。


「恒興、座りなさい」


「はぁ、ニャーに何かご用ですか?」


「恒興、夫婦とは貞淑であるべきと思いませんか?」


「はぁ」


 恒興を座らせた養徳院はいきなり道徳の話を始める。

 この時点では恒興はまだこの集まりが何なのか判っていなかった。


「側室を娶るのは武家の後継者を得るため仕方ないかも知れません。しかし相手には誠意を持って対応し、然るべき立場に迎える事が必要だと私は思うのです。貴方の父上も私一筋だったのですよ、分かるでしょう?」


「でも信秀様はめっちゃ好色でしたよね」


 という訳で素で返してみる恒興であった。


「・・・」


「・・・」


「あの方はいいのです!」


(誤魔化したニャ)


「こほん。しかしです、信秀様はちゃんと全員側室にしておりました。産まれたお子様も信長様に養育され、今では立派に尾張各所でお務めに励んでいらっしゃるではありませんか」


「はぁ、その通りですニャー」


「然るに遊びはいけません。恒興、よもや貴方までその様な事はしていないでしょうね?」


「あのー、ニャー、そんな暇じゃないんですが」


 恒興は否定しながら思う、"貴方まで"ということは誰かが色に耽る様な事をしているのかと。

 そしてその者がこの女性陣を怒らせている元凶なのかと予測した。


「それなら良いのです。最近そういう不埒な者と付き合いがある様なので母は心配していたのです」


『そういう不埒者』『泣いている寧々』で恒興にも解ってしまった。

 栄が言っている『あのやろう』と藤が怒っている対象も一緒なのだと。


「まさかその不埒者は『木下秀吉』ニャんですか?」


 秀吉の名前が出ると養徳院は頷き、寧々は更に泣き出し他の女性陣の怒りが増幅した。


「私、ぐすっ、毎日頑張ってるのに、うう」(チラッ)


(さっきからおね殿がチラチラ見てくるんですけどー。既にウソ泣きだろ、それ。頼むからこれ以上母上に燃料投下しないでくれー。止めてよね、母上が本気出したらニャーが敵うわけないでしょ!)


 松の胸にしがみつきながら寧々は泣いているのだが、周りの様子を窺う様に時々横目でチラチラ見ていた。

 他の女性陣からは見えないだろうが、ほぼ正面くらいに座っている恒興には見えていた。

 つまり寧々は周りを焚き付けるためにわざと泣いているのだ。

 意外に策士だなと恒興は思うが、周りの女性陣への効果は抜群だった。


「・・・恒興、手段は問いません。あの者の不埒な行為を止めさせなさい」


 先程から養徳院は『不埒者』とか『あの者』とか呼称している。

 これは名前すら口にしたくない程怒っている証拠だ。

 しかし確実に面倒事でしかない上に秀吉の私生活まで踏み込みたくない恒興は何とか逃れる方法はないものかと思案する。


「あのー、そういうのはニャーが言うより信長様に言って貰った方が良いのでは?秀吉の主君な訳ですし」


 という訳で自分の主君でもある信長に振ってみる。

 信長の仕事というのは主に裁判や調停である。

 家臣や豪族の諍いを収める事なので、これも家臣の諍いに入らないかなと恒興は思うのだ。

 しかし常識で考えれば、信長がこんな犬も食わない夫婦喧嘩などに口を挟む訳がない。

 また申請をするだけでも時間が掛かるので、良い時間稼ぎになると恒興は考えた。

 何しろ恒興は現在とても忙しいのだから、何とか逃れたかったのだ。


「もう行きましたよ。叱責状も書いて貰ったのですが、効果は無かった様ですね」


 既に行ったと言う養徳院を見て、恒興は重要な事を失念していたと思い出す。

 そう、彼女は信長の乳母で殆ど『育ての母』に等しい。

 彼女が信長を訪ねれば、少しも待たせず信長は会うだろう。

 申請だの調停だのは全く必要ない、即座に秀吉が悪いで終わる。

 そして書いて貰った書状の内容はこんな感じである。


「お前ごときハゲ鼠が寧々の様な器量良しを嫁に貰って浮気とは何事だ、身の程を知れ!P.S.寧々も余り嫉妬せずおおらかな心で許してあげる様に」


 とのこと。

 ただ一方的に秀吉を責めるのではなく、寧々にも許してやれとやんわり言っている。

 叱責状というより仲裁状かも知れない。

 ただその時に出た『叱責状』で秀吉の行動は一旦収まるものの最近また酷くなっているのだという。

 それでこの面々がブチ切れたという訳だ。


「いやー、ニャーも憤りを感じておりますが、何分忙しく前向きに善処は致したく候に御座いまして・・・」


 他人の色恋沙汰など勘弁して欲しいと思うのだが、こうなると適当に断る理由が見当たらなくなる。

 恒興がしどろもどろに言い訳?をしていると栄と藤からも横槍が入る。


「兄、まさかあのやろうの肩を持つ気か?」


「旦那様、酷いやんか。うち、信じとったのに」


(しまった!まさかのヤバイ方向に飛び火してやがるニャー!)


 恒興も理解した、このままでは自分も秀吉の同類だと認識されてしまう。

 何もしていないのに浮気者扱いされそうになっている。

 このまま手をこまねいていれば、恒興の今後の生活(主に御飯)が酷くなる可能性が出てきた。

 そう認識した恒興はもう覚悟を決める事しかなかった。


「あの野郎!ぜってー許せねーギャ!おね殿を泣かし、皆を怒らせ、そして信長様の叱責を無視する藤吉に必ずや鉄槌を下しますニャー!!」


 内心凄く面倒くさいと思いながらも断言する恒興。

 こうしなければもう女性陣の追及は逃れられないと判断した。

 恒興の決意を聞いた女性陣は皆一様に喜びの声を上げる。


「珍しく頼もしいな、兄」


「流石やで、旦那様。頑張ってや」


 栄が恒興の事を頼もしい等と言うのは初めて聞くくらいの言葉だ。

 それだけに失敗などしようものなら、後が怖いなと恒興は思う。

 恒興の言葉を聞いた藤も笑みを浮かべ恒興を励ましてくれる。


「ウチの人もこのくらい頼もしかったらいいのに。こうなったら池田様が頼りです」


「宜しくお願いしますね、池田様」


 松の言う『ウチの人』は確実に利家の事だろう。

 どうやら役に立たなかったようだ。

 そしてさっきまで泣いていた筈の寧々は笑顔で喜んでいた。


「恒興、任せましたよ」


「はい、お任せくださいニャー・・・」


 心底面倒くさいなと思う恒興であったが、どちらにせよ秀吉とは会って今後を話し合わなければならなかった。

 そう考えると恒興が忙しい中、秀吉は遊んでいた事になる。

 少しお灸を据えてやるかと思い、恒興は秀吉が拠点にしている川並衆蜂須賀党の砦に向かった。


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 川並衆の拠点というのは塀のある荷物の集積場である。

 そもそも川並衆の仕事は渡し舟であり、川に橋が無いので川を渡るなら川並衆に依頼するしかない。

 特に東山道(後の中山道)を通るためには必ず川並衆に頼る事になる。

 なので川並衆の砦は荷物の集積場と舟が付けられる簡単な桟橋しかない。

 申し訳程度の塀も戦の為に作られたのではなく、おそらく荷物の盗難防止のためであろう。

 そして塀によって入口を制限し、その入口に強面のならず者を数人たむろさせている訳だ。

 川並衆の防犯態勢はこんな感じだ。

 恒興は飯尾敏宗を伴に連れ、その入口にいる川並衆の者に声を掛ける。


「ちょっといいかニャ?」


 声を掛けられたならず者風な門番は肩を怒(いか)らせながら、恒興の前までやってくる。


「ああん?誰だ、テメエ!」


「ここが何処だかわかってんのか、おう!?」


 恒興はなんでこういう連中はまず脅してみるところから始めるのかと尋ねたくなる。

 本物の客だったらどうするつもりなんだろうか。

 この物言いに敏宗が思わず刀に手を掛けたので、恒興は敏宗の刀を手で抑え『抜くな』と眼で指示する。

 おそらく彼等の振る舞いを無礼と感じたのだろう、流石に斬るつもりまではないだろうが。

 そんな事を考えながら、とりあえず用件を伝える事にする。


「池田勝三郎恒興という者だニャー。木下藤吉郎に会いにきた。いるか?」


「あ、藤吉さんのお客でしたか。こりゃ失礼を」


「ちょっとお待ちくだせえ」


 秀吉の名前が出た途端にならず者の態度が180度変わる。

 現金なものだが余計な時間は使いたくないので何も言わないでおく。

 暫くするとさっきのならず者の片割れが10代前半の少年を連れてくる。

 明らかに秀吉ではないのだが、恒興はその少年に見覚えがあった。


「池田様、お久しぶりです」


「おお、お前、弥兵衛か。久しいニャー」


 その少年は以前秀吉の婚儀でチラッとだけ顔を合わせた浅野家の婿養子・安井弥兵衛であった。


「はい、元服しましたので今は『浅野弥兵衛長吉』と名乗っております」


「弥兵衛さんのお知り合いで?」


「この方は犬山城主の池田恒興様ですよ」


「この方があの池田様!?犬山城を一睨みで落城させたという!?」


(それは人間技なのかニャー?)


「伊勢の大名豪族全てを一睨みで土下座させたという、あの!?」


(そこまでやってねーギャ)


「「お見それしました」」


(なんの漫才だニャー)


 ならず者風川並衆の門番が中腰がに股になってから、両手を膝に置いて頭だけ下げる礼をとる。

 これで片手を差し出して「お控えなすって」とでもいえば、完璧に任侠者だ。


「弥兵衛、藤吉はいないのかニャ?」


「あ、はい、その、あの、えーと、しょ、所用で少し出ておりまして」


 たかが所用を口にするだけで焦る長吉。

 それを見た恒興は何か隠しているなと感じとる。


「おーい、弥兵衛。お客は誰なんじゃあ」


 恒興が少し問い質そうと思った時、砦の奥から3人ほど歩いてきた。

 一人は農民の様な感じの若者、あとの2人は野武士の様な感じだ。


「あ、小一郎さん。小六さんと将右衛門さんも」


 その通称には恒興も聞き覚えがあった。

 小一郎は木下小一郎で秀吉の弟だ。

 小六は蜂須賀小六正勝、川並衆蜂須賀党の頭目。

 将右衛門は前野将右衛門長泰、川並衆前野党の頭目である。


「ほう、それじゃお前達が蜂須賀殿、前野殿、藤吉の弟という訳だニャー」


「弥兵衛、こちらは?」


「犬山城主の池田恒興様です。義兄上に会いにこられて」


「これはようこそ。私の名は前野将右衛門長泰。我が名をご存じとは光栄です。こちらの大男が蜂須賀正勝、あちらの若者が小一郎です」


「大男は余計じゃわい」


「よろしくお願いします」


「池田勝三郎恒興だニャー。それで藤吉のヤツは何時戻るんだ?」


「そうですね、何時と言われても・・・」


「あー・・・」


 4人とも明後日の方向を見たり目が泳いだりと、何とも歯切れの悪い解答しか返ってこない。


「所用というのは他の川並衆の説得ではないのニャ?」


「ん?いや、それは既に終わっとるが?」


 恒興の問いに蜂須賀が即答で答える、聞き捨てならない答えを。


「終わった!?何時だニャー!?」


「3日前です、義兄上は池田様に報告したと言ってましたけど」


「ああ、兄者は作戦まだ先だから暫く待機って」


「そんな事一言も聞いてねーし言ってねーギャ!」


 恒興が3日前に聞いた報告は蜂須賀と前野の説得は終わったので、他の川並衆の説得に入るというものだった。

 蜂須賀の話では秀吉が使者としてきた時点で、秀吉を川並衆の取り纏めにするという条件で全ての川並衆が織田家の傘下入りをした。

 これに関しては大した反対は無く、何処の党も織田家への傘下入りをスムーズに受け入れるのに都合が良いと賛成した。

 秀吉が川並衆の取り纏めになる事自体は想定内なのでいいのだが、そうなると説得が終われば墨俣築城に向けて動いて貰わねばならない。

 なので秀吉は恒興に虚偽の報告をしていたことになる。


「おい、弥兵衛、小一郎。あのアホは今何処で何してるニャー?」


「あああ、そ、それは・・・」


「そのー・・・」


 恒興がキツく長吉と小一郎を睨む。

 二人は秀吉を庇っているのか言いにくいのか、言葉を濁していた。


「正直に言った方がいいですよ」


「だな、俺もいい加減にしろって思うし」


 そこに年配の二人からアドバイスがくる、どうやら蜂須賀と前野は辟易している様だ。

 二人共溜め息混じりにアドバイスを出していた。


「ほれ、蜂須賀と前野もこう言ってるニャー。正直に話してみろ」


 長吉と小一郎は顔を見合わせた後、意を決した様に喋りだした。


「実は兄者は逢い引きの最中でして・・・」


「何時戻ると言いますか、今日は戻らないと思います」


 秀吉の所用というのは現在進行形の浮気の事であった。

 母親である養徳院に言われた時は、秀吉の私生活までは踏み込みたくないと考えていた恒興も流石に怒りが沸いてきた。


(野郎、やってくれるじゃニャいか。まさか逢い引きの時間を作る為の虚偽報告とは)


 秀吉が虚偽の報告をしてきたのは、彼の要領の良さ故だ。

 簡単に言うと計画より早すぎたのだ。

 とは言っても早く終われば出来る事は山ほどある、計画の前倒しも可能だろう。

 そこで秀吉は少し時間稼ぎをして暇を作り遊んでいるのである。

 これは油断無く計画を進めたい恒興の逆鱗に触れる行為だ。

 浮気により池田家女性陣を激怒させ、信長の叱責も無視し、あまつさえ織田家の一大事業である墨俣築城への手抜き。

 秀吉の浮気問題にあまり関わりたくなかった恒興も、秀吉を懲らしめようという気になった。


(しかし信長様の叱責でも懲りないヤツのこと、どうしたら懲りるのか。まずは情報か)


「わかった。藤吉のヤツはニャーが懲らしめるから浮気相手の情報をくれないか?」


「どの人でしょうか?」


「どの?何人もいるのかニャ?」


「ええ、20人くらい居るかと・・・」


 目を逸らしながら黄昏る様に話す長吉の言葉に、恒興も流石に絶句する。

 恒興は当初、浮気相手は1人だろうと予測していたのだ。

 結局のところは寧々以外にも好きな女性が出来た程度に考えていた。

 なので相手を側室にするなり、ちゃんとした対応をしろと言ってやるつもりだった。

 だが恒興は自分の考えがとても甘かったことを思い知らされた。


(2、20人くらいだと・・・?完全に遊びじゃニャいか、そりゃおね殿も泣くわ)


 養徳院があれほど怒るのも無理はない、そんな人数を今の秀吉が側室に出来る訳もないのだ。

 もし相手が妊娠でもしたらどう責任を取るつもりなのだろう。

 恒興はこの危険な遊びを早急に止めさせることにした。

 そしてある人の助力を得るべく、蜂須賀から筆と墨と紙を貰って書状をしたためる。

 それを敏宗に持たせ届けて貰うことにした。


「浮気相手の中で近日中に会う女性はいないか?待ち伏せしようと思うニャ」


「それなら兄者が明日会う約束をしている人を知ってます。逢い引き場所も相手の家も」


「よし、それでいこう。敏宗、この書状を届けてくれ。あと、政盛に明日空けておく様に伝えてくれ」


「はっ、了解いたしました。早速行って参ります」


 恒興は事態の深刻さに気付き、本気で動く事に決めた。

 秀吉は恒興の周りの人々を怒らせ過ぎた、あまつさえ恒興が一刻も早く終わらせたい美濃攻略へのサボタージュも見過ごせない。

 恒興は容赦ない処置をするべきだと確信した。


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 次の日、蜂須賀党の拠点から抜け出した秀吉はある小屋に向かっていた。

 ルンルン気分にスキップしながら向かっているその先は女性との逢い引き場所であった。


「おみっちゃ~ん、藤吉郎が只今参りますぞ~」


 鼻の下がだらしなく伸びきったその顔は通りすがりの人さえ引かせるものがある程だった。

 そして逢い引き小屋に着いた秀吉は、コホンと咳払いし息を整え小屋の戸を開いた。


「おみっちゃん、待たせたね。木下藤吉郎秀吉、推参いたした」(キリッ)


「いらっしゃいだニャー。待っとったぞ」


 秀吉が入った小屋の中には腕を組んで嗤っている恒興が仁王立ちしていた。


「ほぎゃーー!?おみっちゃんにニャー男の呪いがーー!?」


「うるせーギャ!あとニャーは呪いか何かか?」


「あでででで!」


 騒ぐ秀吉にすかさずアイアンクローをお見舞いする。

 痛みで冷静さを取り戻した秀吉は周りを見渡して小屋の中を確認する。


「あれ?おみっちゃんは?」


「ニャーが言って帰ってもらったに決まってんだろ」


「ええ~、そんな~」


 目当ての人物が居ないことに心底ガッカリする秀吉。

 それを見た恒興は溜め息を吐く、この男何も分かってないと。


「藤吉、テメエ、川並衆の説得はとうに終わっとるらしいな」


「・・・・・・」


「サボりの時間作るための虚偽報告か」


「いえいえ、早く終わらせた自分へのご褒美といいますか」


「それは正直に報告して、ニャーに申請すればいいんじゃないのかニャー?」


「あはは・・・」


 確かに正確に報告すれば計画は次の段階に移って忙しくなるだろう。

 だが休みが取れないわけではない、秀吉にだって手足となって働いてくれる家臣が出来たのだから。

 彼らに指示だけ出して遊んでいてもいいわけだ。

 何しろ計画自体は格段に速く進行しているし、計画さえ順調なら恒興は秀吉の行動にとやかく言うつもりはない。


「そして信長様からも叱責されたのに無視するとか、ニャーに宣戦布告でもしているのか?」


「その様な事は御座いません。信長様の叱責はしっかり胸に刻んで・・・」


「刻んで?」


「刻みました」


「刻んだだけかニャー!」


 そして恒興が敬愛する信長への背信行為も見過ごせない。

 普通の家臣なら自主謹慎したり反省文を書いて提出するものなのだが、この男は読んだだけであった。

 これについては秀吉が武士の常識に疎いだけだが、恒興が信長にこの件を報告すると『容赦なくヤれ』と命令が返ってきた。


「更には多人数との浮気、お前はおね殿の何が気に入らんのニャ」


「とんでもない、私はおねの事を愛しております。その事に偽りなど欠片もごさらん」


「ほーそーなのかー。じゃ何で浮気なんかする?」


「それはほら、別腹といいますか」


(うん、コイツは母上が独裁者なら確実に粛清対象だな)


「私はアレですよ、人助けをしているのです。彼女達は生活が苦しいから私が援助せねばと。でもお金だけ受け取るのは心苦しいので是非にと言われ仕方無く」


「ほーそーなのかー。その割には浮気相手が元武士の娘ばかりなのは何故ニャ?」


 秀吉は浮気相手にお金を渡しているという、現代でいうなら援助交際である。

 その対象は元武士の娘ばかりで、戦に敗け領地を失い没落した家を狙いにしていた。

 没落した武家は生活が一気に貧しくなるため、娘達も生活費欲しさがあるのだろう。

 秀吉はそういう娘にお金を渡して近づいていた。

 そもそもまともな武家の娘は浮気や遊びはおろか婚前交渉などもしないし、元農民の秀吉が相手にされることはないだろう。

 この時代の女性は身分が高くなる程にガードが堅くなる。

 特に武家や豪族の妻が不倫でもしようものなら、浮気相手ごと即座に斬殺される事がある。

 それ故武家の女性は慎ましやかに貞節を守るを良しと教えられ、夫となる者にもそれを求めるのである。


「・・・いやー、偶然っすよ、偶然っす」


「長安みたいな喋り方で誤魔化すニャ」


 秀吉にあるのはおそらく自分を見下していた高い地位の人間を思い通りにしたいという欲求があると思われる。

 なのでお金だけで誘える元武士の娘が対象になったのだろう。


「可愛い娘がいたら誘いたいものでしょう!!勝三殿だって可愛い嫁さんがいるんだから分かるでしょう!!」


「お前と一緒にすんニャ。ニャーはお藤とそういう事はしとらん」


「何故に!!?」


「何故って祝言前にそういう事してたら問題だろうが」


 恒興が藤とそういう行為に及んでいないのは事実で、婚前交渉はいけない事という常識があるからというのが理由の一つ目。

 そしてそれを守らせようとする母親が同居しているのが理由の二つ目だ。


「バカな!?男に堪えられる訳が無い!!」


「だからお前と一緒にすんニャ。蹴っ飛ばすぞ」


「あ、わかった。勝三殿、実はお藤殿が気に入ってないとか?」


「蹴っ飛ばす!!許可は求めんニャ!!」


「痛いっ!」


 恒興は問答無用で蹴りを炸裂させる。

 流石に今のは自分も藤のこともバカにされた気がしたからだ。


「ニャーとお藤は愛とか言う曖昧なものでは繋がっとらんニャ。ただお藤はニャーに嫁ぐ事が必要で、ニャーはお藤が必要なんだ」


 藤の嫁入りは父親である天王寺屋助五郎が、東方での交易と利益拡大を狙って恒興に嫁がせた。

 これだけ聞けばただの政略結婚にしか聞こえない。

 だが助五郎は恒興という人間を吟味した上で娘を嫁がせたのである。

 もし恒興が商人を見下すような人間と見たのであれば、藤を嫁がせないどころか商売を打ち切るぐらいはやる。

 つまり助五郎は恒興が藤を絶対蔑ろにはしないと見たから嫁がせることにしたのである。

 そして恒興にとっても天王寺屋との縁は多大な利益を生んでいた。

 津島会合衆があれほど注目され多種多様な商人が集まるようになったのも、あの堺の天王寺屋が参加しているという宣伝効果が大きい。

 結果、津島会合衆は津島・熱田だけではなく伊勢湾沿岸の巨大商人集団と化した。

 その力は現在進行形で伊勢国で振るわれている。

 そして織田家には莫大な上納金をもたらし、鉄砲も南蛮物も高級茶器に至るまで信長は手に入れる事が出来る様になった。

 最早恒興はこの縁を切れないし切る気も全くなかった。


「つまりニャーとお藤はお互いを必要とする関係なんだ。というかお前とおね殿だってそうだろ。お前が侍でいられるのは誰のおかげだ?木下の姓は何処から貰った?」


 実際秀吉の侍としての身分を保証しているのは寧々である。

 つまり寧々の実家である『木下家』を寧々と結婚することで継承している体裁なのだ。

 もし寧々と離婚などしようものなら侍の身分と木下姓が無くなるのである。


「分かるだろ、お前らもお互いを必要としてるんだニャー」


「勝三殿!!」


「な、何ニャ、いきなり大声で」


「俺、目が覚めました!感動しました!」


「はぁ」


 どうやら本来の秀吉の一人称は『俺』らしい。

 恒興は身分的にかなり上だと秀吉が認識していたので、敬語を使っていた様だ。

 だがこれまでのやり取りで小馴れてきたのか、少し素が出てきていた。


「俺達は必要とし合うものだったんだ!おねと・・・おみちとおよねとおりょうと・・・」


「ニャんでおね殿の名前の後に他の名前が並ぶ?」


「いやー、だって、必要な訳ですし」


(ダメだコイツ、早く何とかしないと。・・・仕方無いニャいから当初の予定通りに行くか。早く片付けないと墨俣築城が進まん)


 恒興は秀吉の説得を諦めた。

 それは説得という手段を諦めただけであり、別の手段を取るという意味でしかない。

 このまま秀吉が遊び呆けていては墨俣城が造れないのだから。


「わかったわかった、ニャーからも一人紹介してやろう。それで少しは大人しくなれ」


「いきなりどういう風の吹き回しです、勝三殿」


「さっさと墨俣に専念して欲しいからだ。お前、実は身分の高い女性が好みなんだろ。手を出している女性の大半が『元・武家』の娘だからニャー」


「・・・わかっちゃいます?やっぱり」


「あからさまだニャー。だからニャーが元じゃない現役の武家の女性を紹介してやる」


 いきなり意外なことを言い出した恒興に秀吉は不信感を抱く。

 だが同時に自分が今まで手を出してきた女性たちより更に高い身分の女性にも興味が湧いた。


「え?・・・因みに身分的にはどのくらいです?」


「ニャーが頭を下げるレベル」


「マジですか!?」


(勝三殿が頭を下げるって、それ織田家の姫君なんじゃ。・・・お市様とか出てきたら、どーしよー!!ヤバイ!興奮してきた!!)


 この時点で秀吉は冷静な判断力を失ったと言えるだろう。

 というか恒興が未婚で虫も付いてない市姫を連れてくる可能性などあるわけないのだ。


「じゃ、行くぞ。付いてこい、ここからそんなに遠くないニャー」


「あ、でもこの格好じゃ、風呂入って着替えた方が・・・」


「それでいいニャー。先方はお前を待ってるんだから」


(お、お市様が俺を待っているだとぅーー!!)


「今すぐ参りましょう。ああ、待っていて下され。貴女の藤吉郎が今行きますぞ!」


(・・・今の内に舞い上がっているがいいニャー)


 そして恒興は獲物を狩場へと連れて行く(追い込む)のであった。


 ----------------------------------------------------------


「さあ、着いたニャ。藤吉」


 程なくして恒興と秀吉は目当ての城に到着する。

 おそらくこの城に住んでいる女性を紹介するということなのだろう、確かに恒興が頭を下げるレベルなのは間違いないようだ。

 だが問題はそこではない。


「スミマセン、勝三殿。俺にはこの建物は『那古野城』に見えるんですが」


「これが『那古野城』以外に見えるなら眼医者を探すといいニャー」


 秀吉の問いに即答で返す恒興、この時点で秀吉は相手が誰だか判ってしまった。

 この城にいる現役の武家の女性で恒興よりも立場が上となれば、もうアレしかいない。


「・・・」


「・・・」


「・・・眼医者、探してきます」


 秀吉は踵を返しここから立ち去ろうとする。


「逃がさんニャ!政盛!敏宗!」


「木下殿、すみません!」


「殿の命令ですのでご容赦を!」


 だがそんな秀吉の行動に備えていない恒興ではない。

 即座に加藤政盛と飯尾敏宗を呼び、秀吉の両脇を抑えさせる。


「待て、頼む、離してくれー!ここにいる勝三殿が頭を下げる女性なんて一人しかいないじゃないですかー!」


「・・・その女性はお前の仕打ちにいたくご立腹でニャー。お前の結婚をこぎ着けるのにかなりの苦労をされたので、ニャーは必ず連れて来いって厳命されてるんだわ」


 恒興が川並衆の砦で書いた書状はその女性の元に届けられた。

 そしてその内容に激怒し即座に返書を送り返してきた、その男を連れて来いと。


「いやいや、勝三殿は軍団長で犬山城主、林佐渡殿の命令に服さなくてもいいはずでしょう!」


「藤吉、忘れてるのか?ニャーは軍団長で犬山城主で『』だぞ。奉行衆の取り纏めが佐渡殿である事くらい知ってるよな、元・台所奉行?」


 そう、恒興は津島奉行である。

 これは犬山城主になっても軍団長になっても兼任であった。

 それだけ他の人間に任せられない事情があるのだ。

 なので恒興は一応の形式上は林佐渡の部下なのである。

 そして秀吉は川並衆説得役ということで台所奉行は別の人間にかわっていた。

 台所奉行は別に誰でも出来るので秀吉が兼任する必要はない。


「たとえ業務の殆どを奉行補佐の長安がやってて、茶会くらいしか行ってないとしてもだ。ニャーは津島奉行で林佐渡殿の部下だニャー」


「あ、あの、いくらで見逃して貰えますか」


「お前から金銭を貰おうとは思わん。ニャーの方がずっと金持ちだし。でも貰えるならニャーは平穏が欲しい」


「平穏、ですか?」


「ああ、お前が浮気するとおね殿が母上に泣きつく。その度に母上からニャーに命令が来るんだよ。わ・か・る・よ・な!」


「あ、いえ、ええと・・・」


「じゃ、そろそろ逝こうかニャー?」


 この時の恒興はとても清々しい笑顔の処刑人そのものであった。


 -----------------------------------------------------------


 政盛と敏宗に両脇を抱えられ那古野城の一室に連れてこられた秀吉は、恒興の先導で一つしか出入口の無い道場の様な部屋に入る。

 その部屋はやはり道場くらいの広さはあるものの窓は無く、日の光が全く入らない部屋だった。

 明かりといえば蝋燭の数本に火が灯っている程度で、明かりとしては足りていなかった。

 そしてその暗闇の中から一人の女性が秀吉の前に姿を現す。


「よう、秀吉。久しぶりだねぇ、元気か?まぁ、元気過ぎておいたしてたみたいだがなぁ」


「あ、あの、佐渡守様。その格好は一体・・・」


 秀吉が恐る恐る林佐渡の格好について聞いてみる。

 今の林佐渡は誰もがツッコミを入れたくなる様な奇抜な格好をしていた。


「ああ、コレか?堺の商人から買った南蛮品さ。『ぼんてーじ服』とかいう物らしいね」


 それは革製品の服で体にピッタリと合う感じでかなり体の凹凸を強調していた。

 更に服の部分は胸部から下腹部の辺りまでで、太ももから足や肩腕は完全に露出している。

 一見してかなり色気のある姿であるが、秀吉は完全に腰が引けていた。

 先程から林佐渡の手の中でピシッピシッと小気味良い音をたてるムチがあるからだ。

 そして林佐渡はムチを遊ばせ嗤いながら秀吉に語りかけてくる。


「アタシはさぁ、お前の結婚のために色んな武家に頭を下げて廻ったんだぜ。おねに目星を着けてからも浅野家に頭下げてさ、祝言までこぎ着けた時には嬉しかったし幸せになれよと願ったんだけどねぇ。・・・やってくれるじゃないか!!」


「ひ、ひえぇー、お助けー!」


 秀吉は終始嗤っていた林佐渡の顔が突然怒りの形相に変わったのを見て、一つしかない出入口へ走り出す。

 だがそんな秀吉の思考を読んでいた恒興は、何時の間にか家臣と共に扉の外に居て、秀吉が来る前に扉を閉めた。


「さらばだ、藤吉。ブエナ・スエルテだニャー」


 昔南蛮人から教えてもらった言葉を恒興は秀吉に贈った、意味は”幸運を”である。

 そして恒興は扉に棒を立て掛け、簡易的な閂とした。


「頼む!勝三殿!開けてくれー!」


 扉をガタガタと揺らし扉を開けようとする秀吉だが、閂の掛けられた扉は全く開かなかった。


「ふぅ、この扉は那古野城の侍に任せてニャー達は帰るぞ」


「はっ、しかし大丈夫でしょうか?」


「大丈夫だニャー、中にもう一人居るから」


「はぁ、そうなんですか」


 何が大丈夫なのかは政盛には全く理解出来なかったが、とりあえず自分の主を信じる事にした。

 こうして自分に出来る事をやり遂げた恒興は政盛と敏宗を連れて帰っていった。


「秀吉、見ての通りなんだが此処の出入口は一つだよ。さぁ、年貢の納め時さ」


「お、お待ちくだされ!俺はおねを愛しております!本当です!」


「はぁ?20人以上と浮気しといて、今更何言ってんだ?・・・まあ、いいや。それで赦されるかどうか、本人に聞いてみな」


「え?」


 その林佐渡の言葉に反応する様に、奥の暗闇の中で何かが動いた。

 それはどうやら人の様で、蝋燭の灯りに照らされるとハッキリ誰だか判った。


「おね!お前までなんちゅう格好しとるんだ!?」


 それは林佐渡と色違いでお揃いの『ぼんてーじ服』を身に纏った寧々だった。

 当然なのかどうかは解らないが、手には短めのムチがあった。


「お前様、覚悟してくださいまし」


「ヒイィィィ!?俺が悪かった!許してくれー!」


「心配すんなって、秀吉。二人ともアタシがじっくり仕込んでやるからよ!」


 林佐渡と寧々は愉悦に歪んだ嗤い顔でにじり寄る。

 一方の秀吉は既に怯えるだけの獲物に過ぎなかった。

 そしてこの夜、那古野城にある男の絶叫が響き渡ったという。


 ---------------------------------------------------------------


「殿、何故那古野城にはあんな部屋が有るんですか?」


「聞くな」


 犬山城への帰り道、飯尾敏宗がふとした疑問を口にする。

 一体あの部屋は何のためにあるんだろうと。

 恒興は知っているが答えは言わなかった。


「しかしあの様子では林佐渡様の春は遠いですね」


 そう言いながら加藤政盛が嘆息する。

 たしかにあの趣向に付いていける男は少ないだろう。

 そんなことを政盛も敏宗も考えてしまったのだ。

 だが彼等の主人からは驚愕の一言が飛び出す。


「何を言ってるんだニャー。佐渡殿はちゃんと結婚しとるぞ。旦那はもう亡くなって未亡人だが、息子が一人おる」


「「えええぇぇぇーーー!?」」


 林佐渡が結婚していて息子までいる事を知り、二人は驚愕した。

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